序-34 『その瞳の奥にいるもの』
私立美景台学園放課後遅く、校舎東側の文科系クラブ部室棟から二年生校舎へ向けて二人の生徒が足早に歩いていく。
時間帯としては完全下校時刻をとうに過ぎているにも関わらず、空中渡り廊下には聞くからに剣呑な足音と不機嫌な話し声が響いていた。
「――見られたっ」
「…………」
「ねぇ、見られたっ!」
「…………チッ」
「みられたみられたみられたみられたみられたっ‼」
「うるせぇな。しつこいぞ」
先導して歩く弥堂の脇を歩く希咲が恨みがましい視線と声を絶え間なくぶつけてくる。
「しつこいってなによ!」
「もう終わったことだろうが。いつまで言ってんだ」
「だってあんた結局謝ってないじゃん。あたし誤魔化されないから」
「……わかった。俺が悪かった。もうこれでいいな? 話は終わりだ」
「なんなの、そのテキトーな謝りかたっ。終わるかどうか決めるのはあたしでしょっ。だいたいさ、ホントに悪いと思ってるわけ? どこが悪かったかわかってんの? ねぇ、なにが悪かったのか言ってみなさいよ」
「め、めんどくせぇな……なんなんだお前……」
希咲のあまりのしつこさに、デフォルト無表情の弥堂の鉄面皮が疲労感を滲ませたものに崩れる。
ピクピクと引き攣る彼の口の端を、横合いからチロっと見上げる形で瞳に映して、希咲は少しだけ愉快な気持ちになり何故か満足感を得た。
ずっと言い争いながら歩いていた二人だったが、どうやらこの闘争の軍配は希咲に上がりそうだ。
「てかさ。黙って歩けっていうけど結局どこ向ってんのよ? こっち行ったら教室じゃない」
「そうだが」
「あたし先にトイレ行きたいって言ったじゃん。あんた全然あたしの話聞いてないのね!」
「聞いている。聞いているし、憶えている。忘れないと言っただろうが。お前こそ聞いてんのかアホが」
「逆ギレすんじゃないわよ! じゃあ、なんでこっち連れてくわけ?」
「効率がいいからだ」
「はぁ?」
期待していた理解に足るような答えが返ってこずに希咲は眉根を寄せた。
「それにお前の話を聞くことと、お前の言うとおりにするかどうかはまた別の話だ」
「なにそれ。ほんとムカつく。効率がいいってどういう意味?」
「うむ、いいか? まず教室で荷物を回収する。次に昇降口棟へ繋がる渡り廊下手前の階段に向かう。階段を下りる前に便所があるだろ。そこを使え。その後1階に下りてから昇降口へ向えば、一本道上で全ての用を済ませることができる。つまり効率がいい」
「……わー…………うっざ…………。あんたってさ、旅行とか遊びとか全部きっちり予定立てて、当日それ通りに進まないとイライラしちゃう系のひと……? 絶対いっしょに遊びたくないんだけど」
「さぁな。旅行も遊びも行ったことがないからわからんな」
「んなわけないでしょ。てか、別に講堂のトイレ行ってからでもいいじゃん。大して変わんないじゃない」
「そんなことはない。少なくとも20秒はロスが出る」
「なによ20秒って。そんなの誤差じゃん。細かすぎてマジうざいんだけど」
「ふざけるな。お前は20秒便器に跨っていればいいだけだろうが、その誤差を待たされるのは俺だ。お前の排便に要するコストを俺に強いるな」
言いながら到着した自分たちの所属する2年B組の教室のドアを開ける。
「だからっ! 言い方っ! なんでいちいち変な言い方すんのよ!」
「意味が同じなら言い方なぞ何でもいいだろうが」
「よくねーっつーの! 女の子に汚い言い方すんなばかっ」
「うるさい。いいからさっさと荷物を回収しろ。すぐに出るぞ」
「女の子を急かすんじゃないわよ! もうっ」
「女の子とやらは随分といいご身分のようだな。急げよ」
「うっさいっ」
言い合いながら既に自分の荷物を回収していた弥堂は、教室のドアに背を預けながらこれ見よがしに爪先で床をトントンと叩き希咲を急かす。
彼女はその態度にプリプリ怒りながら自身も手早く荷物をまとめていく。
机の上に置いて口を開いたスクールバッグに必要な物を乱暴に詰め込んでチャックを閉じる。引っ手繰るようにしてバッグを持つと教室の出口へと歩き出しながら持ち手に腕をとおして肩から提げる。
机と机に挟まれた白鍵の隙間を抜け出すと、出入口で待つ弥堂と目が合う。なんとなく足を止めて彼の顔を見遣った。
ドアに寄りかかりながら悠然と見下ろすように立っているその姿が非常に癪にさわる。
なので、彼の立つその脇を通り抜けざまにわざと肩でぶつかってやって、彼を押し遣り廊下に出た。
押しのけられた弥堂は特に文句は言わず、小さく嘆息をして希咲の後を追った。
だが、さっきの続きとばかりに今度は前方を歩く彼女から抗議が再開される。
「てか、これじゃ意味ないじゃんっ。あたし先にトイレ行きたかったのに」
「……しつこいな。そんなに漏れそうなのか?」
「んなわけないでしょ! だから別におしっこしたいわけじゃないって何回言わすのよ」
「じゃあ――」
「――だからって、別の方でもないから!」
「そうか」
前方から文句を言うために振り向きながら歩いていた希咲は、歩き辛かったのか歩調を少しゆるめて隣にくる。そこから睨みあげながら話を続ける。
「ブラ直したいだけって言ったでしょ! この状態であんたといっしょに居るのヤなのよ。だから先に済ませたかったの! わかれっ」
「わかるか。下にヌーおブラしてるから問題ないと言ってただろうが」
「問題ないわけないでしょ! お外なのにブラ外れたまんまなのよ⁉ あたし大ピンチなの! 男にはわかんないでしょうね、この危機感は!」
「なら、わかれと言うな」
「うっさい! だいたいさ、なによ『ヌーおブラ』って。いちいち『お』を付けるな、きもいっつーの」
「そう言われてもな。掟だから仕方ない。お前と上司。どちらに従うかなど言うまでもないだろう」
「何が掟よ。いみわかんない。…………でもさ、『お』を付ける場所ヘンくない?」
「あ?」
「その『あ?』って返事の仕方。それも女の子に嫌われるわよ――じゃなくてっ。『ヌーブラ』が商品名なのに、間に『お』を入れるのおかしくない?」
「じゃあどこに入れればいいんだ?」
「え? んーー…………?」
弥堂に問い返され、よく手入れされた綺麗な爪が当たらぬようにして、人差し指の腹でゆるく下唇を撫でながら考えると、
「……おヌーブラ?」
首を傾げて若干自信なさげに答えた。
「おヌー?」
「おヌーっ」
「卸したてなのか?」
「それはおニューでしょうがっ」
手の甲で軽くパンっと隣を歩く弥堂の胸を叩く。
「――って、なにやらせんのよ。あたしがスベったみたいじゃないっ」
「なんでやねん」
「なんでやねん⁉ ぷっ。なんでやねんだって。その顔でなんでやねんとか。マジ似合わないー。うけるんだけど」
「…………忘れろ」
あまりにゆるい会話内容に半オートモード状態にまで思考停止していため、思わず漏らしてしまった不用意な発言を弥堂は強く悔いた。
そのまま軽くツボに入ってしまったのか、彼女はクスクスと笑い続ける。
コロコロと転がるように感情が起伏する希咲に何かを言い返したくもなるが、先までのように恨み言を言い続けられるよりかはマシかと好きにさせる。
しかし――
「てかさー。あんたってさー、なんでそんなデリカシーないの?」
すぐにまた蒸し返される。
弥堂にとっての女の苦手な部分を寄せ集めたかのようなところばかり見せてくる、そんな隣を歩く少女に盛大に顏を顰めた。
「あによっ。イヤそうな顏すんじゃないわよ。デリカシーないし、頭おかしいことばっか言うし。そんなんで中学ん時とかどうしてたわけ? 普通に生活してたらそんなことになんないでしょ。なんなの、あんた」
「ほっとけ。生憎と育ちが悪いんだ。諦めろ」
「なによそれ。いい? トイレのことで女の子弄るとかガチでサイテーだからね。今回は特別に許したげるけど他の子にやったらフツーに嫌われるわよ?」
「大きなお世話だ」
人差し指を立てながら諭すように言ってくる少女にうんざりとしながら弥堂は答える。次の目的地であるトイレは近い。もう少しの我慢だと忍ぶ。
「別にあんたが嫌われようが関係ないけどさ、愛苗に迷惑かかるようなことはしないでよね」
「知ったことか」
「なにその態度。生意気っ。あんたそんなんでよく彼女できたわね?」
「あ?」
「あんたのカノジョさんって菩薩様かなんかなの? 普通の子じゃストレスで頭ヘンになっちゃいそう」
「なんの話だ」
適当に返事をしていたが、希咲の言う『あんたの彼女』というものに見当がつかなく、覚えのない会話に眉間が歪む。
「だから。あんたのカノジョさんよ。さっき言ってたじゃん」
「そんなこと言ってないぞ」
「なんでしらばっくれるのよ。恥ずかしいの? ほら、あんたのお師匠さん。メンヘラのメイドさん……? シスターさんだったっけ?」
「あぁ。エルフィーネのことか」
「エルフィーネ⁉ まさかの外人さん⁉」
「まぁ、日本人ではないな」
彼女がいるだけで『まさか』な男の口から出た名前に、グローバルな交際の気配を察し、驚き戦慄した希咲のサイドのしっぽがぴゃーっと跳ね上がった。
「……なんなの……外国の人と付き合ってるって聞いただけで感じるこの妙な敗北感…………」
「俺に言われてもな」
純日本人である希咲さんは、コミュニケーション能力が地獄だと認定していたクラスメイトの男子が、まさか自分よりもススんでいるのではと、何故か落ち込みそうになる。
「へーー。あんたがねぇ……。彼女いるってだけでもチョー意外なのに。素直にびっくりだわ。ねぇねぇどうやって出逢ったの? もう長いの?」
「さっきからお前は何の話をしてるんだ?」
「や。だからさ。あんたとその彼女のエルフィーネさん?の馴れ初めとか」
「彼女? エルフィが?」
「え? ちがうの?」
「…………その『彼女』というのは『恋人』という意味でいいんだよな?」
「当たり前じゃない。他にどんな意味があんのよ」
「ふむ」
そう頷いて顎に手を遣り、弥堂は立ち止まった。
希咲は隣を歩く彼が突然立ち止まったことで、「ぉととっ」と2歩ほどたたらを踏んでから遅れて歩みを止める。
「なに? どした?」
振り返って尋ねながらその時視界に入った周囲の風景を見れば、もう目的地であった階段前のトイレの少し手前であった。
ずっと隣の弥堂を見ながら文句を言っていたので進行具合に気付いていなかったようだ。
「なんだ、もう着いたのね。やっと安心できるわ」
心許無くなった胸元を抑えていた手でついでにその頼りない胸を撫でおろす。
意外な人物のコイバナには面白さはあれど、個人的に弥堂に興味があるわけではないので、あくまで親友の水無瀬のための情報収集を兼ねた世間話というつもりで彼に話を振っていた。
その話はまだ途中だったのだが、希咲にとっては自分の『お外でノーブラ』の状態異常を解除することの方が緊急性が高い。
だからここで話を一旦打ち切ろうとする。
しかし――
「んじゃ、あたしちょっと行ってくるからあんたは先に――「――そうだな」――え?」
その前に返事を返されてしまい、言葉が被ってしまったことで特に意味はなく彼の顔を見た。
見てしまった――
「――そうだな。そういうことなら、キミの言うとおりエルフィは俺の彼女なのだろう」
「あっそ」
軽く相槌をうちクルっと背中を向ける。
顔を見られないように。或いは見ないように。
「てか別にキョーミないしっ」
「そうか」
「あたしいってくるから、あんたは先に下駄箱行ってて。ここで待ってないでよ」
「わかってる。さっさと出すもん出してすぐに出て来いよ」
「だーかーらーっ! それやめろって言ってんでしょ! バカなんじゃないの⁉」
「うるさい。さっさとしろ」
(――ホント、バカなんじゃないの?)
希咲は振り向かないままで進み、ドアに手を掛ける。
「マジしんじらんないっ。んじゃまたあとで!」
「あぁ」
勢いをつけてドアを押し開け、中に入る。
今度こそ確実に話を打ち切るように、自分と彼がいる空間とを隔てるために後ろ手でドアを閉める。開けた時に比べ静かに力なくそれは閉ざされた。
微かなパタリという音を聴くと、閉めたばかりのドアが動かぬようにそっと背を預けた。
緩く目を閉じ外の気配を探る。
足音が聴こえたりはしないが、人が一人遠ざかっていくのがわかった。
意図せずに溜め息が漏れた。
(……ばかっ。デリカシーなし…………)
その溜め息は安堵からであり、後悔からでもあった。
(――バカ七海。無神経……っ)
肩を落としながら奥へ進む。
一番奥の個室に入り鍵を締めた。
時間帯としては誰かが来るはずもないので、手洗い場の鏡の前でも着衣を整える用は済ませられるのだが、なんとなく閉塞感を求めてしまったのだ。
仕切り壁の鞄掛けにスクールバッグの持ち手をひっかけて、着衣はそのままに便座に腰掛ける。膝の上に肘を置いて頬杖をつきながら床を見る。
再び溜め息。
「やっちゃったぁ――」
思わず声にだしてしまった後悔の言葉は、人気のなくなった校舎のトイレ内にやたらと響いた気がして、反射的に息を潜めてしまう。
(絶対訊いちゃいけないことだったなぁ、あれ)
『――そうだな。そういうことなら、キミの言うとおりエルフィは俺の彼女なのだろう』
(あいつもあんな顔すんのね…………そりゃそうか……)
私欲と興味本位で訊いただけの問いに彼が答えてくれた瞬間のことを思い出す。
(まぁ、あんな顔って謂っても――)
――あの時の弥堂の顏は別にいつもどおりのものだった。
いつもどおりの無表情で平坦な声で、野に咲く花を見て『これは花だ』とただ見たままの事実を告げるだけのような、いつもどおりの調子だった。
しかし、希咲は何故かあの時の彼の、いつもどおりの色のない渇いた瞳の奥に――その向こう側に『なにか』を見たような気がした。ほんの一瞬言語化のできないものが燻りゆらめいた気がした。
科学的な証拠も論理的な根拠も何もない。
だが、感受性が強く共感能力の高い彼女は、時折感じとるこのような直感めいた勘を外したことがなかった。
だから、自然と希咲は『そうである』と思ってしまった。
(傷つけた――とまではいかないだろうけど……)
だから許されるというものでもない。
(せっかく上手くやってけるかも、って思ったのになぁ……)
『キライだしムカつくけどちょっとおもしろいヤツ』
初めて弥堂と直接に関わりをもって、彼という人物の印象を実体験から得た情報でそのように上書きをしたばかりだった。
その矢先だったのに。
何を言っても動じないし、向こうもこちらの悪口雑言と同等かそれ以上のヒドイ言葉を投げ返してくるので、何をしても『おあいこ』でいられると、だから大丈夫だとなんとなくそう思ってしまった。
それを認めるのはまるで自分が浮かれていたみたいで、酷く業腹で口惜しいのだが――
(――チョーシのりすぎたな……)
心から反省をする。
省みるのは無神経に彼の内面に踏み込んだことだけではない。
それよりももっと希咲の心を苛むのは、あの時の弥堂の瞳の奥に『終わり』を感じ取ったことで自身の内から湧き上がった利己的な悦びだ。
自身の親友である水無瀬 愛苗が、もしも本当に弥堂 優輝のことを好きなのであれば――
彼に今現在恋人が居ないのは酷く都合がいい――
――希咲 七海はそのように悦んでしまった
もちろんそれが最も大きな感情でも感想でもないのだが、あの時確かに自分はそのように感じてしまった。それは誤魔化しようのない事実だ。
「ホント、サイッテー……」
囁くように毒づく。
(謝るわけにも……いかないわよね)
謝らなければ。もしくは謝りたい。
そのように思うのは、傷つけてしまったかもしれない彼のためではなく、きっと自分の後ろめたさや罪悪感を帳消しにして、自身の過失をすらなかったことにしたいからだ。
無神経に踏み込んだことを悪いことだと思うのならば、もうこれ以上は触れるべきではないのだ。
普段の彼の他人との距離のとり方を考えれば、きっとそうされることを強く嫌うはずだ。
だから、気付かないフリをした。
軽口を叩いてトイレに逃げた。
そして、気付かないフリをしたまま彼のところへ戻るのだ。
それでいいはずだ。
しかし、逆にそう思ってしまうことが、そう考えてしまうことこそが自身の過ちを認めず向きあうこともしない不誠実な――
「――あーーっもうっ! やめやめっ!」
手間暇かけて整えている髪が乱れるのも構わずに、ガシガシと両手で雑に頭を掻き毟りながら顔をあげる。
その勢いに任せて、コイントスのように答えが裏返り続ける思考のループを断ち切る。
(――それこそ、自分の悪癖にあいつの事情を利用すんなってね)
深呼吸をするように息を吐いて気分を切り替える。
(てか、でもまぁそうよね…………そうなっちゃうわよね)
切り替えた気分で、先程訊いた弥堂の事情をライトに思う。
(マジでボサツさまだったとしても、『アレ』とは付き合ってらんないわよねぇ)
意識的な切り替えだが、明るく軽く考えてみる。
(たぶん、こっぴどいフラれかたしたんだろうなぁ……あいつふつーに頭おかしいし)
ある意味こちらの方がよっぽど失礼な詮索なのだが、同じ女性の立場から件のカノジョさんの境遇や気持ちを考えてみると、どう考えてもそういうことになる。
100人に訊いても100人が同じ回答をするだろう。
(さて。髪もメイクもなおしたいとこだけど、せめてものお詫びに少しでも早く戻りますか)
自分にとっての一番大事な用件を済ませようと制服ブラウスのボタンに指を伸ばそうとしたら――
「――うっ」
腰が小さくぶるりと震えた。
失礼な想像をした罰があたったのか、散々弥堂に疑われていたとおりの問題がその身に起こる。
「…………うぅ……」
腰に感じた冷えとは裏腹に、首元に熱が灯る。
あれだけ無神経に弄られ続けて、あれだけ強く否定し続けたのに、結局彼の言うとおり――というのが大変悔しい。そして何故だかそれ以上にひどく恥ずかしくもある。
しかしこうなってしまってはもう仕方がない。
希咲は腰を浮かせると学園の指定制服であるプリーツスカートの両サイドから左右それぞれの手を内側に入れる。お尻とゴムとの間に人差し指をひっかけるように挿し入れ、それによって出来た隙間に今度は上から親指を入れる。
そしてひと思いに下着を下ろして便座にお尻をつけた。
「はぁ」と、自分に対して呆れるような溜息を漏らす。
すると自然と顏が下がり、まるで手錠のように両膝に引っ掛かっている、今しがた自分で下ろしたばかりの下着が目に映る。
「――――――っっ!」
反射的に強く息を呑んだせいで引き攣ったような声が喉から漏れた。
カァァっとそんな音が聴こえるような気がしたのは、驚きと羞恥で急速に身体中にいきわたった熱に、どうしようもなく顔を紅潮させ瞼に涙を滲ませてしまったことを自覚させられたからだ。
思わず隠すように、両膝の間に両手を突っ込んでそれを握りしめ、目に入らないようにする。
そんなことをしても起こってしまった事実はなくならないのに。
顔を伏せて羞恥を堪えるように「むーー」と悶えるような声を出してから――
「――ああぁぁっ! もうっ!」
振り切るように立ち上がる。
そして左右の膝をそれぞれ順番に一回ずつ上げた。
「ふぅ」と陰鬱に溜め息を漏らす。
とても業腹で認めたくないが、先に教室に寄って荷物を持ってこれたことが幸いした。決して感謝はしないが。
「ほんと…………最低……」
悔恨の声は今なら誰にも聴かれない。
静まった廊下に金属部品が擦れギィギィと軋む音が鳴っている。
法廷院たち『
車輪の回転に合わせてガシャコンと壊滅的な異音が響く。
「いやぁ~、敗けた敗けた。今日もいい感じに敗けたねぇ。ナイス敗北!」
口ぶりとは裏腹にどこか朗らかな調子だ。
「いやぁ、でも代表。今日はなんだかんだ余裕でプラスじゃないですか? 多分もう死んでも見れないようなもの見れましたし。へへ」
「キミも好きだねぇ、西野くん」
「お恥ずかしい限りです」
何かしらの満足感を得たと申告する同志を見て、リーダーである法廷院も嬉し気だ。彼らの会話を聴きながら本田もどこか夢見心地な様子で車椅子を押しており、白井は我関せずとスマホを見ながら少し離れた場所を歩く。
「しかし代表。希咲さんは圧倒的優勝でしたけど、弥堂は大丈夫ですか? 僕ら普通に明日から狙われたりしません?」
「ん? あぁ、それなら多分大丈夫だよぉ。ボクの予想が正しけれ――」
一転して不安を滲ませた表情で尋ねる西野に法廷院が自身の見解を述べようとした時、それを遮るように愛と勇気が詰まっていて希望を見せてくれそうな感じの軽快なメロディが流れる。
「おや、この着信音は――」
――魔法少女プリティメロディ☆フローラルスパークのテーマだ。
魔法少女プリティメロディ。
毎週日曜日の朝に放映されている公式には女児向けとなっているアニメ番組で、もう20年近くもシリーズが続いているご長寿コンテンツである。
通称プリメロ。
魔法少女プリティメロディ☆フローラルスパークはその第12代目の作品である。
ロングヒットシリーズとはいえ、さすがに10年ほどでマンネリ化しその人気にも陰りが見え、このまま終わってしまうのでは――とファンの間で存続が危ぶまれていた時期に、その息を吹き返すきっかけとなった制作陣の乾坤一擲の作品である。
今ではシリーズ最高傑作との呼び声も高く、新作がリアルタイムで配信されている最中でも絶えず再放送が途切れることなく放送され、映画版や2期目3期目などの続編が足され続けているキラーコンテンツなのだ。
甘ロリ風味な変身衣装でちっちゃな女の子たちからおっきなお友達にまで大人気であり、常にプリメロシリーズの沼に多くの人々を放り込み続け、プリメロといえばフロスパと、シリーズの看板となっている。
「代表、スマホ鳴ってますよ」
西野は気を遣い法廷院に電話に出るように促すが、彼は動かない。
「まだだ…………まだ早い……」
着ソンはイントロから始まりAメロを経て、今はBメロに差し掛かっている。次はサビだ。
ちなみに着ソンとは着信ソングの略であり、着信すると歌が流れるサービスだ。最近はあまり使っている人を見ない。
スマホをマイクのように持った法廷院は肩を揺すってBメロ最後の8小節のビートを刻むと、サビが始まる直前でスマホの通話ボタンをタップする。
「はいはーい、ボクだよボクぅ! え? 詐欺? そんなわけないじゃないかぁ。だってそうだろぉ? 掛けてきたのはキミの方なんだから」
サビを奪われた西野と本田はどこか心に物寂しさを感じ、しょんぼりしながら静かにする。
「――で? 一体何の用だい? うん…………。あぁ、それならちょうど今さっき終わってこれから帰るとこだよ。うん…………。なぁに、気にするなよ。ボクとキミとの仲じゃあないかぁ」
人気のなくなった廊下には半壊した車椅子が鳴らす異音と、通話中の法廷院の声だけが響く。
「――てことで、大体言われたとおりにしてきたよ。キミの目的がわからないから問題がないかどうかまではボクにはわからないけどねぇ。まったくいつもいつもキミは『不公平』なんだよぉ」
意識して聴いていたわけではないが法廷院の話しぶりから、先程の希咲との会話内容が想起され、西野と本田は顏を曇らせた。
「――じゃあそういうことで……え? なに? 余計なこと? もちろん言ったよ? 言ったに決まっているじゃあないかぁ。だってボクだぜぇ? そんなの当たり前だろぉ?」
言いながら法廷院は頭をガシガシと掻き、どこか苛立ったような、でもどこか楽しそうな、そんな表情を浮かべる。
そしてやがてその目に挑戦的な色を灯した。
「一応ボクはキミの味方だよ。トモダチだからね。だから基本的には無条件でキミの側に立つ。だけどね――」
言葉を切ると同時に足を止める。
「――だけどね。あんまりにもキミが『ひどいこと』をしようってんなら、ずっとそうであるとは限らない。トモダチの味方をするかどうかは理性では考えない。だけど、もしも『その時』が来るのなら、『その時』が必要ならば。『その時』は、理性以外の総てを切り捨ててキミを裁く」
『
「裏切られただなんて言われたくないから先に言っておくよ? もしも『その時』がきてしまったなら、ボクが――ボクの『法廷』が、キミの『富』を――『優位性』を奪い取り、『公平』で『平等』にこの世界を均してみせるよ。それはキミのためでもなければ、ましてや『彼女』のためでもない。ボクがボクで在る為に、だ」
電話の先の顏の見えない相手を捉えるようにその目をギラつかせ、
「――あぁ、もちろんだよぉ。ボクだってキミと争いたいわけじゃあない。『その時』が来ないことを本気で真剣に願っているよ。それに、ボクの『法廷』はいつだって事が起きてから、終わってしまってからじゃあないと裁くことができないしねぇ」
その目から険しさを取り払い、法廷院は目線を同志たちに遣って謝意を示すと再び歩きだす。
「――てーか、そんなことよりさぁ、聞いてくれよぉ。え? 長いかって? そりゃ長いよ。そんなの当たり前じゃあないかぁ。だってそうだろぉ? なにせ『優勝』だからねぇ。…………ん? 違う違う。そっちの優勝じゃなくてさ…………え? いやいや違うって! ガチでエモいから聞いた方がいいって。マジで後悔するぜぇ?」
先程までの緊迫したやり取りが嘘だったかのように軽薄な口調で通話が続く。
「――わかったよぉ。じゃあ今度会った時にね? 絶対聞いてもらうからね。ボクは大変感銘を受けてしまってさ。でもSNSにあげるわけにはいかないからどうしても共有したいんだよ。マジでキミもおったまげるぜぇ?」
ギィギィとフレームの軋む音と、ガシャコンガシャコンと車輪があげる苦悶の嘆きが放課後の廊下を支配する。
「――そういやさ、キミはどうなると思う? なにって、もちろん次回のフロスパだよぉ。ついに幼馴染の男の子にプリメロの正体がバレちゃったじゃあないかぁ。……え? いまさら? なんだよ淡泊だなぁ…………。てかさ、何回か言ったと思うけどやっぱりボクはプリメロに男はいらないと思うんだぁ。だって回を重ねていくとさぁ、恋愛を匂わせてくるじゃない? そんなのいくとこまでいったら火傷じゃあ済まないぜぇ? …………あれっ? キミ容認派なの? 嘘だろぉ? 冗談だって言ってくれよぉ…………うん……うん…………いや、わかるよ? 確かに
中身のない話し声は誰の記憶にも残らず消えていく。
誰もいなくなった廊下には車椅子の発した悲惨で歪な残響だけが空間にこびりついて、いつまでも残り続けているようだった。
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