序-26 『蠱惑の縄墨』
「ねぇ~? 七海ちゃん。あなた随分と可愛らしい趣味をしているのね」
弥堂が撤収の算段をしていると薄ら寒い猫撫で声があがる。白井のものだ。
「はぁ? なによ」
頭のおかしいセクハラ男と入れ替わるような形で絡んできた頭のおかしい変態女に対する希咲の態度にはかなり棘がある。
床に座りこんだままの姿勢だが眦をあげて白井を威嚇した。
白井の仲間ということになる『
「なに、って……ふふふ…………決まっているでしょう? パンツよ。あなたのぉ、お・ぱ・ん・つ」
「なっ、なによ。べっ、べべべべべつにいいでしょっ」
「えぇ、もちろん悪いなんて言ってないわぁ。とぉってもかわいいと思うわよ」
「じゃあ、ほっといてよ。なに穿こうがあたしの勝手でしょ!」
突如として始まった白井 雅による希咲 七海のパンツ弄りに、もううんざりといった様子だった法廷院以下3名は態度を改め、身を正して拝聴する姿勢を見せる。
間接視野にてその彼らの動きを捉えると白井はますます笑みを深め、さらに希咲に言い募る。
「とってもかわいいパ・ン・ツ、だと思うんだけどぉ、でもぉ……そうねぇ、ちょっとかわいすぎじゃないかなぁとかも思ってぇ」
「うっ、うるさいわねっ。関係ないでしょ!」
「そうねぇ、関係ないわねぇ。だからただの感想よ、私が勝手に言ってるだけの感想。なんというかゴメンなさいね。あなたってギャルっぽいからもっと大人っぽいというかぁ、『キワドイ』デザインが好きなのだとばかり思っちゃっててぇ……」
「なんだっていいでしょ! てか、ねぇ、やめてよ。男子たちいるのに……」
勢いづいていく白井の弄りに希咲は焦りチラチラと視線を弥堂や他の男子たちの方へやり顔色を伺う。
つい先ほど実物を全員に披露してしまっているので、ここで下着に関する情報を隠しても今更という感はあるのだが、乙女的にはそういう問題ではないのだ。
それを正確に理解した上で白井は希咲に詰問をしている。
希咲がこの場で盛大にスカートの中身を晒したことで、また一人他の女を自分の居る場所まで引き摺り降ろしてやった。白井さん的本日の成果である。
しかし、自分はパンチラというかパンモロ程度では済まなかった。複数人の男子を含む衆人環視の中で、他の女から下着について執拗にダメ出しをされたのだ。
だから彼女は手を緩めない。
この場で希咲の着用している下着を徹底的に貶めることで取り戻せない過去の自分を救うのだ。
狂った女の妄執である。
「まぁ、趣味はひとそれぞれだと思うんだけどぉ……でもちょっと少女趣味すぎるかなぁ、とかぁ。あなたそういうのが好きなのかしら? 私はほらぁ、もうちょっと落ち着いているというかぁ、洗練されたもの? が好みだからぁ、ちょっとわからなくて……ゴメンなさいねぇ」
「べっ、べつにこういうパンツばっかじゃないしっ! 他のも持ってるから! 今日はたまたまよっ」
少女趣味と称された希咲さんの本日の下着は、薄いパステル系のブルーに黄色いリボンやフリルにお花の刺繍などをあしらった意匠のものである。
抜群の煽り性能を発揮する口調で謎のパンツマウントをとってくる白井に激しく苛つく。
なぜならばその白井の本日の下着は、本人は洗練とか言っているが研ぎ澄ましすぎて下着として機能するための布地の大部分が削れてしまったかのような、詳細を語るのは道徳的に憚れるほどに非常に先鋭的なデザインであったからだ。
「たまたま……へぇ~……偶然……ふぅ~ん……」
「そっ、そうよっ! いつもこういうのだけ着けてるってわけじゃないんだからっ…………で、でも……こういうの着けてると愛苗がいっぱいかわいいって言ってくれるし……」
「は?」
希咲を甚振るのが楽しくて仕方ないとニヤニヤしていた白井が、希咲の言葉を聞き咎めると真顔になり一歩下がる。
「あなたレズなの?」
「ちがうわよっ‼」
もっと強く言い返したい衝動に駆られるが、希咲としては自分の下着に関する話題をこれ以上広げたくないがために、努めて我慢をする。
「でもぉ、ちょっとブリブリし過ぎじゃなぁい? なに? あなたオタクウケでも狙っているの?」
「はぁ? ちがうしっ。んなわけないでしょ」
続いた白井の言葉に過剰に反応をしたのは返答をした希咲ではなく、目の前で繰り広げられるパンツ討論を傍聴していたオタクどもだ。3名ほどの男がピクリと肩を跳ねさせた。
『オタクウケを狙ってる』。ということは『希咲 七海はオタクが好き』。
そして『自分はオタクである』。
故に『希咲 七海は自分のことが好き』。
論理的に考えるとそういうことになる。
そんなわけはない。
それはわかっている。
だが、これは可能性の話なのだ。
『ギャルはオタクに優しい』『優しいということは好きなのである』。この論説は都市伝説だとされている。
だが、しかしだ。
そういうギャルが存在しないというデータもまた、どこの学会にも存在していないのも紛れもなく事実なのである。
悪魔はいる。悪魔はきっと存在するのだ!
オタクを甘く誑かすギャルという名の小悪魔はきっと……!
夢は見るものではない。しかし可能性を根から否定することもまた非科学的なのである。
童貞という生き物は脳の構造上そのように考える。そういう風にデザインされている。これは科学的に仕方のないことなのであった。
3匹の童貞たちは身体の奥底から湧き上がるものを感じた。
これは性欲などではない。愛と勇気だ。
そして希望は彼女が――彼女のパンツがくれた。
「やめろよ白井さん!」
吠えたのは本田だった。
『
その様子に希咲はビクっと肩を跳ねさせて怯えるが、白井は希咲には構わずにゆっくりと仲間たちの方へと首だけを回した。
「あ゙?」
ガンギマリの目ん玉だった。
「なにそれ? ねぇ、今の私に言ったの?」
瞬き一つせずに瞳孔が収縮した目玉を剥きだして問い正すが、本田はすぐに「ヒッ」と悲鳴をあげると黙ってしまう。
しかし、彼は一人ではない。童貞は一人ではないのだ。
「や、やめろって言ったんだよ、白井さん。これ以上希咲さんに酷いことを言うんじゃない」
過呼吸気味に浅い息を吐き続け言葉を失ってしまった本田の後を引き継いだのは西野だ。
常に人と目を合わせようとしなかった彼だが、はっきりと勇ましく白井の目を見ながら要求を突き付けた。
「…………」
白井さんは無言であった。てっきり即座に激昂すると思っていた西野は死刑執行寸前の罪人のような面持ちで冷や汗をダラダラと流す。
白井は無言で彼らの顏を暫し見渡すと「ふ~ん」と何かしらの納得を得たように声を漏らした。
「チッ、そういうことね……本当に気持ち悪いったらないわ」
拗らせた処女である白井さんは正確に童貞どもの思惑を察した。
「あなた達、本気でやれると思っているの? その為に仲間を裏切るのかしら?」
鋭い白井の指摘にやましい所だらけであった男たちはギクっと肩を揺らした。
「な、なんのことかな?」
「僕は別にあくまで一般的に考えてよくないことだなって思ったからそんなことを仲間にして欲しくないなってやっぱり組織として長期間健全に存続するためには自浄作用というものが――」
惚ける本田と突然早口で何やら理屈を捏ねだした西野には目をくれず、白井は彼らの中心に立つ男に視線を向けた。
その男は車椅子に鎮座し悠然とそこに居た。
側近二人があっという間に馬脚を現したが彼だけは何も憚ることなく、白井の視線を受け止めた。まるで玉座に君臨する王のように。童貞の王、法廷院である。
突然自分から矛先を変えた白井に戸惑う希咲は所在無さげにし、弥堂は少し目を離すとすぐに争いを始めるこの学園の生徒の民度の低さに辟易とした。
弥堂が何かを要求するように、一人だけこの諍いに参加していない高杉に視線を遣ると、彼は瞑目してただ首を横に振る。弥堂はイラっときた。
「代表……あなたもなのね。もちろん本気――なのでしょうね。でも果たしてあなたにやれるのかしら?」
「白井さん。そうじゃない。そうじゃないんだよ。結果の保証なんてボクらは望んじゃあいないんだ。これは可能性の問題なんだよ。それを否定するなんてとっても『ひどいこと』だぜ? だってそうだろぉ? より良い未来を望むことは誰にだって許された『権利』なはずだ」
まるで「テメェにワシが殺れんのか? おぉん?」というように聞こえもする会話だが、もちろん彼らの言う『やれる』とはそういう意味ではない。
決別の気配が場に漂い、白井は少し寂しそうに薄く笑うと他の二人にも視線を向ける。
「あなた達も同じ、なのかしら?」
「…………」
「……確かに僕たちは陰の者かもしれない。でも、だからこそ光に焦がれるのさ。だって、仕方ないだろう? 彼女はっ……こんな僕たちにも……優しかった……優しかったんだ……っ……!」
本田は黙って先程希咲に貸してもらったハンカチを大事そうにギュッと両手で握りしめ、西野は泣き笑いのような表情でそう答えた。彼も先程希咲に弥堂の暴虐から庇ってもらったことを忘れてはいない。
普段なにかと悪目立ちをし、時には自分たちのような陰の者を蔑むような言動をする者もいる所謂ギャル系という陽の者ども。
そんな陽の者どもに対して彼らは勝手にコンプレックスを抱き、時には陰口を叩き、恐れながらも内心で見下してみたり嫌いだと嘯いてみせたりもした。
しかし、この場を借りて誤解を恐れずにはっきりと断言をしてしまえば、それでもギャルものが嫌いなオタクなどこの世に存在しないのだ。理屈ではなく真理なのだから仕方がない。
それが真実であることは何よりも売上げが証明してくれている。一時期よりは衰えたとはいえ、しかし未だに根強くギャルものは売れ続けている。大きな声では言えないが、もちろんAVの話だ。
アイドルは嘘を吐くし、Vの者だって嘘を吐く。
しかしAVだけは自分に嘘を吐かない。人は時間を停止させることだって出来るのだ。信じれば1割くらいは本当になる。
当然彼らは健全な高校生なので視聴をしたことはない。もしも仮に公式プロフィールを作成するのならばそう記入することになる。閲覧履歴の公開は諸事情により困難だが、そういうことになる。
だが、見たことがないからこそ信じられるものもあるのだ。
童貞たちは強くそう信じていた。
しかし、それが許せない者もいる。
「……気に入らないわね」
もちろん白井さんだ。
ギリッと親指の爪を噛む音が静まった廊下に響く。
腹の奥底から煮え滾るような温度の嫉妬と憎悪が湧き出てくる。氾濫した溝川から溢れてきた
しかし目玉の白黒が反転しているように錯覚するほどの白井の凶相にはそれくらいの迫力があった。
ガチガチと西野と本田が歯を打ち鳴らして怯える。
「私を裏切るなんて……あなたたち絶対に許さないわよ……」
彼女は怒り狂っていた。
もともと白井が彼らの組織する『
そう目立つような存在でもない自分をどうやって見つけて選んで声をかけてきたのか、その理由は全くを以て不明だったが、彼女が参加することを決めたのはなにも彼らの目的や思想に感銘を受けたからなどではない。
白井 雅は地味な少女であった。それは容姿が特筆して優れているわけではないという点だけでなく、性格的にも騒ぎを起こしたり他人に迷惑をかけるようなことをしたりすることもなかった。
そんな彼女が『
『
白井から見ても、そんな程度の低い所謂カースト下位の者どもではあるが、だからこそそんなメンバーの中でなら少しだけ地味めだから目立たないだけの自分のような女子でも、きっと下に置かない扱いをしてもらえると、そう期待をしたためである。
要するに、彼女は男にちやほやされたかったのだ。こいつら程度だったら容易にオタサーの姫的ポジションに納まることが出来る。当時の彼女はそう安易に考えた。そして多少キモイ連中ではあるが、実際に高杉以外の者たちはとりあえず優しくはしてくれた。
それに味を占めて調子にのり段々とエスカレートしていった結果が現在の人間関係である。
オタサーの姫というか完全に悪の女幹部とその手下のようにしか傍からは見えないが、白井本人はそれなりに現状の立ち位置に満足をしていた。
もちろん白井が恋する相手は、この学園内や町内に留まらずもしかしたら市内都内でもトップクラスと云っても過言ではないかもしれない、ウルトライケメン紅月 聖人さまである。
仮に『
しかし、例えそうだったとしても、それでも彼らが他の女に色目を使うことなど断じて許さないのだ。
「飼い犬に手を噛まれるとはこのことを言うのかしら」
「ぼっ、僕達は白井さんの犬なんかじゃないぞ!」
「そっ、そうだ! 白井さんは優しくないんだよ! 最初はあんなに大人しかったのに……」
「黙りなさい!」
口答えをしたことで白井に一喝されるが、本田も西野も退かなかった。震えながらも視線を強めて彼女を見返す。
「なによ。私のこと可愛いって言ったくせに……本田? じっとり湿った気持ち悪い手で私の手を握りながら言ったあれは嘘だったのかしら?」
「おごぉっ――」
「西野、あなたもよ。僕だけはどんな時もキミの味方だよって言ったわよね? 言っておくけど、恋人でもない男に頭を撫でられて喜ぶのはあなたが愛読している気持ち悪い小説に出てくる女だけよ」
「ひぎぃっ――」
勇ましく立ち向かった彼らだったが、過去にとられていた恥ずかしい言質を暴露され即座に白目を剥いた。
白井も白井で『アレ』な女だが、彼らも彼らで大分『アレ』であった。
今でこそ『一生推せる』くらいのノリで希咲を庇っているが、それは自分たちとは対極の陽キャの権化のように思っていた、見た目は可愛いがちょっと怖いギャルに優しくしてもらったり、気が強そうで性に奔放だと決めつけていたら、ちょっとしたことで恥ずかしがったり泣いてしまったりと、そういった彼女が見せたギャップに簡単にコロッといってしまっただけのことである。
以前は以前で初期の出会ったばかりの白井に対しても、こんな自分の話も聞いてくれるし大人しくて話しかけやすい子ということで、簡単にコロッといってしまいその結果少々燥ぎすぎてしまったら、この度無事に黒歴史として暴露されてしまった。
モテない男の宿命である。
つまりは、彼ら彼女らの人間性とは所詮そんなものであり、彼ら彼女らの人間関係とは所詮こんなものであった。
一方、その彼らの様子を見守る形になった希咲は、突然醜い争いが始まったことに対する困惑と、自分がその争いの原因の一部となっているらしいことに、絶対に自分は悪くないという確信はあるものの気まずくなりキョドキョドとした。
助けを求めるように弥堂の方へと視線を向けると、彼はちょうど踵を返し立ち去ろうとしていた。希咲は慌てて彼の制服をガッと掴んだ。
「ちょっと! あんたどこに行こうとしてんのよ!」
「帰るんだが?」
「はぁっ⁉ 散々好き放題しといてふざけたこと言ってんじゃないわよ! あれどうにかしなさいよ!」
「ほっとけ」
「ほっとけ……って、でも……」
迷惑そうに言い捨てる弥堂に困ったように眉をふにゃっとさせて見上げる。
「ねぇ、揉め事解決するのがあんたの仕事なんでしょ? どうにかしてよ」
「もうじき完全下校時刻だ。俺の勤務時間はそこまでだ」
「……あんたの物事の判断基準ってどうなってんの……? あたし全然わかんない」
「キミが知る必要はない」
「わかってるわよ! べつに知りたいとか興味あるとか言ってんじゃないから! 勘違いしないでっ」
「では話はこれで終わりだな。俺は帰る。あいつらも時間になったら勝手に帰るだろ」
「あっ、こら! 待ちなさいよっ」
再び踵を返そうとする弥堂の制服を先程の再現のようにガッと掴み強く引っ張る。
首が少し締まったのか、「ぐっ」と短い呻き声が弥堂の口から漏れ、非常に不服そうな表情で彼は振り返った。
「なんのつもりだ」
「ねぇ、あんたもここにいてよ。全然いみわかんないけど、なんかあいつらあたしが原因みたいなこと言って揉めてるし……気まずいのよ。一緒にいてよ」
「ふざけるな。どうにかしたいならお前が乱入して全員殴り倒せばいいだろうが。お前なら簡単だろう」
「そんなあんたみたいなことできるわけないでしょうがっ」
「だったら尚更俺に出来ることは一つもないな。諦めろ」
「……暴力以外に出来ることがない風紀委員ってどうなのよ……」
正々堂々と社会に適合していない旨を告げる弥堂にげんなりとした顏になる希咲だが、絶対に一人だけ逃がしはしないという強い意志のもと、弥堂の制服のより掴みやすいブレザーの前裾部分にちゃっかりと持ち替えて拘束を図る。
両手でギュッと握りながら強気に眦を上げる彼女の視線に、弥堂は溜め息を吐くと顎を振って指し示す。
「そいつに頼んだらどうだ。俺よりはマシだろう」
「ん? 俺か?」
その言葉に応えたのはすぐ近くに居た高杉だった。
「……ねぇ、あんたあれほっといていいの?」
高杉が反応したことで希咲も若干渋々とではあるが、彼に要請してみる。ただし弥堂の制服は絶対に放さない。
希咲が高杉に話しかけた瞬間を見計らって拘束を逃れようとした弥堂だったが、思ったよりもがっちり掴まれていて、眉根を寄せて希咲の顏を見るが彼女は意識して無視をした。
「ふむ……まぁ、弥堂の言う通り問題ないだろう。そう酷いことにはならん」
「……そうなの? 白井さんめちゃキレてるけど?」
「よくあることだ。時間がくれば今日はこれでもう解散だろう」
「ふ~ん……ならいいけど…………あっ! ねぇ、今更だけどあんた身体大丈夫なわけ?」
「む? なんのことだ?」
彼らの仲間である高杉が大丈夫だろうと言うので、多少杞憂が晴れた影響か、余裕を取り戻したことでついさっきまで気絶していた高杉の容態について思い当たり彼に尋ねる。
「なにって……あんたさっきまで気絶してたじゃん。けっこういいの顎に入ってたし。だいじょぶなの?」
「あぁ」
自身のカーディガンの萌え袖から出た手でゆるく拳を作り、自分の顏に当ててみせることで、先程のKOシーンを示唆する希咲に高杉も合点がいく。
「なに、問題はない。もともと俺は顔面ありの道場上がりだからな。それこそよくあることだ」
「そ? ならいいけど。具合悪くなったらちゃんと病院いくのよ」
「気遣いは受け取っておこう。恥ずかしい話だが綺麗に貰いすぎたからな。あれならば、例え気絶に至らなくとも中途半端に避けて急所以外を何発も殴られるより却って安全だろう」
「へー、そういうもんなんだ。ま、いいけど……あ! 元気になったからってまたこいつとケンカ始めないでよ? あんたもよ? わかってんでしょうね!」
言葉の途中で高杉から弥堂の方へ顏を向けキッと睨みつけてくる希咲に対して、弥堂はただ肩を竦めてみせYESともNOとも明言しなかった。
「代表から命じられでもしなければ、少なくとも俺の方はもうやり合うつもりはない。今日のところはな」
「ホントでしょうね……あんたたちってすぐ言うこと変わるから疑わしいのよ。とにかく! 今日はもうこれ以上のトラブルはイヤよ」
高杉へと懐疑的な目を向けながら両手の人差し指でバッテンを作り拒否の意思を表す。
その機を逃さぬと、希咲が手を放した瞬間に脱出を図った弥堂だったが、高杉の方を向いたままの希咲がノータイム・ノールックでハシッと制服の裾を掴み直す。彼が舌打ちする音が聴こえたがやはり彼女は無視をした。
「ククッ、目の前でじゃれあって見せつけてくれる……妬けるじゃあないか」
その二人の様子を受けて高杉が粘着いた視線を主に弥堂に対して向けると、希咲は「ゔっ」と慄いたように呻き、弥堂もまた不快そうに眉間に皺を寄せ、示し合わすでもなくじゃれあうのをやめた。
否定はしたいものの色んな意味でこの話題を広げたくなかったので、希咲は誤魔化すように咳払いをし話を逸らした。
「んんっ。ま、まぁ? ケンカしないってんなら文句はないわ。え、えと、ほら? こいつがけっこうヒキョーなことしたから恨んでたりしないかなぁって思って……」
「そんなことはない。俺は尋常な勝負だったと思っている。結果に文句などあろうはずがない」
「そ、そう? ならいいけど……」
「うむ、むしろ素晴らしい体験であった」
「あ、そっすか。じゃあ本日はお忙しい中どうもありがとうございました」
高杉の視線の粘度が増したことを敏感に察知し鳥肌をたてた希咲が、これ以上は語らせまいとペコリとお辞儀をして雑に締めに入ったが、彼を止めることは叶わなかった。
「ククク……そこの男はどうか知らんが俺はベストを尽くした。間違いなく今日の俺は過去最高のデキだった! これほどに血沸き肉躍ったことはない。弥堂……お前はどうだったのだ? 俺との行為はよかったか?」
でろんと舌を垂らし恍惚の表情をする高杉に、希咲は嫌悪感から「うぇっ」と声を漏らし思わず顏を背ける。
すると自然と背後にいた弥堂と顔を合わせることになり、そこに居た彼はいつも通りの無表情で、これでも動じないとかメンタル強いわねーなどと感想を抱くも束の間、パチッと目が合った彼が徐に希咲の襟首を掴む。
「うにゃっ」
希咲に抵抗をする間も与えず簡単に持ち上げると、弥堂は彼女を自分と高杉との間に置いてあっさりと手を放した。
無理矢理立ち位置を変えさせられた格好の希咲は、衣服の乱れを直しながらぱちぱちと瞬きをすると弥堂の顏を見て、振り返って高杉を見て、それからもう一回弥堂の方を見て彼の意図を察した。
「言いたいこといっぱいあるけど、とりあえずあたしを盾にすんじゃないわよ。気持ちはわかるけど」
「気にするな」
「あんたは色々気にしろ、ばかっ」
さすがの弥堂も高杉のような屈強な男に著しい興味を向けられることに不快感を抱いていたようだ。
「そんな鶏ガラ女ではなく俺を見ろ弥堂。フィジカルの強い俺の方がお前を満たしてやれるぞ。俺とお前はもはや他人ではないのだ」
「どういう意味だ」
ここにきてグイグイ迫ってくるホモに眉を顰めて問う。『鶏ガラ女』呼ばわりにピキっていた希咲さんは頑張って口を噤んでいた。
「ククッ、惚けおって。焦らしてくれるじゃあないか……嫌いではないぞ。いいか? 俺とお前は肉体と肉体を以てぶつかりあった。少なくとも俺は全力で、だ。そうだな?」
「気色の悪いことを抜かすな。意味がわかるように言え」
「随分せっかちだな、嫌いではないぞ。つまり、だ。猛るお前の肉体を俺の肉体が全力を以て受け止めた! これはもはやセックスだ‼ そうだろう⁉」
「…………」
「…………」
弥堂も希咲も言葉を失う。二人ともに、普段自炊をしない人が夏場に気まぐれで米を焚いたことをすっかり忘れていて二週間後に炊飯ジャーを開けてしまった時の顏をした。
「今日を以てお前は俺を抱いた男として俺の思い出に永遠に刻まれ、そしてお前の男性経験回数に1がカウントされたのだ!」
「死にたいようだな」
「ちょっ! まっ、まって! わかるけど! 気持ちはすっごくわかるけどもっ! 経験回数2になっちゃうわよ? だから、ね? がまんして? あとで話きいたげるから、ね?」
ズイと前に出ようとする弥堂の胸に両手を当てて懸命に押し留める。なるべく彼を刺激せぬよう言葉と声色に気を遣いながら愛想笑いを浮かべて宥めると、『経験回数2』が効いたのか、どうにか踏み留めることに成功した。
この機を逃さず畳みかけようと、彼の気を紛らわせるため多少無理にでも話題の転換を試みる。
「そ、そういえばぁー? あんたってどんなことにも動じなくってすごいなぁーって、あたし思ってたんだけどぉ……さすがに男にセクハラされるのはイヤなのね」
努めて明るい声を出そうとしたらやりすぎて、普段出したことのないような猫撫で声が自分の口から出たことにびっくりし、思わず笑顔が引き攣る。
弥堂の顔色を窺うと彼も気味の悪いものを見るように眉を顰めていて、自分でも自覚はあるものの彼女はムッとした。
(誰のためにやってると思ってんのよ!)
「あの物体に不快にならない人類がいるのか?」
「んんっ。わかる。わかるけども。ちょぉ~っとお口が悪いわよ弥堂くん」
もはや高杉に配慮など一切不要だとも思えたが、希咲は念のため弥堂の暴言を窘めた。
「まぁ、あんたもこれに懲りてもうセクハラすんのやめなさいよね。自分がされてイヤなことは他人にしちゃダメよ」
「俺がいつセクハラなどした」
「はぁ?」
幼稚園児にするような当たり前の注意をしたら、この期に及んでまだすっとぼけられて希咲のサイドのしっぽがピーンと跳ねる。
「したじゃん! あたしにいっぱいしたでしょ!」
「自意識過剰だバカめ。男が誰でも皆お前に興味を持つと思うなよ。思い上がるなガキが」
「あははー。あんなこと言っておいてゴメンだけどぉ、あたしが先にキレそうだわ」
再び希咲の目が攻撃色に染まり切るその寸前に――
「ふざけないでちょうだい‼」
大音量で轟いた白井の金切り声にびっくりし、「お?」と目を丸くしてそちらに視線を向ける。
「敗け⁉ 今敗けと言ったの⁉ どういう意味なのかしら⁉」
「今日のところは、と言ったのさ。白井さん、これはキミのせいじゃあない。今回に限っては誰でもノーチャンスさ」
緊迫したような白井と法廷院のやりとりが聴こえてくる。どうやら少し目を離した隙に重要な局面を迎えているようだ。
状況を把握するために希咲は彼らの方に注目する。ただし、お散歩中の犬が勝手に走り出したりせぬようにリードを固定する体で、弥堂のネクタイをしっかりと掴んだままで。
「何を以て敗けだと言っているの? あの女のなにがそんなにいいって言うのよ!」
「だって仕方ないじゃないか! パンツまで可愛いんだもの!」
「希咲さんのパンツには勝てないよ!」
白井と激しく口論をする本田と西野の言葉に、何やら雲行きがおかしいことに気付き希咲が「うん?」と小首を傾げる。
「あんなガキくさいパンツの何がいいのよ! 私のパンツも褒めなさいよクソ童貞ども‼」
「いっ、いやだっ! 希咲さんのパンツをバカにするな!」
「僕は希咲さんのパンツの方がいいんだ!」
何やら自分が今現在着用しているパンツのことで真剣に争う人々がいるという事実が希咲には理解し難く、「は? え? なんなの?」と激しい困惑と羞恥から逃れるよう目線を彷徨わせると、自分をじーっと咎めるように見てくる昆虫男と目が合う。
「なっ、なによっ! 思いださないでっ! 想像すんなっ!」
「誰がするか。いいから放せ」
半ば八つ当たり気味に弥堂のネクタイをブンブンしながら非難してくる希咲に、弥堂は呆れた様子で身の解放を要求した。
完全下校時間まではもう十数分といったところだろう。今更その十数分を惜しんでこのギャーギャー煩い女と口論するよりも、もう時間いっぱいまでこのまま付き合ってやった方がマシだと、彼は諦めていた。
さらに、想像するなもなにも、そもそも鮮明にスカートの中を捉えた写真を証拠品としてしっかり画像保存しているのだ。故に思い出すまでもないのだが、それをわざわざ口に出したりはしない程度の賢明さは弥堂にも持ち合わせがあった。
場を調停すべき風紀委員が真っ先に匙を投げた中、状況は進む。
「どこよ! あの女のパンツが勝っている点はどこなのよ! 言ってみなさいよ!」
「色が可愛いっ! 布面積がちょうどいい! 希咲さんが可愛いっ! 足がすごいキレイ! あと柑橘系のいい匂いがしそう! パンチラしてるのに清潔感が一切損なわれないのが才能だね、才能っ! 僕は希咲さんの匂いならきっと白飯何杯でもいけちゃうよ!」
「リボン・フリル・刺繍の完全装備は言わずもがなで、可愛さメインの中でも品があって安っぽくないのもポイントが高い! だけど、僕が特に着目したのはサイドだね! サイドの布地がアクセントでピンクになっているのも可愛いけれど、何よりもパンツのゴムと腰周りのお肉の段差がパーフェクトだよ! 痩せすぎず肉感的すぎず! あれを見ちゃったらもう裏垢女子のモロエロ画像とかクソだね! クソ! だって希咲さんの方が可愛いもの!」
「……やめてぇ……いわないでぇ…………」
「イカ臭ぇこと言ってんじゃねぇぞ仮性童貞どもがああぁぁっ‼‼」
目の前で自分が今現在着用しているパンツについて、余りに審らかに寸評される地獄に希咲は羞恥が限界突破し両手でお顔を覆って悶えてしまう。
あんなに熱く詳細に語られるほどに、ばっちりしっかりあんな奴らに見られてしまったなんて黒歴史確定もいいところだ。
希咲が両手を離したことで解放された弥堂だが、すでに離脱は諦めていたので、ただ心底どうでもよさそうな顔で振り回されていたネクタイの位置だけを直した。
当然、落ち込む希咲を慰めてあげたりなどはしない。
希咲がか細い声でもうやめてくれるよう要請するが、激化する議論に敢え無く掻き消された。
「あんな色気のない下着でおっ勃ててんじゃねぇよキモオタが! 私のパンツの方が火力高いでしょう‼」
「オーバーキルすぎるんだよぉ! 今時極フリビルドでどこでもいけるなんて思わないで欲しいねっ!」
「バランスにもっと目を向けてくれよ白井さん……デリケートな問題なんだ。デリケートゾーンを覆うだけにね……」
「気取ってんじゃねーよ! 本音ではエロければ何でもいいって思ってんだろうが! 男なんてどうせみんなこういうのが好きなんだろ⁉ おらっ! 見ろよっ! 見ろよおおぉぉっ‼」
ヒステリックに叫んだ白井が、頼まれもしないのに羽搏く怪鳥の翼のように自らスカートをバッサバッサと捲り、その中身を見せつけてくる。
上げ下ろしされるスカートから垣間見える、あまりに奔放で暴力的なほどに色づいた性の毒花に、本田と西野は思わず「うっ」と呻き顔を背ける。
鎮痛そうな面持ちの彼らは心を痛めながらも彼女に真実を伝える。
「限度ってものがあるよ! そこまでいくともう怖いんだよ! そんなのお尻を包むパンツじゃなくてもはやケツに貼り付いた変な布切れじゃないか!」
「そんなものが許されるのは映像作品の中だけだよ! それも痴女ものだけだ! リアルとフィクションは違うんだよ……白井さん……」
二人はそこまで反論をすると「ごめんなさい」などと口にしながら、さめざめと泣きだした。白井にとっては屈辱極まりない謝罪だ。
白井の価値観が大きく揺らぐ。己の中に建てた偏見という名の牙城が音を立てて崩れていくような危機感を覚えた。
もしもこの童貞どもの言う通りなのだとしたら、自分が今まで毎日欠かさず行ってきた、想い人に過激な下着に包まれた尻を見せつけるという行いは何だったというのだ。
また自分の中から何か大切なものが喪われるのでは――そんな恐怖感に囚われ、白井は対立中であるにも関わらず思わず自分たちのリーダーへと縋るように視線を向ける。
裁定を求められた『
数秒ほど何かを噛み締めるように瞑目するとカッと目を見開く。
「いいだろう! 此度の勝負の裁定、このボクが執り仕切ろう‼ 審査員集合っ!」
審査委員長である法廷院の号令に応えて、西野と本田が機敏な動作で彼の元へ駆け寄る。
彼らは唇の動きを読まれぬよう口元を手で隠しながら、真剣な表情で議論を開始した。
「ちょっと! ひっ、人の……ぱ、パ…………を勝手に比べて審査とかやめてよっ!」
また勢いと雰囲気だけでおかしな方向に展開しだした状況を打開すべく、希咲が一人の女性として当然の要求をした。
その希咲の言葉を受けた法廷院は片手を上げて迫真の論議を重ねる審査員たちを制止すると、フッと悲し気に目を細め希咲に言葉を返す。
「キミの言いたいことはわかるよ、希咲さん……。みんな違ってみんないい……どんなパンツにも貴賤はない。そういうことだよね?」
「全然ちがうわよっ!」
全力で否定するがどこか遠くを見つめて語る法廷院にその声は届かない。
「ボクもね、基本的にはその意見に賛成さ……。敗者を作らない構図ってのはつまり弱者を作り出しづらくするってことだからね。だってそうだろぉ?」
「きけっつーの!」
「でもね、ボクはこうも思うんだ……。時には白黒はっきりさせることも必要なんじゃないかって……。確かにその瞬間だけを切り取れば敗者が存在することになる。だけど、そうすることで前に進めるってこともきっとあるはずさ……」
「誰も頼んでないってば! やめてっていってんでしょ!」
「大丈夫。キミはベストを尽くした。あとは自分を信じて判定結果を待つといい……。ただし、結果には忖度しないぜぇ? ボクは公平で公正な男だからね。だってそうだろぉ?」
「もぉーーっ‼」
親指を立ててキラリと爽やかな笑みを浮かべてくる男との意思疎通の難易度が絶望的に高すぎることに憤慨し、その場で地団太を踏む。
室内シューズのゴム底が床と擦れる音が、キュッキュッと悲しげに鳴った。
「ねぇっ!」
「…………なんだ?」
堪らず傍らに居る弥堂の袖を引っ張りながら話しかける。
「なんでそんなイヤそうな顔すんのよ!」
「……気のせいだ」
「うそつけっ。てか、あんた意外と顏に出るのね」
「うるさい黙れ」
「ふふ~ん、図星で悔しいのかしら~?」
「……何か話があったんじゃないのか?」
ここぞとばかりにマウントをとり始めた希咲に指摘をしてやると、「あっ」と声をあげて彼女は本来の目的を思い出した。
「あれやめさせてよっ」
「……大丈夫だ。自分を信じろ」
「誰も勝ち負けの心配なんかしてねぇってのよ! あいつらどうにかしてよ!」
「ほっとけ。大したことではないだろう」
「軽く言うなっ! セクハラだし変態行為だし迷惑行為でしょ! あんたの仕事じゃない!」
「俺の仕事がセクハラと変態行為と迷惑行為みたいな言い方をするな。連行されたいのか貴様」
「うっさいっ、へりくつ言うなっ!」
「お前の方がうるせぇだろうが」
制服の袖を掴まれてるため結構な近距離から突き刺さる希咲の声が、頭の中にまでキンキンと響いてきて弥堂はうんざりとしてくる。
「別に好きに言わせておけばいいだろうが。それでお前の何が変わるというわけでもあるまい」
「そういう問題じゃないのっ! やなもんはやなのっ! ねぇーってばぁっ!」
大分形振り構わなくなってきた希咲は、間違いなく彼女の言い分の方が正当なのだが、傍から見ると駄々をこねて男に甘える女の姿のようにしか見えなくなっていた。
八つ当たり気味にグイグイと力任せに弥堂の制服の袖を引っ張ったり、ブンブン左右に振り回したりし出して、そのせいで弥堂の左肩が開けて上着が脱げかけていた。
普段から死んでいる弥堂の眼が二割増しで死んだ。
本人たちにはそんな気は欠片もないが、傍から見るとイチャついているようにしか見えない、そんなじゃれあいをしている内に――
「結果はっぴょーーっ‼」
希咲だけにとって取り返しのつかないところまで事態は進んでしまった。
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