序-42 『Twilight Cat』

 新美景駅北口のロータリー。



 夕方過ぎの今の時分は仕事帰りにこの街へ繰り出して来た人間たちと、その者たちを相手にこれから仕事をするために出勤してきている人間たちとで、この辺りは特に混雑している。


 歩道内だけではなく、それほど広くはない車道もロータリーへ出入りするタクシーや、路上駐車されている一般車などで混み合っている。


 その一般車には窓にスモークがかかった車が多い。



 時折り鳴らされる耳障りなクラクションの音を意識の縁に置いて、希咲 七海きさき ななみは歩道の端のガードレールへ寄った。



 現在彼女の居る場所は駅の北口のロータリーの二又になっている出口だ。



 片方の道はこの一帯のメインとなる飲み屋や風俗店のある歓楽街で、もう片方の道はホテル街へ繋がっている。



 希咲は軽く周囲を見回して待ち合わせ相手が居ないことを確認すると、ガードレールにお尻をのせ肩に提げた小さめのリュックサックからスマホを取り出す。



 現在時刻と未読メッセージを確認するが、待ち合わせの相手からの連絡は入っていない。


 少々相手を待たなければならないようだが、元々大幅に予定を遅らせて時間の変更を願い出たのは自分だ。文句を言えようはずもない。



 親友の水無瀬 愛苗みなせ まなから送られてきていた特に内容のないお花のスタンプが押されているだけのメッセージにクスリと笑い、お返しに彼女へ数個のネコさんスタンプをお見舞いする。


 目を細めてスマホの画面を消灯させ、リュックサックの中へ戻す。



 すると普段はリュックの中には入れていない物に手が当たり、馴染みの薄い感触がする。


 中を覗き込んだ目に映ったそれはハンドタオルに包まれたパックジュースだ。



 苦笑いを浮かべそれを取り出す。



(持ってきちゃってたか)



 先ほど駅のトイレで着替え、スクールバッグの中から必要な物を急いでリュックサックに詰めた際に一緒に移してしまっていたようだ。


(ま、ちょうどいっか)


 待ち合わせ相手を待つ時間の慰みにと、パックの背中に貼り付けられた袋からストローを取り出し飲み口に挿しこむ。


「いただきます」と心中で感謝し、上下の唇でストローを軽く挟んでから中身を吸う。


 舌先から触れてじわっと咥内に拡がっていく。


 美味しいという快感。



 弥堂 優輝びとう ゆうきからの頂き物であるレモンティーのパックジュース。美景台学園の校内に設置された自販機で売られている二種類のレモンティーの内のお高い方。お値段200円。


 普段自分で買う時は安い方の商品を買うことが多く、必ずしも値段に比例するわけではないだろうが、美味しいと感じるのはこっちの高い物の方だった。



 たまに何か気分を変えたい時、何かいいことがあった時、イヤなことがあった時。


 何かしらの理由付けに成功した時には自分でも購入するお気に入りの飲み物。


 好みの味。


 美味しいという快楽と、好むという欲望。



 しかし、その好んでいる美味しいものを味わっているというのに、その心の内は裏腹に曇る。



(気を付けなきゃ……)



 今日の放課後の出来事を思い浮かべる。



 嫌なこと、落ち込むこと、怒りを感じたこと、泣いたこと。



 短い時間の中で色々なことが起こったが、それらのどれよりも、その後に起こった『楽しいこと』に心苛まれる。



 正直なところ、希咲としては気付きたくないし、認めたくないし、なかったことにしてしまいたい。そうするべきだ。


 だが、このままにしておけばよりドツボに嵌ってしまいそうで、そうなるよりはマシと渋々事実として認めることにした。



(……すんごい速さで距離、縮まっちゃったなぁ…………)



 なんなら放課後に彼と出会うまでは、どちらかというと関わりたくないと避けていたし、でも親友の水無瀬が気にかけているから色々と見定めなきゃいけないと苦悩していて、暫定的な結論としてはやはり出来れば関わらせたくないとさえ思っていた相手だ。



 それなのに――



(どうしてこうなった……)



 自分でもわけがわからない。



 よくよく思い出すまでもなく、今日彼と時間を共にしてからヤツが自分の前でしたことはロクでもないことばかりだ。



 酷いことをしたり言ったりしているのを止めて。


 希咲自身も酷いことをされたり言われたりして。



 どう考えても彼という人物への感情のベクトルが好意的なものになるはずがないのだ。



 もちろん今のこの時でも、彼のしたこと、彼の普段しているであろうこと、そして明日からも彼がするであろうことを肯定するつもりはない。


 ましてやそれを支援するなどもありえない。


 もしも彼がまた自分の目の前で今日のようなバカなことをしでかしていたら積極的に止めに入るだろう。



 だが、言い換えれば、今日の放課後までに思っていた『関わりたくない』『避ける』ということは、きっともう二度と出来ないのだろう。



 自分はもう彼を見過ごせない。



 何か思いも寄らない上手い結論に思考が向かわないものかと、そのきっかけとなる刺激を欲して再びストローに口をつける。



 彼から与えられたそれを吸い込み体内に取り込む。



 余計に陰鬱な気分になった。



 無理矢理に上を向く。



 下品なネオンに汚された暗い空には何もない。



(……ホント…………どうしてこうなったんだか……)



 他人事のように独り言ちても問題は離れてはくれない。



 非常識で酷いことばかりするような者と仲良くしたいと思うような趣味はない。



 だが、自分の想定を超えてあまりにも非常識で突拍子もないことばかり言う彼のことを、ちょっとヘンで面白いと、不謹慎にもそう思ってしまったのだ。



 そして、そう思ってしまったのは、彼が何かバカなことをやらかしたその時ではなく、後になってのことだ。



 ということは、その間の時間で、そう思考や感情が変化するに至った原因があるはずだ。



 それはなにか――



 本当はこんな風に順序立てて考えなくても自分で痛いほどに解っている。



(わるい癖……)



 黄昏は人に人を見失わせる。



 自分も他人も、誰も彼も、暗がりの中で不透明で不鮮明になる。



 だけど夜盲のままではいられず、いずれ闇に順応して誰もが自分の過ちを目の前に晒されるのだ。



 人工の明かりは地面しか照らさず、夜空に答えを映してはくれない。



 もう一度レモンティーを啜りながら、リュックサックに手を入れスマホを取り出す。



 背後で大きくクラクションが鳴る。


 前方で口を広げる通りの中には雑居ビルが立ち並ぶ。


 目の前では駅へ向かう人、駅から来た人、男も女も、たくさんの人々が行き交う。


 人も物もこんなにも雑多な夜の街で自分は独りぼっち。


 酷く心細くなる。



 サイドボタンを押し込みディスプレイを点灯させデバイスを操作するフリをして顔を俯ける。


 ディスプレイの光が顔を照らす。


 

 自分の所有物。自分だけの光。



 縋るような瞳を向けるとロックが解除される。



 次に画面上に現れたのは拠り所となる温かみ。



 親友と二人で映った待ち受け画面を見つめる。



 タイミングよく彼女から返信が来ないものかと薄く期待を寄せるが、そこまでを求めるべきではないと諦める。


 彼女にも彼女の時間がある。


 彼女からはもう充分に貰い過ぎるほどに貰っている。



 だから――



(本当に、気を付けなきゃ)



 もしも彼女が本当にあの男のことを好きで、まかり間違って二人が上手くいくようなことがあれば――



 希咲の希望としては、水無瀬とはずっと親友を続けていくつもりだ。


 高校を卒業しても、別々に進学し就職し、いずれそれぞれが誰かと結婚して家庭を築くことになっても。


 結婚は大袈裟だとしても、どこかの過程で彼女が彼と付き合うようなことになれば、自分も彼とは上手くやっていける関係を造らねばならない。


 つまり仲良くならなければならない、ということなのだが、しかしその順番は絶対に間違えてはならない。



 パックジュースの中身を一気に吸い上げ空になった容器を握り潰す。



 あくまで、自分から見た弥堂 優輝は親友である水無瀬 愛苗の好きな人、もしくは彼氏。

 そして、弥堂 優輝から見た希咲 七海は自分の彼女である水無瀬 愛苗の友達。



 そうならなければならないし、そうでなければならない。



 色々と気の早い話ではあるが、線引きは最初に済ませておかなければならない。それを間違えたままボーっと過ごして、いざそうなった時にはもう手遅れなのだ。



 彼女よりも先に仲良くなってはいけない。


 当然彼女よりも仲良くなってはいけない。


 彼女を介さず独自の関係性を持つことも絶対にダメだ。


 こんなことは誰でもわかる当たり前の注意事項だ。


 

 

――『わからない』


 自分に向けてそう言った時の彼の顏が思い浮かぶ。



 心の内を塞いで隠す緞帳のような黒い瞳。


 心臓の裏側がジクリと痛んだ。



 だけど優先順位は見誤ってはダメだ。



 きっとそれは自分の役割ではない。




 女の子同士はどんなに仲が良くても、そういった所から簡単に関係が破綻する。実際にそうなった子たちも見てきた。


 しっかりと注意していかねばならない。



 気にしすぎだと笑う者もいるかもしれない。



 でも、彼女が優しいから、仲良くしてくれるからといってそれに甘えているばかりではダメだ。


 それが自分に出来る努力であり、誠意なのだと、そう信じる。




 とはいえ――



 希咲としても基本的には水無瀬の恋路を応援するつもりではいるのだが、本音の部分では出来れば弥堂はやめておいてもらいたいとも思っている。



 今日で随分と彼に対する見方が変わったのも事実だが、なにぶんちょっと頭がおかしすぎるし、暴力を奮うのに躊躇いがないところも怖い。


 風紀委員のくせにそこらの不良生徒よりも遥かにアウトローなあの男の将来性が不安でならない。



 水無瀬も水無瀬でちょっと違う意味で危なっかしいところがあるし、弥堂は弥堂でまんまの意味で危なっかしい。


 その二人でカップル成立した際の幸せな未来がどうしてもイメージするのが難しいのだ。


 出来れば彼女には、もっと普通の常識的で大人しい男の子とお付き合いしてもらいたい。



 しかし、そんなところまで自分が「あれはダメ、これはダメ」と口出しするわけにもいかない。



 なによりも、ゆるゆるふわふわとした雰囲気の水無瀬だが、ああ見えて自分よりもずっと意思が強い。



 彼女がこうだと思って、そう決めたのなら、きっと自分が何を言ったってその意思を捻じ曲げることは出来ないし、またそれをしたいとも思わない。



 ならば。



 自分に出来ることはサポートとバランス調整だ。



 もしも高校在学中にあのイカレ男子と付き合うことになれば、周囲から大いに奇異の目で見られることだろう。それは避けようもない。


 どうせ方々で恨みを買いまくっているに決まっているあの男のとばっちりが彼女にいく可能性も高い。


 そのあたりに目を配って口を利いて大きな揉め事に発展しないように調整をするのは、自分ならば可能だ。



 そう思ったタイミングで突如、今日のハイライトシーンがフラッシュバックする。



――顔面を鷲掴みにして二階の窓から人間を捨てようとする弥堂。


――床に転んだ女の子のお尻を踏みつける弥堂。


――車椅子に座った人に爆竹を投げつける弥堂。


――しつこくイチャモンを付けて訴訟までチラつかせながら金をまきあげようとする弥堂。


――人通りの多い商店街で、周囲の者に騒ぐ暇も与えずに数人を突然殴り倒して路地裏に投げ捨てる弥堂。



 そんな弥堂であっても自分ならば彼の行動を制御することが可能だ。



(……ほ、ほんとに…………? ちょっと無理なんじゃ……)



 ツーと冷や汗が顔に流れてくる気配を感じ、メイクの崩れを嫌ってササッとハンドタオルで防ぐ。



 だが、やらねばならない。



 うちの娘と付き合うというのなら、どうにかあの男には社会に適合してもらわねば困る。



 水無瀬が彼を強く注意することは出来ないだろう。彼女は何でも許してしまいそうだ。


 それはいけない。それは地獄の始まりだ。



 脳内でちびキャラ弥堂がちびキャラ愛苗ちゃんにDVを行う寸劇が展開し、希咲はサーっと顔を青褪めさせる。



 そんなことはさせない。


 絶対に自分があのクズを更生させてみせると希咲は使命感に燃えた。




 そうは言っても。



 あれもこれも、総ては彼女が本当に弥堂が好きなのか、それをはっきりさせてからの話だ。



 状況的に他に考えようもないのでほぼほぼ間違いないだろうが、勝手な思い込みで暴走するわけにはいかない。それはメンヘラのすることだ。


 まずは事実確認をしなければ。



 直近では時間をとれないので、自分が幼馴染たちと旅行に行って戻ってきたG・W明けにでもまたお泊り会を開こう。


 彼女にはその時に洗いざらい吐いてもらう。



 スケジュールはしっかり把握しているのだが、手慰みにカレンダーアプリを開いて画面に映す。


 わかりきった予定を見つめながら思考が逸れていく。



 もしも彼女が彼と付き合うことになったら、今まで通りには彼女との時間を多くはとれなくなるだろう。


(やっぱ、あんまりあたしとは遊んでくれなくなっちゃうわよね……)



 自分も自分でアルバイトや家族の面倒を見たりしなければならないし、どうせ幼馴染たちからのとばっちりはこれからもあるだろう。


 仕方のないことではあるが、



(うぅ……それでもさみしい……)



 別方面へと気分が沈む。



(あーあ。あたしもとりあえずでいいから彼氏作っちゃおうかなぁ……)



 今のところ誰か特定のそういう相手がいるわけでもないし、特別気になっている男子がいるわけでもない。


 だが、自分なら相手の人格がよっぽどアレでさえなければ、大体誰とでもそれなりに上手くやってはいけると思っている。


 そういう年頃でもあるし、そうすることは別に不自然なことでもない。



 好きでもない相手を見繕って付き合うのは不誠実ではあるかもしれないとは思うが、好意は後からでも着いてくるだろう。


 上手くやっていける相手かどうかの方が重要だ。



 それに――



(いつか大人になって誰かと結婚するんだろうけど、どうせそれまでの間に数回は誰かと付き合って別れてって繰り返すんだろうしね……)


 最初に付き合った相手が偶々ベストなパートナーでそのまま最後まで添い遂げるだなんて物語は、奔放な自分の母親を見て育った身ではどうにも夢見ることは難しい。



 幼い頃から、無自覚に女にモテまくる幼馴染の紅月 聖人あかつき まさとや、自分や母親を捨てていなくなった父親、そしてその後に結婚離婚を繰り返し失敗し続ける母親と、その度に増えていく弟や妹たちの面倒を見てきたせいで、16歳の身空でありながら随分と男というものをシビアに見てしまうし、男女関係にも気おくれするようになってしまった。



 運命の人とドキドキな毎日を――なんていう少女らしい妄想よりも、その関係が破綻した後の地獄の後処理をするリスクの方が先に浮かんでしまうのだ。



 そのせいか、特に誰かを好きになることもなく今日まで過ごしてきてしまった。



 とはいえ、別に「男なんて!」などという極端な思考や思想を持っているわけでもなく、いつかはどこかで誰かとそういうことになるんだろうなとは考えている。



 だけど、やはりこんな自分に大好きな男の子というものが現れるだなんてことにはまったくリアリティを感じない。


 じゃあ好きな人を造ってみようかなんて思っても、ちょっと軽々しく他人には言えない――言っても絶対に理解してはもらえない――事情があり、日常的に周囲にいるような同年代の男の子たちにそういう興味を向けて、そういう目で見ることがどうしても難しい。



 であるならば、先に考えたように、将来的なことを踏まえてとりあえず誰かと付き合ってみて、男女交際の経験値を積んでおく方がよっぽど現実的だ。



 幸いにも現在の自分はそれなりに異性にモテてはいる。


 しかし、それがいつまでも続くとは限らない。



 勿体ぶっている内に、いざ自分がその気になった時には誰にも必要とされない。


 そんなことになる可能性もあるだろう。



 大好きな人じゃなきゃ――とか、理想の相手が――とか、そんなことを考えて足踏みして無為に時間だけ失っていっても何も上積みがない。


 そうこうしている内にどんどん周囲から遅れていく。



 プロフェッショナルなJKとしてはそれは大いに問題だ。



 どうせ遅かれ早かれなのだ。


 それなら、幸運にも自分に需要がある今のうちに――


(さっさといろいろと、経験、しちゃった方がいいのかもね……その方が――)


『――効率がいいだろう』



 突如思考に割り込むように、身も蓋も愛想もない仏頂面をした顏と声が脳内に現れた。



 記憶ではなくイメージだ。


 彼とはこんな会話はしていない。



 だけど――



(――い、いかにも言いそう)



 思わず吹き出して笑ってしまう。



 周囲を通行する者たちから怪訝な目を向けられる。



 慌てて顔を下に向けスマホでメッセージのやりとりをしている風を装う。



(もうっ! あいつホントむかつくっ!)



 脳内に登場してきたイメージ上の彼に八つ当たりの右ストレートをお見舞いし退場させる。



(でも――)



 今の今まで自分を支配していた投げやりな思考が消し飛び、そして決めようとしていたことを全て白紙にする。



(あいつと同じ考え方なんて冗談じゃないわ)



 脳内イメージとはいえ、あの男に言われたとおりに行動するなど絶対にお断りだ。あいつと意見が合うなんて癪だから今のはなしと、そういうことにした。



(ホント……むかつく……)



 待ち受け画面に視線を向けながら複雑な笑みを浮かべた。



 別に彼は関係ない。



 どうせ忙しい自分には彼氏を作るのは土台無理な話だったのだ。


 無理矢理にでも造らねばならないほどの理由もない。



 そう思考を切り替える。



 彼氏を造ったとしても優先順位はどうしても家族や親友の方が上だ。加えて幼馴染たちの厄介ごともある。


 きっとあまり構ってあげることは出来ないだろう。


 それはかわいそうだ。



 誰でもいいから――とか、理想の相手が――などと、偉そうな視点でものを考えていたが、こんな自分では相手にとっても理想の彼女にはとてもなってはあげられない。


 それはフェアじゃない。



 現段階では誰なのかすらもわからない『すきぴ』などという得体の知れない存在を、今現時点で大事にしている者たちより優先出来るとは到底考えられない。


 やはり、とりあえずだなんて軽い気持ちでも彼氏を造るのは難しそうだ。



 自分の都合で誰かにヒドイ経験をさせるよりも、弟や妹たちのための時間を増やす方が生産的だ。



(あの子たち、ちゃんとご飯食べてるかな……)



 いい感じに思考が散漫になり、家に居るはずの弟や妹たちを思い浮かべて、心配になりつつも心が和む。



 冷蔵庫にあるものをレンジで温めるだけの作業なので、中学二年生になった一番上の弟なら問題なく出来るはずだ。


 しかし、それでも心配でメッセージを送ってちゃんと出来ているのか確認したくなる。


 絶賛思春期中のその弟に、口煩すぎると若干鬱陶しがられているのを自覚はしているが、心配なものは心配なのだ。



 メッセージアプリを立ち上げようとアイコンに指を近づけたところで、先に新着メッセージの受信の知らせが画面上に浮かぶ。



 そちらの内容を確認しようとタップする。



 表示されたメッセージを見て、希咲は表情をニュートラルなものに落とす。



 待ち合わせ相手が到着したようだ。



 適当なスタンプ一つで返信しスマホを仕舞う。



 もう片手に持った先程握り潰した空のジュースのパックをどうしようかと迷いながら、近くにゴミ箱がないか視線を動かす。



 それで見つかったのは目当てのゴミ箱ではなく、待ち合わせの相手だ。



 くたびれたスーツを着た卑屈そうな中年の男。



 この歓楽街周辺を歩く多くの者と似た特徴で、普段ここらで彼を見分けようとすると難儀するのに、こういう時にはすぐに見つかる。


 男は希咲が自分を見つけたことに気が付くと片手を上げ、ニヤニヤと好色そうな笑みを浮かべながらこちらへ歩いてくる。




 いつかの未来で――



『今日のこの日が楽しかったね』と。



 自分にそう言ってくれる者がいつか現れるのだろうか。



 自分がそう言ってあげられるひとが現れるのだろうか。




 手の中のジュースパックを握る手に僅かに力を入れ、こちらへ向ってくる男に悟られぬよう細く息を吐く。



 潰れたジュースパックをハンドタオルで丁寧に包んでリュックに仕舞った。



 近くにゴミ箱がないからこれは仕方がないのだ。



 心中でそんな言い訳のようなものが浮かぶ。




 それは自分の役割ではないし、彼の役割でもない。




 意識を切り替え身体に命令を出し、ガードレールからお尻を離す。



(やっぱり、彼氏なんて無理だ)



 ブーツのヒールの音が鳴らぬよう意識して、希咲は男の方へ歩いていく。




 きっといつになっても――



 今日のこれからのことが楽しかっただなんて誰にも言えない。

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