序-05 『間接正犯』

 時計台の鐘の音が鳴る。

 午前11時50分。午前の授業が終わり、昼休みの開始を知らせる合図だ。



 大音量の鐘の音に迷惑そうな表情を浮かべ挨拶もそこそこに教師が退室していくと、途端に生徒達の声が色めき始める。

 学生にとってはやはり昼休みは特別な時間となる。育ち盛りで腹が減るからということだけでなく、その食事の時間を仲の良い者と共にすることを目的とする者も多い。


『高校生』という青春で一番貴重な期間をいつかの未来で振り返った時に、それが充実したものであったと感じられることは、自分が豊かな人生を送ってきた『ということ』にするには重要なファクターとなる。

 そしてそれにはそのいつかの未来で共に『楽しい思い出』であったと共有する者の存在が必要になる。


 そんなことを言っていたのは誰であったろうか。



 廻夜 朝次めぐりや あさつぐだ。



「要するにそれってさ『共犯者』なんだよね。言ってしまえばさー弥堂君。僕ら普通の平凡な高校生の日常なんて大体一緒なんだよ、いっしょ。やれ思い出だ。やれ青春だってさ、自分らの行動をやたらとありがたがってさ。ゲーセン行ったカラオケ行った、部活だデートだとかさ。他にもリア充どもは僕みたいな清廉潔白な人物には想像もつかないような爛れた日常を過ごしてるみたいだけれども。それをいっちいち写真に撮ってさ、まるで神棚に祀るみたいにSNSにアップしてさ、身内同士でいいねいいねぐっどぐっどーとかやってるけどさ。自己啓発セミナーですかーって。やらせじゃないですかーってね。それは、本当に、特別なこと、なんですかーってね、僕はそう問いたい。特別にしたいんじゃないんですかーって、自分が特別だと思いたいだけなんじゃないんですかーってね、僕は声を大にして問いたい。小一時間ほどね。でも一時間だけだよ? 僕だって暇じゃあないんだ。現代人には時間が足りないからね。んでね。それってさ、僕が思うに中二病なわけだよ。中二病。特別だって思い込み。奴らホントさ、特にギャルだ。あいつらはダメだ。普段僕らみたいなのにさ、オタクきめぇとかオタクくせぇとかオタクきたねぇデブすっぺぇとか言うわけよ。中二病とか童貞とか、あとデブとか。散々チクチクと針のような言葉を投げつけてくるわけだよ。気軽な感じで、気安くさ。奴らの大好きなダーツの矢を放るみたいにね。それをね弥堂君。奴ら棚に上げちゃってさ。自分らだけは特別な人間だとか思ってるわけよ。それってどうなのよと。それって僕とどう違うのよって。奴らがクラブで偶然イケメンなんちゃらに出会って何故か惚れられちゃって困るーとか妄想するのと、僕がある日突然空から美少女が降ってきて何故か惚れられちゃって困るーって妄想するのも一緒でしょ?ってね。棚上げですよ棚上げ。それこそ神棚にね。何でもかんでも祀られちゃってもそりゃ神様だって困っちゃいますよ。え? ギャルを弾圧する? いやいや待ってよ弥堂君、そういう話じゃあないんだ。そりゃね? 僕も彼女らを槍玉に上げてしまったけれども別に彼女らだけが特別悪いってんじゃないんだよ。そう。言ったろ? 特別じゃないって。どっちかって言うと僕らの敵はギャルにモテるイケメンだねイケメン。奴らを始末すれば僕の顔面偏差値も上がるんだよ、自動的にね。点数高い奴らがいなくなれば点数低い僕らの偏差値も上がるんだろ? 僕自身の点数は一切上がっていないにも関わらずね。そういうことだよ。んでね。なんだったっけ? ……ちょっと弥堂君? どこに行くのかな? ……え? イケメンを? 始末? いやいや違うって。あーそうきたかー、そっちで受け取っちゃったかー……まぁとりあえず落ち着こう。今回はそれが主旨じゃないんだ。うん。とりあえず殺人は校則違反。今回はそれだけ覚えておこう。うん。いや、いいんだ。僕も誤解させるようなことを言ってしまったしね。これは僕の失態だよ。ごめんね。申し訳ない。はい、謝った。んじゃ進めよう。最近流行ってるわけだよ。ギャルが実は優しくていい子でオタクに恋しちゃってとかさ。わかってる。そんなわけない。わかってる。まず僕の周りにはいないね、そんなギャルは。奴ら普通に教室で昨日男喰ったーとか、エンコーしたーとか言ってるからね。あまつさえカツアゲだーとかクスリだーとか言ってるわけだよ。なんならここでは言えないようなことまで盛りだくさんさ。それもう供述でしょってことをね。だけどね弥堂君。夢はさ――捨てたくないなって。可能性は――追いたいなって。僕なんかはそう思うわけよ。見た目派手で遊んでそうで怖いけど、実は――みたいなさ。でもさ、それってじっくり付き合ってみて初めて見えてくる内面だろうからさ、そんなもん僕的にはもう詰んでるようなもんだけどね。でもさ、ワンチャンは諦めたくないなって。考えてもみてよ弥堂君。パっと見遊んでそうなギャルで気が強くて口が悪くて怖くてさ、でも実は友達思いで家族思いで実際男慣れなんかしてなくて純真な照れ屋さんとかさ、ありえないよ? ありえないけれども。でももし、そんなのが実在したとしたらそりゃあもう優勝じゃん? 優勝以外ありえないでしょ? 僕なんかは処女厨だからね。そういうのは高く評価するよ。うん。ということはだよ弥堂君。要するに、とどのつまりこれってさ、おぱんつなんだよね、おぱんつ。派手なスカートでも地味なスカートでもその中身は捲ってみるまでわかんないわけじゃん? 僕なんかはね、そのへん知見が狭いからさ。ギャルのおぱんつとは? って聞かれたらもうイメージ出来るのは、黒のローレグTバックしかないわけだよ。ガニ股でスクワットとかしちゃいそうなさ。何でって聞かれても答えられないよ? だって見たことないもの。あいつら遊んでそうで何かいやらしいから黒でTバック。そんな程度の想像力しかないのさ。ギャル達がどんなおぱんつを穿いているのかを僕は寡聞にして知らない。全くもってこれは僕の不徳の致すところだよ。その件については本当に申し訳ないね。でもね弥堂君。そんないやらしい黒のローレグTバックが出てくると思ってスカートを捲ったらさ、なんかやったらと可愛いおぱんつが出てきたらどうだい? フリフリでさ。お花とかリボンとかついてるわけよ。これはクるだろ? え? こない? そもそもわからない? どこに来るのかって? いやむしろキミは行く側だけどね、え? わからない? ……あ、そうか、そうだよね……うん、ごめんね。まぁうん。僕もアツくなりすぎたよ。ていうか僕がギャルのスカートを捲る機会なんて訪れるわけないしね。そもそもさ、別にギャルじゃなくてもさ。見た目通りに普通に優しくていい子がいたらそれでいいもんね。隠してないからってその子の価値が下がるわけじゃないもの。え? 最初から脱いでた方が効率がいい? 面倒だから自分で脱いで来い? あれぇ? キミ結構オレサマだね……いやいや責めてるわけじゃあないんだ。僕はそういうのにも理解はあるつもりだよ。まぁそうね、キミはそうよね、うん。まぁ、話を戻そう。何が言いたかったかっていうと特別なことなんてないってことさ。大事なのは何をしたのかじゃない。誰と過ごしたのかってことなんだよ。時間を共にした者全員がさ、事件現場にいた関係者すべてがさ、それは特別だったって言ってしまえばそれは特別になるんだよ。例えそうじゃなくてもね。顔を会わせてさ、口裏合わせて、言葉を合わせて、口を揃えて、声を揃えて、揃いも揃ってさ、こう言うのさ。『死体なんてなかった』ってね。つまりは『共犯者』さ。青春を共に過ごした相手とさ、いつかの未来でさ、一緒に過ごした過去の時間は『楽しかったね』ってそう言えるんならさ、そりゃあ相手に感謝するべきだし、逆につまんなかったって言うんならさ、そん時はそいつのせいにすればいいんだと思うわけよ。こいつが悪いって。自分の心を守るためにさ。『犯人はお前だ』って。僕は悪くないってね。そうやって生きてかないと色々辛いしね……でもまぁ、そうはならないよ。つまらなかっただなんて、誰もが認めたくないからね。過去を否定するってことは、まんま今の自分を否定するのと同義だ。自分が失敗しただなんてそりゃ誰だって認めたくないからね。思い出は美しいとか思い出補正とかあるだろ? それはそういうことだよ。でも自分だけで言っててもそりゃただの妄想に等しい思い込みさ。だから口裏を合わせてくれる『共犯者』が必要になるんだよ。んでまぁ、重ねて言うとさ、特別なことなんてないからさ、特別じゃないことを特別にしてくれる特別な人を探そうよって。それは友達でもいいし、恋人でもいいし。何かしら特別な人をね。キミは一体誰を選ぶのかな? 誰を選びたい? 今出会ってる人、これから出会う人。誰を特別にしたいと思うのかな? キミはきっとそんなもの必要ないって言うんだろう? でもね。きっといつか特別を決めなきゃいけない。キミの『共犯者』をね。キミにはそんな日がいつか来ると思うよ。これは助言だし、預言だと言ってもいいかもね。僕は確信してる。なぜなら…………だってキミ、顔いいもの……目ぇ死んでて、言動やばすぎて引かれまくってるけど、顔いいもの。そんなもん絶対そのうち頭ぱっぱらぱーな緩い子がコロッといくでしょ。『貴方は私の特別な人なんです!』ってね。ずるいよ……。いや、この路線はやめよう。僕が落ち込む。ちょっとやり直すね。リテイクしよう。えーーとね……ちょっと待ってね。うん。よし。まぁ何が言いたかったかっていうと特別なんてないってことさ。だってね? 考えてもみてよ弥堂君。北海道でゲーセン行こうが鳥取でゲーセン行こうがそれに何の違いがあるのよって。雪が降ってたか砂が降ってたかの違いしかないでしょってね。え? 降らない? 鳥取に、砂は、降らない。なるほど、うん。ごめんね? 僕も完全アドリブだったからさ。鳥取→砂漠→砂ってね。はい。安易なイメージで適当に言いました。まさしく急ごしらえさ。え? 砂漠じゃない? 砂丘? 別物? ……うん、なるほど、うん。え? 雪? 鳥取って雪降るの? ……ほうほう、なるほど。砂丘一面の雪景色に、時期があえばクリスマスに素敵なイルミネーションになる、と。そうか。いや、ちょっと待ってよ弥堂君。キミさ、何か鳥取県について造詣が深くない? だってさ、キミさ。クリスマスとかイルミネーションとか絶対興味ないでしょ? それに普段そんなにツッコんでこないじゃない。何なの? その鳥取の認識に対する特別な厳しさ。特別なの? まぁいいや……ちょっと待って! あとちょっとだから! 鳥取の話はまた後で聞くから僕に最後まで喋らせておくれよ。うん、ありがと。白うさぎの話はちゃんと後で聞くから、ね? そんな顔しないで、ね? ……でね、結局何が言いたかったかっていうと、僕さ、こんな調子で同窓会とか呼ばれるのかな……? 果たしてね? こんな僕の『共犯者』には一体誰がなってくれるのかってことなんだけどさ…………ねぇ――「ねぇ、弥堂くんっ!」――」



 記憶の中に記録された饒舌な廻夜のいつもの自分の名前を呼ぶその台詞と声に被さる形で、横合いから彼とは似ても似つかない甘ったるい声で言葉を合わせてくる者があった。その声に押し出されるように、やたらとデフォルメされた廻夜が彼方へとコロコロと、その丸っこい身体を転がして退場していく様が幻視された。


 幻影を振り払うように頭を軽く振って切り替えながら、聞き覚えだけはよくあるその声がした自身の左隣へと弥堂 優輝びとう ゆうきは顔を向ける。


 いつも通り視線を遣ることで以って返事としようとしたのだが、声の主である彼女――水無瀬 愛苗みなせ まなの隣に立つ過保護な親猫が、獰猛な唸り声でも聞こえてきそうな威嚇の眼差しを浴びせかけてきているのも同時に視界に入り、嘆息混じりに相手の名前を呼ぶ。


「なんだ、水無瀬」


 名前を呼ばれる。ただ、それだけのことがまるで特別なことのように、彼女は嬉しそうに目を輝かせた。彼女にしては珍しく俊敏な動作でシュバっと右手を上げ


「はいっ、水無瀬 愛苗ですっ!」

「知ってんだよ」


 元気いっぱいにお返事をする水無瀬が理解不能すぎて、つい無駄な口をきいてしまったことを弥堂は強く悔いた。用件を言うように視線で水無瀬を促したが、目が合った彼女はふにゃりと相好を崩して「えへへー」と笑うばかりで、埒があかないと判断した弥堂は親猫へと視線を移した。


「あによ」


 親猫――もとい希咲 七海きさき ななみは、弥堂の視線に気づくとそれだけ言ってプイっと顔を逸らした。どうやら子猫の代弁をしてくれるつもりはないようだ。



 ふむ、と顎に手を当てて考える。


 彼女が――希咲が水無瀬の席まで来ているということは、廻夜の冗長で矢継ぎ早な台詞を頭の中で復唱している間に、昼休みが始まってから少し時間が経過していたのだろう。周囲を見渡せば教室で食事をとる生徒以外はもう学食などへ向かったようで、大分教室内の人数は少なくなっていた。


 視線を戻して再び水無瀬と希咲を見遣る。この二人はいつも昼休みを共に過ごしている。教室でだったり、校舎屋上でだったり、中庭でだったり。これまでのパターンだとそのいずれかの場所で食事を共にするはずだ。このタイミングで自分に声をかけてきたということは、その用件と為り得るものの選択肢はそういくつもない。

 


 弥堂は素早く眼球を動かし脱出経路を探った。



 間違いない。厄介事だ。



 最有力は『一緒に食事をとろう』だ。

 一年生時は何かにつけ『弥堂くん一緒にごはんたべよ!』と水無瀬に絡まれたものだが、二年生に進級してからは、彼女と行動を共にする希咲が自分を嫌ってくれているおかげでその頻度は大分減った。が、ゼロではない。ゼロにはならないのだ。


 自分が油断をしていたとミスを素直に認め、弥堂は周囲の状況確認を終えると頭の中に広げた校内MAPと照らし合わせ、セーフポイントまでの逃走経路を組み上げていく。が、


「お昼やすみですっ、弥堂くんっ!」


 再びシュバっと手を上げて水無瀬が手遅れだと伝えてくる。ニコニコと随分と楽しそうな様子だ。

 その隣に目を遣れば、腕組みをしながら、逃走する素振りを見せれば即座に噛み殺すと、そう言わんばかりの眼光で睨みつけてくる希咲がいる。


 すると、そんな様子の希咲を手を上げたポーズそのままの水無瀬がじーっと見上げた。希咲の態度を咎めたわけでも疑問に思ったわけでもない。ただ弥堂の目線の動きに釣られただけなのだろう。


 何を思うでも含みを持たせるでもなく、ただ自分をじーっと見つめてくる純真な眼差しに希咲は「ゔっ⁉」と怯んだように呻くと、やや逡巡しつつ、


「お、お昼休みよっ!」 


 シュバっと片手を上げて水無瀬と同じポーズをとった。そのお耳は真っ赤だ。


 水無瀬さんはニッコリした。周囲の生徒さん達もニッコリした。弥堂はこれまでのデータにはない行動をとった実験動物を注意深く観察するように慎重に希咲を視た。

  

 彼女はその大きな猫目をグルグルと回しながらしばしそのままのポーズでいたが、段々と押し寄せる羞恥に耐えられなくなる。「うぅっ」と情けない声を漏らしてからヘナヘナと萎れるように脱力をし、七海ちゃんはその場にしゃがみこんで膝を抱えてしまった。


 それでも、弥堂に背を向けて窓側の壁を向き、決して安易に男の子に下着は見せないという意志だけは健在だった。


 水無瀬はそんな親友の挙動をじっと見守ってから、「お昼やすみだよっ、弥堂くん!」と繰り返した。使い物にならなくなった相棒は捨て置いて、自らの目的を遂げることにしたようだ。


 弥堂はそんな彼女の精神性とその強度を見て、水無瀬 愛苗に関する評価と危険度を脳内で一つ上方修正し、同時に希咲 七海の評価を一つ下げた。先程より若干気安くなった水無瀬の口調に脳内で警報が鳴り響く。


「あ、あのね……」


 弥堂の内心など露知らずの水無瀬は今度は突然胸の前で両手の指を絡ませて視線を俯けると身を捩り始めた。

 弥堂は挙動不審な水無瀬の様子に警戒心をより一層高め、彼女が目線を外した隙に悟られぬよう軽く椅子を引き僅かに腰を浮かす。慎重に様子を見ながらも重心をつま先へと移し、いつでも席を立てるよう準備をした。


 水無瀬は言葉を探すようにしばし自分の絡ませた指の動きを見つめ、やがて意を決したように口を開く。


「あの、ね? 弥堂くん、今日は学食の予定だったり、するのかな……?」


「…………」


 弥堂は即答はせずに上目でこちらを見つめる水無瀬の様子を注意深く観察をした。


 いつものように無視をしたわけではない。だが、真意が掴めないため受け答えは慎重にするべきだと判断した。わずかなヒントも逃さないよう、油断なく水無瀬の全身を視界に収めながら、出来るだけ多くの情報を集め脳内で整理していく。



(どういうつもりだ? 学食だったら何だと言うのか、学食でなかったら何だと言うのか……どちらにせよ、いつも通り目的は食事を共にすることか?)


 今までの傾向から言って昼休みにこうして声をかけられる時の用件は二つだ。一つはくだらない世間話。もう一つは前述した食事を共にすること。いつも世間話を求められる時は希咲と合流する前に仕掛けられる。よって今日の様子から見ると後者だろう。もしくはそのどちらでもない特殊なパターンか。



 抜本的な問題に目を向ける。



(何故俺に干渉する? こいつは、一体何が目的だ…… )


 二年生となってからは頻度は減ったとはいえ彼女から食事に誘われることは、彼女と出会ってから今まで幾度もあり、そしてその誘いにこちらが乗ったことなど一度もなかった。いや、一度だけあった。

 声をかけられ始めた一年生の時分で、席が元々隣同士なこともあって、自席で食事を摂るならば同じことだと了承をしたことがあった。だが、その一度だけでその後はすべての誘いを断っている。


 それは普段の挨拶や雑談に関しても同様だ。最初は話しかけられても無視をしていた。事務的な受け答えはするが、必要のない馴れ合いには付き合わない。それが弥堂 優輝が全ての他人に対して引いている『線』であった。そしてそれは正しく機能していた。この目の前の水無瀬 愛苗以外の人間には。


 通常、『普通』に考えて。それが弥堂でなかったとしてもだ。他人に冷たくされたり興味を持たれなければ、それでその人物とは距離を置くはずだ。水無瀬のように友好的に接触をしてきたのに、そういった気のない対応ばかりをされればそれはよりその公算を大とするであろう。逆に反感・怒りなどの悪感情を抱いたとしてもおかしくはない。



(だがこの女は、水無瀬 愛苗は違う)


 どれだけ冷たくされようとも、無視をされたとしても変わらない。何も変わらない友愛のように見える感情でその大きな丸い瞳を輝かせたまま、何も変わらず呼び掛けてくる。それは――



 それはとても『異常』なことだ。



 水無瀬 愛苗の『異常性』を思い、弥堂は彼女の肘周辺へと目を向ける。紺色の制服のブレザーを着用しているためその下に隠された肌は見えない。


(夏服の時に確認はしたが薬物の注射痕などはなかった――が、)


 視線を彼女の顔に移す。


(顔面はやや紅潮をし眼球は多少潤んではいる、が、瞳孔の動きなどは正常の範囲……暴徒や狂信者のような正気を失っている者特有の瞳の色はない、そのようには視える……)


 しばし水無瀬の瞳孔の動きを観察する為に視線を合わせていると、彼女は内腿を擦り合わせるように身動ぎをした。弥堂は不審の目を強めた。


(む、なんだ? 今の動作は? ……何故重心を不安定に揺らす必要がある? 何かの予備動作か……?)


 弥堂以外の人間が見れば、満場一致で恥じらう乙女の仕草にしか見えない、そんな様子の水無瀬の体勢から繰り出せる有効的な攻撃行動の予測を立てていく。弥堂はチラっと水無瀬の右隣へ視線を送った。


 そこには未だこちらに背を向けて蹲ったままの希咲が居る。

 

(この女の運動能力は厄介だが、この盤面からならば先手をとれる)


 自分が決定的に不利ではないことの確認をとりながら次は水無瀬の左側へと目を遣る。水無瀬の背後の窓は全て閉ざされていた。


(まずは希咲へ向けて机を倒す、その後水無瀬の左側面へと周り、運動神経皆無のこの女を希咲への盾としながら、そのまま背後の窓をぶち破り階下へと降りる。着地後すぐに一階の窓を破壊し再び校舎内へと入れば死角は作れる。向かう先は事務棟だ――)


 学園の風紀を守るべき立場である風紀委員会所属のその男子生徒は、学園の備品である窓ガラスを破壊した後に、二階から飛び降りるという危険行為を行った挙句、あろうことかご休憩中の先生方のいらっしゃる職員室を避難場所とすることを即座に決断した。


 机の上に置いていた腕をさりげなく移動させ天板の端を掴む。浮かべたプランを実行すべく机を持ち――


「あ、あのねっ、お弁当作ってきたのっ‼」



 ――浮かしかけていた机を静かに下ろす。


(またこちらの行動の頭を抑えられた……偶然か? ……呼吸を読まれたとでもいうのか……?)


 水無瀬は後ろを向き机の上の自分の鞄の中から何かを取り出そうとしている。

 それに合わせてかどうかは不明だが、自分の中で何かしらの折り合いがついたのか、希咲が緩慢な動作で立ち上がりこちらに不機嫌そうな眼差しを向けてくる。


 弥堂は内心で舌を打った。


 事ここに至ってはもはや逃走は諦めるしかあるまい。机から手を離し、水無瀬の動向を見守る。

 弁当を自作したからなんだというのかは不明だが、何れにせよ、このまま厄介なこの二人組に付き合う他ないと覚悟を決める。弥堂はチラと腕時計に目を遣った。昼休みに入ってからもう10分以上が経過していた。


(無駄な時間だ)


 胸中で一人ごち水無瀬を待つ。


 振り返った彼女は弁当袋と思われる布の袋を二つ抱えていた。何故二つ? と弥堂は怪訝な目を向ける。


「あのね。今日もお弁当用意してたりしないよね? 弥堂くんいつも変なの食べてるから、ちゃんとしたごはん食べた方がいいってずっと思ってて、それで私……」


 そういえば――と思い出す。確かに一年生時から弥堂の食事メニューについてそういった指摘を受けてはいた。

 希咲が「変なの?」と首を傾げている横で水無瀬は言葉を探しながら続ける。


「……お母さんのね、お手伝いしながら教えてもらって……おいしくないの食べさせちゃったらかわいそうだし、恥ずかしいし……それでね? ずっと練習してて……」


 いまいち要領を得ない言葉が錯綜し、結論まですぐに辿り着かない。しかし、自作したというその弁当を大事そうに胸に抱いて、視線だけは真摯にこちらへしっかりと合わせ何かを必死に伝えようとするそんな彼女を――水無瀬 愛苗を見て弥堂 優輝のその心は――



「……あのね? だから。このお弁当、たべてくださいっ!」


 ギュッと目を瞑り二つ持った内の片方の包みを差し出してくる、そんな水無瀬 愛苗の姿に――



――弥堂 優輝の精神は芯まで冷え渡った。キンっと鞘から刃を抜き放ったかのような冷たい音が脳内に響き思考が静まる。



 今朝の希咲とのやり取りを思い出す。


 なるほど、どうやら彼女らは『共犯者』だったようだ。水無瀬への対応を改善しろとはこれの為だったのだろう。


「あたし昨日同じの作ってもらって毒見――もとい味見してるからメニューと味は保証したげるわよ」


 軽い口調とは裏腹に希咲のその眼差しは「受け取らないなんて選択は許さない」と言っている。そんな希咲と、彼女に顔だけ向けて「毒見はひどいよぉ」などと言っている水無瀬を見て、



(くだらない茶番だ)



 弥堂 優輝はそう思った。心の底からそう思った。そして、酷く面倒になった。



 弥堂は席から立ちあがる。


 それを見て「お?」と目を軽く見開く希咲と、その彼女の様子に気付いてこちらに向き直る水無瀬の元へと一歩踏み出す。


 期待するような視線を送ってくる希咲と、再び緊張したような面持ちになって差し出す弁当袋を持つ手に力を込める水無瀬を見下ろす。


 

(このお弁当、たべてくださいっ!)

(特に、今日は、お願い。優しくしてあげて? ……お願いよ)


 

 真摯で必死で切実な二つの声。



 きっと――



 きっと、たかだか、こんな、くだらないことが、彼女たちには重要で、『特別』なことなのだろう。

 


 水無瀬 愛苗みなせ まな弥堂 優輝びとう ゆうきに弁当を食べさせることで。

 希咲 七海きさき ななみは水無瀬 愛苗のそんな願いが叶うことで。



 彼女たちは何かしらの充足感を得て、いつかの未来で顔を会わせて、今日という日が『楽しかった』とそう声を合わせて、笑い合い、お互いの青春が、人生が、豊かだったと、口裏を合わせてそういうことにする。

 そんな『共犯関係』なのだろう。


 廻夜 朝次めぐりや あさつぐの言葉に照らし合わせれば、これはそういうことなのだろう。



『それならば、自分は――』


 廻夜の言葉の続きを再び思い出しながら弥堂は目を細め、水無瀬と希咲を視て、弁当袋を視て――



 その包みを受け取った。



 瞳を輝かせ、何やら姦しく喜び合う少女二人を見て思う。



 絶対にありえないことだが、仮にいつかの未来とやらが訪れたとして――



――これで自分はどちらの少女の『共犯者』となったのだろうか。

 

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