序-32 『ルサンチマンの墓標』


「希咲」


「ゔっ――は、はい。なんでしょう? せんせい」



 まるで希咲の思考が解決へとベクトルを向けたのを見計らったかのようなタイミングで権藤から声をかけられる。



 ギクリとした希咲は呻きとともに肩を跳ねさせると、取り繕うように曖昧な愛想笑いを浮かべた。



「希咲。お前に聞くのは心苦しいが、身の安全は俺が保証すると約束しよう。だから正直に答えて欲しい」


「正直、に、ですね。なるほど。あ、あははー……もちろんでぇす。でもぉ、えーーあたしにわかることかなぁ?」


「そこの壁を壊したのは弥堂だな?」


「…………」



 苦し紛れに空気が読めていないフリをして会話を長引かせようとしてみたが、無駄口を叩かないことで評判の権藤先生はやっぱり最短距離できた。



 そういえばこの二人って物言いがちょっと似てるわよねー、などとこの期に及んで思考の逃避をしながら弥堂と権藤との間で視線を左右させる。



 嫌な汗がとまらない。



 否が応にも選択の時だ。



 壊した物が物だけに冗談で済むわけはなく、きちんと責任をとるべきだ。


 だが逆に壊した物が物だけに――



(――これ……直すとしたら絶対業者さん呼ぶわよね…………そしたら――)


――冗談で済むような費用では賄えないであろう。



(そうなったらやっぱ弁償になっちゃうだろうし、あいつん家の経済状況とか知んないけど、さすがにそれはちょっと…………かわいそうって、おもっちゃう…………でも……)


 だからといって、悪いことをしてお咎めなしというのもよくない。



 普通に考えればここは正直に打ち明けるべきだろう。



 それでもこうまでにそうすることを躊躇ってしまうのは――



(あいつ……さっきあたしのこと庇ってくれたしなぁ……)



――先程希咲が働いた暴行について聴取された時の一件が、心の中で楔となってしまっているためだ。



 状況としてはほぼ同じものだった。



 教師である権藤の目の前でやってしまったので現行犯であり、暴力を行使するというのも間違いなく悪いことだ。


 弁解内容は無茶苦茶だったが、それでも弥堂は自分を庇ってくれた。


 そんな彼を売ってしまうことには強く罪悪感を覚える。



 そんな風に思ってしまうのは、最低な人間性だと思っていた彼の見せたギャップのようなものに、トキメいてしまったり絆されてしまった――というわけではもちろんない。


 あんな最悪なヤツでもクラスメイトである自分を庇ってくれたのに、自分は彼を見捨てるようなことをしてしまえば――



(――あたしがあいつより冷血人間みたいになっちゃうじゃない……っ!)



 まるで人間性を試されているようで腹立だしい。



(もうっ! あいつホントさいあくっ!)



 しかし、とはいえ、業腹しくとも彼が庇ってくれたのは事実だ。



 さらに、この場での彼との関係の始まりは、ここに現れた弥堂に助けられたことから始まってもいる。


 もしも彼がここに現れなかったとしたら、自分はきっと取り返しのつかないことになってしまっていた。


 口惜しいし認めたくもないが、しかしそれも紛れもなく事実なのだ。



 直接彼と喋っていると最低なことしか言わないので忘れがちだが、弥堂は希咲を助けてくれて庇ってもくれた。


 その事実だけを並べれば、彼は自分にとって『いいこと』をしてくれている。



(そう、よね…………不思議とぜんぜんそんな風に思えないけど、あいつがいなかったらあたし……)


 最悪の未来に繋がる最低な選択をしかけてしまったシーンを思い出し、スカートを握る手にギュッと力がこもる。



 そしてそのまま、誰かが勝手に決めたクラスという枠組みの中で偶々出会ったよく知らないクラスメイトとしてではなく、自分――希咲 七海と彼――弥堂 優輝という人物との関係が本当に生まれ、そして始まったと謂える件の場面からここまでの出来事を、一つずつ思い出しながら脳内で順番に並べていく。



――この世界に自分に味方してくれる者など誰一人としていないとまでに感じられた程に心細くなり、間違った選択をとってしまいかけた時に、どこからともなく現れて助けてくれて――



――法廷院たちと一緒くたに『薄汚い罪人』呼ばわりをされた挙句に無視されて――


(……ん?)



――ムカつくこといっぱい言われたし、雑に掴みあげられてそのへんにポイ捨てされて――


(……んん?)



――すぐ目の前でボロンっと放り出したありえないモノを見せられて――


(――⁉)



――間接べろちゅーの罠――


「――っ⁉⁉」



――勝手に抱きしめられてお尻触られたあげくに犯罪を手伝えと耳元でこしょこしょされて――


「…………」



――胸触られて、変な恰好で拘束されたせいで全員にパンツ見られて、おなかくすぐられて、終いにはブラまで外されて――



「先生。こいつがやりました」



 希咲はもう何も迷うことなどなく、隣に立つ下手人を指さして先生にチクった。



 これまでの出来事を一つ脳裏に浮かべるたびに表情から色が消えていき、最終的にはスンと無表情になった彼女が告げた真実に外野の法廷院たちは歓声をあげた。



「希咲。貴様後悔するぞ?」


「うっさい。いっぺん公にきっちり罪を問われてあんたがしっかり後悔してこい、セクハラ魔」


 教師へと売り渡したクラスメイトに裏切りを咎められようとも、もはや彼女は一欠片ほどの罪悪感も抱かなかった。


 乙女の威信にかけてセクハラは絶対に許してはいけないのだ。



「そういうことでいいんだな? 弥堂」


「冤罪です、先生。この女は買収されています」


「ほう……聞くだけ聞いてやる。言ってみろ」


「はっ。こちらで掴んでいる情報によるとこの女は毎週少なくない日数をアルバイトにあてています。つまり金が好きな女です。そんな彼女が買収を持ちかけられたのならば、つい魔が差してしまうことがあったとしても、誰も責めることは出来ないでしょう」


「……希咲すまない。聞いた先生が浅はかだった」


「や。先生のせいじゃないし。こいつマジでバカなんです」



 権藤は己の軽率な発言で心優しい少女を傷つけたのではと危惧し希咲に詫びたが、わりと順応性の高い彼女は今日の弥堂との関わりの中ですっかり感覚が麻痺してしまい、もはやこの程度の言葉ではいちいち騒ぐ気にもならなかった。



「おい、弥堂。希咲はな。家計を助けるために一生懸命学校に通いながらバイトをしてお母さんを支えているんだ。お前の薄汚いクズ思考で発想をするような如何わしいことなど一切していない。謝りなさい」


「そうですか。では――おい、希咲」


「あによ」


「ご苦労だな」


「…………それ……謝ってる、つもり……なのよ、ね……? あたしびっくりしちゃうんだけど……」


 尊大な態度で謝罪の意を想起させる単語の一つすらも使わずに謝罪をしてくるクラスメイトが希咲は逆に心配になってきた。



「ねぇ、それよりもさ」


「なんだ?」


「なんであたしがバイトしてるの知ってるわけ? あんたの情報網とやらのいかがわしさの方が気になるんだけ――「――お前には知る資格がない」――もうっ! マジむかつくっ!」



 隠しているわけではないが、大っぴらに発表をしているわけでもない自分の個人情報を何故か掴んでいる弥堂にその事の次第を尋ねたが、職務に忠実な風紀委員は機密事項を秘匿した。



「ハッハァー! どうやら年貢の納め時のようだねぇ! 狂犬クゥ~ン? あ、先生。ボクは彼に顔面鷲掴みで宙吊りにされました」

「僕はビンタされました」

「僕はお腹蹴られました」



 ここぞとばかりに法廷院たちはチクリを入れる。


 少し前には弥堂に対して仲間意識を感じていたように見受けられた彼らだったが、今の姿勢に躊躇いや罪悪感などはまったく見受けられなかった。



「おい。静かにしていろと言ったはず――」


 全員に一度に話を聞いても騒がしくなるだけなので、黙っているように命じていた法廷院へと注意を入れようとした権藤は、先程の再現のように発言の途中で『ある物』が目に入り、言葉を途切れさせた。



 自然と生徒たちもその視線の先を追う。



「おい、法廷院」


「なっ、なんでしょうか。先生」



 そこにあったのは車椅子だ。



「お前何度同じことを言わせるつもりだ? あれをオモチャにするな。その車椅子は来客への貸し出し用の学園の備品だ」


「おっ、オモチャだなんて心外だぜぇ。ボクが使うのはダメだなんてそんなの『差別』じゃあないか。だってそうだろぉ? 学園の備品はここに通うみんなの物なはずだろぉ!」


「何をするのも言うのも自由だが、越えてはならない『線』は越えるな。外聞が悪い。その線がわからないほどの馬鹿なら何もするな。いいか? もう一度言うぞ。あれは来客への貸し出し用にと寄贈された物だ。お前のオモチャじゃない」


「だっ、『弾圧』だっ! これは教師という強者による非道な『差別』だぜぇ!」


「……やはり、普段は倉庫に入れて鍵をかけておくべきか……」


「いっ、いやだっ――」


 法廷院はダッと駆け出して車椅子に縋りつく。


 勝手に連れ帰って隠していた捨て猫が親に見つかった時の子供がそうするように、権藤から守るために己の身体を盾とするように抱きしめた。



「ハイゼルシュタイナーはもうボクの一部なんだ! 家族なんだ!」


「お前……学園の備品に勝手におかしな名前を付けるな」


「こんなの理不尽だぁ! 身体の悪い人だけが車椅子に乗れるだなんてそんなのずるいじゃあないかぁっ!」


「ガキが――越えるなと俺は言ったぞ」



 言った矢先にあっさりとラインを越えてきた愚かな生徒の方へ権藤は歩き出す。平常サイズに戻っていた権藤の両の腕の筋量が再度膨れ上がった。



「ひっ――」


「これ以上の問答は無駄だ――む?」


 権藤の体躯の威容に短く悲鳴をあげて怯える法廷院の前に立ちはだかる者が現れ、権藤は足を止めた。



 高杉 源正だ。



「権藤先生か…………フっ、嫌いではないぞ。以前からそのフィジカルの美しさの理由わけを知りたいと思っていた」


「高杉。一度しか言わん。そこをどけ」


「言葉など無粋。貴方はその鍛錬の成果で以てのみ応えればいい」



 その言葉を聞くや否や、無言で全身に力をこめた権藤の既に袖がなくなっていた残りの上半身の衣服が弾けとんだ。



「ぎゃあぁぁぁぁぁっ!」

「いやあぁぁぁぁぁっ!」


「……素晴らしい…………」



 見事なまでに鍛え上げられた、彼の人生そのものと謂えるその肉体美にある者は悲鳴をあげ、ある者は感嘆する。


 ちなみに「ぎゃあぁ」と叫んだのは希咲だ。



 膨れ上がり蠢いて硬質化する。


 圧倒的なフィジカルの権化を前にして、高杉は棒立ちのままで見惚れた。



 その高杉の目の前で権藤は大きく足を開いてからゆっくりと腰を捻って上体を捩じる。


 高杉は動かない。



 ギチギチと異音が鳴るほどにほぼ限界まで広背筋が引き絞られ、一時の溜を置いた後に権藤の右の拳が射出される。



「――――っ⁉」



 肉体の強さのみで放たれたそれに速度はない。只々迫力があった。



 技と呼べるものなどない拳。



 極めたとはとても云えないが、それでも空手を修めた高杉にとって、その攻撃は躱すのも捌くのも容易い。



 しかし、ここで彼は魔が差した。



(究極的なまでにフィジカルのみに特化した拳。これを受ける機会などこの先――)


――きっとない。



 そう思ってしまったら、もう駄目だった。



 高杉は両の腕をバッと広げ、己の顔面へと迫りくる岩石のように硬められた肉の塊を受け入れた。



 ドゴシャアァ――と。



 およそ人体から鳴らされるべきではない過激な音を立てると、高杉は地面と平行になって冗談のようにぶっ飛んだ。



 そして背後にあった車椅子に衝突すると身体が折れ曲がったような状態で座席部分にぶちこまれ、脇で腰を抜かす法廷院を置きざりに、追突の衝撃で生み出されたエネルギーによって車椅子は高杉を乗せて走り出した。



 圧倒的な筋量によって生み出された衝撃エネルギーは、車椅子にその設計限界を超えるような不適切な速度を強いる。



 やがて慣性に従って走る車輛は高杉を乗せたまま行き止まりの壁に容赦なくぶち当たり、耳を覆いたくなるような破砕音を立てて派手に爆裂四散した。



 宙に打ちあがった車輪が天井に弾かれて落下すると、座席から投げ出されて糸の切れたマリオネットのように壁と床に凭れた高杉の脳天に直撃した。



「…………」



 一同は言葉もなく全員真顔で高杉の頭を打った車輪がカラカラと回り、曲がり角の向こうへ転がって消えていくのを見送った。



 ふしゅぅーっとまるで廃熱をしたかのように吐き出した権藤の吐息で我に返る。



「弥堂」


「はっ」



 自分が呼ばれたわけでもないのにビクっと震えた希咲は、「お願いだからよけいなこといわないで」と祈るような気持ちで薄く涙を浮かべた目を俯けた。



「その壁を壊したのはお前だな?」


「知りません」


 希咲はバッと顔をあげると、この期に及んでまだしらばっくれるメンタルお化けを驚愕の目で見た。



 言いながら弥堂へと近寄っていた権藤は目の前で立ち止まると、冷酷な顔つきで見下ろす。



「嘘をつくな」


「そう言われましても、証拠も何もなしに認めるバカがいるとでも?」



 もはや自白に等しい開き直りをする弥堂の右の手首を権藤はガッと乱暴に掴んだ。



 そのまま腕を上げさせようと力をこめる。


 弥堂も腕に力を入れて抗う。



 ギチギチ……と異音が聴こえるほどに拮抗し、男二人至近で真剣な眼差しで見つめ合いながら膠着した。


 権藤の数学教師らしからぬ眼光炯々とした目玉と、弥堂の瞳孔の奥に蒼銀を燻らせた目玉が睨み合う。



「むんっ!」



 権藤がより一層に腕に気合をこめるとその筋肉がさらに膨張し、それによって均衡は崩れた。



 ギリギリ……と破滅的な異音を出しながら弥堂の腕が持ち上げられていく。



 権藤は手に取った弥堂の手首を壁の方へと近付けていくと、破壊跡の穴へ彼の手を突っ込ませた。



「…………」



 まるで誂えたかのように、弥堂の右拳と壁の穴はジャストなサイズ感でミラクルフィットする。


 皮膚とコンクリの間の隙間が0.01㎜程度しかないのではと感じられる程の驚きのフィット感の前では、さしもの弥堂とてもはや言い逃れのしようもないだろう。



 なんとなく目も当てられない気分になった希咲は「うっ」と顔を伏せた。



 真犯人にトドメを刺す探偵のような権藤の眼差しが弥堂を突き刺す。



「弥堂。これ――「――先生」――…………なんだ?」



 権藤の言葉を遮るように口を挟んできた弥堂は、教師からの問いには応えず目も合わせない。


 その視線はただ通路の奥の方へと向けられていた。



 真意を求めて権藤はその視線を追う。



 そこにあったのは、バラバラに千切れ飛んで無残にも床に散らばる車椅子であったモノの亡骸と、ついでに高杉だった。



「…………」



 私立美景台学園高校に雇用されている教職員である権藤は、自分の目に写った学園の所有する備品と学園に所属する生徒の成れの果てを思い、何かしらの手応えの残る右の拳を左の掌で覆うと黙祷を捧げるように瞼を閉じ、そしてやがて天を仰いだ。



「…………お前ら。今日はもう遅い。特に何事もなかったことはわかったからもう帰りなさい」


「誤解が解けたようでよかったです。長生きしますよ、先生」


「黙れ。クソガキが」



 何やら男たちの間で何かしらの折り合いがついたらしい。その詳細について明言したり記録に残したりすることは諸事情により困難ではあるが、とにかく『何もなかった』という方向で事件は解決したようだった。



 死体など何処にもなかったのだ。



「えぇ…………なにそれ……」


 事の次第を公にして何かをしたいというわけでは決してないが、あまりにあやふやで締まりのない結末に脱力した希咲は思わず呻き、口裏を合わせた共犯者たちを軽蔑した。



 あれだけ相容れない関係に見えた弥堂と権藤が、利害の一致を見るや否や、秒で合意に至った。その様相に大人の汚さが垣間見え、数年後に社会へと羽搏く予定の少女は自らの未来に絶望する。



「弥堂。そろそろ外は暗くなる。希咲を送っていきなさい」


「え゙っ――⁉」

「…………わかりました」



 呆れたような軽蔑したような――そんな希咲からの視線に居心地の悪さを感じた権藤が体裁を取り繕うように弥堂に命じると、ありがた迷惑すぎるその提案に希咲は驚愕し、弥堂は若干不服そうに遅れて返事をした。



「先生っ! あたし別にひとりで平気だからっ!」


「希咲。キミはしっかりした子だと先生は信頼している。だが最近は街の治安にも不安がある。キミはこれからバイトだろう? あそこは繁華街だから特によろしくない」


「だからって、こいつと――」


「その男は自分で考えたことを言わせたりやらせたりさえしなければ、連れ歩くだけの番犬としてならばそれなりに優秀だ。活用するといい」


「でっ、でもっ――」


「今日はいつもよりも遅い時間だろう? 少し時間が遅いだけで街の様子がいつもの知っているものとは変わることもある。今日のようなこともあるし、念のためだ。それに――」


「うぅ……それに……?」


「この時間に俺はキミとここで会い、キミを一人で帰らせた。その上でキミが事件に巻き込まれでもしたら――責任をとる者が必要になる。この場合それが誰になるのか。わかるな?」


「うっ…………そう言われると……」


「ずるい言い方だが、先生のためだと思って今日だけ我慢してくれ」


「……う~~…………わかりましたぁ……」



 これ以上はもう弥堂と一緒に居たくないと考える希咲は必死に抵抗を試みたが、大人の流儀で丁寧に諭されてしまい、遺憾ながら受け入れる他なかった。



 渋々ながらも言うことを聞いてくれた女子生徒に権藤は安堵すると、露骨にギンっと眼差しを強めて弥堂へ向く。



「おい、弥堂。いいな? 俺は確かにお前に命じたぞ。これでお前が役目を放り投げたり、彼女になにかあった場合誰が責任を追及されるか――わかるな? その時は俺はお前とお前の飼い主を追及する手を決して緩めんぞ」


「チッ…………いいだろう。仕方がない」

「はぁ…………」



 相手によっての対応をしっかりと区別をした容赦のない先生の物言いに、弥堂は敬語を投げ捨てながらも了承した。


 ワンチャンこいつがゴネて反故にならないかなと、淡い期待を抱いていた希咲は儚い希望だったと億劫そうに溜め息を吐いた。



 その二人の様子に満足そうに権藤は頷くと、他の生徒を片付けるため向きを変える。



「おい、法廷院」


「はっ、はいっ!」


 この平和な日本国内で、日に三度も友人が目の前で気を失うという凄惨な出来事に行き遭い、すっかりと怯えていた法廷院は緊張気味に返事をした。



「とりあえず今後は希咲に絡むなよ。弥堂には何をしても構わんが人目にはつかないようにやれ。そして他の生徒には迷惑をかけるな」


「わっ、わかりましたぁ!」


「あと――」


「……あと……?」


「そこのゴミを片付けておけ。組み立てて直るならそれでいいが、もしもダメなら捨てておけ。いいか? 部品ごとに袋に入れて別々の場所に捨てるんだぞ? それと――わかってると思うが、白井はお前らがちゃんと送っていけ」


「さー! いえっさー!」


 バラバラになった車椅子を指し、証拠を隠滅することの大切さを教える社会の先達からの言葉に、法廷院は何故か敬礼で応えた。



「よし、では状況終了。全員解散しろ」



 言いながら弾けとんだ己の衣服だった物を回収した半裸の教師は、簡潔に言い捨てるとすぐに事務棟の方へ歩き出した。



「あっ、あの、せんせいっ」


 すでに立ち去ろうとしている筋骨隆々の逞しい背中へ法廷院は呼び止める声をかける。



「なんだ?」


 立ち止まり、背中ごしに目線だけで振り返る教師へと問いかける。


「あの…………なんていうか、ボクたち、今日のことは……?」



 罪を追及されたままで告げられていなかった判決内容を言外に問うと――



「フッ――」


 半裸教師はそうニヒルに笑うとまず足から固めに入った。



 肩幅に開いた両腿に力をこめると太ももの付け根からスラックスが弾け飛び異常なまでに発達したハムストリングが露わになる。


 次に親指だけを立てたまま握り込んだ両の拳を腰の脇に持っていく。



――バックラットスプレッドだ。



 大人としての男としての器の大きさを、背中の広さで表現するように、拡げた翼の如き広背筋を見せつける。



 窓から差し込む夕陽が、彼の生き様そのものと謂えるその鍛錬の成果をライトアップした。



 その人間としてのあまりの大きさに圧倒される子供たちへと一言告げる。



「先生な。これからジムを予約しているんだ」



 短くそれだけを言うと素早く床に散ったスラックスの破片を雑に拾い、先に回収していた上着の布切れとまとめて握ると、ガッと乱暴に肩に引っ提げてからザッっと立ち去って行った。



 権藤はプロフェッショナルな教師であり、そして同時にプロフェッショナルなサラリーマンだ。



 無用な残業はしないしプライベートを大事にする。


 それが大人の流儀というものだとその背中が語っているようだった。



 悠然とサンセットロードを歩んでいく漢の背中をうっとりと見送っていた法廷院たちは遅れて彼の言葉の意味に気付く。



 つまり、『時間かかるからお咎めなし』ということだ。



 彼らはワッと歓声をあげるといそいそと片付けに入る。



 その様子を引き気味に見る希咲はうんざりとした心情を吐露する。



「ホントやだ…………この学園マジでサイテーなヤツしかいない……」

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