1章54 『drift to the DEAD BLUE』 ㉓
じゅぅ~っと近くで鳴る肉の焼ける音がどこか遠くに聴こえる。
気分がいい時には心地よく感じるのに、そうでない今は耳障りでしかない。
立ち昇ってくる脂が熱で弾ける匂いに不快感を覚えた。
下げた視線の先、スマホに表示されたチャット画面を目に映すと胃がさらに収縮したような錯覚を覚える。
(どうせちゃんとやってくれないって、思ってたのになぁ……)
まさに望莱が蛭子に解説していたことで、希咲はしっかりとヘラっていた。
はぁ、と溜め息を吐く。
見つめるのは弥堂とのメッセージのやりとりが記録されたチャットルームだ。
ほとんどが罵詈雑言で重なっているお互いの吹き出しを特に目的もなく眺め、文字を目に映してみてもそれは頭の中では読解されずにただの形として処理され、ただゆっくりと画面を上下にスクロールさせ無意味に往復している。
たまに親指が画面の一番下に触れ、新規メッセージの作成画面になっても、特に言うべきこと言いたいことを文字には出来ず、また元の履歴に戻る。
そんな不毛なことを繰り返していた。
本当は自分でわかっている。
今この胸を占めているのは罪悪感だ。
彼に無理矢理頼んだこと。
期待していなかったのに、意外とやってくれていたこと。
口は悪いけど、こちらの訊いたことに答えてくれること。
(それから……)
水無瀬に現在起こっていることと、昨夜の学園の襲撃、郭宮や紅月などの業界内の争い。
それらが全て関連したものかはまだ確定したわけではない。
特に水無瀬の問題は関係すらないかもしれない。
だが、もしも全てが関連づいたものだとしたら――
(――あたしのせいで、あいつに妖と戦わせちゃった……)
そういう風に捉えることも出来る。
その程度の話だが、今の自罰的な思考に陥っている希咲には、そうとしか考えられない。
(あいつがジッサイどれくらい強いのか知んないけど……)
大型の獣サイズの妖と戦って、余裕で勝てるほどには思えない。
弥堂と実際に戦った経験のある希咲だったが、あの時自分が本気を出していたわけではないのと同様に、弥堂の方もそうだったとしても、それでもとても自分たちと同程度かそれ以上にやれるとは思えなかった。
希咲は基本的にスピードを活かした戦闘が得意だ。
本気ではなかったとはいえ、その自分の攻撃を見切って対応してきたのは素直にスゴイと思える。だが、それでも希咲たちや妖など、ちょっと普通の存在ではない者を相手にどうにか出来るような攻撃手段が彼にあるようには思えなかった。
(やっぱ変態パンチで倒したのかな……?)
思いつくのはあの拳打と、
(消える動き……)
それくらいしかない。
相手が普通の人間なら絶大なアドバンテージになりそうだが、やはりサイズの大きな妖などの相手には少々物足りなく思えた。
(てゆーか、そうじゃないわよね……)
今本当に考えていることはそうではない。
弥堂の正体――なんてものが本当にあるのなら、彼は彼の都合で今回のことに関わっているのかもしれないが、そうでなければ彼のことは希咲が巻き込んでしまったことになる。
にも拘らず、彼のことがハッキリとわかるまでは、彼を巻き込んだ罪悪感を抱えながら、さらに彼のことを疑い続けることもしなければならない。
そのことでさらに罪悪感が増す。
弥堂の正体についてはすぐに解決できることではないが、それでも今胸の裡を埋める罪悪感を多少なりとも解消する手段については本当は希咲にはわかっている。
さっきから開いたり閉じたりしている新規メッセージ作成欄に打ち込むべき文字も本当はわかっていた。
しかし、それを逡巡している。
現在の情勢的に彼にそんなメッセージを送っても大丈夫なのかということも当然あるが、それよりももっと大きいのは、あの弥堂 優輝というクズ野郎に対して素直にそれを認めたくないからだ。
(あいつが怪しすぎんのがいけないのよ……っ!)
だから、心の裡を八つ当たりで埋めて、胸から上がってくる罪悪感が思考を支配してしまわないように抵抗する。
とはいえ、こんな風に思考をループさせていても何も解消されるものではない。
だから、もう一つ溜め息を吐いて別の思考に切り替える。
その瞬間に頭に過ったのは、ある意味今考えていたことよりももっと強烈な映像だ。
(あいつの身体……)
思い出すのは今朝のビデオ通話の際に、希咲のスマホに映し出された彼の裸体。
上半身だけではあるがその素肌を、現代の技術で作られた標準的に高性能なレンズと液晶が希咲の目に映した。
(傷だらけだった……)
教室で彼が肌を晒した時に自分はその場に居たわけではなく、あくまで電波で届けられた映像でしか目にしていないが、明らかに教室が動揺していた。
自分や水無瀬だけでなく、あの時近くに居た小鳥遊の様子からもそれは伝わってきた。
先程、蛭子から昨夜の弥堂と妖の戦いについて聞かされた時には、もしかしてその時の傷なのかと一瞬頭に過ぎったが、それは違う。
スマホ越しにではあるが、あれは古傷だ。
彼の身体にはそれが無数にあった。
先日に早乙女から送られてきたおかしな動画の中でも、彼のYシャツのボタンがいくつか外され多少胸元を開けていたが、その時には気付かなかった。
切り傷や刺し傷の痕がいくつもあり、胸の心臓の近くには何か痣のようなものもあった。
(あれってタトゥー……?)
黒い色で、デザインされた模様のように見えなくもなかったが、スマホの画面ではそれ以上の判別は出来なかったし、そもそもそれを考えられるほどの冷静さがあの時の希咲にはなかった。
弥堂の身体の傷を目にした瞬間、先週の彼との帰り道――その時にした会話を思い出してしまったのだ。
断片的にだが自分のことを口にした弥堂。
その中の少しの情報。
家庭が上手くいってなかったような口ぶり、そして親元を離れたという言葉。
それから何処か遠くの地で外国の女性に拾われた。
それは自分では右も左もわからないような場所に行ったという風に受け取れる。
(まさか、虐待とかされてて、それで家出して……?)
そこまで考えてプルプルと
こんな想像はただの妄想で、勝手な思い込みと決めつけだ。
例えそれが真実だとしても勝手にそう考えるのはとても失礼なことだ。
先週もまったく同じようなことを考えて反省したというのにと、落ち込む。
(でも……)
望莱は彼が
元は業界に関係していたが、そこからドロップアウトした者たち。
業界に関係する者とは、ほとんどが希咲の幼馴染たちのように特殊な家柄に生まれ、日本では陰陽術とかいう怪しくて如何わしい変な術を使う。
もしも弥堂もそういった出自なのだとしたら――
(――ちっちゃい頃から虐待みたいなエグイ修行やらされて……)
すごく“ありそうな”話だと思った。
(ダメダメ……っ! リアリティを補強しようとすんな!)
考えれば考えるほど自分の悪い癖に陥りそうになる。
少しだけ思考を別の方向に向かうようにする。
(あのバカ……っ)
キュッと唇を閉じる。
彼のあの傷がどんな理由で出来たものだとしても――
(――あんな風に教室で、普通の子たちの前でいきなり出すんじゃないわよ……っ!)
アレを出した時の画面に映っていた小鳥遊くんの顔が思い出される。
もしかしたら自分も同じような顔をしていたかもしれない。
態度に出さないようにするのに必死で、教室でいきなり脱衣をするという彼の蛮行を叱りつけることも出来なかった。
(あんた、ただでさえキラわれてるのに、あんな風に驚かせちゃったら余計みんな引いちゃうかもしんないじゃん……っ!)
それは自分が心配することではないのかもしれないが、何故か悔しさのようなものが胸に過ぎった。
(でも――)
同じように彼の古傷を目にして、同じように驚いていた親友のことを思い出す。
素直で嘘の吐けない彼女はすぐに態度にでる。
そんな彼女が慌てるようなこともなく、自然に彼に接していた。
演技の出来ない彼女のあれは純粋な優しさなのだ。
大好きな親友の愛苗ちゃんの素敵なところを思い出し、希咲は僅かに冷静さを取り戻した。
その分思考も元の方向に戻ってしまう。
ああして特に躊躇いもなくそれを衆目に晒したということは、弥堂自身は何も気にしていないのかもしれない。
だが、逆にそのことが希咲には気掛かりになってしまう。
(なんなのよ! もうっ!)
再度頭を振って髪に絡まる蜘蛛の巣から逃れるように嫌な想像を振り払う。
どうしようもない袋小路に思考が迷い込み、迷い果て、何周も回った希咲は段々と腹が立ってくる。
(だいたい、なんであたしがあんなヤツのことでこんな悩まなきゃなんないのよ……っ! ムカついてきた!)
そもそも希咲にとって最も大事なのは親友の愛苗ちゃんなのだ。
おかしな異常に見舞われている彼女を心配して、それを解決してあげたいのである。
だが――
(どう足掻いてもあのバカが関わってくるのよね……っ!)
今回の件があろうとなかろうと――
水無瀬自身が弥堂へ何かしらの感情を向けている以上、自分とあの男との関係も切っても切れないものとなってしまうのだ。
そのことがどうにも――
(――ムカつくっ!)
思わずダンッと足元を踏み鳴らすと、川べりに寝そべってこちらを見ていたペトロビッチくんがビクッと反応する。
罪もない動物さんを驚かせてはいけないと取り繕うようにニコッと微笑みかけると、人食い熊さんはデロっと舌を出してハッハッと喜びを表した。
(こんなこと考えててもしょうがない!)
今すぐに動きたいのに、今ここで出来ることがない。
そのことで焦燥して、根拠のない想像で同情心を生み出しても意味がない。
キッと手の中のスマホを睨む。
こんなものに長考していても仕方がない。
簡単に適当に済ませてしまえばいいのだ。
希咲は手早く4文字だけ打ち込んで送信をタップすると、その結果は見ずに画面を落としスマホを仕舞う。
そして焼き上がった肉を皿に積むと、仲間たちの居るテーブルへと向かう。
わざと意識して大袈裟に軽やかに川原の石を踏んで歩いて行った。
機嫌よく見えるように進んでいくと、何やら望莱に蛭子が詰められているような場面に出くわす。しかし、図体はデカイ彼が女の子にビクビクしているところは割とよく見るので特に何とも思わずに声をかける。
「――あんたたち何の話してんの?」
「――うおぉぉぅっ⁉ え、あっ……、なんのって…………なぁ?」
大袈裟に驚いた蛭子はしどろもどろになりながら望莱へ視線で助けを求める。
その態度に希咲はジト目になった。
また望莱にウザ絡みをされているのだと思っていたが、この態度から察するに恐らく女子から見た男子のダメなところを説教されていたようだ。
蛭子に目線を向けられたみらいさんも一度彼にジト目を向けてから希咲の方へ顔を動かし、一転してニコッと笑った。
「おかえりなさい七海ちゃん。弥堂先輩について話し合ってました。ね? 蛮くん」
「お、おう……」
歯切れの悪い返事をする彼へ二人がかりでまたジト目を向けて、すぐに女子同士で向かい合う。
「はい、おにく」
「ありがとうございます。でも焼きすぎでは? 食べきれませんよ?」
「今夜は晩御飯の時に料理出来る場所に居るかわかんないからさ。残りは夜食用に保存するわ」
「おや? 解禁ですか?」
「ん。いちお非常事態だしね」
言いながら希咲も席につく。
「それで? あいつのことなんかわかったわけ?」
「はい。では蛮くんの方から報告をどうぞ」
「えっ⁉」
みらいさんからの無茶ぶりに蛭子くんはびっくりする。
特に弥堂についてわかったことなどないし、実際は希咲のことについて話していたようなものなので気まずそうに目を泳がせた。
「もう、そろそろカンベンしてあげなさいよ」
「そうですね。蛮くんに期待したわたしがバカでした」
「それで?」
酷い言われように蛭子はカチンときたが、これ以上発言を求められても困るので口を噤んだ。
「はい。確定的な情報というわけではないのですが、今朝七海ちゃんが通話しているのをわたしも見ていたじゃないですか? おかげで昨日までよりも彼のことが掴めました。それを蛮くんと話していたのです」
「へぇ」
そんな話は全くと言っていいほどしていない。
スラスラと嘘を吐くみらいさんの言葉に蛭子の胃がキリキリと痛む。
堪らずに彼は希咲が運んできた肉にバッと手を伸ばす。
「――っ!」
「わっ⁉ そんなにガッツかなくっても……。あんたさっきも結構食べてなかった? そんなにお腹空いてんの?」
「…………」
腹は程よく膨れていたが、これ以上自分に話を振ってほしくない彼は口にモノが入っているので喋れないアピールをした。
「ま、いっか。そんで? なにがわかったの?」
「はい……」
返事をして望莱は手に持ったカップを口元に近づけ、話し始める前に一度唇を濡らす。
彼女にしては滅多にないことに、その様子はまるで少し緊張をしているようにも見えた。
「……彼は、とても恐ろしい……」
「えっ?」
「――っ⁉」
望莱の口から出た思わぬ言葉に希咲は驚き、反射的に同じ情報を共有しているはずの蛭子へ目を向ける。
その目線を受けて蛭子は慌てて口の中に新たに二本の串焼きを突っ込んだ。
先程僅かながらでも望莱と話した弥堂のことについての会話で、そんな話は欠片も出てきていないからだ。絶対に発言をしたくないと蛭子の緊張感が増す。
「みらい、どういうことなの……?」
「はい……」
慎重にもう一度希咲が訪ねると望莱はまた返事を先に置いて、今度は手に持ったカップをテーブルの上のソーサーに下ろし目を軽く伏せた。
なかなか彼女が話しださないでいるとその場は必然的に静寂が満ちる。
すると、カチカチ……と食器が擦れる音がフェードインしてくる。
音源に目を向ければソーサーに乗せたカップから指を離さないでいる望莱の手が震えていた。
「――っ!」
二人の目が自分の手に向いていることに気が付きハッとした望莱は、自分が震えているという事実を隠すように左手でカップを持つ右手を抑えた。
普段から世の中の全てをナメきっているような態度しか見せない望莱が、こんなにも怯えを露わにするところを希咲は見たことがない。
尋常でない彼女の様子に希咲自身も神妙に居住まいを正す。
一方で蛭子くんの方は、これが何かの茶番なのか
ただただ情緒をメチャクチャにされ冷汗を流すことしか出来なかった。
数秒程自身の手を抑えていた望莱は食器が鳴りやまないことにやがて自嘲的な笑みを浮かべた。
「……笑ってください。こんな臆病なわたしを……」
「ど、どうしたの? あんたがそんなこと言うなんて……」
「初めてなんです……」
「えっ?」
伏せていた目をゆっくりと持ち上げる彼女の様子に希咲の胸にも不安が膨らむ。
「初めてです。わたし……。この人には勝てないかもしれない――誰かに、そんなことを思ったのは……っ」
望莱の瞳の奥から滲み出る闇のようなものの重みに、希咲は返す言葉を思いつかない。
またも言葉の隙間に生まれた僅かな静寂の中、口の中の物を無理矢理飲み込んだ蛭子の喉が鳴らす音が鮮明に耳に届いた。
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