序-33 『弱者どもの夢の跡』
希咲が、弟や妹たちの進路候補からは絶対にこの学園は外そうと密かに心に誓っていると弥堂が近寄ってくる。
「おい、さっさと帰るぞ。もたもたするな」
その言い様にカチンときた希咲はすぐに眉を跳ね上げる。
「なによその言い方っ! あたしあんたの女じゃないんだから命令すんな!」
「うるさい、すぐに準備をしろ。奴らの関心がこちらに向く前に立ち去るぞ。荷物は教室だな? いくぞ」
「あっ、ちょっとまっ――ひやぁぁぁぁっ!」
矢継ぎ早に告げながら胸元でカーディガンを握って前を閉じていた彼女の手をとり、そのまま手を引いて歩き出そうとすると希咲から素っ頓狂な声があがる。
弥堂は咎めるような眼を彼女へと向けた。
「なっ、なによっ! 自分で歩けるからさわんないで!」
法廷院たちに見つかる前に――と言われたばかりなので、多少のばつの悪さを感じながらも希咲は弥堂へ何かを誤魔化すように怒りを表す。
「……まぁいい。なら自分で歩け。行くぞ」
「あっ、ちょっと待ってってば。先に行って下駄箱で待ってて」
弥堂は歩き出そうとしていた足を止めて希咲を怪訝な眼で見た。
「どういうことだ? このままここから同行すればいいだけのことだろう?」
「えっと……その……あたし、ちょっと寄るとこあるからっ」
「だから教室へ鞄をとりに行くのだろう? どっちみち昇降口へ行くのなら通り道だろうが」
「いいからっ! なんでいうこときいてくんないわけ⁉」
「俺に言うことを聞かせたいのならば、納得させられるような説明を出来るようにしろ」
左右の足を順番に動かすだけで目的地への距離を縮められるというのに、そんな簡単なことにもすぐにとりかかることの出来ないノロマな女を、弥堂は軽蔑の視線で見た。
「いや……だからさ――」
「お前――まさか……」
尚もごにょごにょと口ごもり歩き出そうとしない、そんな希咲の態度を不審に思い、弥堂は懐疑的な眼つきに変わる。
「お前バックレるつもりか? 逃がさんぞ」
「にげないわよ!」
「いいか? お前も聞いてのとおりだ。俺はあの教員からお前を送れと命じられている。もしもお前が逃げれば俺が仕事を達成できなかったことになる」
「だからぁ! ちがうってば!」
「じゃあなんだ。俺の要求はさっきから一つだけだ。『さっさとしろ』、簡単なことだろう? 何故出来ない?」
聞き分けのない少女に早くしろと促すと、彼女はキュッキュッと床に靴底を擦り、まるで聞き分けのない者に対して苛立ったかのような理不尽な態度をとってくる。
「だぁかぁらぁ……っ! あぁもぅっ! トイレよ! おトイレいきたいの! 察しろばかっ!」
「チッ……ションベンか。さっさとしろよ」
「ショっ――⁉ ちがうわよばかっ‼‼」
「じゃあ糞か。帰るまで我慢できんのか?」
「ちがうからっ! 女の子にそういうこというんじゃないわよ! 小学生か!」
「めんどくせぇな。いいからさっさと便所へ行って排便してこい」
「だからっ! 言い方っ! きたないっ! さいてーっ!」
「汚いもなにもあるか。その汚いものを出したがっているのはお前だろうが」
「だーかーらーっ! ださないって言ってんでしょ! その用でトイレいくんじゃないの!」
支離滅裂な主張をするクラスメイトの女子に弥堂は眉を顰める。
「排便するのでないなら何故便所に行く必要がある? 怪しいな……まさか便所の窓から逃げるつもりか?」
「にげないって言ってんでしょ! もー、しつこいっ!」
「俺を欺けると思うなよ。もういい、時間の無駄だ。俺も便所に同行する。お前の用とやらが終わるまでしっかり横で監視してやる」
「変態かっ‼‼ マジさいてーなんだけどっ!」
希咲が人としての最低限のエチケットすら持ち合わせていない男を非難するが、『尋問モード』となった弥堂は意に介さない。
「なんとでも言え。俺は風紀委員だ。学園の風紀を守るためならばどんな誹りを受けることも厭わない」
「本末転倒でしょーが! あんたが女子トイレに入った時点で風紀が乱れまくってんじゃない!」
「些事だ。それよりも随分と嫌がるじゃないか。なにか疚しいことがあるんじゃないのか? おい、どうなんだ」
「喜んで男と一緒にトイレ入る女子なんているわけねーだろうが! ああぁぁぁぁっ、もうっ――!」
先程と同じパターンで会話が成立しなくなっていく苛立ちに、堪らずといった風にカーディガンから手を離した希咲は頭をガシガシする。
「――ブラよ! ブラ着け直したいの! あんたが外したんでしょ!」
「おブラだと……?」
「いわせんな! 全部あんたが悪いんだからね!」
隠し通したままで何事もなかったように修復するつもりだった胸周りの問題を、諦め半分怒り半分に申告する。
外れただなんだと胴上げの時から騒いでいたのはわかっていたが、特に関心もないために弥堂は気に留めていなかった。
その胸を「そういえば……」と正々堂々とガン見をして注視する。
「なっ、なによ! 見んな! バカ!」
なに憚ることなく不躾に真正面から胸に注目をしてくる不届き者から守るように、希咲は再びカーディガンの前衿と前裾を掴み直しピッチリ閉じてガードする。
「お前ちょっとそれ見せてみろ」
「ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁっ‼‼」
しかし、常識という範疇の中で生活を送っていない疑いのある男によってその手を掴まれ、ガバッとカーディガンの前を開けさせられた。
弥堂はマジマジと希咲の制服ブラウスの胸部分の生地を慎ましやかに押し上げている内部の膨張具合を視る。
「ふむ…………随分と巧妙に偽装していたものだな……」
弥堂の記憶にある、これまでの希咲の見た目の情報と比較して、明らかに目減りし心許無くなったそのサイズの差異に謎の感心を覚えた。
希咲 七海は今日の出来事でこの弥堂 優輝という男についてある程度解ったつもりでいた。
しかし、それでも極めて常識的な価値観を持つ彼女には、まさか突然このような暴挙に及ぶ者が存在するなどとは発想をすることすら出来なかった。
そのため、反応も対応もできないまま服を開けさせられた状態で軽くパニックに陥り、半ば放心したように固まっていたが、やがてプルプルと身を震わせると――
「――し……」
「…………し?」
「し・ねぇぇぇぇぇぇぇっ!」
弥堂の顔面目掛けて全力で飛び膝蹴りを放つ。
「おっと」
その場で予備動作もなくほぼ垂直ジャンプのように繰り出されたそれを弥堂は難なく身を反らして回避するが、その際に掴んでいた希咲の手を離してしまった。
拘束が解かれた機会を逃さず希咲は飛び膝の勢いのまま宙返りをして身を翻す。
大きさはないがよく締まった形のいい小さめの尻がクルっと縦回転し通り過ぎていくのが弥堂の眼には映った。
普通の女子高生らしからぬ見事な軽業と、ついでにお尻を披露した希咲は危なげなく着地をし、それと同時にバックステップで距離をとる。
ギュッと強くカーディガンを握って前を隠すと、涙目ながらも気丈に変質者を睨みつけ、ふしゃぁーっと威嚇をした。
「なっななななななにすんのよ⁉ ばかあほへんたいきもいしねっ!」
「……? 何、と言われてもな。その胸一体どうなってんだと関心が湧いただけだが」
「わくな! あたしの胸にかんしんもつな!」
「心配するな。関心といってもそこまでではない。取るに足らないものだ」
「はぁっ⁉ 足らないってどーゆーいみっ⁉ バカにしてんの⁉」
「何言ってんだお前」
あらゆる意味で女子の尊厳を踏み躙ってくる男への憤慨は留まる所を知らない。
「そこまでして見たいわけ⁉ でもおあいにくさまねっ! ブラ外れても下にヌーブラも着けてるから透けたり浮いたりしないから! ざーんねんでしたっ、しねっ、へんたいっ!」
「なんの話をしているんだお前は」
「なにって、あんたがあたしのち……って――ああぁぁぁぁっ! ぜったい言わないかんねっ!」
「お前ホントうるせぇな」
また何を言っているのかわからなくなってきた希咲に対して弥堂は呆れをみせる。
「俺はどういう技術で胸の大きさを偽装しているのかが気になっただけだ。うまいことやるもんだと感心しただけでそれ以上は興味もない」
「うっさい! そんなほめ方されてもうれしくないわよ!」
「というか……」
「あによっ⁉」
ひとつ得心がいかないといった風に顎に手を当て考えながら喋る弥堂の言葉を待ちながら、希咲としては冷静になっていくに連れてこの話題を広げることで己に利することは何もないと遅ればせながら気付いた。
しかし、もはや退くにも退けないため現状に激しく苛立つ。
「細かい名称については詳しくないが……普通のおブラに、詰め物に、そしてヌー……おブラ?と言ったか? そんなに物々しく装着している女を俺は見たことがないぞ」
「うっさいわね! べつにいいでしょ! てか色々覚えなくていいから!」
「お前、そんなに重装備をしてどういうつもりだ? 戦争でも始めるつもりか?」
「そうよ! ごめんなさいねっ! これは乙女の聖戦なの! 常在戦場なの! 自分との戦いなのよ! わるいっ⁉」
「そう、か…………まぁ、その、なんだ。強く生きろ」
「励まされたっ⁉」
血も涙もない冷血マシーンだと思っていた男が初めて見せた優しさのようなものが、まさかの自分のトップとアンダーの数字の差異へ向けられた気遣いだったことに、希咲は大変なショックを受けた。
「ばっ、バカにしないでっ! あるから! ふつーにあるから!」
「そうか」
「ないわけじゃないの! もうちょっとほんのすこーしだけ大きく見せたかっただけで、別にゼロじゃないんだからねっ!」
「意味がわからん。別に胸の大きさなどどうでもいいだろ」
「よくないっ!」
「しつこいぞ。この話は終わりだ。さぁ、とっとと便所で装備してこい」
「だめっ! 聞きなさいよ! でも聞いたら口ごたえしないですぐに納得してから全部忘れて!」
自分の疑問はある程度解消できたので早く話を打ち切りたい弥堂に、今度は逆に希咲が取り縋って話を続けようとする図に塗り替わった。
「無茶苦茶なことを要求するな。それにさっきも言っただろう。俺は一度取得した情報を記憶から失くすことはない」
「ダメっ! 忘れなさいよっ! でも勘違いもしないでっ!」
これでは話にならないとばかりに弥堂は息を吐く。
「失望したぞ希咲 七海。このイカれた学園の中ではマシな部類だと思っていたんだが、まさかこんなガキだったとはな」
「失望⁉」
びっくり仰天した七海ちゃんのしっぽがぴゃーと跳ねてぶわっと逆立つ。
「シツボーってなんなのよっ⁉ なんであたしがあんたなんかに失望されなきゃいけないわけ⁉ カンケーないでしょ!」
「お前は本当にうるさいな」
「うるさいってなによっ⁉ あんたが悪いんでしょ! 人の胸とかパンツにシツボーっていみわかんない! あんたシツレーすぎっ!」
「は? 胸? おパンツ?」
「あたしあんたのカノジョじゃないんだから別にどーだっていいじゃない! あたしの胸やパンツがこうで、あんたになにかメーワクかけた⁉」
「俺がいつそんな話をした」
「したじゃん! バカにすんな! 胸だってフツーにあるし、パンツもたまたま今日はこういうのだって言ってんじゃん!」
「どうでもいいんだが」
「どうでもいいってなによっ! 大体あんたのパンツだって、そのへんのコンビニでテキトーに売ってそうなヤツじゃん! 絶対あたしのパンツの方がカワイイんだからっ!」
「……自分との戦いなんじゃなかったのか? 俺に勝ってどうする……?」
「うっさい! へりくつゆーな!」
「俺が言っている『失望』とはお前の乳房やおパンツのことではなく、聞き分けがなくて話が通じない今のお前の様を言っているんだが…………まぁ……お前がそれでいいのなら俺ももうそれで構わん……」
怒りで我を失い過ぎて、何故か男子である自分相手にパンツのかわいさでマウントをとってきたクラスメイトの女子への対処には、さしもの弥堂も困り果ててしまい、彼にしては珍しいことに折れることにした。
「なにそれ⁉ やっぱバカにしてんでしょ⁉ あとお前っていわないでっ! あたしあんたの女じゃないんだから!」
「……馬鹿になどしていない。キミの言う通りだと認めたんだ」
「あっそ! じゃあ、あたしのいうことわかったんなら、ちゃんとあやまって取り消して!」
「…………すまなかったな、希咲。キミの胸は立派で素晴らしい。それとキミのおぱんつは俺のパンツよりも可愛いと認めよう」
「はぁ⁉ きもいこといわないでよ! なんでまたそーやってセクハラすんの⁉」
「どうしろってんだクソが……」
しかし、どうにも彼女の怒りは治まらないようで、どうあっても許されることはないようであった。
「フフフ。そのへんにしておきなさいよ、希咲。女の子がそんな風に声を荒げるものではないわ」
そこにどうにか車椅子の修復の目途がついたらしい一団から抜け出してきた白井が近寄ってきた。
「はぁ⁉ なによ! カンケーないでしょ! しゃしゃってくんな!」
「あらあら、怖い」
警戒心剥きだしで威嚇する希咲に対して彼女はどこか余裕だ。心なしかホクホクとした表情をしている。
「希咲、貴女ね、せっかくそんなに可愛いのだから男性にそんな態度をとってはダメよ。もっと――うっ……!」
何やら上から目線の大きなお世話な説教をし始めたと思ったら、白井は突然コメカミを抑えて身を屈める。
「…………ちょっと? どうしたのよ」
どう見ても芝居がかった仕草であったが、基本的にいいこである希咲さんは一応気遣う姿勢をみせる。
その希咲の社交辞令に対して白井は「いえ、大丈夫よ。ご心配ありがとう」などと言いながら身を起こし、わざとらしく「う~ん」と伸びをするとこれ見よがしに自分の肩を揉み解しだした。
「…………なに? なんのつもり……?」
何故かその一連の動作が妙に癇に障った希咲は、瞳に映す不審を一層に強めて尋ねる。
「――うん? あぁ、ごめんなさいね。最近肩こりが酷くて偏頭痛に悩まされているのよ」
「…………へー……」
「恥ずかしい話だけれどこの頃成長期なのかしらね。先月ブラのサイズが上がってしまってね……1カップ上で買い換えたばかりなのだけれど……」
「ふっ、ふぅ~~ん…………」
「あぁ……でも、困ったわあ…………新調したばかりだというのに、どうもまたサイズが合わなくなってしまったのか、きつく感じるのよ」
「…………」
小芝居感満載の白々しい白井の身の上話に、形の上で礼儀として一応相槌だけは打っていた希咲だったが、そのうち無言で俯いてしまう。
「もしもまたサイズが上がってしまったのなら次はEカップよ。困るわ。私ってほら、どちらかというと知的なイメージじゃない? 巨乳って頭悪そうに見えるって聞くし……いやだわぁ……数少ない取り柄がなくなるのはつらいわぁ~……あーつらいつらい。そういえば希咲。よく見ると貴女って賢そうよね? うふふふふ」
「そ、そ~お? そんなことないと思うけど。うふふふふふ……」
つらいつらいとぼやく割に全くつらそうに見えない白井さんの目が向けられているのは希咲の胸部だ。
どうにか愛想笑いを絞り出した希咲だが、その俯けた顏の前髪の隙間から覗く目はひとつも笑っていない。殺る目だ。
「正確なサイズを測るのって自分ではよくわからなくって……あぁ、困った。この間下着屋さんに行ったばかりでまた行くのもねぇ……私の勘違いだったら恥ずかしいしぃ、そうじゃなくても『またデカくなったのかよ、この女』って思われそうで……うふふ」
「……ふっ、ふふふふふ……」
「あっ、そうだ! ねぇ? 希咲。よかったら助けると思って測ってくれないかしら? わ・た・し・のぉ……でぃ・い・かっ・ぷっ…………うふふ……もしかしたらぁ、Eカップにぃ、なってるかもだけどぉ。ねぇ? お願いできなぁい?」
「あははー…………い・や・よっ!」
「えー、希咲さんちょっと冷たくなぁい? なんでそんなこと言う――あっ⁉⁉」
耳障りな猫撫で声で楽し気に希咲を煽っていった白井は、喋っている途中で突然何かに気付いて思わず言葉を止めるという過剰な演技をした。
「……なによ?」
ロクでもないことであるのは間違いなくわかっているのに、激しく苛立っている希咲はそれを訊いてしまう。
すると白井は突如態度を神妙なものに改めた。
「あの……ごめんなさいね? そんなつもりはなかったのだけれど、ちょっとデリカシーが足りていなかったわ」
「…………どーゆーいみよ?」
「ふふふ…………だって、ねぇ? そりゃ、イヤよね。他の女の大きくなったかもしれない胸なんて測りたくなんかないわよねぇ」
「……べつに…………」
「うふふふふふ……私としたことが、察してあげるべきだったわぁ。まったくもって『無い者』への配慮が足りていなくてごめんなさいねえぇぇ?」
「いっ、いいいいいみがわかんないわ……」
言葉とは裏腹に『無い者』という言葉を聞いて眉をピクピクさせて応える希咲の声は裏返り気味だ。
明らかに効いている、そう見て取った白井の表情はより強く歓喜に染まる。
「そ~おぉ? 気にしてるんじゃないのぉ? おっぱいがぁ、ち・い・さ・い・こ・とっ」
「はっ、は~あ? べっ、べつにぃ? あたしふつーにあるしぃ?」
『ちいさい』のところで露骨に声量を上げて強調してくる白井に対して希咲は見るからに劣勢だ。
「あら、そ~お? へー。常軌を逸した盛り方してるくらいだからすんごいコンプレックスなのかと思っちゃったぁ」
「じょ、常軌……? 逸した……?」
「これはマジレスだけど、貴女ね。普段からそんな必殺魔球の修行みたいな無茶な盛り方してたら絶対に形崩れるわよ?」
「う、うっさいわね! ちゃんとケアしてるし! ほっといてよ! カンケーないでしょ!」
「まぁ、そうね。関係ないわね。Eカップという巨乳の領域に至ったこの私にはこれっぽっちも関係のないレベルも低くて、ついでにトップも低い話だわ! ふはははははっ!」
「ぐぬぬぬぬぬ……っ!」
傍で死んだ目で二人のやりとりを聞き流す弥堂には皆目理解の及ばぬ話だが、マウントをとられる希咲は歯ぎしりでもしながら血涙を流しそうなほどの悔しがり方だ。
「ごめんなさぁい! カップの存在すら危ぶまれるナイチチ七海ちゃんにぃ、Eカップを計測しろだなんて残酷なお願いをしてしまってぇ、この度はぁ、まことにぃ、申し訳ぇ、ございませんでしたあぁ。本当にぃ、ごめんなさぁいねぇ!」
「あるもんっ! カップあるもんっ!」
「うんうん、そうよね? あるわよね? だいじょうぶだいじょうぶ、わかってる…………アハッ――アハハハハハハハハハッ!」
「うわーん! ぶっころしてやる!」
泣きの入った希咲が高笑いをあげる白井に飛び掛かったが、弥堂にキャッチされ止められる。
「はなして! はなしなさいよっ! こいつは! この女だけはあぁっ――」
「いい加減にしろ。何度繰り返すんだ。お前もそのへんにしろ」
言いながら弥堂は希咲を米俵のように肩に担ぎつつ、後半の言葉は白井へと向けた。
「ぎゃーーーーっ⁉ やだやだやめてっ! またパンツみえちゃうでしょ⁉」
「あーーー、勝った勝ったぁ…………うふふ、気持ちいいわ。待たせてしまってごめんなさいね、弥堂クン。もう満足したからそれ持って帰ってもらって結構よ」
最後の最後で劇的な逆転勝利を掴み取ったらしい白井は、耳元で喚く希咲の大声に顔を顰める弥堂へと、満ち足りた顔で謝辞を述べてから立ち去ろうとする。
「おーーい! 白井さぁん? 帰ろうぜぇ!」
そこへ見計らったように法廷院からの呼び声がかかる。
「わかったわ」
「あっ! ちょっと待ちなさいよ!」
白井は短く返事をすると、本当に満足したらしく、きっぱりと話を打ち切り仲間の方へ向かう。
逆に希咲がそれを引き留めようとするが――
「あぁ、そうだ。希咲さん。ちょっといいかな?」
法廷院の方から話を振られる。
「なによっ⁉ 今こいつと話してるんだから余計な口挟まないで!」
「うん? まぁ、そうだね。ご指摘のとおり余計なことさ。本来言うべきじゃあない余計なことで、挟むべきじゃない余計な口をききたいからちょっと付き合ってくれよぉ」
「はぁ? またいみわかんないことを……」
激昂しているところに油を注ぐような言い回しをされ、希咲は怒鳴り返そうとして、しかし自分の口から出たのは勢いのない声だった。
それは彼の――
「言うな、とも注意されていてね。本来はそちらに義理を果たすべきなんだけれども、まぁ、これは本当にキミには関係のない話だ。だけどね、今日はとっても素敵な体験をさせてもらったし、キミには『いいもの』も見せてもらったからね。そのお礼にひとつ大きなお世話をしてみようってわけさぁ。もらいっぱなしはよくないからねぇ。だってそうだろぉ? そんなのは『対等』じゃないからさぁ」
「……やっぱ、あんたケンカ売ってんでしょ⁉」
「おいおいおい。やめてくれよぉ、喧嘩だなんて。野蛮だなぁ。そいつは誤解だぜぇ? ボクが売りたいのは恩さ。お節介をしてキミに恩を売っているのさ。だってそうだろぉ? キミとは同志になれるって言ったじゃあないかぁ。弱いか弱い希咲 七海さん。でも安心してくれ。売るっていっても基本無料だぜぇ」
「お断りって言ったでしょ! 結局なんなのよ!」
「過保護――」
「――え?」
意識して語気を荒げながら言い返していたが、法廷院が発したその一つの単語に目を見開く。
「――過保護。優しくて過保護な希咲さん。キミにひとつ忠告だ」
「…………な、なによ」
自分の心持ちのせいなのだろうが、希咲には一際空気が重くなったように感じられた。
続きを語る法廷院にも悪ふざけをしているような様子はない。
「先に言っておくし、先に言った通り。ボクはキミの大切なその『ダレカ』を知らない。知らないし、キミやそのダレカにこれから何が起きるのかも全く知らない」
「…………」
「だけどね……いや、だから、かな? だから。キミは大切な宝物をなるべく手元に置いておくべきだ。もしくは、なるべくキミが離れないようにするべきだ」
「どういう、意味……なの……? なんのことを、言ってるの?」
「さぁね。言ったろ? 知らないって。ボクには何もわからないよ。ただ、そうするべきだって思ったのさ」
「なに、それ…………わけわかんない……」
「同感だね。ボクもこれっぽっちもわけがわからないよ。やっぱり気が合うねぇ。どうだい? これを機に我が組織に加入してみないかい?」
「やだっていってんでしょ! しつこい!」
「おっとこわい」
ククク、と笑う法廷院の雰囲気がどこかおどけたものに変わる。そのせいか幾分か空気が和らいだ気がした。
「だからね、偉そうに忠告とか言っておいて申し訳ないんだけれど。ボクの言ったとおりにキミが注意してもそれで何かを回避できるとは限らないし、ボクの言うことを無視したとしても何も起こらないかもしれない」
「はぁ? そんなの当たり前のことなんじゃないの?」
「そうだね。『当たり前』で『普通』のことだ。先のことは――未来は誰にもわからない。だってそうだろぉ? もしもそれを知ることが出来る者がいたとしたら、そんなのずるいじゃあないかぁ。とっても『不公平』なことだろう?」
「……結局あたしをおちょくったわけ?」
「そいつは違うぜぇ」
再び法廷院の目がギラつく。
「『不公平』だと思ったからさ。本来知るべきではない
「なに、それ…………誰よ⁉ そいつが愛苗のことなんか言ってるってこと⁉ 教えなさい!」
ここに居ない、正体の知れない誰かが居て、その者が自身の親友について何か重大な言及をしている。
あまりに不透明な法廷院の発言に、希咲は苛立ちを募らせ声を荒げる。
そして、その彼女を担いだままの弥堂は、意味のわからない二人の会話を止めるでもなく、ただ目を細め法廷院を視た。
「おっとぉ。そこまでは出来ないよぉ。個人情報だからねぇ」
「なんでよっ! あたしの味方するんでしょ⁉」
「トモダチだからさ」
眉を吊り上げ剣呑な声を出す希咲に、法廷院は眉を下げどこか諦めたような表情でそう言った。
「確かにボクは弱者の味方さ。でもヤツはトモダチだからね。『不公平』なヤツで気に食わないとこもあるけどさ、トモダチだから仕方ないよ」
「友達…………それって、さっき話に出てきた『ギャルはえっちなパンツ穿いてる』とかって決めつけてた頭おかしいヤツのこと?」
「おいおいおい。キミこそ『ボクに友達は一人しかいない』なんて決めつけてやしないかい? そいつは無意識な『差別』だぜぇ。だってそうだろぉ?」
「脱線させないでよ! ちゃんと答えてっ!」
「脱線させてるつもりはないんだけどねぇ。まぁ、それはともかく――」
前置いて、話と空気を戻す。
「――ともかく。トモダチの味方をするかどうかなんてさ、理性で考えて決めることじゃあないぜぇ? それだけは無条件だ」
「いみ…………わかんない、わよ……」
「あっ! もしかして今のけっこう名言っぽくないかい? そのうち『そういえばあの時こんなこと言ってた――』みたいにさ、思い出す時がくるかもだぜぇ? 是非とも有効活用してくれよぉ」
「ふざけんな……」
「まぁ、決めるのはキミさ。何を大切にするのか、それをどう大切にするのか。全部キミが決めることさぁ」
「余計な……お世話よ……」
「そう。だから最初に言ったろ? 余計なお世話だって」
「あんた、マジでムカつく」
「おっとぉ。それじゃこれ以上ムカつかれないようにそろそろ退散するかねぇ。ボクは『弱い』んだぁ。キミに蹴られでもしたら怪我じゃあ済まないし、これ以上余計なこと言ったらアイツに怒られちゃうかもしれない。それはこわいからね。こんな『弱い』ボクをキミは許すべきだ」
「結局何の役にも立たないじゃない」
「その通りだよ。そしてキミも役に立てずに失敗してしまうかもしれない。その時はボクのとこに来るといい。キミの弱さももちろん許されるべきだからね。このボクが擁護して、許してあげようじゃあないかぁ。だってそうだろぉ?――」
法廷院は踵を返し立ち去ろうとしながら、首を回して顏だけをこちらへ向ける。その過程で一瞬だけ意味ありげに弥堂を見てから、言葉を締める。
「――弱さは免罪符だからね」
そう言い残して、無理矢理組み立てた車椅子を押して、他の仲間の手を借りながら気絶した高杉を運んでいく。
弱者たちが身を寄せ合いながら継ぎ接いだ車輪を回す。
疑問など何一つ解消できていない希咲はその背中になおも声を掛けようとするが――
「――あっ!」
彼らの後に続こうとしていた白井が大きな声をあげ、その声に驚き言葉を飲み込んでしまった。
白井は歩きかけながら何かを思い出したようにこちらに向きなおると、近くへ寄ってきて希咲の前で立ち止まる。
そして彼女は懐からメモのようなものを取り出すと手早く何かを書き込み始めた。
言動の予測の難しい彼女がまた突然何かを始めたものだから、弥堂も希咲も警戒心たっぷりに無言でその様子を見る。
「こいつなんのつもりなの?」といった意味合いを含んだ視線を希咲が弥堂に送り、「知るか」とばかりに弥堂は目を伏せ肩を竦める。
その肩が、担いでいる彼女のお腹に食い込み、希咲が「むーー」と視線の色を不満のそれに変えると、彼はうんざりとした表情を浮かべた。
法廷院と割と緊迫したやり取りをしていたつもりの希咲だったが、その間もずっと弥堂の肩に担がれたままであった。そのため、傍から見るとかなり間の抜けた絵面だったのだが、無意識に米俵ロールをする彼女は幸いにもそれに気付いてはいなかった。
そんなことをしている内に何かを書き終えた白井が、希咲の手をとって紙切れを握らせてくる。
希咲はそれを無言で確認した。
手の中のメモ書きには英数字が羅列されている。
「えぇ~っと…………これは?」
何となく察しはついていたがダメ元で白井に尋ねてみる。
「見ればわかるでしょ。IDよ。edgeの」
「あははー。だよねー……そう、だよね…………」
「なによ。ショッピング付き合ってくれるって言ったじゃない」
「そう、ね。言ったね。いっちゃった……ね……」
「私そろそろ帰りたいの。あとでフォロバするからIDで探してフォローしといてちょうだい」
「…………うん……」
「ランジェリーショップも付き合ってもらおうかしら。ふふっ。じゃあね」
「うん……ばいばい…………」
そう言って立ち去っていく白井の背を希咲は死んだ目で見送った。手の中の紙切れがやたらと重く感じる。
やがて重く溜め息を吐き出すとなんとなく弥堂の顏を見遣る。
「これ……どーしよ……」
「知るか」
当然彼は希咲の心境など慮ってはくれない。
「はぁ……あいつと二人でモールか…………やだなぁ」
希咲 七海はプロのJKである。
例えさっきまで口汚く罵り合っていた相手であろうとも、『あんたなんかと遊ぶわけないでしょ? バカじゃないの?』とは口が裂けても言えないのである。
なんとなくそれは絶対に言ってはいけないことのように感じてしまうのだ。
確かに買い物に付き合うと言い出したのは自分である。
だが、それを言った時は本当にそう思っていたが、今はもう状況が違うのだ。
「あんな地雷女だって思わなかったもんなぁ……さすがに外で今日みたいなバカ騒ぎはしないと思いたいけど……」
しかし、どこを踏むと爆発するかわからないからこそ地雷なのである。
「うぅ……あいつと愛苗は絶対に会わせたくないしなぁ……」
せめて他にも連れがいればと考えを巡らせるが、一番に思い浮かぶ親友の水無瀬は、あんな悪意の塊のような女とは絶対に関わらせたくない。
「
ブツブツと呟きながら「う~ん」と弥堂の肩の上で悩んでいると、ふと彼と目が合う。
「あっ。共通の知り合い」
弥堂はサッと目を逸らした。
希咲は構わずに声をかける。
「ねぇ」
「さぁ、下ろすぞ。足元には気を付けるといい。不便を強いて悪かったな。どこか痛むところはないか?」
「…………ねぇ?」
弥堂は彼に似つかわしくない紳士的な口調と態度で、希咲を丁寧に下ろして床に立たせてやると、カーディガンの前を閉じさせてやり、直接身体には触れぬよう細心の注意を払いながら彼女の服を払って着衣の乱れを直してやる。
あまりの白々しさと胡散臭さに希咲は胡乱な目つきになり声のトーンも下がる。
「ねぇ、ってば」
「ここに近いトイレの場所はわかるか? こっちだ。今日は疲れただろう、まだ歩けるか? つらいのなら俺の肩を貸してやろう。もちろんキミが嫌でなければ、だが。遠慮はするな」
「もうっ! わかったわよ! あんたに付き合えなんていわないってば。そもそも下着ショップも行くらしいから男子はちょっとねぇ、だし」
「そうか。俺で役に立てるならばと思っていたがそれは残念だ」
「あっ、そぉ? それならお店の前で待っててもらえば大丈夫よね? あんたもいく?」
「断る」
迂闊に軽口を叩いたことを後悔し即答で断る。
「ぷっ。なにそれ。必死すぎ。ちょっとうける」
またも噛みついてくるかと予想したが、一応はトラブルも終わったと認識し彼女も緊張が解けて肩の力が抜けたのかもしれない。
希咲は悪戯げに目を細め少しだけ楽しそうに笑った。
弥堂はそんな彼女の顔をなんとなくじっと見詰めた。
「ん? あによ? また悪いこと考えてんの?」
「言い掛かりだ」
「そ? まぁ、いいわ。んじゃ、あたしちょっと行ってくるから下駄箱集合ね」
「あぁ。さっさとしろよ」
「女の子のトイレを急かすんじゃないわよ。待ってる間にデリカシーって言葉検索しときなさい」
「なんだ。結局排便か。あまり待たせるなよ」
「ちがうっつってんだろ! おだまりっおばかっ!」
そう言って弥堂の脳天目掛けて放たれた希咲のチョップがズビシッと決まった。
「いてぇな」
そう抗議の声をあげる弥堂に対して希咲はぱちぱちと瞬きをする。攻撃を放った張本人の彼女は不思議そうに首をかしげた。
「なんだよ」
「や。ごめん。当たると思わなくって。あれだけキック避けられまくったからさ。なんでこれ避けないの?」
ピシピシと軽く弥堂の頭を手刀で叩く。
その希咲の手を弥堂は振り払うでもなく、
「なんで……? なんでだ…………?」
言われて初めて気付き、自分でも不可解だといった風に顔を歪め首を軽く傾ける。
なんとなくそのまま二人とも首を傾げながら無言になり見つめ合う。
ぺしぺしと再度希咲が弥堂をはたく。
「ま、いっか。んじゃ、またあとでね」
そう言って距離をとり、クルっと軽やかに踵を返した。
彼女のサイドで括った髪が長いしっぽの様に宙で弧を描く。
そのまま希咲は歩き出した。
法廷院から聞いた重大な案件が白井に中断されたせいで、話が曖昧になってしまったままでいることに気付いていなかった。
そういうことにした。
本当は法廷院に言われたことが棘の様に胸に刺さったままだ。
意味がまったくわからないし、普通に考えれば彼の言うようなことはきっと何も起こらないだろう。
ただの嫌がらせだ。そうに決まっている。
事が水無瀬の事でさえなければ、きっとそう思えた。
本音では今すぐに追いかけて問い質したい。
しかし、現実的な思考では彼らを追いかけ探して話を聞き出す、そんな時間の猶予はもう今日という日の中には残されていない。
バイトはもう遅刻が確定してしまっている。
幸い、今日は簡単な『作業』だけなので、2時間もかからずに終わらせられるだろう。
弟や妹たちの夕飯も作らねばならなかったが、それはさっき昨夜の残り物で済ませてくれるように、謝意とともにメッセージで知らせた。
しかし、明日の彼らの弁当の用意や、洗濯や掃除などの家事をして妹を風呂に入れて寝かしつけなければならない。
もう時間がない。
未来のことを知っているかもしれないヤツが居て、そいつが水無瀬 愛苗に何か問題が起こるかもしれないと言っている。
それが本当なら見過ごしていい話ではない。
だけど――
(――そんなこと、あるわけない)
確かに水無瀬のことは気がかりだが、弟妹たちの世話も家計を助けるためのバイトも疎かにはできない。
これらは自分がやらなければならないことで、自分でやると決めたことだ。
家族と親友とを天秤にかけて――という問題ではないが、いくらなんでも、今日初めて会ったヤツから聞いたこんな非現実的な話を真に受けて、それですっぽかしてしまうわけにはいかない。
だから――
そういうことにして、希咲は歩き出した。
弱者を名乗って挑んできた者達と争った戦場を。
気付かないフリをしてその夢の跡を通り過ぎる。
通り過ぎて、置き去りにして、次の朝を迎える。
気付かないフリをして。
そんな彼女の――希咲 七海の頼りない後ろ姿を、弥堂 優輝は無感情に見る。
自分には関係ないと――
気付かないフリをして、彼もまた振り返り次の目的地へ歩き出す――
――ことはしなかった。
「おい、希咲」
かけられると思っていなかった、ぶっきらぼうなその呼び声に、希咲は肩を揺らし思わず足を止めてしまう。
「な、なに?」
説明のし難い後ろめたさと気まずさを感じながら、振り返らずに返事だけをする。
「お前、なにを考えている」
「え――?」
核心を突かれたかのように胸の奥を開かれジクリと抉られる。
弥堂は自分にとって友人でもなんでもない。
だから自分の境遇や心境など知るはずもないし、空気も読めなければ人の気持ちもわからない――そんな人間性の彼に看破されるわけがない。
しかし、まるで見透かされたようなタイミングで苛立ったような咎めるような声音で呼び止められてしまった。彼に何かを謂われる筋合いなんかないのに、何故だか罪悪感が強く刺激された。
耳鳴りが鳴ったように頭が朦朧とし、視界がぼやけたように錯覚する。
「いい加減にしろよ、お前」
「な、なにが……?」
心臓の音が早まったような気がして、トットットッ……とやけにその音が大きく周囲にも響いてしまっているようで、それを聴かれてしまうことを――そうなってしまっていることを知られることが、とても恥ずかしいと思った。
「希咲。お前な――」
「う、うん……」
極度の緊張に心臓の鼓動なのか耳鳴りなのか、もう何だかわからない地鳴りのような音が、耳元の鼓膜間近でドドドドドッ――と響いている気がしてパニック寸前になる。逃げ出したい気持ちが湧きあがる。
そして――
「――お前な、そっちの便所は遠回りだろうが」
「……………………は?」
何を言われたかわからない。
しかし、それを頭で理解するよりも先に身体は反応して、自覚なく表情を盛大に不快に歪めた。
「だから、そっちの便所に行くと遠回りになると言ってるんだ。それくらいわからんのかノロマめ」
「はぁっ⁉」
彼の言っている内容そのものよりも、罵倒される言葉だけに反射反応して、今自分を苛んでいた心情・気持ち・感情――そういったあらゆるものが、散らかったテーブルの上の物を乱暴に不躾に腕で払ってまとめてどこかに放り捨てられたかのように、全てが霧散する。
「なに言ってんのよっ。一番近いトイレはこっちでしょ!」
弥堂の方へ振り向きながら言い返す。
希咲 七海は振り返った。
何の意味も、意図も意志もなく、ただ言い返したいという衝動だけで言葉を投げ返す。
「チッ、馬鹿が。もういい、時間の無駄だ。四の五の言わずとっとと着いてこい。いくぞ」
それなのに、彼はこちらの返答を待たずにロクにこっちも見ないまま踵を返して歩き出す。
「ちょ、ちょっと――」
着いていくなんて、一言も言っていないのに。
「な……なんなのよ…………」
当たり前のように遠ざかっていく背中に、その余りの身勝手さに茫然と呟く。
「……な――」
――そういえば――
「――なんなのよっ! もうっ‼‼」
今度はキックスターターを蹴り降ろすように、同じ言葉を繰り返しながら一度ダンッと強く床を踏み鳴らす。
それによって得られた――得られたと自分を騙した――エネルギーが全身に生き渡ったような気がして、希咲は最低なクラスメイトの男の子の進んだ跡を追って歩き出す。
希咲 七海は引き返した。
肩を怒らせて苛立ちながらズンズンと乱暴に歩を進める。
不思議ともう足の重さは感じなかった。
――そういえば。
そういえば、最初に彼がここに現れた時も同じだった。
身を縛り心を重くする様々な負の感情に囚われていた時。
まるで霧が晴れたかのようにそれら総てが散って消えた。
しかし、それは物語のヒーローのようにすべてを光で照らして救ってくれたわけではない。
恐怖も憂鬱も、その他の総てをすら台無しにするほどの、不愉快さによって全部消し飛ばされた。
嬉しくもなんともない。
(――そうよ。あいつは――)
他の一切が何も気にならなくなるくらいに腹ただしい、とってもイヤなヤツなのだ。
(――ほんっとムカつくっ!)
眦を上げて、眉を吊り上げ、ズカズカと怒りに任せて進むと歩調はひどく乱れるが、細長い綺麗な左右の足を器用に動かし彼との距離を縮める。
怒っているはずなのに、とても苛立っているはずなのに、彼女の唇は何故か緩んでいた。
そして、希咲はそれを自覚していた。
(いみわかんない)
でも、わかったこともある。
今日ここで彼と放課後の時間を共有したことで、
クラスメイトで。風紀委員で。一応助けてくれて。味方っぽくて。でも悪いことばっか言って。酷いことばっかして。自分にもとんでもないことしたし。生意気で常識がなくて。絶対友達なんかじゃないし。なれない。
でも、そんな彼との関わり方が、なんとなくわかった気がした。
(マジでムカつくし、すんごいイライラしてるのに…………なのに――)
弥堂のすぐ背後まで追いつく。
(――なのに、なんかちょっとだけ楽しくなってきたとか、いみわかんないっ!)
見ればわかるほどに口角が持ち上がってしまったのが自分でもわかった。
(なに笑ってんのよ、ばか七海っ)
でも、今の自分の表情も、今思ったことも、このバカ男に知られるのは何故か悔しかったので、彼を追い抜きも並びもせずに、顔を見られぬよう真後ろを歩く。
嫌がらせにすぐ後ろでわざと大きな足音を立てながら歩いてやる。
「待ちなさいよ、ばか弥堂っ! なんで勝手に先行くわけ⁉ あたし着いてくなんて言ってないでしょ⁉」
「チッ、うるせぇな。黙って歩け」
「はぁ⁉ いみわかんないいみわかんないいみわかんないっ! あんた勝手すぎ! 命令すんなって言ったじゃん! あたしあんたの女じゃないんだからっ」
「自分の女だったら命令してもいいわけではないだろう。それは男尊女卑だ。時代的価値観をアップデートしたらどうだ。間抜けが」
「へりくついうなっ! あんたに言われたくないのよ! あんたなんて変態セクハラクズ野郎じゃないっ!」
「自意識過剰だと言っただろうが。さっきのデブどもに持ち上げられたくらいで勘違いをするな、バカ女め お前のようなガキに誰が興味を持つか。」
「えーーーー? あたしセクハラって言っただけなのにー。ひ・と・こ・と・も! 『あたしに』、とか! 言ってないんだけどなぁー。もしかしてあんた、あたしにキョーミあるわけー? やだやだきもーい。でもごめんねー? あたしー、あんたのことー、だいっっきらい! だからっ!」
「そうか。それは残念だ。俺はお前のことを便利そうな女だと思ったんだがな」
「はぁ? あんたそれ褒め言葉だと思ってんの? めっちゃ見下してんじゃん!」
「それは受け取り方次第だ。つまりお前が悪い」
「あっそ! じゃあ、これからも今までどおりの遠い距離感を保ちましょうねっ!」
「それは助かる。ついでにあの子狸も持って行ってくれ」
「まさかそれ愛苗のことじゃないでしょうね⁉ なによコダヌキって…………ちょっと、かわいい、かも……?」
「知るか。あいつを近づけるな。俺と関わらせてもろくなことにならんぞ」
「ぷっ。なにそれ。自覚してんだ。うける」
「うるさい黙れ」
「あたしだってあんたなんかと関わらせたくないわよ。でもそれはあたしが決めることじゃないでしょ?」
「なら俺が決める。あいつをどっかへやれ」
「ざけんな! エラソーにすんじゃないわよ! 誰があんたのいうことなんかきくか! ばーかばーかっ!」
「……お前ほんとうるせぇな」
「お前って言うな! あたしだってイヤなんだからね! 愛苗とは卒業してもずっと一生友達でいるんだから。間違ってあんたとその……アレしちゃったら、あんたともずっと付き合っていかなきゃなんないじゃないっ!」
「あれ? どれのことだ?」
「うっさい! あたし絶対あんたと友達になれない!」
「同感だな。気が合うじゃないか」
「合わないっていってんのっ! だいたいあんたね――」
――希咲 七海は口が悪い女の子だと、自分でもそう評価している。
それでも、こんな風に面と向かって『普通』は言わないヒドイことを本人に好き放題に大声で言ったりすることなんて滅多にない。それはやってはいけないことだ。
こんなヒドイことは人に言ってはいけない。
だから、きっと今自分は悪いことをしている。
それなのに、振り向きもせずに同様にヒドイことばかり言ってくる目の前のぶっきらぼうな背中に、大声で好き放題に悪口をぶつけてやると、一つ言葉を投げるたびに肩が軽くなっていくような気がした。
とても不健全なことだろうし、同じようにヒドイ言葉が返ってくるから結局はまたムカつくのだけれど。
それでも、それなのに、それほどには、悪い気分にはならない。
だから――これでいいのだろう。
弥堂 優輝。
親友の水無瀬 愛苗の暫定好きな人。
このよくわからないイヤなヤツとの関わり方は、きっとこれでいいのかもしれない。
好き放題にヒドイことを言い合う。
そんなヒドイ関係。
何故だかそれがしっくりきた。
だから、これでいいのだろう。
希咲 七海はそう思った。
きっとこれで『上手く』やっていける。
そんな気がした。
人気がなくなった放課後の廊下を、一人の男子生徒と一人の女子生徒が大声で罵り合いながら帰っていく。
彼と彼女が通り過ぎ、二人の声が遠ざかっていくことでようやく校舎は本日を終え、静かな眠りについていく。
二人が通り過ぎ足跡を付けた場所が、順番に少しずつ今日から昨日になっていく。
また明日を迎えるために、夢を見る。
夢の跡には明日を創らねばならない。
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