序-25 『庭へは續かない道』


 しばしの膠着があった後、私立美景台高校の学園内文化講堂にて、『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』という集団によって引き起こされてから続いた一連の騒動、その状況に終止符を打つべく風紀委員である弥堂 優輝びとう ゆうきは対面するクラスメイトであり現状況下に於いては敵である希咲 七海きさき ななみへ向かって口を開いた。


 大元の騒動の主である『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』のメンバーたちは完全に蚊帳の外に置かれていたが、弥堂も希咲も最早彼らのことなど気にも留めてはいなかった。



「フッ、語るに落ちたな希咲 七海」


「そっすか」


 嘲笑するように告げる弥堂に対して希咲さんは意外とやる気がなかった。


 だが、弥堂はそんな彼女の様子を気にするでもなく、ベルトコンベアに乗って流れてくる製品を眺める作業員のように無感情な目で彼女を見定める。


 彼は自らの勝利を確信していた。


 彼女を自身の活動の資金源とする為に、ここでしっかりと上下関係をはっきりさせた上で脅迫して働かせるという友好関係を築く。

 他人が聞いたらちょっと何を言っているのかわからない謎の理屈だが、弥堂としては己のその方法論に一切の疑いを持っていなかった。


 そして自分ならばこの程度のタスクは余裕で熟せるという確信があり、それは過信からくるものではなく、自身の持つスキルや経験から考慮したただの事実からくる自信であった。


 故にこれから行うのはただの作業である。



 弥堂は強烈な自負を眼光に宿し希咲へと牙を剥く。


「その様子だとどうやら観念をしたようだな。自分でもわかっていると見える」


「いや、ちょっとわかんないっすね」


「とぼけても無駄だ。お前の証言にははっきりと矛盾がある」


「そっすか」


 普段目力の強い彼女が色のない目で投げやりに返事をする姿が、弥堂にはギロチンに掛けられ己の最期を悟った罪人のように映った。


「お前は俺が手を押し付けて『むにっ』とした感触を自身の胸で感じ取ったと、そう言ったな?」


「そっすね」


「であるならば、その時には同時に俺の手にも『むにっ』とした感触がするはずだ。そうだな?」


「そう――だけど、生々しいこと言わないでくんない? 何が言いたいわけ?」


 自分の胸を勝手に触ってきた男に、その感触の感想を目の前で述べられることについて、彼女は嫌悪感を隠しもせず表情に出して示すが、弥堂にはその姿は真実を突き付けられることに怯える犯人のように見えた。


「認めたな? ではそれが共通認識であるということを前提とした場合、お前の発言には矛盾が生じる」


「回りくどいわね。どうせまたわけわかんないこと言うんでしょうからさっさとしなさいよ」


「本当にいいのか? 今なら俺の胸の裡に留めておいて、お互いなかったことにしてやることも吝かではないぞ? 無論、お前の態度次第だが」


「…………あんたって敵対したら断固として許さんって感じのスタンスじゃなかったっけ? あたし段々わかってきたの。あんたさ、基本的に問答無用で頑固な性格なのは間違いないと思うんだけど、そうやって言ってることが変わる時はろくでもないこと企んでる時だって。ねぇ、当たってるでしょ? どうなのよ?」


「…………」


 都合の悪い真実を突き付けられた被告人のように弥堂は黙秘権を行使した。希咲はしらーっとした目を向けるがそれ以上の追及はしないでおいてあげた。

 だがそれにも関わらず、自己中心的な男は自分の追及したいことだけはしっかりと主張すべく、なかったことにして再び口を開く。


「都合が悪くなったからといって話を逸らすな」


「よくも真顔で言えるわね。あんたのメンタルどうなってんの? アスリートなの?」


「アスリートではないがプロフェッショナルではある」


「だからなんのプロなのよ……あんたそれ言いたいだけでしょ」


「うるさい、黙れ」


「はいはい、んじゃ言いたいこと言いなさいな。どぞー」


「余裕ぶっていられるのも今のうちだ」


「わかったわよ。ちゃんと聞いたげるから。で? なんだったっけ?」


 呆れた口調ながらもどこか楽し気な様子で、下から覗くようにこちらの顏を見てくる希咲だが、弥堂の言うとおりすぐに顔色を変えることになる。


「ふん、難しい話ではない。先程の話を踏まえた上で俺の手には『むにっ』などという感触はカケラもなかったというだけのことだ」


「は? あんたまだそんな――」


「――俺の手に伝わってきたのは『ふにっ』という柔らかなものではなく、もっと硬くて分厚い布の感触だけだ」


「なっ――」


 名探偵が真犯人を暴き出す時のように人差し指を突き付けてくる弥堂の口からでた言葉に、希咲は絶句し頭が真っ白になる。


「俺は女の乳房にゅうぼうには多少の見識があるが、あれは乳房にゅうぼうの感触などではなかった。推察するに希咲 七海――貴様は胸部に見た目のサイズを誤魔化す類のおブラを着用しているな? そしてそれだけでは飽き足らず派手に詰め物もしているだろう? 俺の手を誤魔化せると思うなよ」


 弥堂はデカイ乳も小さい乳も嗜んだことがある己の経験に基づいた記憶に絶対の自信を持っていた。しかしながら、そのデカイ乳と小さい乳の持ち主である、紅髪のガラの悪い女とくすんだ金髪の無表情メイドさんがその絶対の自信を持つ記憶の中で、道端にぶちまけられた生ゴミを見るような眼でこちらを見ている気がしたが、気がしただけなら気のせいなので彼は気にしなかった。


「…………」


 ひた隠しにしていた自身に纏わる重大な秘密を、少人数しかいないとは謂え公の場で露わにされた希咲は無言で俯く。


 少し離れた場所から「ほう……」と興味深げで感心したような白井の声が聴こえたが、今の希咲にそれに構う余裕はなかった。


「仮に俺がお前の胸部に触れた手を押し込んだとしても、お前の装備している強固な装甲に阻まれて実際には内部の乳房にゅうぼうには全くと言っていい程に届いてはいなかった。つまり、俺が触れたのはお前の衣服と強化装甲であり、よって今回の件は完全に冤罪であると――「――黙れ」――む?」


 声高な雰囲気で己の無実を証明する弥堂の答弁を遮って、俯いてプルプル震えていた希咲から、先程までの揶揄うように少し楽し気にしていた時とは打って変わって低い声が漏れる。


 地鳴りを轟かせるような暗鬱なオーラを纏った彼女がゆっくりと顔を上げる。


 その眼は攻撃色一色に染まっていた。ガンギマリである。


「殺す」


「なんだと?」


 重大な秘密を暴かれた乙女から端的に殺害宣告を受けた弥堂は訝しんだ。


 可能不可能は置いておいて、このような衆目に曝された現場で殺人を行うメリットを思いつかなかったからである。怒りによって衝動的に犯行に走るにしても、そこまで正気を失わせるような挑発をした覚えはない。

 加えて、このような状況で殺人事件を起こすデメリットが計算できない程に無能な女だとも思っていなかった。


「……気付いてはならないことに気付いたわね…………知ってはいけないことを知ったわね…………」


「…………?」


 彼女が何を言っているのか弥堂には理解出来なかった。


 乙女の、特に思春期の彼女らの身体的情報に無遠慮に男が触れることは基本的にご法度である。それ以外にも本日の放課後に散々彼女に働いてきた狼藉の数々。普通に考えればどれか一つをとっても完全にアウトである。

 それを考えれば、半ば以上有耶無耶にされたようなものではあるが、渋々でも許してくれそうな雰囲気を出してくれていた希咲 七海は十分以上に寛容な少女であると謂える。


 しかし、自分が悪いことをしたと思ってもいない。したことの意味もわかっていない。自分の口に出した言葉の齎す影響を推測出来ない。相手の気持ちがわからない。


 彼がその眼窩の窓から覗いた外の世界に存在するものを視て、彼という人格が収監された小部屋の中で、これはこうであろう、こうなるであろうと考えた認識と、実際に現実世界で起こる出来事には悉くズレが生じていた。


 即ち、弥堂 優輝という男は正真正銘、本当の意味でのどうしようもないコミュ障であった。


「あんたの頭蹴っ飛ばして記憶ごとぶっ飛ばすわ」


 故にこうして人を本気で怒らせる。

 弥堂本人的には、どうしてそうなるという理屈はさて置いても、一応友好関係を結ぼうと会話をしていたはずなのに、何故かこうしてよく相手と戦闘になる。彼の日常にはこういった儘ならない事態が間々あった。


「残念ながら俺は一度記憶した情報は絶対に失わない。それこそ文字通り頭を吹き飛ばしたとしてもな」


「そう。なら――試してみるわ」


 問答無用。


 言葉よりもむしろ希咲の目に込められた強烈な敵意が何よりそれを伝えてきた。


 ここに至ってはどうしてこうなったと考察する暇も最早ない。弥堂も瞬時に迎撃に意識を切り替える。戦闘の判断だけは間違えない男であった。


 ドッドッドッ――とアイドリングをするように脈打つ心臓の音が疑似的に頭に響く中、視線の先に捉えていた希咲の姿がこれまでのように消える。


 そして、消えたと弥堂が認識をした瞬間にはやはり彼女はもう眼前に現れていて、既に足をこちらに振り下ろしてきていた。


 だが、弥堂とて『準備』は既に出来ている。


 彼女の攻撃に対して適切に対応する。


 蒼銀を内包する眼が、先に見せた時と変わらぬ軌道を描く蹴り足を捉えた。



 ズドン――と、超重量物が地面に叩きつけられたような音が響く中、驚愕に目を見開いたのは今度は希咲の方であった。


「な――」


 渾身に近い威力を乗せたはずの蹴りは弥堂の左腕一本で完全に受け止められていた。先程はガードの上から彼の身体ごと吹き飛ばしたのに、それよりも威力を強めたはずの攻撃を片腕で揺らぎもせずに事も無げに防がれた。


「――摑まえたぞ」


『なぜ』という疑問を口にする間もなくガードに止められた足を掴まれる。


「えっ、うそっ、やだっ――」


「――終わりだ」


 肩と首で彼女の足首を固定し、脹脛を巻き込むようにして掴んだ右腕で彼女の膝を押さえながら自らの肩に押し付ける。そうして身動きを封じたまま左の掌を彼女の脇腹に押し当てる。


(やばっ――! 緊急回避――できないっ! 拘束を――ダメっ! 外せない! なら、反撃しなきゃ――)


 焦燥に駆られ行動選択に惑う希咲の思考を一つに纏めたのは、彼女の目に映った自分を仕留めにかかる弥堂の眼であった。だが戦闘下に於いてのその落ち着きはただの思考停止だ。


 蒼銀の膜の奥の黒い、昏い――必殺の意志を持ちながら何の温度も感じさせない無情の瞳。その眼窩の――窓の奥向こうに居る誰かと、『ナニカ』と目が合ったような気がした。


 言い表せないなにかの深みに呑まれ彼女は判断を遅らせた。それはこの局面に於いて致命となる遅延となる。



 零距離――


 人を致傷に至らしめる威を生み出すのに距離を必要としない技法を修めている弥堂にとっては、一見して攻撃を繰り出すような隙間のない密着状態でも状況を終了させるに足る決定機となる。


 先に二度見せたように相手を破壊する威を生み出す為に足先から捩じる。


「――待ってくれっ!!」


 その声が横合いから聴こえた直後――



 ズダン――と、希咲が弥堂の腕に足を叩きつけた時に匹敵するような轟音が轟く。


 先程“零衝ぜっしょう”と呼称した技を放とうと弥堂が床を踏んだ音である。


「――何のつもりだ?」


 その弥堂の口から放たれた言葉は、未だ拘束したままの希咲の目から決して目を離さずしかし、横合いから制止の声を掛けてきた者に対して向けたものであった。


 ハッ、ハッ、ハッ――と、浅い吐息が希咲の口から漏れる音が静まった廊下にやけに鮮明に響いたように聴こえた。


「いやぁ、やっぱり声をあげることは大事だねぇ。間に合ってよかったよぉ。だってそうだろぉ? コンクリ壊すようなトンデモパンチが女子にぶちこまれるとか、そんなのとっても『ひどいこと』だからねぇ」


 弥堂の問いに答えたのは法廷院だった。


「俺は『何のつもりか』と訊いたぞ」


 変わらず希咲の右足を抱えたまま眼前の彼女の瞳を見詰めたままで再度問う。だが法廷院に詰問を投げながらも弥堂の意識は希咲の瞳へと吸い込まれそうな錯覚を覚えていた。



 揺れる彼女の瞳。


 緊張からか、或いは恐怖からか。


 法廷院の『間に合った』という言葉通り、“零衝”を始動させたものの生み出された威を希咲の脇腹にあてた掌から彼女の体内へと徹す前に、攻撃行動を停止し力を逃がすことには成功していた。


 だが実のところ弥堂の練度でそれをするのは極めて成功率が低く、また大変に危険を伴う行為であった。


 力の流れを自由自在に操る弥堂の師のエルフィーネであれば、放ちかけた技を中途で止めることなど造作もないことであるが、未熟な弥堂がそれをした場合、最悪おかしな方向に力を流してしまい、ロックして抱えていた彼女の足を複雑骨折させる可能性すらあった。


 弥堂としては今後手駒にして扱おうとしていた女である。なにも殺すつもりどころか内臓を損傷させる心づもりすらなかった。なので制止に失敗するよりはそのまま腹に打った方がいくらかは安全であったという事実が存在するのだが、幸か不幸かそれを知るのは弥堂のみであった。


 今回制止に成功したのはただの奇跡であり、希咲が無傷でいるのはただ運がよかったからである。



 弥堂はその『運がよかった』という点で、胸中でまた希咲 七海に対する評価を上げた。


 戦いが続く中で長く生き残る為に最も必要なことは、力の強さでも技の精密さでもなく、何よりも運がいいということが重要であった。


 彼の保護者のようなものであったルビア=レッドルーツにそう教えられ、また弥堂自身もこれまでに生きてきた時間の中で、その通りであると実感していた。


 自分が今こうして生きていられるのも運がよかったからであり、そして彼に生き残る術と戦う術を教えてくれたルビアやエルフィーネもまたきっと――


 こうした事実事情に関しては当然希咲は知らないはずで、しかし零衝の威力に関しては先に見て既知である。故に、それが自身の身体に叩き込まれればどのようなことになるか――それは容易に想像が出来て、だからなのか動揺に揺れる彼女の瞳が弥堂の眼に映っていた。


 気に掛かったのは彼女の瞳の美しさ――ではなく、その表面に写った自分の目である。


 激しく感情に揺らぐことなどもう何年も記憶にはない。他人からよく無機質だの無感情な目だのと言われていることは理解しているし、自分でもそのように認識をしている。


 彼女の――希咲 七海の絢爛さを煌めかせる瞳が今、彼女の感情の動きで揺らぐことによって――その彼女の瞳の中で、感情の揺らぎのない自分の眼が揺れている。そのように視える。


 ただの当たり前の現象だが弥堂はそれに不思議な感慨を得た。


 今、揺れる瞳で揺れる弥堂の眼を映す彼女の目玉を嵌め込んだその眼窩の向こうでは、希咲 七海には弥堂 優輝というモノがどのように見えているのだろうか。


 先刻、水無瀬 愛苗を前にして抱いた意味のない問いを、今度は希咲 七海に対して抱く。意味のない思考だと断じたはずなのに何故か再び脳裡に浮かぶ。

 無駄だとわかっていることについて考えることをしなくても、こうして意図しなくとも何度も同じことを思いついてしまう。


 人間とは全く以て非効率的な生き物だと弥堂は思った。



 こうして希咲と見つめ合いながら自問することも意味がないし、まともに会話が成立しない法廷院に対して問いかけることも同様に意味がない。


 意味がないことばかりをしている。


 目的の為には手段を選ばず、そしてその手段は効率的であればある程いい。そう考える弥堂にとってこの非効率的な状況はとても苛立つものであった。


 もっと謂ってしまえば、現在設定しているその目的ですら本当はどうでもよく、ただ無常な日々と無情な自分を誤魔化しているに過ぎ――


「――もう、いいんだ…………」


 思考が途切れる。



 普段努めて、意識して考えないようにしている事柄が心中に過ったが、それは法廷院からの返答により中断され、強制的に回帰する。


 スイッチを切り替えたようにもう希咲の瞳の中にも興味が湧かなくなっていたが、しかし法廷院からの言葉は想定していたとおり、意味のわからないものであった。


「もういいんだよ……狂犬クン……」


 再度紡がれた言葉は心なしか、今日これまで見てきた彼という人物にそぐわない穏やかな声音であったが、やはりその真意は弥堂にはわからなかった。


「意味のわかる言葉を話せ」


「目的を忘れてやいないかい? それはもう達せられた。だからもう、いいんだよ……」


「目的……だと……?」



 目的。



 それは今しがた脳裡に過っていた言葉だった。


 そもそも、今ここでこうしていることの目的とは何だったであろうか。


 今現在での直面している状況に対する弥堂の目的と謂えば、希咲を金づるにすべく友好関係を結ぶ為に彼女と戦闘をしている。本人は疑問を持っていないがちょっと意味のわからない目的と手段であった。

 だが、弥堂の内心など知る由もない法廷院の云う目的とは違うであろう。


 では、もっと大きな目的のことか。


 この学園で過ごしこの状況に介入した風紀委員としての目的のことか。


 それともその風紀委員であることすら手段としている、弥堂が所属するサバイバル部としての目的のことを指すのか。



 それも違うであろう。


 それこそ法廷院には知り得ないことであるし、逆にそれを知っているのであれば一度は彼らを見逃すことにしたが、そうするわけにはいかなくなってくる。


 弥堂の法廷院に対する警戒度が上がる。



「そうだよ。何だかよくわからない展開の連続で忘れかけていたけど、思い出してみて欲しい。そもそもさ、狂犬クン。キミが希咲さんと戦っていたのは彼女のパンツに関する真実を証明しようとして彼女を怒らせたからじゃあないか。だってそうだろぉ?」


「おぱんつ……だと……?」



 そういえばそうであった。


 弥堂は心中であったが自身の失念を認めた。



 この現場を治めることになんのメリットも生じないことから面倒になって、そういえば適当にそんなことを言っていた。


 法廷院をはじめとするこの鬱陶しい連中におぱんつを見せてとっとと追い払えと。クラスメイトの女子である希咲にそう命じたところ、何故か怒り狂った彼女が襲いかかってきたのであった。


 希咲的には、その理不尽な謂れのない命令よりも、弥堂が何故か所持している証拠品という名の彼女のパンチラ画像が大問題なのだが、弥堂としては自身がその証拠品を所持していることの正当性についてカケラも疑いを持っていなかった。


 法廷院はそのことを指して目的と発言した。そしてそれはもう達せられたと。だが、それは――


「どういう意味だ?」


「んー?」


「目的を達したとはどういうことだと訊いている」


「あぁ」


 少し前までの常に饒舌な様子とは打って変わって感嘆詞しか口に出さない法廷院の反応は鈍かった。弥堂の剥きだされしモノを肉眼で目視した後の白井の様な穏やかな表情ながら、しかし視線の置き所は定まらなく何かに気をとられているように見える。


 法廷院が背後の高杉へと目配せをすると彼は黙って首肯し車椅子を押してゆっくりとこちらへ近づいてきた。

 それに続くように『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』の他のメンバーも歩き出す。


 法廷院だけでなく西野と本田も穏やかでどこか満たされた表情ながら、だが視線だけは定まらない。白井は何故かニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべていて、高杉は無表情でそっぽを向いている。


 彼らの言動は弥堂にも希咲にも不可解であったので思わず二人は目を見合わせる。弥堂は特に何も思わなかったが、希咲の方はこいつと仲良く目を合わせているような状況ではなかったと思い出すと、ハッとして視線を逸らす。


 しかし逸らしたはいいもののその置き所に迷い、ややあってからこちらに遠からず近からずな位置で立ち止まった法廷院たちの方へと仕方なく向けた。


 高杉はともかく、他4名の何だかよくわからない態度が希咲には気味が悪いと感じられた。目を泳がせる男3人の視線が自分に向く回数が多い気がするし、白井に至っては露骨に自分をニヤニヤして見ている。端的に言って、きもかった。


 弥堂から攻撃を受けそうになったショックと『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』のメンバー達の不可解な態度により、彼女は一つ重要なことを自分が失念していることに気付いていなかった。


 希咲が居心地の悪さを感じている中、法廷院が弥堂からの問いに答えるべく口を開く。



「そうだね……その質問に答える前にまずはお礼を述べておこうか。狂犬クン、ありがとう」


「あ?」


 弥堂の口から彼らしからぬ意味を為さない感嘆詞だけが零れる。彼の対面の希咲も変貌した法廷院の態度に訝しんで眉を顰めた。


 どうして弥堂といいこいつらといい、脈絡もなく言動がコロコロと変わるのだろうか。ごく一般的な感性を持つ希咲としては、とてもではないが着いていけない。


(こんな奴らに着いていきたくもないけど‼)


 また会話が拗れて進まなくなるのを嫌って悪態は心の中に留めた。



「キミの言う通りだったよ、狂犬クン。キミが正しかった。ボクは大変に感銘を受けたね。こんなことがあるのか――と。まさに目から鱗だよ。ボロッと落ちたね。だってそうだろぉ?」


「そうだな。だが啓蒙とは無料ではない。感銘を受けたのならばお前は金を払う義務がある。わかるな?」

「こらっ! あんたはまためんどくさいからって、すぐそういう適当なこと言う。絶対何のこと言ってんのかわかってないでしょ!」

「…………チッ……」

「舌打ちすんなこらっ」


「キミ達ほんと仲いいねぇ」


 隙あらばすぐに口論を始めようとする弥堂と希咲に、法廷院がのほほんとそんな感想を述べるが即座に希咲に睨まれ、彼は視線をサッとやや下方に逸らした。



「おい、とっとと訊かれたことに答えろ。こいつが煩くてかなわんだろうが」

「だからこいつって言わないでって言ってんでしょ! あたしあんたの女じゃないんだからねっ!」

「お前ほんとうるせぇな」


「やっぱり仲いいじゃないのさ」


 目線をやや下方に向けたまま今度はボソッと呟かれた法廷院の言葉は、尚も口論を続ける二人の耳には届かなかった。


 やがて、若干うんざりした表情の弥堂がやや肩越しに横目でじろりと法廷院を見遣る。


 法廷院たちは弥堂に右足を抱えられたままの希咲にほぼ正対するような位置取りをしているので、未だ彼女の足を抱えたままの弥堂が彼に催促の視線を送るにはこのように少々窮屈な体勢で目線を向けるしかなかった。


「コホン――えーっと……ど、どう伝えたものかな……ねぇ?」


 弥堂の視線を受けた法廷院は何故かもじもじとしながら、言葉選びに迷い仲間たちに助けを求める。

 法廷院の問いかけを受け、何故か西野と本田までもじもじした。


「こっ、困りますよ代表。僕の口からはとても……」

「そ、そうですよ! ちょっとLvが足りないというか……代表が言って下さいよっ」

「えぇー、それを言ったらボクだって火力不足だよぉ。だってそうだろぉ?」


 男3人、もじもじとしながらもどこか和気藹々と盛り上がる。困ると言いながらも顏は若干嬉し気で、視線は弥堂や希咲と目を合わせないような微妙な高さでキョロキョロとさせている。


 挙動不審な彼らの様子に弥堂が苛立たし気に舌を打つが、彼が話し出す前に希咲が口を開く。彼女も大分焦れていたのだ。


「なんなのよ、キモイわね。はっきり言いなさいよ」


「あ、いいのかい?」


「え?」


 希咲からの追及に委縮するのではなく、それまで何かを言いづらそうにしていた彼らはむしろ、どこか助かったと――肩の荷が下りたとばかりに顔を輝かせた。そのような反応をされると希咲としては困惑するしかなく勢いを失う。


「本人が許可してくれるなら遠慮なく言わせてもらうけれども、いやね――まぁ、言うというかなんというか…………ふへへ……」


 遠慮なくと言いながらも変わらず言葉を濁し、法廷院はどこか小物臭い曖昧な笑みを浮かべながら、あちこちへキョロキョロさせていた視線を希咲へと向けてきてそのまま固定する。

 西野や本田も同様の小物スマイルでこちらを見てきた。


「へ? あたし?」


 薄気味悪い笑みを浮かべた男3人に一斉に視線を向けられ希咲はたじろぐ。が、すぐに違和感に気付き眉を顰めた。


 というのもこの連中、希咲の方を見てはいるが誰一人として自分の顏を見ていない。どこか不自然に目線が若干下に――つまり下半身に向いている。


「なんなわけ?」と怪訝に思いながら彼らの視線の先を捉えようと、自らも目線を下げようとして、しかしそうするまでもなく気付く。


 気付いたというか思い出した――自分が現在どのような状態なのかを。


 サーっと顔色を悪くすると彼女はバッと首を回した。目線を向けた先は下ではなく横――すぐ隣にいる男を見た。


 弥堂 優輝。クラスメイトで風紀委員のクソ野郎だ。相も変わらず無表情でつまらなさそうな仏頂面をしている。何故か無気力には見えないがいつもと変わらず無感情で何事にも動じない落ち着いた目をしている。その様子がやけに腹立だしく感じたが今はそれはいい。


 問題はこの昆虫男ではなくこいつが抱えているものだ。


 色白な肌が大部分を占めて紺色のソックスを着用しているそれはどう見ても女の足だった。わかってるけど。


 希咲は苦し紛れに右足のつま先をピョコピョコ動かしてみた。


 当然弥堂の肩に乗る形で抱えられているその足のつま先がピョコピョコした。当たり前だけど。


 その際に室内シューズに包まれたそれが彼の頭に少し触れて、癪な無表情男が少しだけ不愉快そうな顏をした。それが少しだけ嬉しかった。



 しかし、今はそんなことで満足して現実逃避しているわけにはいかない。


 ここに至り、彼女は完璧に今の自分がどのような体勢でいるのか認識をする。


 先程弥堂に渾身の右のハイキックを放ってそれが阻まれ、そのまま彼に蹴り足を摑まれたままであった。

 正確な数字を希咲は把握していないが、180㎝に近い長身の彼の頭の高さにまで伸ばした足を、そのまま彼の肩に担がれるような状態でガッチリとロックされている。


 I字バランスとまではいかないが、だがそれに近いほど足を真っ直ぐに、かなり上方に伸ばしたままの姿勢をキープすれば、制服のスカートを短くして着用している自分の正面側から今のこの姿を見られた場合にどのようなことが起きるか。


 なるべく現実を認めたくない希咲が出来るだけ遠回りに思考を回していると、厭味な女が無慈悲にトドメを刺しにきた。


「ふふっ、随分といい恰好じゃない。大サービスね」


 つまり、大股開きで大解放していた。


「ぎゃああああああああああああぁぁっ‼‼」


 あらんばかりの声量で悲鳴を上げる。


 普通に喋ってもよく通る声をしている彼女に大声量で至近距離で叫ばれ、弥堂のお耳はないなった。

 キーンと耳鳴りに苛まれ顏を盛大に顰める彼の様子を確認して溜飲を下げるような余裕は彼女にはなかった。


 遅れて「アハハハハハハハ」と、他の女が自分と同じ場所まで堕ちてきた事実にご満悦な様子で哄笑をあげる狂った女がいたが、そんなことにも構っていられる暇はない。


 無意識に弥堂の首に足首から先を絡めて姿勢を保つと、右手でお尻側を左手で前側を抑えてスカートごと股間を隠す。


「みっ、みるなっ! ばかっ! みないでっ‼」


 早くも涙目になりキッと睨みつけると、大人しい童貞たちは素直に従いサッと紳士的に目を逸らした。


 彼らの視線が外れたことを確認するとすぐに弥堂へと再度顔を向ける。


「はっ、はなして! いつまで掴んでるの! はなしなさいよっ!」


「あ?」


 若干耳がまだ本調子でない弥堂は不愉快そうにしながら、不可解な要求をしてきた少女に聞き返す。


「『あ?』じゃないでしょ! なにしてくれてんのよ! 早く放しなさいよ! へんたいっ!」


「意味のわからんことを言うな。何故放さなければならん」


「なんでじゃないでしょ! ぱんつっ! パンツ見えちゃってるのっ!」


「それがどうした」


 うら若き乙女として当然の要求をするが、価値観も倫理観もズレている天然セクハラ野郎にはまったく意図が通じない。


「どうしたじゃないわよ! やなのっ! ぱんつ見られるのやだっ! はなしてよっ! やだやだやなのっ!」


「阿呆が。せっかく摑まえた敵の拘束をわざわざ解いてやる間抜けがどこにいる」


「敵っ⁉」


 割と緊張感のあるバトルの末に希咲の足を捉えてからこっち、大分ゆるい空気になりかけていたが、この男に限っては微塵も戦闘レベルを解除してはいなかった。


 一欠けらの油断も感じさせない鋭い眼光で、瞼に涙を浮かべ羞恥に震えるクラスメイトの女の子を突き刺した。


「敵だろうが。自分から攻撃をしかけてきておいて何を今更」


「ちがうっ。てきじゃないっ! もう蹴らないからぁっ!」


「ふんっ、この俺が敵の言うことをそのまま信じるように見えるのか?」


「みえないっ! みえないけどあたしのパンツみえちゃってるからしんじてっ!」


「わけのわからんことばかり言うな」


「わけわかるもん!」


「わけわかんねぇよ」


 パンツ見えちゃってる系女子が必死に交渉を持ち掛けるが、鉄面皮の男の意思はその硬い表情の如く揺らがない。彼はプロフェッショナルであった。


「もうわかったからっ! あたしの負けでいいからっ! もうしないからやめてっ!」


「ほう」


 涙ながらに訴えかけてくる少女の言い分は未だにカケラも信じてはいないものの、しかし彼女の敗北宣言には一定の興味を示した。


「ねぇーっ! おねがいっ! ホントにやなの。あたしこんなのむりなの」


「何が無理だというのだ」


「なにって、だってパンツ見えちゃってるって言ってるでしょ! なんでわかんないのよ⁉」


「おぱんつが見えたから何だというのだ」


「はずかしいのっ! あたしパンツ見られたくないのっ! 当たり前でしょ! もうやだあああ!」


「恥ずかしい、だと?」


 そろそろ本気で泣き出してしまいそうな様子で希咲は訴えるが、絶望的に物分かりの悪い男は「こいつは何を言っているんだ?」と、本気で理解していない様子で訝しむ。


「戦いの最中で、恥ずかしいから拘束を解けだと? もう少しマシな嘘を吐け、素人めが。ここは戦場だぞ」


「学校よっ‼」


「ぬう」


 希咲は現在乙女として大変に困っている状況にあったが、弥堂も弥堂で少し困っていた。


 あのような一撃で成人男性の首の骨を粉砕する程の蹴りを放つ女が、戦いを仕掛けておいて拘束されたら、おぱんつが見えて恥ずかしいから許してだと?

 そのような話は弥堂の持つ常識や経験に照らし合わせると、とても考えられないようなことであった。


 だが、自分にこうして泣きそうになりながら縋ってくる少女の様子に、嘘を言っているようには感じられない。嘘を言っているようには見えないのに、嘘のようなことを要求してくる。どうしたものかと彼にしては珍しく逡巡した。


 一応はまだこの少女と友好関係を結んで資金源とするプランは変更してはいない。面倒だからいっそ締め落して縛り上げておいて、目を覚ましてから対応を考えるべきかと、物騒でいい加減な選択肢が浮かび上がる。


「ねぇ、弥堂? 蹴っちゃったのは謝るからさ。もうやめよ? ね?」


「だが――」


「――あたしホントにむりなの……男の子にパンツとか見せたことなかったのに……こんなの……こんなのやだぁ……」


「ぐっ……し、しかしだな……」


 大きなおめめに悲痛に大粒の涙を浮かべ、終いには鼻をグスグス鳴らしだした希咲の姿に弥堂は自分でもよくわからない居心地の悪さを感じ始めた。


「…………恥ずかしいと、言ったな? だがキミはギャルだろう? ギャル種というのはおぱんつを対価にして金を得ることを生業としていると識者に訊いた。この程度を恥ずかしがっていたら商売にならんだろう。違うのか?」


「あたしそんなことしないもんっ! なんでみんなすぐそういう風に決めつけるの⁉」


「だが、事実として実例がだな――」


「――ねぇ、しんじて? あたし、そんなことしない。あんたも、あたしがそういうことするように見えるの……?」


『見える』


 そう答えたかったし、反射的に即答しそうになったが、この場面でそんなことを言おうものならば、また彼女が大泣きして対話不能になることはいくら弥堂と云えども予測出来ていたので、それを避けて口を噤んだ。



 弥堂 優輝は焦っていた。



 事ここに至って彼はやはり一切の罪悪感も感じていないし、泣いている希咲に同情もしていない。


 だが、何故か彼女に対していつものように冷酷な対処が出来ない。そんな自分に起こっている原因不明の異常が大変に首の据わりを悪くした。


 その為、余計な一言を口走ってしまう。


「しかし俺がここに介入した時、キミは自分からスカートを捲って奴らにおぱんつを見せようと――」


 だが、半ば苦し紛れのその言葉は最期まで言えなかった。



 希咲は何も言ってはいない。発言の途中で彼女に口を挟まれ遮られたわけではない。


 ただ、彼女を見て――彼女のかたちを、彼女の表情かおを、彼女のを見て、その右の眼窩から大粒の涙が一雫だけ溢れ、瞼から漏れて頬を伝い零れ落ちたのが見えて、思わず言葉を止めてしまった。


 彼女が――希咲 七海が傷ついたと、自分が傷つけたと弥堂にすら解るほどに、弥堂の眼に写った彼女の表情は傷ついているように見えた。


 だが、弥堂が言葉を途中で切ったのは、言の葉のナイフのその切っ先を彼女の裡へと力づくで押し込むのを躊躇し踏み留まってしまったのは、なにも彼女を傷つけたことに罪悪感が生じたわけでもなければ、なにかしらの配慮をしたわけでもない。


 なんのことはない。


 ただの既視感からであった。



 記録を取り出し広げて再生するまでもなく、はっきりと記憶をしている過去の――既に通り過ぎたいつかの情景と重なって、或いは重ねてしまって、それを最後まで刺しこむことが憚れてしまったのだ。


 この既視感こそが先程から希咲に対して感じていた言い知れない遣り辛さの正体であることに気付き、そしてたかだかその程度のことで手を緩めた自分を強く恥じ、同時に激しく苛立った。


「チッ」と思わず舌を打つとそれに肩を跳ねさせて希咲が怯えたような仕草を見せる。それに益々苛立ちを募らせるが、それ以上にやはり遣り辛さが勝った。


 普段あれだけ強気で生意気な口をきく癖に、こうして急にしおらしい態度を見せたり、泣くと言動が幼くなったり、こういった部分を彼女と――かつての師であり最も自身に近しい女であったエルフィーネと重ねてしまい、弥堂は段々と投げやりな気分になっていく。



 この状態を彼はよく知っていた。


 彼の敬愛する上司である廻夜部長風に表現するのならば、『パターン入った』というやつだ。勿論『敗けパターン』である。


 なので彼は諦めた。



 諦めて彼女を――記憶の中のメイド女ではなく、目の前の希咲 七海を見る。


 じっと見つめられて、彼女はぐしぐしと鼻を鳴らしながら「なによぅ」と情けない声を出して上目を遣う。


 変わらず涙を目に溜めて眉を下げる彼女の表情を見て、弥堂は一度だけ物凄く嫌そうな顔をしてからわかりやすく溜め息を吐いた。


 そして希咲の顏に手を伸ばす。



 左手は変わらず希咲の足を拘束したままで、右手の開いた掌を見せながらゆっくりと顔に近づけてくる。

 またもこの迷惑男が突然脈絡のない行動を見せてきて、希咲は「えっ? えっ? なにっ?」と激しく混乱した。


 少し前の正門前での騒動の時に水無瀬に対して同じような行動をした際と同様、弥堂としては触れられるのが嫌なら勝手に避けろという意味を込め、拒絶する猶予を与えるためにわざとゆっくりと手を近づける。


 一応は頭のおかしい男なりに女性に対する配慮をしているつもりなのだが、やはりその意図は誰にも伝わらない。

 というか、避けろも何も希咲の足を拘束したままなので、例え彼女が逃げようとしてもそれは叶わないのだが、そういった細かいことはこの男にとってはどうでもよく、その配慮はやはりどこにも行き届かない。


 この時、希咲は首を絞められると思い咄嗟に身を捩るが、片腕でもがっちりロックされた足が外せなくて恐怖した。

 ついでに周りで二人の様子を見ていた法廷院たちにも、頭のおかしい風紀委員が突然同じ学園の女生徒の殺害に及んだようにしか見えなくて、彼らも目玉を剥いて驚愕した。



 そのように勘違いをして首に意識が向いていた希咲は、とうとう弥堂の手に捉えられ、しかしその触れられた箇所が思っていた場所ではなかった為に今度は驚きで硬直する。


 開いた右手の親指と人差し指で頬を挟むように顎のラインから触れ、そのまま撫でるように上げていく。


 親指で先程彼女が流した涙の痕を拭うようになぞる。


 やがて彼女の下眼瞼へ辿り着くと今度は人差し指で、まだ涙が残ったままの左の瞼の下の縁をなぞりその雫を掬う。


 その作業が終わると一欠けら程の未練も見せずに彼女の顏から手を離した。



 暴挙とも云えるほどに好き勝手されている希咲だが、怒るでもなく只管に頭上に『⁉』を多数浮かべて混乱していた。


 そんな彼女にも興味を示さず、弥堂は人差し指の爪に載せた彼女の涙を見詰める。



 エルフィーネが自分に何と言っていたか。


 やはり記録を起こさずともはっきりと記憶している。



『敵でさえないのであれば基本的に女には優しくしなさい』


『男女問わずやはり敵でないのであれば年下には優しくしなさい』


 これだけではないが、弥堂に人間の皮を被せることに躍起になっていた彼女からは、特にこれらをうんざりするほど聞かされたように憶えている。


 彼女の台詞を彼女の声で浮かべながら、彼女ではない少女の顏を目に映す。


 腹いせに指を弾いて彼女の前で彼女の涙を放り捨ててやると、涙は虚空に溶けて『世界』の一部になった。


――ような気がした。



「おい、希咲」


「はっ、はいっ」


 唐突に声をかけられ希咲は何故か緊張したように強張った返事をするが、彼女の様子を気にも留めず彼は言いたいことだけを言う。


「お前は俺の敵か?」


「え?」


「まだ敵対する意志はあるのか、と訊いている」


 突然投げかけられた質問の意図が掴めない様子の彼女に重ねて問う。


「え、えっと……ない、もうしない。元々どうしてもケンカしたいくらいあんたのことキライってわけじゃないし……だからもうこれやめて? ホントに恥ずかしくてやなの」


「そうか」


 ひどいめに合わされて泣かされた挙句にわけのわからないことまでされて、ここで彼と会ってからこっち散々に振り回されている。そんな混乱の最中でも質問に対して先に答えを述べ、それから理由や自身の気持ちを伝えるという、極めて理性的で理知的な回答を希咲はする。


 にも関わらず、自己中心的な風紀委員の男は至極どうでもよさそうに相槌をした。


 弥堂にとっては質問に対しての返答が『YES』か『NO』のどちらなのかが重要であり、その答えに至った相手の経緯や心情などにはこれっぽっちも関心がないのだ。



 彼の質問は続く。


「次だ。お前は俺より年下だな?」


「……? なに言ってんの? 同じクラスじゃない。あんた留年でもしてるわけ?」


「していない。こんな所に4年も5年も通っていられるか」


「いみわかんない。あんたガッコきらいなの?」


「…………」


「……また無視するし。なんですぐ無視すんのよ……べつにいいけど……じゃあどういうことなのよ。タメなのに年下とかいみわかんないっ」


 自分は訊きたいことは好きに訊いてくるくせに、こっちの質問にはめんどくさそうにしてちゃんと答えない。

 そんな身勝手な男に眉根を寄せて「むー」と抗議の視線を送るが、答えを待っていても無駄そうなので合間に鼻をすんすん鳴らしながら、弥堂からの質問の意図を考える。


「……えっと、あんたの誕生日って次の日曜よね? あたしは7月3日だから、そういう意味なら一応年下? ってことになるかもだけど……そういうこと?」


「そうか」


 希咲からの答えに正解とも不正解とも告げず自分だけで納得をする。



 何故彼女が自分の誕生日を知っているのかという点は多少気にはなったものの、それはこちらも同じことで下手に藪を突きたくなかった為にこの場では聞かなかったことにした。


 そもそも質問という形をとったものの、実のところこれはただの確認作業であった。

 元々彼女が年下であることは知っていたが、無駄な抵抗のつもりで念のため本人に形式上訊いてみただけのことである。


 これから何をするかはもう既に決めているようなものではあるものの、弥堂はそれをやりたくないが為にこうして『それをするための理由』造りをしていた。



 弥堂 優輝という男は理由と必要性さえあればどんなことでもする男であるが、やりたくないことや必要のないことをする場合は、それをする必要があると自分を納得させる為にこのようにあれこれと牽強付会こじつけのような理由付けをして折り合いをつけるという、他人からすれば面倒くさくて厄介で傍迷惑な習性を持っていた。



「では、お前は敵ではない年下の女、ということだな?」


「そう、だけど……ねぇ、これ一体なんの――」


「――そうか。じゃあ、仕方ないな」


「――は?」


 どこまでも会話相手を置き去りに、情報の共有も感情の共感もないまま勝手に一人で話を進めて勝手に一人で納得をする。しようとした、が――


「――で、でも……」


「あ?」


「誕生日はそうかもしんないけど、絶対あたしの方がおねえさんなんだからっ……」


「…………」


 希咲にとっては弥堂の内心など知る由もないのだが、せっかく解放してやるための意味づけをしていたのにそんな負け惜しみを言ってくる。

 弥堂としては珍しく口を開けたまま彼女の顏を見た。


 負けず嫌いなのか何なのかは測れないが、綺麗な輪郭を描く瞼の縁に涙を溜めながらも弥堂を上目に見て、精一杯眉根を寄せて挑戦的に眦を上げてくる。


 反射的に口から出そうになった反論の言葉をどうにか溜め息でどこかへと流すことに成功したのは、自発的な自制や泣いている希咲への配慮ではなく、記憶の中の女にそれを強く咎められた気がしたからだ。


(うるせぇな、わかってるよエル……)


 心中でここには居ない彼女に悪態をつく。


 今目の前でベソをかく希咲と、過去に自分の中で大きな存在であった女とを重ねて見てしまって、弥堂は現在このような無様を晒してしまっている。

 しかし、半分以上泣きながらもこのような子供染みた口ごたえをしてくる希咲の姿に、エルフィーネなら一度泣いたら絶対にこんな態度をとってくることはないなと、ブレながらも重なっていた輪郭の逕庭けいていが拡がったことに何故か安堵を得た。


 奇しくもそのことで弥堂の中では折り合いがついた。



「ねぇ、お願いだからもう放してよっ」


「いいだろう」


「へ?」


 会話が成立している手応えがまったくない上に、自身が置かれている現状も相まって多少強めに嘆願をしたものの、まさか承諾されるとは考えていなかった希咲は目を丸くした。


「お前を解放してやると言ったんだ」


「そう……なの? なんで……?」


「お前が放せと言ったんだろうが」


「いや、そう、なんだけど……あ、いや、いいや。とりあえず先に放して」


 彼が翻意した理由は気になるものの、またわけのわからない話をされてこのままの体勢を維持されては敵わないと、聡明な彼女は身柄の解放を優先させた。

 ただ、彼が譲歩する姿勢を見せた理由をもしも希咲が知れば、それはそれで怒り狂うことになるであろうが。


 勝手に昔の女と重ねられるなどトップオブトップに失礼な行いである。

 幸か不幸か今の希咲には弥堂の心中など知る術がなかった為、彼女自身が認知している本日の放課後にあったひどい目の一つとしてはカウントされなかった。


 まぁ、知ったところでこの男と付き合っているわけでもなんでもないので、『うざっ』『きもっ』以外の感想などないのだが。


 しかし、彼が何を想いこのような行動に出たのか知らないのにも関わらず、希咲は超常的な女の勘で自分を何故か物凄く嫌そうな顏をして見つめてくる男にとてつもなく不愉快さを感じた。


 かなり切実に解放を望んではいるものの、この男の人間性に一切の信用がないので正当な要求をしたところでそれを呑んでもらえる望みは薄いと思っており、だからこそこんなにも絶望感に苛まれていたのだ。

 希咲としてはこの好機を逃すわけにはいかない。故に、大変に不愉快で業腹ではあるものの、ここはとても慎重な対応が求められる。



「解放はする。だが、その前に最終確認だ」


「むー、なによぅっ。早くしてよぉ」


 さっさとしろと怒鳴り散らしたい気分だが、今はこの卑劣なセクハラ男の機嫌を損ねるわけにはいかない。


「お前が身柄の解放を望むのは、あくまでもおぱんつを見られて恥ずかしいからであり、騙し討ちをする為ではないということだな? 嘘はないな?」


「うそじゃないっ! ホントにはずかしいし、やなの!」


「そうか。では神に誓えるか?」


「神っ⁉ なんでっ⁉」


「む、貴様誓えんのか? なにかやましいことがあるのか?」


「ないっ! ちかうっ! ちかえるからっ!」


「では誓え」


「えっ⁉ …………え、えっと……かっ、神様っ、あたしはパンツ見られてはずかしいですっ!」


「俺の言うこともきけるな?」


「きくっ! きくからっ! だからもうはなしてっ‼」


「よし、いいだろう」



 早く解放されたい焦燥感とようやく解放された安堵感から、どさくさに紛れて不穏な約束までさせられたことには気付かず、一体何の神に何を誓わされたのかもわからないままではあったが、希咲は拘束されていた右足を解放される。


「もう……なんなのよぉ……」


 言いながらへなへなと腰から脱力し、またも床にぺたんとお尻をつけて座り込んでしまった。


 少しの間、ぐしぐしと目元を擦り鼻を啜っていたが、割とあっさり調子を取り戻すと、


「あんた、絶対許さないからねっ」


 すぐにキッと恨みがましい視線を向けてそう言ってくる。

 そんな彼女に、弥堂は『ほれみろ、やっぱり嘘じゃねぇか』と思ったが、面倒なので口に出すことはしなかった。



 一応はこれで彼女との争いは解決したと弥堂は認識したのだが、今の彼女のコンディションを考慮するとこの場ですぐに、アホを騙して金を巻き上げる美人局のキャストをやれなどと言っても話をスムーズに進めることは難しいであろうと判断をする。


 馴染みの売人を聞き出す作業についても時間がかかるであろうし、出来れば場所は密室が望ましい。色々とツールも使うことになるかもしれないし、いずれにせよ準備が必要となる。


 とりあえず今日のところは『なんでも言うことをきく』という言質を録っただけでも、充分に成果を得たということにしておこう。そう考えた。

 もちろんそこまでのことを希咲は一言も言ってはいないのだが、弥堂の中ではすでに拡大解釈されていた。


 もうじき完全下校時間を知らせる時計塔の鐘も鳴る頃であろうし、この現場ももう潮時だ。


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