序-44 『falso héroe』

 通話を切って手に持ったスマホを投げだすように離す。


 テーブル上を滑ったそれはノートPCにぶつかって止まった。



 あれからバイトの雇い主である女から道徳だの倫理だの常識だのと、何の役にも立たぬことについてクドクドと電話で説教をされ、ようやく通話を終了するまでに1時間ほどの時間を要した。



 自身の生活に必要な貴重な収入源だからと、弥堂も最初は我慢をして聞き流してやっていた。


 しかし、30分が経過したところで焦れてきて、苛々しながら次の10分を忍び、最終的には居直って「調子にのるなよ」と逆ギレして徹底的に詰め倒したら5分もたずに相手が泣き出してしまい、それでも容赦せずに10分ほど責め続けたら、『ごめんなさい』としか発言しなくなったので面倒になり、もういいかと勝手に通話を切ったのが数秒前のことだ。



 何故このような無駄なことにこんなにも時間をとられなければならないと、重く息を吐いて椅子の背もたれに体重を預けて天井を見上げる。



 そして、ハッと嘲笑うように鼻を鳴らす。



 効率よく必要最小限で用件を済ませ通話を熟したところで、別に他にすることなど何もない。


 無駄を省く必要すらない己という無価値な存在を自嘲する。



 今日のタスクは全て終了している。



 長い一日だった。



 この地に来てから、特に高校に通い出してからのこの一年間ほどは一日一日がやけに長く感じられる。


 当然、時間の進む速度が変わるわけはないので、あくまで自分の体感上での話にすぎない。



 今日生命が脅かされることもなければ、今晩雨風を凌ぐことを考えなくてもいいし、明日飢えることへの不安もない。


 危険はなく、安全な時間がゆったりと流れ、代わりに出来事は何もない。



 究極的な意味では、やれと言われたとしても必ずやらなければならないことなど本当は何一つとしてないし、自分自身を存命させる為にしなければならないこともない。



 こうした何もしない時間にそれは何故なのだろうと考えてみると、恐らく現在の自分はどんな陣営にも、どんな団体にも所属をしていないからなのだろうと何かしらの雑な仮説は立つ。



 現在の弥堂 優輝は私立美景台学園高等学校に所属をしていて、その中で『災害対策方法並びにあまねく状況下での生存方法の研究模索及び実践する部活動』――通称サバイバル部という部活動に所属をしていて、風紀委員会にも所属をしている。

 そして学校を出れば先程電話の向こうでいい年をこいて号泣していた女が経営する探偵事務所にもアルバイトとして所属をしていると謂える。



 だが、それは高校を卒業するか中退するかすれば失くなる仮初のものに過ぎない。


 だから究極的には自分はやはりどこにも所属をしていない。



 どこにも所属をしていないから自身を脅かされないし、また死なれたり殺されたりして困る他人もいない。



 サバイバル部の上司である廻夜部長が死んだとしても困らない。


 風紀委員会の役員や他の委員達が全員死んだとしても困らない。


 仕事の雇い主である所長が死んで社が潰れたとしても困らない。



 役割を仕事を生活をくれるそれらが失われても困らないのは、それらがすべて『現在いま』を埋める為だけの仮初のものだからに他ならない。



 時間が過ぎれば、例えば大学や就職先で別のもので代替されるし、例えば明日全てが失われたとしても別の物でやはり代替が出来る。



 自分の『未来』にどうしても必要なものではないからだろう。



 では、自分の『未来』に必要なものとは一体なんだろうか。



 弥堂は缶コーヒーを口にし、安価な不味さを味わう。



 こういった思考をするといつも必ずここで頓挫する。



 どうしても自分の『未来』といったものを想像・イメージすることが出来ないからだ。



 未来には希望も展望も絶望もなく、ただ生物として当たり前のように着いて回る『いずれ死ぬ』という事実を受け入れるだけだ。



 思い描く未来がなければ、それに必要なものを見出すことが出来ないのは当然のことだ。



 多くの他人に比べて自分が欠けているのはそういった部分なのだろう。


 ほとんどの者が未来に対して何かしらの絵を描く。


 具体的かどうかはともかく大小の差は在れど、何かしら希望や展望、或いは絶望を見る。



 希望があるから夢を見て、展望があるから努力をし、絶望があるから抗うことが出来る。


 それらは絵具のようなものだ。



 産まれた時に親からキャンバスを渡され、社会からは絵筆を渡され何かを描けと強要される。だが、それらを使って色を付け絵を描くための絵具は自身の裡から見出さなければならない。


 その絵具がないのであれば、絵筆を握りしめたまま色のないキャンバスの前で立ち尽くすことしか出来ない。



 きっと、水無瀬 愛苗みなせ まなには希望があり、廻夜朝次めぐりや あさつぐには展望があり、法廷院 擁護ほうていいん まもるには絶望がある。


 だから彼らや彼女は何かしらの絵になった未来を現実のものにしようと生きられるのだろう。



 以前は自分にもそれらが在ったように思える。



 まだ中学生になったばかりの頃、漠然とした曖昧な希望があり、展望と呼べるほどのものではないにしろ打ち込めるものがあり、そして自分にはそれらを叶えられるだけの才能がないのではないかという絶望があった。



 しかし突然、不運にも絵筆を奪われてしまい、キャンバスに何も描きこめないでいる内に、幻想は斬り捨てられ希望は消え展望は変更され絶望だけが膨らんだ。


 その絶望に抗おうにも絵筆がなければ何も描けない。



 空の手を見つめ茫然とする自分に代わりに与えられたのはナイフだった。


 そして弥堂 優輝が残った絶望すらも捨て去り、その後に選んだのは自分が全ての他人にとっての絶望となることだった。


 そうして数年ほどの時間を過ごした後に、結末と呼べるようなものに辿り着くこともなくただ追いやられ、現在の地である日本の東京近郊にあるこの美景市へと流されてきた。


 今はただ、刃引きのされたナイフを握りしめ、こうして無為に天井を見上げるだけの日々を送っている。



 築年数それなりの1DKの安アパートの薄汚れた天井。



 これが自分のキャンバスだ。



 何も描かれることのないまま時間だけが過ぎ、縮んで伸びて擦り切れて。真っ白なままでもいられず、黄ばみ黒ずみ所々には点々と返り血がついている。


 それらは色ではなくただの汚れだ。



 やはりこのまま何かが描かれることはこの先もないのだろう。


 今と変わらず、これまでと変わらず、これからも変わらず。



 ここで思考が詰まる。


 いつもと同じ考えに至り、いつも通りにこの先の答えがでない。



 それもそうだろう。


 未来に何かを見出すことが出来なければ、変わるはずがない。


 理屈は所詮いつも後付けだ。先に牽強付会こじつけけようとも現象には至らない。



 だからこの先には何も待ってはいない。



 希望も展望も絶望もなければ未来は描けず、未来がなければ自分に必要なものなど何も――




――違うわ。『約束』よ。




 思考が進む。


 今までよりも一歩進んで止まる。



 薄汚れたキャンバスに記憶が浮かび上がった。




――そうね。卒業っ。卒業の時にしましょ。


――知りたかったら、『約束』。守ってみせなさいよね。



(先に、ある、いつかの、未来……)



――だから、よろしくっ。



 記憶の中に記録された、自分へ向けて小指を差し出す少女の強気な瞳に魅入られる。


 途切れ途切れに浮かぶ単語が自分をどこかへと繋いでいくような錯覚を覚えた。



 しかしすぐに馬鹿馬鹿しいとかぶりを振る。



 果たされることのない『約束』。果たす気のない『約束』。


 恐らく彼女――希咲 七海きさき ななみもそのつもりだろう。


 先にそう答えを出したはずだ。



 それに――



 結局、自分の指と彼女の指が繋がれることはなかった。



 だから――



(――契約は不成立だ。約束など、して、いない……)



 心中で誰かにそう言い、テーブルへ手を伸ばし缶コーヒーを一口飲む。



 天井はもう視ていない。






 コーヒーのアルミ缶をテーブルに置いて代わりにスマホを拾い上げる。

 リモコンアプリを操作しテレビを起動させた。



 画面に映ったのはローカル局のニュースバラエティだ。


 多様な番組を作る予算がないらしく代わりに番組の形態だけを変えて多様なニュース番組ばかりをあらゆる時間帯で放映している。


 今流れているのはそのうちのバラエティ形態のものだ。



 本当は夕方にやっている普通のニュース番組を視聴したかったのだが、無駄に色々と時間をとられこんな時間になってしまったので、これで我慢するしかない。



 今は先日美景市内の小学校で大量の縦笛を盗んで検挙された男から薬物の反応が検出されたというニュースについて茶化しているようだ。


 耳障りな芸人のバカ笑いを背景に、長い一日だったと息を吐く。



 テレビへは意識を向けず、今日の自身の出来事を振り返る。




 始業前に部活の朝練があり。



 午前の授業を受け。



 昼休みに水無瀬に弁当を押し付けられ。



 午後の授業を消化して。



 放課後に委員会の仕事を熟して。



 成り行きで希咲と一緒に帰り。



 帰宅後にバイトを熟す。




 箇条書きにすればこんなところだろう。


 出来事と呼べるほどのものもないような一日で、普通の高校生の普通の一日の範疇に収まると謂えるだろう。



 あえてどこかを特筆するのであれば、放課後に出来事が集中していたように感じる。



 水無瀬 愛苗みなせ まなに絡まれ騒ぎが起き、希咲 七海きさき ななみが絡まれていた騒ぎに介入し、法廷院 擁護ほうていいん まもる率いる『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』に絡んで脅しつけ騒ぎを収める。



 ハイライトとしてフォーカスするのならばそのあたりだろうが、あの程度のことなら然程珍しくもない。これも普通のことであろう。



 普通の高校生として過ごす普通の一日がやけに長く感じられる。


 もしかしたら、そう感じることも普通のことなのかもしれない。



 平穏で安全でどうでもいいことばかりが起こる。或いは、どうでもいいということは実際は何も起こっていなく、故に平穏で安全。そう言い換えることも出来るかもしれない。



 どうでもよく意味がないから、起こった出来事には結末がなく、ただ時間だけが消費され、また同じような日が繰り返される。



 それが普通のことであり、普通の高校生である自分としてはそれでいいはずだ。



 なのに何故、それに空虚さを感じるのだろう。



 希望も展望も絶望もない日々ということなら、ここに来る前もここに来た後も、その点に於いては変わらないはずだ。



 それなのに以前はなかった空虚さを今ここに来てから感じるようになったのにはどんな原因があるのだろうかと考えれば、すぐに答えに行き着く。



 以前はあって、今はないもの。



 それは『敵』だ。



 希望も展望も絶望もなくとも、敵さえいれば日々はそれなりに充実する。



 ここに来てから世の中を知る為にニュースやSNSなどをたまに見るようになり、その結果それは自分だけでなく多くの人間がそうなのだと気が付いた。



 敵を見つけ、敵を作り、敵に為る。



 何の役にも立たない、誰にも必要とされない。


 だけど、時間だけは有能な者たちと同じだけ与えられている。


 だから、その自分で使いきれない、誰にも使われない無為な時間を敵対することで埋めるのだろう。



 なにか『悪』のようなものを見つけ出し仕立て上げ、それに立ち向かっているつもりの偽物のヒーロー。


 そうして無為を誤魔化し日々を過ごす。



 だが、当然無駄なことをしているのには代わりはないので、結局どんな結末にも辿り着くことなくどこかへ追いやられ、そしていずれ死ぬのだろう。



 それはまるで弥堂 優輝という人間そのものではないかと心中で嘲る。



 ならば、ここでも同様に何かに敵対をしてみようかと考えてみても、現在どこにも属していない自分には目的がない。目的がなければ利害がぶつからず敵対をすることが出来ない。


 自身で目的を見出そうにも、それを考えると先程のように薄汚れたキャンバスに行き止まる。



 では、世間に蔓延る彼らや彼女らのように、敵対する相手を選ばずに、取って付けた正義感で自身の怒りや不満に正当性を後付けすることが出来れば、それは可能になるのだろうか。


 それも難しい。



 そもそも自分は怒りが希薄だ。


 自分自身への不満なら多少はあるが、身の内で燻る燃え尽きぬ怨嗟が焼くのは己自身だけだ。他者へは向かわない。



 だから、やはり無為なままでいるしかない。



 無為なまま。



 在るがまま、無いがまま、時が流れるままにその時を待つ。




 だが、それが普通のことだ。



 目的と呼べるものではないかもしれないが、現在自分は普通の高校生に為るということをしている。



 それなら、これでいいはずだ。



 箇条で連ねれば十行にも満たないような一日を送り、それを繰り返していく。


 一つ一つの出来事には意味もなく理由もなく、だから結末がなく決着もつかない。


 それに関して自分がどこか他者よりも劣っている部分があるのならば、その意味のない箇条で済む出来事に過剰に感動することが出来ないことだろう。


 だから時間が長く感じる。



 意味のない理由のない出来事に一々疑ったり備えたりするから徒労になる。もっと今以上に見て見ぬフリをしてしまえばいいのだ。


 それが出来ないのは性分なのか性質なのか、或いは経験から造られた人格そのもののせいなのかもしれない。



 今日のことにしてもそうだ。



 一つ一つがくだらなく意味も理由もなく起こったようなどうでもいい出来事ばかりだ。


 しかし、不可解であやふやで、曖昧なまま決着のついていない疑問もいくつか残っている。



 生命を狙われていないかという問いに反応した水無瀬 愛苗の怪しい態度。


 人間という生物の上限値すら超えているような希咲 七海の戦闘能力。


 去り際に見せた、何かこちらが知り得ないことを含ませた法廷院 擁護の態度。



 ざっと並べてもこれだけある。



 以前の自分であれば彼らや彼女らをあのまま帰らせることなど決してしなかった。どんな手段を使ってでも徹底的に情報を絞り出したはずだ。


 それをしないのは、ここに来てからの約一年、以前と同じように疑い警戒し徹底した対処をしてみても、大した事件など何も起こらなかったからだ。


 自身の持つ常識では見過ごしていいはずのないことも、ここではそれを警戒する自分の方が異物になる。そして実際に徒労に終わる。



 だが、それが普通のことなのだ。



 今日のような小競り合いならいくらでもあれど、本格的に誰かと何かと敵対をしたり、誰かに何かに自分や周囲の者が生命を狙われたり、そんなことは起きない。事件などない。



 それが普通であり、自分は普通の高校生なので、それでいいはずだ。




 何かが起きた時には取り返しがつかないので、例え徒労に終わろうともどんな小さなことすら見逃さず疑い警戒し備える。



 どうせ何も起きず徒労になるので、一々小さなことに反応をせず、仮に何かが起きたのならその時に対応した方が効率がいい。



 どちらの考え方でも正解になる可能性があり、間違いになる可能性もある。結果が出るまでは正解などはっきりしない。どちらに転ぶかは最終的には運なのだろう。


 自分で考え、自分で決めたことなど現実の事象には何の影響も及ぼせない。少なくとも弥堂 優輝という存在にはそんな権限は与えられていない。許可をされていない。



 こういった思考すらが無駄なものなので、それならばいっそ自分にとって一番ストレスがないように振舞えばいいのではないかという考えに行き着く。



 しかし、そうするとどこまで出来るのかという問題が浮かび上がる。


 完全なストレスレスを目指すと警察や国家といった存在が邪魔になってくる。


 だが、特に目的もなく国中や世界中の人間と殺し合いをするくらいなら、自分一人を殺してしまった方が効率がいい。たった一回の殺害作業で決着が着く。



 しかし、弥堂は自分自身に自殺を許していない。死には慣れているので恐れはないが、そのような安易な幕引きは許されていないと考えている。



 では、他と衝突を起こさない範囲で自分のストレスを減らす方法を考える。衡り均して兼ね合わせる。


 じゃあ、自分のストレスになっているものは何かと考えたところで思考を止める。



 ハッと、再び鼻を鳴らす。



(よくも飽きもせず繰り返すものだ)



 他人事のように嘲る。


 これ以上考えたところでどうせ答えなど出ない。



 テレビから流れてくる話し声に意識が移る。


 話題が変わったようで、今度行われるサッカーの国際親善試合のメンバーが決まった件について何やら言い合っているようだ。

 メンバーの選考基準がどうとか、予想スタメンがどうだとか、いい大人が声を荒げて罵り合っている。



 フンと、今度はつまらなそうに鼻を鳴らす。



(結局何も変わりはしない)



 思考を中断したまま耳から聴こえてくる音からも意識を離し、ただ無感情に視線だけモニターに向けておく。



 カッカッカッと――時計の秒針が刻む音が脳内に響く。正確に一秒ずつ過ぎていく。


 この部屋に時計はない。


 脳内で行っている秒数のカウントが時計の針が動く音を幻聴させる。



 そのままの姿勢で、何もせずにただ時が過ぎる音を聴く。





 しばらくするとテレビから流れる音の調子が変わった。意識がそちらに戻る。


 どうやらCMへ移ったようだ。



 野卑な男の怒鳴り合う声が切られ、女児を装った女の甲高い声が響き耳を刺す。


 聞き覚えのある声だ。



 その声に紐づいた記憶が浮かび、そういえば忘れていたとスマホを引き寄せ一つのアイコンをタップする。



 数秒すると今しがたテレビから流れてきたのと同じ声のタイトルコールがスマホから響く。



――スマホ用アプリゲーム『魔法少女プリティメロディ☆ドキドキお~るすたぁ~ず』だ。



 頭の悪そうな一部のひらがな表記に毎回苛つかされるが、基本的に女児向けの作品なので仕方がないと自身を諫める。



 タイトル画面をタップしゲームを起動すると、すぐにログインボーナスの取得画面に変わる。


 常に複数種類のログインボーナスが開催されており、一つ取得すると次のログインボーナスの取得画面に移る。この作業を繰り返す。


 弥堂はグッと歯を噛み締めた。



(まとめてギフトボックスに放り込んどけばいいだろうが……! 何故毎回ホームに行くまでに十数回タップさせられねばならん……⁉)



 効率という宗教に囚われた弥堂は、「おかえりなさいお兄ちゃんっ☆」と言いながらにこやかな笑顔で手に持った宝石のような石をこちらに差し出してくる画面の中の少女を憎々し気に睨みつけた。



 カッカッカッと画面を小刻みに指で打つ。どうやら爪が少々伸びてきたようだ。



 弥堂が無駄連打をしているうちにCMの方も終わりを迎えるようだ。お決まりの台詞が聴こえてくる。



『世界を救うために魔法少女を集めよう! みんなの力をメイたちに貸して~!』



 チッと舌を打つ。



「魔女め……」



 思わず怨嗟が口から漏れ呟きとなる。



 プリメロシリーズの中の1作である魔法少女プリティメロディ☆フローラルスパーク、その主人公となる魔法少女の正体である愛花 芽衣。

 並居るプリメロシリーズの他作品ヒロインと比べても、頭一つ以上飛びぬけた戦闘能力を持つ歴代最強の魔法少女だ。



 しかし、弥堂はどうにもこの愛花 芽衣という女が気に食わなかった。



 間の抜けた調子で語尾を伸ばす喋り方も癪に障るし、高校生にもなって自分は魔法少女だなどと名乗り、フリフリヒラヒラとしたピンク色の衣装で街中を徘徊するイタイ女だ。そして出しゃばりな女でもある。



 ようやくホーム画面が表示されるとボイスが自動で再生される。



『わたしたち、卒業しちゃうんだね…………でもね、メイはこれからもずっとお兄ちゃんと一緒だよ……』



 画面に現れた、制服姿で胸に卒業証書を抱いた少女が潤んだ瞳で弥堂へと喋りかけてくる。



――【期間限定SSR】愛花 芽衣【卒業してもずっと……】だ。



「勝手に喋るな。誰が貴様の兄だ。馴れ馴れしいぞ」



 極端に物が少ない一人暮らし用の薄暗い部屋で、スマホの中の二次元の女の子にお返事をする男子高校生が居た。



 だがそれも無理はない。



 35万円だ。



 2週間程前まで開催されていた【期間限定!卒業ガチャ】の目玉である、この【SSR】愛花 芽衣【卒業してもずっと……】を入手する為に弥堂が投じた金額が35万円なのだ。



 ギリと歯を軋ませる。



 そもそも弥堂としては原作であるアニメシリーズのプリメロに興味はないし、こういった類のアプリゲームにもまったく関心がない。


 しかし弥堂が所属する部活動であるサバイバル部の廻夜部長に、部員として必修であるとしてアニメDVD全巻の視聴を義務付けられ、サバイバル部としての社会貢献活動の一環としてコンテンツを買い支える必要があるとこのゲームのプレイを命じられている。


 課金という形で魔法少女へ金を貢ぐことがどう社会貢献に繋がるのかは弥堂には皆目見当がつかなかったが、稀代の策士である廻夜部長には何か考えがあるのだろう。


 命令をされてしまっては末端の構成員である弥堂としては否やはない。粛々と実行するだけだ。



 だが、それでもやはり思う所はある。



 弥堂はホーム画面上でこれでもかと主張をしてくる派手なバナーをタップした。


 すると画面が切り替わり次に表示されたのは本日アップデートされたばかりの新しいガチャ画面だ。自動でサンプルボイスが再生される。



『今年も同じクラスになれたねお兄ちゃんっ。また一年間よろしくね!』



――【期間限定SSR】愛花 芽衣【胸騒ぎの新学期】だ。



 ゴンっと、テーブルに拳を落とす。



(貴様は先月卒業しただろうが……! なにが新学期だ、ふざけやがって……!)



 新しいガチャのネタにさえ出来れば、辻褄を合わせることなどどうでもいいとばかりの潔い運営会社の態度を軽蔑する。



 おまけに――



(魔法少女は数十名いるはずだ……なのに何故2週に1回こいつだけ新バージョンが追加される……⁉)



 しかもすべて期間限定だ。



 プリメロシリーズに詳しい廻夜部長の話では、どうもこの作品は愛花 芽衣の人気でどうにか存続しているらしい。恐らくそのあたりの事情が絡んでいるのだろうが、その度に数十万円使わされるのは堪らない。


 だが、サバイバル部の掟として、『天井は必定。推しは出るまで引け』と定められている。



 ならば自分に拒否権はない。やるしかないのだ。


 弥堂はこのゲームで一番金のかかる女をコンプすることを余儀なくされていた。



 ちなみにこのゲームのガチャでは200連まで回すとピックアップ対象のキャラをポイント交換で手に入れられるのだが、漢の中の漢である弥堂はゲーム内に用意されたお知らせやHELPなどは一切読まないので、本当に当たるまで金を注ぎ続けていた。


 彼は廻夜の言う『天井』というゲーム用語を知らないので、天井知らずに金を突っこめという意味で解釈していたのだ。



 弥堂は画面の中の『1回300ジュエル』と書かれたボタンを見て目を細める。



 このようないくらでも複製可能な電子データの絵に、しかも何が出てくるかわからないようなものに1回300円とは。


 弥堂は戦慄する。


 しかも前回は当たるまでに35万円を投じた。その金額ならちょっとは名の知れた画家の絵画作品を購入することも可能なはずだ。


(常軌を逸している……)


 桜の木の下で振り向きながらこちらに手を差し伸べてくる愛花 芽衣を睨みつける。


(大体こいつは何故プレイヤーを兄などと呼ぶ……?)



 識者である廻夜の話では、この作品は女児向けの作品だったはずだ。どういうことなのかまるで理解が出来ない。



 さらに最近はこの女が魔法少女の姿で出てきているところをとんと見ない。


 制服だの水着だの、他にわけのわからないコスプレ姿のイラストばかりが増えていく。



(お前は魔法少女だろうが……仕事をしろ!)



 画面内でこちらに笑いかける戦う気など欠片もない顏に怒りが湧く。



 廻夜の命令でアニメ作品を視聴した時もそうだったが、弥堂はとにかくこの愛花 芽衣という少女を認めることが出来ない。


 この女のことを考えると愚痴と不満ばかりが出てくるが、そんな彼女を推しているのには理由がある。



 喋り方が気に食わない。


 戦いに対する姿勢が気に食わない。


 敵に情けもかける。


 金がかかる。


 だが――



(――だが、強い……!)



 過日に視聴した『劇場版プリティメロディ☆お~るすたぁ~ず』を思い出す。



 全シリーズの魔法少女が集結し力を合わせて世界を救うというキャッチコピーだった。


 劇中で愛花 芽衣以外の他の魔法少女が敵に操られて襲ってくるというピンチに陥ったのだが、どうするのかと思ったら彼女一人で操られた数十名の魔法少女ごと全ての敵をなぎ倒すという暴挙に出た。


 結局そのまま力づくで決着をつけ、劇中に登場した味方の魔法少女たちを号泣させた。


 公開時に劇場へ見に行ったという廻夜の話では、劇場に応援に来ていた他の魔法少女のファンである小さなおともだちたちも号泣していたらしい。


 そんな逸話を持つ恐ろしい女だ。



 今回の新規カードにしてもそうだ。



 弥堂はガチャのサンプル画面の『キャラ詳細』ボタンを押す。



 そこに記載された今回の【期間限定SSR】愛花 芽衣【胸騒ぎの新学期】の驚愕の性能を見て顔を顰めた。



 まずはメインとなるスキル。


 属性無視、防御無視、素早さ無視の敵全体への先制強攻撃だ。


 おまけにアビリティでスキル発動前に自己強化バフ、敵の防御ダウンデバフが発動し、スキル使用後にはスキルゲージ上昇に大幅な補正がかかり、さらに与えたダメージの30%分自身の体力を回復する。


 弥堂の計算が正しければ、装備の組み合わせ次第でこのスキル攻撃を毎ターン使用することが可能になるはずだ。



(今回もか……)



 廻夜流に謂うのならば今回も紛うことなく『ぶっこわれ』だ。『もうこいつ一人でいいんじゃね?』というやつだ。



 毎度この女ばかり性能が飛びぬけているのは先ほどの大人の事情なのだろう。


 運営会社のその方針はわからなくもないが、しかし――



(今回も完凸までか……)



 アビリティをフルスペックで発揮させるためには同カードを全部で5枚重ねる必要がある。


 何故まったく同じ絵を何枚も入手しなければならないのかと、この手のゲームの風習に疑問を持ちつつ弥堂は単発ガチャを連打し始めた。



 そもそも文句があるのならそこまでやらなければいい話なのだが、効率という信仰に狂った弥堂としてはそうもいかない。



 今回のこのカードを所持しているのとしていないのでは、周回効率に大きな差が出る。


 ランキングなどの他人との勝ち負けはどうでもいいが、もっと効率が出せる手段があるのにそれをしないというのは我慢がならないのだ。



 この作品に興味はない。


 ゲームというものにも興味がない。


 実際プレイしていても何一つ楽しさなど感じない。


 だが、作業をするのならば最大効率を出さねば気が済まない。



 弥堂 優輝とはそういう男であった。




  ということで、特に他にお気に入りの魔法少女がいるわけでもない弥堂は、性能面を考慮した結果この愛花 芽衣を推さざるをえない状況に追い込まれていた。




 上司である廻夜の命でこのプリメロシリーズ全作品の視聴を終えている弥堂だが、なにもお気に入りのキャラクターが一人もいないわけではない。



 弥堂は敵キャラである『ヒボウ中将』というキャラには一定のリスペクトをもっていた。



 プリメロシリーズのほとんどの作品に登場する敵組織の幹部で、中将の位についていながらロクに部下を与えられていないので、毎回怪人一人を引き連れて戦場に身を投じるバリバリの現場派だ。




 弥堂から見れば彼の仕事ぶりは細かいことを指摘すればぬるいと感じる点は多々あるが、それでも己の役割を全うする為に敗北が約束されているような戦いに毎回あの手この手と工夫をして挑み続けるガッツには一目置いていた。



 彼が勝利したところを一度も見たことがないが、あともう少し手段を選ばずに非情に徹することが出来れば、違った結果になった戦場もあったように思える。




 自分ならばどうするか――




 弥堂は鋭い眼差しでガチャを回しながら、もしも魔法少女フローラルメロディこと愛花 芽衣と戦うことになった場合のシミュレーションをする。




(正面からの直接戦闘は駄目だ。奴の戦力は圧倒的だ)




 なにせ作中では戦闘機が発射したミサイルを素手で掴み握り潰していた。その際に発生した爆発でもかすり傷ひとつ負わない。



 そんな化け物と肉弾戦をするだけ無駄だ。



 ならば――




(ここはやはり精神的に追い詰めるべきか……)




 強大な戦闘能力を持っているとはいえ、中身はただの女学生だ。奴の弱点はメンタルだ。




 彼女のメンタルを破壊するための有効な手段を考える。




 ここはベタだが、友人関係から攻めていくのが有効だろう。



 彼女の友人たちにデマを流してやって人間関係を滅茶苦茶にしてやるべきだ。



 まずは交友関係を調べ上げ、愛花 芽衣の友人が放課後一人で下校している時にでもそっと忍び寄り耳元でこう囁いてやればいい。




『愛花 芽衣は共産主義者だ』と。




 だが待てよと、思いとどまる。




 相手はただの女子高生だ。そんなことを言ってもピンとこないかもしれない。TPOを弁える必要がある。ならばどのようなデマを流すのが有効だろうか。




 女子高生から貰った缶コーヒーを一口飲み、弥堂は思考を深める。




(そうだな……)




『愛花 芽衣は援助交際と不倫をしている』、『愛花 芽衣はバイトテロをしている』、『あの女はお前の男と寝ているぞ』、『愛花 芽衣は名誉男性でミソジニスト』、こんなところだろうか。



 最後のものはちょっと意味がよくわからないが、たまにSNSでこんなことを喚いている者がいる。そいつらは老若男女に漏れなく嫌われているようなので大体合っているだろう。




 こうしてデマを流して彼女を孤立させることが出来れば、人々の為に戦うというモチベーションを奪えるだろう。



 出来れば彼女のクラスメイト全員を買収して、彼女をシカトするように仕向けたい。




 廻夜部長が以前に言っていた。



『フルシカトはマジきつい』と。



 まるで自分が経験したことがあるかのように、消沈した重苦しい口ぶりだったように見えた気がしたが、彼はトレードマークである大きなサングラスをかけているせいで表情が読みづらい。恐らく気がしただけの気のせいだろう。



 しかし、彼ほどの男がこうまで恐れるのだ。有効な手段に違いないと弥堂は確信する。



 実行に移すには標的の周辺の人間に詳しい者が欲しい。奴の協力を得る必要がある。




 弥堂は真剣な表情で単発ガチャを回しながら、脳内で作品の考察を深め出来の悪い二次創作を展開していく。



 普段の弥堂であれば女児向けのアニメ作品に思いを馳せるなど無駄なことだと断じて決してしないことだが、今こうして魔法少女への造詣を深めているのは、なにも脳が疲弊しているからでも、ガチャ沼に心を壊されておかしくなっているからでもない。




 今考えているテーマは来週に部内で発表を求められている課題にも合致するからだ。



 同時に進められるのは効率がいいとほくそ笑む。




 その課題とはサバイバル部の本来の目的となる重要な活動だ。




 新学年になり部長である廻夜は言った。




 ここまでの活動で日常で起こり得る災害などに対する備えは出来た。そして今期からは現実に起こる可能性はかなり低いもっと荒唐無稽な状況への対策をする、と。




 その手始めとして週明けに会議(参加者二名)が行われることになっている。


 そしてその第一弾となるテーマが、『普通の高校生として平穏な日常を送っていた僕がある日突然魔法少女と出会った件』だ。



 題名の通りにもしも日常の中で魔法少女に出会ってしまった場合に、サバイバル部員として取るべき適切な対応とは何かということについて互いの意識を高め合っていくのだ。



 ちなみに第二弾のテーマは『普通の高校生として平穏な日常を送っていた僕がある日偶然宿泊したホテルが爆破された件』となる。




 そういった背景があり弥堂は部長の廻夜から参考資料として大量の魔法少女に関する本やDVDを渡され、全て目を通すことになったのだ。



 今居るこの部屋もつい先日までは大きな紙袋数袋分のそれらで溢れていたのだが、どうにか睡眠を放棄することで全てを消化し廻夜へと返却を済ませたばかりである。




 ということで、みんなのために戦う魔法少女を社会的に破滅させて孤独死に追い込むために必要な協力者について思考を戻そうとしたところで、スマホの操作を誤り戻るボタンをタップしてしまう。



 先ほどのガチャのサンプル画面に戻ってくると、ちょうどそこに例の協力者の姿が見えた。




 愛花 芽衣の肩の上に座る謎の小動物。



 何の動物の突然変異種なのかわからないが、眉間にアイスピックを突き刺したくなるような小憎たらしい顏をしている自称魔法少女のマスコット。



 シリーズ各作品に登場し、本人はあくまで偶然であると供述しているものの、第一話で必ずと言っていいほど敵を引き連れて逃走してきて、平穏に暮らす無関係な少女を巻き込むのだ。



 そしてそのままなし崩しに少女たちを戦場へと連れ込む死神のような奴だ。



 名を『ぽよ汰』といいファンたちの間では無能の中の無能と言われているらしいが、弥堂は少し違った見方をしていた。




 おそらく奴はスパイだ。




 でなければ、説明がつかないことが多い。




 この作品はもう20年近く続いている。それはそのまま奴のキャリアとなる。もうベテランだ。



 そんな経験豊富な雄が、毎回毎回人質にとられたり、魔法少女の変身アイテムを紛失したり、他にもあるがそういったつまらないミスを何度も繰り返し、味方である魔法少女を窮地に追いやるはずがない。



 仮に本当に無能なのだとしたら、そんな間抜けが戦場で長年生き残れるわけがないのだ。



 間違いなく奴はスパイだ。




 奴の協力を取り付けることが出来れば、愛花 芽衣の周辺の人間関係を切り崩していくことも容易になるであろうし、上手く手引きをさせれば自宅に盗聴器や隠しカメラを仕込むことも出来るかもしれない。



 さらに彼女の家族やペットを攫う場合には内通者がいればやはり都合がいい。



 日替わりでどこかの部位を切り落として自宅の庭にでも毎日投げ込んでやれば効率よくあの女を弱らせることが出来るだろう。




 なにせ飼い犬が脱走して数時間行方がわからなくなっただけで、もう戦えないと戦闘を拒否するような素人だ。確実に奴を戦闘不能に追い込めるだろう。




 それを放映したら炎上からの謝罪コンボ間違いなしな残虐ファイトのプランを立てる。そしてとりあえずここまででいだろうと一区切りする。



 これ以上の具体案は実際に遭遇してから決めるべきだ。決め過ぎては柔軟性が損なわれる。




 廻夜部長から求められた『もしも魔法少女と出会ったらどうするか』という課題。



 廻夜としては魔法少女の味方となる視点でどうするかとテーマを掲げたつもりだったのだが、弥堂は何故か自然と魔法少女と敵対する側の視点になっていた。



 恐らく正義の味方に敵対されるような後ろ暗い自覚が多分にあるのだろう。




 思考を打ち切った弥堂はガチャを再開しようとスマホに指を伸ばす。




 すると所持していたガチャを引くためのジュエルが無くなっていたことに気付く。




 チッと舌を打ち、スクールバッグの中からコンビニのロゴの入ったビニール袋を取り出しテーブルの上でひっくり返す。



 袋から零れ出てきたのは大量のプリペイドカードだ。




(なにが、みんなの力を貸せだ)




 みんなの力とは要は金だろう。小さな子供たちに金を要求してどうする。弥堂はこの作品の運営会社の正気を疑った。




 だが、待てよと思考を巡らせる。




 もしかしたら、子供の内に世の中は金だという真実を教えるための教育作品なのかもしれない。




 このゲームにしても、どう考えても子供にガチャを回して目当てのキャラを当てることは無理だ。



 だが中には、年齢を詐称してアカウントを偽造し、親のクレジットカード情報をちょろまかして登録して、そしてガチャを回すという手段を思いつく子供もいるかもしれない。



 目的を達するためにはあらゆる手段を講じる必要があるということを子供の時から学べる教育作品なのかもしれない。




 なるほどと、弥堂は一定の理解を示した。




『もう一回引く』のボタンを連打しながら、弥堂はコンビニ袋からプリペイドカードと一緒に購入しておいたEnergyエナジー Biteバイトを取り出す。



 弥堂が嗜食しているバランス栄養食で、本日の晩飯だ。




 今日も長丁場になりそうだとプリペイドカードの総額を確認しつつ、パッケージを開けブロック状の中身を齧る。




 だが、先程バイトの雇い主へ身内の盗撮写真を送り付け脅迫することによって10万円のボーナスの支給が約束された。資金は十分にある。



 さらに今後は希咲 七海を使って馬鹿どもから金を巻き上げることも出来るようになる。そのように彼女と取引をした。




 希咲から貰った缶コーヒーを一口飲む。




 先日大爆死をしたばかりだが、それらを見込めば今回も攻めていける。



 もとより退く道はない。




 極端に物の少ない薄暗い部屋の中で、死んだ目でブロック食品を齧りペタペタと一定間隔でスマホを触る男の姿を、すっかり放置されたノートPCのディスプレイの灯りがぼんやりと照らしていた。




 しばらく連打作業を続けているとメールが着信したことを知らせる通知がポップアップする。


 画面タップ一回分の動作が無駄になり弥堂は舌打ちをした。



 どうせまた所長からだろうと無視をすることにする。


 彼女からは時給は貰っていない。つまり時間拘束をされる謂れはないということだ。



 ちなみに新SSRはまだ一枚も出ていない。



 しかし表示された送信元の名前を見て目を細める。



 差出人不明の返信メール。



 弥堂はその通知をタップしてメールアプリを表示させる。



 Y’sからだ。



 そういえばもう一つ決着がつかないまま曖昧になっていた案件があったなと、そのままゲームを中断することにしてメール本文に目を通す。



 いつもの怪文書染みた暗号はなく、弥堂が送ったメールに対する返信メッセージが短く書かれているだけであった。



『どうでしたか?』



 眉を顰める。



 文章が長くても短くても何を言っているかわからないとはこいつは一体なんなんだ。


 そのように心中で相手を蔑みながら、一体自分の送ったどのメールに対しての返信なのかを確認する。



 すると、ちょうど今思い出した案件についてのものであった。


 昼休みに送られてきた『希咲 七海おぱんつ撮影事件』に関する重要な証拠となる画像について、これはなんなんだと問い合わせをしたメールへの返信だ。


 ちょうどいいと、相手をしてやることにする。



『質問に質問で返すなマヌケが。これは一体なんなんだ』


『あれ? もしかしてまだでした?』



 返事を送り返したら数秒で返事が返ってくる。しかしそれは弥堂の求めている答えではなかった。



『貴様俺をなめているのか。後悔するぞ。』


『あ! ひょっとしてこれからでした? それは失礼致しました。どうぞ私に構わず存分に致してください!』



 ただの一度も成立しない会話に弥堂は激しく苛つきながらも辛抱強くスマホを操作する。



『お前は一体何を言っている』


『え? なにってナニってゆーかー? これからティッシュタイムなんですよね?』


『どういう意味だ』


『やだー! 私に言わせたいんですか? セクハラですよー?』


『ふざけるな。なめてるのか』


『舐めてもいいんですかぁ⁉ きゃー! ぺろぺろぺろー!』



 歓喜を表現するような大量の絵文字とともにメールが送られてくる。


 相変わらず相手が何を言っているのかはわからない。しかし、おちょくられていることだけは弥堂にも理解ができた。



 ミシミシと異音が鳴る。



 知らずの内にスマホを掴む手に力がこもっていたようだ。うっかり握り潰してしまわないように弥堂はスマホをテーブルに置いて返信を打ち込む。



『もう一度聞く。お前は何のつもりであの写真を俺に送ってきた。これは最後通牒だ。次のお前の返事でこの質問に対するまともな答えがなければ俺はお前とお前の家族を地獄に落とす。これは脅しではない。』


『何のつもりって言われましても……使えるかなって?』


『だからこれは何に使うものなのかを聞いている』


『えー? そんなの夜のオカズに決まってるじゃないですかー!』


「…………」



 弥堂はここにきてようやく自分がセクハラを受けていることに気が付いた。



『お前は頭がおかしいのか』


『あれ? ダメでした? 好きなんですよね? 女の子のパンツ!』


「…………」



 一度スマホから目線を逸らして軽く深呼吸をしてから返信をする。



『どうしてそう思った』


『だってこないだ大量のJKのパンチラ画像確保して保存してたじゃないですか! 恥ずかしがらなくていいんですよ? 性癖なんですよね?』


『殺すぞ』



 謂れのないセクハラを受けて弥堂は大変に気分を害し、このような性犯罪を犯す者どもへの義憤を燃やし殺害を宣告した。



『えー⁉ でも希咲 七海ですよ⁉』


『希咲だからなんだというんだ』


『だってその子めっちゃかわいくないです? それにギャル好きですよね?』


「…………」



 弥堂は再度深呼吸をする。ただし先ほどよりも深く。



『どうしてそう思った』


『いつも放課後に校内に残ってるギャルたちを激しく言葉責めしてるじゃないですか! いいんですよ、恥ずかしがらないで。もっと自分を解放していきましょう!』


『殺すぞ』



 今日初めてこのY’sと業務連絡以外の会話をしたが、まさかこんなにチャランポランな奴だったとは。


 廻夜が用意した腕利きの情報屋だと思っていたが、この手のタイプは早めに処分をした方がいいかもしれない。


 何か一芸に飛び抜けた才能を持つ者の中には、頭の螺子が飛んでいる者も少なくない。

 弥堂の経験上、こういった者たちは必ず自己の欲求を制御できずに大きな失態をすることを知っていた。



『大丈夫ですって! 誰にも言いませんから! でも使ったら私にだけこっそり感想を教えてくださいね! どれくらい出たか、とか。次の参考にしますので!』


『言ってる意味がわからんが、お前の期待には沿えない。』


『あれ? もしかして本当に趣味じゃない感じです? 思いもよらず偶然に大物が撮れたものだから、JK・ギャル・パンチラのタグに合致するじゃん!ってテンション上がっちゃいました!』


『言ってる意味がわからんが、お前の期待には沿えない。』


『よかれと思ったんですが残念です……』



 悲哀の感情を表現するようにしょんぼりした顔文字が送られてくる。


 弥堂は疲労を感じながらその顔文字をスルーしようとするが、あることに引っ掛かりを覚える。



『待て。撮っただと。これはお前が撮影したのか』


『はい! 学園の警備ドローンの制御を乗っ取る練習をしてた時に偶然チャンスシーンに出くわしました! 褒めてください! このワンチャンをモノにする決定力の高さを!』



 なんということだと弥堂は額に手を当てる。



 警備部に裏切者が出たか、もしくは外部犯の仕業かと推測をしていたが、まさかサバイバル部の中に犯人がいたとは。



 まずいことになった。万が一これが外部に漏れたら部の進退に関わる。



『この写真を他に漏らしてないだろうな』


『ご安心を! 一点ものです! あなただけのパンツですよ!【UR】希咲 七海【Most Valuable Pantyモスト バリュアブル パンティー ver.Spring】って感じです!』


『そうか、命拾いしたな』


『ありがとうございます! 他にも好みの女がいたら言って下さいね! 名前だけ教えてくれればどんな写真でも盗撮してきますから! もう少ししたらプールもありますし。任せてください!』


『考えておこう。だから俺の指示があるまで二度とドローンを使うなよ。』


『命令っ! それは命令ですか⁉』


『そうだ』


『はいよろこんでー! 私はあなたのものです!』



 釘を刺したはずなのに何故か歓喜した相手を弥堂は訝しんだがとりあえずスルーをする。


 そして、やはりこいつは早期処分するべきだと、近いうちに部長である廻夜へ進言することを決めた。



 グッと右の拳を握る手に力が入る。少し伸びた爪が掌に食い込むのを感じた。



 これからするのは確認だ。



 もうほぼほぼ間違いないだろうし、弥堂としては非情に業腹で不本意で不名誉なことで、出来れば事実として確定させたくないのだが、仕事上そうもいかない。



 左手で慎重に右手の指を解き、返信文を打ち込む。



『確認だ。お前がこの写真を撮影し俺に送ってきたのは、これが何かの事件の証拠品だとか、何かの調査をするためだとか、そういった理由ではないのだな?』


『事件? なんのことです?』


『何かの危険を報せるものでもなく、他意は何もないと?』


『はい! 純粋に混じりっけなく、ただいいパンツが撮れたから悦んでもらおうと思っただけです!』




 天井へ顔を向け目を閉じ、フーっと長く息を吐く。




 何秒間かそのままの姿勢で何かを待ち、なんとなく自分がニュートラルな感じになったというタイミングで再びスマホを操作する。



『つまり?』


『今日も一日平和でした!』


「死ねっ‼‼」



 ドゴォっとテーブルに拳を叩き落す。



 間一髪のところで理性が働き、拳をスマホに叩きつけることはなかったが代わりにテーブルは真っ二つに折れ、ノートPCやら口を開けたままのバッグやら、飲みかけの缶コーヒーやらが全て床に散乱したが、そんなことは今はどうでもよかった。



 フーフーと沸き上がる怒りに息が乱れる。


 考えたくもないはずだが勝手に今日の昼休みからの記憶が浮かび上がる。



 希咲のあられもない画像を見て、事件性があると決めつけ。



 盗撮だの狙撃だのと見当違いな推理を展開し。



 現場検証をして騒ぎになり、無関係な水無瀬に生命を狙われてないかなどと聴取をし。



 希咲に盗撮だの変態だのと誹りを受けながらも、これは証拠品だと突っぱね。



 その挙句、結局事件など何も起こってはいなかった。



「ふざけやがって……」



 ギリギリと歯軋りをしながら顏を俯けると足元に転がったスマホが目に入る。


 その画面には何の偶然か、問題の希咲のおぱんつ画像が表示されていた。


 先ほど右拳をスマホ目掛けて振り落とした際に、ギリギリのところで左手で爆心地からどかしたのだが、その際に適当に画面を触ってしまって切り替わったのだろう。


 自分の理性を褒めてやりたい気持ちもあるが、それよりも犯した失態への恥が上回る。



 ガンっと半分になったテーブルの片方を蹴り飛ばす。


 何かテーブル以外にも破滅的な音を出した物があったような気がしたがそんなことは今は気にならない。



 弥堂は百年の宿敵に向けるような憎しみを瞳に宿し、スマホの中の無様におぱんつを晒した希咲を睨みつける。



 だが、それ以上に無様なのは自分自身だ。



(なんだこの体たらくは……)



 ここ数年感じたことのないような激しい怒りと屈辱に身を震わせる。



 八つ当たりだという自覚はある。


 しかし、胸の裡から溢れ出した激情の火勢がおさまらない。



(希咲 七海……なんなんだこいつは――)



 自業自得ではある。


 だが今日のことにケチが付き始めたのはこの女のパンツを見てからだ。



 希咲のパンツを見て、事件だなんだと振り回され。



 希咲のパンツを見せろと騒ぐ揉め事に巻き込まれ。



 希咲のパンツを見たからと、襲われ敗北まで喫し。



 希咲にパンツを見られたと延々と愚痴を聞かされ。



 希咲のパンツを見たせいで取り引きをする羽目に。



 思い返してみると、今日のくだらない全ての出来事が、この長かった一日の総てが、希咲のパンツによって齎され、希咲のパンツによって連なってきているような気がする。



(どういうことだ……あいつのおぱんつのことばっかりじゃねぇか……!)



 気がしただけなので勿論気のせいなのだが、今はそう考えて流すだけの余裕が弥堂からは失われていた。



(希咲 七海……っ! ふざけやがって……)



 ちょっとスカートを捲っただけで、自分をここまで追い込んだ。


 激しい屈辱を感じながらも、しかしその事実に戦慄をする。



「なんなんだあいつのおぱんつ――いや、パンツは……っ!」



 弥堂はサバイバル部の部長である廻夜に、妙齢の女性の下着については敬意をこめて『おぱんつ』と呼称するように命じられていた。


 しかし、事ここに至ってはもはや彼女の下着をリスペクトすることは到底出来ない。



(クソが。あいつのパンツは俺を馬鹿にしているのか……っ!)



 怒りの方向性が宇宙開発をしている自覚はあったので、これ以上は我を失わないようスマホの電源を切り適当に放る。



 少し気を静める必要があると立ち上がり浴室へ向かう。



 怒りのままに床に転がるものを踏みつぶしたりしないよう慎重に歩を進める。



 激しい憤りが胸を占めるものの、それと同等に自嘲もあった。




 不審な点が色々あれど結局事件などなかった。



 だが、それでいいはずだ。



 平和で平穏であることに苛立ちや怒りを感じる必要などないはずだ。




 普通の高校生の普通の日常に事件など起こらない。



 それでいいはずだ。



 壁に引っ掛けてあるハンガーに吊るされたバスタオルを乱暴に引っ掴みダイニングルームを出て扉を閉める。



 蛍光灯を点けていない部屋の中で光源となっている、床に転がり落ちたノートPCと点けっぱなしのTVが発する灯りの届かぬ闇に、空になったハンガーの落ちる音が鳴った。

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