序-43 『hurts because no pain』

 鍵を回してドアを開ける。



 玄関の入り口から廊下を覗き手前から奥へと一度視線を走らせ、それから中に入る。


 玄関扉のドアノブとすぐ近くのトイレのドアノブに目を遣り、それから玄関を閉める。



 通学用の革靴を脱ぎ、玄関に置いてあった別の靴に履き替えて、そのまま土足で部屋に上がる。


 狭くも広くもない一人暮らし用の1DKの廊下を進むとすぐにダイニングキッチンの部屋に当たる。



 キッチンスペースに冷蔵庫、ダイニングスペースには一人用のダイニングテーブルとその脇にパイプ椅子があり、部屋の角には小さなテレビが床に直置きされている。


 分厚い遮光カーテンで外界から切り離された薄嫌い部屋の中でパっと目に付く物はそれだけだ。



 ほぼ、なにもない部屋。



 買ってきた水のペットボトルが入った袋を冷蔵庫の前に下ろし、べランダへ近づく。


 遮光カーテンを一度だけ僅かに開けて外を見る。そしてまたすぐにカーテンを閉ざす。



 テーブルにスクールバッグを置いてキッチンへ戻る。



 床に置いた袋からペットボトルを1本拾い上げ、ヤカンに半分ほど中身を注ぎ火にかける。一度腕時計を見る。



 残りの入ったペットボトルと買ってきた他の水のうち1本だけを冷蔵庫に入れて、あとは適当に足でキッチンの隅に避けておく。



 制服の上着を脱いで雑に床に放りながらダイニングテーブルへ近づいていく。



 パイプ椅子に座り、ネクタイを緩めながらテーブルに置かれていたノートPCの電源を入れる。


 OSが起動するのを待つ傍らでバッグの中から物を取り出す。



 スマートホンと小さな封筒。



 封筒は開けずにそのままテーブルへ置き、先にスマホで通知を確認する。



 いくつかのメールを見ている間にPCが立ち上がった。


 メールアプリのアイコンをクリックしてから、テーブル上の封筒に手を伸ばす。


 先の昇降口の一幕の際に、自身のシューズロッカーの中から希咲に気付かれぬよう回収していた物だ。



 その封筒を開けて取り出したUSBメモリをPCへ挿しこむ。

 中に入っていたデータを一通り確認し、その内からいくつかのファイルを選んで新規フォルダにコピーをする。



 新規メールを作成し宛先にバイト先の上司を選択すると、今しがた作成したフォルダを貼り付けて一度内容を確認し送信をした。



 次の作業に取り掛かる前に腕時計を見る。そろそろ時間のはずだ。


 一時中断しキッチンへ向かう。



 戸棚を開けて紙袋を取り出す。


 コーヒー豆の粉末が入ったその袋を適当に台所の作業台に放る。


 シンク脇の水切りカゴからコーヒードリッパーとカップをピックアップして同じく作業台に置いた。



 ガスコンロの前に立ち脳内でカウントしていた秒数の消化を待つ。


 あと10秒ほどか、と考えたタイミングでヤカンが音を発する。


 けたたましい鳴き声が響く前に反射的に火を止めて音を斬り捨てた。



(少しズレたか……)



 腕時計の秒針の動きを見て、1秒の感覚を矯正する。


 10秒数えてから作業に移る。



 カップにドリッパーを載せ、その中に入れたコーヒーの粉末の上に沸騰したばかりのお湯を注ぎ、回す。



 適正な温度ではない。



 この粉をブレンドした男が言うにはお湯の温度は83℃が最適らしい。


 最初は男に言われた工程に従っていたが、コーヒーの味の違いがわからない弥堂はすぐに効率が悪いと適当に淹れるようになった。


 当然、事前にカップを温めたりもしない。



『いいかぁ? ユキ。イイ男ってぇのはな、いいコーヒーに拘るもんだ』



 以前に自分の保護者のような立場にいたルビア=レッドルーツの言葉だ。



 ここ1年ほどは弥堂も一処に拠点を置いて落ち着いた生活を送ることが出来ているので、ふと思い出した彼女の言葉に従って、特に好きでもないコーヒーに金を使ってみることにしたのだ。


 馴染みにしている店が昼夜で営業形態を変える喫茶店兼バーとなっており、その店のマスターを使って一式を揃えた。


 その男が直にブレンドしたという粉についての蘊蓄うんちくや、道具の使い方、淹れ方の手順や作法など細々と説明されたが、味や嗜みを楽しむ感性に欠けた弥堂には半ば無用の長物となりつつもある。



 弥堂の価値観では正直なところ、たかが飲み物に対して使う金額としては過剰な金額だと思っている。

 またあの男の人格や品性を考慮すると、実際に随分とぼったくられているのだろうが、それは弥堂としては望むところでもあった。



 弥堂には味や格式などはわからない。一つだけはっきりとした形で自分でも違いを認識出来るのは値段の一点だ。

 自身が拘ることが可能なのは金額のみ。ならば高ければ高い方がいい。目的に副う。


 一般的な市販品よりも品質のいい物を一般的な値段よりも高い金で買う。


 それで拘っている、ということになるはずだ。


 弥堂はそのように考えている。



 この趣味を自分に勧めてきたルビア自身も似たようなもので、口に入れれば拒絶反応を起こすほどにコーヒーを苦手としていた。



 そんな彼女が苦手なコーヒーを飲むのは酷く酔いつぶれた夜の、その翌日明くる朝だった。


 チアノーゼにでもなったかのような顔色で、酷い二日酔いに顔を歪めて起きてきた朝に決まって優輝にコーヒーを淹れろと命じる。


 そして一口飲んで胃の中の物を全て吐き出し、カップの残りは捨て、優輝に後片付けを命じてスッキリした顏で出かけていくのだ。



 何度かコーヒーとはそのように気付け薬の代わりに使用するものではないと進言したのだが聞き入れては貰えなかった。


 彼女曰く――



『――酒で溶かせなかった腹の中に溜まった汚ねぇモンをこうやって吐き出すんだよ。大人はそうやって定期的にゲロと一緒にゲロみてぇなアレコレを吐き出して、そんで何でもねぇってツラで外に出てクソったれな世の中で大人やってんだ。これがわかんねぇうちはテメェはまだまだガキってこった。あぁ? んだそのツラぁ? いっちょまえに怒ったのか? 生意気なんだよクソガキが。ガキっつわれてキレんのはガキの証拠なんだよ。違ぇってんなら、残ったこのコーヒーを飲んでみな――』



 そう彼女に煽られて挑戦し、二日酔いの彼女と似たような顔色になって以来、決して好みはしないが、今では飲み込めるようにはなった。


 吐き出せと言う彼女の言が正しいのならば、クソったれな世の中に蔓延る自他のゲロのような悪意を飲み込み続けて腹の中に溜め込みっぱなしになっている、ということになる。

 しかし、吐いた後の片付け作業のことを考えれば、弥堂としてはどうしても効率を優先せざるをえない。



 後になって知ったことだが、彼女が好きでもない嗜好品を飲み続けていたのは、死に別れた昔の男がコーヒーを嗜んでいたから、らしい。



 当時、彼女と弥堂が共に過ごしていた地方ではコーヒーは簡単に手に入るものではなかった。


 それでも彼女が結構な金を出してまでそれを仕入れていたのは、考えるまでもなくその昔の男を想ってのことなのだろう。


 彼女がどんな気持ちでその習慣を続けていたのかは今でもわからない。



 弥堂自身、最近になってこうして居を構え安寧を貪るようになり、今のような安全な時間に以前に時間を共にしていた人々のことを少しは考えるようになった。



 無駄なことだと自覚をしていたが、どうせ何もしない無駄な時間なのだ。他にすることがないのであれば、無駄な時間に無駄なことを考えても別に構わないだろうと目を瞑る。


 それが甘えであり気の緩みだとも自覚はしていた。



 ただ、やはりいくら考えても彼女のことはわからないし、答え合わせもできない。


 正しく、無駄だ。



 そんな中で得られたものは苦さに対する依存だけだ。



 彼女と過ごしていた時は、どうしても苦味に耐えられずカップ一杯飲み切ることが出来なかったのだが、あれから何年か経った今では、定期的に飲み続けていたわけでもないのに簡単に飲み干すことが出来るようになっていた。



 それも当然だ。



 現実の『世界』はこんな黒い水よりも何倍も苦い。



 今の自分にはこんなものは苦にはならない。




 過去を想っている間にカップの中には黒い苦が溜まっていた。ドリッパーを外してシンクに入れ、カップを持ち上げ一口含む。



 雑味の薄いほど良い苦さと少しの酸味を飲み込む。


 喉の通りもよく、後に引く不快感もない。



 それも当然だ。



 人間が嗜好するために発達した科学技術により生産し加工され流通しているものだ。おまけに今口にしたものは、店のマスターが客に売るために独自にブレンドしたものでもある。不味いわけがない。


 だから人間にとって苦になろうはずもない。



 簡単に言えば、これは美味いものだ。



 だが、弥堂はどうにもこの美味さと高級感が気に食わない。



 昔彼女と一緒に飲んだものよりもはるかに入手することがが容易な物なのに。


 弥堂はこの粉に無駄に金をかけてしまっているが、多少味が落ちたとしてもその辺の量販店で安価に手に入る物の方が、彼女と飲んだコーヒーよりもずっと値段が安い。


 それなのに記憶にある彼女と飲んだコーヒーよりもずっと美味いと、味覚を通じてそう認知するこの安易な快楽に落ち着かなさや居心地の悪さを感じてしまう。



 咥内に残ったその美味いという不愉快さを唾と一緒にシンクへ吐き出す。


 べっと銀色の板に張り付いたその悪意の上でカップを逆さまにして残りを捨てる。


 水道のレバーを下げて黒く汚れた悪意を水に流した。



 こんなことをしても身の内で燻る燃え尽きぬ怨嗟は潰えはしない。



 彼女の言ったことの全ては今でも理解出来てはいないが、だが苦さというものはあの頃よりは多少わかった気がするし、今では自分も何でもねぇってツラで外を歩くのがあの頃よりもずっと上手くなった。


 だが、自分が飲み込んでいるのは彼女とは違う苦さだ。満たない苦だ。



 自分は果たして正しく大人になれているのだろうか。



 そんなわけはないと自嘲する。





 コーヒーの粉を戸棚に仕舞う。



 明日からはもう飲まなくてもいいだろう。仕舞う時に毎回そう思う。



 苦にもならぬ苦さなど、咎を洗うことも出来なければ戒にもならない。




 戸を閉めるとほぼ同時に電話が鳴った。


 弥堂は特に急ぐでもなくテーブルへと歩いていく。



 スマホを通話状態にし耳に当てると粟を食ったような女の金切り声に鼓膜を刺され、弥堂は眉を不愉快げに歪めた。



『もしもし! 弥堂君っ⁉』


「……お疲れ様です。所長」



 電話を寄こしてきたのはバイトの雇い主だ。弥堂は一応丁寧な応対をする。



『あ、お疲れ様です…………じゃなくって! なんなんですか! この写真は⁉』



 相手が言っているのは恐らく先程メールに添付して送り付けたデータのことであろうと予測をつける。



「何、と言われましても。頼まれていたものですが」



 仕事を期限内に熟したというのに何故か怒っている様子の相手に、弥堂は見れば馬鹿でもわかることをわざわざ説明してやった。



『頼んでません! いえ、最初の方の写真はいいです。確かに依頼主が求めていて、私がキミにお願いしたものです。間違いありません。ですが――!』



 弥堂はスマホから聴こえてくる声を適当に聞き流しながらPCを操作し、一応先程自分が送信したデータを開き瑕疵がないかを確認をする。



『――ですが! なんですか⁉ この別フォルダに入ってるおかしな写真は⁉』



 言われて該当のフォルダを開く。



「これがなにか?」


『なにか⁉』



 何が問題なのか、弥堂にはまったく理解できずに聞き返すと電話の向こうで相手は相当に驚きを表す。



『これ! 今回の依頼と関係ないですよね⁉ ターゲットと全然違う人が写ってるんですけど⁉ ていうかこれ完全にベッドシーンですよね⁉ どう見てもラブホテル内なんですけど!』


「あぁ」



 ようやく相手の言いたいことが伝わった。



「えぇ。仰る通りです。これは別件です。なので別フォルダに入れました。もしかしてメール自体を別で送るべきでしたか? それでお怒りに? でしたら不作法で申し訳ない。失礼しました。以後気を付けます」


『全然違いますけど⁉』



 弥堂はまったく悪いとは思っていないが、相手は毎月の生活資金を提供してくれる雇い主という役割のそれなりに便利な女だ。なので、一応体面上謝ってやった。


 だが、どうやら彼女が怒っているポイントはそこではないようだ。



『私、キミには1件しかお仕事をお願いしてませんでしたよね⁉ なんなんですかこの写真⁉ ていうか誰なんですこの人たちは⁉』


「あぁ、そうですね……」



 20代の半ばで自らの事務所を構える優秀な人物だと思っていたが、いい歳をこいて電話でキャンキャンと喚き続ける落ち着きのなさに、所詮は若い女かと心中で見下しながら弥堂は説明を始める。



「その男は飯田 誠一。32歳。医師です」


『医師? なんでその人を?』


「えぇ。その男、写真では無防備にカメラにケツを向けて情けなく腰を振っていますが、これでも随分優秀なようで。美景台総合病院の外科医で主に人間の心臓を取り扱って金を稼いでおり、来月には外科部長に昇進が決まっているようです」


「言い方っ! 臓器売買でもしてるみたいに聞こえます! というか、その若さで随分と早い出世ですね。エリートさんなんでしょうか?」


「そうですね。実際腕の方は確かなようで。ですが、出世の早さには別の理由もあります」


『……別の?』



 弥堂の話に何か不穏さを感じ取ったのか、ずっと感情のままに荒げていた声を潜めた様子がスマホごしに伝わる。



「えぇ。面白いのがその写真に映っているもう一人です。その貧相な男の下で解剖前のカエルのように無様に股を拡げた年嵩の女です。そのアバズレ、誰だと思いますか?」


『……あの、弥堂君。前々から再三に渡って注意をしていますが、言い方っ! キミは落ち着いている子ですけど言葉のチョイスが悪すぎます! 高校生がそんな口をきいてはいけません!』


「善処しましょう」



 中々に金払いのよい女ではあるが、偶にこうして年上ぶって小言染みた注意を与えてくるのが玉に瑕だ。しかし、弥堂は形上は改善の努力をする姿勢を見せておいた。



『それで、この女性は?』


「はい。こいつは美景台総合病院の現理事長の妻です」


「えぇ⁉ ということは、これは不倫現場ですか⁉」


「肯定です」



 ようやく状況が見えてきた様子の相手に弥堂は一定の満足を得る。



「あそこの病院は一応その女の旦那が理事長ということになってはいますが、元々の病院の所有者はその女の一族。つまりは婿養子です」


『……婿養子』


「えぇ。現在病院内の実質の最高権力はその女が握っているようです」


『なるほど……それで、どうしてこの写真を? 元々の依頼の件とは関係ないですよね?』



 キナ臭さを感じたのか電話の声が神妙なものに変わる。



「はい。先程も言いましたが、元の依頼とは関係がありません。その依頼を追っている時に偶然入手することが出来たものです。ですが、このチャンスを逃す手はありません」


『チャンス……? えっと、弥堂君。一体どういうことなのでしょうか? これを私に送ってきた理由が……』


「まだわかりませんか?」


『え?』



 察しの悪い上司に弥堂は態度には出さずに呆れを感じる。やはりサバイバル部の部長である廻夜と比べればこの女は上司としては無能だ。彼と比べるのも残酷な話かもしれないが。


 そんなことを考えながら弥堂は説明を続ける。



「この件に関わるのは、病院の外科部長に理事長、そしてオーナーの3名です」


『そうですね』


「つまり、全員が金を持っています。余らせるほどに」


『…………はい?』



 弥堂としてはもう結論を言ったつもりなのだが、スマホから聴こえてくる音声は素っ頓狂なものだ。



「……いいですか? そいつらは金を持っている。社会的立場もある。その上で不貞を働いた。被害者となる側も表沙汰にはしたくないだろう。強請って金をまきあげる好機です」


『なにを言ってるんですかあぁぁぁぁぁっ⁉』



 スピーカーから飛び出した叫び声がまたも鼓膜を突き刺し弥堂は舌を打った。



「……うるせぇな」


『うるせぇじゃありませえぇぇん! 犯罪じゃないですか!』


「犯罪とは立件する者がいなければ成立しない。これは全員がある程度幸福になれるビジネスチャンスです」


『なにがビジネスですかぁ! 立派な脅迫ですよ!』


「相手が訴え出ればそうでしょう。ですが、裁判沙汰になって困るのはあちらも同じ。そのデメリットをしっかり丁寧に説明してやればいい。なに、欲をかいて無茶な金額を要求しなければ大丈夫です。それでも3人別々に脅してそれぞれから金をとれば、こちらにとっては十分な金額になるでしょう。」


『ほら言った! 脅すって言った!』


「今のは言葉の綾です。脅迫ではなくプレゼンです」



 商機に鈍感な経営者への憤りを隠しながら、弥堂は上手く上司を説得を出来るよう辛抱強く企画のプレゼンを続ける。



「この件は俺にお任せください。確実に大きな利益を社に齎します。必要であれば依頼書はこちらで偽造しましょう」


『ダメに決まってるじゃないですか! 偽造とか言ってるし!』


「安心して下さい。俺はプロフェッショナルです。このプロジェクトを必ず成功させます」


『絶対にダメです! プロのヤクザ屋さんの犯罪計画じゃないですか! うちの仕事をなんだと思ってるんですか! 言ってみなさい!』



 中々に強情な相手の姿勢に、弥堂はこの女を見限って個人的な仕事として取り組むことも選択肢に入れる。



「我々の仕事は、困っている者の足元を見て金を要求し、その金で他人の情事を嗅ぎまわって更なる金に変えることです」


『全然違います! なんてことを言うんですか⁉ 私ショックです!』



 弥堂は出来るだけ事実に基づいた自身の見解を答えたが、相手は社会における自己の在り方を酷く貶められたように憤慨する。



『弥堂君! いいですか? 私たちのお仕事は、もう他の誰にも頼れないほどに追い詰められてしまった人達の最期の拠り所となることです。国から定められた条件を満たした場合に限り、この汚れ仕事を遂行することを認められています』


「ものは言い様ですね」


『その通りです。ですが、建前は大事です。その上っ面すら取り繕うことが出来なくなってしまっては我々はただの犯罪者に成り下がります。だから全力で体裁を繕うのです。それが大人というものです』


「…………失礼しました」



『大人』というフレーズに反射的に反論をしたくなったが、記憶の中の緋い女に嘲笑われたような気がして弥堂は口を慎んだ。



『な、なんか、今日は随分と素直ですね……? もしかして悪いこと企んでいますか?』


「そんなことはありません」


『そうですか……? とにかく、我々の仕事はまず依頼者がいなければ成立しません。これを撮れたのはすごいとは思いますが、私たちはブンヤではないのですからこれだけでは仕事にすることはできません』


「それなら問題はありません」


『え?』



 まだ何ひとつも諦めていない弥堂は逆転を狙いプレゼンを再開する。



「依頼者がいないのであれば作ればいい。幸い被害者になれる者は誰かわかっている。こちらからそれとなく情報を渡してやり依頼をするように仕向けてやればいいのです」


『やっぱり企んでます! キミは悪すぎます!』


「いいですか、所長。困っている者を助けると簡単に言いますが、基本的に放っておいても勝手に困るような連中は無能な貧乏人です。奴らのつまらない頼みごとをチマチマと聞いてやっていても小金しか入ってきません。それでは効率が悪い。ではどうするか? 簡単です。金を持っている奴を困らせてやればいい。非常に理に適った経営の理念であり指針であると思いませんか?」


『理に適っても法に則ってません! 完全にアウトです! プロのヤクザさんの思考です!』


「うるさい黙れ。口答えをするな。いいから俺に一任すると言え」


『私所長なんですけど⁉』



 弥堂は社長でありながら会社の発展に全力を尽くそうとしない怠慢な経営者を軽蔑し説得を諦めた。



『弥堂君。キミには何度も言っていますがもう一度言います。いいですか? 探偵とは、そういうものでは、ありません。言ってみなさい』


「はい。探偵とはそういうものではありません」


『よろしい。ではこのデータは削除します。キミの方も完全に消去するんですよ?』


「はい、所長」



 弥堂は雇い主の命に従い復唱をしながら、PCとスマホをケーブルで繋ぎデータをコピーしてバックアップをとった。


 件の理事長の週末のスケジュールは抑えている。


 日曜のゴルフ帰りに馴染みのキャバクラに一人で行く予定のようだ。すでに奴のお気に入りのキャストは買収済みだ。そこで接触が出来る。



 仮に直近で実行に移さなかったとしても、そのうち使える時が来る可能性は十分にある。せっかく手に入れた有効な手札を意味もなく自分から捨てさるなどマヌケな素人のすることだ。


 次の機会に備えこの場では雇い主の顏をたててやった。



 しかし、相手が雇い主とはいえ、相手の要求を呑むばかりではナメられるので少々釘を刺してやることにする。



『まったく。キミはすぐに悪いことを考えるんですから。私の目の黒いうちは絶対に犯罪なんてさせませんからね!』


「残念ですがそれは手遅れです」


『ど、どういうことですか⁉』



 驚愕の声が聴こえてきた電話の向こうへ冷徹に事実を伝える。



「この写真が我々の手元にある時点ですでに犯罪です。なにせ誰に依頼されたわけでもない。ただの盗撮だ。これは貴女自身が言ったことです」


『言ってることがコロっと変わりました!』


「そしてこれは貴女にとっても他人事ではない」


『な、なんでですか⁉』


「俺は貴女に雇われている従業員だ。その俺がこんなことをしでかしたのは貴女の監督不行き届きが原因ではないのか? どうなんだ?」


『キミがそれを訊いちゃうんですか⁉』


「あくまでも可能性の話です。俺はそうは思っていませんが、だが。もしも。これはあくまでもしもの話だが、この写真が世に流出するようなことがあり、事の次第が明らかにされるようなことがあれば。その時は貴女が世間からそう問われる可能性もあるでしょうね。そういう話です」


『私脅迫されてます⁉』


「それは貴女の受け取り方の問題です。俺はただ、これからも上手く付き合っていきましょうと、そう言っているだけです」


『とてもそうは聞こえないのですけれど!』


「所長。俺と貴女は一蓮托生です。今後ともよろしくお願いします」


『キミは悪い子です!』



 弥堂は自身の所属する営利組織の長に今後も変わらぬ忠誠を誓ったが、不思議なことに相手は不満そうな声をあげた。



『ところで。上手くやろうと言われたからこれ幸いと話すわけではないのですが――』



 クレバーさとプロ意識の足りない上司を心中で見下していると、少し調子の変わった声で呼びかけられる。



「なんでしょう」


『えっとですね。前にもお願いしたことですので心苦しいのですが……』


「?」



 歯切れが悪くなった通話相手の言葉に眉を顰める。



『やっぱり現場を手伝ってもらうことは、難しいでしょうか……?』



 相手からの要請は、今までに何度か頼まれそして断っていたものであった。



「その件は解決したのではないのですか?」


『それがですね……』



 申し訳なさそうな調子で語られる。



『実は不測の事態でレギュラーメンバーに欠員が出てしまいまして。少し前にずっと主力で頑張ってくれてた子がステップアップして巣立っていき……これはうちのような弱小では仕方のないことなんですけどね。問題は、その後もどうにか残ったメンバーでカツカツで回していたんですが、最近一人仕事中にケガを負って入院をしてしまいまして……』


「早い話が諜報員が足りない、と?」


『そのとおり……なんですが、諜報員ではなく調査員です。似てますけど全然違いますからね!』


「失礼しました」



 弥堂はテーブルに付いていた汚れを爪で擦りながら謝罪をした。



『コホン。というわけで恥ずかしながらまた人手不足でして。皆さんのおかげでここのところ順調に依頼が増えていたのですが……』


「欠員が出る前の戦力をフル稼働させた時のポテンシャルを基準にして受けたから消化しきれないと?」


『うぅ……おっしゃるとおりです。面目ありません』



 ばつが悪そうな謝罪の声を聴きながら、弥堂は手を止めてどうするべきかと考える。



「現場と言いますが、現在俺が請け負っている仕事もある意味現場仕事のようなものです。要は俺にも事務所に出頭して依頼者を直接捌けということですか?」


『そう、ですね。そうなると思います。実は内勤専門でアルバイトをしてくれていた子が、気を遣って外の仕事も手伝ってくれるようになりまして。その子ばかりに負担をかけるのも心苦しくて、私もどうにか人手を増やせるよう頑張ろうと……』


「そうですか。立派なことです」


『助けを求めている立場でこんなことを言うのも烏滸がましいのですが、うちにはあなたのように事情を抱えた子が何人かいます。似た境遇の子たちと関わりを作るのはあなたにとっても損なことではないと思います。その……聞きづらいのですが、学校でお友達は出来ましたか……?』


「問題ありません」



 情に圧を以て訴えかけるような話し口を受けて、弥堂はノートPCで開いていたタスクアプリを閉じた。



「残念ですがお断りします」


『そう、ですか……』


「1件単位での依頼という形でなら報酬の上乗せがあれば条件次第では考えますが、シフトに組み込まれるのは絶対に御免です。顔が売れることによるデメリットの方が大きい」


『うぅ……痛い所を突きますね…………報酬アップはなかなか懐事情が厳しくて……』


「でしょうね。差し出がましいですが、情に感けて組織のキャパを超えた人数を拾ってきて雇う、そいつらに給料を払うために仕事を無理に増やす、構成員のスキルが追い付いていないから数をこなすことで誤魔化す、人が減る、増やした仕事が消化できずに破綻する。悪循環を起こしていますよ」


『耳が痛いです……』


「そこで先程の提案です。まとまった資金が入れば組織に当座の体力がつきます。そうすればしばらくは人材育成にリソースを割くことも可能でしょう。どうです?」


『ダメですうう! 犯罪だけは絶対にダメっ!』



 相手が隙を見せたので試しに誑かしてみたのだが、あえなく却下された。



「そうは言いますが所長。犯罪というのならば、高校生に探偵の実務を手伝わせるのも違法でしょう?」


『ゔっ! その指摘は刺さりますね…………ですが、一応うちはそれが可能になる認可は得ているので、きちんと条件を守ってさえいれば厳密に法に照らし合わせた場合、決して違法ではないのですよ? ただ、モラル的な部分でどうかと世間様から問われれば、私は頭を下げるかもしれないです……みなさんにも本当に申し訳ないと思っていますし、弥堂君、あなたにもとても助けられています。いつもありがとうございます』



 企画を蹴られた腹いせにちょっと精神を攻撃してやっただけのつもりだったが、思いのほか落ち込んだ声が返ってきた。



「冗談です。こちらこそ、俺のような訳アリの人間を拾って頂いて感謝しています。貴女から毎月貰っているくらいの金を安定して稼ごうと思えば、それこそ犯罪に手を染めるしかなくなる」


『ふふ。犯罪に手を染めている時点でもう安定とは程遠いですよ?』


「なるほど。やはり貴女から学ぶことは多い」


『またそんなお世辞を言って。でも私の責任は重大ですね。ちゃんとキミが社会に溶け込めるように面倒を見ちゃいますよ!』


「ありがとうございます、所長。俺がこうして屋根のある部屋で温かいスープとパンを毎日食べられるのも貴女のおかげです。貴女無しでは俺は生きていられないでしょう」


『わわわっ。そんな大袈裟な! 私なんてまだまだです! キミが生活出来ているのはキミが頑張っているからですよ!』



 ここに来てから一度たりともスープなど作ったことはないが、弥堂はとりあえずそう言ってやった。



 この手のすぐ情に流されるような女にはどのように接してやればいいのかを弥堂は熟知していたからだ。


 こういった自己を高く評価することの出来ない女は、他人の役に立つことで満足感を埋めがちだ。しかしそれで感謝をされても元来気の弱い性分なので、自分を肯定してやることが出来ない。


 だが、それでも他人から求められるという快楽には溺れる。


 そしてその行動を続けるうちに、今度は必要とされなくなることを恐れ、もっと役に立たねばと自分を追い詰めていくのだ。



 昔の恋人であったエルフィーネがそういう女であった。



 冷血な戦闘マシーンのような女であったが、その一方で彼女は自身の所属する修道院が経営する孤児院の子供たちの世話をすることを好んでいた。

 親を亡くした子供や捨てられた子供。社会に居場所のない子供たちを育てることに執着をしていた。


 そして現在の通話相手であるこの女もまた同様に、社会に居場所のない訳アリの子供を拾っては仕事を与え面倒を見るという活動をしている。



 エルフィーネと過ごした時間の中で得た経験のおかげで、今ここでこうして他の女から生活するに十分な定期収入を引き出すことが出来ている。



 弥堂は胸の前で小さく十字を切った。



 神など存在しないことを弥堂はよく知っていたが、エルフィーネが信心深い女だったので今この部屋には居ない彼女の代わりに、彼女の信じる神とやらに感謝の祈りを捧げてやったのだ。


 その記憶の中の冷血メイドが生ゴミを見るような目を自分に向けているような気がしたが、気がしただけならば気のせいなので気にすることをやめた。



『……では、出来ればでいいので考えるだけでも考えてみて下さい。もちろん無理強いはしません。あと……これは私事、なんですが――』


「……なんでしょう?」



 適当にオートモードで電話相手の女に対応しながら昔の女を思い出しているうちにどうやら話が転換をしたようだ。



『――あの娘は……妹は元気にやっていますか……?』


「……妹?」



 何故この女が自分に妹がいることを知っている? こいつに渡した自分の戸籍情報は偽造したものの方で、そちらには家族の情報など記載していないはずだと目を細める。


 しかしすぐに、彼女の言う妹とは弥堂の妹ではなく、彼女自身の実妹のことを言っているのだと思い当たる。油断をして藪蛇を突きそうになった自分を戒める。



「えぇ。元気ですよ。立派にお勤めを果たしていらっしゃいます」


『……そうですか。でも、ちょっと信じられません。とても内気な子だったので、あの子が生徒会長だなんて……』


「大丈夫ですよ。会長閣下はとても優秀な方です」


『そう、なんですね…………あの、それはいいのですが、弥堂君。あなたは何故うちの妹のことを閣下だなんて呼ぶんです?』


「俺は風紀委員なので学園の最高権力者には敬意を払う必要があります」


『本当ですか? 私が知らないだけで普通の高校生とはそういうものなんです?』


「えぇ。そういうものです」



 箱入り過ぎて一度も学校に通わずに最終学歴までを家庭内で取得したお嬢様に、弥堂は適当な知識を植え付けた。


(そんなお嬢様が何の因果か今では場末で探偵事務所の所長とはな)


 現実の苦さを感じる。



「よろしくお伝えしましょうか?」


『……いえ、大丈夫です。合わせる顔がありませんから。立派にやっているのなら私のことなど気にかけない方があの子の為にもいいと思います』


「そうですか」



 彼女も彼女で訳アリのようだが、弥堂は首を突っこむ気はないので適当に流す。



『では弥堂君。次のお仕事はまたメールでお送りしますね』


「わかりました」


『毎回思うのですが、よくこんな写真を迅速に入手して来られますね。どうやって撮影しているんですか?』


「大したことはしていませんよ。ネットで検索すればなんでも集められます。便利な時代になったもんです」


『……答える気はないってことですね…………私はまだ、キミにとって信頼するに足りませんか……?』


「そんなことはありません。俺には貴女が必要だ」


『…………そうですか。長々とすみませんでした。上手く学業と両立させて無理のないようにして下さいね』


「恐縮です。では」



 少し気落ちしたような声の相手に平坦な声で別れを告げ、通話を終了させる。



 スマホをテーブルに置いて、手を離すとほぼ同時にメール着信の通知が鳴る。


 弥堂はPCを操作してメールを確認する。


 相手は今電話を切ったばかりの所長。早速次の仕事の指示だ。



 内容は先程納品した仕事と同様の種類で、別の依頼人から頼まれた浮気調査だ。


 添付されていたファイルに依頼人と標的ターゲットのプロフィールが書かれている。


 弥堂に要請されたのは、物的な証拠を見つけること。それがなければその証拠を抑える為に標的の行動予定を掴むことだ。



 マウスカーソルを標的の名前に合わせてコピーする。


 次にWebブラウザを開いて検索窓にその名前をペーストしEnterキーを押す。



 一瞬PCの画面が揺らめき僅かなラグが発生する。


 その後に表示された検索結果に並んだいくつかの画像から一つを選択して拡大させる。


 画面に大きく映し出されたその画像には、男女が腕を組んでホテルから出てきたシーンが写されていた。


 弥堂はつまらなそうに鼻を鳴らす。



「本当に便利な時代になったものだ。実に効率がいい」



 同じ人物が写された類似の写真画像を数枚ダウンロードし、コピーしたものをフォルダにまとめ返信メールに添付する。


 実にイージーな仕事だ。この程度の作業を熟しただけで生活に充分な金が稼げるのだからこの国は本当に豊かだと感じる。



 愛想のない返信文をワンセンテンスで適当に打ち込み、内容を一度確認してから送信ボタンを押そうとして寸前で止める。



 メールを送信画面で待機させたままスクールバッグに手を突っこむ。

 中から取り出したのは先程とは別のUSBメモリだ。


 USBを差し替えながら、確かこの中にあったはずと記憶を確認する。


 記憶に記録されたとおりに目当てのデータを見つけ、画像ファイルを開く。



 その画像に写っているのは弥堂の通う美景台学園の生徒会長である郭宮 京子くるわみや みやこだ。周囲の風景を見る限り階段の踊り場だと思われる。物憂げな表情で立ち止まっている場面に見える。



 弥堂はその画像をコピーして待機中のメールに追加で添付し送信をした。



 雇い主の機嫌をとっておくのも悪くはない。それだけのことだ。



 仕事に関してはこんなところか。続いて反省文の作成に移ろうかとマウスに手を伸ばしたところでまたスマホが鳴る。今度は電話だ。



 画面に表示された相手の名前を見て眉を顰め、すぐに電話に出る。



「どうしました、御影所長。なにか不備でも――」


『なっ、なんなんですかこの写真はあぁぁっ!』


「…………」



 開口一番、先の通話の開始時と同じ言葉を叫ばれる。



「何、と言われましても。頼まれていたものですが」


『頼んでません! いえ、最初の方の写真はいいです。確かに依頼主が求めていて、私がキミにお願いしたものです。間違いありません。ですが、なんですか⁉ このもう一枚の写真は⁉』



 少し考えてから他に言い様がなかったので一度目の通話とまったく同じ言葉を返したら、相手からもほぼ同じ台詞が投げ返された。



「なんですかと言われましても、貴女の妹でしょう。家族の顏もわからなくなったのなら、所長。貴女は疲れているんです。休暇をとることをお勧めします」


『確かに疲れていますけど、そんなことはわかっています!』


「では何が問題なんです」


『なにってこの写真! 思い切り下着まで写ってるんですけど! このアングルはどう見ても盗撮ですよね⁉』


「肯定です」


『認めた⁉』



 何でもないことのように告げた弥堂の自白に、電話の向こうで相手がびっくり仰天した気配が伝わってくる。



『な、なんでキミがこんな写真を⁉ 一体うちの妹をどうするつもりですか⁉』


「落ち着いてください所長。貴女は誤解をしている」


『ご、誤解……? うちの妹の下着を盗撮して、それをわざわざ私に送り付けてきて……ま、まさか、私脅迫されてます⁉』


「違います」



 大層混乱している様子の上司に呆れながら説明をする。



「確かにそれは盗撮写真ですが、撮影をしたのは俺ではありません」


『え?』


「学園内で女生徒のスカートの中を撮影することはアートだと言い張り、その芸術性に傾倒する男を摘発したのですが、この写真はその時に押収したものの一つです」


『げ、芸術……? ちょっと何を言っているのかわかりませんが、でも何故これを消さずにキミが持っているんです?』


「探偵事務所の所長ともあろうものが何を。これは重要な証拠品です。あの男が他で問題を起こして警察の世話になることがあれば必要になるかもしれませんし、何より俺は風紀委員なので。罪人を更生させるための強制労働に従事させるには弱みを握っておくことは有効な手段です」


『うぅ……是正しなければならない所が多すぎます。ですが、妹が被害者だと思うとキミを責めづらいです』


「ご安心を。幸い会長閣下はご自身が盗撮されたことに気付いていません。被害を受けたことを認識する者がいなければ被害者はどこにも存在しないことになります」


『キミは色々と考え方がズレています……危険な方向に……』



 事情を飲み込めてきた様子の相手を落ち着かせるために安心材料を与えてやったつもりだったが、妙に疲れたような声が返ってきた。しかし、一応落ち着きはしたようなのでどうでもいいと流す。



『その……事情はわかりました。ですが、それだけですよね? キミがこの写真を保管していたことに他意はありませんよね?』


「どういう意味です?」


『ですから、その……これを使って変なことしてませんよね⁉』


「使う? 変なこと? 具体的に言って頂けませんか?」


『具体的に⁉ そ、そんなこと言えません!』



 曖昧すぎる相手の言葉に弥堂は苛立ってきた。



「言われている意味がわかりませんが、今のところは証拠品は犯人の脅迫にしか使ってませんし、これからも他の目的に使用する予定は特にありませんね」


『ほ、本当……ですか……? お願いですから妹にだけは手を出さないでください。お金はありませんし犯罪も許可できませんが、私に出来ることは何でもしますので、どうか妹だけは……』


「違ぇつってんだろ」



 聞き分けの悪い上司にうんざりとしてくる。



『どうにかこのデータ消去して頂くことは出来ないのでしょうか? 妹が不憫です』


「それは出来ませんね」


『で、ですが他に使用目的がないのですよね? それなら――』


「現時点で予定がなくとも先々で必要になる可能性はある。今日のように」


『え?』


「妹の顏が見たかったのではないのか? 役に立っただろう?」


『あっ!』



 弥堂としては大変心外だが、ようやく相手も何故写真データを渡されたのか合点がいく。



『うぅ……そう言われてしまってはもう責められません。キミなりによかれと思って私のためにしてくれたんですね……』


「上司の機嫌をとるのは部下の役目だ」


『お礼を言いたいのですが姉として複雑です……。久しぶりに見た成長した妹の姿がパンチラ写真だなんて……あんまりです……』


「しつこいぞ。わがままを言うな」


『ご、ごめんなさい』



 すっかり敬語を投げ捨てた弥堂は雇い主に謝罪をさせた。



『あ、あの……こんな言い方失礼なのですが、今日こうして私の手に渡ったことでこの写真の役目を終えたということには……』


「いい加減にしろ。何度同じことを――」


『5万円! 5万円でどうでしょうか⁉』


「了解しました社長。送信メールを完全に削除しました」



 優秀で正常な犬である弥堂はお金をくれる飼い主の命に従いメールの画像を削除した。



『あ、ありがとうございます!』


「ちなみに画像フォルダ内にコピーが残っていますがそちらは別料金になります」


『1枚5万円⁉』



 御影所長は雇い主を強請ることに躊躇いの部下に恐れ慄いた。



『うぅ……わかりましたぁ……全部で10万円払います……』


「取り引き成立です。貴女とは今後も上手くやっていけそうです」


『キミは悪い子です!』


「削除完了しました。確認をしますか?」


『……いいえ。キミを信用していますから結構です』


「そうですか」



 思わぬ臨時収入を得た男は、雇い主との信頼関係が築けていることに一定の満足感を得た。


 ちなみにUSBメモリ内の元データについて言及をしなかったのは、ついうっかりしていただけのことであり決して意図的ではない。そういうことになっているし、そういうことにする。


 人間はミスをする生き物なのだ。『世界』がそうデザインをしている以上これは仕方のないことなのである。



『ですが――』


「あ?」


『妹の写真のことについては置いておいて。私はキミの身近な大人として、キミの言動や考え方について色々と注意をしなければなりません』


「なんだと?」



 臨時収入に満足していた矢先、弥堂はこの後長々と説教を聞かされる羽目になる。



 何か事情があって妹と顔を合わせることが出来ない。


 その事情に首を突っこむ気はないが、生活資金の提供者へのサービスと思って写真を提供してやったつもりだった。



 打算あってのことだったが割に合わない。



 弥堂は二度とこんなことをするかと、適当にスマホから聴こえてくる説教を聞き流しオートモードで返答をしながら、うんざりした顏でPCから取り外したUSBを乱暴にバッグに突っ込む。


 すると傾いたバッグの中から何かが転がり出てきた。



 それに目を向ける。



 缶コーヒーだ。




 スマホをハンズフリーにしてテーブルの上に置き、代わりにそれを手に取る。



 無糖と白文字で書かれた黒いアルミ缶をじっと視る。



 これは日本全国で販売をするために工場で大量生産をされ、学園の誰が購入するかもわからない自販機に入れられていた物だ。



 それを今日たまたま希咲 七海が購入した。



 彼女が自販機に金を入れボタンを押しこれを取り出して自分に手渡すまで、一度も目を離していない。


 その時の彼女の一部始終を記憶の中に記録している。





――はいっ



――あげる




 記憶の中の彼女越しにもう一度缶コーヒーを視る。



 弥堂はプルタブを開けた。



 慎重に口元へ運び口に含む。



 安っぽい透明度の高い感触。蘞味えぐみのような苦味。


 酸味などなくピリついた刺激を感じる。


 飲み込むとその後もしつこく不快感が咥内に残る。



 簡単に言えば不味い。




 だが、その安っぽい不味さに安堵感を得た。



 それは何故なのか。



 パイプ椅子に背を預け天井を見上げる。




 意味などない。



 意味を、報いを求めてはいけない。



 意味を求めず飲み込み続けることこそが罰なのかもしれない。




 外は黄昏。



 遮光カーテンに塞がれた部屋の中でスマホとPCのディスプレイがぼんやりと光る。




 アルミ缶を傾けもう一度咥内に注ぐ。




 苦い。

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