1章61 『希咲 七海』 ①

 お前は何者だ――



 あたしがもしもそんな風に誰かに訊かれたとしたら、実はちょっと答えるのがむずかしい。



 フツーの人に、フツーの場所でそう訊かれたのなら、「あ、高校生ですー」って答えるんだけど。そうじゃなかった場合は答えるまでにちょっと「うーん」って考えちゃう。


 当然、「お前は何者だ」なんて他人から訊かれること自体がフツーはないから、フツーってなに? って話になっちゃうけど、それはとりあえず考えないこととします。



 例えば幼馴染たち。


 彼らや彼女らのお家の業界、たまにそこに所属してる人たちと一緒に仕事したり、対立したりとかした場合。


 その人たちはわりとすぐに「お前は何者か」と尋ねてくる。


 そうすると、彼らの業界の生まれでもなく、彼らとは出来ることが違うあたしはどう答えたものかと困ってしまう。



 例えば都紀子ときこさんのとこ。


 あたしがバイトさせてもらってる都紀子さんの会社には、あたしみたいな特殊な子が結構居る。


 そこの関係でも「お前は何者だ」と訊かれることが時々ある。


 でも、あたしはそこの子たちと比べても特殊になった経緯がちょっと特殊で。だからやっぱり「うーん」となってしまう。



 というわけで、「お前は何者だ」と訊かれると、あたしって一体なんなんだろと、自分でも考えてしまう。



 幼馴染たちとは違って、普通のシングルマザー家庭で生まれて育った普通の女の子。


 普通じゃない友達とグループになって一緒に過ごしてる内に、そっちの業界に微妙に足の爪先だけ入っちゃってるかも? くらいの感じだった。


 ただ、あたし自身にはそっちの業界特有の不思議で特殊なチカラみたいなものはなかったから、いつかは袂を別つというか、関係がフェードアウトしてっちゃうんだろうなって漠然と考えてた。



 そんな事情が変わってしまったのが、去年の夏休みだ。


 あたしたち的には厳密には2年前で、でも世間的には去年のことなのでそっちに合わせて1年前ということで統一してる。


 その時も今ここでこうしているように、業界のお仕事でこの島に来ていた。



 夏休みを利用して旅行兼お勤めってことで同じようなことをしてたんだけど、その時にかなり大事件に巻き込まれてしまい、かなり長めの旅行に為ってしまった。



 大部分は省くけど、その“長めの旅行”の中であたしもちょっとフツーじゃないことが出来るようになってしまい、他の一般人と比べるとあたしもどっちかというと“聖人たち側”に為ってしまった。


 結果として、それまでは内容によっては聖人たちのお仕事を手伝ったり、これは無理だなと同行しなかったりだったのが、わりとどんな内容でも着いていけて――というか不本意だけど最前線でも活躍出来ちゃったりするように状況が変わってしまった。



 そんなワケで、爪先がちょっと水に触れちゃってるかなぁくらいだったあたしの立ち位置は大幅に変わってしまい、今では膝の下――もしかしたら腰まで浸かっちゃってるかもしんない。



 そうして“長めの旅行”から帰って、今までの普通の生活に戻る。


 それから普通の世界で普通の人たちと一緒に過ごしていると、時々自分が異物なように感じてしまう瞬間ができた。


 あたしはより一層『あたしってなんなんだろ』って悩むようになってしまった。



 そんな感じで、ベツにグレてたっていうわけじゃないけど、少し心が荒んでたっていうか、ほんのちょっと情緒不安定でもしかしたら微妙にヘラってたって謂えなくもないような――



――そんな去年の夏休みが終わって少しした高校一年生二学期の放課後。



 あたしは“あの子”に出逢った。






「――あんたなにしてんの?」



 あたしは“知らない子”にそう声をかけた。



 放課後、下校のために学園の昇降口から出て、正門まで繋がる桜並木を歩いている時に、花壇の前でしゃがんでる女の子が目に入る。



 ホントは今日は放課後に委員会の活動があったんだけど、聖人と蛮のバカコンビがやらかした関係で一緒に職員室まで謝りに行くハメになったのだ。そのせいであたしは委員会の集合時間に遅れてしまった。


 だからあたしは聖人と蛮を引っ叩いた後に急いで“いきもの委員会”の集合場所に向かったんだけど、なんか今日はもう終わったとかで既に解散していた。



 “いきもの委員会”は学園で植えてる植物のお手入れをしたり、飼ってる動物のお世話をしている委員会だ。


 自分でも似合わないなぁとか思っちゃうそんな委員会に、なんであたしが所属してるかっていうと、そういう気分だったとしか言えない。


 この学園では三年間の高校生活の中で必ず一度は何かしらの委員会に所属をしなければいけない決まりがある。


 高校に入学してすぐのあたしは『なんか癒されたいなぁ』ってフワフワした気持ちになっていて、つい軽はずみに“いきもの委員会”に入ってしまったのだ。



 実際それで癒されたかっていうと、すぐに爪の間に土が入るし、ネイルはすぐにダメになるし、おまけに虫がキモいしで、この頃にはもう『絶対ェ一年で辞めてやる』とあたしは堅く心に誓っていた。


 それに、どうやらあまり熱心に活動している委員会でもないようで、活動で集まってもダラダラしてることも多く、積極的に仕切る人もいないのでそもそも作業が始まるのも遅い。


 早く終わらせて帰りたい派のあたしは、仕方なく出しゃばって色々とやっちゃってた。


 でもこれを続けてたら、気が付いたら重要なポストに座らされていて簡単に抜けられなくなるなと、そんな未来図をリアルに浮かべてしまい、それも辞める決意を固める一助となった



 そんなわけで、バカコンビと委員会のせいで決まっていた予定が何一つ想定通りに消化されず、おまけにこの活動のために今日はバイトも入れてなかったので、あたしはすることのない放課後という時間に放り込まれてしまった。


 普段忙しいので暇な時間が出来るのは嬉しくもあるんだけど、このちょっと荒んでいた時期のあたしはイライラしやすくなっていたので、予定通りにいかなかったことにやっぱりイライラしていた。



 そんな風に並木道を歩いていたら目に入ったのがこの子だ。


 帰り道に同じ学園の制服を着た子を見掛けるのはベツに全然おかしなことじゃないんだけど、あたしはピンっときてしまった。



 女の子は植木と植木の間にある花壇の前にしゃがんでなにかをしている。


 そこは今日の“いきもの委員会”の活動で手入れをする予定だった場所だ。


 委員会はもう終わった“はず”なのに、一人で何かをしている女の子の周囲には土や肥料の入った大きな袋がいくつも広がっている。



 そこから想像できることで、あたしの機嫌はより一層にナナメになってしまう。


 だからつい声をかけてしまって、『あんたなにしてんの?』ってその声はかなりぶっきらぼうになってしまった。



 この子はなんにも悪くないのにこれはよくないと反省する。


 ただでさえ最近は基本的に機嫌が悪くて、こうして態度が悪くなってしまうことも増えて、その結果色んな人に恐がられたり反感を持たれることも多くなってしまっている。


 またやっちゃったなぁと額を押さえようかと思ったところで、女の子がこちらを振り返った。



 まん丸な目があたしを写す。



 恐がられたりはしなかったみたいだけど、その子はキョトンっとしたまま不思議そうにあたしを見ている。


 どうしたものかと迷って、次の行動の決断をすぐに下せなかったことで、あたしも無言で彼女を見つめてしまう。



 首を回してこちらへ向いた右のほっぺに土が付いていた。



(……ちょっとカワイイ)



 そんな場違いな感想を持ってしまう。



 先に声をかけたのはあたしで、だから相手はその返事をするべきで、つまり次に喋るのはあたしの順番じゃない。


 そんなよくわからないヘリクツと意地みたいなのを頭に浮かべて彼女を見返す。


 知らない野良猫同士が道端で遭遇してしまった時のように、お互いに止まったままジッと見詰め合っていた。



 やがて彼女の方が先に動く。



 女の子はハッとした顔をすると、周りをキョロキョロと見回し、特に周囲に誰もいないことに気が付くとコテンと首を傾げた。



「いや、あんたよあんた。あんたに話しかけたの!」



 その声に彼女はまたハッとする。


 つい先に声を出してしまったと、謎の敗北感を感じながらあたしは彼女へ一歩近づいた。



「えっと、ごめんなさい。『どうしたの?』って聴こえたから、誰か困ってる人がいるのかもって思って……」


「や、だからさ、あんたがなにか困ってんじゃないかって思って、あたしは声をかけたんだってば」


「わたし……?」



 彼女はまた首を傾げてしまう。


 やっぱりすっごくのんびりした子なんだなって、元々持っていた印象を補強した。



「んと、あたしのことわかる? あなたは水無瀬さんだよね?」



 この子は知ってる子だった。


 同じ一年生で同じ“いきもの委員会”の子。



「はいっ。希咲さん、だよね? 希咲 七海ちゃん!」



 なんでフルネームだと“ちゃん”付けになんのよって、どうでもいいイチャモンを頭の中でつけながら彼女に応える。



「そうよ。水無瀬“ちゃん”」



 そしてもう一歩彼女へ近づいた。



「一人でなにしてんのかなって気になったの」


「私……、困ってるのかな……?」


「え? や、知らんけど。困ってないの?」



 何とも手応えのない反応にこっちが困ってしまう。


 あたしは彼女の周囲を見まわす。


 園芸用品がかなりの量、散らばっている。


 あたしの目線を追ってしまったのか、水無瀬さんもそれを一緒に見回して、それからまたハッとした。



「そうかも……! 私ちょっと困ってたかもしれないです! すごいね、希咲さん!」


「あ、あははー……」



 多分相手がこの子じゃなかったらバカにしてんのかって言い返してたかも。


 反応が独特な子だけど、ただ名前を知ってるだけの関係性だけど、それでもこの子が悪意を以てそう言っているわけじゃないことはわかった。



『困ってるかも』なんて言いながら、彼女はとても楽しげにニコニコしてる。


 あたしに話しかけられたのが嬉しいみたいに笑顔を向けてくれる。


 子供っぽい子だなーって印象を持ってて、今ここで話してみてやっぱり子供みたいって思った。


 でも――



(かわいい……)



 あたしの言ってることはあんまり伝わってなくて、話も効率よくは進まないけど、不思議とイライラはしなかった。



 けど、このまま二人して困ってても仕方ない。



「そうじゃなくって、ここにある土とかってさ、今日の委員会の活動のやつよね?」


「うん、そうだよっ」



 ズバっと訊いてみると彼女は軽い調子で肯定する。



 今日の“いきもの委員会”の活動は、この正門前の並木道で、夏休み中に伸びた雑草の処理をしましょうというものだ。


 その活動の集合時間にあたしはバカどものせいで1時間ちょっと遅れた。


 そしたら委員の人たちはもう半分くらいしか残ってなくて、「今日はもう終わったよ」って残りの人たちも帰ろうとしてた。



 なのに、この子はまだここで一人で作業をしている。


 眉間に力が入ったことを自覚した。



「ねぇ、他の子は?」


「え?」



 あたしの質問に水無瀬さんはまた頭をコテンと倒す。


 特に表情に暗いものなどはない。



「えっとね、みんなはもう帰ったと思うの」


「なんで?」


「もうお仕事終わっちゃったんだって。みんなすごいね」


「終わったって……、これは……?」



 散らかった花壇周辺を視線で示して問うと、水無瀬さんはまたコテンとする。


 なんでよ!



「いや、だって、ここ終わってないじゃんっ」


「うん、そうなの……」



 ここで初めて彼女は表情を暗くした。


 やっぱり……! ってあたしの頭に熱が上がってくる。



「私お仕事おそくって……」


「ん……?」



 しかし、なんか話がやっぱり噛み合ってないような違和感がする。


 すると、彼女は何やら強い意思をこめた瞳であたしを見上げてきた。



「だから私、もっといっしょうけんめいやらなきゃって……!」


「あ、うん……。一生懸命なのはいいことだと思うけど……」


「そうだよねっ。えへへー、よかったぁ。じゃあ私、いっぱいがんばるね……!」


「えっと、うん……。がんばって……?」


「ありがとう!」



 ニッコリ笑顔を浮かべた水無瀬さんは花壇へ向き直ると手に持ったシャベルでザクザクと花壇を弄り始める。


 今度はあたしがコテンと首を傾げてしまって、その様子をボーっと見て、何秒かしてからハッとなった。



「だからそうじゃなくって……!」


「え?」



 ついおっきい声を出してしまうと、彼女は作業の手を止めてまたこちらへ振り返ってくれた。



「どうしたの……? って――⁉」



 そう口にしながら彼女はまたハッとなる。



「――希咲さんもしかして何か困ってるの? 私お手伝いしてあげようか?」



 そしてまた頓珍漢なことを言い出した。



「だからっ、あたしじゃなくって、あんたが困ってんじゃないのって……!」


「えっ……? あ! もしかしたら私ちょっと困ってたかも! よくわかったね希咲さん! すごいね!」


「それはもうやったでしょうが!」



 キョトンとする彼女へ嘆息しながら、これは遠回しに配慮した言い方じゃこの子には伝わらないなと、あたしは覚悟を決めた。



「ねぇ、あたし委員会に行ったら今日はもう終わったって言われたんだけど?」


「あ、うん。みんなもう終わったんだって」


「なのになんであんたはここで一人で土いじってんの?」


「あのね、私おそくって……」



 あーっもうっ! これでもまだダメかぁー!


 頭を抱えたくなる気持ちがあって、でもふにゃっと眉を下げた水無瀬さんの顔を見たら『ちょっとおもろい』とも思っちゃって、なんだか不思議な気分。



 そっちがその気なら(?)あたしももう手加減しないんだからと、謎の本気を出したあたしはさらに3歩、彼女へ近づく。


 そして、彼女の目の前であたしもしゃがんだ。



 正面から彼女と目を合わせる。



「あたしが言ってんのは! あんたがまだ終わってないのに、他の子がもう終わったって帰っちゃうのはおかしくない? って、そういうこと言ってんのっ」


「えぇーっと……」



 水無瀬さんは目線を上げてその辺の空間を見つめながら考えを巡らせる。


 あたしは「マジか⁉」とちょっと愕然とした。



 すぐそこに置いてある土だか肥料だかが入った袋を見る。


 これは一袋で5㎏だの6㎏だのの重さがあるはずだ。


 それがいくつも辺りに置いてある。



 こんな重い物をこんな小さな女の子一人に運ばせたのかと、怒りがこみ上げてくる。



 今回の水無瀬さんのことには関係ないけど、あたしはこの頃、自分のやんなきゃいけないことを他人に押し付けるヤツとか、やんなきゃいけないことをやらなくて他人に迷惑をかけるヤツが大ッキライになっていた。


 それは主にこの日委員会に遅刻した原因となったバカどもに関係することだ。



 今になってみればかなり恥ずかしいんだけど、この時期のあたしは『なんであたしばっかり!』とか『あたしに押し付けないで!』とか、とにかくそんなことばかり考えて情緒不安定だった。


 後から考えれば被害妄想入ってるだろそれって思える部分もかなりあったけど、この時はそんなことに気が付けてなかった。



 だから、そんな自分と水無瀬さんを勝手に重ねて勝手に共感した気になって、それで勝手に怒りだしていたのだ。


 はずい。



「ねぇ? もしかしてここの仕事押し付けられたんじゃない?」


「え?」


「まさかこの袋とか一人で運ばされたわけじゃないわよね?」


「えっと……」


「つか、なにがもう終わっただ。こんなの許すわけねーだろ」


「あ、あのね? 希咲さ――」


「もういい。全員胸倉掴んででも戻させる。水無瀬さんちょっと待っててね。あたしが――」


「――ち、ちがうのっ!」


「――え?」



 初めて強く訴えかけてきた彼女の声に暴走気味だったあたしはキョトンとしてしまう。



「あのね? ちがうのっ」

「ちがうの?」


「うん、そうなのっ」

「なにが?」


「えっ?」

「えっ?」


「…………」

「…………」



 そのまままた無言で見つめ合ってしまう。


 何秒かその時間が続いて、今度はあたしが吹き出してしまったことでその時間は終わった。



「な、なにそれ……っ、いみわかんない……、あはは……」



 プって吹き出してからクスクス笑うあたしのことを、彼女は目をぱちぱちさせて不思議そうに見ていた。


 なにがそんなにおかしかったのかは、あたしにもわかんなかった。



 一頻り笑って、落ち着いたあたしはちゃんと落ち着いて彼女の話を聞いてみた。



 要約すると――



 最初はみんなでここの草むしりをしていたらしい。


 でも夏休み中に用務員さんが手入れをしていたこともあって、その作業は大体1時間ほどで終わってしまった。


 中途半端に時間が余ったから、ちょっと早いけど解散するか、次回やる予定だった花壇への種まきを少しでもやってしまうかと意見が割れた。


 それを調整する人が居ないからグダグダになりかけたけど、そんな時に水無瀬さんが手を上げたらしい。


 曰く、お家がお花屋さんだからお花は得意だと。


 じゃあ、花壇やろうか派で少し作業をするかとなった――



「――でもね、私全然重い物持ち上げられなくてね? 大変だぁーってなってたら、男の子たちが代わりに持ってってあげるよーって言ってくれてね? だからお花咲かせるのは私に任せて! って言ったの……」



 あたしはその話を「ふむふむ」と頷きながら聞いて、そして最終的には腕組みをしながら「う~ん」と首を捻ることになってしまった。



 なんとも微妙な話だ。



 それがあたしの感想だった。



 明確に悪意のある“いじめ”とはとても言えない。


 でもじゃあ100%善意かって言われるとそれも違って。


 面倒を押し付けたってのも絶対少しはあると思う。



 だけど、善意も悪意もどっちも在って、一人で残りを請け負うことはこの子自身で言い出したことで。


 これで他の委員の子達を責められるかって言われると、ちょっと微妙だなーっと何とも言えない気持ちになった。



「みんながんばってくれたから、私もがんばらないと……!」



 何より、本人がこうしてやる気に満ち溢れまくっている。


 あたしはとりあえず他の委員の子たちに何かを言いに行くのは諦めて切り替える。



 明確な悪ものが居ないのなら攻撃に出ることはできない。


 なら、この場であたしに出来ることは損しちゃってる子を助けてあげることだけだ。



 だけど、その前に念のために――



「――むぎゅっ」



 お目めをパッチリさせてフンフン鼻息を荒くするこの子のほっぺをムギュッと両手で挟む。



「ね、あんた“いじめ”られてるとか、そういうのない? 正直に言いなさい」



 1ミリも配慮がねーなと、言った後で気付いたけど、この子には多分これくらい言わないと通じないだろうからヨシとする。


 あたしと目を合わさせて、水無瀬さんの瞳をジッと見る。



「いじめ……?」



 その瞳がキョトンとする。


 まるでそんな言葉は初めて聞いたとばかりに。



「そんなのないよ? みんないい人ばっかりだよ!」



 あたしの手をほっぺで持ち上げて、強くニッコリと笑う。


 あたしはアホみたいに口を半開きにしてたかもしれない。



 これは“いじめ”られても自分で気付かないタイプだと、そんな風に思った。


 でも、まいっかと、そんな風に思えた。



 だから、もう黙ってこの子の手伝いをしてあげればいいのに、あたしの口は勝手に動く。



「でもさ、そうじゃなくっても、仕事押し付けられたって。自分で少しはそう思わない?」



 なんでそんなこと言うんだクソ女。



 多分この子は、世の中に悪い人なんかいないって思ってて。


 世界はキレイだって思ってる。



 そして、あたしはそう思ってない。


 あたしの世界はそうじゃないから。



 だから、それを否定してやりたくって。


 そう信じてるこの子が、妬ましくって。



 あたしはそうでも、この子はそうじゃない。


 あたしの世界はそうなのに、この子の世界はそうじゃない。


 そんなのずるいって。


 あたしが損してるみたいで。



 それでこんなヤなこと言うんだ。


 なんてイヤな女。



 こんな純真そうな子の夢を壊すような現実なんてゴミだ。


 正しいだけの理屈もゴミだ。


 それをするあたしがゴミだ。



 なんてことを考えながら顔に出さないように意識してると――



「――やっぱり、そうなのかなぁ……?」


「え?」



 あれ? 意外とちゃんと気付いてる?


 流石にそんなに子供じゃないか。



 でもそりゃそうよね。


 高校生なんだし、そんな風に穢れのない子供の心のまま今日まで成長してこられるわけないか。


 そんな風に考えなおしたけど、だけどそれも大人ぶってるだけの子供な――そんなあたしの思い違いだった。



「でもね? そうだったとしても“おあいこ”なんだよっ」


「おあいこ……?」



 久しぶりに聞いた言葉だな、なんて思いながら首を傾げる。



「うん。だってね? 私は重い荷物が持てなかったじゃない? みんなはそれを代わりにやってくれたから。私は最初に“いいこと”をしてもらったの」


「いいこと……」


「そうなの。だからね、次は私の番なの。“いいこと”をしてもらって私は助かったから、次は私がみんなのために“いいこと”をしてあげるの。そうしたら“おあいこ”になって、みんな笑顔になるじゃない?」


「…………」


「そうやって“おあいこ”を続けていって、みんなで“おあいこ”して、出逢う人みんなで。そうすればみんな笑顔になって、みんながしあわせになれると思うの。だから今は私ががんばる順番なんだよ」



 返す言葉がなにも思いつけなかった。



 ガツンって頭を引っ叩かれたみたいに衝撃を受けて、胸に刺さった棘を無理矢理押し込まれたみたいに痛んだ。


 まるで自分の汚さを曝け出されて、そしてそれを赦されたみたいで。


 あたしはとても恥ずかしくなった。



 高校生なんかになるずっと前に。


 小学校よりも前に、幼稚園や保育園で。


 きっとそんなちっちゃい頃に誰もが教わることで、今日までには絶対に一回は聞いたことのある。



 そんな当たり前の思い遣りで、とてもありふれた優しさ。



 でも、きっと誰もが見失っちゃうこと。


 大人になる頃には忘れちゃうこと。



 そんなシンプルで簡単な言葉だけど、この時のあたしにはどんな賢い人、どんなお金持ち、どんな偉い人、色んな大人が喋るスマートでクールで上手な方法論よりも、すごく心に響いた。



 大人びたつもりで、無意識に相手を下に見ていて、そんな自分の方がずっと子供だったんだって。


 一発でそんな風に気付かされた。



「“おあいこ”……?」


「え? うんっ、そうだよっ。お母さんに教わったの」


「そうなんだ……」



 それをずっと守ってるんだ。



「お母さん、好き……?」



 なに訊いてんだバカ。



「うんっ、大好きっ。お父さんも大好きだよ!」



 でも彼女はそんな質問を訝しがることもなく、ニコって笑って真っ直ぐに頷いてくれる。


 あたしたちくらいの年齢になると、人前でそんなことを当たり前に言うのは中々恥ずかしくなってくる。


 でも、それをなんの躊躇いもなく言いきっちゃう彼女はとても強いって感じた。



「そっか……」


「希咲さんは? お母さん好き?」


「え? あたしは……」



 弱いあたしは少しだけ躊躇って、でも――



「……うん。すき。あたしも、お母さんすきよ……」


「えへへー。そうだよねー? お父さんは?」


「あー……」



 今度は躊躇いじゃなく、少しだけ考えて――



「っとね、ウチお父さんいないの。あたしがちっちゃい時に離婚しちゃって」


「え……?」



 ふにゃっと彼女の眉が下がって、まるで自分のことのように悲しそうな顔をする。


 チクっと胸が罪悪感で痛んで、多分あたしの眉も下がっておんなじような顔になった。


 内心で『ゴメンね』って謝る。


 でも――



「あー、気にしないで? ずっと昔のことだからもう全然なんとも思ってないっていうか……」



 親が離婚したとか、お父さんが居ないとか。


 そんなことよりも、その一回目の離婚以降ママが何回も再婚をして新しいパパが出来ては消え、代わりに弟と妹が増えていくという体験を経たせいで、全く気にもならなくなった。



 それもどうでもよくて。


 いつもなら他人に家のこと聞かれたら、あんま絡みがない子とかだと適当に濁して誤魔化すようにしてる。こうして相手に地雷を踏ませて気を遣わせるのがイヤだから。



 でも――なんだかこの子にはそんな小賢しいウソは吐きたくなくて。


 本当のことを聞いてもらいたくて。


 あたしは正直に自分のことを話した。



「代わりにお母さん――ううん、ママがね? めっちゃがんばって働いてくれてるし弟や妹もいっぱいいるから全然ヘーキなの」


「そうなんだぁ。よかった」



 そう言って彼女はまた笑顔になって「えへへー」と笑った。



 子供っぽい笑い方。


 たまにあざとくそういう笑い方する女がいるけど、水無瀬さんはそんな感じじゃ全然なくて、それに彼女にとても似合う笑い方でステキだなって思った。



 この頃。


 前述のとおりあたしは色々とヘラってて。


 めんどいから繰り返さないけどとにかく病んでた。


 クソうざい地雷女だった。



 そういう黒くて重くて濁った汚いモノが、胸の中に溜まってどんどん大きくなっていくのを日々感じていて。



 でも、それが水無瀬さんの言葉と笑顔で全部キレイに浄化されたような。


 そんな気がした。



 まるで魔法みたいに――



 多分、そんなの気分の問題で。


 気がしただけで、きっと気のせいなんだろうけど。



 でも、そう思った方がたぶんあたしはしあわせで。


 だからそれでいいやって。


 そういうことにしちゃえって思った。



 あたしは確かに今日、今、ここで――



 希咲 七海の心は、水無瀬 愛苗に救われたのだ。



 あたしは彼女に“いいこと”をしてもらった。



 だから――



「……“おあいこ”」


「え?」



 また同じ言葉を繰り返し呟いたあたしに、彼女は首を傾げる。


 あたしは答えずにその場で立ち上がった。



 ブラウスの袖を折って肘の上まで捲って、それからサイドで髪を括ったピンクのシュシュを豪快に抜き取る。



 舞って広がって下りてくる。


 あたしの髪の動きが水無瀬さんのまん丸な瞳に映っているのが見えた。



 あたしは解いたばかりの髪をガッと適当にまとめて雑にポニーテールを作る。



 そして、ぱちぱちとまばたきをしながら不思議そうに見上げてくる彼女の隣にしゃがむ。



「――さ、パパっとやっちゃうわよ!」


「え?」



 理解が追いついてなくて、キョトンとする彼女にニッと笑う。


 先にしてもらったから。



「あたしも一緒にやるから」


「え? で、でも……、そんなの悪いよぅ」



 またもふにゃっと下がる彼女の眉にあたしの眉も釣られそうになる。


 あたしは割と他人の影響を受けやすい。


 早くも彼女が伝染うつってしまいそうだ。



「これで“おあいこ”だから」

「私なんにもしてあげてないよ?」


「んとね。これは内緒なんだけどね」

「うん。なぁに?」


「あたしってワルイ子なの」

「えぇ⁉ そ、そうなの⁉」



 大袈裟に驚いてくれる彼女が可愛くってあたしはどんどん楽しい気分になる。



「うん。ジツはさ、あたし今日委員会遅刻しちゃって」

「そうなの?」


「そ。だからまだ仕事してないのよ。このままじゃ怒られちゃう」

「わわわ……、た、たいへんだぁー」



 それはウソでも方便でもなく、よく考えたら実際あたしが一番なんにもしてないのよね。



「だから今お仕事やっちゃおうかなって思うんだけど、一緒にやってもい?」

「うん、いいよー」


「だからちゃんとあたしもお仕事したってことで、遅刻したことナイショにしてもらってもい?」

「うん。私ひみつにするねっ」


「ん。あんがと」

「ふたりのひみつだね。えへへー」



 釣られてあたしも「えへへー」って言いそうになってギリギリで堪える。


 いくらなんでも似合わなすぎだ。



 あたしは勘違い女かもしれないけど、でも分を弁えた女なのだ。

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