1章61 『希咲 七海』 ②


 それから彼女と一緒に作業をした。



「この土って花壇に入れるの?」

「うん。土がちょっと減っちゃってたから……」



 水無瀬さんは袋の中にちっちゃなシャベルを入れて「んしょ、んしょ」とちょっとずつ花壇へ土を移している。



「……ちょっと貸して」

「え?」


「ぅおりゃぁーっ」

「わ、すごーいっ」



 カワイくない声を出しながらあたしは袋ごと持ち上げて花壇に中身をぶちまける。


 歓声をあげながら水無瀬さんがシャベルでその土を均した。



「この種まくの?」

「うんっ」


「これってテキトーにまいちゃっていいの?」

「え? どうなんだろう?」


「あれ?」

「えっ?」



 なにかがおかしいぞと疑問を感じたあたしの前で、何故か彼女も一緒に首をコテンとする。



「水無瀬さんさ」

「うん」


「お花屋さんで詳しいからって請け負ったんじゃないん?」

「うん……、それがね……」



 また彼女のお顔がふにゃっとした。



「私もそう思ったんだけどね」

「うん」


「よく考えたらうちのお花屋さんね、お父さんが咲いてるお花を仕入れてきてるのね?」

「あー……」


「だから私ね、お花を種から育てたことってあんまりなかったの」

「……なるほど」


「ごめんね?」



 なんだそりゃとも思ったが、なんだか彼女っぽいなと思ってしまって、あたしはまた笑ってしまう。



「おし、こうなったらスマホだ」

「スマホ?」


「そ。検索して調べんのよ。これなんて花なの?」

「かすみ草だよ」


「おけ」



 あたしは素早く画面を操作してキーワードを検索にかけた。


 するとすぐに検索結果が表示される。



「えっと……、4粒ずつくらい? 3cmくらい間隔あけてだってさ」

「わぁ、希咲さんすごいね」


「あたしじゃなくってスマホとかこの記事作った人がスゴイのよ」

「でもでも、私ね? あんまりスマホを上手に使えなくって……」


「こんくらいの検索ならムズくないし。あとでコツ教えたげる」

「ありがとう」


「あっ……」

「どうしたの……?」


「んー、これプランターで育てる時のやり方だ。ま、大体変わんないでしょ」

「そうだねー。いっしょうけんめいお世話すればきっとだいじょうぶだよね」



 あたしのテキトーな言葉に彼女も「うんうん」と頷いた。



「あっ」

「ん? どした?」



 あたしが種を取ろうとすると、今度は水無瀬さんが何かに気付いたような声を出す。



「あのね? 希咲さん。爪が汚れちゃうかも……」

「ん? 爪?」


「うん。せっかくキレイにしてるのに……」

「あー」



 そういえばネイルチップつけてたんだった。


 あたしの手を見て水無瀬さんが残念そうな顔をする。



「こんなのだいじょぶよ。ほら」

「えっ?」



 軽く言ってあたしはパカっと爪をずらしてからペリペリっと剥がす。



「あわわ、たいへんだぁー⁉ つめがとれちゃった!」

「……や、これ付けツメだから」



 ビックリしてピョコンっと跳ねあがった彼女のおさげをジッと見てから、あたしは彼女に剥がしたツメを渡してあげた。



「あ、なんだ。ニセモノの爪なんだね」

「そそ。簡単に剥がせちゃうヤツなの」



 ホントはこんな剥がし方しちゃダメなんだけど、まぁ、後でケアはどうにでもなる。


 パパっと全部外して、今度こそ種まきを始める。


 プスっと土を刺して空いた穴に種を入れていく。



「そういやなんでかすみ草?」

「えっとね。早ければ3月くらいに咲くから、卒業する人たちのお見送りにステキかなって」


「……ふぅん」

「えへへ」



 さっき見た記事だと咲くのは5月頃からって書いてあったような気が。


 あたしはチラっと彼女の横顔を見る。


 とても楽しそうに種まきをしている。



「そうね。ステキね」

「えへへ、だよねー」



 気がしただけだから気のせいだ。


 そういうことにした。


 これは勘違いしちゃっただけだからベツにウソじゃない。


 あたしはやっぱり小賢しくてズルイ女だ。



 さっきの記事の内容なら、そんなことよりも花言葉の方を憶えておいて、それで彼女の優しさが叶うように一緒に願おう。


 その方がステキだ。



 でも、もしも3月に間に合わなかったら、その時は彼女と一緒にお顔をふにゃっとさせようって決めた。



 一緒に土で汚れながら作業を続ける。



「えへへ、こっちの種はねピンクのお花になるんだよ」

「ん? じゃあこれは?」


「それは白だよ」

「へー」


「希咲さんかわいーからピンクやらせてあげるね」

「ぷ、なにそれ」



 カワイイのはあんたでしょと思いながら、彼女の差し出す種を受け取ろうとあたしも腕を伸ばす。


 でも、しゃがんだまま両手で種の入った袋を渡そうとしてくれた水無瀬さんはグラグラとバランスを崩した。



「え? ちょっと――」

「うわわわわ……っ⁉」



 そして彼女はお約束とばかりにこっちへ倒れ込んでくる。


 あたしは手に持っていた白い花の種を放り捨てて彼女を受け止めた。



「ぁいたっ」

「ほげぇっ」



 揃って間抜けな声を出す。


 急なことで反応をミスったあたしは尻もちをついてしまって、水無瀬さんはそのあたしの脚の間に倒れ込んでお腹に顔をぶつけた。



「だいじょぶ?」

「うん……、ごめんね」



 申し訳なさそうに身体を起こした彼女は、あたしの脚の間に視線が止まってハッとした。



「ぴんく……、テカテカ……」

「あ、あははー……」



 苦笑いをしながらあたしは捲れたスカートを戻してそれを隠した。



「ごめんね? 私ドジで運動も苦手ですぐ転んじゃうの……」

「気にしなくっていいわよ。あたしも受け止めるのミスっちゃったし。こっちもゴメンね?」


「でも……」

「いいって。“おあいこ”よ」



 ウィンク付きでそう言ってやると彼女は嬉しそうに笑った。


 なんだかあたしも嬉しくなった。



「もっと転ばないようにちゃんと……」



 そう言ってしゃがみながら足をズリズリ動かす彼女をあたしはキュピンっと見咎める。



「ダメよ、そんな座りかた」

「え?」


「そんなに足開いてしゃがんじゃダメ。下着見えちゃうでしょ?」

「でもでも、こうしないと転んじゃうし」


「女の子はこっちの方が大事なの」

「そうなの?」


「そうよ。ほらっ、足をこうやってしゃがむと見えないでしょ?」

「わ、ほんとだ。テカテカ見えなくなった!」


「テカテカはいいから。真似してみ?」

「うん。よいしょっと……」



 希咲家秘伝の『絶対にパンツを見せないしゃがみかた』を伝授すると、素直な彼女は真似をしてくれた。



「ん、おけ。いい感じよ」


「ほんと? えへへ、希咲さんは色んなこと知っててスゴイね。大人だから?」


「……全然、そんなんじゃないわよ」



 さっき考えたことを思い出して苦笑いになってしまう。



「でもでも、そんなことあると思うの」


「え? なんで?」



 だけど、そんなあたしに彼女は言い募る。


 大人しい子かと思ってたけど、話してみると意外とちゃんと自己主張をするようだ。



「いつも委員会の時とかね『はい!』って手を上げるし」

「あたし誰も意見出さなくて無言になる時間苦手なのよ」


「上級生の人ともお喋りできるし」

「そんなに年上なわけじゃないし」


「先生にも意見言って『うん、希咲の言うとおりだな』ってなるし」

「それはあたしよりも、聞いてくれる先生がいい人なだけだってば」


「うぅー」

「んふふ」



 謙遜論破をすると彼女はくやしげに唸ってしまう。反応が面白くてあたしはドヤ顏でご満悦だ。


 しかし、意外と負けず嫌いなのか水無瀬さんは「うん、うん」頭を捻りながら言葉を探す。


 そしてなにか突破口を見つけたようで、彼女の頭の上にピコンっと光る電球が浮かびその表情も輝いた。


……え? なに今の



「でもねでもねっ」

「え? あ、うん」



 そのことについてあたしが深く考えを巡らせる前に彼女が「はいっ」と手を上げる。


 電球ももう消えてたし気のせいに決まってると、あたしはお話を聞いてあげることにした。



「あのね? パンツもテカテカで大人っぽかったし、やっぱりスゴイと思います!」

「あ、あたしのパンツのことはもういいから……!」



 女の子同士だからベツに見られたってどうということもないけど、こう続けて言及されてしまうと段々恥ずかしくなってくる。


 とはいえ、なんだかあたしが背伸びしてえっちで派手な下着を選んでいると誤解されているようで、それは堪らないので弁明を試みる。



「ベ、ベツにこれくらいフツーだから……!」

「そうかなぁ……」


「そうよ。高校生だし」

「そうなんだぁ」



 めっちゃ素直だ。


 この子言われたら何でもすぐに信じちゃいそうで、大丈夫かなって心配になってしまう。



「高校生ってそうだったんだ……、私知らなかったよ……」

「え? や、ベツにみんながみんなそうってわけでも……」


「私テカテカ一個ももってない……」

「持ってなきゃダメなわけじゃないってば。どんなの持ってるの?」


「えっとね、いちごとかクマさんとかぁ……」

「……ずいぶんカワイイわね」


「そうなのっ。今日はネコさんなんだよ? ほらっ」

「え? って――」



 軽い会話の流れでスカートを捲って彼女はネコさんのプリントが入った白い下着に包まれたお尻を見せてくる。


 それにビックリしたあたしのポニテがぴゃーって跳ね上がった。



「こ、ここ外だってば!」


「え? あ、ごめんね?」


「はやく隠さないと……」



 あまり人の通行が多い時間帯じゃないけど、下校時間だし普通に男子とか通りがかる可能性は大いにある。


 あたしは焦って周りをキョロキョロするけど、肝心の本人はそんなあたしをぽけーっと見ている。お尻出したまま。



「もうっ……!」



 焦れたあたしは手を伸ばして彼女のスカートを強制的にシャットダウンさせることにした。


 しかしその時、ちょっと焦り過ぎたのか、あたしとしたことが身体のバランスを崩す。


『絶対にパンツを見られないしゃがみかた』は機動性があんまりなのだ。



「――あっ、ととと……っ⁉」

「――えっ、あわわ……っ⁉」



 グラグラするあたしを見て水無瀬さんもオロオロした。



 あたしはなんとかバランスを取り戻そうとして足に力を入れる。


 そんなあたしを応援してるのか、それとも一緒にがんばってるつもりなのか、水無瀬さんは「むむむっ」と唸って顏に力をこめた。


 その顔がおかしくって、あたしはまた吹き出してしまった。



「ぷっ、あはは……、なにその顔……って――ぅぁっ⁉」



 そしてそのせいで力が抜けてしまい、あたしは水無瀬さんの方へ倒れ込む。



「あ、あぶない……、えいっ!」



 彼女はあたしを受け止めようとカワイイかけ声をだして両手を伸ばした。



「わわっ、ご、ごめん……っ」

「ぅむむむむぅ……っ!」



 自分の体重をほぼ手離しかけてしまったあたしは、彼女の小さな手によって受け止められる。


 おめめをギュッとして、水無瀬さんは一生懸命あたしを支えてくれている。



(カワイイ)



 さっさと自分の姿勢を戻せばよかったのに、彼女の顔を見てあたしがそんなのんびりとした感想を浮かべていると、今度は水無瀬さんがバランスを失い始めた。


『絶対にパンツを見られないしゃがみかた』は耐久性にも難があるのだ。



「ぁわわわ……っ⁉」

「ちょ、ぅぬりゃぁ……っ!」



 目を白黒させる水無瀬さんを助けてあげようと、あたしも慌てて彼女を支えようと腕力を発揮させる。


 ちなみにまったくカワイくない方の声があたしだ。



「むむむむぅ……っ!」

「むむむむぅ……っ!」



 二人で「むぅむぅ」唸ってお互いを支えようとしばらく頑張ったが、その甲斐はなく――



「むべぇっ」

「むぶぅっ」



 なんでそうなるの?って感じで、重心があべこべでめちゃくちゃなあたしたちは、二人並んで仲良く花壇の土に顔から突っこんだ。


 多分二人ともスカートが捲れてパンツ丸出しになってたから、ホント近くに誰も居なくてよかった。



 二人同時に「ぷぅっ」って顔を引っ張り出して、土で汚れたお互いの顔を見合わせて、それから声を出して笑い合った。


 子供みたいに笑った。



 ずっとちっちゃい頃の、まだ人間関係とかそんなの知らなかったあの頃みたいに、意味も理由も必要なく、ただおかしくって笑った。



 あたしたちはお互いに向きあって、自分のハンカチで相手の顔を拭き合って、それからまた作業に戻った。


 土の上に膝を着いて指を土にプスっと刺して、ゴチャゴチャに混ざっちゃって白とピンクもわからなくなった花の種を撒いた。



 制服も靴下も靴も身体も、全部汚れちゃったから、もう何も気にならなくなっていた。


 メイクもネイルも剥がれた、ただのあたしがここにいた。



 水無瀬さんは結構お喋り好きみたいで、自分のことを色々話してくれた。


 家族のこととか、飼い猫のこととか、それからクラスのこととか。



「――それでね? 弥堂くんがね、風紀委員になるんだって」

「ビトー……? なんか聞いたことあるような……」


「転校生の子なの。とっても真面目なんだよっ」

「転校生……、あぁ、そう言えば5月くらいに聞いたわね」



 真面目……?


 あれ? なんか頭おかしいって聞いたような……


 人違いかな……?


 まぁ、そうよね。こんな普通のいい子が頭おかしいヤツと絡むわけないわよね。



 この時のあたしはそんな風に考えて流してしまって、今になってみれば『あの時気付いていれば……!』という想いがないわけでもない。


 まさか本当にあんなに頭がおかしいとは。


 そんな風に気が付いたのがリアルタイムの一週間前ほどだ。


 なんてこったと言いたいところだけど、でもアイツのおかげで助かったこともあるのが何ともムカつく。



 ともあれ、そんな風に他愛のないお喋りをしながら、あたしたちは花壇を一つやっつけて、お片付けをして、それから一緒にどろんこのまま下校をした。



 学園を出てすぐ目の前にある美景川。


 その川の向こうにある新興住宅地。


 あたしも水無瀬さんもそこに住んでることがわかって一緒に橋を渡って帰った。



 それから委員会の活動があって顔を合わせると必ずお喋りするようになって。


 スマホの番号と“edge”のIDを交換して。


 色んなスマホの使い方教えてあげて、メッセのやりとりをするようになって。



 気が付いたら一番メッセのやりとりが多くなってて。


 あたしは水無瀬さんのことを“愛苗”って呼ぶようになってて。


 水無瀬さんはあたしのことを“七海ちゃん”って呼んでくれるようになってた。



 学園でお昼を一緒に食べるようになったり。


 休みの日に服とか下着とか一緒に買い物行ったり。


 お互いのお家にお泊りするようになったり。



 あたしはバイトもあったけど、そうじゃない時間に何しようって考えると無意識に彼女の顔を一番に浮かべるようになってて。


 その頃には多分あたしの方が愛苗に依存するようになってて。


 それをこの頃に自覚した。



 文化祭を一緒に廻ったり。


 体育祭の“とっくん”を公園で一緒にしたり。


 ウチの弟妹たちと一緒にハロウィンの仮装をして遊んでもらったり。



 クリスマスにはプレゼント交換をした。


 あたしはみらいに頼んで作らせた特製の防犯ブザーと、あと愛苗っぽいなって思ってお花のヘアピンをあげた。


 愛苗もあたしにお花のヘアピンをくれた。


 お花で被ったのがうれしかった。



 でも反面。


 愛苗はいつも『ななみちゃんってネコさんっぽいね』って言うから。


 それならあたしはネコさんのヘアピンあげればよかったって。


 そんなキモイことを考えつつ、次のクリスマスはネコさんをプレゼントし合おうねって約束をした。



 年越しはそれぞれ家族と過ごして、年が明けたらお互いの家族も一緒になって初詣に行った。



 2月になると進級した時のクラス替えの話をよくするようになって。



 そして3月になったら奇跡が起こった。


 5月にならないと咲かないはずの花が全部咲いて、白とピンクが混ざったキレイでカワイイお花が卒業生を送り出した。


 なんかわけわかんない感動がこみあげて、愛苗と一緒に泣いて笑った。



 もしかして願いって叶うものなのかなって。


 その時あたしは考え方がちょっと変わった。



 一つ、その時のあたしには神さまにお願いしたいことがあって。


 だからそれを強く願って、一年生を終えた。



 そして4月――今月。


 その願いは叶った。



 愛苗と一緒にクラス替えの発表を掲示板に見に行って、そして抱き合って喜んだ。


 愛苗は嬉しそうにニコニコしてて、でもあたしはみっともないことに泣くのを我慢してて上手に笑えなかった。


 こんなので泣くのはカッコ悪いけど、あ、これちょっとムリってなったのでトイレに逃げ込んだ。


 個室にこもって一人でポロポロ泣くキモイ女が居た。


 あたしのことだけど。



 やっぱり願いって叶うんだって。


 そう考えられるようになった。


 神様はあたしじゃなくって愛苗の願いを叶えてくれただけかもしれないけど、でも、それでもよかった。



 願いは叶うもので。


 叶うのなら、それなら。


 願ってもいいんだって。



 そう思えるようになって、世界が変わった。



 愛苗が居てくれたおかげで、あたしの世界は変わった。




 愛苗はよく『ななみちゃんカワイイ』『ななみちゃんカッコイイ』『ななみちゃんスゴイ』って、あたしを褒めてくれる。


 ホントは全然そんなことないんだけど、でも、愛苗をガッカリさせたくなくて、あたしはずっと『可愛くてカッコよくてスゴイ』そんなあたしでいられるように頑張ろうと思った。


 愛苗にずっとそう思ってもらえる、そんなあたしでい続けようって、そう思った。



 その為に、愛苗が教えてくれた“おあいこ”。


 彼女が教えてくれた、みんながしあわせになれる最強の魔法。


 それを絶対に忘れないように生きていこうって思った。



 愛苗に嫌われないように、ガッカリされないように、彼女の好きなあたしでいられるように。



 そして、願うこと。



 あたしはもう割とちょっとどうしようもない部分があるけど、代わりに愛苗のことを願おうと思った。


 高校生になっても子供みたいに純粋で無垢で優しい、そんな彼女がこの先もっと成長して大人になっても、ずっとそのままでいられますようにって。



 もちろんそれはとても難しいことで、あたし自身はそんなのとっくに諦めちゃってたけど。


 でも、せめて彼女だけはそのままでいて欲しいって、勝手にそう願った。



 願って、そして――



 そんな彼女が彼女のままでいることを邪魔するモノ、傷つけるモノ、穢そうとするモノ。


 そいつらは全部あたしがやっつけて、絶対にあたしの大好きな愛苗を守り続けるって、そう誓った。



 そう願って、そう誓って、始まった高校二年生。



 それから半月と少しが過ぎて――









――カッと。



 希咲 七海は閉じていた瞼を強く開いた。



 頭に浮かべていた過去の情景や声は、シャワールームに蔓延る湯けむりと水の音に一瞬で流された。



 頭の上にシャワーからの水流を落とし続けている。



 顔に張り付いた前髪や横髪を伝った水が、顎のラインを通って喉を撫でる。


 鎖骨の窪みに溜まった水が溢れて胸の間鳩尾を通り、お臍を避けて二つに分かれ下腹部を流れながらまた合流し、揃えられた茂みの奥へ抜けて落ちる。



 肩に落ちて肌に弾かれた水滴は胸の上に落ちて、なだらかな曲線を滑って先端から飛び降りた。



 後ろ髪を伝った水は首筋から背骨を沿って、尻の合間に流れて脚の間からバチャバチャと床を打つ。



 目の前には壁に貼られた縦長の鏡。


 湯気で曇ってしまって、追憶を経た自分がどんな顔をしているのかも見えない。



 希咲は手を伸ばして蛇口を捻る。


 水は止めずにその温度を一気に下げた。



 冷水に急速に頭を冷やされる。


 鳥肌が立つほどに肌が引き攣り、そして神経も一瞬で張り詰め、精神が研ぎ澄まされた。



 天津 真刀錵がたまに滝行がどうのと言っているのに呆れていたが、なかなかどうして悪くないかもしれないと口の端を僅かに持ち上げた。



 冷水の放出でシャワー室内の温度も下がり、湯けむりが薄まってくる。



 希咲は目の前に真っ直ぐ腕を伸ばし、鏡に掌を押し付けてそのまま下へ鏡面を撫でた。



 曇りと水滴が無くなり、自分自身の姿が映し出される。



 鏡の中の女と目を合わせた。



「――わかってるわね、七海」



 情けない顏をしていたら許さないと睨みつける。



「今日よ――」



 人生における重要な選択。



 それは今日であり、そして絶対に間違えられない。



 今日を間違わない。













「――どうしたの、弥堂君?」



 野崎 楓のその声に弥堂 優輝は目線を彼女の方へ向ける。



 授業と授業の合間の休み時間。


 自身の席の周辺で彼女たちが雑談をしていたのには気が付いていたが、特に自分には関係ないのでその声を意識の遠くの方で聞き流していた。



「俺がなにか?」



 学級委員で同じ風紀委員である野崎さんは有能で便利な女だ。


 だから弥堂は普段は彼女の話は割と聞くようにしていたのだが、迂闊にも聞き逃していただろうかと彼女へ問う。



「えーと。用事ってわけじゃないんだけどね……」


「そうか」



 なら気安く話しかけてくるなと口に出しそうになったが、彼女は使える女なのでギリギリのところで堪えた。


 短く返事をして、余計なことを言わぬよう窓の方へ視線を戻す。



「なんかね、今日はずっと窓の外見てるなぁって思いまして」

「そうか?」


「うん。授業中も見てるから、どうしたのかなって気になっちゃって」

「どうしたんだろうな」


「なにか探してるの?」

「……そうかもしれないな」


「探し物は見つかった?」

「見つからないからずっと見ているんだろうな」


「そっか」



 それっきり彼女は声をかけるのをやめた。


 苦笑いを浮かべた気配は伝わってきたので、どうやら困らせてしまったらしい。



 代わりに他の女どもの話声が耳に入ってくる。



「ぅわぁ。なんかオサレなこと言ってるんだよ」

「ちょっと。やめなよ、ののか。男子ってそういうとこナイーブだからイジっちゃカワイソウよ」

「私は真帆のそれが一番心を抉ると思うわね」



 女など所詮どいつもこいつも馬鹿だと弥堂は考えているので、真面目に聞く価値はないとまた彼女らの声を遠くに遣ろうとした。



 その時――




「――あ、いたいた」

「おぉーいっ! ビトーくーんっ!」



 教室の入り口の方から無遠慮でガラの悪い声で名前を呼ばれる。



 弥堂は無感情に視線をそちらへ動かした。



 訪問客はモっちゃん軍団4名だった。



 目が合うと彼らはニカっと嬉しそうに笑い、勝手に他クラスの敷地へ踏み入って来る。



 ほんの少し使ってやっただけで日に日に懐いてくる彼らを疎ましく思い、弥堂は眉間に皺を寄せた。



「何の用だ」



 席の前まで来た彼らへ無愛想に用件を問う。



「いや、それがちょっと困ったことがあってよぉ」



 その答えに増々弥堂は不快になる。



 そういえば彼らは昨日『自分たちのケツモチは弥堂だ』というようなことを勝手に言っていたが、まさか何かあるごとにこうして自分に言いに来るわけではないだろうなと苛立つ。



 弥堂はさりげない動作で机の中に右手を入れる。


 そしてマイナスドライバーを握った。



 一度腹でも刺してやれば彼らのような野蛮で頭の悪い者でも、その曖昧な自他の境界線が赤く鮮明に染まり、はっきりと越えてはいけないラインというものを認識するかもしれない。


 そう考えて右手を引き抜こうとしたところで――



「――これなんだけどよぉ……」



 モっちゃんが右手の掌を差し出してくる。



 その手の上に置かれた物を視て、弥堂は眼を細めた。



「……これは」



 問いではなく呟く。



「落とし物なんだよ」

「落とし物だと?」


「あぁ。オレらHRフケて並木道の方でブラブラしてたんだけどよぉ」

「自首がしたいということか?」


「チ、チゲェって……! そこでこれ見つけたっていうか、気付いたら持っててよォ……」

「窃盗を自白したいということか?」


「カ、カンベンしてくれよ! オレらがこんなモン持っててもしょうがねェだろ⁉」

「……それはそうだな」



 彼の掌の上からそのブツを回収する。


 指で摘まんで目線の高さに持ってきた。


 それは――



「――ヘアピンなんだよ」

「お花だね。カワイイ」

「パっと見は少し子供っぽいようでいて、でもセンスがいいわね」

「女子の持ち物だろうけど、困ってるかもね」



 横から覗いてきた女どもが好き勝手に検分する。


 ジッと咎めるように見ると、彼女らは普通に笑いかけてきた。



(カンベンして欲しいのはこっちだ……)



 彼女らが本来笑顔を向けるべき相手は自分ではないはずなのに。


 そう心中で愚痴りながらモっちゃんへの質疑を再開した。



「これを何故俺に?」

「いや、ビトーくん風紀委員だろ? 落とし物って風紀委員でいいんだよな?」


「それは合っているが、風紀委員の本部へ届ければいいだろ」

「いや、だってさァ……、そこ近づいたらなんかそのままオレら捕まるんじゃねェかっておっかなくてよ……」


「そんなわけがあるか」

「でも風紀委員ってそんなイメージじゃん」



 当然風紀委員会はそんなことはしないが、風紀委員会にそんなイメージが付いているのは90%ほどは弥堂のせいだ。


 弥堂はその見覚えのあるヘアピンを眺め、さてどうしたものかと考える。



「私が預かりましょうか?」



 すると、野崎さんがそう申し出てくれた。


 弥堂は少し考え――



「――ところで、キミたちは今朝の出来事についてどう考えているんだ?」



 まったく関係のない質問を野崎さんを含めた女子生徒たちへ訪ねた。



 彼女たちは戸惑いを浮かべ、顔を見合わせ、



「えっと……? 今朝って、何かあったかな……?」



 代表して野崎さんがそう答えた。


 他の者も同意であることが表情から見て取れる。



「わかった」



 弥堂はヘアピンを掌の中に仕舞った。



「これは俺が預かる」


「えっと……? お任せしちゃっていいの?」


「あぁ。持ち主に心当たりがあるんだ」


「あ、そうなんだ。よかった。届けてもらったらきっと持ち主の子も喜ぶね」


「……そうだといいな」



 弥堂はヘアピンをポケットに入れ、また窓の外へ眼を向ける。



「ご苦労。用済みだ。消えろ」


「ヒデェな!」



 そっぽを向いたままのあまりに冷淡な労いにモっちゃんたちはビックリし、だが「ビトーくんらしいな」と笑いだした。



 彼らと笑い合うべきなのも、やはり自分ではない。


 だから、それがとても不快だったので弥堂は無視をして外の風景を眺める。



「どうしたんだ? 窓の外なんか見て」


「…………」


「えっと、なにか探し物があるんだって」



 不思議そうに尋ねるモっちゃんに何も答えないでいると、苦笑いをした野崎さんが気を利かせて代わりに答えてくれる。


 やはり便利な女だと思った。



「へぇ。なに探してんだ?」

「オレらどうせ次の授業もフケっからよ! 探してきてやろうか?」


「結構だ」



 面倒なことにならぬよう今度は自分で答える。


 だが、ヤンキーたちは人の好さそうな笑みを浮かべて気安くグイグイとくる。



「なんだよ水クセェな」

「オレらとビトーくんの仲だろ?」


「……もう見つかったからけっこうだ」



 一瞬コメカミに青筋が浮かんだが、暴力衝動を抑えながら弥堂は断りを入れた。



「え? なんだ、そうだったのか」

「よかったな。なに探してたんだ?」


「別に。一つは見つかった」


「……?」



 答えているようで答えになっていない弥堂の言葉に彼らは首を傾げて、なおも問いを重ねようとしたが――



「――あの」



 野崎さんに口を挟まれる。



「え? な、なんだ?」



 急に女子に話しかけられて彼らは僅かに怯んだ。



「授業をサボっちゃダメです。ちゃんと教室に戻ってください」



 至極真っ当なお叱りを受けると、彼らは反射的に去勢を張る。



「ンダコラ! アマテメェッ!」

「オレら上等なんだよッ!」



 途端に攻撃的になったヤンキーたちに野崎さんは怯んだりしない。


 スッと腕章を取り出し、それを左腕に通した。



「私も風紀委員です。サボりは許しません」



 そう気丈に通達をすると、彼らは激昂――することなくガターンっと腰を抜かした。



「ひっ、ひぃぃぃ……っ⁉」

「ゆ、ゆるしてくれぇ……!」

「拷問はいやだぁ……っ!」

「命だけは助けてくれぇ……!」



 そして口々に命乞いを始められ、野崎さんはびっくり仰天した。



「え? え……? ごうもん?」


「に、にげろぉ……!」


「ちょっと待ってください! 風紀委員は拷問なんてしませんから……!」



 野崎さんの制止を振り切ってモっちゃんたちは一目散に逃げ出した。



「さ、さすが泣く子も拷問する悪魔の風紀委員会なんだよ……!」

「う、うわぁ……、目の前で見ると普通に引くね……」

「見事よ楓。これは今年の委員長選手権はもらったようなものね」


「ち、ちがうの。本当に風紀委員はそういうのじゃなくって……」



 弥堂は、喧しく聴こえる女たちの声を今度こそ意識から追い出す。




 この学園内で落とし物を見つけたら、それは大概の場合風紀委員会に届けることになっている。


 それを預かった風紀委員は持ち主の特定を試み、それが誰かわからなければ一定期間預かった後に職員室へ拾得物を移す。


 逆にもしも持ち主の特定に成功した場合、その時は風紀委員の手で直接本人へ拾得物を届けることも許可されている。



 弥堂 優輝は風紀委員であり、正常で優秀な学園の犬である。


 だからこれは彼の仕事の範疇だ。




 理由がひとつだけ増えた。



 だが、まだ足りなかった。



 弥堂は窓の外を見続ける。













 ななみちゃんがだいすき



 ななみちゃんは一番のおともだち



 ななみちゃんはすごい


 ななみちゃんはかっこいい


 ななみちゃんはとってもかわいい



 やさしくって、なんでもできて


 憧れのおともだち



 ななみちゃんはとても足が速いから


 おいてかれないように私もがんばる



 ななみちゃんはすごいから


 “や”な顏にさせないようにもっとがんばる



 ななみちゃんはやさしくって


 いっつも私をたすけてくれて


 ずっと私をまもってくれてた



 わたしが気付く前にパパっと色々しちゃう



 わたしはさきに“いいこと”をしてもらった



 だからわたしもななみちゃんをたすけて


 ななみちゃんのことをまもってあげたい



 “おあいこ”じゃないと


 またおともだちでいられなくなっちゃう



 ななみちゃんはやさしいから


 そんなことないかもしれないけど


 でも“おあいこ”じゃないとずるいから


 そうなっちゃうかもしれないから



 まえはできなかった



 かけっこはやっぱりとくいじゃないけど



 でも、わたしにはまほうがある



 だからいまはきっとできる



 ななみちゃんをたすけて


 まもってあげて



 ずっとえがおでいられるように


 ないちゃわないように



 わたしのまほうで











 美景台学園近くの国道。



 土手に沿ったその道の歩道を水無瀬 愛苗はトボトボと歩いていた。



 学園から飛び出したあと、狭い民家と民家の間の道を無茶苦茶に走っていたら見事に迷子になり、ようやく先程この国道まで戻って来られたところである。



 感情に任せて勢いで学園を飛び出したはいいものの、彼女は行く当てが無くてただ何となく学園から離れようとしていた。


 これまでの人生で一度も学校をサボったことのない彼女には、こういう時にどうするものなのかという経験も発想も足りていなかった。



 幸いバッグは持ったままではあったが、お家に帰るわけにも行かず頼りない歩調で何処かへ向かう。



 どうしようと思い巡らせていると、前方の様子が変なことに気が付いた。



 大して広くもない歩道の中にちょっとした人だかりが出来ている。


 大人の人が何人かでなにやらざわざわしているようだ。



 今はとても寂しい心境だったので、なんとなくそちらへ引き寄せられる。



 人だかりは何かを中心にして囲んでいるようだった。



 何だろうと、不思議に思って壁になっている人の背中の先を覗こうとするが、背の低い彼女には中々難しい。



 さて、どうしようとそう思った瞬間、パチンっと指を鳴らす音が聴こえた。



 そうすると何かを相談していた大人たちはスイッチが切り替わったかのように無表情になり、話を打ち切って、挨拶をするでもなく方々へ散っていく。


 異様な光景に周囲の温度が少し下がったように体感した。




「――いけませんね。正義の魔法少女がサボタージュだなんて」



 聞き覚えのある声に水無瀬はハッとする。


 声の方に視線を動かそうとして、そして失敗した。



「学びの機会は貴重です。いつかの未来で突然そうしたいと願っても、日々の限られた時間がそれを許さなくなることも往々にしてあります」



 人集りがなくなったその先、地面に在るモノが目に入って、それから視線を動かせなくなってしまった。



「まぁ、それでも本人にその気があれば何とでもなるんですが、今それが出来ない者が未来に出来るようになるとは、到底思えませんよね。信用も知識も積み重ねなければ、誰も話を聞いてくれない」



 そんな水無瀬にお構いなしに、歩道と車道を区切るガードレールに腰かけた男は、まるで世間話でもするように気安く話しかけてくる。



 男は両足を路面につけて立ち上がった。



 そして、水無瀬が視線を釘付けにさせるモノの横まで歩き、そして立ち止まって相対した。



「とはいえ、私にとっては手間が省けて都合がよかったですが」


「な、なんで……」



 水無瀬が問いかけたのは男にではない。


 男もそれがわかっているので答えなかった。



 水無瀬の見つめる先には、子犬。



 血と土で汚れた子犬が路面に打ち捨てられていた。



 これまで見つめている時間でたったの一度すら、ピクリとも動かない。


 どう見ても――



「さて、出遭ってしまったのならば始めましょうか。魔法少女ステラ・フィオーレ――」



 闇の秘密結社を名乗る組織。


 ゴミクズーを指揮し人々に迷惑をかける集団。


 魔法少女の敵。



 その幹部であるアスはタキシードのような黒いスーツの埃を払い、水無瀬にそう宣言した。



 その足元には子犬の死骸。



「――ここは終幕の手前です」

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