1章20 『腹ノ中ノ汚イモノ』

 路地裏を駆ける。



 耳元で鳴り響く水無瀬とメロの叫び声を意識から除外し、背後から近づく獣の足音に注意を払う。



「――うおぉぉぉっ⁉ おい! なにやってんだこのゴミクズ! 落ち着けっ!」



 ゴミクズーと呼ばれる大型犬くらいの大きさの化けネズミ。


 そのネズミに跨った悪の幹部が何故か焦ったような声をあげているが、今はそれはどうでもいいだろう。




(さて、大分走ってきたわけだが――)



 そろそろ現在の状況をどう終わらせるかを具体的に決める必要がある。



 ここまで弥堂は逃げ、ゴミクズーが追う。


 その中で速度においてはやはりゴミクズーに優位性があることがはっきりとした。



 彼我の距離は着実に縮まっており、このままずっと駆けっこを続けるのであれば、追い付かれて食い殺されるのは時間の問題だ。



 だが、弥堂にそのことに対する焦りはない。


 何故なら――



(――もうすぐ住宅街か)



 このままの進路をとっていれば住宅の多い区画に出る。



 もしも自分たちだけが生き残ることだけを考えた場合、住宅街まで逃げきってしまいさえすれば、適当に目に入った通行人を背後の化け物への生贄にしてしまえばいい。


 見知らぬ誰かが喰われている間に余裕で逃げ切れる。



 だが、明日からのことを考慮すると、化け物と死体が衆目に晒され大きな騒ぎになれば都合が悪くなる。


 下手をすれば駅前の路地裏一帯を閉鎖などということになり、自分の本来の仕事がやりづらくなる。



 ならば――



 チラリと水無瀬の股の間にぶら下がる小型の化け物を視る。



 住宅街に着く前に引き離せば、事が公になる確率はグンと下がる。


 このネコ擬きを喰わせている間に逃げるプランもあるが、その場合は賠償金がネックとなる。



 他人のペットを死なせた際の賠償金の額を決める基準を弥堂は寡聞にして知らない。


 仮に残りの寿命で換算する場合、もしもネコ妖精とやらが数100年生きるタイプの化け物だったらとんでもない金額を請求されることになる。



(それならいっそ――)



 ネコが必死にしがみついているケツに視線を移す。



 飼い主ごと化け物の餌にしてしまえば生き残りはいなくなる。目撃者も証人もゼロだ。



 だが、それなら最初から彼女たちを置いてくればよかっただけの話なのだが、何故そうしなかったのかといえば、不思議と自然に体が動いてしまいどうしてか助けてしまった――などということでは当然ない。



 水無瀬だろうと、ネコ妖精だろうと、見知らぬ一般人だろうと。



 ただ逃げ延びるだけでいいのならその内のどれを犠牲にしても一緒なのだが、その後のことも考えるとそうもいかない。



 おそらくあのネズミはここらの路地裏に棲みついていたモノで、そして今後も棲みつくモノだ。



 そして弥堂は今日を落ち延びたとしても、月曜日からの『放課後の道草はダメだよキャンペーン!』のために、またここに戻ってこなければならない。


 巨大ネズミの化け物がいたから仕事が出来ませんなどという理屈は許されない。


 であるならば、あのゴミクズーとかいう化け物は始末をする必要がある。


 そしてその為には――



 チラリと左肩の上のケツに意識を向ける。



「――ひゃんっ⁉」



 その為には魔法少女の力が必要となる。



 この場を生き延びても明日からここで仕事をする駒になれないのであれば、弥堂という生命には価値がない。それは死んでいることと何も変わらない。


 だからあのネズミを殺せないのならば生き残る必要がないということになる。



 つまり、この戦闘の勝利条件はここでゴミクズーを殺しきることによってのみ満たされる。



「――おい! コラっ! このドスケベやろーッス!」


「ん? なんだ?」



 思考が纏まったところでネコ妖精に怒鳴られていることに弥堂は気付く。



「なんだ? じゃねーッスよ! この非常時になにやってんスか⁉」


 メロにペシペシっと手を叩かれて、「なんのことだ?」と視線を遣れば、自身の手が肩に担いだ水無瀬の尻を撫でていることに気付く。



「あぁ。悪いな」


「あぅぅぅ……」

「スケベにもTPOが必要じゃろがいッス! どんだけ性欲強いんスか!」


「誤解だ。俺はただ、このケツをどう使ってやろうかと考えていただけだ。それで無意識に手で触れてしまったのだろうな。他意はない」


「他意しかねーッス! 性欲の化け物ッス!」


「うるさい黙れ」



 頭の中でこの辺りの地図を開き角を曲がる。取り壊し中の廃ビル群の地帯へと進路をとった。



「おい、水無瀬。確認だ」

「え?」



 プランが決まった以上無駄口を叩いている暇はない。弥堂は役立たずどもの訴えを無視して、必要な確認作業に入る。



「あのゴミクズーは魔法でしか倒せない。真実か?」

「あ、うん。多分そうだと思う」


「そうか。お前、今のままでは魔法は使えないのか?」

「う、うん……、ごめんね……」


「そうか。では魔法少女に変身する必要がある。そうだな?」

「うん」


「その為にはあのペンダントが必要だと?」

「うん! そうなの!」


「そしてペンダントは化け物の腹の中」

「あぅ」



 結論を共有する。



「つまり、あれを奪い返さない限り何もできないと」


「あぁぁぁあぁっ! なんてこったーッス! 魔法を使うためのペンダントを取り返すための魔法を使うためのペンダントがないッスーーっ!」


「ご、ごめんなさーーーいっ!」



 今頃になって慌てふためく無能どもの叫びを冷えた眼で流す。



「もうダメッス! もう終わりッス! このままジブンら捕まってエライことされるんっす! 薄い本みたいに! 窮猫、鼠に孕まされるッス!」


「おい、ぽんこつコンビ」


「誰がぽんこつじゃー、ボケーッス!」



 喰ってかかるネコを睨みつけて黙らせる。



「お前らの目的はなんだ?」


「へ?」

「は?」


「この状況からヤツを倒した上で生き延びたいか?」


「えと……それは、うん。もちろんっ」


「奇遇だな。実は俺もそう考えていたところなんだ」


「……オマエ、なんでそんなに落ち着いてんスか?」


「ではお前らに提案だ。俺と協力しないか?」


「きょう……?」

「……りょく?」



 揃って疑問の声をあげるコンビへ概要を伝える。



「なに、難しい話じゃない。役割をわけよう。俺がペンダントを取り返す。お前らはその後にヤツを仕留める。シンプルだろう?」


「えっ、でも……っ」

「取り返すったってどうやって……」


「それはお前らが気にすることじゃない。俺が奪還に成功すればお前らはいつも通りにゴミクズを始末すればいいし、俺が失敗したらお前らは逃げればいい」


「弥堂くん、もしかして危ないことするの……?」

「早まっちゃダメッスよ少年っ!」


「なんだ。心配なのか? 失敗しても俺が死ぬだけだし、最悪の場合でもお前らも含めて全員死ぬだけだ。大した問題じゃないだろう?」


「そんな……っ⁉ ちがうよ! 私が心配なのは――」

「こ、こいつ、頭おかしいッス……」



 足手纏いどもの聞き分けが悪いので言葉を強めていく。



「お前らが何を言おうと俺はやると決めたら必ずやる。協力する気がないのなら好きにしろ。だが、その場合。ゴミクズーが魔法でしか殺せないのなら、無事にペンダントを取り返せたとしても俺は殺されるだろうな。それが嫌なら黙って俺の言うとおりにしろ」


「そ、それは……、でも……っ!」

「イ、イカレてるッス……、なんつー脅し方するんスか」


「うるさい黙れ。『魔法』などという特別な『加護ライセンス』を能えられながら、それを全く効果的に使えない無能どもが」


「はぅぁっ⁉」

「こっ、このやろー! 事実でも言っちゃいけないことってあるんスよ!」


「現時刻を以てお前らは俺の指揮下に入る。やれと言われたことをやり、言われてないことは何もしない。ただそれだけの馬鹿でも出来ることだ」


「え? えと、よくわかんないけど、私がんばるねっ」

「おぉ……、さっき協力って言ってたのに手下になれに変わったッスよ!」


「うるさい。いいか、役立たずども。俺がお前らを有効的に使ってやる。つべこべ言わずに俺の命令を聞け」


「はっ、はひっ! ききまひゅっ! なんでもゆうことききまひゅっ! いっしょうけんめいしめつけてこしこしこしゅりまひゅ……っ!」

「わっ⁉ ど、どうしたのメロちゃん⁉」



 何故かネコ妖精が急に興奮しだしたが、ろくでもないことの気配を感じて弥堂は無視をした。



「お前らにする命令は一つずつだ。まずは水無瀬」


「は、はいっ!」


「俺がいいと言うまで絶対に出てくるな。それまでは絶対に何もするな。いいな?」


「え? えと……、どういうこと……?」


「そのままの意味だ。俺がペンダントを奪還してお前を呼ぶまで絶対に何もするなと言っている。『はい』か『YES』で答えろ」


「は、はい! わかったけど、でも弥堂くん、危ないことはしないでね……?」


「俺のことより自分の身の安全に気を付けるんだな」


「え?」



 いまいち理解していない様子の水無瀬だが、それも無視して周囲の風景と脳内の地図を照らし合わせる。


 塀に囲まれた敷地が多くなってきていて、あまり高さのない建物や取り壊し中の建物が増えた。


 ここら辺にあるのは街の再建の時に最初に建てられた仮設拠点のようなものが多く、今では誰も使う者がいなくなり、再開発予定のまま放置されている地帯だ。


 そしてここが予定していた交戦ポイントとなる。



「おい、クソネコ。次はお前だ」


「はひっ! うみまひゅっ!」


「ラリってんじゃねーよ」


「あいてッス⁉」



 酷く興奮状態になる獣の鼻先を指で弾いて正気に戻す。



「おい、お前はマスコットだったな?」


「え? そうッスよ! マナをお助けするキュートなネコ妖精ッス!」


「そうか。じゃあ水無瀬を守りたいか?」


「もちッス! もちもちッスよ!」


「そうか。ではお前に命令だ――」



 ガッと強く水無瀬の服を掴む。



「――上手くキャッチしろよ」


「――へ?」



 体勢を大きく変え急ブレーキをかけながら振りかぶり、塀の向こうへと水無瀬をぶん投げる。



「――ひゃああぁぁぁぁぁぁぁぁっ⁉」

「――ぎやぁぁぁぁぁぁぁぁぁッス⁉」



 ブオンっと宙に浮かび上がって塀の反対側に落ちていく水無瀬を尻目に、靴底を路面に摩擦させながら身体を反転させそのまま半身になる。



「きゃぁぁーーーーーっ!」

「マっ、マナぁーーーっ!」



 ネコ妖精がきちんと仕事をすればそう酷いことにはならないだろう。なったとしたらそれはネコのせいであり自分は悪くはないと弥堂は考え、完全に彼女らは意識から切り離す。


 そして、正面から迫る敵に集中する。



「お、おいっ! オマエなにやってんだ⁉ 危ねぇぞ! そこどけ!」



 ネズミに跨った悪の幹部が何かを言っているが無視する。


 当面の脅威は化けネズミだ。ヤツを血祭りに上げるのはその後になる。



 ドッドッドッ――と頭の中で響く音に神経を溶け込ませながら脅威の姿を視線で捉えて視る。


 血に飢えた獣に相応しい興奮しきり血走った目。



 四つ足。


 獣。


 爪。


 牙。



 予想される攻撃パターンをいくつか頭に浮かべてみる。



 スッと息を吸い込み一気に肺を膨らませた。



「ギィィィィィィ――っ!」



 交戦可能距離に入り、耳障りな鳴き声をあげた化けネズミが足を踏み切って跳ぶ瞬間――




「―――――――――――――――――――――――っ‼‼」



 特殊な呼吸法から声に威をのせて敵へぶつける。



 先日学園で一般生徒たち相手に身動きを封じた時や、昨日ネコ妖精相手に大きくバランスを崩させた時のようにはならない。


 弥堂程度の存在が、このサイズの化け物の根幹を揺るがすほどの威を発することは出来ない。



 だが――



「――ギィっ⁉」



 宙へと跳ぶために踏み切る瞬間を狙ってぶつけてやれば、選択の強要をしてほんの一瞬の思考の隙間を生みだすことは可能だ。



 獲物に跳びつこうとしていたネズミは踏切りにほんの僅かな迷いを生じさせ、中途半端な形と勢いで跳躍する。


 そして姿勢の制御と次の行動の選択をし直す為に、一瞬だけ獲物から意識を外す。



 そしてその一瞬を使って弥堂は姿勢を下げながら前に踏み込み、跳び上がったゴミクズーの下に潜り込む。


 自身の身体がブラインドとなったネズミは弥堂を見失う。そこに次の一手の為の一瞬が生み出される。



 ガードをするように構えた左腕を、落下してくるネズミの両前足の付け根に合わせ、力の流れを変えながら掬い上げるように化け物の身体を縦にする。



「おっ、おわあぁぁーーーーっ⁉」



 ネズミの背中から落とされたボラフは無視し、道路脇のブロック塀へ受け流した力を利用しながら抑えつけるようにネズミの背中を叩きつけた。



「ギュィっ――⁉」



 これ自体では化けネズミには何らダメージはないだろう。


 だが、身を返されたことと衝突のショックでここにも一瞬の思考の隙が生じる。


 ヤツが次の行動選択を決定する前に、弥堂は左腕をネズミの前足の付け根に押し付け、下から担ぎ上げるようにして抑えたまま、腹に右の拳を当てる。



 間髪入れずに足の爪先から拳までを順に適切に捻り、敵を殺す為の威を大地より汲み上げる――



零衝ぜっしょう



「ギッ⁉」



 頑丈な外皮を貫通しその身の内部へと威を徹す。



 ネズミの背後のブロック塀に放射状に罅が入る。



【零衝】



「ギャッ!」



 すぐさま二撃目を打ち込む。



(またズレたか……)



 内臓を破裂させる為に威力を全て獣の腹の内部に徹したつもりだったがいまいち上手く徹らない。背後の塀の罅が増える。


 その結果を評価しながら左腕は押し付けたまま身体だけを少し横にズラす。



「ギュイィっ!」



 前足を付け根から抑えつけられていて動かせない為、ネズミが蹴りのように跳ね上げてきた後ろ足が今さっきまで弥堂の身体があった場所を通過していく。



(ならば――)



 獣の身の脇を通して右拳を押し当てる。



 今度は後ろのブロック塀に――



【零衝】



――その一撃で既に亀裂の入っていたブロック塀は砕け散った。



 ゴシャァっと音を立てて破砕する塀が崩れたことで支えを失った化けネズミの身は宙に浮かぶ。



 そして、バランスを失い目を白黒させる獣をそのまま自分の体重を乗せて地面に叩きつけた。



「――――っ⁉」



 一瞬、息が詰まったように口を開けたゴミクズーの様子を確認しながら、マウントポジションをとるように上に跨り、その動作の最中に地面から握り拳大のブロックの破片を拾いあげる。



 左腕で抑えていた両前足の付け根を両膝で固定すると、この時になって自分の上に乗った弥堂にようやく気が付いたネズミと目が合う。



 身体が大きくなったことで獣としてのプライドも大きくなったのか、ヤツが次に選択した行動は反撃ではなく、己よりも矮小な存在である人間への威嚇の叫びだった。



 弥堂は冷酷な瞳で敵を見下ろしながら、声を発する為に持ち上げようとした上顎へのカウンターとなる形で、手に持ったコンクリの塊をネズミの鼻面に叩きつけた。



「ギュァっ!」



 痛みからか、途中で遮られた威嚇の叫びが漏れただけかはわからないがネズミが大声で鳴く。


 わからないからもう一度同じ場所をコンクリで叩く。



「あいてててっ。腰打ったじゃねえかクソッタレめ…………あん?」



 ネズミから振り落とされて転倒していたボラフが立ち上がり、自身が従えていたゴミクズーに跨って殴りつける人間の姿に気が付く。



「オマエなにやってんだ? 人間がゴミクズーをぶん殴ったってどうにもなんねえぞ。死にてぇのか?」



 自分が追い回していた相手に逆転された形になったはずだが、まるでそのことに危機を感じている様子はなく、どこか呆れたような口調だ。



 弥堂はそれを無視してもう一度獣の顔面を目掛けて無機質の塊を振り下ろす。




 ゴッ、ゴッ、ゴッ――と硬い物を打ち付ける鈍い音がほぼ一定間隔で鳴り続いている。



「お、おい……」



 組み敷いた化けネズミの左右の前足の付け根を両膝でそれぞれ固定し、殴りつける度に暴れるその動きを適切に流し、殺し、抑えつけて一方的な暴力を奮う。



「……おいっ! テメェ! シカトしてんじゃあねえよっ!」



 ゴッと打ち付けると手に持っていたコンクリの塊が砕けた。


 膝の上にパラパラと落ちる破片を無視しながら淀みのない動作で新しい塊を拾う。


 そしてまたネズミの鼻先を殴り始める。



「このガキっ! 意味ねーって言ってんだろ! ニンゲンごときがなにやったって――」


「――ギィィィィィっ⁉」



 ネズミが叫ぶ。


 それは怒りの咆哮ではなかった。



 グチュッと、殴りつける音に水音が混ざる。



 グチュ、ピチュ、パチュ、と粘性をともなった水が弾ける音が肉を打つたびに響くようになった。


 手に持ったコンクリがまた粉々になる。



「出血したな」



 確認された事実を口にして弥堂は化け物を視下ろす。


 こちらを見上げるゴミクズーの目の中に違う色が混ざった。



 新たに拾い上げたコンクリートの塊を手で握り、ネズミの目によく写るようにゆっくりと振り上げる。


 膝から伝わるヤツの筋線維が跳ねたのを感じながら重心を緩めて調節する。



 コンクリの塊で殴りつけるのではなく、手を離してネズミの顔面に落とす。



 すると反射的なのか、ネズミは両方の前足を顏の前に揃える。まるで殴られた人間が痛みを恐れてそうするように。



 ネズミの目が自分目掛けて落下してくる破片に向いた瞬間に、弥堂は懐から結束バンドを取り出し、ネズミが顏の前で揃えた左右の前足を素早く拘束する。



「一応イノシシも拘束出来る代物らしいが、お前はイノシシよりも強いのか? どうなんだ?」



 訊いて答えは待たずに負傷した鼻先をもう一発殴りつける。



「鼻の穴が片方裂けたな。その割には出血が少ない。外皮はよくわからん頑丈さがあるが、だが皮膚は破ける」



 裂けて一つになった鼻の穴にコンクリを叩きつける。


 キュイィとネズミが泣く。



「どうした? 抵抗しないのか? 図体だけデカくなっても所詮は溝鼠か。その牙は飾りか? 噛みついてみろよ、腰抜け」


「ギ、ギィィィィッ!」



 まるで弥堂の言葉に反応するように、化けネズミは口を開け図体に比例して肥大化した上下の前歯で弥堂に喰らいつこうとする。



「素人め」



 それがわかっていたように、上体を反らして噛みつきを空かすと、ネズミの下顎に掌底を当てカウンターの零衝を打ち込む。



「ギュゥゥゥゥッ――⁉」



 首を跳ね上げられるに留まらず、自身の顎が閉まる力を何倍にも増幅させられ勢いづいた下の前歯が上顎に突き刺さった。


 苦悶の鳴き声をあげるゴミクズーに表情一つ変えずに、新たに取り出した結束バンドでネズミの口を拘束する。



「自分の牙だからよく刺さったのか? 偶々咥内が脆かったのか? 試してみるか? ちょうどいいモノがある」



 流れ作業を熟しながらの必要事項を告げる事務的口調で語りかけると、ゴミクズーの目に宿る色が先程よりもはっきりと変わる。


 地面に落ちているコンクリの破片をまた拾う。


 しかし、今度拾い上げたコンクリのブロック片からは鉄筋が飛び出していた。



「さっき挑発に乗ったろ? お前言葉がわかるみたいだな。生意気だな。ネズミの分際で……」



 ナイフを下手に構えるようにコンクリを握る。



「お前、怯えているだろ? 俺に怯えて、俺を恐れたな? 揺らいでいるぞ」



 鉄筋の先端を首に突き立てる。



「刺さらないな。ムカつくな。こっちならどうだ?」



 今度は鼻の傷口に鉄筋を打ち付けると、ネズミの口からはくぐもった泣き声が漏れた。



「何言ってんのかわかんねえよ。それよりも、こっちも刺さらねえな」



 公園の砂場にスコップを突き刺す子供のように、先端の鋭利な鉄筋をネズミの鼻を突き続ける。



「ん? いや、少しは抉れてんのか……?」



 ズチュっ、グチュっと粘液が千切れる音が響き、茫然としていたボラフはそれを聞いてハッと我に返る。



「お、おい、テメェなにやって……っ! やめろって、そういうんじゃねえんだよ……っ!」



 言いながら駆け寄り弥堂の肩に手を掛けて止めようとする。



「なぁ、おい! 空気読めって……! そういうアレじゃ――」



 無表情でゴミクズーを痛めつけていた男の唇が僅かに動いたのがボラフの目に映った。


 その次の瞬間――



「――は?」



 ゴミクズーに跨り暴力を奮っていた男の肩に手を置いていたはずが、いつの間にかその男は自身のすぐ隣に立っていた。


 脇腹に手を当てられた感触を認識すると同時――



【零衝】



「ぅごぉっ――っ⁉」



 身体が「く」の字に曲がる。


 続いて、下がったボラフの後頭部にコンクリの塊を叩きつけた。



「ガァッ⁉」



 そして追撃の零衝で悪の幹部の身体を数mほど吹き飛ばした。



(やはりズレる)



 手応えに不満を感じて右手を一度見下ろしてからすぐにゴミクズーの破壊に戻る。



 新しい鉄筋付きのコンクリを拾い直し、今度はネズミの前歯の付け根の歯茎にその先端をグリグリと捩じり込んだ。



「お前の牙の方が効率がよさそうなんだ。ちょっと貸せよ、それ」



 大絶叫を上げて暴れるネズミに不快そうに顔を顰める。


 少し大人しくさせようと頭蓋骨に手を当て零衝を放つ。


 しかし、思ったほどには効果はなくネズミは藻掻き続けている。



「おかしいな。確実に脳を揺らしたはずなんだが。お前馬鹿すぎて脳みそがないのか? 確認してみようか」



 歯茎に擦り付けていた鉄筋の先端を耳の穴に近づける。



「なぁ、お前は脳みそ壊されると死ぬのか? 教えろよ」



 ネズミの目玉が横を向いてそれから自分の顏を見上げるまで弥堂は待った。


 ケダモノの分際で涙を滲ませたその瞼を見て、以前に同じように拘束をしたゲリラ兵の首筋に錆びた鋸を当ててやった時のことを思い出した。


 その時の兵士のようにネズミはまるでイヤイヤをするように泣き声をあげながら首を振って暴れる。



「あ? なに言ってんのかわかんねえよ。教えろっつってんのに無視しやがってムカつくな。仕方ないから自分で試してみることにしようか。構わないな?」



 首を踏みつけ頭を固定させて、ネズミの耳の穴に鉄筋の先っぽを合わせてからゆっくりと中へと押し挿れる。



 ブルブルブルと震えるネズミを無視してある程度まで押し込んでから、持ち手のコンクリに掌底を当てる。


 そして、ハンマーで杭を打ち付けるように零衝を放って鉄筋をネズミの頭蓋骨の中へ突き刺した。



「――ゥオェ……っ! ゲ、ゲロ吐きそう……、なんで俺がダメージを……」



 腹を抑えて蹲ったボラフが顔を上げると、弥堂に踏みつけにされたネズミの後ろ足がビクンビクンと大袈裟に跳ねていた。



「…………な、なんなんだあいつ……」



 瞠目し茫然とした目を向ける中、ニンゲンのはずの男はまたゴミクズーの身体に穴を掘るように鉄筋を突き刺し始めた。



「――これでも死なねえのか。なんでだ? お前脳みそねえのか? とりあえずもう一本やってみるか」



 すでに両の耳の穴に鉄筋が突き刺さっているネズミの今度は鼻の穴に鉄筋を捻じりながら抉り込む。



 作業をしている手に生暖かい鼻息がかかり、勢いよく吹き出されたそれは鼻血を撒き散らした。


 それにも特に表情を変えることなく鉄筋の向きを頭蓋骨の方向に調節する。



「これ届くか? まぁ、刺してみればわかるか」



 言いながら先程と同じ手順でコンクリブロックに零衝を打ち込み、すでに鼻の中を通る鉄筋を奥へと射出させた。



 すでにもうネズミは声も出なく、拘束された口の端から血液混じりの泡を溢す。



「やっぱりダメか。効いてはいるようだが死なねえな。普通は即死なんだが。ただ動物がデカくなっただけってわけではないようだな」



 もう少し頑張れば殺せそうな気もしなくなかったが、しかし弥堂は特にはそれに執着せず次の手順に移るため、またネズミの上に跨る。



 ジャケットのポケットから煙草を取り出し100円ライターで火を点けた。


 煙草を口に咥えたまま煙を口の端から吐き出す。


 ライターは着火したままその火でネズミの毛皮を炙る。



「燃えないな。外皮、というか身体の外側が不自然に何かに守られているのか?」



 ライターを放り捨て口に咥えていた煙草を手に取る。


 そしてその先端をネズミの腹に押し付けた。


 ネズミは身を捩る。



「もう死にかけ……ではなく効いていないのか。火傷もしねえな。こっちはどうだ?」



 続いて火の点いた煙草を鼻の傷口に押し付けると先程よりも激しく抵抗をした。



「こっちは傷つくのか。痛みがあるってことは生きてるってことだよな? だったら殺せるはずなんだが。なぁ、おい。お前本当は殺せるんじゃないのか?」



 聞きながら地面から拾い上げた鉄筋を、ネズミの頭蓋骨に刺さっている鉄筋に打ち付けてキンキンと音を鳴らす。


 すると、ゴミクズーはさらに藻掻き苦しむように暴れだした。



「こっちはどうなっているんだ?」



 話しかけながらネズミの口を抑えつけて右目に指を挿しこむ。


 暴れる獣の身体を体重をかけて抑えつけながら眼窩の裏側をなぞるように指で掻き回す。


 そして指を曲げて掻き出すように目玉を抉り出した。



 引っ張り出した眼球を一度目線の高さまで持ってきて視てみるが、特に興味はわかなかったので適当に放り捨て、ネズミの毛皮で指に付着した粘着いた液体を拭き取る。



 フーッ! フーッ! と吹き出される獣の息に時折り甲高い泣き声が混ざった。


 それを聞きながら鉄筋の先端を今しがた目玉を抉り出した為に空洞となった右の眼窩へと向け、ゆっくりと近付けていく。



 特にそれに対する反応が見られないまま鉄筋は眼窩の中に飲みこまれていき、それからネズミは激しく暴れ出す。



「今、見えていなかったな? 一応目玉で見て視認をしているのか。なるほどな」



 言葉とは裏腹に興味なさそうに言い捨てながら、ついでとばかりに火の消えた煙草の吸殻を刺さった鉄筋の脇に捻じ込んで眼窩に突っ込む。



「さすがにこれをチャンさんにやるのは悪いからな」



 どうでもいい言い訳のようなものを口にしながら、一通りの実験結果を頭の中で整理し、次にすべきことを決める。



「さて。このままやっても恐らくいつかは殺せそうだな。ゴミクズーは殺せる。それはわかった。だが効率は悪い」



 言いながらネズミの後ろ足も結束バンドで拘束し、次に元々拘束していた前足を頭の上まで引っ張り上げ前足を縛る結束バンドの中に無理矢理鉄筋を通し、零衝を放って地面に打ち付けて標本にされた昆虫のように磔にする。


 それから鉄筋の先端をネズミの腹に押し付けた。



「やはり最初のプラン通りに、まずは奪った物を返してもらおうか」



 ネズミの腹の皮を目掛けて鉄筋を突き刺し始める。



「刺さらないな」



 なんとか逃れようと暴れるネズミの力の向きを操りながら何度か突き立ててみて、今度は先端で引っ掻くようにして皮膚を破ろうと試みる。



「一度傷をつけた後なら壊しやすくなるみたいだが、最初の傷がつくまでに何らかの抵抗があるのか」



 しばらく腹の皮を引っ掻いてから諦め、鉄筋をネズミの口元に持っていく。



「やっぱりお前のその牙よこせ」



 また歯茎に鉄筋を押し当て、今度は零衝を使って打ち込むと歯の根元が僅かに抉れた。


 その傷跡に鉄筋を捩じり込み牙を引き抜こうと試みていく。



 ビクンと震えバタンと跳ねるゴミクズーの身体と、それを解体しようとする人間の男の姿を、ボラフは情けなくベタンと地面に尻をつけて、ただ眺めていた。



「あいつ、本当にニンゲンなのか……?」



 無慈悲な暴力を奮うその凶行よりも、それを行う精神性に畏れを抱く。



 他を害するに値する殺意がない。


 殺意に至る怒りも悦びも悲しみも楽しみもない。


 何の感情も渇望も怨みも興味関心すらなく、ただ必要性のみで他を死へと送り込む。



 その異常な精神性に理解が及ばなかった。




 ぐちゅ、ぴちゅ――と液体を掻き混ぜる音が、視線の先の人間の男の背中越しに聴こえる。



 悪の幹部であるボラフはガタンっと腰を抜かしたまま、その光景を見ていることしか出来ない。



「エ、エライこっちゃ……これはエライこっちゃやでぇ……」



 茫然と呟いてみても、適当な関西弁を真似してみたとしても、状況は何も変わらない。


 このままでは自身が連れてきたゴミクズーは頭のおかしなニンゲンに惨殺をされ、レーティングの変更が検討されるレベルのグロ死体になってしまう。


 悪の幹部的にそれは非常によろしくない。



 しかし、かといって止めに入ろうにも、あのイカれニンゲンに話が通じるとは思えない。



「そういやぁ、最初に会話した時から節々に頭のおかしさが滲み出てると思ったんだ……っ! ちくしょうめ……っ!」



 もはや自分自身で戦いを挑んで倒すしかないのだが、そうもいかない事情がある。



 八方塞がりとなった悪の幹部は三日月型のお目めを波立たせるとウルウルと涙を滲ませた。


 本当に困り果てた時、ヒトだろうと悪の幹部だろうと、自分以上の超常的で超越的な存在に祈り、願うしかなくなることがある。


 ボラフにとっては今がそれだ。



 そしてそういった時に願う先は信仰対象になりがちだ。


 人間であれば神に願えばいいが、悪の幹部はそうもいかない。


 だから、咄嗟に思いついた超常的で超越的で、悪の幹部でも助けてくれそうな者に縋る。



「――た、たすけて……っ」



 その名を呼ぶ。



「――たすけてーーーっ! ステラ・フィオーレっ!」



「――は、はいっ!」



 ガサガサと茂みを揺らす音と共に『工事中』と書かれた仮設フェンスの脇から魔法少女とネコ妖精が這い出てきた。


 彼女らはどこかグッタリした様子で身なりが所々ほつれたような雰囲気を醸しだし、身体のあちこちに土埃や葉っぱをつけて汚れている。



「うぅ……、びっくりしたぁ……」


「こんなのあんまりッス! 他のメスの糞とションベンの匂いがしたッス! クソビッチどもがネコ妖精たるジブンの許可なくレッツパーリーしやがってッス……っ!」



 何かを愚痴りながら憤慨するメロを水無瀬が宥めすかしているが、ボラフはそれどころじゃない。



「おいっ! おいっ! フィオーレ!」


「え……? あ、ボラフさんこんにちは」


「ん……? あぁ、こんにち…………じゃなくってよ! 早く来てくれっ!」



 ペコリと礼儀正しくおじぎをする愛苗ちゃんに釣られそうになった悪の幹部だが、すぐに緊急事態を告げる。



「なんだぁ? 随分あわててオマエどうしたんスか?」


「どうもうこうもあるかよ! オマエらあいつをどうにかしろよ!」


「あいつ……?」



 首を傾げながら二人はボラフが指差す方を見る。


 こちらに背を向けた弥堂が何かをしている姿が映った。



「弥堂くんだ」

「あれがどうしたッスか?」


「ノンキなこと言ってんなよ! あいつを止めてくれよ……っ!」


「え? 止める……――っ⁉」



 何の気なしに弥堂の様子を注視すると、彼の身体の下に居る何かが大きく身を捩った拍子に、僅かにその姿が目に入り水無瀬は息を呑んだ。



 ネズミのゴミクズー。


 その頭部から数本の棒状の金属のようなモノが生えている。


 まるでニードルクッションのように頭部に鉄筋が――



「――はぅ……」



 フッと気を遠のかせて水無瀬がフラつく。



「マ、マナ……っ!」

「お、おいっ! 大丈夫かっ!」



 倒れそうになる背中を即座にメロが持ち上げ、その間に駆け寄ってきたボラフが慌てて支える。



「――はっ! あ、ありがとう二人とも…………、だ、だいじょうぶだから……」


「いやいやっ! オマエ顔色ヤベーぞ!」

「わかるッスけど! ガチグロだもんッス! ジブンも毛玉吐きそうになったッス!」


「……ど、どうしてこんなことに……」



 自分のためにゴミクズーに立ち向かってくれたクラスメイトの男の子を心配して出て来てみれば、大変ショッキングなことになっており、わけがわからないと茫然となる。



「こっちが聞きてえよっ! なんなんだよあいつっ!」


「え、えとね。あの子は弥堂くんです! 教室で隣の席なの! あ、1年生の時から同じクラスでお友達なんですっ!」


「そういうのいいからっ! いきなり向かってきたと思ったら、なんかわけわかんねえことしてゴミクズーぶん投げて無言でボコり始めっし! そのまま素手で解体し始めっし! 頭おかしすぎだろっ!」


「あ、あの……っ、ちがうんです……っ! いつもは大人しくってとってもいい子なんですっ」


「余計コエーよっ! なぁ、おい! あれはダメだろっ! 反則だろぉっ⁉ 完全に解釈違いじゃねえか……っ! オマエらズリィぞ! 魔法少女ってそういうんじゃねえだろっ⁉」


「え、えっと……、あの、その……、ご、ごめんなさい……っ!」



 猛然とクレームをつけてくる悪の幹部に、魔法少女とそのマスコットはペコペコと頭を下げた。



「オマエらなんだっ⁉ どういうつもりだ⁉ あんなルール無用の残虐ファイター連れてきやがって……っ! まさかオレにもあいつを嗾けるつもりじゃねえだろうな……っ⁉ それはやめてください! ごめんなさいっ!」


「ごめんなさい!」



 お互いに「ごめんなさい、ごめんなさい」とペコペコ頭を下げ合う。


 全員がパニックだった。



 そうしていると――



 ボギンっとイヤな音が鳴り、続いて獣の大絶叫が響く。


 3名揃って恐る恐る目を向けた。



「お、やっととれたか」


(とれた⁉)

(とれた⁉)

(とれた⁉)



『何が?』と訊ける勇気のある者はいなかった。



 ビクビクしながら弥堂の背中を見ていると、彼はとれたらしい『ナニカ』を振りかぶって、何度も何度も『ナニカ』に突き刺し始めた。


 縛り付けられたゴミクズーの足がビクンビクン跳ねる。



 一様に顔色を悪くした一同は顔を見合わせる。



「どっ、どどどどどうすんだこれっ! 今のうちにオレら逃げた方がいいんじゃねえか?」

「や、ヤバすぎッス……、ジブンのようなネコさんには手に負えないッス……っ!」



 悪の幹部とネコ妖精は揃って悲観的な意見を口したが、それを聞いて俯いて黙っていた水無瀬はやがて意を決したように顔をあげる。



「あの……っ! 私止めてくるね……っ!」


「えっ⁉」

「ダ、ダメッスよマナっ! 犯されるだけじゃすまないッスよ!」



 心配そうに目を向けてくる二人の手をやんわりと取り、水無瀬は真っ直ぐな瞳で返す。



「だいじょうぶだよ……? 弥堂くんはそんなひどいことしないよ。だからね? ちゃんと『ダメだよ』って言って止めてあげなきゃいけないと思うの」



 その真摯な言葉にネコ妖精と悪の幹部はジンと胸を打たれる。


 もちろん雰囲気だ。



「破けたか。やはり自分の牙でなら簡単に壊せるんだな……」



 何やら不穏な呟きが聴こえ一同の頬に冷や汗がツーと流れる。



「膜を破いてもあまり出血しないな……、というか内臓が少ない? ネズミってこんなもんだっけか……?」



 一同の顏に流れる冷や汗が増す。


 メロは両手の肉球を口元にあて「ぅぷっ」と嘔吐いた。



「どれがどれだ? めんどくせえな。全部引き摺り出すか――」


「――びっ、びびびびびとうくんっ⁉」



 ダラダラと汗を流し、堪らずに水無瀬は弥堂に声をかけた。



 彼はゆっくりと首だけを回しこちらを向く。



 顕わになった横顔。その頬についた赤いモノを目にしてメロとボラフが大袈裟に肩を揺らしたのが間接視野に入ったが、愛苗ちゃんは勇気を振り絞ってお話する。



「あ、あの……、ダメなんだよっ!」


「あ? 水無瀬か。お前なに勝手に出てきてんだ。ふざけんなよ。謝れ」


「えっ? あの……、ゴ、ゴメンね……?」


「まぁいい。ちょっとそこで待ってろ。もう少しだ」


(もう少し⁉)

(もう少し⁉)

(もう少し⁉)



『何が?』と訊ける勇気のある者はいなかった。



 グイっと手の甲で頬についた返り血を拭いながら前を向き直すと、彼は再び映像に残すことが憚れるような作業に戻った。



 ズチュっ、グチュっという音を聴きながら、やがてプルプルと震え出した愛苗ちゃんはメロたちの方へ振り返る。


 そのお目めには涙がいっぱいだ。



「もういいっ! もういいぞ、フィオーレっ!」

「がんばった! マナはがんばったッス!」



 今にも泣き出してしまいそうな彼女へ二人は励ましの言葉をかけてフォローした。



「お、あった。これか?」



 その言葉に3人ともに両頬に手を当て「ひゃぁーーっ」と声にならない叫びをあげる。


 ビチビチビチっと何かが引き裂かれる音が聴こえ、ズプっと何かに何かを埋め込むような音がして、グポッと何かを引き抜いたような音がした。



「とれた」


「「「いやあぁぁぁぁぁーーーーーっ⁉」」」



 3人身を寄せ合って怯える。



「おい、水無瀬。受け取れ」



 そんなことにはお構いなしに弥堂は何かを下手で放った。


 赤っぽい飛沫が放物線を描き、ペタンと女の子座りでへたり込む水無瀬の手の中にピチャっと何かが落ちる。


 決して望んだわけではなく、手に何かが触れたからつい反射的にソレに目を向けてしまう。



 掌の中に在ったモノは血に塗れたペンダントだった。



「――――――――――っ⁉」



 声にならない悲鳴が喉から溢れ、驚いて手を離そうとすると、指に絡まった粘性のある液体がクチュリと音を鳴らす。



 フッと、充電が切れた瞬間のスマホの画面のように瞳の色を失い、愛苗ちゃんは失神した。



「マ、マナーーーーっ!」

「あ、あわわわわ……っ!」



 先程同様にメロとボラフがその身を支えるが、今回は完全に意識がトンでおり、復調の兆しは見えない。



「どっ、どどどどどうすればいいんスかーーーーっ⁉」



 メロは完全にパニックを起こし騒ぎ出す。



「終わりっス! もう何もかも終わりッス! ジブンらこのまま少年に皆殺しにされるんスよおぉぉーーっ!」


「バカやろうっ!」



 ペシっと配慮の行き届いた威力でボラフはメロの頬を張った。



 「なっ、なにするんスかっ⁉」



 地面に崩れ落ち、殴られた頬を肉球で抑えながらメロは突然の暴力に対する抗議の声をあげる。


 その声に、ボラフは悪びれた様子はなく堂々とメロの目を見た。



「バカやろうっ! オマエがしっかりしねえでどうする⁉ こんな時にオマエが踏ん張らなきゃその子はどうなっちまうんだ!」


「そ、それは……でも――っ⁉」


「デモもテロもねえんだよっ! いいか? オレの言うことをよく聞けっ」



 そう言ってボラフはメロの近くにしゃがみこみ、彼女とよく目を合わせる。



「役割を分担して協力をしよう」


「きょう……りょく……ッスか?」


「あぁ。オマエはどうにか気合でフィオーレを起こせ」


「え? 一体なにを……?」



 未だパニックから抜けきっていないメロにはすぐには理解が及ばない。



「なにしてんだお前ら。さっさとしろ」



 そうしている内に、背後から聴こえた弥堂の催促の声にメロもボラフもビクっと肩を跳ねさせた。



「ていうか、そろそろこいつ死ぬんじゃないか? もうちょっと殺してみるか。おい、脳みそは駄目だったがお前心臓ならどうだ? 試しに心臓捥ぎとってみるが、お前死ぬか?」



 正気を疑うような言葉が続いている。



「はわわわわっ」


「落ち着けっ! 時間がない。オマエはどうにかしてその子を起こしておけ。頼むぞ?」


「わ、わかったッスけど……、でも、オマエは……?」


「オレか? オレは――」



 言いながらボラフは地面に落ちた血塗れのペンダントをガッと男らしく拾いあげながら立ち上がり、ダッと即座に走り出す。



「お、おいッス!」


「オレはこれを使えるようにしてくる……っ! 頼むぜ! オレが戻るまでにフィオーレを起こしておいてくれっ!」



 それを言うと前を向き、以降は振り返らずに地を蹴り続ける。



 狭く細かい路地を縫って何度も角を曲がり、勢い余って壁に肩を擦り、時にはゴミ箱に躓いて転びながらもすぐに立ち上がって、ただ只管に全力を尽くす。



 人の多いメイン通りまで行けば何とか出来るはずだ。



 ボラフは駆ける。



 仲間のために――




 悪の幹部としてのポテンシャルを遺憾なく発揮して暫く走ると、路地裏の出口が見える。そこから出ればメインストリートとなる『はなまる通り』だ。



 走ってきた勢いそのままに人工的な光に満ちたその空間へ頭から飛び込んだ。


 跳びこみ前転をキメた後に殺しきれなかった勢いを減衰させる為に路面をさらに転がる。


 土曜日の夕方で多くの買い物客や通行人で賑わう通りでそのようなアクロバティックなプレイを披露すれば、当然のことながら接触事故は避けられない。



 ゴロゴロと転がるボラフに巻き込まれ、複数の人間が吹っ飛び転倒する。



 穏やかに賑わっていた繁華街は、闇の組織に所属する悪の幹部の登場により俄かに騒めき、そして徐々にそれが伝播していく。



 そんな戸惑う人々を尻目にボラフは片膝を立ててビタッと止まると、機敏に立ち上がり周囲への声掛けを始めた。



「すいませーんっ! 誰か……っ! 誰か助けてくださーいっ!」



 人々に助けを求める。



「どなたか助けを……、友達が……っ! ボクの友達がピンチなんです……っ!」



 酷く切実な様子で救助の必要性を訴えるが――



「きゃあぁぁーーーーーーーっ!」

「いやぁーー、変態よーーーっ!」

「変態だー! 変態がでたぞー!」



 フルフェイスのヘルメットを被った全身タイツの男――のように見える――の登場に人々はパニックとなった。


 騒然となった群衆は疎らに逃げ出していく。



「すいませーん! どなたか、水とタワシを下さいませんか⁉ スポンジでもいいんです! どなたか、お願いしますっ!」


「イヤァァーっ! マサルっ、マサルぅ……っ! 置いてかないでよおぉーっ!」


「雑巾かタオルのようなものでもいいんです……っ! オレが早く戻らないと……、このままじゃ……っ!」


「お、俺には帰る場所があるんだ……っ! こんなとこで死ねるかーーっ!」


「グハァーーーっ⁉」



 強い恐怖の中で立ち向かう勇気に目覚めた通行人の繰り出した拳が顔面に突き刺さり、ボラフは地面に倒れ込む。


 頬を抑えながら身体を起こし、すぐ近くに居た別の人間に取り縋る。



「こ、こいつをキレイにして持ち帰らなきゃなんねえんだ……っ! オレがやんねえとアイツらが……」


「うっ、うわあぁぁぁぁっ⁉ やめろっ! 触るなっ! 触るなあぁぁっ!」



 ボラフが差し出した血塗れのペンダントを目にしてパニックを起こした通行人の男は、必死にボラフを蹴りつけて離れようとする。



「あぐっ……⁉ ぐぅ……イテェ……あっ――⁉」



 地面に倒れ込んだ拍子に手から零れたペンダントが路面を滑った。



 ボラフはそれに飛びつくと己の身体を盾にして守るようにペンダントに覆い被さる。



 どうすれば――と焦燥に駆られ首を振って助けてくれそうな人を探す。



 すると、対面にボラフと同じように路上に座り込む女性を見つけた。



 自分の方に変態が吹き飛ばされてきたことで腰を抜かした買い物帰りのオバチャンだ。



 ガバっと開いた熟れた股の間から、むわっとしたベージュのババアパンツが垣間見える。


 ボラフの視線が釘付けとなった。



 樽のようなシルエットのオバチャンに性的関心を抱いたのではない。彼が視線を誘われたのはオバチャンの足元に転がった、スーパーのセール品と思われる大量の2ℓの水のペットボトルだ。



 オバチャンは頬を赤らめるとサッと内股に足を閉じスカートを押さえる。



 ボラフはその仕草が癇に障ったが、今はそれどころではないと、這いずるようにしてオバチャンに近づいていく。



「オ、オバチャン……、たのむっ、その水をオレに――」


「――ギャアアァァァっ! 犯されるうぅぅぅっ!」


「――ゴペッ⁉」



 ボラフの懇願の声は聞き入れてはもらえず、オバチャンは2ℓのペットボトルよりも逞しい腕をブンっとぶん回し、ボラフの顎をカチ上げた。



 悪の怪人の身体がふわっと宙に浮く。



「あらやだ! あらやだ! あらやだよーーーっ!」



 オバチャンは両手それぞれに中身入りのペットボトルを鷲掴みにすると、それを次々とこん棒のようにブン回し、落下してくる悪の怪人に空中コンボを叩き込んだ。



「ゴハァーーーっ⁉」



 派手にぶっ飛んだボラフが地面に落下する頃には、オバチャンは落とした私物を全て完璧に拾いあげた上で、「あらやだよーーーっ!」と走り去っていた。



 ゴシャァっと真っ黒ボディがアスファルトに叩きつけられる。



「ク、クソ……っ!」



 痛みよりもむしろ惨めさが勝った。



「なんでだ……、なんでなんだよぉ……っ!」



 そしてそれよりも強い怒りが沸き上がる。



「オレが……、オレが怪人だからダメだってのか……っ⁉ ちょっとオマエらニンゲンに迷惑をかけてるだけだろぉっ⁉」



 周囲に叫ぶも誰もボラフと目を合わせようとはしない。



 逃げ惑う者以外に周囲に留まる者もいるが、彼らは須らく遠巻きに恐怖と侮蔑の目を向けてくるだけだ。誰も悪の怪人などに同情なんてしない。



「オ、オマエらだって……! 他の動物にたくさん迷惑をかけてるじゃないか……っ! 同じニンゲンしか助けないってのかよ……⁉ そんなの……、そんなのってないぜ……っ!」



 群衆を見渡し、強く訴えるが誰一人にすら響かない。



 震える手で路面を掻きながら拳を握りしめるとベリっと爪が剥がれる。でもすぐに生えた。



「クソ……、クソ……っ! ニンゲンめ……っ! ニックキニンゲン……っ! オロカナニンゲンドモメェェェ……ッ‼‼」



 よろめきながら立ち上がり顏を上げると、その目の色が変わる。


 眼球が黒く染まり中心に赤い光が灯る。



 その光の名は怒り――ではない。



 ニンゲンどもを見渡す。



 彼らの表情が表すのは恐怖、侮蔑、嫌悪――そういった負の感情がこの場に渦巻いている。



 確かに怒りはある。


 自分勝手な人間という種族に対する憤りは間違いなくこの胸の中に在る。



 だがそれ以上に、現在自分に向けられている不特定多数のニンゲンの負の感情が、怒りよりも遥かに強い原動力となった。



『今、確かに、自分はニンゲンに迷惑をかけている』



 その事実が何よりも悪の幹部ボラフを昂らせた。



 ザっと足を滑らせ肩幅に開き爪先は若干外に向ける。


 両手を頭の後ろで組み、膝を開いて腰を半ばまで落とす。


 そして、悪の幹部としてのポテンシャルの総てを注ぎ込んだ、キレのいい腰振りを有象無象のニンゲンどもへ見せつけてやる。



「Foooooooooooooッ‼‼」


「ギャーーーーーーッ⁉」

「イヤァーーーーーッ⁉」



 カクカクカク――と高速で繰り出されるその腰使いの強靭さから、絶対に越えることの出来ない種族間の圧倒的な差を感じとり、脆弱な人間たちは瞬時に阿鼻叫喚の地獄へと叩き落された。



「いやーーーーー!」

「オーーーケィッ!」


「たすけてーーー!」

「イェアッ!」


「だれかーーーー!」

「アォッ!」


「ヘンタイよー!」

「カモッ!」


「おまわりさーん!」

「パーリナイッ!」



 蜘蛛の子を散らしたように方々へ逃げ出す人々を追いかけ至近距離で腰を揺すり、己の圧倒的な雄度を見せつけてやる。



「HEY HEY! よう、ネエちゃん! オメェのヘナチョコ彼氏じゃあ届かねぇ場所まで届かせてやろうかァー⁉ 天国を見せてヤルぜェッ⁉」

「イヤァァーッ⁉ タっくーん! タっくぅーんっ!」


「オラオラッ! もっと速く走れよ、このフニャチン豚野郎ッ! プリプリケツ振りやがってブチこんで欲しいのかァッ⁉ アァン⁉」

「うわぁーーっ! 助けてっ! 助けて代表ぉーーっ!」



 はなまる通りからは急速に人気が減っていく。



「Foooooooッ!」



 右手は頭の後ろに置き、左手は股間の前でグッパグッパしながらボラフはその場でカクカクと腰を振り、次なるエモノを求める。



 すると、他の人間に見捨てられ逃げ遅れたのだろう、杖をついてヨボヨボと歩く腰の曲がった老婆を見つける。



「ヘイヘーイ! よう、ババア! そんなに急いでドコにいくんダァーイっ⁉」


「あぁ……、じいさん……、じいさん……っ!」


「オイオーイ、ツレねえじゃねえかババアよー。ちょっとオレの腰使いを見ていけヨォーーッ! 半世紀ぶりの女の悦びを味わわせてヤルぜェーーッ⁉」


「すまないね、じいさん……わしゃぁ操を立てきれなんだ…………。今日わしもそっちへ逝くよ……」


「Foooooooooooーーーッ‼‼」



 ボラフは老婆の周囲をカニ歩きで一頻り周ってウザ絡みすると、魂の叫びをあげて今日イチの腰振りを見せつける。


 そして、辞世を受け入れようとする老婆の手をやんわりと取り、ゆっくり丁寧に歩行の補助をしながらバス通りへと誘い行先を聞き出すと、他の乗客に頭を下げながらバスの座席に座らせた後に見送る。



「オーケィ、ババアッ! ダンシトゥザナイッ!」



 走り去るバスの窓から手を振る老婆へ最高の腰振りを返し、多くの人間に多大な迷惑をかけてやったことから得られた超絶した愉悦に身を任せた。


 魂に満ちていく充足感に背骨を震わせ、己はやりきったと満足し額の汗を拭う。



 そしてハッとする。



「しまった! こんなことしてる場合じゃねえっ!」



 怪人ダッシュではなまる通りに戻るが、メインストリートは紺色の制服を着た複数のニンゲンどもが徘徊していた。



「クッ……! ニンゲンどもめ、オマワリを呼びやがったな……っ! 卑怯者どもめ。だが、こいつはマズイぜ……」



 悪の幹部は決して警察とは相容れない。


 ボラフは路地の角に肩をつけ通りを覗き込みながら冷たい汗を流した。



「ここはもうダメだ」



 殺気だった警官たちに見つからぬようそっと離れる。



 助けてくれる人を探さなければならないのに、人気のない方へ逃げなければならない。


 その矛盾がボラフを酷く焦らせる。



 しばらく走ると寂れた裏路地で一軒の店を見つける。


 薄暗い路地でこじんまりとした外観の入り口にぼんやりとした灯りが浮いており、『OPEN』と書かれた看板を照らしている。



 こんな場所に店を出して客が来るものなのかと疑問が浮かぶが、余計なことを考えている暇はないと、ボラフは店の扉を押した。



 建付けの悪い扉を開けるとカランカランとベルが鳴り、もわっと籠った空気と煙草の匂いが顏に纏わりついてくる。



「あ、あの……、すいません……」



 キョロキョロと店内を見渡しながら遠慮がちに声をかけると、バーカウンターの中でワイングラスを磨く男と目が合った。彼が店主のようだ。



 店主の男はグラスを磨く手は止めずジロリと片目だけを入店してきたボラフに向けた。


 鋭い眼光を放つその右目に射抜かれボラフは委縮した。



 ワイングラスと布を持つその腕は筋骨隆々で逞しく、ぶ厚い胸板を納めきれないワイシャツとベストはボタンがはち切れんばかりにピッチピチだ。


 カウンターで作業をしながら火の点いた煙草を咥え、傍らには口の開いたワインボトルが置いてあり、さらにその横には大きなサバイバルナイフが突き立っている。



 しかし、それ以上に目を引くのは顏の大きな傷だ。


 左目には眼帯。


 その眼帯に収まりきれない大きな古傷が顔を縦に走っている。



「…………いらっしゃい」



 男は口髭の隙間から「フーーッ」と長く煙草の煙を吐き出すと、愛想の欠片もない低い声音でボラフにそれだけを言って黙る。



 まるで戦場帰りの軍人のような屈強な雰囲気に気圧され、ボラフは次の言葉が出てこない。



 気まずげに入り口に立ったままモジモジとし、店内に目を泳がせる。



 すると、店主には失礼だが意外と他にも数名の客がいるようだった。



 カウンター席の端に座る豪奢な紅いドレスに身を包む女。

 しかしよく見れば派手に着飾っているものの髪は乱雑で、伸ばしっぱなしのような前髪の隙間から覗く顔はすっぴんだ。腫れあがった瞼に包まれた瞳は虚ろなまま、水煙草を吸い続けている。


 気味の悪さを感じて他所へ目を向ければ、ブランデーを注いだロックグラスに顔を近づけ、琥珀色に写った自分の目を見て薄ら笑いを浮かべ続けている男。


 他のテーブル席には、呪詛のようなものを呟きながら落花生の殻を剥き続けている男がいた。



(ヤ、ヤベェとこ来ちまったーーーっ!)



 すぐに店を出るべきかと判断し足を動かそうとするが――



「――座んなよ。お客さん」



 その前に髭面のマッスルマスターに声をかけられる。



 しかし、機を逸したことで諦めがつきここで用を済ませることを決める。



「あ、あの……オレ……、実は客じゃなくって……」


「……?」



 しどろもどろに事情を説明しようとすると、マスターは怪訝そうに顔を向けた。


 その拍子に口に咥えていた煙草から灰が崩れ、手に持って磨いていたワイングラスの中にボトリと落ちる。



「――あっ……⁉」


「…………」



 ボラフは気まずから続きを喋ることを憚られ口を噤み、マスターは無言のままただジッと灰の落ちたグラスに目を遣った。


 そして徐にグラスを持ち上げ、それを投げた。



 ヒュンっと風を切って飛んだワイングラスは壁にぶつかり、乾いた音を立てて粉々になった。



「ヒッ――⁉」



 息を呑んだボラフがグラスの破片が落ちた場所を見れば、床には多くの食器類の破片が散らばっている。


 どうやらこの店ではこれが食器類を処分する際の基本スキームのようだ。



 硬直する悪の幹部を尻目にマスターは何事もなかったかのように、別のグラスを取ると布で磨き始めた。



「……客じゃないってんなら、一体うちの店に何の用なんだい?」



 再び声をかけられビクっと肩を揺らす。



 気分を害したかのようにジロリと細められた隻眼と目が合い、ダラダラと汗を流す。


 しかし、ずっとこうしていても仕方がないので、意を決して正直に事情を説明することにした。



「じ、実はよ。こいつを洗わせて欲しいんだ……」



 両手に乗せた血塗れのペンダントをマスターに見えやすいように差し出す。



 それを見たマスターの眉が歪められ一層表情が険しくなったように見えた。


 マスターは短くなった煙草を指で挟み口から離すと、重そうに長く煙を吐き出す。



「……お客さん。アンタ、カタギかい……?」


「え……? カタギっつーか……怪人なんだけど……」



 ギロリと鋭い眼光を向けると手に持っていたグラスをカウンターに置き、その磨いたばかりのグラスの中に煙草を捨てる。


 そして傍らに置いてあったワインボトルを持つとそのグラスにワインを注いで消火をする。そのままボトルを口元に持っていき直飲みでゴッゴッと喉を鳴らしてからダンッと音を立ててカウンターにボトルを置いた。



「……なぁ、アンタ。うちは見てのとおり飲食店だ。信用問題ってモンがある。不衛生なのは困るぜ」



 チラリと――



 灰皿代わりに使われたワイングラス、直飲みしたワインボトル、そして適当に端っこに放り捨てられている食器の破片を順番に見たボラフだったが、衛生面に関して指摘をする勇気は出なかった。



「……そ、そうですよね……? ハハッ……アハハハ…………」



 そのため適当に愛想笑いでお茶を濁しこの場を辞そうとするが――



「――待ちな」


「ハ、ハイィッ⁉」



 ぶっきらぼうに呼び止められ、ビシッと気を付けの姿勢をとる。



 マスターはベストの胸ポケットから新しい煙草を取り出し、それに火を点けて煙を吐くと、親指で自身の背後を指す。



「店の裏にホース付きの水道がある」


「……えっ?」


「生ゴミのバケツを洗う用の物だがタワシも転がってる。好きに使いな」


「え……っ? あっ!」



 パァと顔を輝かせるボラフへ向かって、先程までグラス磨きに使っていた布を投げ渡す。



「……そのオモチャ。女の子の物だろう? そいつでキレイにしてやんな」


「マ、マスター!」


「血を拭いた汚ねえ布なんて店に持ってくんじゃねえぞ? それ持ってそのまま消えちまいな」


「あぁ……っ! ありがとうマスター!」



 ボラフは走り出しカランカランとベルを鳴らして扉の外へ出る。



 扉が閉まる直前、背後から「フン……」とぶっきらぼうに鼻を鳴らした音が聴こえた気がした。



 振り向かずに店の裏手へと走る。



 マスターの言葉通りホースとタワシが転がっていたので、急いで蛇口を回してジャブジャブとペンダントに水をかけて汚れを落とす。



 勢いよくかけすぎたのか顏に水が跳ねる。



 ポタポタとかかった水が手元に落ちていった。



「……ヘヘっ、ニンゲンもまだまだ捨てたもんじゃねえのかもな……」



 ズッと鼻を啜る。


 ポタポタと顔から落ちていく雫もまとめてホースで洗い流した。



 手早く変身ペンダントの汚れを落としてボラフは立ち上がる。


 大分時間を使ってしまった。早く現場に戻ってやらねば。



 蛇口を閉めて使用したホースを片付けようとすると、路肩に停めてある1台の車が目に止まる。



 エンジンは掛かっていないし外部のランプ等も消えている。



 しかしその車は不自然に上下にユッサユッサと揺れていた。



 僅かに開いたサイドガラスの隙間から息を殺した男女の息遣いが聴こえた。



 ニィ……ッとボラフの顏の3つの三日月が歪む。



 サッと素早く身を低くしてその車に近づくと、慎重な手つきで窓の隙間にホースを侵入させる。



 そして気配を殺したまま水道まで戻ると、ジャッと一気に蛇口を全開にしてダッと勢いよく駆け出した。



 背後から響く怒りと焦りの叫びを身に受け、愉悦が魂を満たしていく。



「ブハハハハハーッ!」



 今は振り向く時ではない。



 自分を待つ者たちの為に全力で走るのみだ。

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