序-24 『膠着瞞着』


「ふん……さっき胸を触っただのと言ったな。それは確かか? 痴漢冤罪は許されざる大罪だと俺の所属する部活動の部長が仰っていたぞ。確かな話なのか? 勘違いでしたでは済まされんぞ」


「かっ、勘違いって、さわったじゃん! 自分のことでしょ! しらばっくれるつもり⁉」


「俺の記憶にはないな。そんな証拠があるのか?」


「しょ、証拠って……そんなの…………なんであんたたちクズってすぐ証拠とか言うわけ⁉ そんなのズルいっ! 男に触らしたことなかったのにっ‼」



 放課後の私立美景台学園の廊下にて、まるで通勤時の駅のホームで稀に見かける光景のように、一人の男と一人の女子高生が『触った』か『触ってない』のかと言い争っていた。



「はて。ズルいと言われてもな。本当にお前の勘違いではないか? 先程からお前はひどく興奮している様子だが、正常な判断は出来ているのか? 一部始終をはっきりと記憶しているか? 俺がお前の胸部を触ったというのならば、いつ、どこで、どのように触ったのかを言ってみるがいい」


「えっ? いつって……さっき、そこでぶつかりそうになった後に! えっと……ど、どのように……?…………どのようにもなにも正面から堂々とガッてしたじゃないっ! くそへんたいっ!」


「『ガっ』だと? 間違いないか?」


「ないわよ! てか、あんたのことでしょ! いい加減認めなさいよ!」


「ほう。『ガっ』ということはつまりこういうことだな」


 弥堂は言いながら鍵爪のように開いた手を希咲の方へガッと向けてみせる。


「こういったカタチで俺が触ったという主張だな? 間違いないか?」


「えっ? いや、そうじゃないけど……てか、その手こっち向けんなっ! なんかやだ!」


 尋ねてくる弥堂に対して希咲は自身の胸を腕で覆うようにして隠した。


「お前の言い分がわからんな。『ガっ』と言うからこうして俺がお前の胸を掴んだと言っているものだと思ったんだが。どうなんだ? お前の認識している事実を言え。俺はお前の胸を鷲掴んだのか、鷲掴んでいないのか。答えろ」


 弥堂は尚も言い募りながら差し出した手の五本の指を閉じたり開いたりして見せる。


「だからその手やめろっつってんでしょ! 指動かすな! なんかやらしいのよ、へんたいっ!」


 問われた希咲は弥堂の生々しい指の動きが気になり過ぎて事実確認どころではなかった。


「む、貴様誤魔化したな。答えると何か都合が悪いのか? おい、どうなんだ」


 希咲の嫌がる様子に効果的とみたか、弥堂は高速で手を『ぐっぱぐっぱ』してみせた。


「答えるけど、きもいからそれやめろっつってんのよ、あほっ!」


「ふん、いいだろう」


 弥堂は割と素直にぐっぱぐっぱするのをやめ、希咲へと向けて伸ばしていた腕も降ろした。


「えっと……なんだっけ…………あ、手の形か。んと……あんたあれよ。手はグーにしてたでしょ」


「そうだな。ということは先程の貴様の証言と矛盾したな。拳を握ったままでは『ガっ』とはいけない。つまり冤罪だ。恥を知れ」


「こまかっ! そんなことどうでもいいでしょ! ……てか、あれ? なんでこんな話になったんだっけ……」


 弥堂 優輝という男はどうでもいい細かい部分をしつこく追及して話を長引かせ、本質部分である自分に都合の悪いことを有耶無耶にする術に長けていた。


「どうでもよくはないな。事件として立証するには細部に渡ってしっかりと事実を確認せねばならん。これは常識だ」


「あんたが常識とか言うなっ! 事実ってんならそれで触ったのも事実でしょ!」


「違うな。さっきお前が言ったように、『ガっ』とは触っていない。それではまた最初の質問に戻るが、俺がどのように触ったというのだ?」


「はぁ? 擬音なんてどうでもいいじゃない、さわったくせに…………えっと、手がグーだから、こう……グッて感じ?」


 現状に疑問を大いに感じながらも、七海ちゃんは基本的にいい子なので素直に考えながら答える。若干自信がなさそうに首を傾げながら弥堂へ向けて自身の手で作った握り拳を押し込むような仕草を見せた。


「つまり俺がお前の胸に拳を接触させて押し込んだというのか? 間違いないか?」


「あんたまだしらばっくれるわけ?」


「勘違いではないのか? 手の甲が当たっていたのかもしれんぞ」


「手の甲だったらなんだってのよ。それでも触ってるのは変わんないでしょうが」


 自分でも何の話をさせられているのかわからない長い問答に、希咲は知らずの内に最初の怒りをどこかに置き忘れてきていた。そしてそんな彼女の様子に弥堂は思惑通り薬物の効果が切れてきたのだと、内心ほくそ笑んだ。


「俺の知人のとある有識者によると、『手の甲はセーフ、手の甲は合法』という論説があるそうだ。故にどの部分が接触していたかという情報は実に重要な論点となる」


「はぁ? ふざけんじゃないわよ! どこで触れようと触ったは触ったでしょ! それに絶対手の甲じゃなかったわよ。あんたさっき壁壊した時の変態パンチしてきたじゃない!」


「仮にお前の言うことが事実だとして、俺がお前に零衝を放ったとしよう。だがお前は回避したではないか。本当に触れていたか? 気のせいではないか?」


「なによ、ぜっしょうって……名前があるような技なわけ? なんてもん女の子にぶっ放してんのよ。頭おかしいんじゃないの」


「お前も大概だろうが。常人があの蹴りを頭部に受けたら簡単に首が折れるぞ」


 放課後の学校内で繰り広げられるおよそ普通の男女の学生の会話に似つかわしくない物騒な内容に、傍から聞くともなしに聞いていた、この二人にケンカを売った恰好になる身体能力的には普通の高校生である法廷院たちは震えた。


「お前は俺が拳を押し込んだようなジェスチャーをしたが思い違いではないか? 俺が触れる前にお前が避けた可能性はないのか?」


「ないわよ! 自分の身体だもの、触られたら感触でわかるに決まってんでしょ!」


「ほう、それは確かか? 肩でも鎖骨でも肋骨でもなく確実に胸か? 勘違いではないか?」


「ちがうわよっ! 絶対胸だったもんっ! 感触したから!」


「そうか。ではお前は確かに胸で感じたのだな?」


「そうよ! あたしは絶対に胸で感じたわよっ!」


 勢いよく断言した希咲であったが自身の発言内容に違和感を感じ「……ん?」と首を傾げると、すぐに何かに思い至りカァーッと顏を紅潮させ慌てて訂正をする。


「ちっ、ちがうわよっ! なんてこと言わせんのよっ! 感じたってそういう意味じゃないから! 触られた感触がしたって意味だから! 勘違いしないでよね!」


「何言ってんだお前」


 情緒不安定な女の様子に弥堂は呆れたような眼を向けるが、その彼に対して希咲もまたジトっとした視線を返した。


「ねぇ、てかさ、あんた。さっきから事実確認とか言ってネチネチ尋問みたいな真似して、あたしにえっちなこと言わせようとするセクハラしてんじゃないの?」


「ひどい言い掛かりだな。お前が一人で勝手に騒いでいるだけだろう」


「ホントかしら。さっきのあんたじゃないけど、訴えたら100%勝てる気がするわ」


「そう思うならそうしてみるがいい。だがこの程度のことで大騒ぎしているようなお前に、果たしてそんなことが出来るかな」


「はぁ? なにそれ。バカにしてるわけ?」


 今度は剣呑な色を瞳に宿す希咲の顔を見て、こいつもよく表情の変わる女だとどうでもいい感想を浮かべながら、弥堂は彼女に無機質な眼を向ける。


「馬鹿になどしていない。ただの事実だ。いいか? お前が俺を強制わいせつだかなんだかで起訴するというのであれば、法廷で俺の罪を問うことになる検察官はより詳細に原告であるお前に事件当時の様子を細やかに問うだろう。触られたかどうかを感触によって判別したお前の胸の感度がどれほど正確かを数値化する為に、お前を裸に剥いて実際に触って確かめるだろうな。サンプル数は一つでは足りないからお前は複数人の相手をすることになるだろう。お前はその検証作業に耐えられるのか?」


「んなわけあるか! それっぽい口調で適当なことばっか言うんじゃないわよ! そんな検察官いるわけないでしょうが!」


 遵法精神など欠片も持ち合わせていない風紀委員の男がぶちまけた、日々この日本国の法を守る為に真面目に働いておられる検察の方々へのアツい風評被害に、見た目に似合わず意外とよい子なギャル系JKは憤慨した。


「それに裁判沙汰ともなれば事は公のものとなる。俺は構わんがお前は友人も多いだろう? その関係者すべてにお前は校内で男に乳をいいようにされた女として周知されることになる。そうなれば今後の人生を快適に過ごすことは難しくなるぞ? 愚かな民衆どもはどうしてもお前をそういう目で見続けるだろう。仮に勝訴したとしても割にあわんと思わんか? なにも犯されたというわけでもないんだ。多大なデメリットを抱えてまで意地を張ることはお奨めしない」


「こっ……こっのクソやろう……あんたさっきと言ってること180度変わってるじゃない……勇気をもって訴え出ろとか言ってたくせに!」


「そうだったか? 記憶にないな」


「俺だけは最後まであたしの味方だとかも言ってたわね」


「状況が変わった。俺はそのつもりだったがお前が自発的に敵に回ったからな。そうなると話は変わってくる」


「こんのクズやろう……あたしが悪いみたいに言いやがって…………あれ? てか、あたしたちなんでケンカしてたんだっけ……? もうやだ……あんたと話してると全部わけわかんなくなってくる……」


「俺が知るか。お前が衝動的に襲い掛かってきたんだろうが」


「人を暴漢みたいに言うな……絶対あんたが悪いんだからね……」


 こちらの罪を咎める口調とは裏腹に希咲は疲れたように肩を落とした。実際に疲れたのだろう。

 それも無理はない。『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』に『風紀の狂犬』弥堂 優輝びとう ゆうき、このおかしな学園でもトップクラスに頭のおかしな連中を立て続けに相手にしたのだ。何かと苦労性な彼女でもここまでの地獄のような連戦はそうそう経験したことはなかった。



「はぁ……もういいわ……」


 やがて諦めたように溜め息を吐いた。


 弥堂はその様子に一定の満足をした。


 どんな相手であろうとも、例え相手が激昂していようとも、こうして時間をかけて丁寧に我慢強く論点を逸らし続けてやれば、やがては相手は疲れて諦めこちらの言い分を認めてくれるのだ。

 弥堂は自身の交渉術にまた一つ自信を得た。


「ではこの話は終わりだな。たくさん喋って喉が渇いただろう。あとで飲み物を買ってやるからそこの隅で座って大人しくしているがいい」


「……うぅーー…………わかったけどぉ……でも触ったのは認めて謝って。それで今回は許したげるから」


 チッと思わず舌を打ちそうになる。


 しつこい女だ。弥堂は内心で眉を顰める。


 だが――と。


 脳裏でこの女の価値を計上する。


 見た感じ現在は薬物による興奮状態からは抜けて落ち着いているようだ。弥堂としても、何も何が何でもこの女を殴り倒して打ちのめしたいわけではない。あちらに戦闘の意思がないのであればこのまま収めることも吝かではなかった。


 今回は失敗したが先程に法廷院たちにそうしようと考えた通り、この女を使って愚かな男を釣り上げ金を巻き上げるというビジネスは計画ごと頓挫した訳ではない。十分に成功を望めるプロジェクトであるとまだ考えている。


 それに加えてこの女の服用している薬物についてだ。

 上手いこと入手先を聞き出して売人を攫うことが出来れば、相手によっては麻薬の販売ルートごと奪い取ってこちらで運用することも可能かもしれない。


 やはりこの希咲 七海という女からは金の匂いがする。


 少々情緒不安定で煩いところがネックだが、恐らく地頭は悪くない。薬物を止めさせ更生させればそれは解消されるかもしれないが、しかし頭の良すぎる女というのも逆に厄介になる。先程見せた戦闘能力も魅力だが、これがどの程度クスリに依存したものなのかも不明だ。

 このまま薬漬けにして依存させた方が扱いやすいか、更生させて精神的に依存させた方が都合がよいかは、まだ検討と検証が必要そうだ。


 おまけとして、何かと絡んできて厄介な水無瀬の緩衝材として便利に使えるかもしれない。


 因ってこの女とは友好的な関係を結んだ方が自分にとって利益になると、対面でこちらに不満顔を向ける希咲を見つめながら弥堂はそう考えた。



 一方、無言のまま無感情な顏で自分を無遠慮に見てくる男に、希咲は多大な不快感を示した。


「あんた、今絶対ロクでもないこと考えてんでしょ。段々わかってきたわ。超無表情だけど下心満載でしょ。えっちな感じじゃないけどなんかもっとサイテーな感じの下心」


 やはり聡い女だ、と弥堂は評価した。そして同時にこの女と和解をすることを決める。

 この女がどの程度使えるのかは現段階では未知数だが、有能すぎる味方は後々に目障りになることも確かに多い。そこは自分が上手く使えばいいとも考えられるし、それが難しいのならばその時は処分すればいいだけのことだ。


「おいこら、無視すんな。ったく、もう今回は色々と目つむったげるからさっきのことはあやまって。それで終わりにしましょ」


 そして、その為には絶対に過失を認めるわけにはいかない。常にイニシアチブをこちらが握っている必要がある。


 この手の女はこうして手打ちにしてやるなどと宣いながら、先々に何かあるごとにこのことを蒸し返してくるのだ。

 一度でも過失を認めてしまえば、過去の罪状を掲げて次々と別のことを要求してくるに違いない。『あの時は私が折れた』『あの時は私が我慢した』などと。

 故に、絶対に、断固として認める訳にも謝罪する訳にもいかない。


 弥堂は自身の不健全な過去の人間関係からそのように判断をし、やはり薬物乱用の件で脅迫をして縛りつけることによって友好関係を築くことがベターであると、不健全な決断をした。


「下手な誘導尋問だな。そうやって譲歩したように見せかけても俺から自供はとれんぞ」


「あ、あんたってやつは……」


 お互い折れようと提案しているのに、1ミリも譲歩する姿勢を見せないめんどくさい男の態度に、希咲は拳を握りしめワナワナと震える。


「頑固なのか、疑り深いのか、それとも駄々をこねてるだけなのか……せっかく人が大幅に譲ったげてるのにどこに着地させようとしてんのよ……」


「そう言われてもな。やってもいないことをやったなどと言わされてはかなわんからな」


「むーー。まだ言い張るかあんたはぁ」


 本心で言えば希咲とてもうめんどくさい。このままなかったことにしてこの場を収め、さっさとバイトに向いたいというのが本音ではある。本音ではあるが、だがだからといって本当になかったことで済ますわけにもいかない。

 ここで簡単に退いたら本当に泣き寝入りした気分にもなるし、なによりも、気軽に胸を触っても適当にあしらえる簡単でお手軽な女だとは思われたくない。

 乙女の威信に懸けてここは退くわけにはいかないのだ。めんどくさいけど。


 どうやってこの口の減らない無口な男を黙らせてやろうかという日本語として破綻した思考を巡らせようとするが、すぐに自身の記憶から閃きを得る。


「そうだ、繊維よ、化学繊維」


「なんだと?」


「こないだ動画で見たの。痴漢対策的なのでバズってたやつ。あんたも知らない?」


「バズ……? 意味不明な言語で煙に巻くつもりか? ナメられたものだな」


「えぇ……そっからかよ……」


 動画内容どころかバズるという概念から知らない、こいつホントに高校生かという点から怪しい共感能力皆無のクラスメイトに意気を削がれて、希咲はガックリと肩を落とす。


 しかし、すぐに気を取り直すとその細長い指を一本キレイに伸ばして立てて見せ、弥堂に向って解説を開始する。


「まぁいいわ……コホン。えっとね、化学繊維なんかで作られてる洋服を触るとね、目に見えないけど触ったとこに繊維? が付着するんだってさ。服に指紋も着くし」


「ほう。それは初耳だな」


「つまり! きっちりちゃんと調べればあんたの手にあたしの制服の繊維が着いてるし、あたしの制服にはあんたの指紋が着いてるってわけ。このままごねても行き着くとこまで行ってホントに調べることになれば、最終的に困るのはあんたなのよ」


 ビシっと指を突き付け、痴漢の下手人にドヤ顏で通告をした。


「その動画とやらは何かそういったことの専門家や機関が投稿しているものなのか?」


「ん? え? どうだったっけ……SNSのTLに流れてきたやつだし、多分なんかよく知らん人だったかも」


「よくもそんなものを信じられるものだな」


「あによ」


 ふふーんと得意げに勝ち誇っていた希咲に、弥堂は呆れの色を込めた視線を向けた。


「だって動画に付いてる他の人のコメントでもこれは間違いとか、嘘の内容だとか、そういう指摘のコメントなかったし、Goodも多かったもん。だから合ってるでしょ」


「コメントしてるそいつらが全員バカだったらどうするんだ?」


「はぁ? じゃあ、あんたはこの情報が間違ってるっていう根拠があるわけ? そうやってすぐに否定から入ってケチばっかつけるやつは嫌われんのよ、ばーかばーか!」


 件の投稿にしっかりGoodと拡散を押して、ご丁寧に『貴重な情報ありがとうございます』的なコメントまで付けていた希咲さんはムキになった。


 しかし、意外にも弥堂はそれには反論をしなかった。


「まぁいい。科学的にそれを否定する材料や知識も俺には持ち合わせがないし、仮にそれを事実とするとしよう。実際調べれば俺の手からはお前の制服の繊維とやらが検出されるだろうな。だが、それがどうした?」


「はっ、はぁ⁉ なんなのその開き直り方! どうしたもなにもあんたがあたしの胸触った証拠じゃないの!」


「それは違うな」


「な、なんて往生際が悪い男なの…………なにが違うってのよ。あんたの手にあたしの服の胸の部分から剥がれた繊維が着いてて、あたしの服の胸のとこにあんたの指紋が着いてたらもう何をどうやっても言い逃れできないでしょうが!」


「ふん、素人め」


「その論調でいくとあんたはプロの痴漢なのかしら?」


「今のは言葉の綾だ」


「こ、こいつ……」


 希咲はこのロクでもない男に声を大にして怒りをあげたかったが、圧倒的な疲労感からそれは叶わなかった。

 彼女のそんな様子を表情には出さずに確認をし、弥堂は思惑通りだと満足をする。そのまま休ませないように畳みかけていく。


「いいか。確かに俺の手からはお前の服の胸部の繊維が検出されるであろう。しかしそれは俺がお前に痴漢行為を働いたという証拠にはならない。なぜならば、あくまで俺はお前の服に触れたのであって胸に触れたわけではないからだ」


「こっこここここのやろうっ! なっんっなっのっよっ! あんたはぁっ‼」


 彼女の経験上類を見ないほどに口の減らないクソ男の屁理屈に、希咲は床をダンっダンっと踏みつけて強烈な怒りを示唆した。


「服の上からならセーフとかぬかすつもりか! このクズっ! それがオッケーなら毎年こんなにいっぱい痴漢で捕まる人が出るわけないでしょうが!」


「ふむ。確かにそうだな。では次にどこからがアウトなのかを話し合おうか。そのあたりお前はどう考えるのだ?」


「えっ? えっ? な、なんなのこの会話……」


「だから服の上から触れた場合、どこから犯罪になるのかという点だ。何も意見はないのか? ないのであれば俺の見解を話すぞ」


「だめっ! なんかよくわかんないけどだめっ! あたしが話すっ。あんたはちょっと黙ってて」


「そうか。早くしろ」


「えっと……ど、どこから……?」


 マジでなんなのこの議論、と希咲は首を傾げるが、このクズ男に自由に話をさせることに強い危機感を覚えたので必死に思考を巡らせる。


「てか、どこからとかどこまでとか関係なく、服の上からでも触っちゃダメでしょうよ。特に女の子の胸とかお尻とかは絶対ダメよ。当たり前でしょ」


「ほう。それは女だけか?」


「は?」


「女が男の胸やケツを触るのはいいのか、と訊いている」


「そんな女いるわけないでしょ。てか男がそのへん触られたからってなんだって言うのよ」


「ほう。つまりお前はこう言いたいのだな。身体に触れられて性犯罪として相手を訴えることが出来るのは女の特権であり、男にそれは許されないと。すなわち、この国では法によって明確に性差別がされていると」


「差別? なんでそうなるのよ!」


「なんでだと? お前が言っていることはそういうことだろうが。おい、お前もそう思うだろ?」


 そこで弥堂は外野に居た法廷院へと同意を求める。


「へ? なに? 差別?」


 長丁場になっていた弥堂と希咲の立ち話にすっかり蚊帳の外となり、話を大して聞いていなかった法廷院は突然意見を求められて慌てた。


「話を聞いていただろ? お前は専門家ではないのか? まさかお前は差別を容認するのか? どうなんだ?」


「そんなわけないだろぉ! ボクは断固として許さないよ! 何せこういった問題についてはボクはプロフェッショナルだからね! だってそうだろぉ⁉」


「うむ、ご苦労」


 専門家という肩書に気をよくした法廷院は勢いづいて吠えたが、同意ともとれない同意をしたあたりで弥堂が視線を強めて言外に黙るよう威圧すると、彼は車椅子上で両膝に手を置いて大人しくした。


「ということだ。恥を知れ、差別主義者め」


「あ、あんたってば、屁理屈こねるためには何でも使うのね……」


 視線をこちらへと戻し強い言葉で非難をしてくる弥堂に、希咲は怒りよりも呆れが勝った。


「差別するわけじゃないけど、でも実際のとこ男の子と女の子の胸とかお尻じゃ話が変わっちゃうじゃないのよ。それはあんたもわかるでしょ?」


「何故だ? 俺にはわからんな。説明してみろ」


「嘘つくんじゃないわよ…………えっと、なぜって、その……え、えっちだから……とか?」


「お前はふざけてるのか?」


「ふざけてないわよ! だってこんなの答えづらいじゃない! 他にどう言えってのよ!」


「答えづらい? それはやましいことがあるということか? おい、どうなんだ」


「うっさいっ! あんた絶対あたしに変なこと言わせて遊んでるでしょ! いい加減にしなさいよ、へんたいっ!」


「それは言い掛かりだが、まぁいいだろう。つまりお前ら女の胸や尻に触れるのは性的な行為であるから同意が必要であると。そういう主張なわけだな?」


「え? うん、まぁ……そう……なの、かな……?」


「そして男のそれらに触れることは性的ではないと」


「だってそうでしょ?…………えっと、そう、じゃないの? ごめん、実はよくわかってないんだけど、あんたたちも胸とかお尻触られたらイヤなわけ?」


「想像してみるがいい」


「え?」


 疑問の声をあげる希咲には応えずに、弥堂は無言でゆっくりと視線を動かした。希咲は釣られて弥堂の視線の先を追う。


 そこには白井さんと高杉君が居た。



 希咲は想像した。


 先程の高杉が供述した部の先輩にホモ的な乱暴を働こうとしたという内容と、さらに白井さんが物陰に線の細い気の弱そうな美少年を連れ込んで彼の胸をまさぐっている情景を。

 余談だが、弥堂もこの時同様の光景を思い浮かべていたが、彼の脳内で再生された白井さんに悪戯をされている気弱な美少年役には、隣のクラスの山田君がキャスティングされていた。特に誰にも語られないどうでもいい余談である。



 顔を曇らせた希咲は黙って弥堂の顏へと視線を戻す。


「ごめん、あたしが間違ってたわ。発言を取り消します」


 そう言ってペコリと頭を下げた。


「うむ、いいだろう」


 弥堂はそれに鷹揚に頷いた。


 外野から白井さんの「どういう意味よ」という不満の声が聞こえていたが、弥堂も希咲も取り合わなかった。




「でもさ――」


 しかし、言いながら顔をあげた希咲はジト目で弥堂を見遣りながら続ける。


「男にも勝手に触っちゃダメって認めてもさ、あんたがあたしに触ったことは変わらないし、それが許されるってことにはなんないわよね? この会話必要だった? あたしがイヤな絵面想像させられただけで一歩も進んでない気がするんだけど? なんだったわけ、この時間?」


「…………」


 都合の悪いことを尋ねられた男は質問には答えずに何もない空間を見るともなしに見た。つまり無視した。


「では一つ問題が解決したことだし話を戻そうか」


「無視すんな。あんた、もしかしてあたしが折れるまで話を逸らし続けるつもりじゃないでしょうね?」


「無駄口を叩くな。真面目に話をする気がないのならもう終わりにしてもいいのだぞ?」


「こ、このやろぉ……」


 さらに都合の悪いことに気付かれそうになった男はさらに話を逸らして誤魔化すことを決断した。


「仮に俺がお前の胸を触ったとしよう。それは俺の手がお前の胸に触れた瞬間に成立すると仮定する」


「ん? なに当たり前のこと言ってんの」


「それは逆にこうも言えるのではないか?」


「は?」


 めんどくさい男がまたややこしいことを言い出したので希咲は眉根を寄せる。


「俺の手がお前の胸に触れたのではなく、お前の胸が俺の手に触れたのではないか?」


「はっ、はぁっ⁉」


 あまりにわけのわからない主張にびっくりして希咲は素っ頓狂な声をあげた。


「いいか? というのも、お前ら女どもは無用に乳だの尻だのが突き出しているだろう? お前は然程でもないがな」


「あんた今なにか言ったかしら?」


「言葉の綾だ」


 せっかく混乱させた相手の目が一瞬で攻撃色に染まりかけたので弥堂は適当に誤魔化した。


「そうだな、例えば水無瀬だ」


「は? なんで愛苗がでてくんのよ」


 大好きな親友の名前を出されてそっちに全ての関心が移り、わりと簡単に七海ちゃんは誤魔化された。


「それはな、あいつはガキみたいな顔をしたチビのくせに不釣り合いに乳がデカいだろう?」


「あんた、愛苗のことバカにしてるわけ?」


 水無瀬を表現する弥堂の不適切な言葉の選択に希咲の雰囲気が剣呑なものになる。


「チャーミングな顔つきに加えてとてもグラマラスであると褒めたんだ」


「とてもそうは聞こえなかったけど? …………まぁいいわ、で?」


「うむ。そんな不用意に突き出した乳房にゅうぼうをぶら提げたあいつが幼児のようにちょこまかとその辺を動き回れば、平均的な体型の男が同じ行動をするよりも、あの突出した乳房にゅうぼうを何かに接触させる確率は高いだろう?」


「……だから?」


「だから必ずしも男が性的な下心を以てお前らに狼藉を働くわけではなく、お前らの突き出した乳房にゅうぼうの方から接触をしてきたという事例が絶対にないとは言い切れないと俺は考える」


「……つまり?」


「つまりは、今回の件に関しては俺がお前の乳を触ったのではない。お前の乳房にゅうぼうが俺の手に無許可で触れてきたのだ。よって今回の被害者は、触れたくもないものに無理矢理触れさせられた俺の方であると主張する」


「…………」


 極めて特殊な理論を展開する弥堂に対して、希咲は怒るでも呆れるでもなく、ぽかーんと口を開けて言葉を失った。

 弥堂はその様子を見て『効いている』と判断する。


「どうやら返す言葉もなくなったようだな。ついに己の罪を認めたか、この痴女め」


「んなわけないでしょ…………や、ごめん。なんか怒る気にもなれないというか……人ってここまで開き直れるのかーって、なんかびっくりしちゃって。人間ってすごいわね」


 一周まわってどころか、グルグルと何周も周回遅れにするほどに怒りを超越してしまった謎の感心を抱く希咲の言葉を、弥堂は事実上の敗北宣言と受け取った。

 しかし今この時が希咲 七海の知っている人間の中での『あたおかランキング』堂々の一位に弥堂 優輝の名前が燦然と輝いた瞬間であった。


「ちなみに、あたしがさっき言ってた、あんたの手が触れてからあたしの胸を押し込んできたっていうのはどう言い訳するの? あんた色々ごちゃごちゃ言ってたけど最初のこれに答えてないの、あたしちゃんとわかってんだからね」


「それは誤解だ」


「急に口数が減ったわね」


 希咲に胡乱な目を向けられながら、何がどう誤解なのかについては語らないが、とりあえず誤解であるとだけ弁明した。


「そんなことはない。そうだな、押されたとお前が乳房にゅうぼうで感じたという話だったか?」


「だから言い方っ! あとスルーしてたけど『にゅうぼう』って読み方やめて! なんかやだ」


「注文の多い女だな。じゃあ乳房ちぶさと読めばいいのか? それで何か変わるのか?」


「胸でいいでしょうが……あんたいちいち単語のチョイス変なのよ…………てか、話そらすな!」


「逸らしたのはお前だろうが」


 弥堂は己を客観的に見ることのできない、理不尽な物言いをする女を軽蔑した。


「あぁ、もうっ! じゃなくて! あんたの手が押してきた感触したって言ってんの! むにってしたもん!」


「『むに』だと? 『ぷに』でも『ふに』でもなく確かに『むに』だったのか? おい、どうなんだ?」


「だあぁぁぁっ! もう、あんたはあぁぁぁぁっ‼ そのパターンはもういいわよっ! その3つで何がどう違うってのよ!」


「さぁな。ただ物事は正確である必要があると思っただけだ」


「論点を正確なままにしといてもらえないかしら……んで? どう言い逃れるのかしら?」


 腕組みをしながら見下ろすように強気な口調で問い詰めてくる希咲だったが、しかし、この時すでに弥堂は己の勝利を確信していた。


 現在議題に上がっている件についてもどうにでも言い逃れが可能であるし、なによりも、先程希咲が見せた疲れて諦めたかのような態度。

 弥堂の腐った経験上、口論相手があのような状態になった場合、かなりの高確率で相手の妥協を引き出すことに成功してきた。

 彼の尊敬する上司である廻夜部長風に言うのならば、『パターン入った』というやつだ。



「お前の言うその手を押し込んだだか押し付けただかというのは、お前の乳房ちぶさが形状を変えるほどの圧力を俺がかけた状態を指すということでいいのか?」


「は? え? まぁ……うん……」


「では、先程お前は乳の形状を変えたのだな?」


「だからそうだって言ってんじゃ……違うっ! あんたまたそうやって変なこと言わせてイチャモンつけようとしてんでしょ! あたしじゃなくて変えたのはあんたでしょ!」


「どういうことだ? 意味がわからんな」


「だーかーらーっ! あたしじゃなくて、あんたがあたしのおっぱいのカタチ変えたんでしょうが‼…………ちょっと待って……あたしなに言ってんだろ…………もうやだ……あんたマジでもう…………もうっ……!」


 頭痛を堪えるように額に手をあてながら、文句なのか自問なのか不明なことをつぶやく少女に、弥堂は「お前が勝手に喋ったんだろ」と反射的に言いたくなったが自重した。


 仕留めるのならばこのタイミングだと判断したためである。


 ここまで長い時間をかけてこの面倒くさい女との問答に付き合ってきたが、それもようやく終わる。


 しかし、あくまで目的は今後この女で金を稼ぐために友好的な関係を結ぶことにある。こいつを言い負かすことが目的ではない。とは云え、譲れないものもある。


 こちらが痴漢行為を働いたという点は認めるわけにいかないが、こいつが気分を害さない程度の勝ち方に留めなければならない。それには――


(――そうだな)


 騒ぐほどの大層なモノでもないくせに、頼んでもないのに勝手に乳を押し付けてきた痴女的行為を許してやる。


 こちらからの譲歩する部分はこんなものでいいだろう。


 奴からしてみれば、禁止薬物の使用を見逃してもらっている立場だ。この程度譲歩してやれば喜んでこちらに従うであろう。それに加えて、稼いだ売上げからきっちりとこの女にも分け前をくれてやるつもりだ。勿論それには口止め料も込められてはいるが、だがそうだったとしても――


(――俺も随分と甘くなったものだ……)


 弥堂はそう自嘲した。


 希咲は目の前で突然、フッとか言って遠い目をしだした男をとても不審に思った。同時に絶対にこんな男の言いなりにはならないと強く心に決める。


 決める、が――


(――あたし……マジでなにやってんだろ…………)


 希咲もフッと遠い目になった。



 目の前のこのアホ男との口喧嘩に勝ったとしても、それが一体何に繋がるのだろうか。


 希咲 七海は苦労性な女子高生だ。


 彼女が生まれ育ち現在も共に生活をしている家庭環境で多少の、彼女と交友関係にある幼馴染たちや彼らのご実家関連で多大な、多種様々な苦労や迷惑を被ってきた。


 今まで矢面に立たされてきたトラブルは、彼女の記憶にある限りは他から持ち込まれたトラブルで、そういった意味では現在直面してるこのトラブルは初の自身発のトラブルであるかもしれない。

 そんなトラブル慣れしている彼女であっても、今日の放課後だけで起きた出来事は、今まで経験したすべてのそれをひっくるめても超えている――というのは過言だが、肉体的な負担はともかく、精神的な疲労度ではぶっちぎりでワースト1を更新したと、そのように今の彼女には思えた。


 気分の浮き沈みの多い希咲ではあるが、割とポジティブな思考をしているので、ひどい目にあったと感じたとしても、意味のない出来事はなくどんな経験も後々なにか役に立つ日が来ると――そう考えてこれまで色々と乗り越えてきたのだが、今日のこいつらとのあれこれに関してはどう前向きに変換すればいいのか、そんな彼女を以てしてもその術は思いつかなかった。


 何の為に今自分は戦っているのかさっぱりわからなくなったが、このクズ男の言い分を受け入れるのも癪なので退くに退けない。


(もう帰りたい……バイトも休んで、おうち帰ってお風呂入っておふとんでまるくなりたい……)


 自分にとって今日の放課後は一体何の時間だったのだろう。


 答えの出ない、出す必要のない無駄な問いが彼女を只管苛んだ。


 遠い目をしながら無言で向きあう男女を、すっかりと存在感を失くした『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』のメンバー達が居心地悪そうに見守る中で、4月16日の放課後の時間は誰からも確実に失われていく。

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