序-04 『不揃いな二項、歪な三項』

 HRが終わり登校してきた生徒達の出欠確認と、必要な連絡事項の伝達を済ませた担任教師が退室していく。


 午前8時40分から開始されるHRには10分間の時間が与えられており、一限目の授業は9時ちょうどから開始となる。授業内容により特別教室やグラウンド、体育館へと移動することもある為、HR後にも一限目開始までに10分間の準備時間があるのだ。


 2年B組の本日の一限は『数学』だ。教室の移動はなく2年B組の教室で授業が行われるため、多数の生徒達は再び雑談に興じ始めている。大半の生徒が自席の近場の者達と歓談している他、机上に教科書とノートを広げこれから行われる授業の内容を確認している勤勉な者もいれば、スマホを手にSNSやゲーム、または必要な情報の収集に時間を充てる者もいる。

 それ以外では少数派ではあるが、席を立ちこの僅かな時間でも仲の良い級友の席まで訪れる者もいた。



 後方より近づく者があった。スッ、スッと長い左右の足を綺麗な歩調で交互に均等に動かし、やがて弥堂と水無瀬の席の間で立ち止まった。


「おはよ、愛苗」


  視界の外から声をかけられた水無瀬 愛苗みなせ まなは驚きで一度肩を弾ませるが、覚えのある声で訪問者の正体に見当がついたのだろう、振り返る動作の最中に声に喜色を浮かべる。


「ななみちゃんっ!」


 振り向き視認した顔と自分の予測が一致し、「おはよおぉぉぉっ」と返礼しながら自分を訪問してくれた友人の細い腰に座席に座ったまましがみ着く。


 抱き着かれた本人はというと彼女がそう動くことは予測済みだったようで、慣れたものとばかりに「はいはい」と姿勢を崩すことなく水無瀬を受け止めた。そのまま淀みのない動作で水無瀬の頭を撫でてやりながら、


「あんた今日ギリギリだったわねぇ。なに? 寝坊でもしたわけ?」


 と、声に若干の呆れを滲ませながら咎めたものの、その表情は酷く優し気だった。


 問われた水無瀬は顔を上げると「えへへ……」と照れ隠しのような曖昧な笑みを浮かべ、視線の先の自身の最も仲の良い友人である希咲 七海きさき ななみと目を合わせる。


 その視線を受け取った希咲は、水無瀬の仕草から経緯を察して誤魔化されてあげることにしたようだ。


 吐息を漏らすだけの軽い溜息をついて「あーはいはい、もういいわよ」と彼女の頭を撫でていた手を上げて下ろし、ポンっと軽く水無瀬の頭を叩くとそれで追及を手打ちにしてあげた。


 そのまま水無瀬の両肩に手を置き彼女を優しく引き剥がしてあげると、急いで登校してきたらしいその姿をなるべく広く視界に収めるべく距離を空け、上から下へと目線を走らせ彼女の身嗜みにチェックを入れる。


「あー……あんたまさか走ってきたの? 髪がちょっと解れてる…………制服はー……だいじょぶね……汗は? かかなかった? とりあえず三つ編み直したげるからブラシ出しなさい」


 言いながらもうおさげを解き始めて手際よく自分のお世話をし始めている希咲に、「はぁーい」と嬉し気に返事をしながら水無瀬は鞄に手を突っ込みヘアブラシを探した。3回ほど鞄の中身を捏ねくり回し首尾よく目的の物を見つけ希咲へと手渡しながら、


「汗は大丈夫だったよー…………って――へ? 匂わないよね⁉ 嘘⁉ ななみちゃん、私くさい⁉ って――ほわぁっ⁉」


 と、わたわたと慌てだし予定調和のように手の中の物を取り落とす。


 希咲は「あん、もうっ」と悪態をつきながら、落ちてくるブラシを膝で打ち上げ、胸元まで上がってきたそれを事も無げに右手で掴むと、人差し指を支点にクルっと回しブラシの持ち手側を器用に掌に収め、そのまま何事もなかったかのように水無瀬の髪を解かし始めた。


 彼女の丈を短くしたスカートで膝を上げようものならば、その内に隠された下着など簡単に衆目に晒してしまいそうだが、幸いにも水無瀬の座席は最窓際の列だ。その席に座る水無瀬の背後は窓だし、左右には女生徒しかいない。水無瀬側を向いて足を上げても男子生徒達に下着を見られる心配はない。


 内心で「完璧な仕事だったわ」と一人ごち、希咲は得意げに鼻を鳴らした。


 一方、不始末を起こした側は、左手の指で挟んでいた水無瀬の髪が引っ張られることがないよう、一切体勢を崩すことなく一連の動作をやってのけた目の前の友人を、ぽかーんと口を開けながら数秒ぼーっと見つめてから再起動し、その大きな丸目をさらにまん丸にして「おぉー」などと称賛の声を上げながらぱちぱちと手を叩いた。


 その拍手を受けた希咲は「はいはい、あんがと」と気のない返事をしながら、丁寧に水無瀬の髪を編み直していく。普通の女子高生とは思えない離れ業をやってのけておきながら、まるでそれは大したことではないといったようにクールに振舞う彼女であった。


 が、しかし、よく見るとその口元はによによと波打ったようにニヤており、左側だけサイドアップにした髪から露わになった耳輪を朱に染めて、大好きな親友に褒めてもらって余程嬉しかったのか、手元では正確に作業を行いつつも上機嫌を隠し切れず、小さく尻を左右に振っていた。



 他方、水無瀬の隣の座席で一限目の開始を待つ弥堂はというと、眼前で左右に揺れる希咲の尻を眺めていた。


 ヘアブラシを取り落とした際に上げた水無瀬の奇声で事件かとそちらへと目線を向けたのだが、その先にあったのは控えめにフリフリと振られる小ぶりな尻であった。


 際どいラインで揺れ踊る学園指定の制服のスカートの裾は、尻の振られる動きに合わせ右側が持ち上れば左側が尻に張り付き、逆に振られれば今度は右側が尻に張り付き、その中身の形状を想像させた。


 異常を確認する為に数秒ほど尻の様子を注意深く観察したが、左右の中殿筋と大殿筋を包んだきれいな曲線に交互にピタリと張り付くスカートの動きから、その中に武器の類を隠し持っている様子はないと判断を下すと、弥堂は興味を失い自身の机の上のノートへと視線を戻した。



 弥堂の様子には当事者たる希咲と水無瀬は気付いていなかったが、周囲の生徒達をまた騒めかせた。


「あ、あの野郎……今度は希咲のケツをガン見してやがったぞ……怖いもんなんてないのか奴には……」

「待て、今重要なのは奴が乳派なのか尻派なのかということだ。その答え如何では我々は或いは友にもなれる……」

「は? 女は足だろ? 何で足を省いた? ……どうやら先に決着をつけなきゃならねえ奴がいるようだなァ⁉」


「ビトオォォォォ……‼ 神聖なる愛苗×七海の尊い光景を穢す薄汚い野良犬がアァァァァァ……‼」

「ちょっ、ちょっと! アンタ目がやばいわよ⁉ 女の子がしていい顔じゃないからそれ!」

「あわわわ……やっぱり性獣さんなんだよぅ……人の心を失った性欲のバケモノなんだよぅ……きっと今の一瞬で七海ちゃんのパンツまでばっちり確認したはずだよぅ……さすがぬか――」


 

 若干2名ほどの胸倉を掴み合って揉み合いながら廊下に出ていく男子生徒と、それを冷ややかに見遣る女子生徒数名が居たものの、ヒソヒソと囁きあう周囲の様子など他所に、当事者たる水無瀬と希咲は完全に二人の世界を創り出していた。



 必死に表情には出さぬようにしていながらも、その内心の嬉しさを隠しきれていない希咲の仕草に気付くと、水無瀬は慈しむようにその目を細めた。

 そして、改めて自分の髪を編んでくれている親友の顔を見つめる。


 

 希咲 七海きさき ななみ。一年生の時に所属する委員会で出会った同い年の女の子。


 その顔だちで一番印象的なのが大きく形のよい猫目だ。つり気味の目尻に大きな瞳、綺麗な曲線を描く瞼に均等に生えそろった長いまつ毛が強気な彼女の性格を表すかのようにその目に力を与える。

 小さめの鼻や口、薄めの唇のおかげで面差しは派手にはなりすぎず、小ぶりな耳たぶの下から顎先にかけてシャープなラインを描き、全体的にすっきりとした印象を感じさせる綺麗な顔だちをしていた。


 162㎝の平均より少しだけ高めの身長に小さな頭、スラっと伸びた細い手足に、水無瀬の短い腕でも余裕をもって周り切ってしまう細い腰。痩せすぎにはならない絶妙なバランスで全身も形成されていてあと数年もすればとんでもない美人になることが大きく期待できた。


 現在の彼女にはまだ少女らしいあどけなさも混在していて“キレイ”と“カワイイ”が共存しており、同年代の少女達の中でも特にファッションについて関心の高い方になる希咲は、制服もしっかり自分流にアレンジしていて、簡単に分類するのならば所謂『ギャル系』というカテゴリに属する。


 茶髪よりは色が薄く金髪とまではいかない、光の当たり方次第ではピンクゴールドにも輝く亜麻色に近い髪は、後ろは腰の辺りまで長く綺麗に伸ばされており、左側だけ水色のシュシュで髪を括ったワンサイドアップにしていて、日によっては髪を編んだりなどのヘアアレンジをしたりヘアピンを付けたりなどしていた。

 ストレートの細い髪質にボリュームを持たせるために毎朝早起きして時間をかけてセットしており、毛先までコテを使いワックスで細かい毛束を複数丁寧に作っている。


 幸い恵まれた顔の造形をしているため、メイクは軽いアイメイクとリップを塗る程度でも十分となっており、一見派手に見えるものの全体的に小綺麗な印象を誰しもに持たせた。



 学園指定のプリーツスカートは下品に見えない程度に丈を短くし、上は同じく学園指定のブラウスを着用し今日はそのボタンを上から三番目まで外し軽く襟を開いて大きめのリボンを着けていた。ブラウスの上からは自前の薄い生地のピンクのカーディガンを羽織っている。


 この学園の女子制服はブラウスとスカートは学園指定の制服の着用を義務付けていて、その上に着るものは制服のブレザー、ベスト、カーディガンの他に『常識』を逸脱しなければ制服外のものの着用も許可されていた。

 ちなみにブラウスは白以外に薄いピンクとブルーの3種類があり、スカートも白と黒のラインの入ったチェック柄が基調ではあるが、赤、青、グレーの3種類が用意されていた。胸元もリボンとネクタイの2種類にそれぞれ3色の選択があり、どれを好きに組み合わせて着てもよいことになっている。


 男子は白のワイシャツにネクタイ1種類。スラックスはグレーかカーキ色の2択はあるものの、女子の制服と比べて露骨に力の入り具合が違う。一度理事会に『不公平』であると生徒側から署名を集めての抗議があったのだが、「じゃあ、希望のデザインを出してみろ」と当時の男子生徒達に意見を募ったところロクな意見が上がってこず、抗議をした男子生徒達の大半も「とりあえず騒いでみたものの別に俺らにはいらなくね? いっぱいあってもどうせ着こなせないし?」と熱が冷め現在の形に落ち着いている。



 とはいえ、全ての女子生徒がそうするわけではないが、希咲に関してはその日の気分で制服を組み替えたり、ブレザーやパーカーを着たり、様々にコーディネートして学園の制服を最大限に楽しんでいた。


 細く綺麗な指が器用に動き髪を編み上げていく。時折見える爪には薄いピンクのマニキュアが塗られナチュラルな光沢が艶めいており、よく見ればわかる程度に控えめなラメが煌めいている。ネイルチップなど付けてしまえばもちろん校則違反となるのだが、大人に見咎められない範囲でうまく飾っていた。


 このように全体的に見れば派手めなギャル系JKとして見えるのだが、当学園の校則は他校よりは比較的緩いと謂われてはいるものの、それに大きく違反する箇所は各部分的に見ると一つもなく、つまり希咲 七海とはそういった『バランス感覚』に非常に優れた少女であった。



 彼女との出会いとなる去年一緒になった委員会での立ち振る舞いにしても、そのバランス感覚は当時から遺憾なく発揮されていた。


 同性の生徒はもちろん、男子生徒や教職員相手でも何も遠慮することなく意見をし、強い口調で喋ったとしても相手に強い反感までは抱かせない。


 自分の仕事はテキパキとこなし他の進行が遅れている場所を的確に見つけ出してそれを手伝いつつも、過剰に頼りにされ余分な仕事を押し付けられたりすることはないようにうまく立ち回っており、対人コミュニケーションの部分でも集団内でのポジショニングにおいても優秀なバランス感覚を発揮していた。


 当時同僚であった水無瀬はというと、専らそんな彼女の世話になることが多く、しかしそれが彼女との接点となり友人となる切っ掛けとなったのは今にしてみれば至上の幸いである。


 器用な希咲とは対照的に鈍くさくて手際の悪い自分は、与えられた仕事を素早くこなすことも、手が空いた時に自分で仕事を見つけ出すことも出来ず、集団の中で思考停止をしてしまうことが多かった。


 そんな水無瀬 愛苗に声をかけてくれて、助けてくれたのが希咲 七海である。



 希咲は通常不機嫌そうに見える顔をしてることが多く、最初に話しかけられた時はその眼力に怯えて涙ぐんでしまったりもしたのだが、口調はぶっきらぼうなものの丁寧に根気よく自分の面倒を見てくれて、時間を重ねるごとに水無瀬は彼女の人柄を理解していった。


 水無瀬も人と話すのが大好きで物怖じなどはしないのだが、ある理由から数の多い集団の中ではうまく立ち回ることを苦手としていた。高校生になって頑張って人の輪に溶け込んでいこうと意気込んではいたものの、やる気とは裏腹に空回りしてしまうことも多かった。


 そんな折に出会った希咲 七海は自身の理想像そのもので、頭の回転が速く、何でも出来て、誰が相手でもはっきりと物を言う。水無瀬からは彼女がそのように見えた。


 自分は特に見た目や精神的な幼さをコンプレックスにしている為、他の同年代の少女達と比べても希咲は大人びて見えて、オシャレで、カッコよくて、二年生になって同じクラスになれた時は本当に心の底から嬉しくて、とても優しくて、キレイで、そして――「よしっ」



 そんなことを思いながらボーっと希咲を見つめているといつの間にか作業を終えていた彼女の声で現実へと立ち返る。


「ほらっ出来たわよ」とカーディガンのポケットから取り出した手鏡を開いて自らの仕事のデキを見せてくれる。鏡面に映った彼女がキレイに編んでくれた方のおさげを見る。


 逆側の自分で編んだものより少しだけキレイに出来ていて、本当はもっと上手に出来るのに出来栄えを揃えてくれたそれを見ていると、憧れの『ななみちゃん』の力を半分貰ったように感じて嬉しさが胸から溢れた。


 ニコニコしながら軽く頭を動かして、鏡に映った『ななみちゃん』製のおさげの動きを楽しんでいると「どう? だいじょぶ?」と作者から声がかかる。


 それに対して思いつく限りの称賛の言葉を並べ挙げていたら、希咲は少しそわそわとしながら手鏡を閉じてポケットにしまった。


 あまり豊富ではない水無瀬の語彙の残弾はすぐに底を尽き始め、それでも一生懸命に賛辞を送ろうとしていると、


「やっぱり自分でするよりななみちゃんにしてもらった方が上手ですごくいいっ!」


 ビシッと。周囲の空間に聞こえるはずのない擬音を走らせるような爆弾を放ってしまった。


「えっ⁉ ……うぇ?……えぇっ…………」


 希咲は顔を真っ赤にし目線と手の動きを彷徨わせ言葉を失い、彼女らのやり取りを遠巻きに眺めていた周囲の者どもは、水無瀬の無自覚な際どい発言に一層騒めきを強くした。


 隣の席の弥堂だけは恐らく何も気付いていないのだろう、動揺もなくマイペースにこの後の授業で行われるであろう小テストで、出題が予想される箇所のカンニングペーパーを黙々と作成する『予習』をしていた。そして廊下からは『ちち』『しり』『ふともも』といった単語と聞くに堪えない罵詈雑言が響いてきた。



 水無瀬は所在なさげに宙を泳ぐ希咲の手を摑まえると両手でやんわりと握る。


「ありがとう」と口に出してから、彼女の細い手を自身の小さな手で大事に大事に握って言葉以上の感謝を込める。そしてしっかりと彼女の目を見つめ


「ななみちゃん……だいすきっ!」


 恐らく今日一番となるであろう笑顔を咲かせた。


 希咲はただでさえ紅潮していた顔色を下から上へとさらに真っ赤に染め上げ、沸騰したヤカンから立ち上る湯気のように髪を逆立てた。


「あう……あう……」などとまるで正体を失くしたかのように言葉にならぬ声を上げ、視線の置き場を求めてその大きな瞳を彷徨わせる。


 しかし決して親友の手は振りほどいたりはせずにやがて、キュっと遠慮がちに水無瀬の手を握り返すと、顔を逸らしたまま恥ずかし気に目線だけをチラっと向けて、


「……あ……あたしも…………すきっ……」


 彼女らしからぬ消え入りそうな声でそう言った。


 そんな希咲の様子に水無瀬は安心させるようにニッコリと笑みを深める。

 

 もちろん周囲の生徒の皆さんもこれにはニッコリだ。心の汚れた者にはスラリとした茎に大ぶりの白い花が一面に咲く情景が幻視されたであろう。


 生温い視線で周囲から注視されていることに気付いた希咲は「じゅっ、授業始まるからっ!」と誤魔化すように言いながら、丁寧に水無瀬の手を解いて踵を返そうとしてすぐに止まると、肩越しにチラっと視線だけを寄越して、


「あ……あとで反対側も、やったげる…………」


 自身の表情を見せないようにそう言って水無瀬の反応は見ずに自席へと歩き出した。



 その背をにこやかに見送りながら水無瀬 愛苗は想う。



 希咲 七海は自分にとって、一番の親友で、優しくて、大人っぽくて、カッコよくて、とてもキレイで、そして……


(とってもかわいい人っ‼)


 胸中で彼女への友愛をまた募らせ、今日も大好きな親友の大好きなところが増えてしあわせいっぱいな気持ちとなった。



 こうして自分ではクールなお姉さんキャラだと自負している少女は、今朝も教室にほのぼのとした空気を振舞い、2年B組の一日は平和に幕を開けた……

かのように見えた。が、しかし。





 そう思ってた時期が幾人かの生徒さんにもございました。





 ピタっと。10歩も進まない内に希咲 七海きさき ななみは立ち止まると、ぐりんっと勢いよく振り返った。


 数瞬前のようなテレテレの表情は欠片もなく、その力強い眼に険しさを滾らせ肩を怒らせながら乱暴な歩調で逆走してくる。

「おや?」と周囲の生徒たちがその様子を見守る中、先程まで立っていた場所とほぼ同じ位置まで戻ってくるとそこで足を止めた。


 今度は自分をぽへーっと見上げる水無瀬の方ではなく、その反対側の生徒へと腕組みなどしながら声をかける。


「ちょっと、弥堂?」


 シュバババッと俊敏な動作で周囲の生徒達は教壇の方へ向いた。

 まるで訓練でもされたかのような動きで、誰もが本心から関わりたくないとそう思っていたが、幾人かは教科書やノートで顔を覆い隠しながら聞き耳をたて覗き見をしている。



「なんだ? 希咲」


 弥堂は机で彼なりの『予習』作業をしながら顔も向けずに答える。そのぞんざいな態度に希咲の形のよい唇と眉の端が僅かに引き攣った。


「あっ…… 、あんたねぇ……‼ それよ。そういうあんたの態度よ。なんなわけ? 浮いちゃってるって自分でもわかってんでしょ? 少しは愛想よくできないわけ? それ、よくないと思うわよ 」


「そうか」


 口調は強いものの、どうにか怒りを飲み込みながら努めて冷静に、多くの者が彼に対して思っているであろうことを指摘する。それにも弥堂はやはり顔を向けることすらせず、にべもなく短くそう返答すると『予習』を続けた。



 数秒、教室内は完全に無言になった。



 やがて希咲はプルプルと震え出すと、踏み抜くような勢いで靴底を床に叩きつけながら弥堂の正面へと周った。


「そうか――じゃねえのよっ! ぜっんぜんっ! わかってっ! ないじゃっ! ないのよっ‼ 」


 と、『!』に合わせて弥堂の机を両手でバンバン叩き自身の怒りを強烈に示唆した。そして、


「少しはあたしに興味をもてっ‼」


 ビシっとそんな音が聞こえたように錯覚するほど、腕を振りかぶって勢いよく弥堂の眼前にその細長い人差し指を突きつけた。 


 

 周囲の生徒さん達は怯えた。

 廊下からは殴りあうような音が響いている。



 机を叩かれたことで作業の中断を余儀なくされた弥堂は止むを得ず『予習』は諦め、筆記用具を置くと顔を上げてようやく希咲の顔へと目を向けた。


「ゔっ⁉」と、弥堂に昆虫めいた無機質な瞳を向けられ希咲は一瞬たじろぐも、気を取り直すように胸にその綺麗な指を伸ばした手を当て数回深呼吸をする。そうして気合を入れ直し、再び弥堂の机に両手をバンっと叩き付け至近で彼と目を合わせ、その眼差しに力を込めた。



「あんたねぇ、せっかく毎日毎日愛苗まなが話しかけてくれてるんだからもうちょっとマシな対応しなさいよ」


「マシとは?」


 弥堂は身じろぎもしない。


「さっき言ったでしょ? 愛想よ愛想。『少し』だけでいいから他の人を相手にするより愛想よくしなさい」

 

「しているつもりだが?」


「足りないから努力をしなさい。そう言ってるのよ」


「断る、と言ったら?」


「断らせるとでも思ってるの?」



 くすんだ鈍い金属のような弥堂の瞳と、強烈な意思がそのまま絢爛さとなった虹を内包したかのような希咲の瞳。お互い相手の瞳に映った自分の瞳がはっきり見える距離でしばし無言で見つめ合う。


 両者の視線がぶつかり、物理的な干渉を起こしているとさえ錯覚させるようなプレッシャーを周囲に撒き散らした。


 左隣では水無瀬が「あわわ……ななみちゃん……」と、緩く握った左手を口元に当て、右手を頼りなく伸ばす乙女チックな仕草をした。


 二つ前の席では元空手部の仁村君が、数か月前の一年生時に「粛清だ」と言って練習場に乗り込んできた弥堂一人に、素行は悪いものの空手部史上最高の黄金世代と謳われた当時三年生の先輩達がまとめてなすすべもなく制圧されていくのを、用具入れに隠れ三角座りで親指の爪を噛みガタガタと震えながら、僅かに開いた扉の隙間から見ていることしか出来なかった時のトラウマ光景がフラッシュバックし「ひぅ……」と暴漢に恫喝され怯える乙女のように己の身体を掻き抱いた。


 二つ右隣の席では自称『元中NO.1のモテ男』の雰囲気イケメンである小鳥遊君が、一年生時に「俺が付き合ってやるよ」と超絶上から目線で希咲に告白したところ、「は?」と強烈な眼力で睨め付けられながら、あんたのこことこことここがダメと、服装、髪型、性格、話し方、立ち振る舞いなどを、衆人環視の中で一つ一つ丁寧にダメ出しをされた挙句、「え? 普通にムリ」とフラれた時のトラウマ光景がフラッシュバックし、彼氏に突然別れ話を切り出されて現実を受け入れられないといった乙女のように「いやっ……いやっ……」とお顔を両手で覆って首を左右に振った。



 教室内の緊張は際限なく高まっていき一触即発かと誰もが思ったその時――ふぅ、と短く息を吐き出し、


「……いいだろう。善処しよう」


 弥堂が折れた。面倒になったのだ。


「ん。よろしく」


 こちらも意外とあっさりと納得をし、それだけ言って希咲は姿勢を戻した。

 


 教室中から安堵のため息が漏れ、視えない重圧のようなものはやわらいだ。廊下からは、親友なのに時代に流され敵にならざるを得なかった男同士の最終決戦のような台詞を叫び合う声が聞こえた気がした。



 そうしてそのまま希咲は水無瀬がいる側とは逆の通路を通り抜けようとして、弥堂の脇に来た所で彼の右肩に手を置き耳元に顔を寄せると彼だけに聞こえるように囁いた。


「特に、今日は、お願い。優しくしてあげて? ……お願いよ」


 気の強い彼女にしては珍しく本当に心から願うような切実な声音であった。


 目線だけを向けた弥堂の右目と、水無瀬からは見えないように、彼の顔で自分の顔を隠すように覗きこむ希咲の右目が再び視線を交わらせる。


 ややあって、


「善処しよう」


 弥堂は先と同じようにそれだけ答えた。


「ん。お願い」


 希咲は先と似たようにそれだけ請うた。



 今度こそ用事は済んだと希咲は立ち去っていく。


 二人の距離が開くに連れ重圧から開放されていく他の生徒達にも騒めきが戻った。


「美人の怒り顔はこえぇってあれマジだったのな?」

「希咲こえぇよ……目力ぱねぇよ…………興奮しちまった……」


「ふえぇぇ……絶対七海ちゃんの匂い嗅いでたよぅ……きっと今夜思い出してさん――」

「ちょ、ちょっと! 最近アンタの妄想の方がやばいんじゃないかって思えてきたんだけど⁉ 弥堂めっちゃ無表情だったじゃん!」


 また多数の囁き声があがっていく。その中で「キスの距離」、「キスの距離」、「キスの距離」……と同じ単語が複数の声で囁かれていた。


 希咲はまた聞こえないふりをしながら廊下側の列の一番後ろの自席へと戻った。片側だけ露出した左の耳輪はしっかり朱に染まっていた。




 やがて授業開始の放送のチャイムが鳴る前にガラっ! と大きな音をたてて一限目の数学の担当教師である権藤が入室してきた。


 権藤はその数学教師とは思えない競輪選手の太もものような逞しい左右の腕で、それぞれ一人ずつ生徒の首根っこを摑まえていた。先程揉み合って廊下に出て行って争っていた二人である。


 新クラスが始まって僅か1週間弱で足フェチであることが白日の元となった鮫島君と、新クラスが始まって10日足らずで女性の魅力は乳か尻の二つに一つという過激な二元論者であることが露呈した須藤君だ。


 鮫島君と須藤君は青褪めた表情で頬を抑えながら大人しく席に着く。五十音順で彼らは真ん中の列で縦に並んでいる。その二人の後ろでは未だ頭を抱えたまま机に突っ伏す雰囲気イケメンの小鳥遊君の姿があった。



 教壇に立った権藤教諭はその数学教師らしからぬ屈強な軍人のような出で立ちで教室内を睥睨する。教壇の目の前から鮫島、須藤、小鳥遊と順にその筋の方のような鋭い眼光で見遣り、次いで視線を右にずらせば凛とした姿勢で座る弥堂 優輝びとう ゆうきに、その列の手前最前列では爪を噛み虚ろな目でブツブツと何やら呟く仁村の姿があった。


 権藤は目を伏せ溜息を吐いた。


 新学年になりたったの10日ほどでこの惨状となった、『問題児を一か所に纏めて放り込んだのでは?』と職員の間で噂されるこのクラスと、それを押し付けられた教職に就いてまだ2年目の未熟な後輩教師を憂いたのである。


 そして授業開始の声を上げようとしたところで、午前9時の一限目の開始を知らせるチャイム音がスピーカーから鳴り、出鼻を挫かれ盛大に舌打ちをした。


 ややあって、チャイムが鳴り止むと学級委員長の野崎さんの号令がかかる。


 こうして本日の2年B組の一日が開始された。


 

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