序-37 『夕魔暮れに滅ぶいくつかの幻想』


「それにしても色々入れられたわねー。よくわかんないのもあるし。なんでこんなにネジがいっぱいあんの? いみわかんなくない?」


「あぁ」


「あんた頭のネジ外れてるからこれ付けとけってことなのかしら……。わ、普通にただのゴミもあるし。これ学食のパンの袋じゃない?」


「キミの言う通りだ」


「誰だか知んないけど、こいつ袋開けるのへたっぴすぎっ。あたしこういうのパリってキレイに開けないともにょもにょすんのよね。ヘンな風に開いちゃうとなんか台無しな気分になんない?」


「そうだな」


「てか、この漢字一文字シリーズはなんなわけ? 習字みたいな。まさかこれホンモノの血じゃないでしょうね…………あ、よかった、印刷だ。それでもフツーにキモイんだけど。うぅ……さわりたくない…………こんなの手伝ったげてるあたしチョーやさしくない? 感謝してよね」


「キミは素晴らしいな」


「…………」



 二人並んで作業を進める。


 黙々と作業に従事する弥堂の隣で希咲のおしゃべりは止まらない。



「黙ってやれ」という文句が何度か喉から出掛かったが、ペラペラと喋りながらも作業を進める彼女の手元の動作には一切の淀みがなく、どこからともなく取り出したゴミ袋に手際よくゴミを放り込んでいく――なんなら弥堂よりも作業スピードが速い――ので、仕方なく弥堂は不満を飲み込んでいる。



 しかし、これまでの人生で誠実さを何処かに落っことしてきてしまった疑いのある男はオートモードになり、彼女から投げかけられる言葉には全て定型文で返していた。



 弥堂本人的には上手いこと適当にあしらえていると思っているが、ここまで何かと減らず口ばかりきいていた男が急に自分の言うことを全肯定し始めたので、希咲さんはバッチリ訝しんでおり、隣で作業をする男の子の顏をジトっとした目で見遣る。



「……これさー。随分いっぱいあるけど、今までの分溜め込んでたわけじゃないわよね? これって何日分なの?」


「あぁ」


「……あんたの靴。けっこうおっきぃのね。これ何センチあんの?」


「キミの言う通りだ」


「ねーねー、話かわるけどさー。あんた昨日の晩御飯なに食べた? あたしん家はね、妹がね、どうしても食べたいって言うから晩御飯的にはちょっとアレかもだけど、バンズ焼いてあげてみんなでハンバーガーパーティーしたの」


「そうだな」


「あとあと。さっきあんた待たせてトイレ行った時ね、すぐ戻るって言ったけどー実はばっちりメイクなおしてましたぁー。あはー。ゴメンねー?」


「キミは素晴らしいな」


「…………ねぇ?」


「あぁ」


「あんた適当な返事繰り返してんでしょ?」


「キミの言う通りだ」


「やってんじゃねーかこのやろー」


「ひへぇは」



 自ら編み出した技術である、女性との会話に於いて自動で肯定の意を打つこの業に一定の自信を持っていた弥堂だったが、クラスメイトの女子に簡単に疑われた挙句、『YES・NO』では答えられない質問をいくつか投げられあっさりと看破をされてしまう。



 せっかくゴミ拾いを手伝ってあげているというのに、あんまりに失礼な対応をしてくる隣にしゃがんだクラスメイトの男子のほっぺたを希咲はむぎゅっと摘まんだ。



「あんたはあぁぁぁっ! なに考えて生きてたらこんなおバカなことしようって思っちゃうわけっ⁉」


「はなへ」


「離せじゃないわよ! このこのこのっ!」



 弥堂のほっぺを摘まむ手をもう一つ追加し、両サイドから激しくグニグニすることで己の罪の重さをわからせようとする。


 怒りに任せての行動だが、やがて――



「……あんた意外にほっぺやわかいのね。いっつも顔面固まってるから硬そうなイメージなのに」


「はめほ。はなへ」


「はなへ、だって。はなひまへんほー、だっ。ぷぷっ、ヘンな顏っ」


「ひいはへんひひほほ」


「あはっ。なに言ってんのか全然わかんなーい」



 何気に感触が気に入ったのか、やたらと楽し気に両手で摘まんだ弥堂のほっぺたを、左右交互にうにうにと動かす。



「あははっ。みてみてっ。すんごい伸びるんだけど! あんたのほっぺ面白ーい。ほらっ、みょーーんって!」


「…………」



 大はしゃぎで弥堂のほっぺたで遊んでいた希咲さんだったが、その持ち主の目がしらーっと呆れたように自分を見ていることにハッと気が付いて、パっと手を離す。



「……ごめん。ちょっとチョーシのった……」


「気にするな。もうどうにでもしろという心境に至った」


「だからゴメンってば。怒んないでよ」


「……怒ってはないが、これをやめろっつってんだ」



 フォローのつもりなのか、希咲が綺麗に指先を揃えた左右のおててで、散々弄んだ弥堂の頬肉をむにむにと揉み解してくると、弥堂のコメカミに青筋が浮かぶ。



「気安く触るな」


「あん」



 やがて鬱陶しくなった弥堂が面倒そうに頭を振って希咲の手を剥がす。


 振りほどかれた希咲は可愛らしい呻きを漏らすと、名残惜しそうに空手となった指をふにふに動かした。


 そのまま獲ってきた獲物で遊んでいた猫がそれを取り上げられた時の様に、どこか物欲しそうな狙うような目で弥堂をジーっと見ていたが、ややあってハッとすると――



「んんっ。そっ、そういえばラブレターのことすっかり忘れてたわね。これちゃんと別けとかないとね――」



 誤魔化すように咳ばらいを入れて無理矢理に話題を転換させながら地面に落ちている封筒に手を伸ばす。



 しかし――



「おい、迂闊に触れるなと言ったぞ。そっちは本当に危険だ」



 目的の物に指先が届く前に、手首を隣の弥堂に摑まれる。



「ん? 危険? ってなにが?」



 コテンと首を傾げたまま目線を弥堂の顏に戻しつつ、腕をぶんぶんして掴まれた手首を離そうとする。



 あれだけ人の顔に不躾に触れておいてのこの態度に、弥堂は理不尽さを感じ僅かに眉を歪めたが、気にしないことにして彼女からの質問に応える。



「見ていろ」



 端的に告げて、希咲の手首から話した手で手紙を拾う。



 そのまま封筒の端を掴んで、中身を下に寄せるように軽く振る。すると軽い金属が擦れるような音が鳴った。


 希咲の視線も訝しむものに変わる。



 弥堂は次に封筒の平面部分の上部、持ち手に近い所を無理矢理摘まんで引き千切る。


 そして今度はその破った箇所を下に向けて封筒を振り、中身を床に落とす。



 ジャラジャラと小銭よりは軽い音を立ててそれらは床に散らばった。



「――え? これっ…………カッターナイフ……?」



 それらを視認した希咲が驚きに目を見開く。



「そうだな。ご丁寧に折り目一つずつで折ってから封筒に詰めたのだろう。ご苦労なことだ」



 茫然とする希咲の横で、どうとでもないという風に弥堂は平然としている。



「あ、あんたそんな他人事みたいに……。ねぇっ、これ先生に言った方がいいんじゃない?」


「いや。まずは相手を特定してからだ。利用価値がある奴ならこれをネタに強請れるからな」


「……毎日おんなじガッコに通ってるのに、なんなの……? この世界観の違いは……」



 顎に手で触れ少し思案気に述べられた弥堂の考えを聞いて希咲は若干気が遠くなる。



 普段自分が親友の愛苗ちゃんと「もうちょっとしたら今年着る水着いっしょに買いにいこうねー」とか「最近公園に移動販売で来てるクレープめっちゃおいしいねー」とかほのぼのと会話をしている同じ教室に、日常的に刃物を送り付けられたり身分差別をするための裁判所を学校内に作ろうなどと画策する男が存在しているなんて。


 あまりに異なった世界観が同教室内でクロスしていたという事実に直面し、混乱した七海ちゃんは恐れ慄きぷるぷるした。



「ねぇ――――だいじょぶ……?」


「? なにが?」



 ふにゃっと眉を下げて心配そうな表情で希咲は問いかける。だが、弥堂には何を問われているのかすらも伝わらない。



「だからっ……ショックうけてない?」


「ショック? なんのことだ?」


「ほんとに……? むりしてない……?」


「何言ってんだお前?」


「さっきはあんた相手ならいいかもって言っちゃったけど――前言撤回。やっぱりこんなの絶対ダメよ」


「こんなの? これのことか?」



 希咲の言うことに皆目見当がつかないので、情報を求めて床に散らばったカッターナイフの破片に目を向けようとする。



「だめっ――こっちむいてっ」



 首を回そうとしたところを、先程のように両頬を掴まれてクリンっと顔を彼女の方へ戻される。



「ちゃんとあたしの目、みて」



 真正面から真っ直ぐ深奥まで射貫くように直向きな目を向けられる。



 弥堂が彼女のその絢爛な瞳を直視して、言われたとおりに目を逸らさなかったのは、特に逆らう理由がなかったからだ。



 どれくらいかの間、彼女はジッと弥堂の眼を見つめ、それからジトっと半眼になった。そしてぺいっと投げ捨てるかのごとく弥堂の顏を元の向きになるように放る。



「びっくりした。ホントに全然効いてないのね。あんたメンタルどうなってんの? ちょっとは気にしなさいよ」


「……そう言われてもな。取り立てて騒ぐほどのことでもないだろう」


「いや、あんたね。刃物よ?」


「こんなものに引っ掛かるのは素人だけだ。この程度で負傷するようなマヌケがいるのならば、それはそいつが悪い」


「うぅ…………価値観が…………価値観が違いすぎるよぅ……」



 危機管理の定義についてまるで共有することが出来そうにないクラスメイトに眩暈を感じて、希咲はトホホと泣きが入る。



「なんにせよ、とっととこれも片付けるぞ」


「あっ、待って――!」



 散らばった刃物の破片に手を伸ばす弥堂を希咲が慌てて止める。



「なんだ? ガキじゃないんだ。俺は手先を誤って怪我したりせんぞ?」


「じゃなくてっ! あんた絶対これ分別しないで紙と一緒に捨てるでしょ? わかってんだから。あたしがやるからあんたはさわんないで!」


「……ガキ扱いするな」



 負け惜しみのような反論をする弥堂には取り合わず希咲は床の危険物を器用に紙の上に乗せて集めていく。


 そして、またどこからともなく小さめのビニール袋を取り出してそれに刃物を入れると、さらにどこからともなく紙袋を取り出しその中にビニール袋を仕舞う。



 弥堂が訝しむ眼を向ける中、顎先に人差し指をあてながら宙空に視線を彷徨わせ、「んーーー?」と思考を巡らせてから、どこからともなく付箋メモを取り出しそのメモに『きけんぶつっ! ちゅういっ!』と見る者に危機感を感じさせないまるっこい文字で書きこんで、ていっと紙袋に貼り付けた。



「お前なんでそんなに袋持ち歩いてんだ? 近所のおばちゃんか?」


「うっさいわね。ジッサイ今役に立ってんだからむしろホメなさいよ」



 自らの一連の手際に「うんうん」と満足感を露わにしていた希咲に対して、弥堂が白けた目で茶々を入れると一転して彼女は憤慨した。



「ともかく! こんなとこかしらね」


「いや待て。まだ中に残ってるかもしれん」



 ゴミをまとめた袋を足元に周囲を見回す希咲に弥堂は声をかけ、自身のシューズロッカーの前に立つ。


そして振り向きもせずに中から取り出したゴミを適当に背後へポイポイ放り始めた。



「よっ、ほっ――」



 希咲はそれに慌てることも咎めることもせずに、その行動は予測済みとばかりに両手で口を拡げて持ったゴミ袋を器用に次々と落下地点へ移動させ取りこぼしなく回収していく。



「――これで終わりだな」



 ややあって弥堂が振り向く。



「あんたね。あたしが察して受け止めてなかったらまた拾いなおしになっちゃうじゃん。なんでこんなことすんの?」


「期待通りの働きだ。ご苦労だな」


「こっ、こいつ……」



 万事恙無く状況に対応した希咲だったが、当然の権利とばかりに文句はしっかりと付ける。しかし当の本人は一切悪びれることなく超絶上から目線の労いのような何かをかけてきた。


 ワナワナと拳を震わせる希咲を他所に弥堂は室内シューズを足から抜きロッカーの中へ仕舞う。そしてその扉を締めようとしたところで何かに思い当たり思案する。



「――ふむ…………おい」


「?」



 身体半分を振り向かせ希咲へと掌を上にして手を伸ばす。


 希咲はおめめをぱちぱちと瞬かせ、差し出されたその手を見つめてからコテンと首を傾げた。



 ややあって何かを察した彼女はゴソゴソとカーディガンのポッケを探ると、弥堂の掌の上にポンと自身の手を乗せて何かを手渡す。


 希咲の手が離れ、その後自分の掌の上に残されたものを視認して弥堂は白目になる。



 手に握らされたのは可愛らしく包装をされたキャンディだった。



「なんでだよ」


「え? やっぱアメ食べたくなったんじゃないの?」


「いらねーよ。馬鹿にしてんのか」


「えー、おいしいのに」



 不服そうに弥堂の手からキャンディを回収しポッケにしまいなおす彼女に溜め息を漏らす。



「そうじゃない。メモ紙だ。よこせ」


「そんなのわかるわけないし、なんでそんなにエラソーなのよ。別にメモくらいあげるけど、ちゃんとちょーだいって言いなさいよねっ」


「うるさい。ガキ扱いするな。さっさとよこせ」


「その子供でも出来るようなことすら出来てないくせに何いってんのよ。もうっ……」



 不遜な態度の男に対する当然の文句をブツブツと漏らしながら、希咲は自身のバッグをゴソゴソ探り要求された物を取り出して弥堂に渡してやる。


 弥堂はその渡されたものを見て、口の端をヒクと引き攣らせる。



「……なんだこれは?」


「ん? ネコさんメモよ。かわいーでしょ?」


「さっきゴミ袋に貼り付けたやつをよこせ」


「あっちはあれで最後だったの」


「……そうか」



 弥堂は何故か絶望的な気持ちになり、己の手の中のファンシーなグッズを見つめた。



「なによ? イヤなら使わなきゃいいでしょっ。それ愛苗がくれたやつなんだからホントはあんたなんかにあげたくないんだから」


「……いや、これでいい。悪かった」



 取り上げられては目的を遂げられないと、弥堂はこれを使用する覚悟を決める。


 そして胸元の何ヶ所かをポンポンと叩き、目当ての物が見つけられず眉を顰める。そして先ほど同様に希咲へ手を伸ばす。



「おい」


「……だから、ちゃんとペンかしてって言えっつーの」


「ペンを貸せ。早くしろ」


「エラソーにすんなボケっ! 大体なんでライターだの爆竹だの持ち歩いてるのにペンの一本も持ってないのよ。あんた学校になにしに来てるわけ?」


「教室に行けばある」


「カバンに入れときなさいよ。ちょっとメモしたい時とか困るでしょ?」


「そんなものスマホで事足りる。手荷物を増やすとちょっと逃走したい時に不便だろうが」


「ちょっとした逃走を視野に入れて日常生活おくるんじゃないわよ……ジッサイ今持ってなくて困ってんじゃん」


「うるさい黙れ。さっさとしろ」



 正論に対しゴリ押しで開き直ってくる男に呆れながら「はいはい」とあしらい、希咲は再度自分のバッグを漁る。口煩く注意をしながらも「ボールペンでい?」と、ちゃんと貸してあげる彼女は実際とても優しい子なのだが、社会生活を送る能力が絶望的に足りていない男がそれに感謝することはない。



「はい」


「…………なんだこれは」



 そして手渡された物を見て、焼き直しのように弥堂は不服そうな顔をする。



「ボールペンでしょ。デコってんの。かわいーでしょ?」


「…………そうだな、かわいいな……」



 弥堂には理解のし難いピンクや黒の装飾がゴテゴテと持ち手に貼り付けられており、ノック部分にはやはりネコさんがいた。弥堂は軽い眩暈を感じる。


「またお前か」と八つ当たり気味にそのネコを睨みつけてやると、何故か「ふしゃー」と威嚇をされたような錯覚を覚えた。



 先ほどのように返せとゴネられては面倒なので、弥堂はさりげない動作で小さく胸元で十字を切り作業に移る。



「……ひとから貸してもらっておいてなんなの? その悲壮なカクゴを決めたみたいな態度っ。シツレーね」



 ばっちり見咎められていてジト目で文句を言われるが弥堂は無視をした。



 さっと必要なことをワンセンテンスで書き殴り、付箋になっているメモ束から剥がそうと一枚摘まんだところで、ちょんちょんっと希咲に指で肘を突かれる。



「んっ」


「なんだ? アメなど持ってないぞ」



 作業を止め、希咲へ目線を向けると先ほど自分がそうしたように、今度は彼女から掌を向けられた。



「じゃなくって。あんた絶対そういうのキレイに剥がせないタイプでしょ? あたしがやったげるからかしてっ」


「余計なお世話だ。ガキ扱いするなと何度言わせるんだ」


「いーからっ! 汚く切られたらあとでそれ使うのあたしなんだからね」



 そう言って強調するように顔に触れるほど近くに「んっ」と手を突き出してくる彼女にうんざりとした弥堂は、要求された物を投げ渡す。


 嫌がらせにメモとペンを左右に別けて放ってやるが、何の苦もなく器用にキャッチされ、ビーっと舌を出された。



「こーゆーことするから子供扱いされるんでしょうが……」とぶちぶち文句を口ずさみながらメモを剥がそうとする希咲だったが、そのメモに書かれた内容が目につき口が止まる。



 別に何を書いたのかチェックをするためにこうしたわけじゃないし、プライベートに配慮して読むつもりもなかったし、見えてしまったとしてもスルーをするつもりだった。



 そこに書かれていたのは『反せい文、代ひつ、やれ。』といった知性や人情といったものが著しく欠けた一文だった。



 希咲は苦脳に歪む眉間を指でぐにぐにと揉み解し、やがてペリっと剥がしたそれを「……はい」と弥堂に返す。


 どうにかギリギリのところでスルーすることに成功したようだ。



「うむ」と鷹揚にそれを受け取った弥堂は続いて懐から取り出したビニール袋にそのメモを貼り付けた。その袋に入っているのは先程法廷院から剥ぎ取った靴下だ。



 不満そうにお口をもにょもにょさせていた希咲はそれを見てギョッとし、頭の上に「⁉」を浮かべる。



 そんな彼女を他所に弥堂は手に持ったそれらを自身のシューズロッカーに収め今度こそ扉を閉めた。



「…………ツッコまないかんね……」


「ん? あぁ。大丈夫だ」



 彼女が何を言っているのか理解していなかったが、弥堂はとりあえずで適当に大丈夫であることを伝える。


 希咲は胸に手をあて、「こいつに一個一個ツッコんでもキリがない」と自分によく言い聞かせた。




「ではもう用は片付いたな。帰るぞ」


「――あっ! まって――!」



 外履きに履き替え出口へ向かおうと踵を返す弥堂の上着を希咲がギュッと掴んだ。



「またか。今度はいったい――」

「――こっちむいちゃダメっ!」



 辟易としながら振り返ろうとする弥堂の背中を、彼の上着を掴んだままの両手で抑える。



「……今度はなんだ?」


「あのね……おねがいがあるの……」



 そう持ち掛けてきた彼女に特に驚くこともなく、弥堂はただ短く嘆息した。




「で?」


「うん……」



 そう返事をするが希咲から続く言葉は出てこない。



 弥堂には今彼女がどんな顔をしているかはわからないし、彼女の謂う『お願い』とやらがどんな内容のものなのかもわからない。


 だが、こうやって『お願い』を持ち掛けられることは半ば予想していた。



 少し前の、涙を流し謝罪をしてきた彼女。



 弥堂の螺子くれた人間関係の経験上、女がああやって脈絡もなくしおらしい態度をとってくる時は大抵の場合、こうして最終的に本命の要求を通しにくる為であると知っていたからだ。



 確証は持てないが弥堂の予想では十中八九、金が目的であろうと見当をつけていた。



「あのね……誰にも言わないで……」



 どうやら十の内の一を今回は引いたようだ。そういうこともあると弥堂は思考を修正する。



 弥堂はうんざりとし溜め息を吐く。



 予測を外したことに不機嫌になったわけではない。彼は予想や期待を外すことには慣れている。



「なんでため息つくのよ……」


「いや。色々と無駄にしたなと思っただけさ。気にするな」


「なにそれ」


「そんなことはいい。で? 要求はなんだ?」



 性急に話を進める。



「えっとね……今日のこと……とか」


「あぁ。なるほど。いいだろう」



 曖昧に過ぎる希咲の言葉に意外にも弥堂は納得をみせる。今日ここまで徹底的に察しの悪さを見せてきた彼なので、了承された希咲の方が戸惑うほどだ。



「んーと……わかってくれたの?」


「あぁ、問題ない。ちょうど少し前に部の研修で履修済みだ」



 対人スキルの向上の為にと、弥堂が所属する部活動の部長である廻夜朝次めぐりや あさつぐに命じられ、彼から渡されたゲームで学んだばかりのシチュエーションと本件がピタリと合致した。



「な、なんか一気に不安になったんだけど、あんたの部って……えっと、『おぱんつ部』だっけ?」


「引っ叩かれたいのか貴様。『サバイバル部』だ。正式には『災害対策方法並びにあまねく状況下での生存方法の研究模索及び実践する部活動』という」


「は? え? さいがい…………えぇと、なんて?」


「覚えなくていい。『サバイバル部』とだけ覚えておけ」



 聞き返してくる希咲に略称だけ覚えるように告げる。なにせ部長であり名付け親でもある廻夜部長ですら覚えていないのだ。



「まぁいっか。んと、とりあえず不安だからあたしの『おねがい』がなんだと思ってるのかいってみ?」


「うむ。要するにこれから一緒に帰ることを秘密にしておけばいいのだろう?」


「んん?」


「一緒に帰ったのがみんなにバレたら恥ずかしいのだろう?」


「全然ちがうしっ! いや絶妙に間違ってもないから否定しづらいけど! とにかくまったく別のことよっ!」


「そうなのか? ふむ。お前のように顔がよくて人気もあるという設定の女はそういうものだと学んだのだがな」


「設定ってゆーな。いったいなんの研修してるわけ? あんたの部活マジでヘン」



 わりと切実に深刻さを滲ませて切り出した希咲だったが、的外れにもほどがある弥堂の珍解答に脱力する。


 別にシリアスな心持ちに浸っていたいわけでは決してないが、何かを台無しにされた気分で何故だか無性に苛立ちを感じた。



 そんな複雑な心境に「もぅ……っ」と不服の声を希咲が漏らす裏側で、弥堂は『顏がいい』『人気がある』と評した部分を彼女が否定しなかったことに目を細める。


 希咲としてはツッコミどころが多すぎてメモリオーバーして拾いきれなかっただけなのだが、弥堂は彼女を『自分の美しさを自覚している女』であると認定し、脳内で希咲 七海に対する脅威度を2段階上昇させた。



「はぁ……あのね? 今日のことってのは文化講堂でのことよ」


「……あぁ」


「生返事。これだけじゃわかんないか……」



 コミュニケーションが成立した手応えのない弥堂のリアクションに、希咲は諦めたように話し出す。



「えっとね、これから一緒に帰ることもそうなんだけど。あたしのパンツ見たこととか……あたしが泣いたこととか……絶対誰にも言わないで……。特に愛苗には……」


「…………」


「……あとっ…………あたしが……その、あいつらに、自分から……スカート…………」



 言葉尻が萎んでいき最後まで明確には語られない。


 言葉を曖昧に濁されるのを嫌う弥堂がそれを咎めなかったのは、彼女の声音にまた泣き出してしまいそうな調子が見られたからだ。



「ねぇ……だめ? おねがいだから……」



 無言のままの弥堂に不安を煽られたのか、希咲から再度請われる。



 弥堂はそれに対しわざと大袈裟に肩を落として盛大に溜息を吐いてやった。



「なっ、なによぅ……」



 その態度に希咲から涙声が漏れる。



「バカめ」


「な――っ⁉」



 背中に置かれる彼女の手に力を感じなくなったので弥堂は言いながら強引に振り返った。



「お前は一体何を聞いていたんだ」


「こ、こっちむいちゃダメって――」



 呆れたような弥堂の言葉に希咲から非難の声があがるが弥堂は取り合わない。



「――おい、希咲 七海。取り引きだ」


「え?」



 弥堂の背中に当てていた彼女の手は、彼が振り返ったことで今は彼の胸元に置かれている。希咲はそれには気が回らず、弥堂はつまらなさそうに彼女の手を一瞥すると捨て置いて続ける。



「同じ話を繰り返すのは嫌いなんだ。だから取引だ。俺はお前の望みを一つ叶える。だからお前も俺の要求を一つ呑め」


「とり、ひき……?」


「俺は今日の放課後にお前に関連した全ての出来事を生涯誰にも伝えない。じゃあ、お前は代わりに何をしてくれる?」


「――あっ。メリット!」



 そこで希咲もようやく先程弥堂に指摘されたことを自分が繰り返そうとしていたことに思い至る。



「そうだ、メリットだ。初回サービスだ。今回は俺の方からお前に俺のメリットを提案してやる。二回目はないぞ?」


「……うん」


「……そうだな。今度。近いうちに俺の仕事を手伝え。それでチャラだ」


「仕事……って、風紀委員の……?」


「まぁ、おおむねそんな感じだ」


「……うんっ! わかった……っ!」



 矢継ぎ早に状況を進めて纏めていく弥堂の提案に希咲はその表情を輝かせた。



「たったこれだけの話だ。簡単だろう?」


「ふふっ……そうね。カンタンねっ」



 無表情のままわずかに口の端を持ち上げてそう嘯いてみせる弥堂に、彼女は灼然たる笑顔を返す。



 しかし、落ち込んで泣きそうになっているところに急な話の転換で気持ちを揺さぶられ、ピンとくる容易な理解へ誘導されて安心を与えられたが、彼からの要求内容には一切の具体的かつ詳細な説明がなかったことに、やっぱり今日一番の不憫な子である七海ちゃんは気が付いていなかった。


 そのため、後日にまた不憫な目にあわされることになるのであった。



 ここで彼女はようやく彼の胸元に置いたままの自分の手に気が付く。



 普段ならそのまま恥ずかしがって離してしまうところだが、ここまでずっと噛み合わせの悪さを感じていた彼と何かしら意思や意図が通じあったような気がして、それによりシンパシーのようなものを感じてしまい、プロフェッショナルなJKである希咲さんはテンションが上がってしまっていた。



 彼の上着をギュッと両手で強く握り、グリンっと勢いよく彼の身体ごと回して180度向きを変えさせる。



「――っ。おい、なにすんだ」


「こっちむいちゃダメって言ったじゃーん! どーーんっ!」



 非難の声をあげる彼を無視して、声をあげてからその背中を強く押す。


 二、三歩前にたたらを踏む彼を軽快に追いかけてすぐにまたその背中を両手で抑える。



 今度は笑顔を見られないように。



「よしゃっ! 帰るぞぉーーっ!」


「お、おい――」



 弥堂がまた文句を言い出す前に、希咲は彼の背中を押して走り出した。



「お前、なにして――」


「――いいからっ! ほらっ、じゃーーんっぷっ!」



 昇降口棟を出るとすぐに正門へ繋がる並木道へと降りるための数段ほどの階段がある。



 希咲に押されるままそこに辿り着いてしまった弥堂は、彼女の声に促されてしまい反射的に地を蹴った。



 実際には一秒にも満たないだろう。しかし地に降りるまでのその滞空時間がやけに長く体感できた。



 学園の建物から飛び出し跳び上がって『世界』に跳びこむ。



 ゆっくりと広がり、ゆっくりと落ちる。


 眼に映った世界。



 一緒に飛び出し、跳び上がったのだろう希咲の手が両肩に置かれている。



 弥堂の眼にしたその『世界』は耳元で響く彼女の笑い声だけで満ちていた。




 時速にして約3kmほどの飛行のような落下の後に、二人共に無事に着地をすると希咲はパッと身体を離した。



 弥堂は何故か彼女へ文句を言わなければならないという義務感に駆られ、その姿を視界に収めようと身体を回す。



 しかし――



「おい。お前――」


「――あっ!」



 しかし、すぐに何か別の気に掛かる物を見つけたのか、気まぐれな猫のように、希咲は振り返り昇降口棟の入り口へと引き返していく。



 子供染みた行動に呆気にとられた弥堂は彼女の揺らすサイドテールをぽかんと目で追い、それから無意識に後を追って歩き出した。




「ねぇっ! これっ――」


「――お前、危ないだろうが」



 自分が追い付いてきたことを気配で察したのか、ちょうどタイミングよく振り向きながら嬉し気に何かを指差す彼女の言葉を無視して、先ほどの危険行為に対する注意をする。


 こうして追ってきたのはその為だと己に言い訳をしたのかもしれない。



「ん? 別にあんたならあれくらいヨユーでしょ?」


「……そういう問題ではない」


「そんなことよりさ。ほらっ」



 どこ吹く風な様子であくまで自身の興味の対象をアピールしてくる希咲に、弥堂もそれ以上は追及しなかった。



 彼女の指し示す物に目を向ける。



「自販機だな」


「自販機よっ」



 それがどうしたと怪訝な眼を向ける弥堂に、希咲は「んっ」と自販機を差した指をフリフリして強調する。



「なんだ?」


「あとでジュース買ってくれるってゆった!」


「…………」


「ゆった!」



 力の抜けるようなことを言い出した彼女に対して言い表わしがたい心境になり言葉を失う。すると、彼女は繰り返し約束したことをアピールしてきた。



 弥堂は溜息を吐きズボンの後ろポケットから小銭入れを取り出す。



「あ、小銭入れは持ってんだ」



 目敏くそれを指摘してくる彼女を無視して弥堂は小銭入れの中から十円玉のみをピックアップしていく。しかし目的の枚数に満たなかったのか、今度はズボンの両サイドのポケットに手を突っ込む。中を弄る動きに合わせてジャラジャラと小銭が擦れあう音が鳴り、それを聞き咎めた希咲が胡乱な瞳になる。



「なんで小銭入れ持ってんのにポッケにもいっぱい詰めてんのよ」


「別にいいだろ。不意に逃走をする際に投げつけたり、不意に先制で殴る時に握り込んだり等、色々と使い道がある」


「だから世界観っ! 他人の不意をつくことを念頭に生活しないでっ!」


「うるせぇな。戦闘を前提としていないのならば、何故あれだけの戦闘能力を持っている? お前の方が異常だろう」


「うっさいわねっ。乙女の嗜みよ!」



 決して多くはないが、弥堂の持つ知識の中では乙女というものは決してそのようなものではないはずだったが、面倒なのでそれ以上は言い返さなかった。



 代わりに彼女へ左手を差し出す。



「おい、手を出せ。両手だ。ちゃんと受け取れよ」


「え? なに?」



 戸惑いながらも希咲は弥堂の手から零れてくる物を両手を合わせて上手に受け止める。

 そして自分の掌にジャラジャラと流れてくる大量の十円玉をジト目で見遣った。



「あんた絶対イヤがらせで十円玉だけ集めたでしょ?」


「そんなことはない」


「なんでこんなくだんないことすんの?」


「うるさい。目的の物が買えれば何でも同じだろうが」



 口の減らない男の言い訳を無視して希咲は「んーー?」と宙に視線を流すと――



「――手ぇだして」


「あ?」


「両手ね。はいっ」



 今しがた渡されたばかりの小銭のちょっとした山をジャラジャラと弥堂の手に返す。



「なんだ? いらんのか?」


「あんたが買って」


「は?」



 彼女からの要請が理解し難く眉を顰める。



「は? じゃないでしょ。あたしジュースもらうって約束したの。ジュース買うお金ちょうだいなんて言ってないわ」


「……どっちでも、一緒だろうが……」


「一緒じゃない。大事なことなのっ。ほらほら――小銭投入よーーいっ!」



 問答無用とばかりに弥堂の尻を叩いて自販機前への移動を急かしてくる希咲に弥堂は抵抗を諦めた。


 せめてもの反撃に舌打ちをしてみたが彼女には無視をされる。



 小銭を全て片手に収めなおし空いた方の手で手早く十円玉を連続で投入口に入れていく。



「わ。あんた手おっきぃのね。やっぱ背ぇ高いから? あたし半分くらいしか片手でもてない。なんかむかつくー」


「知るか」



 コインを投げ入れるこちらの手元を脇から覗き、そう茶々を入れてくる彼女を冷たくあしらう。希咲はそんな弥堂の言動はもはや気にもならない。



「おら。意地汚く貧しい卑しくて惨めなお前に飲料を恵んでやろう。とっとと好きなボタンに指を伸ばせ。浅ましい乞食のようにな」


「いっちいちそういうこと言わないと死んじゃうわけ? 無口キャラどした?」


「うるさい黙れ」


「はいはい」



 どうにかマウントをとろうと罵倒してくる弥堂を軽くあしらい、希咲は人差し指を唇にあてながら、商品ウィンドウを「んーー?」と流し見た。そうは時間をかけずに「これっ」とその指でボタンを押す。



 ガシャコンと指定の商品が受け取り口に落ちてきた気配を横にしながら、希咲はジッと弥堂の顏を見上げる。



「? なんだ? とらないのか?」


「とって」


「あ?」


「あんたが取って、あたしに渡して」


「……め、めんどくせぇな…………マジでなんなんだお前……」



 次から次へとよくわからない要求をしてくるクラスメイトの女子に弥堂は戦慄をした。



 やはり一度でもメンヘラの要求を受け入れることは、その後も際限なく求められ続けることになる地獄への片道切符なのだと再認識する。



 甘さなどみせるべきではなかった、もっと徹底するべきだったと心中で自省をしている間に、どうも無意識に彼女に云われるがまま受け取り口から取り出していたらしいパックジュースが己の手の内にあることに気が付いた。


 弥堂は自らへの憤りを舌打ちで表現した。



「…………おらよ」


「ん。ありがと」



 不機嫌そうに左手に持ったジュースを手渡す弥堂から、希咲は目を細めて右手でそれを受け取った。



 そのまま弥堂は無言で踵を返し再び階段を降りる。



 すると――



「――ちょいまちっ。すていっ。おすわりっ」


「…………」



 これで何度目の繰り返しになるのか、また希咲に引き留められる。



 彼女の言い様が気に食わなかったので『ナメてるのか』などの反論がしたかったが、何故か言葉が出てこなかったので表情だけを歪ませた。



 そんな弥堂の様子を全く気にせずに、希咲は肩から提げているスクールバッグに手を突っ込んで何かを取り出す。


 バッグから引き抜かれた希咲の手にあったのは、あまり彼女には似つかわしくないデザインのがま口の小銭入れだ。どうやらブタをデフォルメしたもののようで中身の小銭がパンパンなのかやたらと太っている。



 面倒なので特に何も言わずに弥堂は彼女の行動を見守る。



 次に彼女はそのブタの腹の中から小銭を取り出し、自販機のコイン投入口へ向かった。


 必要な分の硬貨を投入すると一瞬も迷わずに特定のボタンを押す。



 ガシャコンと、先ほど弥堂が購入した時と同じ自販機の排出音が鳴り、それに加えて先ほどにはなかった落ちてきた商品が投入口の中でぶつかった硬質な音も聴こえた。



 希咲は両足を揃えてしゃがみ、投入口へ手を突っ込む。



「はいっ」


「?」



 滞りなく目的の物を回収し立ち上がりながらこちらへ振り向いた彼女が買った物を差し出してくる。


 弥堂は意図が掴めず、彼女の手の中の物に怪訝な眼を向けた。



「あげる」


「いらんが」


「ダメっ。あげる」


「なんで拒否権がねぇんだよ……」



 理不尽な物言いに疲労を感じた。



 だから、そのせいで自身のパフォーマンスが低下していたのだと、後に彼はそう自分に言い訳をする。



「いいからっ。ほらっ、キャッチ!」



 弥堂の意思などお構いなしに、無理やりにでも彼に受け取らせるため、希咲は手に持った缶ジュースを弥堂の方へと下手で放った。



 階段数段分ほど高い場所から放られたアルミ缶は、放物線を描きながら階段下の弥堂の方へと落ちてくる。


 しかし飛距離が不足しており弥堂の立つ場所よりも手前の位置が落下地点となりそうだ。



 此処に立ったままではそれを手にすることは出来そうにない。


 空中のジュース缶を見つめながら弥堂はそんなことを考えた。



 別に彼女から与えられる理由も、それを受け止めなければならない理由もない。


 買ったばかりの新なそれが地に落ちようが、最悪破裂して中身をぶちまけることになろうが、それはどうでもいいことだ。


 だから彼女が投げ放ったそれを受け止めるつもりは弥堂にはこれっぽっちもなかった。



 そのはずなのに――



 目の前で落ちゆくその缶が、自身の目線の高さを上から下に通りすぎた瞬間、意思とは裏腹に弥堂の足は一歩を踏み出した。



 歩みよる。



姿勢を下げ腕を目いっぱい伸ばし、落下するジュース缶が地に触れるその前に自身の手を間に滑り込ませて受け止めた。



 特に達成感も安堵もなく、自問でもするように手の内の物を見つめる。



「お、やるじゃーん。ないすきゃっち!」



 僅か上方より掛けられた称賛のような声に釣られ、自然とそちらを見上げる。



「…………投げるならしっかりと狙え。下手くそ」


「わざとよ! イヤがらせに決まってんじゃんっ」


「意味のないことをするな」


「あんただってさっき意地悪してペンとメモ投げたじゃん。おかえしよっ!」



 そう嘯いてビシッとこちらを指差してから「ふふん」と得意げに踏ん反り返る段上の彼女の姿を夕陽が照らす。


 周囲の物すべてが色を失いまるでそこだけがライトアップされたようで、弥堂は缶を受け止めたままの姿勢を戻すことも忘れ、彼女に視線を縫い留められた。



――当然錯覚だ。



 胸中でそう独り言ち、目を逸らすように手の中のアルミ缶へ視線を下げる。



 弥堂が視線を逸らしたその隙をつくように、希咲はトッと軽やかに地を蹴り壇上から身を躍らせた。



 弥堂のすぐ手前の地点を目掛けて飛び降りて、着地とほぼ同時に手の中の缶ジュースを見ている彼の頭に手を置く。



 突然頭を抑えられ反射的に顏を上げようとした弥堂の眼前、鼻先に触れそうなほどの距離近くで、ふわりと柔らかにスカートの裾が舞う。



 重さを感じさせない僅かな足音で地に降り立った希咲は、その一連の動作の華麗さとは真逆に乱雑に弥堂の髪をわしゃわしゃと撫でる。



「わ。あんた髪ごわごわ。ちゃんとシャンプーのあとコンディショナーとかしてんの?」


「……そんなものはない」


「ないわけないでしょ。ちゃんとしなさいよ。外で飼ってる犬みたいになってんじゃん。どこのやつ使ってんの?」


「どこ? どこにでもある石鹸だ」


「……身体洗うのとおんなしやつってこと……?」


「? 石鹸は石鹸だろうが。手洗い場にいくらでもあるだろう」


「……うそでしょ……」



 希咲は現代日本で暮らす高校生として持っていた当たり前の価値観をまたも大きく揺るがされる。プロフェッショナルなJKとしては俄かには信じ難く、身体を折って弥堂の頭に顏を近づけ、珍妙なものでも見るようにして両手で髪を掻き回す。



 希咲が普段行動を共にすることの多い、幼馴染同士で集まったコミュニティ(断じてハーレムなどではない)には、蛭子 蛮ひるこ ばんという典型的なヤンキー男子がいる。


 その彼はわかりやすく真っ黄色な金髪に染髪しているのだが、先日も彼からいいトリートメントはないかと相談を持ち掛けられたので、普段よく利用する美容院の担当さんと一緒にオススメを世話してやったのだ。


 あんな喧嘩ばかりして停学になるようなヤンキーでも、イマドキの高校生らしくヘアケアには気を遣っている。


 だのに、目の前のこいつときたら……



 希咲は身の内から謎の憤りが湧き上がり、現代高校生として意識の低すぎる男の頭頂部に向ける眼差しを鋭いものにした。



「……くさくはないし、ギトギトもしてないから洗ってはいるのよね……? マジで石鹸なの? いくら男子だからっていっても、そんな高校生いる?」


「どうでもいいだろうが。馴れ馴れしいぞ、やめろ」


「あによ。ひとのこと好き放題さわってきたくせにっ。こんくらいでガタガタ言うんじゃないわよ。くらえっ! お客さまカユいとこはございませんかぁ~?」



 ジトっと睨みつけるのも一瞬のことで、普段自分が客の立場でされていることを冗談めかして、実に楽し気に弥堂の頭をわしわしと掻き回す。


 すぐに弥堂が頭を下げて逃れようとしてきたので、右膝を上げることで彼の顔をふとももで押し上げて頭皮をぐにぐにする両手と挟みこむようにして摑まえた。



 希咲のふとももに顔を押し付けさせられている格好の弥堂は、触られただなんだと大騒ぎするくせに、こうして自分から触れることには抵抗感を見せない彼女の理不尽さに白目になった。


 とはいえ、こうしてされるがままになっていても不愉快さしかないので、やめるように抗議をしようと視線を彼女へ向けるべく頬を擦りながら無理矢理顏を動かす。



 すると、膝をあげているせいで射線がクリアになった彼女のスカートの奥が目に入る。


 弥堂はスッと瞼を細めると、黒目を戻した眼で油断なくそこを注視した。


 希咲は嫌がらせに夢中で、至近距離から自分のスカートの中の股間を覗く男の様子に気が付かない。



「あんたってヘンよね。こういうことされるのイヤがりそうだし、ジッサイめっちゃ文句言ってくるけど、意外と無抵抗よね」


「……そう思うんならそろそろやめたらどうだ?」


「そうね。今日はこのくらいで許してあげようかしら。希咲さんゆるしてくださいってちゃんと言えたら放したげる」


「あまり調子にのるなよ、この――」


「きゃーへんたーい」



 いい加減に我慢の限界だと弥堂が希咲の細い腰に手を伸ばそうとすると、彼女はクルっと身体を回して華麗に回避し、棒読みの悲鳴をあげながらすれ違うように弥堂から離れていった。


 目の前を横切っていくスカートの裾を眼で追いながら弥堂もようやく体勢を戻す。



 こちらに背を向けた希咲は正門の方へとゆっくり歩き出していた。



「おい――」

「ねぇ――」



 その背中へと声を掛けようとしたらほぼ同じタイミングで顏だけ振り向かせた彼女からも呼びかけられる。


 思わず二人とも続く言葉を呑み込んだ。



「あ、ごめん。なに?」


「……いや。大した話ではない。キミが話すといい」


「そ?」



 無遠慮に他人の頭を掻き回しておいてまるで悪びれもしないのに、たかが発言のタイミングが被っただけのことには謝意を示す――彼女のそんな価値観や基準に疑念を抱いた弥堂はそちらに気をとられ、今しがた発しようとした言葉を続ける意気を削がれたため希咲へと発言を譲った。



「ジュースそれでよかった?」


「あ?」


「『あ?』っつーなっつってんだろ。……コーヒーよ。ブラックで平気だった?」


「あ? ……あぁ」



 希咲の言葉を受けて自身の手の内に目を落とし、ここでようやく彼女に何を渡されたかを認識する。



「……貰うとは言っていないぞ」


「まーだそんなこと言ってんのかあんたは。なんか顏的に甘いものキライそうな感じだから無糖ブラックにしたんだけど、まる? ばつ?」


「三角だな。甘さも苦さも別に好きでも嫌いでもない」


「なーんでいちいち素直じゃないかなー。べつにいーけど」



 訊かれたことに真っ直ぐに答えを返さない捻くれた男に、希咲は立ちどまり呆れたような声を出す。ただ、その表情は不快感を露わにしたものではなく苦笑いだ。



「それさ。おかえし兼お礼だから、ちゃんともらってよね」


「…………」


「ジュース買ってくれたお礼と、助けてくれたお礼」



 足を止めたままこちらを待つように立っていた彼女に追いつくと、希咲は前を譲り弥堂の隣に周って再び歩き出した。


 隣に居る彼女に、手の中の物を突き返そうと思えばそれをすることは可能だ。



「……くれてやると言ったのは俺だ。俺の勝手だ」


「そーね。おかえししたのもあたしの勝手。助けてくれたのは?」


「仕事だ。風紀委員の通常業務だ」


「んーと……じゃあ、そうね。おまわりさんとかがさ、助けた市民からのお礼を受け取るのは義務じゃない? そんな感じでどう?」


「言葉や気持ちならともかく、警官が物品を受け取るのはまずいだろうが」


「あ、それもそっか。じゃあじゃあ、あたしの感謝は『むむむっ』ってさっきその缶の中のコーヒーに込めたから、開けないと受け取れないわよ」


「なんだそりゃ」



 悪ふざけのようなゆるい希咲の反論に呆れる。


 そんなことが出来るはずがないと、思わず手の中のアルミ缶に目を向けた隙に、隣をゆっくり歩いていた希咲が前方へ踊り出た。



 軽やかに大きく大袈裟なストライドで一歩を踏み出す。


 置き去りにされ、靡く彼女の後ろ髪を見つめながら、手の届く範囲に居なくなったからこれはもう返せないなと、弥堂はそんなことを考えた。



 ステップを踏むように――



 いち――



 に――



 さん――で一際大きく跳ぶ。



 宙に身を躍らせ舞うように身をまわし振り向きながら着地をした。



 一切バランスを崩すことなく、腰の後ろで手を組んで弥堂の方へ輝度高い眼差しを向ける。



「あのね、悔しいし恥ずかしいから、ホントはあんたなんかにこんなこと言いたくないんだけど――」



 表情はそのまま、希咲は一度言葉を切る。



「――わけわかんなくなっちゃって、あたしホントに怖かったから――」



 その彼女の瞳を弥堂は黙って見た。




「――だから。助けてくれて、ありがとっ!」




 その瞬間、虹を内包するかのような彼女の瞳の絢爛さが、その身から溢れ『世界』へと拡がったように感じられた。



 夕陽が彼女を照らし、彼女の周囲に舞う薄桃色の桜の花びらたちがそのオレンジ色の光を乱反射させ、『世界』が彼女を――希咲 七海という美しい少女を輝かせ、煌めかせ、まるで特別なものかのように見せてきた。



――当然錯覚だ。



 陽の光は地を這う総ての惨めな物どもへと与えられている。


 特定の個体だけを照らしたりなどはしない。



 得も知れぬ強烈な後悔を感じた弥堂は、彼女の眩さから目を逸らす為にその中身の黒い液体を思って手の中の缶コーヒーを見遣る。



 この国の全土で販売をする為に大量生産された物で、この学園の誰が購入するかもわからない自販機に入れる為に運送されてきた物だ。



 決して弥堂の為に作られた物ではないし、弥堂の為に運ばれてきた物でもない。



 その自分の為の物ではない物に一定の安心感を認め、弥堂は希咲から貰った缶コーヒーをバッグの中へと入れた。



「ん? いま飲まないの?」


「……帰ったら頂く」


「そ? んじゃ、あたしもそうしよっと」



 そう言って、希咲はバッグに入れていたパックジュースを一度取り出して、ハンドタオルで包んで仕舞いなおす。



「ちゃんと飲みなさいよ? 見えないとこ行ったからって捨てんじゃないわよ」


「そんなことはしない。神は無駄をお許しにはならないからな」


「ならばよろしいっ」



 彼の内心は知る由もないが、その言葉を認めた希咲は笑う。



「これで、おあいこねっ」



 自信に満ちたような、悪戯げなような、そんな貌で笑った。



「いくぞー」



 そう言って再び彼女は歩き出す。



 その跡を追うことに何故か躊躇いを感じられた。



 しかし、躊躇いとは裏腹に自身の身体はもう歩き出している。




――これらは幻想だ。



 幻想は抱えれば必ず骸となる。



 地に堕ちて血を流し身が朽ちて魂は壊れ存在を滅ぼす。



 だから総ては錯覚なのだ。



 なかったことにしておけば何も失われない。少なくともこの手からは――




 キラキラと粒子を放ちながら揺れる希咲のサイドで括った髪を見る。



 ――錯覚だ。



 実際の歩調に乱れはないが、どこか頼りなげに歩を進める。


 そう感じられると錯覚する自分の後ろ姿を、昔の保護者が呆れたように、昔の女が悲し気に――



 そんな目で、こんなに惨めで無様な自分を見ている気がした。




――それも錯覚だ。




 そして感傷だ。



 過程で気を揉まず心を痛めず、なんのストレスもないまま気持ちよく望んだ成果を得る。そんな虫のいい話はない。



 自分で吐いた言葉だ。



 では、自分は何かしらの成果を得たのだろうか。どこかにメリットはあったのだろうか。



 それはわからない。



 一つだけ思い浮かんだものはある。



(――俺は、今ここで、生きている)



 だが、それは果たして本当にメリットなのだろうか。



 それもわからない。



 答えを教えてくれる人はもう何処にもいない。




 何処にも繋がっていない道を歩む。今も先を歩む誰かの跡に続いて、独りで歩く。




 女子高校生。



 桜の並木道。



 舞う花びら。



 照らす夕陽。




 地を踏む踵に力が込もる。



 路上に敷き詰められた花びらごと踏み躙る。



 周囲をキラキラと舞う花びらを輝かせている、その光を供給する夕陽を憎々し気に睨みつける。



 その光を浴びている女の背中に突き刺すように視線を下ろす。



 そしてこの場に満ちた幻想の中心点であるかのような、その美しい後ろ姿を、その本質的で核心的な深奥の『魂の設計図アニマグラム』ごと、奥歯を噛み締め殺意をこめて睨みつける。



 その意の切っ先を向けている先は自分自身かもしれない。



 桜の絨毯の上でまた一歩を踏みだす。今は先を歩む彼女の後に続いて、独りで歩く。



 死に別れた者を踏み越えた先には恐らく誰もいない。


 残されたのは幻想の骸。



 この美しいものはいつか美しかったことにされる。



 だから――




(――すべて錯覚うそだ)

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