序-終 『俺は普通の高校生なので、』
浴室を出てダイニングに戻る。
部屋に入ってすぐに、床の惨状が目に入り顔を顰める。
元々極端に物を置いていない部屋で、さらに電灯を点けていない為に夜になるととても暗い。
そんな部屋の中で、床に落ちたノートPCと点けっぱなしのTVによる僅かな灯りが照らした散乱状態の床は、より際立って酷い有様に映る。
しかし、自業自得だと、息を吐く。
いい年をして物に当たり散らすとは自分が情けない。
諦めて大人しく片付けることにする。
シャワーを浴びる為に脱いだ制服のスラックスとYシャツを適当に床に放り、とりあえず一番高価な物であるノートPCから拾い上げようと上体を折る。
首から提げた逆十字に赤黒いティアドロップの石が吊るされたネックレスの鎖が擦れ、チャリと音が鳴る。
持ち上げたノートPCの灯りが点いたままのディスプレイを覗くと、画面内を横方向にノイズのような線がいくつも走っており、何が映っているのかわからない状態になっていた。
「…………」
弥堂はその画面を数秒見つめ、とりあえずノートPCをブンブンと振ってみた。
それから画面をもう一度見てみるが、当然変化はない。
「…………」
もう数秒、同じように画面を見つめてから、今度はパンっと引っ叩いてみる。
ブツンっと画面がブラックアウトし、部屋の中の光量が減った。
チッと舌を打ち、雑にコード類とUSBメモリを引っこ抜くと部屋の隅へ歩いていき、床に直に置いた燃えるゴミの袋に壊れたノートPCを放り込む。
ガチャンと破滅的な音が鳴ったが弥堂は気にもせずに元の場所へ戻る。
続いてスマホを拾うと濡れた感触がする。
自分の手を見てみれば零れたコーヒーに浸かっていたようだ。
頭から被っていたバスタオルで雑にスマホを拭いて椅子の上に適当に放り投げておく。
続いて床の上の黒い水たまりにバスタオルを落すと、足で踏みつけてこれまた雑に拭き取る。
バスタオルをどかして、拭き取った後の濡れた床に先ほど脱ぎ捨てたYシャツを放り投げると、それもまた足で踏みつけて最悪な乾拭きを開始した。
清掃が終わり、用済みになったバスタオルとYシャツを先程ノートPCを捨てたゴミ袋に一緒くたに突っ込む。
この部屋の中で唯一の光源となったTVはまだニュースをやっている。
耳が勝手に音だけを拾って雑音に過ぎない余計な知識が増える。
最近美景市内で原因不明の器物の損壊が増えているそうだ。
今のところ人的な被害は確認されておらず、しかし市内で決して少なくない件数の被害報告が上がっているらしい。
最新のものだと、本日の夕方に新美景駅周辺で建物と道路に損壊があったそうだ。
「…………」
そのニュースを聞いて弥堂は一度だけTVへ視線を向け、そしてすぐに自分には関係ないと目を逸らす。
これ以上の情報の流入を拒否するようにTVの電源を切った。
することがなくなったので寝室へ向かう。
碌に拭いていない濡れた髪から水滴がポトリ、ポトリと落ちて床に跡を残す。
来週発表予定の部活の課題、『普通の高校生として平穏な日常を送っていた僕がある日突然魔法少女と出会った件』について、先ほど考え付いた内容をメモに残しておこうかと思っていたが、ノートPCが壊れてしまっては仕方がない。
そういうことにする。
だが本音は違う。
そんなことをしても、そんなことを考えても無駄だからだ。
自分は普通の高校生だ。
普通の高校生は魔法少女とは出会わない。
それが当たり前のことであり、それでいいはずだ。
寝室の引き戸を開ける。
部屋に足を踏み入れようとしたところで、何かを思いだしたように足を止める。
引き戸に手を掛けたまま数秒、弥堂という人間には珍しく逡巡する。
やがて、振り返りダイニングルームの中央へ戻る。
床に放り捨てた制服のスラックスを拾い上げ、バスタオルを捨てた為に空いたハンガーに掛けて壁に吊るす。
そのまますぐに寝室へ向かい、部屋に入ると間髪入れずに引き戸を閉めた。
ベッド脇に置いた紙袋に手を入れ、クリーニングから返ってきたビニールに包まれた衣類を取り出す。
下着とズボンを穿いて袋をその辺に適当に放り、窓に近づく。
カーテンは閉ざしたまま、窓を少しだけ開けて外の空気を入れる。
そしてベッド脇に座り込み壁に背を預けた。
春の夜はまだ少し冷たさを残しており、窓の外から流れてくる微量の風がふわりとカーテンを揺らす。
膨らんで離れた二枚の布の隙間から、部屋の暗闇に滲むように入り込む月明かりがゆらめいたように見えた。
膝を抱えて自問する。
(俺は、退屈でもしているのか……?)
日常生活の中であらゆるものを疑い、それで何も起きなければ苛立つ。
そんなのはまともな人間のすることではない。
自分がまともな人間だとは決して言えないが、それでも異常だと自覚がある。
時間が経つにつれ段々とこの苛立ちを制御できなくなっていっている。
もしかして、日常生活の中になにか刺激やスリルのようなものを望んでいるとでもいうのだろうか。
(まさか。ありえない)
以前にそれで、これもかというほどに痛い目にあっている。いくら自分が無能だといってもそこまで馬鹿ではない。
(どうかしてるぜ)
鼻を鳴らし自嘲する。
膝を立てて座ったままベッドの下に手を突っこんで床板をずらし、勝手に仕込んだ床下収納から隠していた物を引っ張り出す。
この部屋に入居する時に世話になった業者に、引っ越し祝いだと押し付けられた菓子が入っていたアルミ缶。
菓子を捨てて私物をしまうのに使っているその缶の蓋を開ける。
中に入っているのは、500mlのペットボトルよりは少し細長い黒い布の包み。それとその包みの上に置かれた二つの
チェーンを掴んでその二つの十字架を取り出す。
一つは、粗悪な屑鉄を二本交差させて形作っただけの血で錆びた十字架。
もう一つは、しっかり製鉄されたものに銀細工が施されている。しかし、所々に溶けて拉げ焼け焦げた跡がある。
そして破損したペンダントトップとは対照的に、どちらも数珠状のチェーンだけは精巧に造られた綺麗でモダンなものが使われていた。
膝の上に肘を掛け、それらを目線の高さに持ってくる。
「俺は上手くやれているはずだ……」
しかしその声にはどこか、誰かへと問いかけるような色が含まれていた。
一年間、高校生をやって。小さなトラブルはあれど、大きな事件はなく。官憲や非合法組織に追われるようなこともない。
「……順調なはずだ」
だが、それを肯定してくれる者は誰もいない。自分自身すらも。
平和であることに懐疑的で、平穏であることに居心地の悪さを感じる。
快適な部屋で文明に囲まれ、飢えも寒さもないどころか
しかし、その事実に焦燥感を覚えどうにも落ち着かない。
自分は異常者だ。
だけど、良くも悪くも慣れていく。
安寧に苛立ちが募っていく一方で、矛盾しているが以前よりも段々と気も抜けていっている。
以前よりもミスをするし見過ごしもする。
しかし、それでも自分は生きている。
だから、必要がないのだろう。
だが、それは普通のことであり、それが普通なのだ。
自分は普通の高校生であり、普通の高校生になる為に、普通の高校生をしている。
だからこれで問題はないし、順調なのだ。
何度も同じ言葉を胸中で重ねる。
自分自身に言い聞かせるように。
一瞬だけ窓から入る風が強まり、カーテンが大きく揺れる。瞬間的に部屋の明るさが増した。
膨らんでから萎んでいくカーテンの動きを茫洋と見上げ、その隙間から差し込む見えない月明りに手から提げた十字架を翳して透かして視る。
普通の高校生の普通の学園生活には事件は起こらない。
だからこれでいいはずだ。
「そうだよな……?」
月光を浴びる十字架に磔られた者は誰も居ない。光の向こうもっと遠くまで視線を向けてみても誰も居ない。
答えはない。
ベッドから毛布を引っ張り再び膝を抱えて適当に被る。
閉ざして増やした暗闇の中で目を閉じる。
きっとこれからも何も起きはしない。
どこかの路地裏で犬のように野垂れ死ぬのがお似合いだけれど。
毒のような安寧の中でゆっくりとくたばっていくのが相応しい。
通常起こり得ない荒唐無稽な非常事態などない。
無駄なことは考えるべきではないし、するべきでもない。
だから目を閉じる。
夢など視ない。
明日など来ない。
ただ今日が終わってくれさえすればいい。
終わらせることだけはいつでも出来るけど。
だけどそれは許されないから今日を続けていく。
夢の跡がいつまでも消えないように眠らずに目を閉じた。
自分は普通の高校生だから魔法少女とは出会わない。
そう思って夜が過ぎるのを待ったその翌日の放課後。
昨日も訪れた新美景駅周辺の立ち並んだ雑居ビルの隙間の路地裏の奥で、俺は茫然と上を見上げていた。
そんなわけがない、そんなはずはないと間抜けにも自失する。
周囲は桃色の欠片で彩られていた。
まるで昨日の朝の渡り廊下のように。
希咲と昨日の放課後に歩いた桜並木のように。
だが、今この空間に降り注ぐのは桜の花びらではなく桃色の光の粒子。
空から降りしきるように、或いは宙に漂うように、ペットボトルのキャップほどの大きさにも満たない無数の光の粒子が思い思いに存在し、否が応にも非現実さを感じさせる。
そんな幻想の只中で俺は立ち尽くしていた。
俺が見上げる先にあるのは、ビルとビルとに切り取られた四角い空ではなく、3階ほどの高さのビルとビルとの隙間の宙。
身を隠すことすらも思いつきもせずに、そこに居る者に目を釘付けにされていた。
その宙に居るのは、人。
人間の少女。
自然な色とは思えないピンク色の髪のツインテール。
戦闘を目的とするはずなのに、そのわりに露出の多い白とピンクを基調とした半袖のトップス。
白い手袋をした手に握られた子供のオモチャのような短いステッキ。
フリフリヒラヒラと動くのに邪魔になりそうな飾りの多い短いスカートと、その中から生える二本の足を包むニーソックス。
それが何もない宙に立っていた。
昨日の夜に、そんなことはあるはずがないと断じたばかりだというのに、これは一体何の冗談だと笑いたくなる。
こんなものは居るはずがない、はずだった。
じゃあ、こいつは一体なんなんだと考えてみても、俺の乏しい見識ではたった一つのものしか連想できない。
昨日途中で投げ出したゲームの登場人物のような出で立ちをしたそいつはまるで――
だがそんなことはありえないのだ。
昨日何度も自分に言い聞かせた。
なぜなら――
序章:俺は普通の高校生なので 終
1章:魔法少女とは出逢わない 始
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