1章53 『Water finds its worst level』 ⑧


 絶対零度の軽蔑の目がスマホの画面に映っている。



『ばかじゃねーの? しねよ』



 一切の配慮がない辛辣な言葉が返ってくる。



 それを発した希咲も、自身の口から出た言葉のあまりの汚さと声の低さにちょっとびっくりしたが、もはや取り繕う気にもならなかった。



「勘違いをするな」



 クラスメイトの女子に対して真っ向から『セクハラをさせて欲しい』と申し立てた男はそれでも落ち着き払ったままだ。


 セクハラをすると言われて不快に感じたのはお前の勘違いなのであると主張を始めた。


 希咲さんはそんな男を軽蔑の眼差しで見ている。



『…………』


「いいか? セクハラはセクハラでもお前が思っているようなセクハラではない」


『……はぁ』



 希咲の口から漏れるのは返事ではなくただの溜め息だ。ひたすらにこの男を見下していた。



「おい、真面目に聞け」


『聞きたくないんだけど?』


「必要なことだと言っているだろ。お前はセクハラをされると聞いてなにか性的なことを連想したのかもしれないが、それは誤解だ」


『はぁ?』



 希咲の眉が盛大に顰められる。



『どうせまたいみわかんないこと言ってゴマかそうとしてんでしょ?』


「違う。俺は大真面目だ」


『だから余計に問題なのよ』


「それよりも優先して解決すべき問題があるだろ」


『だからってそれ以外全部見過ごしていいわけでもないでしょ。大体性的じゃないセクハラってなんなのよ? 性的な嫌がらせのことをセクハラっていうんだから、セクハラの時点で性的じゃん』



 極めて真っ当な意見が返される。


 同意を得られたわけではないが、ようやく少しは話を聞く態勢になったようだと弥堂は判断した。



「いいか? 性的な嫌がらせとは言っても、俺にはお前に対する性的な興味はないし、嫌がらせをするつもりもない。要はセクハラをしているフリだ」


『でもセクハラするんでしょ?』


「当然だ。フリとはいえセクハラはする。セクハラをしないとセクハラをしたフリにならないからな。だが、そこには性的な欲求もないし嫌がらせをする悪意もない。だから大丈夫だ。それはわかるな?」


『わかるわけねーだろ。しね』



 弥堂は論理的に『セクハラをするがしかしそれはセクハラではない理由』を説明したが、女性である希咲の理解は得られなかった。


 それどころか彼女はますます表情を険しくする。



「何故わからない」


『わかるヤツがいるわけねーだろ。つか、それ余計シツレーだって言ったじゃん! 興味も目的もないくせにセクハラはするとかバカにし過ぎでしょ!』


「それは違う。目的はある」


『えっちなことしたいだけでしょ!』


「違う。セクハラはあくまで手段だ」


『セクハラして何の目的が叶うっつーのよ!』


「他の連中の記憶を取り戻す」


『…………』



 弥堂の口から出た思いも寄らない言葉に希咲は押し黙る。


 まさかそんな手段があったとはと彼女が衝撃を受けるのも無理はないと、そう考えた弥堂は彼女へ再度詳しい説明を試みる。


 当然、希咲さんは『なに言ってんだこいつ』という強い軽蔑から言葉を失っていた。



「いいか? セクハラをすると元に戻るようなんだ。だからその為にセクハラをするのであって、決して性的な目的の為にセクハラをするわけではない。あくまでセクハラをしているフリ。セクハラではあるが実際はセクハラではない。謂わば、セクシャルハラスメントの偽装。つまり偽SHだ」


『は? えすえいち……? スーパーハード……? え? なんて?』


「なんでもない。忘れろ」


『言われなくても早く忘れたいわよ』


「ともかく、そういうことだ。これでお前にも理解できたな?」


『はぁ……』



 希咲の口からは再度重い溜め息。



「おい、わかったのか? わかったのなら返事をして内容を復唱しろ」


『……あんたふざけてんでしょ?』


「そんなわけがない。大真面目だと言っただろうが」


『そうよね……。そうなのよね……、はぁ……』



 冗談だと言って欲しかったと謂わんばかりにもう一度溜め息を吐く。そしてジト目で弥堂を見遣った。



『じゃあ、まとめるわね?』


「あぁ」


『えっと、あんたはあたしにセクハラがしたいんだけど、それはセクハラしてるフリのセクハラだからホントのセクハラにはなんなくて。なんでセクハラするかっていうと、セクハラをするとみんなの記憶が戻るからで。そこにセクハラしたいって気持ちがないから、これはえっちなセクハラじゃないから大丈夫だと。そういうことね?』


「……うん? まぁ、大体そんな感じだ」


『そ』



 短く返事をして希咲はニッコリとパーフェクトな笑顔を造り、そして一瞬でゴミを見る目に表情を変える。



『しね』



 自分の口から出た極寒の低音ボイスにびっくりすることは今回はなかった。


 こういう男がいるせいで、酷い目に遭うか弱い女子がいなくならないのだと、そういった軽蔑と非難の気持ちが強く湧き上がった。



「まだわかんねえのかよ」


『…………』



 まるでこちらの理解力が足りないせいだと、そんな思い違いをして勝手にイラだっているクズ男へ、自分が出来る最大限の侮蔑の目を喰らわす。



『はぁ……』



 もうこんな男とは喋りたくなかったが、抑えきれない溜め息が漏れてしまったので、仕方ないからそのまま続ける。



『……なんてゆーか、ほんとサイテー。あんたにはマジがっかりよ……』


「あ? どういう意味だ」


『あたしもうわかっちゃった。薄々そうだろなーって思ってたけど、もうカンペキにわかっちゃった』


「ん? わかったのか? じゃあさっさと――」


『――セクハラオッケーって意味じゃないから。そっちは全っ然わかんない』


「じゃあ、なんだ」



 理解しがたいと眉を顰める男に、何故自分がそんな目で見られなければならないのかと憤る。



『あのさ? こないだもさ? あんたにサイテーなことばっかされたし、いっぱいえっちなこと言われたりしたけどさ。おバカなだけでわざとじゃないんだろうなーって、そう思って許してあげてたのよ』


「……?」


『でも、違ったのね。よくよく考えればそんなわけないんだけど、なんとなくえっちなこと考えてる感じしなかったから。でもあたしが甘かったわ』


「お前なにが言いたいんだ?」



 言われている意味がわからずに弥堂が真意を問うと、希咲からジロリと睨まれる。



『あんたさ。結局やっぱりえっちなことしたいだけでしょ。なによ? セクハラするけどセクハラじゃないって。そんなのに騙されるかボケっ! セクハラしたらその時点でもうセクハラだっつーの! いい加減にしなさいよ!』


「いい加減にするのはお前の方だ。いつまでも我儘を言って駄々をこねるな。そもそも水無瀬をどうにかしろと頼んだのはお前の方だろうが」


『女の子がセクハラされたくないって言うのがなんでワガママになんのよ! てゆーか、そもそもこっちだってね! セクハラしたらみんな思い出すとか意味わかんないのよ! そんなわけないでしょ! なに考えて生きてたらそんなこと思いついちゃうわけ⁉ 頭おかしすぎっ!』


「あぁ、少し語弊があったな。思い出すとは言ったが、正確には記憶が戻るわけではなく、実際の事実に基づいた記憶を正しく認知出来るように戻るという意味だ。俺の説明ミスだ。だが、これで誤解は解けただろう?」


『そこじゃねーよ! あんたがあたしにセクハラして、それでなんで他の人たちの記憶だか認知だかがどうにかなるのかって、そこを言ってんの! そんなことありえるか!』


「なるほど、そこからか」


『「から」じゃねーんだわ。ここが一番の大問題なのはそうだけど、セクハラから繋がっていく未来なんてどこにもないから』



 怒り心頭の様子の希咲に若干面倒さを感じながら弥堂は根気強く説明を続ける。その際に思わず漏れた薄い溜め息に、希咲の額にさらに怒りマークが増えた。



「なにも俺の思い付きでセクハラを要求しているわけではない。既に実際にそれを事象として確認しているんだ」


『はぁ?』


「だから、セクハラによってあいつらの記憶が戻ったところをさっき見たと言っているんだ」


『…………』



 希咲は言葉を失う。


 彼女自身これまでに不可思議なこと、理不尽なこと――そういった様々な困難な事態に見舞われてきて、それを乗り越えてきた。


 そんな事態の解決に一緒に臨んだ幼馴染たちやその他の人物たちにも大分頭のおかしい連中は居た。



 しかしだ。



 しかし、ここまで頑なにセクハラによって困難に立ち向かおうなどと考える人間は流石に見たことがなかった。


 本気でそんなことを考えているのなら頭がおかしすぎるし、セクハラをするためにそんな嘘を吐いているのならやはり頭のおかしい変態なので、筆舌に尽くし難いほどの失望感から絶句してしまう。



 こんなにもバカで変態な人間について、昨夜あれだけ大真面目に望莱みらいと議論を交わしていた自分を憐れみ、非常に恥ずかしい気持ちになってしまった。



 そんな希咲の様子を、ようやく耳を傾ける気になったと判断した弥堂は彼女を置き去りに話を進める。


 不思議な現象などなくても、今日も二人の認知はバッチリ合わない。



「俺が登校してきた時、誰も水無瀬のことを気にかけていなかった。存在を認識していないわけではない。物凄く目立たなくて誰も特別気に掛けない存在。そんな風になっていた。そうだな……、空井さんや昏尹くらいさん――彼女たちのようだと言えばわかりやすいか?」


「「――えっ……?」」


『は?』



 クラスどころか学園内でも目立っている派手な女子と悪目立ちをしている危ない男子との会話の中で、突然自分たちの名前が上がったことで、全く目立たない女子二人はギョッと目を剥いた。



「別に彼女たちは虐めを受けているわけでもないし、誰も彼女たちを嫌っていない。だが、普段特に誰も彼女たちに積極的に話しかけることもないし、注目することもないだろう? そんな感じだった」


「「…………」」


『ちょ、ちょっと……! こらっ! あんた今どこで喋ってるのよ⁉』



 弥堂に好き放題言われている二人は怒りを感じるでもなく、下を向いてプルプルと震えている。どうか自分に関心を向けないで下さいと願いながらやり過ごそうとしているのだ。



「どこと言われても自分の席だが?」


『となりっ! 二人とも隣に居るでしょ⁉ なんでそんなヒドイこと言うのよ⁉』


「酷い……? 俺は事実を言っただけだが、なにか不味いのか?」


『マズイに決まってるでしょ! 大人しい子にそんなこと言うんじゃないわよ! あの子たち何も悪いことしてないのにカワイソウでしょ! 謝んなさいよ!』


「ふむ、そういうものか。わかった。おい、空井さんに昏尹さん。ちょっといいか――」


『――あっ! やっぱ待って! あたしが謝るからあんたは話しかけちゃダメっ』



 言ってからマズイと気付いた希咲が止めようとするが一足遅かった。



 弥堂は感情の灯らない冷たい瞳で下を向く彼女たちの頭部を見下ろす。



「二人ともすまない。誤解のないように言っておくが、俺はなにもキミたちへの誹謗をしたくてこのようなことを言ったわけではない。キミたちは善良な生徒だ。俺にキミたちへの悪意はない。他の者たちもそうだろう。悪意も攻撃意思もない。だが同時に関心もないからキミたちに用もない。限りなくプラマイゼロだ。だから興味を向けることもない。そういったことが言いたかったんだ」


『コココ、コラァーーーっ!』



 謝ると言いながらさらに追い打ちをかける弥堂を希咲は慌てて大声で制止した。



「なんだよ、うるせえな」


『あんた人の心とかないわけ⁉』


「なんのことだ? お前が謝れと言ったんだろうが」


『あれのどこが謝ってんのよ⁉ バカじゃないの! てゆーか、ああいう子たちはあんたみたいのに話しかけられるだけで恐がっちゃうのよ! 話しかけるの禁止っ!』


「じゃあどうしろってんだ」


『あたしが代わりに謝ったげるからスマホ見せてあげて』


「わかった。おい、二人ともこれを見ろ」


『言い方っ! 少しは気を遣いなさいよ!』



 弥堂の命令口調にビクっと肩を跳ねさせた空井さんと昏尹さんは反射的に従ってしまい、机に向けていた目を弥堂の持つスマホへと動かして画面に映る希咲の顔を見た。



『そ、空井さん、昏尹さんっ。二人ともゴメ――』


「「――ヒッ⁉」」


『――えっ?』



 目が合った瞬間に二人揃って悲鳴をあげられたことで希咲は思わず謝罪の言葉を止めてしまう。


 内心の大きな動揺を隠しながら希咲は釈明を続けた。



『あ、あの、二人とも……? ごめんなさい。このバカがヒドイこと言って……』


「い、いえ……、そんな……ごめんなさい……っ」

「だ、だいじょうぶ、です……、ごめんなさい……っ」


『なんで謝るのぉっ⁉』


「「――ヒッ⁉」」


『――あっ⁉ ち、ちがうのっ。今のは怒ったわけじゃなくって……』



 希咲が声を荒げたことでわかりやすく怯えを見せた二人に慌てて言い繕う。


『あ、あれ……? なんかおかしくない……?』と疑問を感じながらも、とりあえず言うべきことは言わねばと先を続ける。



『こ、こいつが言ったことだけど、そんなことないからね? そんなのこいつだけで、あたしも他の子たちもそんなこと全然思ってないからっ』


「い、いえ……、そんな……ごめんなさい……っ」

「だ、だいじょうぶ、です……、ごめんなさい……っ」


『…………』



 先程と同じような叫びをあげそうになってギリギリで呑み込む。


 これってもしかしなくても自分も怯えられてるのではと、そんな気がしたが、しかしそんなはずはないので尚も彼女たちへのフォローを試みる。



『え、えっと……、あ、そうだ! 二人のこと気に掛けてないとかこいつのウソだから! あたしね、いつもこのバカとか蛮の隣になっちゃってカワイソーって思ってて、早く席替えしたげてって考えてたの! 旅行から帰ったら先生に言ったげるね?』


「い、いえ……、そんな……ごめんなさい……っ」

「だ、だいじょうぶ、です……、ごめんなさい……っ」


『なんでぇっ⁉』


「おい、そこまでだ。二人が怯えているだろう。もうやめろ」


『なんであたしがイジメてるみたいになんのぉ⁉』


「二人とも悪かったな。こいつはあっちにやるからもう見なくていいぞ」



 希咲が映ったスマホを彼女たちから見えないようにしてやると、二人は再び机の天板を見つめてプルプルとした。



 彼女たちからしてみると、風紀委員とはいえ頭がおかしいとの評判で悪目立ちしている弥堂は、もちろん不良となにも変わらないので恐いと思っている。


 そして、キラキラと目立った女子である希咲も、そのギャルギャルした見た目からカワイイけど恐い不良の人という風に認知しているので、やっぱり同様に恐怖の対象なのだ。




『……絶対あんたのせいなんだから……』


「なんでだよ」



 何故に自分がこんな仕打ちをと、そんな恨みがましい目を希咲に向けられるが、それについては本当に覚えがないので弥堂は呆れた眼で彼女を見返した。



『……内気で大人しい子たちって思ってたけど、思ってた以上だったわ。普段接する時もっと気遣ってあげないと……』


「彼女たちのことは関係ない。ただ例にあげただけだ。それよりも、水無瀬も同じようになっているという話だ。そこで俺は――」


『――え? あんたなにフツーに進めようとしてんの? あたし今結構フツーに傷ついたんだけど?』


「そうか。それは心が痛むな。そこで俺は、一体どこまで周囲が無関心でいるかを試してみたんだ」


『……あんたマジきらい』



 たとえ目の前に傷ついている女の子がいようとも、話を聞いてあげようなどとは思いつきもしない。あくまで自分のしたいことしかしない。


 そんな自分勝手な男にジト目を向けるが、このクズに期待してもしょうがないと見切りをつけて、希咲は話を聞いてやることにした。



 始まりとしては『セクハラをさせろ』というおおよそ人類とは思えないような頭のおかしい要求をされたことに怒っていたことだった。


 しかしそれはわけのわからない内に有耶無耶にされ、いつの間にか相手のペースに付き合うことになってしまう。おまけに今日は同じクラスの女子に恐がられてしまうなんて目にも合わされた。



 今日も七海ちゃんは不憫だったが、なんだかんだ流されやすい彼女にも原因はあるのかもしれない。

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