序-35 『その瞳の泉に映るもの』
スマホを操作する。
同委員会に報告をする情報と、しない情報とを仕分けする事前準備を終えて、現在作成しているものは自身が所属する部活動である『サバイバル部』の情報統制担当である
彼――もしくは彼女から昼休みに与えられた情報の中にあった、正体不明の新勢力である『
その連中と遭遇をし対処をしたので、その件に対する報告と奴らへの評価だ。
手早く簡潔に文字を打ち込み文章を完結させる。
じっと液晶画面を見詰め、上から下へ内容を流し見て瑕疵を確認しすぐに送信をする。
間髪入れずに次のメールを新規で作成にかかる。
送り先は同じくY’s。用件は問合せ。同時に催促でもある。
件の昼休みに送られてきたのは『
もう一つの重要だと思われる案件について弥堂は何度も詳細説明を求めているのだが、意図的なのかどうかは不明だが、その件への回答だけが為されない。
その重要案件とは――『希咲 七海おぱんつ撮影事件』である。
先程に実物を目視もした、希咲の無駄にカラフルで装飾過多なおぱんつが露わになった場面を写真画像に切り取ったものが弥堂のスマホにY’sから送られてきたのだが、その件の詳細説明をもう3度程求めているのにも関わらず、依然奴からの言及はない。
(――俺を、ナメているのか?)
初回の問い合わせ以降も奴とは何度か連絡を交わしている。催促もその度にしている。なのに無視でもしているかのように、その件についてだけは何も答えない。
優秀な奴ではあるのだろう。
だが、絶対に替えが利かない人材というわけでもなく、また絶対になくてはならない役割というわけでもない。仮に奴が居なくなったとしても、必要なのであらば、弥堂の上司である部長の
ならば――
(――その後任への見せしめも兼ねて、始末するか……?)
弥堂は脳裡でタイムリミットを1日と定め、それを過ぎても奴の態度が変わらないのであればY’sを処分することを決めた。
そして求めた情報が貰えないのならば、自分で調べればいいと切り替える。
水無瀬に対して行ったように本人に直接聴取を行う。ちょうどその本人と待ち合わせているのだ。このまま希咲を待つ。
続いて、反省文を代筆するようにとの要請を脅迫文を添えてY’sに送ろうとしていると――
「――おまたせ」
その本人の声で呼びかけられて弥堂は目を細める。
声を掛けられるまで近づかれていることにすら気付くことが出来なかった。
物語などに登場する達人の様に何かしらの超常的な力のようなもので、対象の正体を特定した上で完璧に気配を察知することなどは弥堂には出来ないが、それでも様々な情報からそれを感じ取ることは可能だ。
音、匂い、空気の揺らぎ、足から伝わる地面の振動、など。
そういった周辺環境の変化や異常から何者かの存在を察知することは出来る。
しかし、彼女はそれらの一切を感じさせずにここまで接近してきた。
弥堂は目を細めて、希咲を視た。
「……あんたさ、人をそういう眼で見るんじゃないわよ」
「声を掛けてきた相手を見る。普通のことだろう?」
「だってさ、なんかすんごいヤな感じで見てくんじゃん? 実験動物の経過観察、みたいな?」
「気のせいだ」
「なーんかなー、失礼というか不躾というか…………やらしい感じじゃあないんだけど、絶対にヘン。それさ、女の子は絶対気が付くしイヤがると思うからやめなさいよ?」
「俺にはよくわからんが、善処しよう」
弥堂としては面白くない話題なので特に強くは反論をせずに穏便に応答を済ませる。
そして今自分が知りたいことを訊くために切り出す。
「そんなことよりも希咲。お前に訊きたいことが――」
しかし切り出そうとしてすぐに弥堂は言葉を止めた。
対話相手である希咲の様子がどこかおかしいと気に掛かったからだ。
つい数秒前に注意されたばかりにも関わらず、またも希咲をじっと視る。
「だーから。それやめろっつーの」
希咲の抗議を無視して考える。
つい今まで俯瞰するように視ていた感じでは、彼女と別れる前と特に何も変わったところはない。先程までと同じように叩いている軽口の調子も同様だ。
だが、何故だか彼女がどこか気落ちしているような塞いでいるような――そんな風に見えた気がして。質問をする為に目を合わせた希咲の、形のよい瞼に縁取られた眼窩の中心に浮かんだ、その瞳の奥にナニカを見たようなそんな錯覚を覚えたのだ。
そしてその錯覚から弥堂が感じ取ったのは『危険』だった。
特に物理的な証拠や、明確にそれを示すような根拠があるわけではない。
だが――
(――間違いない)
弥堂は己の本能、或いは経験、そういったものが強く自身に伝えてきているその警鐘を信じた。
「……訊きたいことが、あったんだが、日を改めよう」
そして出した札を引っ込める。
弥堂は自身に共感・共有と謂われるようなそういった類の能力・機能が欠落していることを自覚している。元々生まれつきそうだったわけではなく、これまで生きてきた過程で、気が付いたらどこかに落っことしてきていたのだ。
それが出来ていた時期もあった。だからこそ今それが出来ないことを自分で理解出来る。
故に、そんな自分がこんな風に相手の気持ちの変化などに気付くことが出来たと感じた時は、相手がそう仕向けているからである。そのように考えている。
弥堂のこれまでの破綻した人間関係の経験上、女がこうしてそれとは見せずに落ち込んでいるアピールをしてきている時は、それに触れろというサインなのだと知っていた。
しかし、それで訊いてやったとしても奴らは必ずこう云うのだ。
「なんでもない」と。
そしてそう言われたとしても一回で納得をしてはいけない。何回か同じ質問をして気にかけてやっているという姿勢を見せる必要がある。だが訊き過ぎてもよくない。今度は「しつこい」「ほっといて」などと怒られるのだ。
バランスと塩梅が非常に繊細で、とてつもなく難易度が高いのだ。
弥堂はここにきて前触れもなく自分が窮地に立たされようとしていることに気が付いた。
(なんて面倒な女なんだ)
弥堂は脳内で希咲 七海の評価を6段階ほど下方修正し、そしてこの女とは手を切るべきか考慮し始める。
この状態の最善手は気付かないフリをすることだ。必勝法はない。あくまでも最善だ。
一度こちらが気付いたことを気取られればもう逃げ場はない。決して気付いたことに気付かれてはならない。
「ん? あによ? 言いかけといて途中でやめられるとか、そういうのあたしすんごい気になっちゃう人なんだけど」
「なに、大した問題ではない。とても小さなことだ。キミがわざわざ気にするようなことではない」
「……特に相手があんただと、またロクでもないこと考えてんじゃって思っちゃう」
「それは誤解だ。そんなことよりも今日はもう疲れただろう? 酷い体験もしたしな。もしも辛いのであればタクシーを呼ぼう。心配するな。料金はこちらで払う」
「ほらあやしい」
希咲さんは見事なジト目になった。
「今朝さ。あんたに『もっと愛想よくしろ』って言ったじゃん? あれ取り消すわ。今日絡んだ経験上、あんたがそうやって優しいっぽい感じのコト言うとすんっごい不安になるようになったの」
「それは穿ちすぎだ。俺は職務に忠実で優秀な風紀委員だ。自らが守る学園に所属する生徒全員の幸せを願っている。特にキミはクラスメイトだ」
「生徒などいくらでも替えがきくとか言ってなかったっけ?」
「うるさい黙れ。口答えをするな。いいから言う通りにしろ」
「弥堂 優輝くん説明書そのいちっ。答えに困ると逆ギレしてゴリ押ししてくる」
ピシっと指差して的確に急所をついてくる。
「…………」
「ん?」
そして『言い返せるものならどうぞ?』とばかりに、コテンと首をかしげてこちらの顔を見上げてくる。
「……さて、だいぶ遅くなったな。そろそろ帰ろうか」
「説明書そのにっ。意地でもYESと言いたくない時は強引にシカトする」
今度は指を二本立てて弥堂の顏前に突き出してくる。
「…………」
「ん?」
そしてその手を裏返し逆ピースのようにして自分の顎先に添えると、腰を折って下から顔を覗き込んでくる。悪戯げな仕草で指をチョキチョキと動かすと――
「んふふー」
そう満足げな笑顔を見せた。
「ぷっ。ごめんて。怒った?」
そんな希咲の顔をなんとなく見ていると、こちらが気分を害したのかと勘違いしたのか機嫌を窺ってくる。
「いや。問題ない」
「そ? なら『そのさん』と『そのよん』も聞く?」
「……それは勘弁してくれ」
「やりぃー。あたしの勝ちぃー」
弥堂が大人しく白旗を上げると、希咲は勝鬨をあげ楽し気にクスクスと笑った。
(生意気な女だ)
弥堂は心中でそう毒づいたが、何故だかそうは悪い気分にはなっていなかった。
そのことを少し不思議に思ったが、すぐにどうでもいいことだと切り捨てる。
「満足したようでなによりだ。では帰るぞ」
「はいはーい」
靴箱へ向かう自分の隣に、軽い返事をしながら並んだ彼女を横目で見遣る。
彼女は白くて細いその長い脚を前に伸ばすようにして大袈裟に一歩を踏み出す。
わざと子供っぽく見えるような仕草をしていても、彼女がやるとそんな所作も何故だか綺麗に映る。
そのことも少し不思議に思ったが、またもどうでもいいことだと切り捨てる。
そんなことよりも、どうやら先程の追及を忘れてくれたようだと、どうにか上手く誤魔化せたようだと、そのことに弥堂は一定の満足感を得た。
「あーーすっきりした! あんたには随分と好き放題言われたしやられたしだから、ちょっとはやり返せて気分いいわ」
「なんのことだ」
「はぁ? まだそんなこと言ってんの? 変なことばっか言うし、あちこち触ったし、それに見たでしょ!」
「お前こそまだそんなこと言ってるのか。いい加減しつこいぞ。どうという程のことでもないだろうが。大体減るものでも…………ふむ……」
シューズロッカーに片手を付けて支えにし、立ったまま靴を履き替えつつ抗議をしてくる希咲に反論をしようとしたが、途中で言葉を切って顎に手を遣り思考をする。
「なによ? やっと自分が悪いってわかったの?」
「――そうか。減ったのか」
「はぁ?」
「いいだろう」
制服のローファーに踵を通そうと右足をぴょこんと上げた体勢のまま、希咲が訝しげな視線と声を投げかけてくる。
弥堂はそれには構わずに自分だけで勝手に納得を済ませて、上着の内ポケットに手を突っ込みながら希咲に近寄る。
胸元から取り出したのは紙幣だ。二つ折りにしてポケットに直接突っ込んでいたその紙幣を開き、その内から一万円札を三枚ほどピックアップして残りはポケットに戻す。そして手に持った紙幣三枚を伸ばしたままの状態で縦にぐしゃっと握り潰した。
唐突に懐から裸の万札を取り出したクラスメイトの行動に希咲はギョッとしていたが、お金を粗末に扱ってはいけないという一般的な価値観から「あ、こらっ」と彼を咎める。
弥堂はそれには構わずに、彼女の制服ブラウスの襟を胸倉を掴む様にして左手で持った。
「――へ?」
余りに突然のことで、左手は身体を支えるためにロッカーに置き、右手は靴を右足に嵌めるために塞がっていてと、運が悪く間も悪く無防備な状態だった希咲はまたもや彼の蛮行を許すことになってしまった。
上から3つほどボタンを外し少しだけ襟を開いている彼女の胸元に、掴んだブラウスを無造作にグイとひっぱってさらに隙間を作り出す。
そして、先程安全ベルトが不意に外れるという不幸な事故により一度はお亡くなりになってしまったが、事件後の希咲の懸命な努力により立派に生まれ直していたその胸の谷間(偽造)にくしゃくしゃの金を捻じ込む。
「んな――――っ⁉」
あんまりにもあんまりな弥堂の無礼な行いに、というか現代を生きる日本人とはとても考えられない頭のおかしい所業に、びっくり仰天した七海ちゃんは髪のしっぽを逆立ててフリーズした。
野蛮な下手人は丹精込めて造られた胸の谷間よりも、ぴゃーと跳ね上がった髪の毛の方が気になったらしく、口を半開きにしてその動きを目で追ったあと、気にしないことにしたのか希咲の顏に視線を戻してくる。
「これでいいだろ?」
まるで自らの負うべき責任と義務は果たしたと謂わんばかりの態度と、希咲からはまるでドヤ顏のように見えるその顔に、頭の中でぷちんっと音が弾ける。
「――――いっ……」
「い?」
「――いいわけあるかああぁぁぁぁっ! ぼけえぇぇぇぇぇぇっ‼‼」
文化講堂での一幕の焼き増しの様に電光石火の右ストレートが煌めく。
だが――
「おっと」
弥堂は左に重心を落としながら弥堂は首を傾けその攻撃を簡単に掻い潜った。
「こんのぉっ――」
その下がった弥堂の頭部を迎え撃つように希咲の右足が跳ね上がる。
「ふん」
弥堂は顔面に迫りくる快速の蹴り足をつまらなそうに視て、充分に誘い込んでからその足の踵に掌を添えて上手く力の方向を変えることで軌道を上に逸らした。
鞭が振られたような音を出しながら弥堂の頭の上を蹴り足が通り過ぎていき、履きかけだった右足のローファーが宙を舞う。
希咲はその空ぶった勢いのままクルっと軽やかに一回転して体勢を戻すが、右足を靴下のまま床に着けることを躊躇い、仕方なく追撃を断念し口撃に討って出る。
弥堂は落ちてきたローファーをキャッチしながら、目の前の攻撃性の高い女子に冷めた目を向けた。
「なんで避けんのよっ! てか、なんでこれ避けられんのよ! おかしいんじゃないの⁉」
「それは普通じゃ避けられないような攻撃を他人に向けて放った、ということだな? おかしいのはお前じゃないのか?」
「あんたのくせに正論言うんじゃないわよっ!」
「正しい、ということは認めるんだな?」
「うっさい! へりくつゆうな!」
ヒートアップする希咲に極めて冷静に返しながら、弥堂はローファーを彼女に返してやる。
フーッ、フーッと怒りを堪えきれないといった風に、荒い息を吐きながらそれをふんだくった希咲だったが、やがて強く目を瞑り、無理矢理気分を切り替えるように一際長く息を吐き出す。
そして半分だけ目を開け、その細めた瞼の隙間から覗く瞳で冷たい視線を弥堂へと射かけた。
「弥堂くん。質問をしてもいいでしょうか?」
「…………なんだ?」
唐突に口調を変えて尋ねてくる希咲を訝しむ。
弥堂は目の前の情緒不安定な女子を警戒しその様子を視てみると、わずかに口の端と頬がピクピクと引き攣るように動いていた。どうも努めて無理矢理にでも冷静に振舞おうとしているように見受けられる。
「どうして、こんなことを、するのでしょうか?」
「こんなこと? なんのことだ?」
弥堂が質問を投げ返すと希咲の頬が強く引き攣った。
だが彼女はすぐに「すーはーすーはー」と大袈裟に深呼吸をしてみせ、淡々と先を続けようとする。
「こんなこととは、えっちなことです」
「あ?」
「弥堂くんは私のむっ、むねっ――コホン…………胸の谷間にお金を入れましたね?」
「お前にそんなものはないだろうが」
「あるもんっ! あるからっ! あるでしょっ⁉」
「…………」
冷静を装う為の化けの皮が剥がれ、感情的に主張しながら谷間を主張する。
自身のブラウスの両襟を手で持って僅かに襟を開く。そして少しでも大きく見えるように、弥堂に向って胸を突き出すようにして見せる。もちろんさりげない動作で手に力をこめて左右の胸肉を中央に寄せることは怠らない。
弥堂は希咲のそんな針小棒大な仕草を胡乱な目で見た。
その視線を受けた希咲はハッとなり、自分が感情的になってしまったことに気付く。
すぐに体裁を取り繕おうとするが、続けて今度は、ムキになってしまった挙句にあろうことか自分で胸元を強調して男の子に見せつけているようにしか見えない――そんな現在のはしたない状況にハッとなり慌てて着衣を整えた。
羞恥心と八つ当たり染みた怒りに頭にも身体にも、カっと熱が入る。そのまま衝動に任せて怒鳴り散らしたくなるが、努めて衝動を抑え、彼女は先程よりも深く念入りに深呼吸を行う。
それからコホンと咳ばらいをして切り替えると、何事もなかったかのように再び喋り出した。
「――んんっ。いいですか弥堂くん? 先程も言いましたがセクハラはいけません。何故ならえっちだからです。えっちなのはいけないことです。例え自分の彼女や奥さんだったとしても相手の同意が必要です。そして私は弥堂くんの彼女じゃありませんよね? だからなおさらダメです。わかりますか?」
「…………」
「弥堂くん? わ か り ま す か ?」
「…………あぁ」
「はい。次にキミは『服に触っただけだろ? 身体には触れてない』などと言いだすでしょうから先に言っておきましょう。ダメです。だめだめです。あんな風に乱暴に引っ張ったらブラみえちゃうかもしれませんよね? はい、えっちです。それにボタンとれちゃったり皺になっちゃったりするかもしれません。そんな状態では外を歩くことはできません。女の子は服も身体の一部です。無暗に触ってはいけません。わかりましたか?」
「…………」
「わ か り ま し た か ?」
「……わかった。わかった…………が、お前、その喋り方やめろ」
「いやですっ」
不機嫌そうに告げられた弥堂の要請をにべもなく断り、希咲はぷいっと顔を背ける。
そのような振舞いをしたのは、怒りを主張するためではなく、笑い出しそうになるのを堪える、そんな今の自分の顔を隠すためだ。
彼に対して感情的に喚いても効果がなく、減らず口を返されるだけだと思ったので、無理矢理にでも冷静になるために不自然さを無視してでも丁寧な口調を心掛けてみた。
中世時代、もしくはそれよりも以前の時代の野盗などに類する無法者とモラルやコンプライアンスが同レベルなのでは――そんな疑いのある弥堂に対して現代日本人としての最低限のマナーを教えるためにと、クールな女教師をイメージして演じてみせたのだ。
そんなことでこの男がどうにかなるとは考えていなかったのだが、思いの外に効果があったらしい。
何がそんなに効いているのかは全くを以て不明だが、いつも無表情な減らず口男が苦虫を噛み潰したような顏で黙って自分の話を聞き、その後絞り出すように「わかった」と返事をする。
そんな様子がちょっと面白くなってきてしまったのだ。
腰骨のあたりから痺れるように湧き上がってきて胸の奥のどこかに空いた穴に染み出て溜まっていくような、今まで生きてきた中で知ることのなかったそんな仄暗く倒錯的な満足感。
彼を困らせることによって、それを今自分が感じていることに無自覚なまま、にまにまと緩みそうになるほっぺを両手でぐにぐにと揉み解し、スッと表情をクールな女教師(推定27歳独身)に戻す。
「それでは次の授業です。次はお金についてです。いいですか? 弥堂くん」
「おい……」
「当たり前ですがお金は粗末に扱ってはいけません。それなのに弥堂くんはさっき私のお洋服の中にお金を突っ込んできましたね? どうしてそんなことをするのですか? とても最低です。なんでかわかりますか?」
「おい、希咲」
「何故ならえっちだからです。外国の映画とかで観たことがあります。そういうのはえっちな恰好をした女の子が踊ってたりするお店での作法ですよね? そういうことを私やそのへんの女の子にしてはいけません。なんでかわかりますか?」
「……おいって……」
誰もが知っていて当然のような常識事を子供にでも言って聞かせるようにつらつらと並べ立ててくる希咲に対して、弥堂は制止の意味をこめて言葉の合間に呼びかける。
しかし、それを正確に理解している彼女は素知らぬ顔だ。つーんと澄ました口調と表情で続ける。
「何故かというと、私はえっちなお店の女の子ではないからです。もしかしたら弥堂くんは将来そういうお店に行くことがあるのかもしれません。それは勝手にすればいいと思います。ですが、そういうことはそういう時にそういうお店の中だけですることです。一歩でもお店の外に出たら、してはいけません。そういう約束事になってるはずです。あとそういうお店に行ったら軽蔑しますので私にはもう話しかけないでください。わかりましたか?」
「…………」
「わ か り ま し た か ?」
「チッ、うるせぇな。わかってる」
「へぇ~。そう。ふぅ~ん。なるほど。それは今、私に言われてわかったのですか? それとも元々わかっていたという意味ですか? どっちですか? 答えてください。あと、前者の場合は『なにがわかったのか』、後者の場合は『わかっていたのに何故こんなことをしたのか』も答えてください。ではどうぞ」
「わかった。俺が悪かったよ。許してくれ」
開いた掌を向けて「さん、はい」と回答を促してくる希咲に、堪らず弥堂が白旗をあげた。
雑にハンズアップする弥堂を希咲はじっと見る。
すると――
「ぷっ…………ふふっ……あははっ。なにそれ…………許してくれ、だって。おっかしぃ……」
とうとう堪えきれなくなったのか演技をやめて笑いだした。
お腹をおさえてクスクスと笑みをこぼす彼女から目を逸らし、弥堂は不機嫌そうに宙空を見上げる。
そんな彼を逃がさないといった風に、希咲は一歩だけ歩みよる。
後ろ手に手を組んで腰を折り、こちらの表情を覗きこむように下から見上げてくる。
「ねぇねぇ。あやまっちゃったね? なんであやまっちゃったの?」
「……お前な」
「あんたってさ。普段絶対に『ゴメンなさい』出来ない子でしょ? 最後に人に謝ったのっていつよ? ねぇねぇ」
「うるさい」
「そんなの絶対覚えてないでしょ? なのに、あたしに、ゴメンなさい、しちゃったんだー? ぷぷっ、だっさぁ~い」
伸ばした指先を綺麗に揃えて唇を隠し、悪戯げに目を細めて、どこか自慢げな風に、コロコロと楽しそうに笑う彼女を見て――或いは笑う彼女が楽しそうに見えて――弥堂は特に怒りを感じることもなく、ただ不思議に思った。
普段の自分に接する時の攻撃的で高圧的な彼女。
先程までの「あれはダメ」だの「これはこうしろ」だのと、口煩いという点ではいつもと同じだが、どこかそれよりもお節介な感じの彼女。
自分に戦いを挑んできた時のそれなりに雰囲気のある彼女。
子供の様に泣いたり喚いたりしていた彼女。
それとは違う種類の涙を流し傷ついた顔をした彼女。
そして――
「――あはは。ごめんごめん。もしかして怒った?」
――そして、笑いすぎて瞼に滲んだ涙を指で掬いながら、まるで友人に対してそうするように気安く笑いかけてくる彼女。
今日だけでいくつもの顔を見せた、目の前の希咲 七海という少女の本質は一体どれなのだろうか。
それが不思議で、でもどれもが不自然には見えなくて、手を伸ばせば届く距離に居るのにその正体を掴める気がまったくしなかった。
だが、そんなものなのだろう。
(そういえば、そうだったな)
彼女は高校生だ。16歳の少女だ。
(高校生は、子供だったな)
情緒不安定で言動がよく変わる。未完成で未成熟で未だ何者にも為っていない子供。それはそういうもので、なにもおかしなことではない。
弥堂 優輝は希咲 七海を目に映したままで、目を逸らしそう決めつけた。
そして興味を失くす。
「いや、怒っていない。キミの言うとおりだ。俺の敗けだ」
「やたっ。あたしの勝ちぃっ! ねぇねぇ、あたしちょっとスゴくない?」
「そうだな。キミはスーパーだ」
「あはは、なにそれ。スーパーって。あんたやっぱ言葉遣いヘンよ。ちょっとおもしろいけど、ふふっ」
機嫌が直ったのならそれでいいはずだ。
「てゆーか、あんたさ、なんでいきなりお金なんか渡してきたわけ? いみわかんないんだけど」
「何故って、減ったからだろうが」
「はぁ?」
「お前が金を得るチャンスを俺が不意にしたから怒っていたんじゃないのか?」
「あんたなにいってんの?」
つい数秒前までの楽しそうに笑っていた顏をコロッと変えて希咲は怪訝そうに眉を寄せる。
「なにって、お前らギャル種とはおぱんつを対価に生計をたてていると聞いている。俺が金を払ってないから怒っていたのではないのか?」
「は?」
ビキっと希咲の口の端が引き攣った。
スッと息を吸って肺を拡げ、反射的に大声で怒鳴り散らそうとし、寸前で彼女は踏みとどまる。
スーハースーハーと先程よりは少し早いペースの深呼吸をして感情を制御してから口を開いた。
「弥堂くん、それはこういうことですか? キミは私のパンツを見て、なにかそういう種類のサービスを利用したつもりになり、その対価としてお金を払って済ませようと、そう考えたわけですか?」
「あぁ。もっとも俺に利用したつもりはなかったんだがな。まぁ、知らずに利用してしまったのなら仕方ない。欠片も望んではいないし、仕事上仕方なく見たくもないものを見ただけなのだが、面倒は御免だ。それで済むのなら勉強代だと諦めて金をくれてやろうと考えた」
不出来な生徒のとんでも解答を聞いて、女教師・希咲 七海27歳(仮)は言葉を返さず静かにゆっくりと表情を造り、ニッコリと笑った。
弥堂がその彼女を見て眉を顰める瞬間――
「なんだそりゃあぁぁぁぁっ‼‼」
音響兵器もかくや、本日一番の大声量で希咲は叫んだ。弥堂のお耳がないなった。
「バカじゃないの⁉ バカじゃないの⁉ バカじゃないのっ‼‼」
「うっ、うるせぇ……」
「うるせぇじゃないでしょ! サイテーサイテーサイテーっ‼‼ あんたもうガチでシツレーすぎっ!」
「……あ? なんだって?」
「聴こえないフリすんなあぁぁっ!」
「待て。お前の声で耳がおかしくなった」
「んなわけあるかー! 騙されないっつーの!」
弥堂は突発性難聴のフリで乗り切ろうと試みたが、自身の声量が齎す影響に自覚のない希咲さんには通じなかった。
「マジでしんじらんないんだけど! あんたなんでそんなにバカなの⁉」
「誰が馬鹿だ。ナメたクチをきくなクソガキが」
「聴こえてんじゃねーかこのやろー! うそつきうそつきうそつきっ!」
「うるさい黙れ」
「黙るかあほー! ねぇっ! ゴメンなさいしてよ! あやまって!」
「おまえ……ホントうるせぇな…………」
盛大に顔を顰めて疲労感を滲ませながらしみじみと呟く弥堂を見て、希咲は少しばかりの溜飲を下げる。
「あたし、そういうえっちなお店の女の子じゃないってゆったじゃん! なんでわかんないの⁉」
「それを言ったのは俺が金を渡した後だろうが」
「へりくつ! なんでくちごたえばっかすんの⁉ あたしが怒ってんだからゴメンなさいって言えばいいじゃんっ! なまいきっ!」
「しつこいぞ。さっき謝っただろうが」
「足りないっ! たりないたりない、たーりーなーいー!」
ダダを捏ねるように騒いで「あんたは色々足りないっ!」と、締めにビシッと指さしてくる。
そんな彼女のあまりの姦しさに弥堂はげんなりとするが――
「だが――そうか……ふむ。足りない、か」
何かしらの納得した様子を見せる。
そんな弥堂の様子に希咲は『わかってくれたか』とは思わない。逆に今度は何をはき違えたのかと警戒し胡乱な目になる。
ジトーっと湿った温度の希咲の視線を気にすることなく、先程のように弥堂は懐に手を突っ込みながら近寄る。
そして特に何のひねりもなく、先程同様に内ポケットから取り出した万札を数枚希咲の眼前に差し出した。
希咲は頬がピクピクと動いているのを自覚しながら弥堂へ引き攣った笑顔を向ける。
「い、いちお、きいとこうかしら? なんのつもり?」
「金がもっと欲しいんだろ? くれてやる」
希咲の口の端がビキっと吊る。
「ふっ、ふふっ、うふふふふ……っ。やだもー、びとーくんってばおもしろーい。いま言ったばかりなのにー。…………ちなみにどうしてそんな風に思っちゃったのかなー?」
「足りないと言ったのはお前だろうが。相場を知らんから多めに支払ったつもりだったんだがな。さっきからグチグチとわけのわからんことを言っていると思ったら遠回しに催促していたのか。金がもっと欲しいならさっさとそう言え。効率が悪い」
至極面倒そうに言うと、弥堂は希咲のほっぺたにグイと金を押し付けて早く受け取るように促す。
希咲は引き攣った笑顔のままでニコーとほっぺで金を押し返し――
「んなわけあるかぼけえぇぇぇっ‼‼」
バシッと金を叩き落とす。
「あんたマジでどんな生活してたらこんな――」
金を叩き落した勢いのまま盛大に罵声を浴びせようとしたが、すぐにハッとなってその場に素早く足を揃えてしゃがみこむ。それから今しがた自身で床にぶちまけた数枚の一万円札を拾った。
手早く回収したそれを手際よく膝の上に載せてサッサっと埃を払う。
そして頭突きでもかますような勢いで弥堂の方へ立ち上がり、彼の胸に回収した紙幣を押し付けた。
TAKE2。
「あんたマジでどんな生活してたらこんな――」
先とまったく同じ箇所まで読み上げたところでリプレイのようにハッとなり、今度は自身の胸元を覗きこむ。
色々と衝撃的過ぎてすっかり失念していたが、そこには服の中に挿しっぱなしになっていた数枚の一万円札があった。
カァーっと首元と耳輪を紅く染め、その場で「あぁっ、もうっ!」と一度だけ大きく床を踏み鳴らす。
左手で床から拾い上げた万札を弥堂の胸に押し当てたまま、右手で自身の胸元から慌てて金を抜き取る。取り出したそれをすぐに非常識男へと突き返そうとすると、そのくしゃくしゃになった金が自身の目線に入った。
それを見てさらにカァーっと顔を紅くする。
希咲は諸事情により返金作業を中断し、頬を染めたままクルっと身体の向きを変えた。
そしてシューズロッカーの扉をアイロン台に見立て、しわしわになった札を懸命に手で伸ばす。
その作業を終えたらそれらを一度宙に翳して出来栄えを確認し、それから扇子を仰ぐように手に持った札束をサッサっと振って風に晒す。気分的な問題だ。
紙幣に描かれた人物画の上下が悉くバラバラになっていることにイライラしながら、全ての一万円札の向きを直しキレイに揃え、「これならセーフ」と口には出さずに内心で納得をする。
『うんうん』と頷き、手に持った札をようやく弥堂へと返すため、再び彼の方へ向き直った。
「ん」
ギュッと彼の胸に押し付ける。
胸の間から取り出した多額の金を男へと与える女。
傍から見たら完全にそういった絵面にしか見えなく、全くを以て『セーフ』などではなかったが、幸いにしてこの遅すぎる時間帯には学園の玄関口たる昇降口棟にも人通りはない。
本人たちは意識していないが、この空間は二人だけのものとなっていた。
弥堂は胸元に押し付けられる金には意識がいかず、それを押し付けてくる希咲の顏をただ見ていた。
まだ少し赤みの残った目元、少し潤んでいるような気のする瞳。
彼女が立つ場所の環境、その時々の彼女の感情。
周囲の色が変わり、心の内の色が変わり、その度にその瞳の虹彩も色を変えるようで。
不安定で千変万化ながら、だけど多彩なままの表情。
弥堂は何も考えず、ただそれを見ていた。
「んっ!」
一向に金を収めようとしない弥堂に焦れて、希咲が先程よりも強くグッと胸を押してくる。
弥堂はそれによって己が呆けていたことに気が付いた。
「……いらんのか?」
「いらないわよっ。こんなの受け取っちゃったらあたしダメになっちゃうでしょ! 乙女生命終わるっつーの。責任とれんのかっ⁉」
「……責任をとってほしいのか?」
「…………あんた絶対イミわかって言ってないでしょ?」
そこで希咲の表情がコロッと変わり見事なジト目となり――
「かもな」
「……あんたってさ。おカタそうなのは雰囲気だけで実はチョーテキトーよね」
「それはお前の受け取り方次第だ」
「そーやってすぐ他人のせいにするし。サイテー。じゃあセキニンってなんのことか言ってみ?」
「……金か?」
「おばかっ」
――それによって何故か弥堂は身が軽くなったような気がして、彼女の言うとおり曖昧に適当に肩を竦めてみせた。
希咲は疲れを吐き出すように「はぁ」と溜め息を吐く。
そして――それは彼にそう見せる為か、自身の裡でそういうことにする為か――そして、「もうっ」と悪態をつくと弥堂の上着の前衿を掴む。
胸倉を引っ掴むよりは控えめに引っ張って、彼の身体と服との間に隙間を空ける。そこに手を挿し入れて揃えて二つ折りにした紙幣を内ポケットの中へと収めた。
「おい。服の中に金を突っ込むのはセクハラなんじゃないのか?」
「言うと思いましたー」
控えめにベーと舌を出して屁理屈には構ってあげないとアピールをする。
「はい。ちゃんと返したからね」と言いながら弥堂の胸元の内ポケットの位置を上着の外側からポンポンと軽く叩き、それから半歩下がって少し離れる。
弥堂もそれ以上は言い掛かりをつける意思もないようで、特に何も言うことがなくなったので黙ってなんとなく彼女の顔を見ていると、希咲は目を逸らし表情を歪めた。
眉と唇を波立たせ、言いたいことが言い辛いような、そんな逡巡を見せる。
結局そんな葛藤はそう長くは続けず、「もうっ」とまた毒づく。自分を動かすためにわざわざ声に出してみせる。
そしてじっと弥堂の顏を見上げてきた。
「……ねぇ」
「なんだ」
「あんた、お財布は?」
「財布? ないが?」
「なんでよ」
「なんでもなにも、ないものはない」
その返答に希咲はよりジト目になって呆れたように口を空ける。
しかしその答えは半ば予想していたのか、そうは掛からずに回帰し、お口を再びもにょもにょさせてから、切り替えるように大袈裟に溜め息を吐いてみせる。
「あのさ。お金はちゃんとお財布にしまいなさいよ」
「ほっとけ」
「てゆーか、あんな大金がいきなり制服のポッケから出てきたら、あたしびっくりしちゃうでしょ」
「それはお前の問題だ」
「小学生だってそんくらいちゃんとできるわよ? バカなんじゃないの?」
「うるさい。財布など『ここに金が入ってます』と盗人に目印を与えているようなものだろうが。そんなものを使っている方が馬鹿だ」
「あんた……どんな世界観で生きてるのよ……」
荒み切った弥堂の価値観を聞いて、疲れたように再び溜め息をついた。
「もうさ。ついでだから言っちゃうけど――」
苛立って小言をするような口調とは裏腹に、眉をへにゃっと心配そうに下げながら前置いて、希咲は言葉を続ける。
「あのね? ガッコにそんな大金持ってきちゃダメ。いつもそんな風に裸でお金持ち歩いてるの?」
「お前には関係ないだろうが」
「そうね。あたしは大丈夫だから関係ないけど、関係しちゃう子が出てきちゃうかもしれないでしょ?」
「どういう意味だ」
「だからー。そんな大金がろくに管理されないで雑に上着に入ってるなんてもし知れたら、あんたに悪いことが起きるかもしれないし、悪いこと起こしちゃう子が出てきちゃうかもでしょって。言ってること、わかるわよね?」
「わかってる」
「ホントにぃ?」
実に疑わしいと、希咲は腰を折りながら少しだけ身を乗り出し、下から覗き込むように弥堂の顏へジーと視線を遣る。
弥堂はそんな彼女の顏は見ずに、黙って前方へと目線を向けたまま堂々とした姿勢を貫いた。
希咲さんは反省の色が見えない不遜な男へ追い打ちをかけることを決めた。
「それとさ。お札をあんな風にくしゃくしゃにしちゃダメっ」
「どうでもいいだろ」
「いいわけないでしょ。あんたが使ったお金は消えてなくなるわけじゃないんだから。次に他の人が使うのわかってる?」
「わかってる」
「じゃあちゃんとしなさいよっ。お金は大切に扱わなきゃだめっ」
「……もういいだろ」
希咲のあまりの口煩さに弥堂は事実上のギブアップ宣言をしてフイと目を逸らす。
希咲は数秒ほどそんな男の仏頂面をジトっと見つめ、「もういいわ」とため息混じりに呟き姿勢を戻した。
綺麗に伸ばした人差し指を立てて見せ締める。
「とゆーことで、弥堂くん。以後きをつけるよーに!」
「……どうでもいいが、そのガキに言い聞かすような態度をやめろ。馬鹿にしてんのか」
「んー。だってさぁー。うちの弟、中学生なんだけどね。あんたってばうちの弟よりジョーシキないしおバカなんだもん」
「……随分と優秀な弟を持ったようだな。親に感謝するがいい」
「はいっ、へらずぐちぃー!」
天井へ向けていた人差し指をビシッと弥堂へ向けて突き付けてくる。
弥堂がなんとなく首を曲げてその射線から逃れると、希咲はそれに追従して指を動かし照準に収めてくる。
それもなんとなく癪に障った弥堂は何度か首を振り逃れようと試みる。しかしその度に器用に指を動かし追ってくる彼女がどこか楽し気に見えたので、そこで逃走を断念し彼女の手を摑まえて物理的に降ろさせた。
「さわんないでっ」と怒られた弥堂が理不尽さに不満を感じていると、今度は逆の手で指を突き付けてきた。
「とゆーことで、弥堂くん。以後きをつけるよーに!」
ぱちっと上手なウィンクも添えられ弥堂は盛大に眉を顰めた。
「……とりあえずその年上ぶった口調をやめろ。気に障る」
「えーー? 怒っちゃうのぉ? ぷぷっ、あんたっていっつも何言われてもスンって無表情でスカしてるからイイ気味だわ」
「いいからやめろ」
「だってしょうがないじゃーん? あたしの方がお姉さんなんだもーん」
「なにがお姉さんだ。同級だろうが。それともお前の方が留年してんのか?」
「してませんよーーだっ」
後ろ手に手を組んで腰を折り、ビーっと舌を出した顔を突き出してくる。
得意げで自慢げで悪戯げな、その顔を眼に映して思考が鈍る。
それは彼女と共に消費するこの時間があまりに非合理で、無異議で無意味なものだから精神的な防衛措置が自動で実行されたのだろうと決めつけた。
「てゆーか、ちょっと意外」
「……今度は何だ?」
姿勢を戻しながら希咲がコロッと表情と口調をわかりやすく変えてみせる。サイドで括った髪の尾が大きく揺れる。
好奇心旺盛で移り気な猫のように、あちこちに向きを変える彼女のお喋りに弥堂はただその尾を追うばかりだ。
「んー? や。あんたってさ、ケチなんだと思っててさ」
「だからなんの話だ」
「んと。ほら、さ? さっきあいつらにいっぱいいちゃもんつけて必死にお金巻き上げようとしてたじゃん? もちろんそれはそれでダメなことなんだけどぉ。そこまで悪いことするのにあっさりあたしにあんな大金渡してくるからさ。ヘンだなーって」
「あぁ」
そんなつまらないことかと合点がいく。
「金は力で手段だ。必要な時に必要なだけ使うべき物だ。使うべき時以外は無駄な消費を極力減らし、使う時に使える幅を拡げるために稼げる時に稼げるだけ稼ぐ。それだけのことだ」
「チョーサイアク……」
「どこが最悪だ。当たり前のことだろう」
「や。そっちじゃなくって。まったく同意見だからサイアクーって思っちゃった」
「どうしてそうなる」
「ねぇ、どうしよう? あんたと意見がぶつかると『なにをー!』ってムカつくけど、意見が合ってもなんか『うぇー』ってムカついちゃう。あたしどうしたらいい?」
「知るか。俺にどうしろってんだ」
「自分でも理不尽だなーって思うんだけど、あんたと一緒だとなんか悪いことしてる気分になって不安を感じるようになっちゃった。どうしてくれんのよ。セキニンとって」
「無茶を言うな」
(でも――)、と。
心の中に一つ置いて、希咲は目の前のうんざりとした様子の弥堂の顔をじっと見る。
(よく見ると意外と表情あるのね…………当たり前か)
こうしてる今も、不躾に彼の顔を見つめる自分に対しての不審の色が、のっぺりとした不透明なガラス玉のような彼の瞳に加わった。
「……なんだ?」
「…………んー?」
「何を見ている?」
「いーでしょ、べつに。じっとしてなさいよ」
ジトっと見つめられて、居心地が悪そうに、不機嫌そうにする彼を見て、口角が自然と上がりそうになるのを誤魔化そうと憎まれ口をたたく。
嫌そうに睨んでくる目の前の彼に気付かないフリをして、ここには居ない自分の記憶の中の教室に居るいつもの彼のことを考える。
この4月に初めて同じクラスになってまだ10日程しか経っていないが、その間に見た、毎日を学校で過ごす彼はいつも一人だった。
学校にも学友にもなに一つとして期待をしていないような、決められた時間の間に決められた作業を淡々と熟すだけのような、ただ時間が過ぎるまでそこに居るだけのような姿。
希咲には弥堂がそのように観えていた。
昆虫男などと、揶揄するようなことを何回か言ったり考えたりしたが、ただ生きるというだけのルーティンを繰り返すだけの人間だなんて――
(そんなこと、あるわけないわよね)
「ねぇ」
「……なんだ?」
「いま、なに考えてる?」
「あ?」
何を訊かれているのかわからない。弥堂は小さく表情を動かし、不愉快そうにそんな顔をした。
そりゃそうよねと、言葉足らずを自覚しながら少しだけ愉快な気持ちになる。
「弥堂 優輝くんは、いま、何を考えていますか?」
「……意味もなく人の顔をジロジロ見ながら意味のわからないことを訊いてくる女が気持ち悪いと考えている」
「あんたクチわるいわねー。女の子にキモイは言っちゃダメよ。あたしだからいいけど、気の弱い子には絶対言うんじゃないわよ」
「言われたくないのなら気色の悪い行動をするな。それに口の悪さはお前も大概だろうが」
「あによっ。それをいうなら、あんただってさっきあたしの顏じっと見てたじゃん。そういうのわかるんだから。あたしにヘンなキョーミもたないでよ? それ絶対NGだからねっ」
「今朝は興味を持てと言ってなかったか?」
「その興味と、このキョーミは、別の興味ですー。えーー、ビトーくんわかんないのぉー? フツーわかるんだけどなぁー?」
「わかる」
「えー? ホントにぃー? じゃあ、今あたしが言ったキョーミは何の興味か言ってみなさいよ」
とりあえず反射で言い張る弥堂を、希咲はにまにま悪戯げに微笑みながら追い詰めていく。
獲物でしつこく遊ぶ猫みたいだなと、弥堂がどこか他人事に感想を浮かべていると「ほらほらー?」と急かされる。
「要するに金だろ」
「おばか」
楽し気な顔はあっという間に一転して、しらーっとしたジト目になる。
「あんた、めんどくなってテキトーにゆったでしょ」
「そんなことはない」
実際ついさっきまで希咲 七海というコンテンツに著しく金銭的な興味を抱いて具体的な計画を考えていたので、これに関しては真実だったのだが、それは希咲には知る由もなかった。
「でも、ちょっとおもしろかったから、まぁいいわ。ゆるしたげる」
そう言って希咲は本当に楽し気に笑い、弥堂はそんな彼女を見ながらやはり笑わなかった。
(ヒドイことばっか言うけど、こうやって喋りかければちゃんと喋るのね)
クスクスと笑みを溢して見せながら、心の内の陰の淵でそう思う。
(ホント……成長なし…………っ。バカじゃないの)
よく知らない誰かも自分と同じように何かを考えて生きている。
先刻、高杉と話している時に感じたこと。当たり前でわかってるはずなのにわかってないこと。
それを今、弥堂 優輝と対面して再確認し、そう感じてしまっていることに。
それを今、わかってる側の立場気取りで、そう感じてしまっている自分が酷く汚い生き物だと思った。
(ほんの数時間前まで、自分だってこいつのこと遠巻きに避けてる側だったくせに……っ)
それをほんの少し助けてもらって、ほんの少しケンカして、ほんの少しおしゃべりして、それでほんの少し面白いヤツだって知って。
(それだけで浮かれて勝手に感情移入して――キモイのよ。死んじゃえブス)
強烈に湧き上がる自己嫌悪が身体の外へ漏れ出ぬように、完璧な笑顔を造って鍵を掛ける。
自己を嫌悪して否定して。
今日だけでも何度目だろうか。
毎日毎日飽きることなく繰り返して。
だけど――
(まっ、しょうがないわよね)
弥堂に笑顔を向けたまま心中は苦笑いに変える。
これもこれまでに繰り返してきたとおり、やっぱり結論は同じなのだ。
そういう性分だから、そういう自分と上手く付き合って、そういう自分を上手く他人に見せて、上手く人と関わっていくしかない。
だが、それにしても――
(もしも、こいつと愛苗が付き合っちゃったりしたら、こいつの面倒まであたしが見ていくことになるのかしら……?)
それはちょっと冗談ではない。
放課後始まってすぐに幼馴染周辺の人間関係で限界を感じたばかりだというのに。
だから、それはまったく冗談ではない。
だけど――
(なんか、そうなりそうな予感がするわ)
これは悪癖だ。
自分でもそう断じたのに繰り返す。
諦観めいた感傷。
(自分の悪い癖にこいつを使ってることになるのかな……? 最低)
諦めは開き直りと鎮痛を齎すが変化や解決は得られない。
だからまた繰り返す。
「あんたさ、どんな生活おくってたらそんな変な発想ばっかするようになんの?」
言ってから、しまった、と思う。
調子に乗って踏み込み過ぎたかもしれない。
ついさっき、誰もいないトイレの個室で自分を戒めたばかりなのに。
「お前は話が飛び過ぎだ。今度はなんのことを言っている?」
「んー」
でもここで止めるのは不自然だ。
「んと。普通にさ、生きてたらさ、クラスメイトの女子のパンツ見ちゃってお金渡そうとか思わないでしょ? しかも服にお金突っ込むとか、ふつーに頭おかしいし、ありえなくない?」
「……飛んだのではなくて戻ったのか。しつこいな」
(お願い。答えないで)
なんでもないような顔をして、胸中で懇願する。
「別にどうでもいいだろう。どうでもよくて、お前には関係ない、そんな『普通』の生活だ」
「あっそ」
関係ないと突き放されて安堵する。
一方で、にこやかに世間話でもするように振舞う、そんな希咲の二転三転する心の模様は弥堂には見えない。
ただ、過ぎたことをいつまでも愚痴愚痴と繰り返されて鬱陶しいと苛立つばかりで。
だから弥堂もミスをする。
「つまらんことをいつまで繰り返す気だ?」
普段なら自分から話を振ることも広げることも深めることも絶対にしないはずなのに、苛立ち任せに意味もなく反論をする。
「……つまんなくないもん」
『繰り返す』
今しがた自嘲していたことと重なる言葉に希咲も過剰反応する。弥堂が言っている『繰り返す』とはそのことではないとわかっているのに、ムッとしてしまう。
「大袈裟なんだよ。大したことじゃないだろう」
「大袈裟って……。結構な衝撃体験だったんだけど! 幼気な女子高生をなんだと思ってんのよ」
「なにが幼気だ。大体お前が誤解を招くようなことをするから悪いんだろうが」
「なにそれ。見た目がギャルっぽいから慣れてんだろとか、そういうこと?」
「それもそうだが、そもそも俺が金を払おうと思ったのはお前がビジネスチャンスを潰されて怒っていると思ったからだと言ったろう?」
「ビジネスゆうな! 大体なんであたしがあんたにパンツ見せてお金稼がなきゃなんないのよ! バカじゃないの!」
「だからそもそも俺がそう思ったのはお前の行いのせいだと言っているんだ」
「なによそれ! あたしが普段からそんなことしてるって言いたいわけ⁉ してないでしょ! あんたが勝手にそういう目で見てるだけじゃない!」
「お前の日常など知るか」
「じゃあなんなのよ!」
弥堂へ言い返す希咲の語調には先程までの口喧嘩を楽しむような調子はもう見られない。文化講堂でやりあっていた時のように、眉間を狭め険を強め眦をあげて睨みつけてくる。
そしてそんな彼女に対して弥堂も苛立ちを募らせていく。
「お前が自分で見せてたんだろうが」
「そんなことしてないっつってんでしょ! 変な情報源があるみたいなこと言ってたけど、あたしのことそういう変な噂にして言い触らしてる奴がいるわけ⁉ 潰してやるからそいつ教えなさいよ!」
「噂もなにも俺の目の前でやってたろうが」
「あんたが無理矢理見たんじゃない!」
苛立ち任せに言葉を投げ返して、弥堂もまた繰り返す。
同じ過ちを繰り返す。
「俺が言っているのはもっと前の話だ」
「いつのことよっ」
「俺が現場に介入した時に、自分から奴らに見せようとしていただろうが。あれは商売中じゃなかったのか? 俺が邪魔して金をとれなかったからその分も――」
最後まで言い切る前に気付く。
彼女の反応を待つまでもなく、彼女の顔を見るまでもなく。
唾でも吐き捨てたくなるほどに間抜けな二度目の己の失態を認め閉口し、胸中で思う。
やってしまった、と。
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