序-36 『この瞳に映せないもの』
つい何秒か前まで、一組の男と女の話し声が響いていた昇降口に打って変わった静寂が訪れていた。
それに心地の良い静謐さはなく、重苦しさを感じるのはその中に身を浸す者の心持ち次第なのだろう。
「…………おい」
弥堂 優輝がぶっきらぼうに呼びかけたのは、目の前に居る希咲 七海が無言でポロポロと涙を零すのを見ることに耐えかねたからだ。
呼びかけられた希咲は言葉を返さずに、ただ一度スンと鼻を鳴らした。
(まさかそれが返事のつもりじゃないだろうな……)
心中で苛つきながら、弥堂は億劫そうに再度泣いている女の子に声をかける。
「何故泣く?」
「……泣いてないもん」
「いや、泣いてないってお前な…………その様でよくも……」
「ないてっ……うっく……ひっ…………ない、もん……っ……」
「わかった。希咲 七海。キミは泣いていない」
大声で喚いて泣き出す寸前の幼児のような希咲の様子に、彼女の自制はもはや予断を許さぬ状況であると判断し、弥堂は危機感から『泣いていない』という彼女の主張を認めることにした。
口内で噛み締めた歯が軋む。
こうなることがわかっていたから、彼女の裡に触れぬよう有耶無耶にこの場をやり過ごそうとしていたのに、ガキのように口論にムキになった挙句に見事に地雷を踏み抜いた。
(なんてザマだ……)
思わず天井を見上げたくなる。
しかし今はそんな些細な動作でも不要に希咲を刺激することになるかもしれない。この場は慎重な対応が求められる。
弥堂は右手にニッパーを左手に赤と青の二種類の導線を取った処理班のような心持ちで目の前の泣いている女の子を視た。
許されるならばこいつをこの場に置き去りにして速やかに帰宅をしたい。しかし公の場で教師に彼女を送るよう命じられて、尚且つ自分はそれを了承した。その事実がある以上それは不可能ではないが難しい。
弥堂は脳裡で全ての関係者と目撃者を始末するコストと、この場で希咲に適切に対応する為のコストとを素早く比較計算する。
弾き出された解は、後者の方が僅かに低コストである可能性が高い、だ。
前者はまずい。最悪の場合この学園の関係者を皆殺しにしなければならない羽目に陥る。
なにより――
『バカなのですか? 殺しますよ?』
希咲を捨てていく選択肢を浮かべてから、記憶の中のメイド女に侮蔑の視線混じりにそう強く咎められているイメージを錯覚している。
気がしただけなら気のせいだと捨て置くことも出来なくもないが、彼女からの云い付けもある。師でもある彼女に云われたのならば仕方がないと割り切る。
それにあまり悠長にもしていられない。
弥堂の経験からくる予測が正しければ恐らくこのあとはもっと悪い状況となる。その前に彼女を泣きやませる必要があった。
不得意分野ではあるが慣れてはいる。こういった状況でとるべき手段のノウハウは己の裡に蓄積されているのだ。
弥堂は目の前の少女から目を離さずに、手持ちの情報の中から最適なその方法を考え選び出す。
(――面倒だな。とりあえずキスでもしてみるか……?)
狂った経験の中で得られるのは狂ったノウハウだけであり、コミュニケーション能力が著しく狂っている男は、その中から限りなく最悪に近い気の狂った選択肢へと脳内でマウスカーソルを当てる。
弥堂がクリックボタンを押して地獄への片道切符を差し出そうと決めるその時――
「…………ごめん、ね……」
(――きたか)
表情には出さぬよう意識しながら心中で舌を打つ。
これは知っているパターンだった。
そして弥堂が特に嫌うパターンでもあった。
当然敗けパターンである。
先程まで泣きながらこちらを責め立てていた女が急にしおらしい態度で謝ってくる。まるで意味がわからないがこの後どういう展開になるかだけは弥堂にもわかる。
まずは何故謝罪に至ったのかというストーリーを聞かされる。嗚咽混じりに拙い言葉で語られるそれを丁重な姿勢で拝聴することを求められる。
どうせ聞いたところで要領など何一つ得られないのだが、それは諦めて耐え忍ばなければならない。
次に語られるのは何故泣いていたのかという背景だ。
心の底からどうでもいい話を苛立ちと戦いながら聞き続ける羽目に陥る。自分の歯は、歯軋りによってどこまでの負荷をかけても大丈夫なのかという、そのギリギリのラインを見定めながら聞いていると多少気が紛れるのでおススメだ。
だが、こちらが相手の話に全く興味を持っていないということは絶対に悟られてはならない。それを悟られればまた最初から手順を踏み直すことになる。
こちらに出来ることといえば、感情が昂りまるで冷静でない相手が恙無く、且つ気持ちよく全てを吐き出し語り尽くすまで適切にそのサポートをすることだけだ。
そしてわけもわからないまま只管時間だけを消費し、謝られていたのはこちらのはずなのに、何故か最終的に謝罪をさせられるという結末に辿り着くのだ。
弥堂はさりげない動作で胸の前で小さく十字を切り、胸中で無常な『世界』の在り様を憎しむ言葉を用い神を罵倒した。
(だが――)
こうなってしまっては仕方ない。
自分のミスが起因となり引き寄せた事態だ。
甘んじて現状を受け入れる他ないだろう。
最近はなかったが、なにもこういった事態に遭遇するのは珍しい事でもない。泣いている女に構うのには慣れているのだ。決して得意という意味ではない。
弥堂は切り替えをした。
そして効率よく状況を終わらせるためのチャレンジをしてみる。
「希咲。俺が悪かった。キミは悪くない。だから手打ちだ。どうだ?」
どうせ最終的に謝らされるならと最初に謝ってみる。だが――
「えっ……? うぇ……あたしが……っ……あやまってる、のにっ……なんでまた、へんなことゆうの……? ぅくっ……」
「待て。落ち着け。今のはミスだ。続けろ。好きに話せ」
感情的になっている相手を余計に混乱させ、彼女の瞳に浮かぶ涙の水量がじわっと増したので即座に取り下げた。
初手から見事にしくじったがこの程度のことで弥堂が取り乱すことはない。ミスを冒すことにも慣れているのだ。
それにミスをしたことで得られた『気付き』もある。
具体的には二つだ。
一つは相手の真の目的はこちらの謝罪ではないことだ。
何故なら謝っても済まなかったからだ。
どうせ最終的にそうさせられるならば、初めに謝ることで効率よく状況を終了させられないかと試しに謝ってみたが、それは誤りのようであった。
弥堂自身も「これはないな」と思ってはいたが、謝るだけならタダなのでとりあえずチャレンジしてみたのだ。
数々の成功者たちが挙ってチャレンジをすることが重要だと言っている。
宝くじに当たっただけの連中が、くじを買わなきゃ当たらないと言っているだけだと弥堂は考えているが、だが実際に奴らは成功しているのでそれはそういうものなのであろうとも認めていた。
故の謝罪チャレンジだ。
しかし、その謝罪で解決しないのであれば、相手の目的は別にあるということになる。
その目的こそが二つ目の『気付き』だ。
この場だけでなく今日だけで幾度も希咲からは謝罪を要求されている。なのにも関わらず謝罪を受け取ることが目的ではない。
この矛盾から導き出される相手の真の目的とは。
何のことはない。ただの感情の解消だ。
要するに気が済むまで自分の不満を吐き出してすっきりしたいだけのことだ。それに付き合わせるために、或いは体のいいサンドバッグにするために、謝れだなんだと言っているのだ。
全くを以て非生産的で非合理的な行いだが、弥堂にはこういった知性や理性を蔑ろにした行動をとる人種に心当たりがあったので不思議には思わない。
そして以上の二つの情報から一つの解が導きだされる。
先ほど、様々に色を変える希咲の表情や心模様から彼女の本質・実態が摑めないと弥堂は感じた。
しかし、ここでその空漠たる彼女の人物像が浮き彫りになる。
弥堂は希咲 七海という洞の奥の核心を捉え、その真実に確信を得た。
脳裡で得た気付きと目の前の彼女の実態とを繋ぎ合わせると、強敵と対峙する時のように希咲へと向ける視線に強い警戒感を滲ませる。
(希咲 七海。こいつは――)
間違いない。
(こいつは――メンヘラだ……!)
浅学菲才な身だと自覚をしている弥堂であるが、メンヘラ女に関してはそれなりに知行合一な見識を持つため、強くそのように確信をした。
これまでの人生で数々のメンヘラに散々な目に遭わされてきた経験をもつ弥堂は、決して表には出さぬよう心中で戦慄をする。
油断なく相手を測る。
(――深度65…………いや67はあるか……?)
弥堂 優輝はメンヘラに脅かされる闇の深い生活を送っていた経験から、相手の闇の深さを数値化し危険度を測るための『メンヘラ深度』という独自の基準を脳内で設けていた。
ちなみにメンヘラ深度の数値が大きくなるほどに闇が深くなる。その数値に上限はない。
現状の情報だけでは希咲のメンヘラ深度を正確に計測することは不可能だ。しかし決して侮るべきではないと弥堂は程よく緊張感を纏いながら慎重にアプローチを始める。
「何故、謝る?」
「……ぅん…………いきなり、泣いて……ごめん……」
「お前泣いてないんじゃなかったのか?」
「っ⁉ うぇっ…………ぅくっ……だって……」
「待て。わかった。落ち着け。希咲 七海。キミは泣いている」
弥堂は速やかに発言を撤回し、脳内で『矛盾を指摘すると泣く』の項目にチェックを入れた。
「……ヘンな風に泣いて、ゴメンね、って言いたかったの……」
「そうか。だがお前はとっくに何回もピーピー泣いていただろう」
「っ⁉ うぇっ…………ぇぐっ……ちがうもん……」
「そうだ。違う。今のはそういう意味ではない。大丈夫だ」
「……? じゃあ、どうゆういみなの……?」
「大丈夫だ」
弥堂は泣いている女の子を安心させるためにとりあえず大丈夫であることだけを強調し、脳内で『事実を指摘すると泣く』の項目にもチェックを入れた。
「よく、わかんないけど……でも、あたしもわけわかんないよね…………いきなりこんな風に泣くなんてきもいよね……?」
「そうだな」
「っ⁉ うぇっ……」
「待て。今のは間違えただけだ。キミはきもくない。大丈夫だ。かわいいぞ」
「っ⁉ うぇっ…………ひぐっ……かわいく、ないもん……」
「そうだな。キミの言うとおりだ。キミはかわいくない」
「っ⁉ うぇっ…………ぅぇええっ……」
「待て。今のは違う。そういうアレじゃない。とにかくアレだ。大丈夫だ」
慎重に会話を重ねながら的確に地雷を踏み抜いていく。
脳内で『自分を卑下する発言が増えるが同意すると泣く』『褒めると否定して泣く』『感極まった様に見えるがちゃんと話を聞いているか確認をする罠を会話の中に潜ませる』の項目に次々とチェックを入れる。
弥堂の頭の内側には『レ点』が、外側には『怒りマーク』が蓄積されていき、比例してイライラゲージが伸びる。
だが、決して感情的になってはいけない。
メンヘラ相手にこちらも感情的になるのは地獄の入り口だ。泥仕合は奴らのフィールドだ。そこに引き込まれれば敗北は必至。
弥堂は震える程に握りしめた拳を抑えることで己を諫め、クレバーに勝利への道筋を辿る。
難しい局面だが初めての状況でもない。自身には目の前の困難に打ち勝つだけの経験が蓄積されていると己を鼓舞する。
一つ問題があるとすれば勝利条件が皆目わからないことだったが、それに気付けるだけの冷静さが既に失われていることに彼は自覚がなかった。
「……ねぇ……みえてた……?」
「……………………なにが、だ?」
辛うじてそれだけ問い返す。
効率という名の宗教に信仰を捧げる弥堂は、主語などが著しく欠けた会話を仕掛けられるとマッハでイライラしちゃう系の男子であった。
「だから……泣いてた理由……。さっき言ってた、あんたが来た時…………その……見えてた…………って、なんか息荒くない? だいじょぶ?」
「……問題ない。日常生活に平穏を齎すための特殊な呼吸法だ。大丈夫だ」
澱んで濁して途切れた文脈の繋がりのあまりの脆弱さにイライラゲージがギュイーンっと伸びたため、弥堂は「フッ、フッ」と浅く息を吐くことで怒りを外へ逃がそうとしていた。
「そ、そう……? えと、だからね。あんたが助けに来てくれた時、あたしがスカート…………その……してたからっ、あの時……見えてた……?」
「だから――いや………………ちょっと待て……」
反射的に彼女の言葉足らずに関して責め立てそうになるのを努めて堪える。
希咲へと掌を向けて断りを入れながらもう片方の手で眉間を揉み解す。苛立ちを逃がすように一際長く息を吐く。
こちらの言葉を待つ希咲の鼻をならす音がやけに大きく聴こえた気がした。
彼女が何を言いたいのか――本当はわかっている。
ただ、相手にその意図はなくとも、こうした言葉足らずで意思を伝えられるのは意図を汲むことを強要されているようで無性に癪に障るのだ。
一度それで譲渡してやると今後も同様の対応を求められる気がするので、わざとわからないフリをしてやりたくなるのだ。
だが、そんなことをしても大概に於いて意味はないし、なかった。
これは自覚のある悪癖だ。さっさとやめた方がいい。
その方が効率的だし実利的だ。よくわからない自分の蟠りや憤りなどは何の役にも立たない。
胸中で自分に言い聞かせて折り合いをつける。
折り合いをつけて、そして投げやりな気分になった。
「要するに、俺が現場に介入した時に、お前が自分で捲り上げていたスカートから下着が露出していたかどうかを訊いているんだな?」
「……う、うん」
「で?」
「え?」
「どう答えて欲しいんだ?」
「どう、って…………なによそれ……」
露骨に雑になったこちらの応対に希咲は戸惑いが隠せない。そんな彼女には構わずに弥堂は続ける。
「俺が見たままを答えればいいのか? それを聞いたところで納得をして、お前の問題は解消されるのか? 俺に訊くことに意味はあるのか?」
「そう、だけど……そんな言い方しなくてもよくない?」
「上っ面だけ取り繕っても意味がないだろう。お前が訊きたいのは本質的で核心的な事実なんじゃないのか? どうなんだ?」
「そうだけど! なんで怒るの⁉」
「うるさい。怒ってなどいない」
「怒ってるじゃん!」
責めるような弥堂の口ぶりに希咲も段々とムッとなる。
「思い出すのは禁止だとか言っていなかったか? それでどうやって俺に事実確認をしようと?」
「うっ…………そう、だけど。でも…………いまだけ、いいよ……?」
おずおずと上目づかいでそう告げてきた希咲の顏を見て、弥堂は反射的に記憶から記録を取り出そうとしたが、寸でで頭を振り取り止めた。
何故かそうすることに強烈な危機感を感じたからだ。
それを誤魔化すように、脳裏でメンヘラチェックシートの『何かにつけて怒っていると決めつけてくる』の項目にチェックを入れてから口を開く。
「また話が逸れる前に先に言っておく。あの時、俺から見てお前の下着は見えていなかった。奴らも俺に注目していたから同様だろう。これで満足か?」
「だからそんな言い方しなくてもいいじゃん…………でも、ありがと」
「ではもういいな」
短く告げてから矢継ぎ早に自身のシューズロッカーの扉に手を伸ばす。話は終わりだとの露骨な意思表示だが――
「……ねぇ」
逃がさない――と意思づもりは本人にはないだろうが、後ろ手を掴まれたような錯覚をして盛大に顔を顰める。
「……そんなイヤそうな顔しなくてもいいじゃん!」
「…………いや……なんだ? 大体想像はつくが」
「え? わかるの……?」
「言葉遊びをするつもりはない。早く言え」
「なによもぉ……」
冷淡な弥堂の態度に不満を顕わにする希咲の目にもう涙はない。苛立ちの方が勝ってきたからだ。
そのことには彼女本人は気が付いていなかったし、当然狙ってこうしている腹づもりも弥堂にもない。
「……あの、さ……気ぃつかって、ない……?」
「あ?」
「だから。あたしに気遣って見えてなかったって答えてくれてない?」
こちらの顔色を窺うように切り出した希咲の問いに弥堂は言葉もなくただ白目を剥いた。
「なっ⁉ なによその変顏っ! ひとが真面目に言ってんのにふざけないでよ!」
「誰が変顔だ。ナメてんのか」
弥堂は黒目を戻して端的に抗議をしてから続ける。
「予想どおりすぎて気が遠くなっただけだ」
「なによぉ」
「だから訊いたんだ。『どう答えて欲しい?』と」
「……いみわかんない」
拗ねたような仕草を見せる希咲に弥堂は呆れながら説明をする。
「今しがたの会話のとおりだろうが。俺が『見えていない』と言ってもお前はそう言うだろうし、逆に答えても同じだろう? だから予想どおりだと言ったし、意味はあるのかと訊いたんだ」
「……それは……そう、かもだけど――」
「大体だ。希咲。そもそもお前は俺を信用していないだろう?」
「ゔっ――そんなこと…………ない、けど……」
言葉とは裏腹に希咲は気まずそうに目をきょろきょろさせた。
そんな彼女の様子を見ながら弥堂は短く息を吐き、面倒そうに続ける。
「まず、お前の本当の目的は事実を知ることではなく、安心を得ることだろう?」
「……? どういうこと……?」
「だから、お前が事実確認に拘ったのは、自分に都合の悪いことはなかったと安心をしたくて、その為の材料となる情報が欲しかったからだろう」
「……多分そう……だけど。なんか言い方がやだ。つめたいっ」
「そうだ。俺は冷たい人間だ。だからお前を慮ったりはしないし、嘘を吐く可能性もある。お前の望む情報を引き出す為には不適切な人選だ。バカめ」
「むかーっ! なによ! 絶対あんたの方がバカだもんっ!」
「うるさい黙れ。いいか? 以上のことに加えて、例えば仮に俺が嘘を吐かない優しい人間だったとする。それでもお前が俺を信用していなかったら、やはり俺から出る言葉に、お前にとっての価値は変わらずこれっぽちも、ない。わかったか? だから意味がないんだ。意味のないことに俺を付き合わせるな。めんどくせぇんだよ、このメンヘラめ」
「メッ――⁉ あ、あたしメンヘラじゃないし!」
「メンヘラはみな、そう謂うんだ……」
畳み掛けるように理屈を述べてきたと思ったら、突然メンヘラ呼ばわりをされ、憤慨する希咲は言い返そうとする。
しかし、会話の途中にも関わらず突如として「フッ」とか言って遠い目をしだした男をとても不審に思い言葉を止めた。
事実とは異なるレッテルを貼られては敵わないと否定をしたいのだが、ここではない何処かへと眼を向ける男の醸し出す言い知れぬ重みに、希咲は何故か畏れ入るような気持ちになり戦慄した。
「……あんたの言うこと、わかるけどさ。意味があるとかないとかいちいち考えてたら誰とも会話できないじゃん。それにそんなネチネチ言わなくてもよくない?」
「なにがネチネチだ。ついさっき俺をネチネチと詰め倒しておいてどの口が」
「べつに詰めてないし。あれはあたしじゃないもーん。あんたがダメダメすぎて、あたしの中の『七海先生27歳』が出てきちゃっただけですー」
「なんだそりゃ…………だが、そうだな――」
よくわからない反論をしてくる希咲に呆れを感じるが、自分の口から出した言葉で思い当たることがあり、ふと思考する。
「なによ? いきなり考え込んで」
不審そうに問いかけてくる希咲の様子は、先ほどまでに比べれば幾分気持ちも和らいでいるようだ。
そんな彼女を見て、弥堂は全く以て『らしくはない』が、ひとつお節介を口にすることを決める。
「――そうだな。いいだろう。ついでだ。俺もひとつ、お前にレクチャーだ」
「……? びとー先生38歳?」
「ちげーよ。なんで俺は30代後半なんだよ」
「だって、あんたってば全然若さを感じないんだもん。制服もなんか似合ってないし」
「ほっとけ。もういい」
話の出端で挫かれて即座に興が削がれた弥堂は話題を取り下げようとする。
「あん、ごめんってば。もしかして気にしてた?」
「気にしてなどいない。どうでもいい」
「そ? で、なんだって?」
「もういい」
「なによぉ。すねてんの? 言いなってばぁ」
「うるさい。拗ねてなどいるか。ガキのくせにガキ扱いするな」
「はぁ? あんたの方がガキっぽいじゃんっ。てか、言いなさいよ。どうせまたヘンなことだろうけど、途中でやめられるとあたしめっちゃ気になっちゃうんだってば」
『それはお前がガキでメンヘラだからだ』
そう言い返そうとして弥堂は口を噤む。
また無駄な口論になると思ったからだ。
言葉の代わりに溜め息を吐き出し、無理矢理に気分を変えようとする。
「あによ、そのロコツなため息っ。シツレーね」
プリプリとこちらを責めてくる彼女の情緒不安定さにうんざりとしつつ、一方でその気分の切り替わりの早さに感心も覚える。
自分は切り替えはあまり得意ではないのだ。
だが、対処法は知っている。
億劫さが足枷となって出足が鈍る時は、無理矢理にでも状況を始めてしまえばいい。
そうせざるをえない状況に自分を追い込んでしまえば、気分がどうのなどと考えなくても済むようになる。
弥堂は口を開く前にせめてもの嫌がらせにと、もう一度わかりやすく溜め息を吐いてやる。
その態度に「むー」と眉根を寄せた希咲を見て、口の端を僅かに持ち上げた。
「いいだろう。お前にレクチャーだ」
「ずいぶん急旋回で話を戻したわね」
「うるさい黙れ。いいか? お前には必要なものがある。だが、今回のようにその必要なものを引き出すために最適な人材がいない。ならばどうするか」
「え?」
「例えば。今回のように不適格な人間から情報を引きずり出さなければならない場合。お前がすべきことは、馬鹿正直に尋ねることでもなければ、お願いをすることでもない。じゃあどうする?」
「……えっと――」
「――お前がすべきことは『取り引き』だ」
「どうする?」と問いかけておきながら相手の答えを待たずに話を進めていく。
「信の置けない者に言うことをきかせたいのならば、相手がそうしたくなるような、或いはそうしても構わないと思うようなメリットをくれてやれ」
「メリット…………取り引き……」
「それでも言うことをきかない奴には、そうせざるをえないように追い込みをかけろ。それから能力的にそもそも当てに出来ないグズはとっとと見限れ」
「な、なんか結局物騒な感じになったけど……わかった。いちお…………ありがと……なの……?」
身も蓋もない物言いではあるが、考え方の参考には出来そうな部分もあり希咲は戸惑いながらも礼を言う。
すると「ふん」とつまらなさそうに鼻を鳴らされたので、「やっぱなまいきっ」とひと睨みをしてから「でも――」と切り返す。
「でもさぁ――なんていうか、ちょっとドライすぎない?」
「それは受け取り方の問題であり、ただのお前の感傷だ。実質的でも本質的でもない。重要なのは目的を達せられるかの一点だけだ」
「う~~ん……」
「どう転んでも、過程か結末のどちらか――或いはその両方でどうせ何かしらの感傷はある。ならば結果を伴わせて実利を得た方が効率がいい」
「…………そうねぇーって、言ってあげてもいいくらいには理屈としては納得はしてるんだけど、なんかなぁー」
「それが感傷だ。過程で気を揉まず心を痛めず、なんのストレスもないまま気持ちよく望んだ成果を得る。そんな虫のいい話はない」
「そうかもしんないけど。でもさー、それってシビアすぎない?」
「ルーズに取り組んで取りこぼすよりはマシだ。それに――」
『――しくじったら次があるとは限らない』
そう続けようとして弥堂は口を噤んだ。
「ん? それに――なに?」
「いや、なんでもない。言い間違いだ」
希咲に続きを催促されるが誤魔化す。
平和な国の平凡な学校で只の女子高生に『必ず明日があることが約束されているわけではない』などと言っても詮無きことだと思ったからだ。
理屈の上で納得させることが出来たとしても、相手にとってリアリティが伴わなければ結局は遠い世界の出来事に過ぎず、真実に身になりはしない。
自分と他人のリアルは別なのだ。
「なぁーんか、わかってきたぞ。べつに間違ってるとは言わないけどさ、あんたそういう考え方だから普段あんな感じで誰とも仲良くしないのね」
「…………まぁ、それだけではないが、概ねそうだな」
自身の生活態度に水を向けられたのは面白くないが、また「言いかけといて途中でやめるな」と要求されるよりは、話が逸れたのは却って都合がいいと何事もなかったように応じる。
「仮に効率がよかったとしても、そんなの寂しくない?」
「それはわからないな」
「ん? わからない?」
「……まるで逆の物事かのように言うが、普段からお前とその『仲良く』している連中もメリットがあるからそうしているだけだぞ」
「カッチーン。また感じ悪いこと言うわね」
「別に悪い意味で言っているわけではない」
特定の誰かのことを想像したのか、眦をあげる希咲の機先を制する。
「なにもお前やお前の友人を揶揄しているわけではない。お前と『仲良く』することで金銭を得たり立場が向上したり、そういった即物的なものばかりがメリットとなるわけではないだろう?」
「ん? どういうこと?」
「お前と一緒に居ることで楽しいだとか安らぎだとかそういう曖昧なものを感じることを重要だとする者はいるだろう? そういった精神的な安息や充実があることは、生活や人生の豊かさに繋がる。ならば、それらを得られる相手に近づいて『仲良く』することは明確にメリットだ。違うか?」
「う~~ん……間違ってないけど、もう少し言葉のチョイスとか言い回しどうにかなんない?」
「それは本質ではない余分なものだ」
「本質しかないのも問題だと思うのよねー。心臓だけあれば人間として生きてけるわけじゃないでしょ?」
その指摘には弥堂は言葉を返さず曖昧に肩を竦める。
希咲自身も明確な解を持っているわけではないのでは特にその態度を咎めることはなかった。
そして、「う~ん」と腕組みしつつ考えながら弥堂の話を聞いていた恰好から一転、クスリと笑みを漏らす。
「でも意外。あんたから人生の豊かさとかそんな言葉出てくるの」
「……俺自身はよくわからんが、そう感じてそう行動している人間の方が世の中に圧倒的に多いことが事実なのはわかる。なら、それが正しいんだろう」
「でもさー、それならさ。あんたも他人と仲良くしといた方がいいんじゃない?」
「なぜだ?」
「んーと、ほらさ。仲いい人が困ってたら助けてあげようとか思うし、困ってなくてもなんか喜ぶことしてあげたくなるじゃない? そういうことしてくれる人がいるのは、あんたの言うメリットになるわけじゃん?」
人差し指を立ててそう説く希咲に弥堂は軽く息を吐く。
「……まぁ、そうだな。それに関してはお前の言うことが正しい」
「お、認めた。ちょっとびっくり」
「だが、それが正しいとしても、必ずそうするべきだとは思わないがな」
「なーんでよ」
「……単純に苦手なんだよ。具体的にいつ何が得られるかもわからん見返りの為に苦手なことを普段からし続けるのは効率が悪すぎる」
「まーた効率。このひねくれ者っ」
「それに関してもキミのいうことは正しいな」
「ひらきなおるな、ばかっ」
希咲から胡乱な目を向けられるが弥堂は無視をした。
「でもさ――」
しかし、少しだけ声色に真剣さを滲ませて続けられた彼女の言葉に目線を引き寄せられる。
「――自分から仲良くしにいくのは苦手だったとしても――それを無理にやれとは言わないけどさ」
「なんだ?」
「だけど、仲良くしようと笑顔で喋りかけてくれる相手が居たら、その子に無理に冷たくする理由もないじゃん?」
「……」
「べつに今ここで考えを変えてそうしろなんて言わないからさ、ちょっとだけ考えてみてよ」
「……善処しよう」
「ん」
今はそれだけでもいいと希咲は満足げに笑い頷いてみせた。
そんな彼女に対して誤魔化すように、弥堂はパンと軽く手を叩いて見せ軌道修正を図る。
「話を戻すぞ。つまり以上のことを踏まえて今回のケースに当て嵌めると、お前の行動は見当はずれだということだ」
「それって要するに、あんたがあたしに味方したくなるようなメリットを出せってことよね……? んーー…………お金ほしいの? ないわよ?」
「いらねーよ。別に金には困っていない」
「えー…………じゃあ、アメたべる?」
「なんでだよ。バカにしてんのか」
カーディガンのポッケからキャンディを一つ取り出して、「はいっ」とこちらに差し出してくる希咲に脱力し頭を掻きたくなる。
「じゃあ、どうすればいいのよっ」
「お前から見て俺の欲しがりそうな物は金か飴しかないのか……ナメやがって」
「だって、あんたが好きな物なんてあたしにわかるわけないじゃん。あんただってあたしの好きな物とか知らないでしょ?」
「金だろ?」
「ひっぱたくぞコラ」
希咲は無礼極まりないクラスメイトを睨みつけるが、自分を棚にあげた発言ばかりする男はどこ吹く風だ。
「そもそもお前のそれは不正解だ」
「は?」
「俺のメリットを探したところで無駄だ」
「なによそれ。あんたがそうしろって言ったんじゃん」
希咲からの懐疑的な目をものともぜずに弥堂は冷淡に続ける。
「俺はこうも言ったぞ。そもそも能力的にあてに出来ん奴は見限れ、と」
「はぁ?」
「つまり今回のケースでのお前の正解は、俺をとっとと見限ることだ。諦めろ」
「はぁ~~っ⁉」
ここまでわりと真剣に聞いてきた彼の話が、ちゃぶ台をひっくり返したように全てすっ飛んでいく。
「なによそれっ! ここまでの話なんだったわけ⁉」
「? 全て言ったとおりだろうが」
「ふざけんじゃないわよ! エラっそうにレクチャーとか言っといて最後に放り捨てんな!」
「捨ててなどいない。そもそも最初から何も持っていないからな。そんな奴を相手にしても時間の無駄だから見限れと言ってるんだ。こんな簡単なこともわからんのか、バカ女め」
「バカはお前だばかーっ! こんにゃろひっぱたいてやるっ!」
「やめろ馬鹿」
カっとなって掴みかかってくる希咲を、迷惑そうな顔をしながら逆に彼女の顔面を掴んで引き離そうとする。
するとムキになった彼女もこちらの顔面に手をかけ爪を立ててきた。
本日何度目かになる彼女ペースの、弥堂としては『らしくない』じゃれあいのようななにかに再び縺れこみ、弥堂のコメカミにビキっと青筋が浮かぶ。
挑みかかってくる彼女を一睨みしてやると、口元を抑えられたまま「むぃむぃ」となにかを言っている希咲が反抗的な目線で押し返してくる。
その生意気な態度にイラっときた弥堂は『やりすぎる』ことを決めた。
「――そういえば一つ言い忘れていたな」
「むぁみもっ⁉」
冷酷な眼差しで見下ろしながら、彼女の口元を抑えていた手を離してやる。
「レクチャーの続きだ。大事なことを伝え忘れていた」
「はぁ? なんなのよ! どうせまた役に立たないんでしょっ!」
「まぁ、そう言うな。今度はお前の欲しいものが手に入るぞ」
「どういう意味よ!」
「俺が先程言った方法で駄目だった時にどうすればいいか、教えてやる」
「あんたなに言って――」
希咲が言葉を口にし終えるよりも先に弥堂は行動に移る。
ドンっと――
それなりの強さで希咲の肩を突き飛ばした。
「え――っ⁉」
突然のことに驚き、希咲は上体から後ろに倒れていく。
急激に角度の変わっていく視界の中、しかし運動能力に優れる彼女は反射行動でバランスを取り戻そうとする。
だが――
一歩後ろに足を着こうとした場所は、上履きと外履きを履き替える為の足場であり、其処は土足厳禁だ。
この一瞬でそこまでの総てに考え至ったわけではないが、見た目に寄らず基本的にお行儀のいい彼女は無意識に其処に足を着くのを躊躇ってしまう。
結果――
ほぼ成す術もなく足場の段差に踵を引っ掛け背後へと倒れ込んだ。
幸いすぐ背後にはシューズロッカーがあったため、そこに寄りかかるようにしてどうにか姿勢を保ち、床へと倒れ込むようなことにはならなかった。
「なにす――」
『なにすんのよ!』と怒鳴りつけようとするが、それよりも速く鳴らされた大きな音に声が引っ込む。
ガンっと――
蹴りでも放つようにシューズロッカーに掛けた弥堂の右足が、まるで退路を断つかのように希咲の左膝の脇あたりに置かれる。
弥堂のスラックスが撫でるように腿に触れていった。
反射的に逆の方向に身体を逃がそうとするが、それすらも叶わない。
バンっと――
シューズロッカーに当てられた弥堂の左手が自身の顏のすぐ右横に置かれる。
彼のブレザーの端が自身の髪と頬を撫でていった感触で、頭よりも先に身体が、完全に彼の裡に囚われたことを自覚する。
「――な、なに、すんの……?」
咎めるつもりで口にした言葉は、茫然と彼の顔を見上げたまま力ない声で発せられた。
弥堂は自らの腕の裡でこちらの顏を見上げてくる少女に顔を寄せる。
「他人に訊いてもわからない時にどうするか。簡単だ。自分の目で確かめろ」
「え――?」
彼に言われたことの意味がわからず、混乱の最中でも考えを巡らせようとするも希咲にはそれすらも許されない。
次いで認知した感触に思考が飛ばされる。
今度は内ももだ。
ちょうどスカートの裾が肌と布地との境界線となっている高さあたりで、腿の内側に感じたのは他人の皮膚と骨と体温だ。
「――――っ⁉」
息を呑むようにして慌てて下に向けた目線の先に写ったのは、自身のスカートの裾をちょうど股間の下あたりで掴んだ弥堂の手だった。
「――えっ? えっ? やっ――――っ!」
反射的に彼の手を両手で上から抑えつけ、こちらに登ってこないように押し返そうとするが、力の強さの差を理解させられただけだった。
「あの時お前のスカートがどうなっていたか今ここで再現してやる。それを見てあとは自分で判断をしろ」
「再現って――ちょっと待って! やだやだっ。ね? やめよ……? ホントにムリだから……っ!」
「安心しろ。俺の記録は間違わない。ミリ単位で合わせてやる」
「うそやだ――待って! やめてっ!」
スカートを握る彼の手に僅かに力がこめられたのが何故か感じとれ、希咲は慌てて弥堂の行動を止めようとする。
しかし、精いっぱいに力をこめて抑えつけようとしたが、逆にそれ以上の力で以て押し返されたのがわかった。
恐怖と焦燥から希咲はギュッと目を瞑る。
「これであの時と同じだ。さっさと目視しろ」
「うそうそうそうそうそ――っ! なんで……っ⁉」
「なんで? お前がいつまでもグズグズと言ってるからだろうが」
「やだやだ、やめてってば!」
「いいからさっさと目を開けろ。手間をかけさせるな」
「むりっ……むりだから……っ!」
「無理なことがあるか。見るだけだろうが」
「むりぃ……むりぃ……っ。見れないぃっ」
「うるさい。つべこべ言うな。オラ、下向け。今どうなってるか自分で見てみろ」
駄々をこねるようにグズっていた希咲だったが、弥堂に強めに言われるとビクっと肩を揺らし、おずおずと目を開けてから恐る恐る視線を下に向ける。
グスグスと鼻を鳴らしながら問題となっている局部を確認すると、弥堂の顏を見上げて滂沱のごとくダーっと涙を流す。その様子が弥堂にはどこかコミカルな風に見えた。
「み、みえてなかったぁ」
「そうか。よかったな」
弥堂は然して興味もなさそうに短く返すと彼女への拘束を解いてやった。
「なんかもうあたし感情メチャクチャで、なにに対しての安心かわかんないんだけど! あんたマジでなんなのっ」
「なんでもねーよ」
用は済んだとばかりに弥堂は靴を履き替えるべく自身に割り当てられたシューズロッカーの扉に手を伸ばす。
「ちょっと! とんでもないセクハラかましといて勝手に終わった感出すなっ!」
「おい、そこに立つな。危険だ、離れていろ」
取り縋ってくる希咲の立つ位置がちょうどロッカーを開いた際に内部に直面する位置だったので弥堂は避難を命じた。
形上、言葉で警告はしたが弥堂は相手の了承を待たず、希咲の肩を掴んで強引に位置を変えさせる。
不躾で乱暴な態度に腹を立てた希咲はせめてもの仕返しにと、彼の手に爪を立ててやった。
「なにが危険だってのよ。あんたまたそうやって誤魔化そうと――」
慎重な動作で自分の靴箱を開ける弥堂に懐疑的な視線を向けながら、そうぶつぶつと文句を溢していると、開いた扉の中からドサドサっと何かが零れ落ちてきて希咲は驚いて言葉を止めた。
ロッカーからまろび出て床に拡がったのはいくつかの紙切れなどの雑多な物だった。
「わ。びっくりした。なにこれ……?」
弥堂は彼女からの問いには応えず、まるで検分でもするかのようにジーっと床に拡がる物品の数々へと視線を向ける。
「また無視するし。てかさ、あんた子供じゃないんだから靴箱にこんなに物詰めるんじゃないわよ。神経質っぽいのにだらしないのね」
「……俺が詰めたわけではない」
「はぁ? あんたの靴箱でしょ? 他に誰が――って、あれ? これ手紙?」
またお得意の責任転嫁かと胡乱な瞳になりながら弥堂に言い募ろうとした希咲だったが、言葉の途中で床に落ちた紙束やゴミのような物の中に、封筒のような物がいくつか紛れているのに気が付く。
「えっ、マジ? これもしかしてラブレターとか? あんたに? 嘘でしょ?」
「さぁな。中身を見ていないからなんともな」
「なにその余裕の態度。なまいきっ……もしかして、あんたって意外とモテるの? うそよね? ありえないんだけど」
「どうだろうな。意外と熱心なファンがいるのかもしれんぞ」
「なにそれ。なんかムカつく」
まるで他人事のように意地悪く嘯いた弥堂を訝しむ希咲だったが、彼女も彼女でなかなかに失礼なことを言っている。
「あ、でも、それならさ。これちゃんと拾わなきゃ。床に放ってちゃダメじゃない」
そう提案するが、弥堂は尚も床に落ちた物からは目を離さないまま、それには応えなかった。
希咲はそんな彼に対して「むーっ」と眉根を寄せてみせてから、諦めたかのように大袈裟に溜め息を吐く。
「もーーっ、しょうがないわね。手伝ったげるから手早く拾っちゃいましょ」
そう言って身体の向きを変え、弥堂の前に背中を向けて立ち、足を揃えてその場にしゃがみこむ。一度見せてしまったからといっても、簡単には男の子にパンツを見せないという乙女としての表明だ。
「なぁーんかいっぱいあるわねぇ。ゴミみたいなのもあるし。なんなのこれ」
「あ、おい、迂闊に触るな」
件の封筒には手を触れないように、紙束の方に手を伸ばす希咲に弥堂が制止の声をかける。
「ん? なんなのよ? これこのまんまにして帰れないでしょ。二人で片付けた方が早いじゃない」
「危険だぞ」
「はぁ? 危険って、どういう…………ひっ――⁉」
意味のわからない警告を発してくる弥堂に視線を向けながら、床に落ちた紙きれを拾い集めていた希咲だったが、ふと自身の手にする物を見て短く悲鳴をあげた。
パラパラと、思わず拾った物を取り落としながら、驚いた彼女はバランスを崩し背後へ倒れかける。
希咲の後ろに居た弥堂は僅かに立ち位置を修正すると、自身の足に彼女を寄りかからせるようにして支えてやった。
「な、なにこれ――――⁉」
弥堂の足の甲にストンと尻もちをついた希咲は、驚愕に目を見開きながら改めて床に拡がった物に視線を向ける。
そこにあったのは変わらずゴミに紛れたいくつかの紙きれだったが、問題は――彼女が問題視したのはその紙に書かれていたものだった。
『呪』『殺』『死』……など、わかりやすく悪意を伝える文字がそれぞれの紙に一文字ずつ書かれている。中には『産』とか『辱』などと意味のわからないものもあったが、彼女の脳がこれ以上の情報量を受け入れることを拒否したためにそれらはなかったことにされた。
弥堂も改めてそれらを見て、しかし特に何も思わずにただ足の爪先を軽く持ち上げた。
すると――
「――ゃんっ⁉」
茫然と目の前の光景に自失していた希咲が慌てて立ち上がる。
そしてクルっと身体を回して弥堂の方へ向き直り、彼から守るように隠すようにお尻に手をあてたまま「むーーっ」と咎めるように睨みつける。
しかし、顏が照れて紅潮していたために迫力には欠けた。
実質足の指でお尻を突かれたようなもので、それに対しては盛大に文句を言いたい。
しかし、転びそうになったのを助けてもらった恩もあり、その後も彼の足にお尻を乗せたままという失礼もしてしまっていたので、堂々とは文句も言い辛く、七海ちゃんはお口をもにょもにょとさせる。
やがて、「もうっ!」とひとつ床を踏み鳴らし気分を切り替えた。
そして改めて今ほど自分が取り落とした物たちを視界に収めると、紅潮していた顔を一転してサーっと青褪めさせる。
「ね、ねぇ? これって……」
「なかなかに熱烈なファンレターだろ?」
「ファンレターって、あんた……」
弥堂らしからず冗談めかしたような台詞だったが、言葉を失う希咲はそんなことに気が回らない。目の前の凄惨な光景から連想させられることで思考の容量が埋められる。
こんな物をどう考えてもロッカーの持ち主である弥堂が自分で用意して入れるわけがない。嫌がらせだと断定してもいい。このような行為から導き出される答えなどそう多くはない。
数瞬、逡巡に瞳を揺らしてから躊躇しつつ掛けるべき言葉を脳裡より収集する。
「ね、ねぇ……? もしかしてだけど。あんた、イジメられ…………てるわけないか……」
「なんだ、その目は」
決心するように切り出すも束の間、一息の中で自身の推測を否定し自己解決しながら弥堂に胡乱な瞳を向けた。
「どう考えてもあんたイジメる側よね」
「そんな無駄なことに割く労力はない」
「てことは、方々で恨みかいまくって、でも直接仕返しするのは怖いから陰湿な報復……って感じかしら?」
「まぁ、概ねそんなとこだろうな」
見事な推理に正解のマルを付けられたが、希咲は少しも喜びを感じることなく、呆れたように溜め息を吐いた。
「ふつーならさ、『なんてひどいことするの!』って怒るとこだけど、相手があんただとどうリアクションしていいか難しいわね」
「別にこんなものどうということでもないだろう」
「えー? あたしだったらこんなの一週間も続いたら泣いちゃうわね」
「大したことではない。動物の死体とか突っ込まれてたらさすがに処理が面倒だがな」
「……グロいこと言わないでよ…………えっ? まさかそんなことまで――」
「今の所はないな。根性の足りん奴らだ」
「嫌がらせしてくる相手にもっとヒドイことしろってダメ出ししてどうすんのよ……」
飄々としながら見当違いな所感を述べる弥堂に、何やら頭痛を感じた希咲は眉間を揉み解す。
「なぁーんかあたしわかっちゃったのよねぇ。あんたさ、どうせ今日みたいなこといっつもあちこちでやってんでしょ?」
「まぁ、概ねそんなとこだな」
「ほどほどにしときなさいよね。ホントに今日みたいなこと毎回やってるなら、出会う人全員と敵対しちゃうわよ」
「ほっとけ」
「ホントはこんなの絶対ダメなことだけどさ。あんたが相手だとこんくらいはしてもいいんじゃないかって思っちゃう。や、絶対ダメだけど」
「どっちだよ」
「今日だけであたしの価値観めちゃくちゃよ。どーしてくれんの」
「知るか」
面倒そうに短い言葉しか口にしなくなった弥堂を「さて」と置いて、希咲はカーディガンの袖を捲る。
「なにしてんだ、お前」
「ん? なにって、片付けるんでしょ?」
「あぁ、大丈夫だ。ほっとけ」
「どうせ一緒に帰んなきゃなんないんだから二人でやった方が効率いいでしょーが。ヘンなとこで遠慮すんじゃないわよ」
「そういう意味じゃない。片付けはしなくていい。このまま放置していく」
「そんなわけいかないでしょ? ダダこねないでよ。メンドくさいわねっ」
無責任にも大量のゴミ同然の物を散らかしたまま帰宅をしようと申し出てきた風紀委員の男子を希咲は咎めるように睨みあげた。
「問題ない。いつもこのまま放置しているが、夜が明けると次の日には何故か綺麗さっぱり消え去っているんだ。不思議なこともあるものだな」
「お前ぜったい確信犯だろっ。そんなの清掃員さんが片付けてるに決まってんじゃない! 妖精の仕業みたいにゆうなっ!」
「ちっ、めんどくせぇんだよ」
「あっさり本音だしたわね。いい加減にしなさいよあんた。何の予備情報もなしに通りすがりにこんなもの発見させられる人の気持ち考えなさいよ。ホラーすぎるでしょうがっ」
知れば知るほどに公共性の欠如を垣間見せてくるクラスメイトの男子に、希咲は軽蔑の眼差しを向けた。
「だいたい何故妖精の仕業でないと言い切れる? 妖精は存在しないと証明できるのか?」
「うっさい。へりくつゆーな。じゃあ、あんたは見たことあんのかっ」
「あるぞ」
「へー。じゃあ、言ってみなさいよ。妖精さんはどんな感じよ?」
「そうだな。冷血で無口で掃除好きだ。あとすぐ泣く」
「はいはい」
適当すぎる妖精の目撃情報を提供してくる弥堂に、希咲も呆れて適当な返事をしてとりあわない。
「もーっ。しょうがないわね。こういうのはモタモタしてると余計めんどくなっちゃうんだから、ちゃっちゃとやっちゃいましょ」
「ほらっ」と促すように弥堂の尻を叩いて、これ以上は減らず口に構ってあげないとばかりに希咲は作業にとりかかった。
目の前でしゃがみこんで、情けない顏で「うぅっ」と情けない声を漏らし、嫌いな虫でも掴むように目線を逸らしながら、恐る恐る『怨』と血文字風に書かれた紙切れを指で摘まみあげる。
そんな彼女の姿を数秒ほど無感情に見てから、やがて観念したように溜め息を漏らし弥堂も作業に入った。
やるならさっさと終わらせようと希咲の対面に周り、反対側から拾い集めていこうとしゃがもうとする。
しかし――
「ちょっと!」
希咲から咎めるように制止の声がかかる。
「なんだ?」
「そっちに座んないでよ」
「あ?」
「そっちでしゃがまれたらまたパンツ見えちゃうでしょっ」
「……どうでもいいだろうが」
「いいわけないでしょ!」
「端と端から拾っていった方が効率がいいだろうが」
「覚えときなさい。この世界はね、効率よりも乙女の事情が優先されるのよ」
ピシっと指差しながらこの世の真理かのように断言をしてくる。
その手の小指と薬指に摑まれている紙切れに書かれた『H』の血文字がゆらりと揺れる。
弥堂はもはや反論する気力が湧かず、黙って希咲の隣に移動するとその場にしゃがんだ。
明らかに効率が悪い。
そのことを考えないようにしながら弥堂は無言で作業を始めた。
しかし、考えないようにしても思考は勝手に回る。
考えないようにしている間は、考えないようにすることを考えているからだ。
思えば、今日この希咲 七海という少女と関わってからこんなことばかりだ。
つまらないことばかりギャーギャーと言われ、くだらないことばかり起こって、ちっとも時間が進まない。
いや、時間は正確に等しく過ぎている。
時間は過ぎていくのに、どうでもいい出来事ばかり積み重なって、少しも状況が進まない。
明らかに効率が悪い。
そういったことを嫌うはずの自分が特段苛立ってもいないのは、疲労からパフォーマンスが低下しているせいだろうと目を背ける。
チラリと、すぐ隣で自分と同じようにしゃがみこんで、効率の悪い提案をしてくるわりにやたらと手際よく作業を進めていく彼女の横顔を見遣る。
綺麗な手で、地に落ちたゴミを掴み、拾い上げていく。
そんな彼女の時折り瞬く長い睫毛の毛先を見つめ、今度こそ思考を放棄し、自分自身を作業を熟す為だけの装置とした。
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