1章62 『獣の足音』 ①


 がんばっておそとをはしったら


 おとうさんがよろこんでくれた


 おかあさんもわらってくれてた



 あるひ、わたしががんばったら


 おとうさんは「すごいね」って


 おかあさんは「よかったね」って



 あるひ、わたしががんばったら


 おとうさんはざんねんそうにして


 おかあさんもざんねんになって



 あるひ、わたしががんばったら


 おとうさんは「ごめんね」って


 おかあさんも「ごめんね」って



 だから、もっとがんばってみたら


 おむねがいたくなって


 のどがくるしくって


 わたしはころんじゃった



 おむねがいたくて


 のどがくるしくって


 たてなくって、ないちゃって


 せかいがまっくらになった




 めをあけたらしろいせかい


 しらないひとたち


 せんせいと、おねえさん


 おねえさんがおとうさんとおかあさんをよんでくれた



 おとうさんはないてて


 おかあさんもないてた



 ふたりとも「ごめんなさい」っていった



 なにがなんだかわからなかったけど


 わたしもかなしくなって


 ないちゃった



 ふたりがかなしいのもざんねんなのも


 “や”だから



 わたしはもっとがんばろうとおもった

















 美景市を横切るように敷かれ、私立美景台学園の前も通り東京都心部へと繋がる国道66号。



 美景川の土手の麓となるその歩道で、水無瀬 愛苗みなせ まなの前に悪の大幹部であるアスが突如現れた。


 昨日、彼の部下となるボラフとの決着をつけたばかりである。



 そのアスに宣戦布告をされたような形だが、水無瀬の意識は彼には向いていなかった。



 アスの方にも、彼女の態度に気分を害したような様子はない。


 余裕のある優雅な仕草で佇んでいる。



 銀色の長い髪、美男子然とした面差し、几帳面に着こなされた黒いスーツ。人間にしか見えないその出で立ち。



「――事故のようですね」



 スーツの胸元に飾られたコサージュ。それから垂らされた細い鎖をシャラリと鳴らしながらアスが口を開いた。



「え……?」


「この犬ですよ」



 アスは自身の足元、水無瀬の視線が向く先を示唆する。



「子犬。首輪が付いていますね。今は汚れていますが毛並みも艶も悪くない。親・兄弟とはぐれて走り回っているうちに車に撥ねられてしまったのでしょうか」


「こ、この子、もしかして……」


「えぇ。もちろん死んでいます。とっくにね」


「そんな……」



 水無瀬は両手で口元を抑えて茫然と死骸を見る。


 しかしすぐに気を持ち直した。



「はやく埋葬――ううん、飼い主さんを探して教えてあげないと……」


「それには及びません」



 どうしたらいいかという考えは即座に否定される。



「というか、そうされると困ります」


「え? 困るって……」


「これを見つけたのは偶々なんですが、それでも処分をされないよう今まで見張っていたのです。それを簡単に手放すのは少々惜しいですね。時間の浪費、という意味で」


「な、なにを言ってるんですか……?」


「これ。死んでから少し時間が経っているんですよ」



 水無瀬へ向かって言いながら、アスは靴底を子犬の死骸に乗せ汚れた毛皮を撫でた。



「やめてください……っ!」


「轢かれた時は元々車道に転がってたんですよこれ。あまり死骸を潰されても面倒なので歩道に除けてあげたんです。しかし、それでも人目に付けば処理されてしまうじゃないですか?」


「そういえばさっきの人たち……」



 水無瀬がここに来た時には何人かの大人が集まっていた。この死骸をどうするかを話し合っていたのだろう。



「なんであの人たち突然……」



 それが急に操り人形にでもなったかのように突然解散してここから立ち去ってしまった。



「あれはニンゲンが使う『認識阻害』の魔術など、それの応用です。行動に対する強制力をやや強めているので『催眠』とも謂えますが」


「まじゅつ……?」


「アナタたち魔法少女の変身にも使われているものですよ」


「えっ?」



 自分でもよく理解をしていない魔法少女の変身システムについてアスの口から語られ、水無瀬は驚きに目を見開く。



「変身した姿で知り合いに会っても、それがアナタだと認識されないように。魔法少女のコスチュームにはそんな『認識阻害』の魔法がかかっています」


「そういえば……」



 パートナーであり、お助けマスコットでもあるネコ妖精のメロもそんなようなことを言っていたと思い出す。



「もっとも、それほど強力なものではありませんので、目の前で変身をしたりすれば効果がなかったりもします。それに――魔法少女自身が成長してその存在の強度が上がれば、隠し切れなくなったり……」


「存在の強度……?」



 なんだろう。誰かが似たような言葉を言っていた気がすると、水無瀬は記憶を探る。


 その作業をアスは待ってはくれない。



「それを補強するのが『結界』。現実の空間のコピーを作ってそこに入り込む。そのように説明されているかもしれませんが、実は微妙に違います」


「えっ?」



 突き付けられる新たな事実に、思い出そうとしていた事柄が頭から押し出されてしまう。



「あれは次元の隙間――とでも言いましょうか。アナタ方が棲んでいるこの次元と、我々のようなものが本来棲息する次元との隙間なのです」


「ちがう世界……、ってことですか……?」


「いいえ。同じ世界です。だが知覚能力に差があるので次元が違うのです。まぁ、これはニンゲンには説明してもわかりませんので理解しようとしなくて結構。理解できないからこそ次元が違うのです」


「…………」


「戻りますが、『結界』とはその少しズレた次元への扉を開き、その中の一定範囲を一時的に自分の世界とすることです。その『結界』には原則として管理者の許可なく外から他者は入れない。管理者よりも圧倒的に格上にはその原則は通じませんがね」


「だから普通の人は入れない……」


「そうです。おまけの機能として、結界が張られている間は元の次元でのその地点の周辺には他者が寄り付かないようになり、さらにその周辺で見聞きした記憶を思い出さないようになる。そんな『認識阻害』と『催眠』が施されます。それによって魔法少女の秘匿性を保っているのです」


「な、なんでアスさんが……」



 語られた内容自体よりも、何故敵であるはずの彼が自分たちよりも魔法少女について詳しいのか。


 そのことの方が水無瀬には気に掛かった。



「むしろ何故アナタ自身がわかっていないのです」


「え、えと、それは……、ごめんなさい……」


「まぁ、ともかく。そんな『認識阻害』を使って私はずっとここで人払いをしていたのですよ」


「ど、どうして、ですか……?」


「ちょうどよく“使える”と思ったからです」



 話を聞くたびに不審さと不穏さが深まるが、だが訊かないわけにもいかない。



「使える……って?」


「もちろん、“これ”ですよ」



 アスは死骸から足を下ろすと懐から試験管を取り出した。


 そして親指でコルク栓を飛ばし、その内容液を子犬の死骸へかける。



「な、なにを……」



 一本まるまる中身を死骸へ注きかけると、毛皮にこびりついて固まっていた血痕が滲み、そして拡がって薄まっていく。


 その様子を茫然と見ていると、小さな子犬の躰に異変が現れた。



 躰のほんの一部分、毛皮の僅かに上に浮いたように――


 黒い文字のような、のたうつ蚯蚓にも見える刻印のような、そんな黒が顕れた。



 毛皮が黒に染まったわけでもなく、タトゥーのように躰に何かが描き込まれたわけでもなく、肉体の少し上――もしかしたら下か横かもしれない――目の前に実在するそれとはズレた何処かにその黒が在るように感じられてしまう。



「魂の残滓――」


「え?」



 混乱する水無瀬に答えるようにアスが口を開く。



「全ての存在には魂が在ります」


「たましい……」


「生物だけではなく無機物にすら。アナタ方ニンゲンは魂と聞くと、自分の身体の奥底にある自我や心、本当の自分――そういった霊魂のようなものをイメージすると思いますが、それは違います。魂とは『世界』に存在するための、あらゆる存在の基礎のようなものです」


「『世界』……」


「世界最小の物質――アナタたちニンゲンは物理学においてそれが素粒子であるとしていますが、その最小にはまだ手前がある」



 聞き手の反応などお構いなしに、アスは愉悦に染まった目でその知を語り出した。



「――『世界』は『霊子れいし――エーテル』によって構成されている。アナタがたニンゲンがエーテルと呼ぶモノとはベツモノ。物質以前の物質。この『世界』に存在するあらゆるモノはこの『霊子エーテル』に結びついた他の余分なモノでカタチを得て物質化している」

「――霊子にまず魔素が結びつき有情物となる。そして魔力を持つ。非情物には基本的にそれがない」

「――霊子が集まり重なり広がり伸びて、束ねられて糸と成り、数多の糸が複雑に絡まりさらに束となって編まれ一つの作品と成る。それが存在」

「――その作品は仕様書。その存在が何になれて何になれないのか。何が出来て何が出来ないのか。どこまで出来てどこから出来ないのか。そういった仕様・条件が事細かに記載される。それが――」


「――魂の設計図……」



 水無瀬がポツリとその言葉を口にすると、饒舌に語っていたアスの口上が止まった。


 彼の目がジロリと水無瀬へ向く。



「……何故ニンゲンがそれを知っている?」



 水無瀬は答えない。



(弥堂くんが言ってたことと同じ……? なんで弥堂くんがアスさんと同じことを……)



 彼女は違う疑問に思考を支配されていた。



「まぁ、いいでしょう。その完成した『魂の設計図』それに記載された仕様が『世界』に許されれば、存在と成り、この『世界』に存在することを認められます」

「――生物――有情物であれば魔素をとりこみ魔力を得る。つまり生命が在るモノとは魔力を持つモノと定義される」

「――アナタも私も、さっきここらに居たただのニンゲンも。全ての存在は『魂の設計図』を持ち、さらに魔力を持って生きている」

「――次元の低い有情物にはこの『霊子エーテル』は知覚することが出来ない。だからアナタたちニンゲンには魂が見えない」


「いったい、なんの……」



 アスはニヤリと笑う。



「順番を整理しましょう。まず『世界』は『霊子』で構成され、そこから分け与えられた『霊子』が結びつき『魂の設計図』となり、それに『魔素』が結びつくことで生命を得て、そして生物として生まれる。ここまではいいですか?」


「は、はい……」



 まるで講義でもするような調子のアスに戸惑いつつ水無瀬は頷いた。



「生きているということは、この『魂の設計図』を維持し続けることになります。では、死は? 死ぬということはどういうことでしょう?」


「え……?」


「死ぬいうことは生命を失うこと。つまり魔力の喪失。魔力の喪失とは外から魔素を取り込めなくなること。新たな魔力の生産が出来なくなること。魔力の生産――その運動が行えなくなること。すると霊子と魔素の結びつきが解かれる。その結果、『魂の設計図』はそのカタチを維持できなくなる」


「ほどける……」


「そうです。紡がれていた霊子はほどけ、バラバラになり、崩れて散って、そして『世界』へ還る。それが死であり、死とは存在出来なくなるということ。即ち滅び」


「…………」


「つまり、“これ”の『魂の設計図』はもう壊れているということになります」


「でも、まだ身体が……」



 アスが足元の死骸を指して言うと、水無瀬が反論する。



「えぇ。まだ死骸が残っています。ですが、これにはもう生命は無く。時間とともに朽ちますよね?」


「それは……」


「ですが、稀に消えないモノもあります」


「え?」



 子犬の死骸の上に浮かんでいた黒いモノが段々とその大きさを増していた。



「これは有情物に限りますが、死した時に――あるいは死す前に。強い未練、怨念。そういった心の欠片が消えずに残ってしまうことが稀にあるんです。崩れた『魂の設計図』の一部分――その怨念が記載された欠片だけが取り残されてしまうことがある」


「おんねん……」


「それは魂の欠片、存在の残滓」


(それも弥堂くんが言ってた……っ)


「それは『世界』にこびりつき、残ってしまった妄執という名の泥。微かに憶えている終の手前、曖昧あやふやになった未練の断片。その怨念を果たすこと、それを欲するだけの遺り滓。しかしそれがそのまま消えることなく残り続ければ、やがて凝り固まり、周囲の魔素を取り込み、他の遺り滓とも結びつき、存在の強度を増して一つの存在と為ってしまう」



 蠢く黒が拡がって子犬の死骸を包んでいく。


 そして中の肉が毛皮を隆起させ躰が肥大化していく。


 別のカタチに為るように。


 別の存在へと為り変わるように。



「こ、これって……、まさか……⁉」


「その様子だとまだ気づいていなかったようですね。ゴミクズーの正体に」


「え……っ⁉」


「通常、単一の存在が一度滅び、その遺り滓がそのまま永らえることはそんなに多くありません。生前余程の存在だったわけでもなければ」


「一回滅ぶ……、死ぬ……?」


「どんな存在もその存在の継続を必ず願う。それは誰もが例外なく、そういう風に出来ている。この私でさえも」



 目の前で蠢きながら大きくなっていく存在よりも、アスの話の方に意識を引かれてしまう。



「死して残ってしまえば、そこには必ず消えたくないという想念が在る。むしろほぼそれしかない。するとどうなるか――他の残滓と惹かれ合い結合する。そして周囲の魔素を取り込みながら、その存在の強度を増していく」



 大きくなった犬の後ろ足が人間のようになり、二本足で立つ。上半身は犬の形状を残しながらそのカタチは未だ定まらずに蠢いていた。



「生命果て、魂がほどけ、消え去ることも出来ず、滅ぶことを赦されなかった、現世に堕とされた、存在の塵屑ゴミクズ



 それの上半身は犬と人間が混ざったカタチとなり、まるで狼ニンゲンのように為った。



「それが再びカタチを得たのがゴミクズー。アナタたちが幽霊とかお化けなんて呼んでいるモノですよ。地縛霊なんかは概念が近いですが、厳密にはすべて違う。しかしこれは覚えなくてもいいでしょう」


「そ、それは……」


「そう。つまりは元は生きていた存在。そういうことになります」


「そんな……」


「薄々気付いていたんじゃないですか?」



 アスの指摘どおり、水無瀬にも何となくそれはわかっていたかもしれない。


 ずっと声が聴こえていた。


 死にたくない、消えたくない、痛い、苦しい、お腹が空いた――と。


 きっと、それが怨念。



「本来はそうなるまでにはそれなりの時間の経過が必要なんですが、促成溶液セイタンズミルク――私が使用した薬品にはそれを促進し時間を短縮する効果がある。もちろんデメリットもありますがね」



 2mほどの体躯となった狼男ワーウルフを見上げ、水無瀬は後退った。



「ふむ。親犬と飼い主のニンゲン。自我がまだ曖昧で自分が犬なのかニンゲンなのか確信していなかったようですね。それでイメージが混ざった。ただ大きくなりたい。そんな欲望があった。そんなところでしょうか」


「そ、そんなの――」



『カワイソウ』と、水無瀬はそう続けようとしたが――



「――うっ、うわぁぁーーーーっ⁉ な、なんだコイツ……っ⁉」


「えっ?」



 背後から聴こえた男性の悲鳴に慌てて振り返る。



 そこに居たのは通りすがりの一般人だ。



「な、なんで――」


「あぁ。言い忘れていましたが。先ほど講釈した『認識阻害』、その魔法はとっくに解除していますよ」


「そ、そんな……⁉」



 周囲を見れば通行人が何人か散見され、車も普通に車道を走っている。


 このままでは――



「――ニンゲンが襲われますよ? さぁ、変身なさい」


「くっ……!」



 急いで胸のペンダントを握る。



「シ、シードリング……」



 そして魔法少女に変身するための呪文を唱えようとしたところで――



「――え?」


「――は?」



 目の前の大きな狼男ワーウルフの姿が消えた。



 思わず疑問の声が水無瀬の口から――



 狼男ワーウルフが目に見えないほどの速さで動いて視界から消えたわけではない。


 何故なら、その場に下半身は残っている。



 上半身だけが消し飛び、それが千切れた断面からからは血飛沫のように黒い欠片が噴き上がっている。



 そしてこれはアスにとっても想定外の出来事のようだ。



 今しがた水無瀬があげた呆けたような声。


 それと似たものがアスの口からも漏れていた。



 水無瀬とアス。



 二人の目の前で狼男の残された下半身が路面に倒れる。



 一体何がと、呆然としていると――




――バキンッ、ガリッ、グチュッ、ブツリッ……と、何かを嚙み砕き、千切り、磨り潰し、咀嚼するような音が近くからしてくる。



 水無瀬もアスも反射的にそちらへ身体を回した。



 そこには背の高い男が居た。



 こちらへ背を向け、片手を口元に遣り、ナニカを食べているように首と肩を動かしている。



「バ、バカな……、アナタは……」



 アスの口からそんな声が。


 彼とは何度も会ったことがあるわけではないが、見たことのない狼狽え様だった。



「――マズイな」



 やがて大男がそう呟いてベッと唾を吐いた。


 それとほぼ同時に倒れていた狼男の下半身が崩れ砂となり、『世界』へと還っていった。



 大男が振り向く。



 ボロボロのジーンズ。ガラの悪いアロハシャツ。


 シャツのボタンは止められておらず、その下には何も着ていない。


 筋骨隆々で、今しがた彼が喰った狼男ほどの大きさがあるかもしれない。


 まるで鬣のような赤茶色の髪。


 そしてライオンのような目。



 なにより向き合っただけで感じてしまう、圧倒的なその存在感。そこに居るだけで他者を威圧するような圧迫感があった。



「なんの足しにもなりゃあしねェ。チッ、ゴミが……」


「アンビー・クルード……、何故ここに……」


「ア?」



 ギロリとその瞳孔が縦に狭まると、周囲の温度が一気に冷え込んだ。



「誰の名を呼んでんだ? アァ? クソモヤシ野郎がよ」



 その言葉は、威圧は、殺気は水無瀬に向けられたものではない。


 だが、それでも水無瀬は身体が動かせなくなる。



 カチカチと自分の歯が打ち合う小さな音が耳の中で響いていた。

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