序-03 『白鍵上の短二度』

「おはよう」という声に「おはよう」という声が返る。そして木霊するように「おはよう」「おはよう」「おはよう」……と朝の挨拶が拡がっていく。どこの学校でもあるありふれた朝の教室の光景だ。



 ここ私立美景台みかげだい学園高等学校の2年B組でも例に漏れず、続々と登校してくる生徒達の声が途切れることなく教室内を廻っていた。

 HRの開始まではあと数分、まだ教室に顔を見せていない生徒もあと僅かであろう。すでに登校した生徒達は自身の席に荷物を置くと仲の良い友人達で集まるか、または自分の席に近い者達と向き合い談笑をしている。


 二年生へと進級をした際にクラス替えがあった。美景台学園は1学年は大体3~5クラス程で1クラスにつき多くても30名ほどの生徒しかいない。その為、学園内は狭い社会となっており、今学期から初めて同じクラスとなった者同士でも、大体はこの1年間の中で校内のどこかではお互い見かけたことのある顔見知り同士ではあった。


 そういった背景もあり極端に社交性のない者でもない限りは、新クラスとなってまだ1週間程ではあるが挨拶や世間話程度は出来る関係性を殆どの生徒が築けていた。



 今期の新2年B組に関しては現在のところ『極一部』を除いて問題のある生徒はそれほどはおらず、また生徒同士の関係も『極一部』を除けば良好であると、このクラスの生徒たち自身はそう感じていた。



 教室の至る所で思い思いの話題がひしめく。


 昨日の夕飯が、今日の朝食が、昨日のTV番組が 、今日の朝練が、昨日の放課後が 、今日の放課後は。


 勉強にスポーツに習い事に色事に家族に友人に遊びに揉め事に恋に愛に思い出に将来に。同じようで似たようでそれぞれ違う、共感性を重んじるはずの思春期の少年少女達にありがちな四分五裂な自己主張は不協和な喧噪となって教室を彩っていた。


 HR開始の時間までに自分の話したいことを全て言いきってしまいたいのか、幾人かの生徒達はその声を高め、速めていく。その時、ガラリと教室の扉が開いた。



 2年B組の担任教師である木ノ下 遥香は、毎回HR開始を知らせる時計台の鐘の音が鳴り終わってから入室してくるのが、この新学期が始まってからの通例となっていた。それ故、今教室へ入ってきたのはまだ登校して来ていなかったクラスメイトであろうと、級友を迎える声をかけるべく談笑していた生徒の幾人かは出入口の方へと顔を向けた。


 再び挨拶の声を上げようと口を開き構えた生徒たちが、廊下から現れた姿を確認して次々と固まる。先ほどの挨拶の山彦とは逆に今度は教室中で上がっていた声が不揃いに止んでいく。各所を無音が連鎖していき喧噪から一転、裏返って静寂となった。


 色を失った教室に現れたのは『極一部』であった。


 つまり、弥堂 優輝びとう ゆうきである。



 弥堂は教室内へと踏み入る直前で、右から左へとスッと視線を流した。喧噪が止んだことに戸惑ったわけではない。室内に入る際に異常や異物が存在しないか確認をするのはただの癖であり習慣であった。特に問題は認められなかったので弥堂は室内へと足を踏み入れ、淀みない動作で扉を閉めると自身の席へと迷わず歩き出した。


 進級をしクラス替えが行われたばかりの今時分、各教室の生徒達の席の配置は出席番号順に並べられていた。教壇のある位置を前とすると、教室内右側にあたる廊下側から出席番号1番、つまり『あ』行の生徒から縦に順番に並べられていた。

 縦の列は男女各3列、つまり合計6列となる。廊下側の列は教室の前後に出入口が設置されている関係で3席、真ん中の教壇正面の列は5席、窓側の列も5席という配置になっており、この2年B組は男女各13名、合計で26名の生徒が所属していることになる。


『は』行の男子生徒である弥堂の席は窓側から2番目の列だ。教壇を通り抜け自席の方へと向かうルートへ進む。


 教壇周辺を陣取り談笑をしていた生徒のグループがあった。弥堂が接近してくるのを察知すると彼らはスッと道を空けた。級友が通行し易いようにとの親切心からではない。その瞳に浮かぶ感情の色はいずれも澱み濁ったものであった。


 弥堂とて自身が教室に現れたことによってクラスメイトたちの談笑が止んだことも、彼ら彼女らから向けられる視線の意味も、その奥にある感情にも気が付いていないわけではなかった。


 だが、それに何も思わなかった。


 弥堂が歩きだすとともに、ゆっくりと蛇口を捻ったように教室内の静寂から音が漏れ出していく。その殆どは囁き声だ。各所から様々な視線を向けられる。特に見渡さなくとも進行方向に並ぶ貌たちは自然と目に入る。


 恐れ、怯え、嫌悪、軽蔑、嘲り、敵意……無関心な者も当然いるが、好意的なものは一つもなかった。しかしこれらのものは弥堂にとっては何の痛痒にもならない。


 血走った目で罵詈雑言を喚き散らかされるでも、石を投げつけられるでもなく。時には正面から直接的な武力を以って襲撃をされたり、死角から不意に刃物を突き立てられるわけでもないのだ。


 それを考えれば極めて良好な人間関係を築けているとさえ言ってしまってもいいかもしれない。実害がゼロというわけではないが、今の所はそれも十分に許容範囲内であると判断していた。



 とはいえ、このようになった原因には当然だが弥堂にも心当たりがないわけではない。


 まず一つは先刻に思い浮かべたこの半年間の活動であろう。


 風紀委員としての『業務』を行ったことで、もちろん証拠を残すような下手は打っていないが、『結果として』自身の所属する部活動が利益を得ていることは隠しようがない。『結果として』不利益を被った者達、特に他の運動部からは不興を買ってしまうのは当然であろう。


 その運動部に所属する生徒達から漏れた話は噂となり校内を駆け巡り、面識のないような者達にまで広まり悪評となるのも自明の理であった。


 現状、この美景台学園の全運動部の生徒や担当教職員達の中では、『弥堂 優輝』『廻夜 朝次めぐりや あさつぐ』の名を知らぬ者はほぼいなくなった。当然悪名だ。同じく『サバイバル部』と『風紀委員会』も激しい憎悪と畏怖の対象となっていた。



 そして二つ目がこの新2年B組の生徒達が初めて顔を会わせた日、新学期初日に行われた自己紹介での件だろう。


 名前、所属する部活や委員会、趣味に特技、1年間の抱負など。教壇に一人一人順番に立ち、お決まりとも謂える題目を、これからの1年間学友として共に過ごす者達に向かって聞かせる。この季節での学び舎では風物詩ともいえるイベントだ。

 


 第一印象は大事だ。


 現代社会での人間関係は希薄である。ともすればファーストコンタクト以降は特に深く関わることもないまま時間だけが経ち、そのまま関係が確定してしまうことも多いという。

 過日に視聴したニュース番組で専門家を名乗る男がそのようにコメントしていた。


 確か『ある小学校から女生徒の縦笛が多数紛失した。盗難の線で捜査をしていた所、近所に住む一人暮らしの大学生の男の部屋からこれらが発見され、盗難の容疑者としてその男は当局に身柄を拘束された』といった事件であったろうか。


 後日犯行を認めた男は『女子児童の唾液がどうしても欲しかった。ずっと耐えていた。しかし我慢ができなくなった。女児の唾液の染み込んだ笛の吹き口を削り出し、粉末状にしたそれを練り込み差し歯として自身の歯と入れ替えれば、自分は神に会えると確信していた』などと供述したという。男には将来を誓い合った同年代の恋人もいたらしい。


 現場から中継をしていたレポーターの女が近隣住民から容疑者の男の為人とその印象を聞いたところ『好青年風で人当りがよく明るく挨拶をしてくれた、但し挨拶以上の接点はなくまさかこのようなことをする人間だとは思わなかった……』など、口を揃えて同じような解答をしたという。

 ちなみにこれは美景市内で起きた事件であった。

 

 専門家とやらは『このように人には見えざる一面がありそれは初見でわかるものばかりではない。継続して関係を持ち、共に時間を重ねていくことで希薄になってしまった人と人との繋がりを深め、それが社会的弱者への救済へと……』などとつらつらと語った。恐らくこれがこの話の肝なのだろうが弥堂は逆に受け取った。


『継続した関係を持たなければ第一印象しか残らない』つまり、第一印象でこちらの望むままの印象を与えておけばその後の工程は全て省くことが出来る。

 それは他人との関係を深める予定のない弥堂にとって大変都合がよかった。酷く効率がいい。そう考えた。



『普通』に一般的な生活を送っていれば、小学校から重ねて誰もが何回も行ってきている、この自己紹介という通過儀礼には辟易としている生徒も多く、このクラスにおいても明らかに気が進まない者、適当に当たり障りのないことを話してやり過ごしている者が殆どのようであった。


 しかし弥堂は、ここは手を抜くべき箇所ではない。そう判断した。


 この学園では出席番号は男女交互に割り振られる。男子が奇数番号で女子が偶数番号だ。『あ』行最初の男子生徒が1番、女子が2番、と数えていく。弥堂に割り振られた番号は21番だ。自己紹介は出席番号順に行われているので彼の手番は後半となる。考える時間は十分にあった。

 不要な馴れ合いを求められたり私事を探られたりしない間合いを作り、且つ必要以上に軽んじられないように、それでいて必要以上の興味も持たれないようにする。そのために必要なプロフィールを組み立てていく。



 やがて弥堂の順番になり教壇へ向かうべく席を立つ。歩いていく傍ら不意に以前一時的に世話になっていた、かつての自分の保護者のような立場にいた女が浮かんだ。



 あかい女だった。


 赤より熱い黄色混じりの緋色の女。そんな熱量を持った炎のような女で強い女であった。鮮烈で熱烈で周囲全てを獲り込み巻き込み燃え上がらせる荒々しく獰猛で情熱的な女だった。


 そして『世界』の中で右も左も失った優輝に生きる術を仕込んだ、彼にとっては篝火のような女でもあった。



 その女は言った。

 

「いいかぁ? クソガキ。世の中ナメられたらおしまいだ。どこに行っても誰が相手でもだ。まずは見下ろせ。んで睨みつけろ。そしたらハッタリでもなんでもいいから一発カマしてやんな。そんでも反抗的な態度とる奴ぁぶん殴っちまえ……あぁん? んだぁ? そのツラはよぉ? ハッ――女の子みたいに小っちゃくて細っこいかわいいかわいいユキちゃんはアタシみたいにゃあできねぇかぁ? ああん?」


 そう言ってその女は――ルビア=レッドルーツは獰猛に嗤った。


「じゃあよぅ、てめぇはこう言ってやんな……」と、『ルビア』と彼女の生まれ育った地方では男性名になるらしい名前を名乗る、優輝をユキと呼び何かと少女のように扱ったその女はガシガシと優輝の頭を乱暴に撫でながら続けた。柄が悪くがさつな女であった。


 彼女はその時何と言っただろうか。記憶の中から記録を取り出し教壇に立つ。




 そうして首尾よく自己紹介にて彼女に教わった通りに一発カマしてやった弥堂は、驚愕や畏れや奇異に教室が騒めくのを満足気に見下ろし自席に戻って行く中、ふとその後の彼女の言葉を思い出した。


「だがよぉユキ。てめぇは弱っちいからなぁ。もしよぉ喧嘩になって負けちまいそうだったらよ、とりあえず逃げてこいよ。何をしてもいい。どんなに無様にしょんべん垂らしながら逃げようが、みっともなく這いつくばって命乞いをしようが、生きてさえいりゃあそりゃあ負けじゃあねぇよ。どうにかして逃げ帰ってよ、そん時ゃこのアタシに言いつけな。相手が誰でもお姉さんがバチっとシメてやっからよぉ。アタシは強ぇからな。知ってんだろ?」


 酒が波々と注がれたジョッキを片手にその緋い女はそう言って鮮烈に笑った。


(知ってるよ。だけどさ。俺もちゃんとやれてるだろ? ルヴィ)


 胸中でいつかのその女に彼女の嫌がる本名で喚びかけた弥堂は笑わなかった。



 

 ちゃんとやれていないからこそのこの現状な訳なのだが、弥堂自身は予定通りに事が運んだと認識していた。


 しかし廻夜に言わせれば『やらかした』ようだし、担任教師の木ノ下には件の自己紹介のHR後に呼び出されとんでもない失言だと厳しく咎められた。教職に就いてまだ2年目だという、今期初担任を任されたその若い女性の教師に随分と顔を真っ赤にしながら叱責をされたので、恐らくは失策だったのかもしれない。

 しかし、何が悪かったというのか弥堂には理解出来ていなかった。



 ともあれ、時間を戻し現在、自席へと辿り着いた弥堂は椅子を引き着席をする。教材は基本的に全て机や個人ロッカーに置きっぱなしにしているので、通学鞄からノートと筆記用具だけ取り出してから、机の両側に付属している留め金に鞄を吊るすため身体を左に傾ける。


 弥堂 優輝という異物が混入したことですっかりと熱が冷めた様子の生徒達は、HR開始までもう時間が幾何もないこともあってか、雑談の続きは諦め各々の席へと帰り出しているようだ。この美景台学園で使用されている生徒用の机は、木材の天板に白の塗装をし漆加工を施して光沢を持たせていて、誰も座っていない机が並んでいるとまるでピアノの白鍵が並んでいるようであった。


 

 通学鞄裏側の留め具の輪に机の左側の留め金を通して鞄を吊るす。学校指定の通学鞄には机のフックに鞄を吊るすためのリングが付いているのだ。鞄が机に固定されていることを確認し、傾けていた姿勢を元に戻す。その工程の道すがらにふと左隣の席が目に入る。


 その席は空席となっており机の側面には通学鞄も吊るされていない。つまり、その席の主である女子生徒はまだ登校してきていないことになる。弥堂は左手首に巻いている腕時計に目をやった。現在時刻は午前8時39分07秒。始業まではもう1分もない。

 彼女を心配して時刻を確認したわけではなかった。それが日常とは異なる、つまり“異常”だったからである。


 隣の席の女子生徒とは一年生時も同じクラスであった。その約一年間と二年生に進級してからの一週間と少しの間、彼女は学校のある日は毎日始業10分前までには登校を済ませており、遅刻や欠席などをしている事例を確認したことは一度もなかった。


 しかし未曾有の出来事とはいえ、たかだか学生が1人いないだけのことである。とるに足らないとすぐに興味を失い、弥堂はHRに備えるべく教壇へと身体を向け姿勢を直す。今日の一限目からの授業予定に思考を巡らせようとしたところで、不意に先ほど弥堂が閉めた教室前方の扉が、ガラガラガラっと大きな音を立てて開かれる。


「ま、間に合ったぁ……ひゃわぁっ!?」


 開いた扉から一瞬女子生徒の姿が見えたが、余程慌てていたのだろう勢いよく開きすぎた引き戸は滑りのよいレール上を駆け抜け、行き止まりの壁側に当たってもその勢いは止まず、反動で跳ね返りレールを逆走した挙句に入室を拒むように彼女の目の前を通り過ぎ、そのままパタリと入り口を閉ざしてしまった。


 先程と同じく、しかし全く毛色の違う静寂に教室が包まれてから、1……2……3秒……。カラカラと今度は控えめな音を立てて開かれた扉から、「……えへへ……ごめんねぇ……」 などと照れ隠しにふにゃっとした曖昧な笑みを浮かべながらその女子生徒は再び姿を現した。


 もたもたとした動作で教室内に入り今度は丁寧に扉を閉めた彼女は振り返り、その表情に喜色を載せると、

 

「みんなぁ、おはようっ!」


 教室中の全ての生徒へ届けるように快活に挨拶の声を上げる。すると――


「水無瀬さんおはよう」

「おはよう水無瀬」

「おはよう!」

「愛苗っちはろぉー!」

「おはよう水無瀬さん」

「よぉーっす水無瀬ー」

「おはよう!」

「ご機嫌よう愛苗さん」

「おはよおおおぉっ‼」

「うおおぉぉぉぉっ‼ 水無瀬さああんうおおおおぉぉっ‼‼」

「おはよー! 愛苗」

「まなちゃんおはよぉ」

「おはよう」

「おはようございます。水無瀬さん」

「愛苗ぁ! あんたおっそいのよっ‼」

「……おはよう……」

「愛苗ちゃんいそいでぇー」

「おっ、おはよう、水無瀬さん」

「おはよう」

「うーっす」

「おはよー」

「やぁ、水無瀬くん!」

「けほっ、けほっ……おはよぅ……」


 先程の誰かとは対照的に、次々に挨拶のお返しが木霊していく。


 それはまるで声が一つ上がる度に花が一つ開くようで、開花の連鎖は教室中を駆け巡り瞬く間にその空間を煌びやかに彩った。


 その光景は何も特別なものではなく、この2年B組では毎朝恒例のものであった。この新クラスが編成されてからの期間はもちろん、彼女が昨年度に所属していたクラスでの1年間、この学校だけでなく彼女の居る場所ではどれだけ時間と機会を繰り返し重ねようとも、飽くることなく色褪せず周囲を明るくする。


 水無瀬 愛苗みなせ まなとはそういった少女であった。



 一転して弾むような空気で笑い声に包まれた教室の中、彼女は目線を彷徨わせ、自席へと向かうルートの選択に逡巡すると、急いで教壇の方へと足を向かわせる。始業までの時間は残り僅かとはいえ教室内で走るのは禁止事項だ。少々焦りつつもそのルールを守り、早歩き以上小走り未満といった中途半端な動作で一所懸命に進むその仕草は少々不安定で危っかしく、ともすれば鈍くさくも見えるが、その姿を目に映す殆どの者に愛らしさと庇護欲を感じさせた。


 クラスメイト達からの歓迎と心配の声を浴びながら彼女は窓際側の自席の前まで来ると足を止め、そのまますぐに席には着かずに隣の席、つまり弥堂の方へと身体を向けた。




 その少女は真っ直ぐに真っ直ぐに輝く二つの瞳をその男へと向ける。

 

 その男は身体を教壇へと向けたまま目線だけをその少女へと遣った。




 目線をまず彼女の目へと合わせる。くりっとした丸い目の中に少し色素の薄い大きな黒目。世の穢れなどそれに映したことはないのだろう、その純心さが溢れ出したような輝く瞳。目の大きさが目立って隠れがちだが、形のよい瞼に載った緩めに反るまつげは意外と長く、ぱちくりとしてコロコロと変わる彼女の表情の表現において重要な一因を担う。


 次に口元へと目を遣る。彼女は笑っていることが多く、その特別薄くも厚くもない均整でやわらかな肉感の唇はゆるやかに綺麗な弧を描いていることが常だが、今は薄くわずかに開かれておりその桜色の唇からは細く細かく息が漏れ出している。


 もう一つ視線を下げ胸元へと目を遣った。彼女の耳の裏あたりからは、その栗色に近い色の髪がゆるくラフに三つに編まれ身体の前側へと二つ結びのおさげが垂らされており、小柄で華奢な背格好の為に、その幼げな容貌のわりにやや不釣り合いに大きく見えてしまう乳房の上にその毛先が載っていた。

 胸に載った毛先が上下に揺れている。少し息が弾む唇の動きと上下する胸の動きから呼吸を乱すほどの運動量を強いられたのだと予測をし、弥堂は少し目を細めてから再び視線を上げ彼女の顔を視た。



 少女は呼吸を落ち着けるように胸に右手を置くと軽く瞼を伏せ、気持ち大きめに息を一度吸って吐いた。そしてパチッと目を開けると花が開いたかと幻視させるような満開の笑顔を咲かせた。


「おはようっ、弥堂くん!」


 愛想笑いにも作り笑顔にも視えない、心底から嬉し気で楽し気に視える。満面の笑みで向けられた挨拶に対して、


「おはよう、水無瀬」


 愛想笑いも社交辞令もなく機械的にそう返した。



 無感動で無機質で愛想の欠片もない弥堂の挨拶に、彼女は「えへへ~」と、ふにゃっと相好を崩すと上機嫌な様子で席に着いた。


 白い机を並べて弥堂 優輝と水無瀬 愛苗は隣り合って座った。



「な、なんでいつもあいつばっかり……」

「……おい! あの野郎、水無瀬さんのおっぱい真正面からガン見してたぞ……ただ者じゃねぇ……やっぱりぬ――」


「あんなに愛らしい愛苗に相変わらずの塩対応……どんなメンタルしてるのよ……」

「い、今絶対まなちゃんの胸見てたよね⁉ ……やっぱり性欲が……さすがぬか――」


 騒めく周囲の生徒達のヒソヒソ話には気付かず、水無瀬は楽し気にしかし若干もたつきながら通学鞄から筆記用具・ノート・教科書類を取り出していく。一通り机の上に鞄の中身を広げると「うん」と満足げに一つ頷き、次はそれらを机の中に収容すべく一限目で使われる予定の数学Ⅱと書かれた教科書を左手で持ったところで、何かを思い出したのか思いついたのか「あっ!」と声を上げると、ぐりんっと頭を右に回して顔を隣の弥堂へと向ける。


「ねえねえっ弥堂くん、あのね――」


 先程と変わらぬ輝きを浮かべた瞳で続けようとする彼女の言葉を遮るように


「時間だ」


 弥堂は彼女の眼前に左腕に着けた腕時計の文字盤を突きつけ、短くそう言った。


 喋ってる途中で突如視線を塞がれ「ひゃわっ」と小さく奇怪な悲鳴を上げた水無瀬は、ぱちぱちと瞬きをすると眼前の無骨な時計を見る。

 愛想のカケラもないデジタル表示の時刻の秒数が無機質にカウントアップしていくのが見えた。


 ……57……58……59……00…………と時刻が午前8時40分となった瞬間に、学園中に響く音量で時計塔の鐘の音が鳴った。始業の時間だ。



 美景台学園では予鈴と各授業開始時は、校内各所に設置されたスピーカーから電子音でのチャイムで時間を知らせるが、朝の始業のHR開始、昼休みの開始、終業のHR開始、完全下校時間の4回だけは時計台の鐘で知らせるようになっている。


 始めは全て鐘を鳴らしていたのだがあまりに音量が大きく、鳴り終わるまでは煩くて授業が始められない、やるならせめて開始10秒前に鳴らせと教員から、近隣の住民の皆さんからは端的に煩いとクレームが入り現在の形となった。


 鐘が鳴っても動く気配のない隣の少女に弥堂は視線を向けた。


 彼に視線を向けられた水無瀬は時計と彼の顔との間で何度か視線を往復させてから、ぱちくりと一度大きく瞬きをすると一際その瞳を輝かせた。


 何か楽しいことでも思いついたのか、わたわたとした動作で左手に持った教科書を机の上に置き直すと、何故か弥堂の左腕に向き合わせる形で自身の右腕の手首の内側を見せてきた。


 左手で右腕の袖を軽く引き露出させたその細い手首には可愛らしい腕時計が巻かれていた。


「見せっこじゃねえんだよ」


 思わずといった風に弥堂の口から彼らしからぬ口調で声が漏れるが、ボソッと口にしたそれは鐘の音でかき消されたようで、目の前の少女には聞こえておらず彼女は楽しそうに目を細めてニコニコと笑っていた。



 弥堂には知る由もないが、彼女の腕に内向きで巻かれたのは女子中高生に人気の時計メーカー製のもので、ライトブルーの細い革ベルトにシルバー製の台座があり、その上に小さく丸い時計盤が載っていた。時計盤の周囲はピンクゴールドの縁となっており、その丸い縁の上部は猫の耳のように見えるデザインとなっていた。白い時計の背景の上を短針と長針のみが回っていて秒針はなく、時計盤の中心で猫のシルエットの装飾が針を留めていた。時間の区切りとなる目盛りは3・6・9・12の4つだけで細かな時刻など把握出来ようもないものであった。


 水無瀬には知る由もないが、彼の腕に外向きで巻かれたのはミリタリーウォッチで有名なメーカーがアウトドア用に開発販売をした製品で、ナイロン製の黒いベルトに光沢のない耐久性の高い素材で作られた黒いデジタルウォッチが載っていた。時計のサイドにはいくつかのスイッチが付いており、現在は愛想のカケラもない字体で時刻と日付が表示されていたが、他に気温・湿度はともかくとして気圧・水圧から脈拍まで、各種の数値を計測出来る機能が備わっていた。多機能性と実用性を重視した見た目に遊びのない時計である。


 どちらの時計も持ち主の性格をよく表していて、それだけで彼と彼女の噛み合わなさを解りやすく表現していた。こういった光景もまたこの教室ではもはや日常と言えるものになりつつあった。


 弥堂は何か諦めたような心境で腕を降ろし無言で目線を教壇へと向けた。水無瀬はそれを気にする風でもなくクスクスと笑いながら自身の机上の片づけに戻る。

 


 弥堂は水無瀬 愛苗という少女を思った。



 弥堂 優輝にとって水無瀬 愛苗は一言で表すなら“理解不能”であった。


 先述の通りこの学園の生徒の殆どと一部の教職員にとって『弥堂 優輝』とは異物だ。異常であり扱い辛く、忌避され畏怖され嫌厭され遠ざけられるか遠巻きにされるかそういった存在であり、それは弥堂自身も自覚しており、そう在ることを望んでさえいる事実だ。

 この在り方は学園内だけではなく他のあらゆる場所でさえ、事務的な或いは業務的なもの以外の他人との関わりを避けている弥堂にとって都合のいいことであった。


 だが、この水無瀬 愛苗という少女だけは何故かそんな自分に構ってくる。そしてその意図が全く見えない。先程のように話しかけ、笑いかけ、脈絡もなくじゃれついてくる。

 それは二年生に上がってからの間だけではなく、去年の一年生時に弥堂がこの学園に転入して来てから暫くして、席替えがあって偶々隣の席になってからずっとのことであった。

 彼女とは特に部活動も委員会も一緒にするわけではなく、教室内でだけの関係であったがそれ故に、弥堂には自分に近づく『理由』など何一つないだろうと不審に思っていた。

 

 ただそれでも目立った実害があるわけでもなく、そのうち席が替わって飽きるだろうと見込みそしてその目論見が外れ、座席など関係ないとばかりに付き纏われるまま一年生が修了し、クラスが変わればもう接点もなくなるだろうと見込みまたその予測も外れ、辿り着いたのが現在のこの在り様である。

 


 裏表なく屈託なく含みもなく悪意もなく厭味もなく利益もなく意図もなければ目的もなく。


 単純に考えれば好意しか見えない。だがそうである理由もない。親し気に楽し気に笑いかけてきて自分にどんな対応をされようが嬉しそうにまた笑う。この学園で唯一、いや現在の弥堂 優輝にとってはこの『世界』の中でただ一人自分に笑いかけてくれる、そんな彼女を、水無瀬 愛苗を弥堂は――



 そこまで思いを巡らせたところで鐘の音が鳴り止み同時にガラっと扉が開かれる。担任教師の木ノ下だ。低めのパンプスを履いてカツカツと床を軽く鳴らしながら教壇へと向かう彼女に、生徒たちの挨拶が飛び交う。

 弥堂の隣からも元気いっぱいに挨拶の声が上げられておりそれを横目に思考を戻し結論を確認する。



 そう――弥堂 優輝は水無瀬 愛苗を“警戒”していた。



 隣り合った白鍵の音は、その響きは、決して調和することはない。

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