1章62 『獣の足音』 ②


 水無瀬の目の前で、アスが子犬の死体に促成溶液セイタンズミルクと呼んだ薬品を振りかけた。


 すると、子犬の死体はゴミクズーへと生まれ変わった。



霊子エーテル』『魂の設計図』『魔素』『存在の強度』、そして『ゴミクズー』の正体。


 俄かには信じ難い話を次々と聞かされた水無瀬が混乱する中、新たに生まれたゴミクズーが動き出す。



 しかし、一般人が襲われるのを阻止するために水無瀬が魔法少女への変身を決意した時、そのゴミクズーの上半身が消し飛んだ。


 たった今生まれたばかりのゴミクズーは、この場に現れた初めて見る大男によって一瞬で喰い殺されてしまった。



 アスとその男の口ぶりから二人は既知の間柄のように見受ける。


 おそらく“闇の秘密結社”の仲間なのだろうと思われるが、しかし様子が少しおかしい。



 水無瀬の近くに立つ悪の大幹部であるアスはどこか張り詰めた雰囲気だ。


 冷静沈着で泰然としていた彼から緊張感が伝わってくる。



 そしてまた、水無瀬自身もこの大男から、強い圧迫感を感じていた。



 目の前に立たれるだけで、声を聴くだけで、それだけで委縮してしまうような。


 そんな恐怖を水無瀬は感じていた。






「――失礼しました。クルード様」



 やがてアスが訂正し謝罪をする。


 言葉では丁寧なようだが、彼の目には警戒心があり、さらには敵意さえ滲んでいる。



 クルードと呼ばれた男はつまらなそうに鼻を鳴らした。



「ハッ――気ィつけろよ? オマエごときに呼ばれたってオレ様が揺らぐことはねェ。だが、それはオレ様をナメてるってことだ。次は喰うぞ?」


「……以後気をつけましょう」


「フン」



 仲間であることは間違いないようだが、彼らの関係は決して良好ではないように見えた。



「ところでクルード様。何故こちらにいらっしゃったんです?」


「アァ?」



 再度アスが最初の質問を問い直すと、気を落ち着けたように見えたクルードの目がまた怒りに染まる。


 どうやら相当に気が短いようだ。


 彼がギロリと眼光を鋭くすると、それだけで空気が震え裂かれたように水無瀬には感じられた。



「なんか文句あんのかよ?」

「……いえ、ただ予定にないことでしたので」


「だからなんだ?」

「計画と違う行動をされればそれを疑問に思うのも当然でしょう? それを問うただけです」


「疑問だと? オレ様がオレ様の好きな時にオレ様の行きたい場所に行って何が悪ィってんだ、アァ?」

「ですから悪いと言っているわけではなく、計画と――」


「――だからその計画ってのはテメェの都合だろうがッ! オレ様にテメェに合わせろってのか⁉ オレ様のすることに文句を言うな。疑問も持つな。それはオレ様をナメてるってことだろうが!」

「…………」



 いとも容易く激昂する。



(まるで会話にならない。低能め……)



 アスは表情には出さぬように内心で毒づいた。



「失礼しました。では、質問の仕方を変えましょう。ここへは何をしにいらっしゃったんですか?」


「アァ? 何ってそりゃオメェ……」



 クルードはそれに答えようとする途中で、尻もちをついた人間と目が合う。


 先程悲鳴をあげた通行人だ。



「アァ? なに見てんだこのヤロウ」


「ひっ、ひぃ……っ、化け物が化け物を喰って……」


「ニンゲンごときがナメてんのかよ……⁉」


「――っ⁉ やめなさい!」



 クルードが通行人の男の胸倉を掴みあげるとアスは制止の声をあげた。


 だが、そんな声を無視してクルードは通行人を宙吊りにし、そして車道へと投げ捨てた。



「えっ――」



 茫然とした声を出しながら男は車道の路面に落下する。



 そこへトラックが走ってきた。



「う、うわあぁーーっ⁉」



 悲鳴が聴こえたのは一瞬、すぐにスキール音で掻き消される。


 トラックの運転手は全力でブレーキを踏み込みハンドルを切った。



 その甲斐あってトラックは車道に尻もちをつく男の回避に成功する。


 しかし、完全に停止することは出来ずトラックはガードレールを突き破って歩道に突っ込んだ。



「アァン?」



 トラックの突っこむ先にはクルードが居る。


 激突する寸前、クルードは片足を振り上げた。



 すると、荷物を積んだ4トントラックが宙を舞った。



 クルクルとゆっくり縦回転をしながら冗談のように高度を上げると、車道へと落ちる。


 上下反転して転倒したトラックのタイヤが、ひっくり返った亀の手足が藻掻くように空転した。



 片側二車線の道路を遮るように倒れるトラックへ後続車が迫る。


 先頭から数台は緊急停止することに成功するも、その後の車は止まり切れずに次々と前に停まった車に衝突していき、あっという間に玉突き事故となった。



 水無瀬はその光景に言葉を失くした。



「な、何をしているのです……っ⁉」



 アスが声を荒げてクルードを非難する。


 彼としても予想外の行動だったのだろう。



「アァ?」



 当の本人は気怠げに悪態をついた。



「あぁ、そういや『何しに来た』って聞かれたか。あのよォ、あれ……、アレいただろ?」


「アレ……?」



 アスは眉を顰める。



「アレだよアレ。オレ様んとこの若ェの。なんでもよ、殺られたってェ話じゃねェか、アァン?」


「……ボラフさんのことですか?」



 チラリと、一瞬だけ水無瀬を横目で見てから、アスは慎重に問い返す。



「ン? あぁ、そんな名前だっけか? まぁ、名前なんてどうでもいいんだけどよォ。ウチのモン殺ってくれたってェならオレ様の出番だろうがよ」


「仰ってる意味がわかりかねますが」


「アァン? そんなもんオメェ、オレ様がナメられたからに決まってんだろうがァ!」


「どうしてそうなるのです……!」


「アタリめェだろうが! オレ様んトコの眷属わかいしゅうに手を出すってのは、オレ様に喧嘩売ってるってことになんだろうがよォ……ッ!」


「そんなバカな……ッ」



 理解不能な主張。しかしそれを言うモノは説得が不可能な相手だ。


 アスは急速に焦燥に駆られる。


 このままではこの場で計画が総て台無しになり兼ねないと懸念した。



 それを尻目にクルードは水無瀬へ目を向けた。



「ソイツか? ソイツだろ?」


「――っ⁉」


「ちげェもんな……、魂が。そのへんの雑魚ニンゲンとは全然ちげェ……」


「待ちなさい……!」


「コイツだろ? オマエらが“魔法なんちゃら”とか抜かしてたオモチャ」


「おも、ちゃ……?」



 アスの制止を聞かず、クルードは水無瀬の方へ進み出ようとするが――



「アァン?」



 俄かに背後が騒がしくなりそちらへ興味を惹かれたのか、クルードは足を止めて振り返る。



 音源は事故現場の方だ。


 車から出て避難をする人間、また車から出られなくなっている者を救出しようとする人間。


 彼らの恐怖と混乱の叫びだ。



「……ハハッ――」



 それらを視界に映したクルードの目に愉悦の色が灯る。



 ほんの僅かに膝を沈ませると高く跳び上がった。


 そして転倒した4トントラックの脇に着地をする。



「――ククク……」



 ガッと、トラックのフロントバンパーを片手で鷲掴みし、そしてそのトラックを何の苦もなく持ち上げた。



「た、たすけ――」


「――クカカ……ッ」



 持ち上げられたトラックの運転席から運転手が慌てて転がり落ちてくる。


 その悲鳴、その無様な仕草に、クルードは尚更愉快げに笑みを深めた。



「ま、まさか……⁉ やめなさいっ!」


「――カカカッ……、アハハハハハ……ッ!」



 その先の行動を予測したアスが止めるがもはやクルードには聴こえておらず、哄笑をあげ始めた。



「――ハッハァッ! ピーチクパーチクうるっせェんだよォ……! 雑魚ニンゲンどもがァ! 相変わらずテメェらはゴミだなァ……ッ!」



 玉突き事故の現場で逃げ惑う人々へ狙いを定め、クルードは手に持った中型トラックを投げ飛ばした。


 トラックは直線軌道で飛んでいき、前の方に停止した乗用車を数台薙ぎ倒してから、その後ろで連結する事故車に乗り上げて、ボンネットとルーフの上を転がっていく。



「ギャハハハハ……ッ! 恐れろ怯えろォッ! 泣いて喚いて逃げ惑えッ! ここにオレ様がいるぞォッ! テメェらを喰い殺す獣の王がなァ……ッ!」


「む、無茶苦茶だ……ッ!」



 人々の怯えと悲鳴を浴びてその表情は歓喜に染まり、クルードは天に向かって吠える。


 アスも水無瀬もあまりの在り様に茫然とした。



「グハハハハハッ! 足りねェ足りねェッ! ここにはまだ血が足りねェ……ッ!」



 さらにクルードはガードレールをまるで雑草でも毟るように引き抜いた。



「逃げてんじゃねェよ、この星の支配者サマよォッ! ちっとここにハラワタ置いてけやァ……ッ!」



 そして今度は逃げ惑う人間に直接それの狙いを定める。



「――ダ、ダメェ……ッ!」


「アァ?」


「お願い、“Blue Wish”……ッ!」



 制止の声をあげた水無瀬は急いで魔法少女へ変身し、人々の前に立つ。



「【光の盾スクード】ッ!」



 創り出した魔法の盾で飛んでくるガードレールを弾き返し――



「――【光の種セミナーレ】……ッ!」



 宙に舞うそれを魔法弾で撃って土手の向こうの川へ飛ばした。



「罪のない人を狙うのはやめてください……っ!」


「…………」



 水無瀬がそう勧告をすると、クルードは即座に激昂するかと思われたが、意外や静かに視線を返すのみだった。



(……マズイですね)



 裏腹にアスは内心で焦燥を浮かべていた。



「いきます……! 【光の種セミナーレ】ッ!」



 水無瀬は魔法弾を3発生成しそれをクルードへと放つ。


 それは3発とも直撃した。



「えっ……?」



 クルードは避ける素振りすら見せなかった。


 強敵だと予想していたため、こんなに簡単に当たるとは思っていなかったので水無瀬は戸惑いを浮かべる。



 クルードは攻撃をしてきた水無瀬から関心を失くしたように視線を逸らし、魔法弾が当たった頬を指で撫でるとそれを見下ろした。



「き、効いてない……? それなら……、【光の蔓ヴィーテ】――」



 水無瀬は昨日覚えた新魔法を発動し、ピンク色の光の蔓でクルードの手足を拘束する。


 そして――



Lacrymaラクリマァッ……BASTAバスターァァーーッ!」



 必殺の魔法光線を発射した。


 ピンク色の破滅光がクルードへと迫る。



 もう間もなくその光がクルードを呑み込むかという距離まで近づいた時、クルードは右腕を動かす。



「えっ――⁉」



 水無瀬の目が驚きに見開かれる。



 特に力をこめた様子もなくただ右腕を上げただけで光の蔓の拘束は簡単に引き千切られてしまった。


 クルードはそのまま迫る【Lacryma BASTA】へ右手を翳す。


 素手で必殺の砲撃を受け止めた。



 そして、拮抗はほとんどなく、まるで握りつぶすかのように、いともたやすく魔法の光は消されてしまった。



「そ、そんな……っ⁉」



 その結果に水無瀬は呆然とする。


 自分の攻撃が当たらないことはあれど、当たった上でこうまで通じないのは今まで一度もなかったからだ。



 そんな水無瀬へクルードは未だに関心を向けない。


 砲撃魔法を掻き消した掌をジッと見ていた。



「――なんだそりゃ」



 やがてポツリと呟く。



「……なんなんだよこれは」


「クルード様――」


「――オイ、モヤシ野郎テメェ……ッ!」



 そして一瞬で沸騰した苛立ちの矛先をアスへと向けた。



「なァオイ、これは“なん”だ? これが“卵”だってのか? こんなモンが……?」


「……まだ成長の過程です」


「ざけんなボケが! こんなクソみてェな“卵”からナニが孵るってェんだよ……!」


「これでも逸材なのですよ。まだ最終査定をする段階にない。だからまだ待っていただくように言ったはずです……!」


「こんな……、こんなモンのために、このオレ様を待たせてたってのか……? ナメやがって……ッ!」



 水無瀬にはわからないやりとりで、アスがクルードを宥めているようだがその説得はまったく届いておらず、段々と獣の目が憤怒に染まっていく。



 そんな時、また人々の悲鳴が響く。


 事故車の一つが炎上したようだ。



 怒りに我を失っていくクルードの目がそちらへ向いた。



「ギャーギャーるっせェんだよ、ムシケラどもがァ……ッ!」



 クルードはその場で握り固めた右拳を振りかぶり、離れた場所で騒ぐニンゲンたちへ向けてそれを振りぬいた。



「――いけないっ! 盾を――ッ!」



 直感的に危険を察知した水無瀬がほぼ反射でその射線上へ身を投げ出し、魔法の盾を展開する。


 風圧のような力の塊がその盾にぶつかるといとも簡単に打ち砕き貫通し、水無瀬へと直撃した。



「――キャアァァ……ッ⁉」



 水無瀬の華奢な身体は吹き飛ばされ、停止していた車にぶつかり乗用車のボディにめりこんだ。



「あぐっ……、うぅ……っ」



 たったの一撃で意識が一瞬飛びかけるほどのダメージを負った。



「――雑魚がオレ様の前に立つな」



 クルードは既に水無瀬のすぐ近くに。


 動けない彼女へ容赦なく左脚を振った。



 蹴り飛ばされた水無瀬は歩道の方へ向かって何度か地面を転がり、そのままうつ伏せに倒れる。


 そして彼女の身体が淡く輝くと、魔法少女の変身が解除されてしまった。



「クソが……! イラつくぜ! 皆殺しにしてどいつもこいつも喰ってやる!」



 クルードはギラつく目玉をニンゲンたちに向ける。



「待ちなさい! 無駄にニンゲンを減らすのは――」


「――うるせェェッ! オレ様に指図するなッ!」



 制止の声を上げるアスの方へ振り返って怒鳴り返す。



「今の段階で事を大きく明るみに出すわけにはいかない! この国の魔術組織が出てきますよ!」


「知ったことかボケがッ! 全部殺して喰ってやるよ!」


「このプロジェクトはそういう主旨ではない! 我々は戦争をしに来たのではない!」


「黙れッ! そんなもんもう知ったことか! この土地のニンゲンを喰い尽くしてオレ様が次の王になる! それで計画は終わりだ!」


「そんなバカなことを――」


「ア――?」



 激しく対立をしていたアスとクルードの言葉が止まる。


 クルードはアスへ背中を向けた。



 そこには――



「だ、だめ……、です……っ。みんなを……いじめないで……っ!」



 元の制服姿に戻ったまま、水無瀬が両腕を拡げてクルードの前に立ちはだかっていた。



「立ったな? オレ様の前に――」


「いけません――っ!」


「――オレ様に喧嘩を売ったなァ⁉ ニンゲンッ!」



 クルードは生身の水無瀬に腕を振り下ろす。



 水無瀬の目がギュッと閉じられ、その顔に彼女の頭部ほどもあろうかという握り拳が叩きつけられる瞬間――


 銀色に光る鎖がクルードの手首に巻き付いた。



「――させませんっ!」



 アスの魔法だ。



 水無瀬への暴行を止めるべく鎖が引き絞られると、アスとクルード双方の足元の路面がクレーター状に陥没する。


 水無瀬の魔法の蔓は簡単に引き千切られたが、アスの魔法は見事にクルードの腕を抑えつけその勢いをみるみる減衰させた。



「――くっ……!」



 しかし、完全に威力を殺し切ることは出来ず、クルードの手が水無瀬の頬を打った。


 それは人間の成人男性が張り手をした程度までには衰えていた。


 だが、今の水無瀬はただの女子高生。


 その程度の打撃でも簡単に倒される。



 背後へ身を崩し、路面に膝や頭を打ち、肌を擦って転がる。



「テメェェッ! それは喧嘩を売ってるってことでェいいんだよなァッ⁉」


「私とて、これ以上目の前で好き放題させるわけにはいかないのですよ」



 二人は目に殺意をこめ睨み合い、一触即発となる。


 肩を怒らせたクルードが今にもアスへ飛び掛かろうとした時――



「――ひ、ぅぐっ……、ぅぇっ……、ぇぐっ……っ」



 クルードは背後から聴こえてきた、しゃくりあげるような嗚咽に動きを止めた。


 口を半開きにしたまま怒りを忘れたかのように無言で振り返った。



「……ぃたい……っ、ぅぇっ……、いたいよぅ……っ」


「……はァ?」



 そこで目にしたものを信じられないといった風に、クルードはあんぐりと口を開けた。



 彼の視線の先に居たのは、路面に横向きに倒れたまま身体を丸め、顔を押さえて震えながら泣くただの少女だった。



「……ンだそりゃ……?」



 今日何度目かの言葉を呆然と漏らす。



 水無瀬は暴力を受けた痛みに泣いていた。



 思えば彼女はこれまで戦いでダメージを受けたことがほとんどなかった。


 つい昨日初めてダメージらしいダメージを経験したばかりである。



 しかしそれも魔法少女に変身中のこと。


 魔法少女に変身している間は彼女の身体を護る魔法が常時展開されており、ダメージは減衰され基本的に傷を負うことはなく、痛みもほとんど感じることはない。



 だが、今の彼女は生身。


 普通の女子高生とほぼ変わらない。



 彼女はこれまでの十数年の人生で暴力沙汰に身を置いたことなど一度もない。



 今ここで、初めて殴られて、その痛みに、恐ろしさに一瞬で心を折られてしまった。


 生まれて初めての暴力に普通の少女のように泣き、身を竦ませてしまったのだ。



「ふ、ふざけんなァ……ッ!」



 クルードはその無様な姿に再び激昂する。



「オ、オレの……、オレ様の前に立って……ッ! 喧嘩を売って……ッ! なんだそりゃ……! なんだそりゃあッ⁉ バカにしてやがんのかァ……ッ!」


「チィ……ッ!」



 怒りに任せて身を縮める少女へ襲いかかろうとする。



 するとその周囲をアスの魔法――銀色の壁が幾重にも取り囲んだ。



「邪魔だァッ!」



 クルードがその壁に身体ごとぶつかると、光の壁はガラスが割れるように砕かれた。



「死ねェェーーッ!」



 水無瀬を踏み潰そうと、足裏を路面へ叩きつける。


 その足が地面へ下ろされるとアスファルトが派手に拉げた。


 しかし、そこには既に水無瀬はいない。



 クルードはその結果に舌を打って首を回す。



 振り返った先には水無瀬を抱えたアスが居た。


 一瞬の内に水無瀬を回収して距離を離したのだ。



「――逃げなさいっ!」


「……っく、ぅぇっ……?」



 泣きじゃくる水無瀬へ端的に告げた。



「このままでは殺されますよ」


「ぅっ、で、でも……、ここには街の人たちが……っ」



 腫れた頬へポロポロと涙を溢しながら、その目で水無瀬は事故現場の方を見る。



「……心意気は買いましょう。ですが、今のアナタに何が出来ます?」


「――っ」



 アスはそれを冷たく否定する。



「よろしい。この場では一人の死者も出さないことをこの私が約束しましょう」


「えっ……?」


「ここは私に任せて逃げなさい。アナタにここで死なれては私も困るのです」


「ア、アスさん……、でも――」


「――もう一度殴られたいのですか?」


「――っ⁉」



 その言葉に水無瀬は肩を竦ませる。


 身体の震えが強くなった。



「このモヤシ野郎……ッ! いつもいつもオレ様の邪魔をしやがって……!」


「それはこちらの台詞です……ッ!」



 アスは魔法を展開しながらクルードへと突っ込んだ。



 残された水無瀬は立ち尽くす。



 視線の先では超速の戦闘が行われていた。



 肉弾戦を仕掛けるクルードの暴風のような攻撃を、アスが魔法でいなす。


 大振りの攻撃を誘って、それを躱したアスが懐から水晶のようなモノを取り出し地面に叩きつけた。



 それは路面に触れるとバラバラに砕け散る。


 同時に輝きを放った。



「グッ……⁉ テメェッ!」


「強制的にご退場を願いますよ……っ!」



 空間に裂け目が現れ、その中から銀色の鎖が無数に飛び出しクルードの身体に巻き付いた。


 そしてその裂け目の中に彼を引き摺りこむ。



「結界の中へ入ります! 今のうちにここを離れなさいっ!」



 クルードに続いてその裂け目に飛び込む直前、こちらへ視線を向けたアスが叫ぶ。


 その言葉に無意識に身体が従い、水無瀬は踵を返すと走り出した。



 それとほぼ同時に空間の裂け目は閉じて、人外のモノどもはこの場から消えた。


 闘争の音は無くなり、入れ違いにサイレンの音が響いてくる。



 水無瀬は無我夢中で走った。



 事故現場の喧噪もサイレンの音も遠ざかり、自分の息切れの音しか聞こえなくなった頃、疲労から足の回転が落ちていく。



 それでも足を止めず、彼女は歩いた。


 目的地などなく、ただ離れるためだけに足を動かした。


 ただ恐いものから逃げるために。



 ほんの少しだけ冷静さが戻った頃、今起こった出来事、頬と足の痛み、自分のしてしまったこと――



 それら全てを自覚し、またボロボロと涙が零れてきた。










 がんばっておそとをはしったら


 おとうさんがよろこんでくれた


 おかあさんもわらってくれてた




 だから、もっとがんばってみたら


 おむねがいたくなって


 のどがくるしくって


 わたしはころんじゃった




 いたくって、くるしくって


 たてなくって、ないちゃって



 みんながしんぱいそうで


 みんながざんねんになっちゃって






「――ふっ、ぅぇっ、ぅぐぅぅぅぅぅ……っ」



 ぶたれた頬が、擦りむけて血が出る膝が。



「ぅぇぇっぇぇぇっ……、いたいよ……っ、こわいよぅ……っ」



 戦い、負けて、泣いて、逃げ出した。



「たすけて……、たすけて……っ、おかあさん……っ」



 守るべき人はまだ居たのに。



 全部を置いて。



 全部に背を向けて。



 守ってくれる母を求めて。



 情けなく逃げ出した。

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