1章39 『となりのひるごはん』

 何かに気が付いたような仕草を見せ、その後希咲に背を向ける形でベッドに寝そべりペタペタとスマホを触っている。



 そんな彼女――紅月 望莱あかつき みらいの様子を怪訝に思い、希咲 七海きさき ななみはその背、というかこっちに向いていて一番目に付くお尻に声をかけた。



「ちょっと、みらい? どうしたのよ」


「んー?」



 曖昧な返事をしながら希咲のスマホを触り続けていたみらいだが、やがて作業を終えたのか身体を捩じって希咲の方へ振り返る。



「メッセが届きました」


「は? あたしの?」


「はい」


「誰から?」


「水無瀬先輩からです」


「えっ」



 気のない反応だった希咲だがメッセージの送り主の名前を聞くと急にウキウキそわそわし始める。



「貸して」


「やーです」


「なんでよ。早く返事しなきゃなの」


「もうしました」


「はぁ⁉」


「みらいちゃんお返事出来てエライねってホメてください」


「おばかっ! なんで勝手に返事……っていうか、勝手に愛苗のメッセ見たの⁉」


「さっきは見て欲しいってスネてたのに、七海ちゃんったら理不尽カワイイです」


「うっさい!」



 非常識な行動をするみらいを叱りつける希咲だったが、彼女も彼女で愛苗ちゃんが絡むとわりと理不尽だった。



「愛苗なんて?」


「えっとぉー、『ねぇねぇ、今どんなパンツ穿いてるの?』ってきました」


「なんだ、ウソか」


「嘘じゃないですよぉ?」


「愛苗がそんなこと言うわけないでしょ。バカじゃないの」


「えー、ホントなのにー」


「……マジなの? あんた何て返したのよ」


「今パンツ穿いてないよーって返しました」


「はぁっ⁉」



 あっけらかんと言うみらいの言葉に希咲はサイドテールを跳ね上げ、慌ててみらいの手からスマホを奪い取り画面を覗き込む。



「あんたなにしてくれてんのよっ!」


「なにって、聞かれたことに正直に答えただけですけど……。七海ちゃん今パンツ穿いてないじゃないですかぁ?」


「ヘンな言い方しないでっ! インナーショーツ穿いてるから!」


「いいえ。文脈から察するにこれは一般的な下着のことを差していると思われます」


「……ってゆーか、本当に『パンツ』って送られてきてるし……。愛苗が、なんでこんな……」



 疑問を口にしながら希咲はせかせかとスマホを操作し始めた。



「なにしてるんですかー?」


「訂正してんのよ! ちゃんと言わないとヘンに思われちゃうでしょ!」


「む。まるでわたしがちゃんとしてないかのように。わたしはちゃんと七海ちゃんがパンツ穿いてないって言いました」


「それじゃ誤解されちゃうでしょ!」


「誤解じゃないです。だって七海ちゃん今パンツ穿いてないじゃないですか」


「水着なんだから当たり前でしょ!」


「はい。当たり前のことを当たり前に伝えました」


「ウソつけっ! あんた意図的に情報削ってんだろが!」


「水無瀬先輩も女の子。きっと察してくれます」


「もうっ! 愛苗に変態だって思われたらどうしてくれんのよ……っ!」


「嘘はよくないと思いまして」


「うっさい! 大体なんなのよ、この頭の悪そうな文章……っ!」



 表情をキリっとさせて自身の清廉潔白さをアピールしてくる妹分は無視して希咲はスマホの画面に真剣に向き合う。



『@_manamin_o^._.^o_nna73:ねぇねぇ 今どんなパンツ穿いてるの?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あたしぃー いまぁー パンツはいてなくってぇー アゲアゲなのぉー』


『@_manamin_o^._.^o_nna73:そうなんだぁー ななみちゃんがアゲアゲでよかったぁ』



 みらいが勝手に返事を送ったことで、大好きな親友の愛苗ちゃんにお返事出来る機会が一回減ったことを悔しく思いながら、希咲はどうやって誤解を解くかを考える。



「完全にバカ女じゃないこんなの……っ! どうしよう……、愛苗にキラわれちゃう……っ」


「それはないと思いますけどー」


「あんたは黙ってて!」



 望莱を一喝してペタペタとスマホを触る。とても焦燥に駆られた様子だ。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ゴメンね! 今のは変換ミスなの! ホントは今は水着着てるから普通の下着は穿いてないって言いたかったの! あ、でもインナーショーツは穿いてるからセーフだから!』



「苦しくないですか? どう変換ミスしたらこれがああなるんです?」


「うっさい! あんたのせいでしょ!」


「あと、インナーショーツ穿いてるとセーフとはどういう意味なんです?」


「そんなのわかんないわよっ!」



 返信文にダメ出しをしてくる望莱に怒鳴り返しながら、その合間にペタペタと可愛らしいスタンプを送って、大好きな愛苗ちゃんに愛想を振りまく。


 望莱の目にはそれが、浮気バレしたのを誤魔化す為に必死に媚を売る地雷女ムーブに映り、胸の裡に充足感が湧き上がった。



「あっ、返事きたっ」



『@_manamin_o^._.^o_nna73:そうなんだぁ』



 ペポっと新たにチャットルームに吹き出しが追加される。



「よかったですね。信じてくれたみたいですよー……、七海ちゃん?」



 水無瀬からの返信を見た未来がどうでもよさそうに言いながら希咲の顏をに目に映すと、何故か彼女は顔を青褪めさせていた。



「どうしたんです?」


「ど……、どうしよう……っ⁉」


「え? なにがですか?」


「愛苗にキラわれちゃった……っ!」


「え? どこがですか?」



 さすがのみらいさんも『何を言ってるんだこいつは』と希咲に怪訝な目を向ける。



「だって……、なんか返事がそっけない気がする……っ!」


「そうですか?」


「だって! あたしはいっぱい文章打ったのにちょっとしか返してくれなかったし……!」


「普通では?」


「でもでもっ! いつもはいっぱいハートとかくれるのに今日はスタンプしてくれないし! 絶対怒ってる!」


「そもそもどこに怒る要素が?」



 自分がパンツを穿いてなかったことで親友の愛苗ちゃんが怒ってしまいそれによって嫌われてしまったのだと主張する彼女の言い分は望莱には到底理解出来ない。


 しかし「どうしよう、どうしよう」とオロオロする彼女の姿を見て段々面白くなってきた。



 やがて何か解決策を思いついたらしい七海ちゃんは「――そうだっ!」と顔を上げると、バッと素早く立ち上がる。


 そしてマイクロミニのショートパンツのファスナーをジっと下げて、腰の両サイドに親指をそれぞれ引っ掛けると勢いよくパンツを下げた。



 先程回想で登場した学校の廊下で脱衣をした頭のおかしい男に負けず劣らずの躊躇いのない脱ぎっぷりであった。


 膝を曲げてショートパンツを床に落とすと続けて羽織っていたラッシュガードもバッと脱ぎ捨てる。



 その潔の良い脱衣にみらいさんは痺れた。



 室内ではあるが今年度初となる七海ちゃんの水着姿を見ることが出来て、念願叶ったみらいさんはホクホクと満足する。


 そしてジッと希咲の下半身に目線を向けた。



 ショートパンツからチラ見えしていた黄色い部分は腰を周る水着の縁で、股やお尻を覆う布はショートパンツの裾から見えたものと同じミントブルーであった。


 浜辺で抱いた謎が解けてみらいさんは思わずグッと拳を握る。



 さらにその水着パンツの下からは2本の黒い紐が両サイドの腰骨へと伸びている。


 あれが先程彼女が着用していると供述していたインナーショーツに違いない。


 みらいさんの認識では『えっちなお姉さんがよく着てるやつ』なので、興奮度も鰻登りだ。



 水着のデザインの謎は解けたが、果たしてあのインナーショーツはTバックなのかどうかという謎が新たに浮かび上がる。


 実物を見たすぎてみらいさんの精神は不安定になった。



 鼻息を荒くするみらいさんの様子には気付かずに、開放的な姿になった希咲はスマホを自撮りモードにするとそれを持った手を斜め上に伸ばし、きゃるっと画面に向けてポーズを撮る。


 つい数秒前までグジグジとヘラっていたとは思えないほどに完璧な笑顔を作り、その表情は若干ドヤ顏だ。



 その姿を見てみらいさんは目頭を熱くする。



 先程自分が脱げと言った時には頑なに拒否したくせに、好きな子の気を惹くためとあらば躊躇いなく衣服を脱ぎ捨て、その柔肌をカメラの前に惜しげもなく晒し、そしてデジタルタトゥーとなることなど恐れることなく電波にのせて送信をする。



 その立派に育ったメンヘラ具合に、父の心を以てみらいは涙した。



 先程作った表情を維持したままスマホの画面を見ながら角度を調節していた希咲だったが、ふと顎に人差し指をあてて小首を傾げながら「うーん?」と何かを考える。



 そしてパッと振り返ると背後の床に転がっていた望莱のバッグを蹴っ飛ばしてカメラに写る範囲から排除した。


 水無瀬先輩とのあまりの扱いの差に若干の興奮を覚えるみらいさんを他所に、希咲はパッパッと手際よくカメラに写る範囲だけを綺麗にする。



 周囲を見回し自身の作業の結果に「うんうん」と満足げに頷くと元の位置に戻り再度ポーズをとってからカメラを調整し軽快にシャッター音を鳴らしていく。


 ある程度の枚数を撮影してからパチッとウィンクして笑っていた顔をスンっと真顔に戻し、険しい視線で画面を睨み写真を吟味する。



 やがて熟考の結果一枚の写真を選び出し水無瀬とのチャットルームに貼り付けた。



 そしてスマホをベッドの上に置いて、その前にペタンと座る。


 両手を膝の付近の腿で挟みこんでウキウキそわそわと返信を待つ。



 すると、わりとすぐにペポンっと水無瀬からの返事が届いた。



 画面を見張っていた七海ちゃんはハッとなると素早くスマホを手にして内容を確認する。



 ジーッと画面を見つめて、そしてすぐにそのお顔がパァーッと華やいだ。



「ねぇねぇっ! 見てよこれっ。愛苗がいっぱいカワイイって――」


「――僕が先に好きだったのにぃぃーーーっ!」


「――わっ⁉ なっ、なんなのっ⁉ いきなりおっきぃ声ださないでっ!」



 喪失感と嫉妬からくる倒錯的で仄暗い激情に駆られたみらいさんの絶叫に遮られ、大好きな愛苗ちゃんに褒められたことを自慢したかった七海ちゃんはプンスカする。



「さぁ、早く掃除をしますよ。いつまで遊んでるんですか?」


「なによそれっ! あんたがふざけてたんじゃない! いきなり一人だけマジメになるのズルイっ」


「過ぎたことをいつまでも言ってるのはメンヘラの証ですよ」


「あたしメンヘラじゃないから!」



 ギャーギャーと言い合いをしているとスマホがまたペポンと鳴った。


 ワガママで気紛れな妹分からスマホの方へパッと目線を身体ごと向ける。


 みらいさんはムッとした。



「今度はなんですって?」


「ちょっと待っ――って、えっ……? はぁっ⁉」


「どうしたんです?」



 最初はおざなりに問いかけた望莱だったが、希咲が素っ頓狂な声をあげたことで興味を持ち画面を覗き込む。



「あーー……、さっきの写真うっかり弥堂にも見せちゃったんだってさ」


「まぁ。それは最悪ですね。男子にあんなあられもない七海ちゃんの姿を勝手に見せちゃうなんて、これは絶交案件です」


「なんでよ。そこまで怒ることじゃないでしょ。てか、愛苗と絶交とか絶対ないし」



 ここぞとばかりに望莱が義憤を燃やしてみせるが、希咲の反応は醒めたものだった。



「おや、随分と余裕のある感じですね」


「だって、愛苗が悪気があってするわけないし。間違えて見せちゃったか、どうせあのクソヤローが勝手に覗き見たとかでしょ」


「そうですか? あの先輩って全然女の子に興味なさそうでしたけど」


「そんなことないわよ! 確かに興味はないかもだけど、アイツってば興味もないくせにスンゴイ変態なんだからっ!」


「あれれー? なんかそういう体験エピソードでもあるんですかー?」


「ないわよっ!」



 醒めたものだったが、先日の弥堂とのあれこれを思い出して一気に怒りが再燃しうがーっと声を荒げる。


 完全に八つ当たりなのだが、それをされている本人のみらいさんはとても嬉しそうだ。



「というかですね。そういうことだけじゃなくって、水着じゃないですか? ほぼ裸じゃないですか? 男子に見られちゃってキャーってなる七海ちゃんを期待してたんですけど」


「や。だって水着じゃん」


「じゃあ下着だったら? ブラとパンツ」


「イヤに決まってんでしょ!」


「露出一緒なのに?」


「だって水着だし。全然違うじゃん」


「なるほど」


「あ、だからってベツに見せたいわけじゃないし、どっちかって言ったら見せたくはないからねっ!」


「つまり水着はセーフと」


「そりゃそうでしょ。水着だし。見せても大丈夫なやつじゃん」


「ふふふ。七海ちゃんはえっちな女の子ですね」


「なんでよ! あんただって水着で歩いてんじゃん!」


「わたしは全裸でも構いません。そのへんの処女とは覚悟が違います」


「そこは構えよ。そのへんの人と同じ常識を持って。お願いだから」



 ドヤ顔でムフーっと鼻息を吹く望莱に希咲は切実な願いを訴える。


 そんな風にどうでもいいおしゃべりをしていると再び希咲のスマホに着信が入る。



「んっ。今度は……あれっ? ののか? なんだろ……」


「ののか? あぁ、あのロリ営業失敗してる先輩ですね」


「……あんた、それ絶対本人に言うんじゃないわよっ」


「大丈夫です。わたし清楚営業してますので」


「つーか、あんた普通に仲良くしてたじゃん。そんなこと思ってたわけ……?」


「わたし、基本的に年上といえどもわたしよりもオッパイが小さい人のことはナメてますので」


「…………」


「あれっ? 七海ちゃん? 聴こえませんでした? もう一回言いますね。わたし、基本的に年上といえどもわたしよりもオッパイが小さい人のことはナメてますので」


「うるさぁーーーーーいっ!」


「きゃーこわーい」



 両腕を振り上げて望莱を怒鳴りつけるが、彼女が自分に限らずほとんどの他人をナメきっているのは今に始まったことではないので、高校出るまでには更生させなきゃと今は胸に秘め、新着メッセージの方に目を向ける。



「んーーと……、んん? 動画……?」


「えっちなヤツですか⁉」


「ぅきゃっ⁉ もうっ! いきなりテンションあげるのやめてよっ。びっくりしちゃうでしょ!」


「……えっちなやつですかぁー?」


「やっ……、ちょっとくすぐったいでしょ。てか、えっちな動画なわけないじゃん。なに言ってんのよ……」



 煩いと注意したら耳元で囁いてきた望莱の顔をどかしつつ、希咲は送られて来た動画を特に何も考えずに再生する。



「なんの動画だろ……って――えっ⁉」



 そして、自身のスマホの画面に映し出された映像に目を見開き、その表情を驚愕に染めた。




 


「ぎゃあぁぁぁーーーーっ⁉」



 2年B組の教室内に鶏を絞めたような絶叫が響く。



 声のした方へ眼をむけるとクラスメイトの早乙女 ののかが床に倒れている。


 彼女が今しがたの動物のような鳴き声の発生源のようだ。



 16歳、高校二年生という年頃の娘であるにも関わらず、スカートが捲れ上がり下着が露出することにも構わずに、足を捥がれたバッタのようにビッタンビッタンとのたうち回っている。


 まるで子供のするような行動だ。



 その人目も憚らぬ仕草に嫌悪感を覚え、その子供らしからぬ光り具合をした光沢の紫色に鋭い視線を刺し、弥堂 優輝びとう ゆうきは眼を細めた。



「耳がぁーっ! 耳がぁーーっ!」



 やがて藻掻き苦しむ早乙女の元に彼女の友人の日下部 真帆くさかべまほが近寄り、早乙女を介抱し始める。


 早乙女は戦場で戦友ともに看取られる兵士のように頼りない手つきで手を伸ばすと、戦友である日下部さんに自らの遺品となるスマホを託してから、ガクリと脱力をして息を引き取った。



 その早乙女に日下部さんは胡乱な瞳を向けると、受け取ったスマホを耳に当てて何やら「ふんふん」と頷いた。


 どうやらスマホは誰かと通話状態のようだ。



 その様子を遠目に視ていると、ふとこちらへ目線を向けた日下部さんと目が合う。



 猛烈に嫌な予感がした弥堂は反射的に目玉を動かし脱出経路を探る。



 隣の席に座る水無瀬 愛苗みなせ まなの背後にある窓が目に入り、それをぶち破って逃げるかと検討するが一歩遅かった。


 こちらへ一直線に歩いてきた日下部さんが「はい」と、早乙女の私物と思われるスマホをこちらへ差し出してくる。



 一瞬無視をしようかとも思ったが、日下部さんのような善良な人をあまり困らせるべきではないなと考え直し渋々応対する。



「……なんだ?」


「弥堂君に替わって、だって」


「…………」


「ふふっ。すごいイヤそう。相手誰だかわかるんだ」


「……ちょっとなにを言ってるかわからないな」



 弥堂は嘘を吐いた。


 早乙女のスマホを通してアイツが自分に電話をしてくる理由がないのだが、何故か直感的にアイツだろうなとわかってしまっていた。



 日下部さんから受け取ったスマホを自身の左耳に持っていく。



「…………俺だ」



 警戒心たっぷりの間を置いてから通話口に声をかけると、日下部さんが「あっ!」と、何かに気付いたような思い出したような、そんな仕草を見せる。



「弥堂君っ、耳気を付け――」


「――あ?」



 彼女が弥堂に何か注意を与えようとするが僅かに遅かった。



『――あたしだ、ばかやろぉーーーーっ‼‼』



 左耳から一直線に貫通して右耳から抜けていくような大声が受話口から飛び出して、弥堂のお耳はないなった。



『あ? じゃねーんだよ! エラそうにすんな! バカじゃないのバカじゃないのバカじゃないのーーっ!』



 反射的に耳からスマホを離してしまったが、それでも無事な方の右耳まで彼女の声は十分に届いてくる。



 音声兵器によるダメージでよろめいた弥堂に日下部さんが申し訳なさそうな目を向けてくるのを、掌を向けて「気にするな」と制して、スマホを右耳に持っていく。



『ちょっと! 聞いてんのっ⁉ 無視してんじゃねーぞバカやろーっ!』


「……うるせぇな、聞いている。お前の声がデカすぎて耳がおかしくなったんだ」


『はぁ? そんなわけないでしょ。しょーもないウソつかないで!』


「嘘じゃねえよ。お前は自分の声のデカさを自覚するべきだ」


『そんなことないしっ。だって、あんたいっつも最初は無視すんじゃん! あと、これもいっつも言ってるけど『お前』ってゆーなって言ってんだろ!』


「うるさい黙れ。何の用だ」


『何の用だじゃないでしょっ! あんたどういうつもりよ! あの動画っ!』



 キンキンと怪音波を発するスマホから顔を背けつつ、弥堂は怪訝そうに眉を寄せる。



「動画だと……?」


「ほら、昨日の朝にののかが悪ふざけで撮ってたやつだよ。愛苗ちゃんを膝に乗っけながらお菓子食べさせて変なこと言わせてたやつ」


「あぁ、あれか……」



 こしょこしょと声を潜めた日下部さんに教えてもらうとすぐに得心がいき、弥堂は再びスマホに声をかける。



「あの動画がどうし――」


(――ん? いや、待てよ……)


『――どうしたじゃねーだろ、バカやろぉーっ!』



 希咲の怒鳴り声を聞き流しながら日下部さんの方へ目線を動かす。


 希咲が何故怒っているかということよりも、今感じた違和感の方を優先させた。



 日下部さんは自分の顔を見てくる弥堂に不思議そうに首を傾げている。


 特に何かしらの意図を含んでいるようには視えない。



(一体どういう――)


『――どういうつもりなわけ⁉ あんたマジでバカなんじゃないの⁉ なに考えて生きてたらあんな動画作ろうとか考えちゃうの⁉』


「……おい、うるさいぞ。静かにしろ」


『はぁっ⁉ なんなのその態度っ⁉』


「今考え事をしているんだ。気が散って邪魔だから少し黙ってろ」


『ふざけんじゃないわよっ! 今あたしが怒ってるんでしょ! 何であんたが考えごとするわけっ⁉』


「お前ホントにうるせえな……」



 明らかに何かが起こってそれを究明する為に思考を回したいのだが、高速回転する希咲の舌に巻き込まれて上手く考えがまとまらない。



「うわぁーん、まなぴーっ! 七海ちゃんがヒドイんだよぉーっ!」


「わっ⁉ ののかちゃんだいじょうぶ?」



 のたうち回って苦しんでいた早乙女が水無瀬の胸に飛び込む。


 こちらは様子の差異がわからない。



「ののかのお耳壊されちゃったぁー! 穴開いちゃってないか見てぇー」


「あわわわっ……⁉ たっ、たいへんっ! 穴開いちゃってるよっ!」


「……あの、そこは突っ込んでいただかないと、ののかと致しましても……」


「え? つっこむ……? ごめんね? 耳かき持ってないの……」



 早乙女からは日下部さんにあったような変化はみられない。



『――なんでいちいち逆ギレしてくんのっ! ゴメンなさいしてよ!』


「チッ、うるせえな。何を怒ってるんだ」


『だから動画のことって言ってんじゃん! こんなに言ってんのに何でまだそこすら伝わってないのよ!』


「動画が気に入らないのなら早乙女に文句を言え。あれを撮ったのはあいつだ」


『もう言ったわよ! つか、あんたが協力しなきゃあんなの撮れないでしょ!』


「何がそんなに気に入らないんだ」


『当たり前でしょ! 愛苗になんてことさせてんのよ! あんたぶっ飛ばされたいわけっ⁉』


「水無瀬……? 菓子を食わせただけだろ。それがどうした」


『どうしたじゃねーだろっ! あんな風に膝にのせてあんな……あんな……っ』


「あんな? 何が言いたいのかよくわからんが、あいつを甘やかせと言ったのはお前だろうが。文句を言われる筋合いはない」


『それでなんで膝にのせてお菓子食べさせることになんのよ⁉ 優しくしてあげてって言っただけでしょ⁉ 甘やかせなんてあたし言ってない!』


「同じことだろうが」


『どこが同じなのよ⁉ あたしがお願いしたこと全然わかってくれてないじゃんっ!』


「うるせえな、わかるわけねえだろ。後から文句言うくらいなら先に言っておけバカが」


『バカはあんたでしょ! 優しくしてってお願いしてあんなことになるなんて想像できるわけねーだろーがっ!』



 まだ希咲がなにやら喚いていたが弥堂は耳からスマホを離して水無瀬に声をかける。



「水無瀬」


「ん? なぁに? 弥堂くん」


「悪いんだがちょっと野崎さんを呼んでくれないか」


「うんっ、いいよーっ」



 水無瀬の「野崎さぁーん」という能天気な声と、受話口から絶え間なく聴こえてくる希咲の罵詈雑言を遠くにし、これから起こる現象を見守る。



 水無瀬の声に気が付いた野崎さんが近づいてきて水無瀬の席の前で止まる。



「うん。どうしたの? 愛苗ちゃん」


「…………」


「あのね、弥堂くんが呼んでるの」


「そうなんだ。ありがとうね。何か用かな、弥堂君」


「…………」


「弥堂君……?」


「うん? あぁ、ちょっと待ってくれ」



 見たかったものは見ることが出来たのだが、野崎さんを呼んだのはいいものの特に彼女への用を考えてはいなかった。


 もう用は済んだといえば済んだようなものなので、半ば以上彼女への興味を失っていた弥堂は適当に済ませようとたまたま目に入った自分の手の中のスマホを野崎さんへ差し出す。



「うん……? 私に?」


「あぁ。煩い女が煩くて困っているんだ。悪いがこいつを説得してくれないか」


「あはは……。一応替わってみるね」



 苦笑いをしながら野崎さんは電話に出る。



『テメー聞いてんのかこの変態ヤローっ! 愛苗にあ、あんなえっちっぽいこと言わせるとか絶対に許さ――』


「――もしもし?」


『――ないって……、は? え?』


「ごめんね、希咲さん。野崎です。お電話替わりました」


『野崎さん……? あれっ? なんで……?』


「替わってほしいって弥堂君に頼まれちゃって。私でごめんね?」


『えっ? いや、全然っ。それより……、どういうこと?』


「えぇーと……、とりなして欲しいって……」


『あっ……、あのヤロウ……っ! 野崎さんまで平気で巻き込むの……っ⁉』


「あははー……」



 この様子なら問題なさそうだと弥堂は野崎さんから目を離す。



「弥堂くんっ。ななみちゃん、なんだって?」


「ん? あぁ、どうも昨日のお前の動画が気に食わなかったらしい」


「動画……? もしかして、お菓子食べすぎだったからかな? わっ、私も怒られちゃうかも……っ⁉」


「それはないと思うよ、愛苗ちゃん」


「…………」


「ののか頑張って編集したのに……」


「なに言ってんの。ぶっちゃけこれがアンタの望んでたリアクションでしょ」



 日下部さんと早乙女が会話に参加してきたことで弥堂は外れる。



(一体今度は何が起こった……?)



 考えてみるがさっぱりわからない。



(何故戻った)



 一週間分の関係がリセットされたかのように感じられていた水無瀬とほかの女子たちの友好具合が、今度は脈絡もなく数日前の仲が一番良かった時の状態に戻ったように見える。


 だが、やはりその理由がわからない。



 彼女たちには何かしらの意図があってこのように振舞っているという様子もないし、後ろめたさがあるようにも見えず、普通に当たり前にこうしているようにしか見えない。


 むしろ水無瀬の方が若干戸惑っている様子だ。



「弥堂君」


「……どうした、野崎さん」



 考え込んでいると希咲と電話中の野崎さんに呼ばれる。



「希咲さんが替わってほしいんだって」


「…………」


「あ、大丈夫だよ。警戒しないで? 話はもうついてるから」


「そうなのか?」


「うん。ただ、どうしても弥堂君と話しておきたいことがあるんだって」


「わかった」



 出来れば希咲とはあまり関わりたくないが、弥堂としても彼女に聞いておきたいことが出来たので仕方なく電話に出る。



「俺だ」


『……なんかその出方エラそうでムカつく。ちゃんともしもしって言いなさいよっ』


「話はもうついたんじゃないのか?」


『そうだけどっ……! あんたマジで、この卑怯者……っ! あたしが野崎さんに強くは言えないからってズルイわよっ!』


「話があるんじゃないのか?」


『……帰ったら覚えてなさいよ』


「それは恐いな」



 適当に応対をし、希咲に本題に入らせる。



『細かいことはまたメッセするからいいとして、これだけは言っときたいんだけど』


「なんだ」


『愛苗にヘンなこと教えないでよねっ! え、えっちなこととか……?』


「わかった」


『……随分素直ね。あんたが何も口答えしないと逆に怪しいって思っちゃう……』


「お前は俺がどうすれば満足なんだ?」


『多分なにしてもダメだと思う』


「だろうな。それより俺もお前に聞きたいことがあるんだが、いいか?」


『あによ』



 目線を動かし、誰も弥堂と希咲の通話に気を払っていないことを確認する。



「……お前、何かしたか?」


『は?』


「お前は何かをしなかったか、と聞いている」


『なにそれ? いみわかんないこと言わないでっ』



 満足のいく回答ではなく弥堂は目を細める。



「俺が最初に電話に出るまでにお前がしたのは、早乙女に電話をかけて動画の件で怒鳴っただけか? 他には何もしていないのか?」


『どういう意味?』


「そのままの意味だ」


『……あんたがあたしにどういう答えを期待してるのかわかんないけど……、そうね、別になにもしてないわ』


「そうか」


『つーか、あんたが悪いことしたからあたし電話したんじゃんっ。なんであたしが怒られてるみたいになんの?』


「聞きたいことはもうない。じゃあな」



 端的に告げて電話を切る。勝手に。



「早乙女」


「ん? もういいの?」


「あぁ」



 そして勝手に電源を切って早乙女にスマホを返した。



(希咲の仕業ではないのか……?)



 もしも誰かが何かをして状況が変わったのならば、彼女が一番可能性が高いと思ったが、希咲の言葉をそのまま受け取るならば、そうではないようだ。



(嘘は吐いていないとは思うが、真実だと断定する材料もないな)



 結局は原因はわからなかったが、しかし水無瀬と彼女らの関係に何かしらが起こっていることは断定してもよさそうだ。



「弥堂くん弥堂くんっ」


「……なんだ? 水無瀬」


「えっと……あのね?」



 何やら言いづらそうにする水無瀬へジロリと視線を遣る。



「ななみちゃんがね……? 『ばーかばーか』だって」



 チラッと目線を下げると彼女の手にはスマホが。


 どうやら水無瀬に連絡をしてきたようだ。



「そうか。迷惑をかけてすまんなと謝っておいてくれるか?」


「え? うん、いいよー。他になにか言った方がいいことある?」


「いや、ない。それだけ頼む」



 それっきり弥堂は会話を打ち切って自分の席に座る。



 次の授業開始まで間もないので、机の中から必要な教材を取り出し、それが終わると自分のスマホを取り出す。



 横目で水無瀬が希咲へのメッセージを送り終わったことを確認して、素早く自分のスマホのedgeを起動し、希咲へ『他人を激怒させるスタンプ』を一つ送りつける。



(このクラスで何かが起こっている)



 気楽に構えていると何か下手を打つ可能性がある。


 そうしたらあの口煩い女に何を言われるかわからない。



 弥堂は素早くスマホの電源を落とし、上着の内ポケットへ納めた。



 それとほぼ同時に授業開始のチャイムが鳴る。



 休み時間は終わりだ。







「もぉーーーっ! なんなのあいつぅーっ……!」



 ベッドにスマホを投げつけ、希咲 七海きさき ななみは怒りを露わにする。



「お電話終わったんですかぁ?」



 そんな希咲とは対照的に紅月 望莱あかつき みらいは和やかに声をかける。希咲はギンっと彼女へ険しい目を向けた。



「切られたのっ!」


「まぁ。先輩ったらなんておとこらしいんでしょう」


「どこがよっ! あんた、男らしさを何だと思ってるわけ⁉」


「なんかこう、うすぼんやりと……? 理不尽で無責任な感じ?」


「なによそれっ! まだバイバイしてないのに勝手に電話切るとか最悪じゃん! マジ信じらんないっ!」


「あぁ、まさにそんな感じです。女の子を妊娠させても絶対に責任とらなそうな感じです」


「ただのクズじゃねーか」



 両手を合わせて感嘆したような仕草を見せる望莱を希咲は胡乱な瞳で見た。



「さぁ、次はこちらのターンですよ七海ちゃん。まずは基本のオニ電からいきましょう。絶え間なきコールバックです」


「イヤよっ。今かけてたのってののかのIDだし。カワイソウじゃん」


「……? 弥堂先輩のIDを知ってるなら直接かければいいのでは?」


「……まだアイツと通話したことないし、あたしから最初にかけるのなんかムカつくじゃん?」


「『じゃん?』と言われましても」


「だってさ。通話しよって言ったことないし、いきなりかけるのキモくない?」


「わたしにはよくわかりません。ただの連絡手段なんですから、使えるなら使えばいいのでは?」


「あいつと連絡とってるの愛苗にバレたくないし、それでバレちゃったら愛苗にもキモいって思われるからイヤ」


「七海ちゃんが、他人の男にチョッカイかける地雷女ムーブしてます」


「なんでよ! そんなんじゃないしっ。愛苗とアイツがID交換するまでの緊急的な感じだから」


「そういう入り口から沼っていくのが地雷たる所以……」


「あたし地雷じゃないからっ!」



 みらいさんは他にも、彼に直接電話出来ないからって彼の近くにいる別の女に電話して繋がせるのも十分にキモいと考えていたが、そこには言及しないであげた。



「七海ちゃんはメンドクサカワイイです」


「……あんたそれバカにしてんでしょ?」


「ホメてるんですけどねぇ……、あら?」


「ん?」



 何かに気が付いた望莱の視線の先にあるのは先程放り投げた希咲のスマホだ。



「今度はなによ」


「またメッセがきました」


「愛苗から?」


「いえ、チン凸先輩からです」


「死ねって返しといて」


「わかりました。ですが、今ので伝わるということはチン凸されたんですか? 画像はどこに?」


「ないわよ、そんなのっ! 揚げ足とるな!」



 まさか通信ではなくリアルで凸されたとは口が裂けても言えないので、希咲は怒ってるフリをして勢いで誤魔化した。



「わかりました。では揚げ足にならないように、ち〇こ撮って送れって返しておきますね」


「ふざけんなバカっ! それあたしが言ったことになっちゃうだろ! やめなさい――」



 勇んで返信文を作成しようとする望莱に慌てて飛びつき、彼女の行動を阻止しようとする。


 二人でもみくちゃになっていると激しく抵抗する望莱の指が、未読アイコンの付いた弥堂のアカウント名に触れてしまう。


 画面には弥堂とのメッセージの交換履歴が保存されるチャットルームが表示された。



「「あっ」」と声を揃えた二人に目に彼から送られた新着のメッセージが映る。



 それは文章でもなければ文字ですらない一つのスタンプ。



 もちろん『他人を激怒させるスタンプ』だ。



「「なんだこのやろぉーーーーっ‼‼」」



 視認するや否や二人同時に怒りの声を張り上げる。



「なんなんですかぁー! なんかわかんないけどスンゲェむかつきますっ!」


「マジむかつくマジむかつくマジむかつく……っ! もぉーっ! このスタンプなんなのよっ!」


「こんなの人間することじゃあねえですよ。七海ちゃん、こうなったら戦争です」


「そうね。あんた悪口トクイでしょ? なんかムカつくメッセいっぱい送って、あのバカを泣かしてっ」


「任せてください。これまでに紅月家で働いていた大人を、齢15にして既に50人以上も遊び半分で退職に追い込んだ実績のある、このみらいちゃんの嫌がらせスキルを見せて御覧に入れましょう」


「それはマジで問題あるし、絶対にもうやめさせるけど、今日はトクベツよっ。やっちゃいなさい!」


「あいあいさー! 精神崩壊するまで人格を傷つけて、わたしたちが帰ったら全裸土下座withネクタイするくらい追い詰めてあげます。そしたら写真撮影して一緒にち〇こ見ましょうねっ、七海ちゃ――」


「――お前たち何をしているんだ」



 突然背後からかかった声に二人揃って肩を跳ねさせる。


 慌てて部屋の入口の方へ振り返ると――



「――真刀錵……?」


「うむ」



 そこに居たのは紅月 聖人あかつき まさととマリア=リィゼに同行していたはずの天津 真刀錵あまつ まどかだった。



「あれ? 真刀錵ちゃん一人ですか?」

「聖人とリィゼは?」


「聖人ならそこにいるぞ」



 そう言って彼女が指差したのは自身の足元。


 部屋と廊下とを隔てる壁でほとんど見えないが、廊下に横たわる誰かの膝から下だけが部屋の入口から僅かに見えた。



「……? なんで寝てんの?」


「絞め落とした」


「はぁっ⁉」


「まぁ、兄さんったらなんてだらしのない。そんなところもステキです」



 聖人を護衛すると言って着いて行った人間が、護衛対象を絞め落として持ち帰ってくる理由が希咲には理解ができず、呆然と死体のように撃ち捨てられた男の足を見つめる。



「……一応聞くけど、どうしてこうなったの?」


「うむ」



 聞きたくないがそういうわけにもいかないので、希咲が半ば以上義務感から天津に事の経緯を尋ねると彼女は鷹揚に頷いた。



「実はリィゼが川に落ちてな」


「えっ⁉」


「それで聖人が助けに向かおうと」


「あ、なんだ。まぁ、そうよね。あんたたち二人付いてれば、それくらいならどうにかなるもんね」


「そのとおりだ」



 然りと、天津は当然のことのようにコクリと頷く。



「なるほど。つまりリィゼちゃんを助けたご褒美に兄さんの大好きな首絞めプレイをしてオトしてあげたと、真刀錵ちゃんはそう言いたいんですね?」


「うむ」


「うむ、じゃねーよ。絶対違うだろっ」



 適当なことを言う望莱に適当に肯定する天津。


 二人に胡乱な瞳を向けた。



「みらい、あんたはちょっと黙ってて。真刀錵もめんどいからって適当に返事すんな」


「ぶー」

「うむ」



 本当にわかってんのかこいつらと疲れを感じるが、本当にわかっているなら今こうなってはいないはずなので、希咲は諦めて先を続けた。



「そんで? なんで聖人を?」


「あぁ。救出のために聖人が川に飛び込もうとしてな」


「うん」


「私はそれを止めたのだ」


「……なんで?」



 この天津 真刀錵という現代の女子高生らしからぬ言動をする幼馴染は、当然その思考回路も通常の女子高生とは一線を画しているので、前後の供述がまるで繋がらず、希咲は辛抱強く聞き取りを続ける。



「聖人の奴め、十分なアップをしていなかったからな」


「……それで?」


「川をナメるなと叱ってリィゼのことは諦めるように言ったのだが」


「……聞くわけないわよね」


「あぁ。七海、お前の言うとおりだ。私の制止を無視して聖人が川に飛び込もうとしてな」


「……もう先は読めたけど。一応。んで?」


「絞め落とした」


「なんでそうなんのよっ!」


「安全の為だ。私は聖人の護衛役だからな」


「気絶させなくてもよくない⁉」


「そうかもな。お前の言うとおりだ」


「へっ……?」



 まさか同意するとは思っていなかったので、希咲はぽかーんと口を開けて天津の顔をマジマジと見る。



「私もな、咄嗟の判断ではとりあえず聖人を斬ろうと思ったんだ。だが、斬ったら聖人が死んでしまうからな。だから次善の案として首を絞めた。しかし、お前の反応を見る限り、やはり斬っておくべきだったか。次があれば必ず斬ってみせよう」


「斬るなバカっ! 締め落とすより悪いだろーが!」


「ならば私にできることは何もないな」


「もっと他にあるでしょぉっ⁉」



 年々物騒な方向に頭がおかしくなっていく幼馴染に希咲は頭を抱えた。



「……あれ? ちょっと待って。てゆーか、それならリィゼは? 下の階にいるの?」



 セット品のように聖人に着いて回っていた金髪お嬢様がいないことにハッと気が付いて、希咲は天津に問いかけた。



「さぁ? 少なくともこの建物にはいないと思うぞ」


「……待って……、待って……。あんたもしかして……」



 途轍もなく嫌な予感がして希咲は顔を青褪めさせる。



「ねぇ真刀錵?」


「なんだ七海?」


「あんたさ。聖人を絞めた後にリィゼを助けたのよね……?」


「いや?」


「は?」



 嫌な予感はもう確信に変わっていたが、一縷の望みに賭けて確認をする。



「……リィゼは?」


「流されていったぞ」


「嘘でしょぉぉーーっ⁉」


「む。嘘ではない。どうも泳げないらしくてな。為す術もなく桃のように尻を浮かべて流れていったぞ。私は嘘は吐かない」


「むしろ嘘であって欲しかったわよっ! なんで助けないわけ⁉」


「私の役目は聖人の護衛だ。気を失った聖人を置いて川に飛び込むわけにはいかん」


「あんたが絞め落としたんでしょ⁉ リィゼが死んじゃったらどうすんのよ⁉」


「静かになっていいじゃないか」


「あんたはぁぁ……っ! それってどれくらい前のこと⁉」


「ふむ。5分は過ぎているが10分は経ってないな」


「もぉーーっ! ばかぁーーーっ!」



 全力で叫ぶと同時に希咲は走り出し、開けっ放しになっていた二階の寝室の窓から水着のままで外へ飛び出す。



 希咲の姿が消えていった窓の外を望莱と天津は黙って数秒ほど見つめる。



「さて、それでは私はソシャゲのイベ周回に戻ります」


「では、私は七海の代わりに部屋の掃除をしておくか」



 今も溺れている仲間のことなどどうでもよさそうに望莱は自身のスマホを手にし、天津は手に持っていた聖人と自分の荷物を廊下の床に投げ捨てる。



「ところで、真刀錵ちゃんってお掃除出来るんですか?」


「む。甘く見るな。幼い頃より毎朝道場の清掃をしている」


「そうですか。ではお任せしますね」


「あぁ」



 望莱が他人事のように清掃の役割を押し付けてくるが、彼女には言ってもやらせても無駄なことは天津にはよくわかっていたので、粛々とジャージを腕まくりする。



「あっ、大変なことに気づきました」


「どうした」


「今って七海ちゃんのスマホ弄り放題じゃないですかー。ちょっと七海ちゃんのフリして七海ちゃんの親友さんの好きな男の子に軽率に告ってみましょう」


「……みらい。お前その首――」


「……? なにか付いてますか?」



 天津が指差す自分の首元にゴミでも付いているのかと望莱はパッパッと手で払う。


 天津はその彼女の背後へ近づき、望莱の細首に腕を回すと――



「――あまり七海に迷惑をかけるな」


「――くぺっ⁉」



――兄と同様に妹も一瞬で絞め落とした。



「む、邪魔だな」



 そして天津はグッタリとする望莱を掃除の邪魔だと廊下へ投げ捨てる。



 それから荒れた部屋へと向き直った。



「さて、なにから手を付けるか……」



 そう言いながら部屋中を見回し、数秒ほど考えると――



「面倒だな。斬るか」



――当然のことのように言い捨てて懐に手を入れる。



「まったく……、世話のかかるヤツばかりで困る」



 家から与えられた役目を果たしながら幼馴染たちの面倒を見るのも楽ではないと嘆息し、天津 真刀錵は友人たちが散らかした部屋に立ち向かった。




 そして数十分後、人の手が入っていない無人島内で川に流された友人を見つけ出して無事に救助を成功させて帰ってきた希咲は、外出前よりも酷くなった部屋の惨状を見てまたも頭を抱えることとなった。







 昼休み。



 午前中の授業が終了し、昼食の時間となる。


 弥堂 優輝びとう ゆうきが所属するこの2年B組も既に学食や購買に向かった者、昼食を共にする友人と合流する為に席を立つ者などで人が行き交い賑わっている。



 ただそれは一見すると――の話で、全ての者が喧騒の一部になっているわけではない。声の大きな者や動き回る者が目立つだけで、当然そうではない者たちもいる。



 それは弥堂 優輝であったり或いは――水無瀬 愛苗みなせ まなであったり、だ。




「水無瀬さん、一緒にお昼食べよ」

「愛苗っちは学食じゃないよね?」


「う、うん……、真帆ちゃん、ののかちゃん……」



 弥堂の隣の座席に座る水無瀬のもとに日下部さんと早乙女が近づいてきた。



(また好感度が下がった――いや、リセットされた……のか……?)



 便宜上この現象をそのように言語化することにし、弥堂は横目で彼女らの様子を視て目を細める。



「愛苗ちゃんはお弁当組よ。常識でしょう」

「普段から一緒にご飯食べてたわけでもないのに何を食べてるのか把握してるのは、常識的に考えてコワイよ、小夜子」



 野崎さんの言うことは尤もだ。普通ならばそうだろう。


 だが、彼女らは数日前にも水無瀬と昼食を共にしているし、それがなかったとしても水無瀬が弥堂に作ってきた弁当を渡す際にそれなりに目立っているのでその様子を目撃しているはずだ。


 だから水無瀬が弁当を持参していることを知っていたとしても別におかしくはないし、なんなら彼女達4人に関しては知らない方がおかしい。



 今回に限っては悪ふざけとはいえ舞鶴の言い分の方が正しいといえよう。



 実に野崎さんらしくない。



 らしからぬ論理破綻――というよりは、



(――情報の整合性がとれていない……?)



 弥堂からはそのように見えた。



 先週の金曜日に名前で呼び合うくらいには仲が良くなっていた水無瀬と彼女たち4人だが、それがなかったかのように昨日、そして今朝には希咲が水無瀬と彼女らの関係を取り持つ前の親交度にリセットされていた。


 それが今から約一時間前の休み時間に希咲から早乙女に電話がかかってきたら、今度はまた数日前の仲がいい時の状態――4月17日の金曜日あたりの状態に戻った。



 一体どういうことだとその後の授業中に原因について考えていたら、希咲の電話から約一時間ほど後の現在、好感度、友好度、関係値、そういったものに近い何かがまたリセットされ、まるで4月17日の金曜日あたりの状態にロールバックでもしたかのようだ。



 チラリと水無瀬が不安そうな視線を向けてくる。



 弥堂は黙って目を伏せた。



 縋られたところで答えられることがなにもない。



 依然として何が起きているのかはわからないままで、印象としては逆に状況が悪くなっているようにも感じられる。



 弥堂は席を立つ。



 これは水無瀬の問題であって自分の問題ではない。


 希咲から水無瀬のことを頼まれてはいるが、それは暴力沙汰に類するものに限ると認識している。



 水無瀬の周囲で何かが起こっているのは間違いがなさそうだが、現時点で自分が介入するような緊急性のある問題ではないと判断した。



 出来れば原因と、そもそも今なにが起こっているのかについて突き止めたいところではあるが、考えたり調査をすれば必ず謎が解けるというものでもない。


 現実の出来事には答えが用意されているとは限らないのだ。



 それならばいっそとっとと緊急性のある事態になってくれた方が自分としてもその現場に居る者を殴ればいいだけなので、その方が効率がいいし楽でいいと、そんな風に考えながら場を離れようとする。



「あ、あの、弥堂くんっ」



 そうするとやはり呼び止められる。



 ここのところ、こうして他人に呼び止められることが増えたなとうんざりしながら弥堂は振り返る。



「なんだ、水無瀬」


「ごめんね、忙しいところ……」



 何故か申し訳なさそうにする水無瀬に、『用件を訊いているんだからそれを答えないことに申し訳なく思ってくれ』と弥堂は考えたが口には出さなかった。


 彼女の手に持っている物を見れば彼女の用件は一目瞭然だ。



「あのね、結局作ってきちゃったんだけど……」


「何が結局なのかは俺にはわからんが、用件はわかった。寄こせ」



 無駄な問答を省いてさっさと弁当を受け取る。


 ここ数日でこのやりとりがルーティンになったように感じられて、もはや無駄な抵抗をする気も失せていた。



「おぉ……、すっごいオレ様なんだよぉ」


「シチュエーションとしてはあるあるだけど、実際にはあんまり見ない光景だよね。手作り弁当あげるって」



 弥堂としては数回でもう飽き飽きしているこの工程を、彼女たち4人は物珍しい光景のように見ている。



「び、弥堂くん、あとね……?」


「……なんだ?」


「……ごめん。やっぱりなんでもない。口に合わないものとか入ってたら無理に食べなくていいからあとで教えてね」


「…………」


「弥堂くん……?」



 少し目を丸くして呆けていると水無瀬に怪訝そうに顏を覗かれる。



「……いや、なんでもない。わかった。じゃあな」


「うんっ。またあとでね」



 取り繕ってからこの場を辞する。



 てっきりまた『ここで一緒に食べようと』言われると思っていたので少々意外だったのだ。


 普段から彼女は何度断ってもまったく気にした様子もなく、無邪気にそう要求してくるからそれも込みでルーティンのように感じていた。



 ましてや、今日に関してはどこか周囲の様子がおかしく、そして水無瀬自身もそう感じていたようだったので、居心地の悪さから尚更ここに居るように要求されると考えていた。



 もしかしたら彼女も言葉を止める寸前までそのつもりだったのかもしれない。


 そんな様子がみてとれた。



 だが――



(――自分のためには要求をしないのか)



 水無瀬 愛苗という人物を表す特性の一つに加え、それについて考えようとして、そしてやめた。



 まるで今日初めて食卓を共にするような、そんな雰囲気が感じられる女たちの「次の移動教室一緒に行こうねー」という燥ぎ声を背にして、水無瀬から貰った弁当を手に教室の出口へ向かう。



「よぉ、イイご身分じゃあねえか? あ? クラスの女子に弁当作ってもらうとかよぉ」


「お、おい。鮫島、やめとけって……っ!」



 出口への道すがら教壇の近くを通りがかると、その場所にある自席に腰かけた鮫島君にイチャモンをつけられる。


 弥堂は特に相手にすることなく、通りすがりにチラリと横目を向けるだけに留めた。


 鮫島君もそれ以上は絡んでくることもなく、今度は仲間内で言い合いを始める。



「んだよ、須藤っ。止めんなよ」


「バッカおめぇ、ケンカ売ってどうすんだよ」


「あぁ? だってムカつくだろ? 水無瀬さんに弁当もらって希咲からは電話もらって。紅月じゃあるまいし何であのヤロウが……」


「オマエ……、希咲は諦めろって……」


「いいや。まだワンチャンあるね! つかよぉ、オメーもムカつくだろ? 小鳥遊ぃ?」



 そう言って味方に引き入れようと鮫島君が水を向けたのは、去年ワンチャンあると思って希咲 七海に告って玉砕した雰囲気イケメンの小鳥遊君だ。



「カンベンしてくれよ、鮫島。俺は別に不良とかじゃないんだ。アレにケンカ売ろうなんて思えねえよ……」


「なに日和ってんだよ。水無瀬さんの手作り弁当とかオメェ許せねえだろ」


「いや、そりゃムカつくっちゃムカつくけど、それくらいで弥堂とケンカするとかワリに合わなすぎだろ」


「カァーっ、ダッセェな。昨日は『俺の愛苗ー』とか言ってたのに、そんなもんなのかよ」


「は? なんだそれ?」



 身に覚えがないこと言われたかのような反応をした小鳥遊君の素っ頓狂な声が聴こえ、弥堂はちょうど教室のドアの敷居を越えようとしていた足を止めた。



「なんだそれって……、オマエが昨日言ってたんじゃねえか」


「はぁ? そうだったっけか……?」


「そうだったっけかって……、オマエ水無瀬さんが好きなんだろ?」


「なんだよそれ? なんでそんな話になってんだ? 確かに可愛いと言ったことはあるとは思うけどよ、そこまでは言ってねえよ。やめろよお前ら、そういうの決めつけて言いふらしたりすんなよ?」


「あれー? そうだっけかー? 言ってたよなぁ? 須藤」


「あー……、うん? どうだっけか……? 言ってたような言ってないような……」


「そう言われるとオレも自信なくなってきたな」


「な? だから言ってねえんだって」


「おぉ。オレの早とちりだったみてぇだ。悪かったな」


「まぁ、気にすんなよ。そういうことだから弥堂にケンカ売ったり――ヒッ⁉」



 言いながらふと教室の出入口の方へ目線を向けた小鳥遊君が固まる。


 教室から出ずにそこに立ち止まったままの弥堂が自分を見ていたからだ。



「おぉ……、スゲェ見てるぞアイツ」


「な……、なんで……、なんでアイツ俺を見てんだ……っ⁉ 俺なにも言ってねえのに……、こえぇよ……」


「あーあ、小鳥遊オメェ終わったな」


「アイツにケンカ売ったのお前だろ⁉」


「まぁ、任せとけよ。ヤロウがやるってんならオレが代わってやっからよ」


「鮫島ぁ、オメェやめとけって……」


「須藤よぉ、オメェもこないだのオレのタイマン見たろ? 仕上がってきてんだよ。左が。今ならやれる気がするんだ」


「オマエ、先週もローが仕上がったっつって絞めオトされてたじゃねえか……。あんま言ってっとそろそろアイツ……、って、あれ? 居ねえ?」


「あ?」


「た、助かったぁ……」



 須藤君が教室の出口の方へ目を向けるとそこにはもう弥堂は居なかった。小鳥遊君が安堵の息を漏らす。


 彼らも彼らですぐに他のことに興味を移し、仲間内でまた馬鹿話を始めた。






 体育館裏に訪れる。



 教室を出た後に用事を済ませた弥堂はここ最近では毎回昼休みを消化するのに使っているこの場所に昼食の処理をしに来ていた。



 水無瀬から渡された弁当袋を片手に周囲に眼を配る。


 前回と前々回はこの場所で生ゴミ処理機である白猫と遭遇したが、今日は居るだろうかと探しているとガサガサと茂みが揺れる音がする。



 そちらへ眼を向けると探していたものと同じ形をした白猫が植え込みから出てきてチョコンとお座りをした。



 前回はその植え込みの後ろにある木に蹴りを入れたら枝の上から落ちてきて、ひどく怯えた様子を見せていたが、今日はそういった様子は見られない。


 前足を伸ばしてお座りをし、こちらをジッと見ている。



 弥堂もその白猫をジッと視た。



 数秒ほど白猫と見つめ合ってから、自分へ向けられるまんまるな目から視線を逸らした。



 袋から弁当箱を取り出しながら歩く。



 弁当箱の蓋を開け、そして焼却炉の扉を開く。



 一度白いネコの方へ目線を遣る。



 まんまるな目が自分を見ている。



 無感情にその目を視返しながら焼却炉の中に手を突っこんで、炉の中で弁当箱を逆さまにして中身をぶちまけた。



 手の中の重さが失くなったことを感じ取り、炉の扉を閉めてこの場を立ち去る。



 背中に視線を感じながら校舎の方へと戻った。





 部室棟の近くまで来ると怪しい人影を発見した。



 ここいらは物陰になるような場所が多く、専ら不良たちの溜まり場に使われている。


 なので、ここいらに居る時点で既に怪しい人物である可能性が高いのだが、今回はそういった意味での怪しいではなく、この場に似つかわしくないといった意味での怪しい人物だった。



 その人物とは、水無瀬 愛苗だ。



 弥堂は腕時計に眼を落とし時間を確認する。


 昼休み終了まであと15分ほどだ。



 彼女は教室で野崎さんたち4人と昼食を摂っていたはずだが、弥堂が用事を済ませている間に食べ終わって後は各々自由時間といった運びになったのだろうか。



 風向きによってはタバコや別の匂いが漂ってくるようなこの場所では、彼女のような人物は一際浮いて見える。


 それだけでなく、視線の先に居る水無瀬が挙動不審なのも相まって殊更に違和感が生じている。



 彼女は何かを探しているのか周囲のあちこちに目線を移しながらフラフラと歩いていた。



 もしもわずかに何かのめぐり合わせが悪ければ、自分が焼却炉に彼女から貰った弁当を捨てている場面を見られたかもしれないなと想像し、しかしそれで肝を冷やすこともなく、むしろ手間が省けてそれもいいかもなと胸中で嘯いた。



 それはともかく――



(あいつ何してんだ……?)



 水無瀬の方にはこちらに気が付いている様子はなく、辺りをキョロキョロと見廻しながら時折り「フンフン」と動物が鼻を鳴らすような仕草を見せている。



 確かこの後の5時限目の授業は移動教室で、水無瀬は野崎さんたちと一緒にそこに向かう手はずにしようと話し合っていたはずだ。



 こんなところで、彼女一人で、一体どんな用事があるというのか――



 弥堂は可能性をいくつか想像し、サッと物陰に身を潜めて彼女を尾行することにした。



 ここいらは不良たちの溜まり場で、昨日も同じクラスの不良女子である結音 樹里ゆいね じゅり寝室 香奈ねむろ かなのギャルコンビと彼女らと懇意にある素行の悪い男子生徒たちが屯していた。



 水無瀬 愛苗に害を齎そうと密談していた人物たちのナワバリに、そのエモノが不審な様子で一人歩きしている。



 今日の教室では水無瀬を取り巻く環境に明らかに怪しい何かがあった。



 その原因と、実際に何が起きているのかということを考えたが弥堂にはその答えに辿り着くことは出来なかったが――



(――もう考える必要もなくなるかもな)



 問題に対する答えに必ず辿り着けるとは限らないが、稀に答えの方から勝手にこちらへ来てくれることもある。



 自分の得意とする状況になりそうだと心中でほくそ笑み、弥堂は意識を切り替えて水無瀬の背中に鋭い視線を向けると、「今日の自分は運がいいようだ」と胸中で嘯いた。






 水無瀬は校舎裏を進んでいく。



 やはり何か――もしくは誰かを捜しているのか、辺りをキョロキョロとしながらゆっくりとした歩調で歩いている。



 時折、犬や猫のように鼻をクンクンと鳴らしては首を傾げている。



 この一帯は不良生徒たちの溜まり場になっており、そこらの物陰は彼らの喫煙所のようなものだ。



 弥堂が以前に一時的に世話になっていた保護者のような女であるルビア=レッドルーツが喫煙愛好家だった。


 その彼女と同じ部屋に居ることの多かった弥堂は煙草の臭いにはもう慣れ切ってしまっているので、ここらへんで臭う程度の煙草の臭いなど気に留まるほどのものでもない。



 しかし現在のこの国では煙草というものは結構な嫌われモノのようで、喫煙をしない人間の方が多いと感じられる程度には『嫌い』だと言葉にしやすく『好き』だとは声に出しづらい環境のようだ。


 だから水無瀬の両親も煙草を吸わないのであれば、彼女の年頃ではあまり馴染みのない臭いで気になるのかもしれない。



 よく謂えば純粋無垢、悪く謂えば幼稚で子供っぽい。


 そんなイメージの水無瀬 愛苗という少女にはそもそも煙草というものも、こういった薄暗い場所も全く似付かわしくないように感じられるので、自然とそう思えた。



 反対に派手な見た目をしていて口も悪く、弥堂から見れば性格も悪い希咲 七海ならこういった場所も、なんならタバコを吸っていても似合うかもしれない。



(いや)



 そう思ってすぐに考えを否定する。


 どちらかというと彼女は、喫煙者に『クサイ』だの『カラダに悪い』だのと口煩く文句を言っているのが一番お似合いだと評価を変える。



 そんな風に多少気を散らしても問題ない程度には水無瀬の尾行はイージーだった。



 やたらと周囲を見廻しているわりには、自分が通り過ぎた後の背後にはまったく気を払っている様子がない。


 一応彼女からの視線が通らないように身を隠しながら後を尾けているのだが、そんなことをしなくても彼女ならば気が付かないかもしれない。



(前例もあることだしな)



 と、魔法少女姿の彼女に初遭遇した時のことを思い出していると、ふと水無瀬が立ち止まる。



 ちょうど校舎の壁が切れる地点でその角を曲がると裏路地のようになっている場所だ。


 彼女はソロォーっと路地の中を覗き込んで奥の方を気にしているようだ。



 奇しくも――否、必然か。



 その路地の奥は昨日の昼休みに結音と寝室が溜まり場にしていた場所であった。



 ギャルなどという種族はどうでもいいことに無駄な時間を消費して、やかましいだけでどうでもいいことばかりを喋っているどうしようもない種族だと、弥堂はそのように考えていたがなかなかどうして。



 話が早いじゃないかと全身に火を入れる。



 自分のすべきことは多くない。



 このまま水無瀬を行かせて実害が出る前に乱入し場を制圧する。



 たったそれだけだ。



 それだけで、希咲との約束を果たせるし、今日教室で起きていた訳のわからない事態ももしかしたら終わるかもしれない。



 実に効率がいい。



 逸る気持ちを抑制しながら弥堂は路地を覗く水無瀬の背へ鋭い視線を向けた。



 しかし――



「…………」



 何秒か待っても彼女は一向に進もうとはせずに弥堂は眉を顰めることとなった。



 一体何をしていると焦れて不審に思っていると、水無瀬がまた「フンフン」と鼻を動かす。



「弥堂くん……?」


「――っ⁉」



 まさか気付かれるとは思っていなかった弥堂は驚く。



 咄嗟に身を隠そうとするよりも先に、別の方向を見ながら弥堂の名前を呟いた彼女がこちらを向き、そして目が合った。



「あっ! やっぱり弥堂くんだった!」


「…………」



 弥堂の姿を確かめた水無瀬はニコッと笑顔を見せる。



 尾行をされていたことを何とも思っていないのか、それともそこまでは気付いていないのか。


 彼女なら気付いていたとしても何も気にしないだろうなと考え、見つかったのなら仕方ないと水無瀬へ近づいていく。



「……どうして気付いた?」


「え? えっと……、におい……?」



 そう言って彼女はまた鼻を鳴らす。



「一応身体は毎日洗っているんだが、そんなに特徴的な体臭をしているのか?」


「うんとね、そういうニオイじゃないんだけど……、なんか弥堂くんがいるなぁって空気……? じゃないかぁ……。なんて言ったらいいかわかんないんだけど、なんかそこはかとなくそういう感じが漂ってきて……?」


「なるほどな」



 何を言っているのかまるでわからなかったが、素直に自分の手落ちを認めたくなかったので、『動物みたいなヤツだな』と心中で彼女を蔑むことにした。



「弥堂くんこんなところでどうしたの? 奇遇だね」


「本当に奇遇なことならいいな」


「えっ?」


「お前こそこんなところでどうした? 普段はここまで来ることなどないだろう」


「うん、そうなんだけど……」


「キミは野崎さんたちと昼食を摂ってお喋りをしていたはずだし、この後は移動教室だ。そこまで連れだって行く約束をしていたはずだ」


「あ、うん。化学実験室一緒に行こうって約束したの」


「そんなキミがこんな薄汚い場所に一人で来ているのには理由がある。誰かに呼ばれたからだ。そうだな?」


「そうなのっ。弥堂くんよく知ってるね。すごいねっ」



 言質をとりながら状況の主導権を握っていく。



 こうなった以上は彼女に同行して現場に入るしかないと判断したからだ。


 水無瀬を囮として先行させクズどもが犯行に及んだところで一網打尽にする予定だったが、それを成立させるには水無瀬にも弥堂がここにいることを知られてはいけないし、また自分が囮であるいう自覚を持たせてもいけない。


 彼女の性格や能力を考えれば、演技が出来るとは思えないからだ。



 ならば、いっそ護衛として着いていく方がマシだろうと判断をした。



 出来ればこの場はやり過ごして後日また別の機会を待った方が確実なのだが、それは面倒なのでもう適当にイチャモンつけて2~3人骨折させてやれば大体OKだろうという雑な決断だ。



 状況が開始した時には色々なことをきちんと考えはするが、状況が複雑化しそうだったり、さらに長引きそうだったりすると、すぐに面倒になって力づくで終わらせようとする癖が弥堂にはあった。



「結音と寝室か? この奥にいるんだな?」


「えっ? そうなの?」


「……なんだと?」



 急に会話が噛み合わなくなり弥堂は眉を寄せる。



「あいつらに呼び出されてここに来たんじゃないのか?」


「……? ちがうよ?」


「……じゃあ誰に呼び出された?」


「それがね、わかんないの……」


「…………」



 何を言ってるんだこいつはと胡乱な瞳を向けると、愛苗ちゃんはいっしょうけんめい身振り手振りを添えて説明を開始した。



「あのね、みんなとお昼食べてたらね、変なニオイがしたの。なんかすごく困ってるというか、苦しいというか、よくわかんないけどそういうニオイがして。それでね? 私タイヘンだぁーって思って。みんなに後で戻ってくるねって言って捜しにきたのっ」


「……そのニオイというのはさっき俺に気付いた時のようなことか?」


「うんっ。なんかイタイよぉーって泣いてるみたいで、助けてあげなきゃって思ったの!」


「イタイのはお前だ」



 意味不明な供述をする電波女に侮蔑の視線を投げかけたが、そのニオイは伝わらなかったらしく水無瀬は不思議そうに首を傾げる。


 弥堂は急激にやる気を失った。



「それで? そこの角の向こうを覗いてたのはなんだったんだ」


「かど……? あっ! そうだった! あのね弥堂くん、タイヘンなのっ!」


「お前はいつも大変だな」


「あっちでね、誰かケンカしてるみたいで……」


「ケンカだと?」



 そう言ってまた路地の中を覗き込む彼女に合わせて弥堂も一応見るだけは見てみることにする。


 前述のとおりここいらは不良の溜まり場だ。ケンカなど別に珍しいことではない。



 それに不良同士の対立ではどちらかが勝っても別に負けた方が被害者になるわけではない。


 風紀委員の弥堂としては被害者がいなければ加害者を脅して金を巻き上げることが出来ないので、この件にあまり興味を持てなかったのだ。



「あのね、ケンカっていうかもしかしたらなんだけど、イジメかもしれなくって……」


「なんだと。見せてみろ」



 そうであれば話は別だと、腰を曲げて恐る恐る覗く水無瀬の上から路地の中へ視線を投じた。



 すると、ガタイのいい数名の男子生徒が一人の人物を包囲するように集まっていた。



「この学園のひと、みんないい人ばっかりだしイジメとかそんなことないって思ったんだけど、でもなんかすごくピリピリしてて……、私ひとりでどうしようってアワアワしてたんだけど、弥堂くんが来てくれてよかったよ」


「そうか。よくやった。お前はもう用済みだ。教室に帰っていいぞ」



 血も涙もないことを言いながら速やかに水無瀬を排除しようとするが、彼女は路地の中の出来事が気になってしょうがないようで聴こえていなかった。



「あのおっきぃ人たちがね、たまに『おらぁ!』とかって言っててコワイ感じなのっ」



 そして弥堂も弥堂で彼女から興味を失くし、あとは自分の眼で見て判断すればいいと現場を観察する。



 暫定ではあるが犯人グループは4人だ。



 背が高く、筋量もある。


 そんな屈強な男子生徒が4名で1人の生徒を取り囲んでいる。



 筋肉の輪の中心にいるのも男子生徒だ。



 ただし、制服を見て判断しなければならない程に華奢な体躯をしている。


 野卑で粗暴な男たちに囲まれ、その痩せた身体をさらに縮こまらせて酷く怯えた様子だ。


 今も男たちの一人が威嚇の鳴き声をあげて地面を踏み鳴らしたことで、ビクっと肩を揺らした。可哀想に、震えあがってしまって逃げようにも身体が動かないのだろう。



「……あれは、見た顔だな。ラグビー部の連中か……」



 見覚えのある顔を記憶の中の記録と照らし合わせて身元を確認する。


 そして暫定被害者の方を確認するためにその顔を注視すると――



「……あれは――っ⁉」



 弥堂は驚きに眼を見開いた。







「――よし、引き上げるぞ」


「えぇっ⁉」



 男たちに絡まれている生徒をこれから救出に向かうのかと思った矢先の撤退宣言に愛苗ちゃんはびっくり仰天した。


 ぴょこんっと跳ねた二つのおさげを弥堂は無感情に見下ろし、大きな声を出した彼女が路地の中の連中に見つからぬよう死角へと引っ張る。



「大きな声を出すな」


「で、でもっ……、助けてあげないと……っ」


「あれなら大丈夫だ」


「えっ……? だいじょうぶ、なの……?」


「あぁ、大丈夫だ」


「そ、そうなんだ……」



 茫然と返事をしながら水無瀬はもう一度路地の中を恐る恐る覗き込む。


 そしてすぐにパっと振り向いた。



「やっぱり大丈夫じゃなさそうだよっ」


「そんなことはない」


「だって、『おらぁ』とか『こらぁ』っていっぱい言ってるよ⁉ やっぱりケンカなんじゃ……」


「しつけぇな。大丈夫だって言ってんだろ」


「で、でもっ……」


「彼なら大丈夫だ。問題ない」


「えっ……?」



 不思議そうに首を傾げる彼女の顔を見て、表情には出さずに内心で失言をしたと自覚した。



「弥堂くんもしかしてあの子知ってる子なの?」


「そうだな……」


「お友達?」



 どう答えるか、もしくはどこまで答えるかを考えながら弥堂も再び校舎と校舎の隙間に出来た路地の中を視る。



 屈強な肉体を持ったラグビー部員たちが、水無瀬の言うとおり「オラァ」だの「コラァ」だのと威嚇の鳴き声を発しながら、取り囲んでいる人物を順番に小突いている。


 小突いているというと語弊があるかもしれないが、実際に殴ったりしているわけではなく、代わりに彼のことを軽く押しているだけだ。



 しかし、何ぶん体格差がある。


 やられている側からすれば十分に暴力といえよう。



 そんな酷い目にあっているのは一人の少年、美景台学園の男子制服を着た生徒だ。


 その制服で判別をしなければパっと見は性別の見分けが難しいほどに華奢な体躯で、また体格だけでなく顔の造形の方も少女と見紛うような面差しをしている。



 女性の様に細い線が流麗に滑る髪の毛と、長いまつ毛。


 それらを恐怖で震わせている。



 大きな目からポロポロと涙を溢し、時折「やめてください……」とか細い声を漏らすその人物は間違いなく既知の人物だった。



「――彼は隣のクラスの山田君だ」


「となりの……? A組? C組?」


「A組だな」


「そうなんだー。山田さんっていうんだねっ」


「山田君だ。よく見ろ。男子の制服を着ているだろ」


「わ。ほんとだ。お顔すっごいカワイイから女の子と間違えちゃったよ」


「ということで帰るぞ」


「なんでぇ⁉ 助けてあげようよ」


「隣のクラスだから大丈夫だ」


「えっ……? となりの……、だいじょうぶ……?」



 ダメ元でもう一度ゴリ押ししてみたが余計に混乱させただけのようで、水無瀬の頭の上に大量の『⁉』が浮かんだ。



 彼の人物は隣のクラスに所属する山田 薫という生徒で、弥堂の所属するサバイバル部の部員でもある。


 彼は潜入に特化した優秀な諜報員であり、そして現在は仕事中だと思われる。



 故に、彼の仕事の邪魔をしないように騒がずに速やかにこの場を離れるべきだと弥堂は考えていた。



「野崎さんたちと約束があるだろう? あまり待たせるものではないぞ」


「あ、うん、そうなんだけど……」


「昼休みも残り少ない。早く戻った方がいいと思うぞ」


「うん……、ねぇ、弥堂くん?」


「なんだ」


「今日のね、教室というか、みんなのことなんだけど……」


「…………」


「……ううん、やっぱりなんでもないや」



 そう言って水無瀬としては珍しく笑顔を作って言葉を濁した。


 その表情か、行動にか、わからないが弥堂は自身の裡に苛立ちが生じたことを自覚した。



「ごめんね、ヘンなこと言って。よく考えたらそんなことあるわけないし、多分私の勘違いだと思ったの」


「そうか」



 そもそも何を感じたのかを言わなければ、どう勘違いしたのかも伝わらないだろうと思ったが、弥堂は口に出かけたその言葉とともに苛立ちも抑制した。


 彼女が言いたかったことは、今日のクラスメイトたちの不思議で不可解な言動についてだろう。



(それは勘違いではないだろうな)



 何かがおかしいという点では弥堂も同意見だ。



(そんなことあるわけない、か……)



 水無瀬自身が魔法少女などという、『そんなわけがない』存在だというのに、自分以外の他者を見る時には一般的な感性と常識で測っているようだ。



 その点に弥堂が感じたのは、客観性や聡明さではなく、歪さだった。



 自分の身の回りにはそんなわけがない――つまり普通でない出来事が毎日のように起こっているというのに、他の人間にはそんなわけがないと自然と考えている。


 自分はトクベツだとでも思っているのだろうか。



 しかし、それは正しい。



(お前はトクベツだ)



 何故なら『世界』がそう彼女をデザインしているからだ。



 一瞬目を細めて彼女を見遣るも、今はそんな場合ではないと切り捨てる。



 そんなことよりも今はこの場を早々に立ち去るべきだ。



 その為に、彼女にどう説明するべきか、或いはどこまで説明してもいいものかを考える。



 山田君は通常はその存在を秘匿されている部員だ。


 同じ部員である弥堂にさえ、彼は潜入工作員だと紹介されたことなどない。弥堂が独自で調べて自力で辿り着いた真実だ。



 だから、彼の正体を知る者は少なければ少ないほどいいし、それは部外の人間ならば尚更だ。


 通常ならばこんなことを改めて考えるまでもなく、指示に従わないのならば昏倒させてしまうところだ。



 しかし――と、弥堂は考える。



 今回に関してはその通常の範疇を超えるかもしれない。



 何故ならば、この水無瀬 愛苗という存在自体が通常の存在ではないからだ。


 つまり、トクベツだ。



 現在サバイバル部の――延いてはその長である廻夜朝次めぐりや あさつぐ部長の意思として、弥堂を風紀委員会に、そして山田君を敵対部活動の者の近くへと潜入させている。



 その活動の延長上で街の麻薬利権に弥堂が手を出すことになったのと同様に、今後山田君がその麻薬組織に潜入をするようになることも十分に考えられる。



 そして弥堂はその作戦行動中に街で魔法少女に出会った。


 場合によっては敵対することにもなっていたかもしれない。



 であるならば、山田君も今回の麻薬関連の問題以外にも街で活動をする際に、魔法少女とかいうふざけた存在に遭遇する可能性は大いにある。


 その時に、普段から街の平和とみんなの安全を守るとか意味のわからないことを言っている彼女がどんな行動に出るかを想像するのは容易い。



「――彼はスパイなんだ」


「すぱい……?」



 そうなった場合に現在のこの状況のように、彼の仕事を邪魔されないようにある程度情報を開示した方がいいのではと、そのように判断を下した。



「あぁ。彼は現在作戦行動中だ。ああしてカツアゲに見せかけて必要な情報を入手している」


「えっ……? かつあげ……、すぱい……? えっ?」



 水無瀬は疑問符を浮かべることしか出来ない。彼女の情報処理能力では現状把握が追い付かないのだろう。



「あの、情報って、なんの……?」


「そこまでは言えない。キミには知る資格がないからな」


「そうなの?」


「俺たちはサバイバル部だからな。生き残るために必要なことをしている」


「わぁ、すごいんだねっ。その資格ってどこでもらえるの?」


「……まずは入部届を持って部室に来ることからだな。厳しい審査がある」


「そうなんだね。私でも入れるかな?」


「どうかな。難しいと思うぞ。体力測定もある」


「そうなんだぁ。私運動にがてだからなぁ……」


「どこまでの拷問に情報を吐かずに耐えられるかという体力測定だ」


「ごうもんっ⁉」



 普通の生活――どころか、普通の魔法少女活動をしていても中々馴染みのない普通でない単語が飛び出してびっくり仰天した愛苗ちゃんのチャームポイントがぴょこんっと跳ね上がった。



「そんなことはいい。それよりここに居ると彼の仕事の邪魔になる。行くぞ」


「で、でもでもっ、すごいコワイ感じだよっ?」


「潜入工作とはそういうものだ」


「こうさく……?」



 いつもなら簡単に他人の言うことを鵜呑みにする水無瀬だが、今回はよっぽど腑に落ちないのかもう一度現場を覗き見て確かめようとする。


 そしてすぐに弥堂の方へ振り返る。



「やめてーって言ってるよ⁉」


「演技だ」


「えんぎ……? だって、泣いてるよ……⁉」


「素晴らしい演技力だな」


「そ、そうなの……?」



 茫然としながら水無瀬がそれを事実として受け入れようとした時――




「――も、もういやだぁーっ! 誰かたすけてーっ!」



 山田君が一際大きく助けを求める声をあげた。



「たっ、タイヘン――⁉」


「――おい、待て」



 それに反応した水無瀬が路地の中へ走り出す。弥堂は彼女を止めようとしたが間に合わなかった。



「す、すみませーん。お邪魔しまぁーす!」と緊張感のない挨拶をしながら彼女は現場に突入していった。



「なんじゃぁ、オラァっ!」

「カチコミか、コラァっ⁉」



 ガラの悪い叫び声が路地の中から聴こえてきて、弥堂は表情を険しくする。



「あ、あの……っ、はじめましてっ。私2年B組の水無瀬 愛苗っていいます! いきなりゴメンなさいっ」



 相手は暴漢(仮)だったとしても、愛苗ちゃんはよいこなので丁寧にごあいさつをした。


 ぺこりとおじぎをする彼女の姿を見て、いきなり激昂した男たちは気が抜けたように表情を和らげる。



「なんだ、水無瀬さんじゃないか」

「どうしたんだい? こんなところで。もしかして一人なのか?」

「ここいらはあまり治安がよくない。一人で来ちゃ駄目じゃないか。保護者はどうしたんだい?」

「希咲はなにやってんだ。水無瀬ちゃんに何かあってからじゃ遅いんだぞ」



 こんな場所で善良な生徒を取り囲み、この場所の治安を低下させるようなことをしている男たちは口々に真っ当そうなことを言った。



「あ、あのね、ななみちゃんは今おでかけしてて……、それで私一人で。教室でごはん食べてたんですけどヘンなニオイしたから捜しに来て……。それでたまたまここを通りがかったらなんかあぶない感じでどうしようって思って……。そしたら『たすけてー』ってなってタイヘンだーってなって、それでここに来ちゃいましたっ!」



 愛苗ちゃんはいっしょうけんめいに一気に説明した。



 彼女の拙い言葉で語られる事情説明をまったく理解できなかったが、男たちはほっこりとしたのでとりあえず彼女を安心させるためニコっと笑いかけた。


 みんな優しそうだったので愛苗ちゃんもニッコリと笑う。


 弥堂はチッと舌を打った。



 これは完全に自分の失態だと認める。


 やはり多少手荒になってでも彼女を連行すべきだったと反省をした。


 こうなっては仕方がないと嘆息をする。


 手遅れになる前に介入して水無瀬を回収するしかないと機を窺うことにした。




「ところで、結局水無瀬さんは何しに来たんだい?」


「えっ? えと、その子を放してあげてくださいっ」


「ん?」



 最初に一通り説明をしたはずだが、当然のように彼女の説明では誰も理解できていなかったので同じことを問い返される。


 しかし、愛苗ちゃんはよいこなので、弥堂のように「同じことを何度も言わせるな」といきなりキレたりすることはなくもう一回言ってあげた。



 水無瀬が山田君を指差すと男たちはまるでその存在を忘れていたかのように彼女の指先を追う。


 そして、彼ら同様に事態が掴めていない様子の山田君を見ると、今自分たちが何をしていたのかを思い出し、気まずそうな、ばつの悪そうな、そんな顔をした。



「あ、あの……、その子怖がってると思うんです……っ! やめてあげてくださいっ」


「い、いや水無瀬さん、これは違うんだ……っ」


「えっ? ちがう……?」


「そう。そうだ。違う。違うんだ」


「えっ? えっ? で、でもっ、イヤがってたし……、カワイソウだと思うの……っ!」


「そ、それは誤解だぜ水無瀬ちゃん。おい、オマエもなんか言えよ。誤解だって彼女に説明しろ……!」



 男の一人が水無瀬に弁明をしながら、彼女に対する態度とは打って変わって山田君に同調するように圧をかける。



 山田君は涙を浮かべた両目で水無瀬を見て一度何かを言いかけるが口を閉ざした。


 それから周囲の男たちを改めて見廻すと目を伏せ、それから意を決したように顔を上げた。



「にっ、逃げてくださいっ!」


「えぇっ⁉」



 切羽詰まった様子で山田君に言われた水無瀬はびっくりする。


 助けにきた相手に逃げるように指示されるとはどういうことなのだろうと大混乱だ。



「あ、あの、水無瀬さん……ですよね? 隣のクラスの……」


「え? あの、はい……っ。B組の水無瀬 愛苗ですっ」


「こんなとこに来ちゃダメだっ。ここは彼らみたいな人が居て危険なんだ……っ!」


「アァッ⁉」

「なに言ってんだテメェ。水無瀬さんにオレら誤解されんだろうが……っ!」



 水無瀬へ危険を訴える山田君の言葉に男たちは気色ばむ。



「助けに来てくれたことには感謝しますっ。だけど……っ! キミまで危険な目にあうことはないよっ! 早く逃げてっ!」


「オイっ! 余計な事言うんじゃねえよ!」

「水無瀬さんが怖がって話かけてくれなくなったらどうしてくれんだよ!」

「たまにオレらが部活してる時に通りがかると『がんばれー』って声かけてくれんだよ……! それがなくなったらオマエ許さねえからな……っ!」

「力づくで黙らせてやるよっ!」


「ひぃ――っ⁉」


「ら、乱暴はしちゃだめだよぉっ!」



 男たちの一人が山田君の胸倉を掴み上げると、か細い悲鳴が漏れる。


 水無瀬は慌てて暴力を止めようとして、男の腕に取り縋った。


 しかし、部活で鍛えた屈強なフィジカルをもつ男を水無瀬の細腕で止めることは叶わない。


 それどころか逆に男の太い腕に持ち上げられてしまい、ぷらーんとぶら下がる格好になった。



 お目めをバッテンにして必死に自分の腕にぶら下がる彼女を、男は一瞬だけほっこりとした目で見て、それから山田君を締め上げる。



「オラァっ! ナメたクチきけねえようにしてやんよぉっ!」



 山田君がプルプル震え、水無瀬がプラプラ揺れるその窮地に新たな人物が現れる。



「貴様ら何をしている」



 弥堂 優輝だ。



「ンダァっ⁉ 今度は誰だオラァっ!」

「うげっ――⁉ び、弥堂っ……⁉」

「なっ、なななななにしに来やがったぁっ⁉」

「や、ややややんのかコラァっ……!」



 弥堂の姿を認めた男たちは口々に威嚇の鳴き声をあげる。


 先程よりは若干及び腰な様子だ。



「あっ、弥堂くんっ」



 ぱぁっとお顔を輝かせる水無瀬がプラプラ揺れる様子を一度ジッと見てから、弥堂は男たちへ鋭い眼を向けた。



「よう、クズども。随分景気がよさそうじゃねえか」


「誰がクズだこのヤロウっ!」

「テメェに言われたくねえんだよこの狂犬ヤロウが!」



 去勢を張るガタイだけはいい男たちをつまらなそうに視る。



「ふん、何をしに来ただと? それはお前らが自分でよくわかってるんじゃないか?」


「くっ、オレら別になんにも……」


「本当にそう思っているのか? お前ら、確かラグビー部だったか?」


「くそっ……! なんでこんなことに……っ!」



 悔しそうに呻く男たちを尻目に弥堂はさりげなく山田君に目配せをする。



『こちらの不始末で申し訳ない。今後に支障が出ないように納める』という意を込めたつもりだ。


 しかし、当然ながらそんな意図は山田君には伝わらないので彼は弥堂と目が合ったことでビクッと怯えたような仕草を見せた。


 弥堂はそんな彼の仕草から、早速合わせて演技をしてくれていると読み取り、その機転の利かせ方から改めて彼の優秀さに感心する。



 すると、そんな様子を男たちが見咎めた。



「オイ山田っ! まさかテメェがコイツ呼んだんじゃねえだろうな⁉」


「えっ……? そんな、僕はなにも――」


「――ひゃわわわ……っ⁉」



 あらぬ疑いをかけられて焦る山田君の弁明を遮る形で水無瀬が奇怪な声をあげる。


 どうやら男の腕にぶら下がっているのに彼女の筋力は限界を迎えたようで、ズルっと手を滑らせて足から地面に落ちる。



「――おっと」



 着地してすぐにバランスを崩す彼女を支えるため、男は決して手で直接彼女の身体に触れることのないよう細心の注意を払い、腕で器用に彼女を支えた。



「わわっ……⁉ ありがとうございますっ」


「いいってことよ。離して大丈夫かい?」


「はいっ。だいじょうぶですっ」


「へへっ、ここらはそこらじゅうにゴミ捨てたり唾吐いたりするヤツらがいるからな。転んだら大変だぜ。さ、もうすぐ午後の授業だ、教室に帰ろう」



 意外と気のいいヤツなのか、水無瀬にニコッとお礼を言われると照れ臭そうな仕草を見せた。



「おい、なにを勝手なこと言っている。お前らタダで帰れると思っているのか?」


「ちぃ……っ! 弥堂、テメェ……っ!」


「び、弥堂くんっ。あのね? あんまり怒らないであげて欲しいの。助けてくれたし優しい人なんだと思うのっ」


「うるさい黙れ。俺の邪魔をするな。これ以上余計なことをするならお前も一緒に拷問部屋に連行するぞ」


「ごうもんっ⁉」



 ここのところよく耳にするようになった物騒な言葉に水無瀬がびっくりする横で、男たちは仲間内で互いに目配せをする。


 そして、ザッと水無瀬を弥堂から隠すように立ち塞がった。



「……なんの真似だ? 人質のつもりか?」


「……水無瀬さん」


「は、はいっ」



 男たちは弥堂の問いには答えずに水無瀬へ声をかけた。



「行ってくれっ」


「えっ?」



 何を言われているのかわからないと首を傾げる彼女に男たちは口々に危険を訴え避難をするように伝える。



「ここはオレたちが食い止める……っ!」

「水無瀬さんみたいないい子は知らねえかもしれねえが、このヤロウはマジでクズなんだ……っ!」

「あぁ。水無瀬さんみたいな子はこんなヤツに関わっちゃいけねえし、キミみたいな子にもこのヤロウは何するかわかんねえ……っ!」

「勝てるとは言えねえ。だが、キミが逃げるくらいの時間は稼いでみせる。だから行ってくれ……っ!」


「えっ……? えぇっ⁉」



 この場に介入してから関わる人全員に逃げてくれと言われた水無瀬さんは大混乱だ。



「山田っ! なにしてる! 早く彼女を連れて逃げろっ!」


「えっ⁉」



 先程まで自分をイジメてきていた連中に突然逃げろと言われた山田君も大混乱だ。


 状況はまったく理解できていないが、急かされたことでとにかく彼も焦ってしまい、男たちと弥堂とをキョロキョロと見比べる。



「バカやろうっ! さっさとしねえか! オマエでも女の子連れて逃げるくらいのことは出来るだろっ!」



 最後にそう怒鳴られると山田君は「くっ」と悔しそうに顔を伏せて何かを堪えるような仕草を見せると、バッと顔を上げた。



「行こうっ!」


「えっ⁉」



 そして水無瀬に一緒に逃げるように促した。彼は雰囲気に流された。



「さぁ、はやくっ! 走るよっ」


「は、はいっ!」



 山田君に手首を掴まれそう促されると水無瀬も頷き、彼と共に走り出した。彼女も雰囲気に流された。



 走り去っていく小柄な男子と女子の背中を目に映しながら、弥堂はなんとなく遣る瀬無い気分になった。


 しかし、自分が何かをしたことで報われたことなどないので何も考えないようにする。



 これは機転を利かせた山田君が邪魔者を連れ去ってくれたのだ。何も問題などないはずだ。



「さぁ、クソ野郎っ。悪ぃがちょいとオレらに付き合ってもらうぜ?」

「彼女にああは言ったが別に負けるつもりはねえからな……っ!」

「へっ、オマエそりゃあイキリすぎだぜ……」

「なぁ、弥堂。オレたちの生命に免じて水無瀬さんにだけは手をださねえでくれ。頼むよ」



 何故か決死の覚悟を決めたかのように自分の前に立つ男たちに、弥堂はうんざりとした気持ちになる。


 この学校の生徒たちは雰囲気に流されやすい者が多く、弥堂が普段取り締まる連中もこのように大袈裟な演出を自分でしては酔っぱらったような言動をするのだ。



 だが、高校生なんてものは所詮は子供で、子供なんて所詮はこんなものだろうと切り替えた。



 そして拳を握る。



「お前らはそれで楽しいのかもしれんが、俺は何となくでは済まさないからな」



 洒落が通じなければ空気も読めない。


 そんな男は当然雰囲気に飲まれることも流されることもない。



 一貫した暴力を奮うために男たちへと近づく。





 その後、特筆すようなこともなく男たちを制圧した弥堂が教室へ戻る道すがら、逃げるだけ逃げてから正気に戻って引き返してきた水無瀬と出くわす。


 山田君はそのまま逃げていったようだ。



 あれからどうなったと聞いてくる彼女を適当にあしらいながら連れだって教室に帰る。


 辿り着いたのは昼休みが終わる5分前ほどの頃だったが、次の授業で使う特別教室へ移動するための時間は十分にあった。



 2年B組の教室の戸を開けると教室内にはもう誰もいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る