序-39 『夕間暮れに写したいつかの約束』


「あーあ。これだけの出来事だったらよかったのになー。マジへこむわー」


 腕を天に伸ばしてそう次に展開させる彼女のお喋りに引っ張られる。



 切り替えの速い彼女に、それが苦手な自分は着いていけない。只々振り回されるばかりだ。



「……また、そこに戻ってきたのか?」


「ん? んーーーーー……だってさぁ、わかんないだろうけど、女の子的にはあれはかなりショックよ。黒歴史だし下手したらトラウマになりそうよ。笑えるとこだけだったら面白かったねーって一日にできたのに……」



 彼女が何の話をしているのか、どうにか見当をつけて打った弥堂の合いの手に希咲は苦笑いを浮かべる。



 実際はトラウマという程には現在は深刻な心情にはなっていない。


 だけど、きっとそれは、このバカが来てくれてそんなの吹っ飛ぶくらいのムチャクチャをしてくれたからだろうと、そう思い心の内では感謝をしていたが口には出さなかった。



 何やら複雑な笑みを浮かべている彼女を見て、弥堂は先ほど切り替えが上手ではないと言っていた彼女の自己分析は正しいなと認める。そして切り替えが早いだけなのは考えものだなと、少々うんざりとした心持ちで、継ぎの彼女への言葉を発声する為に口を開く。




「共犯者がいればいい」



「えっ?」




 前後の会話と繋がらない突拍子もないことを言われ、希咲はきょとんと弥堂の顏を見て、ぱちぱちと瞬きをする。



 言われたことの意味がまったくわからないのだろう。


 だがそれは無理もない。



 その言葉を口にした弥堂自身、『今自分は何を口にした?』と自失し、口を閉ざしたまま驚きに目を見開いて希咲を見ていた。



 また話を蒸し返して落ち込もうとしている彼女に、『しつこい』『いい加減にしろ』と、そんなようなことを言うつもりで、しかし自分の口から出てきた言葉はまったく違うものであった。



「なんであんたがびっくりしてんのよ。あたしがびっくりだわ」


「いや……」


「……もしかしてまたヘンなこと言おうとしてる……?」


「違う。そうだな…………いや、ちょっと待て」



 警戒したように半眼になる希咲を制して眉間を指で抑える。




『共犯者』




 今ここで彼女としていた会話の何に紐づいてその言葉が己の裡から引き出されたのだろうか。



 記憶の中で記録を探る。



 だが、本当はそうするまでもなくわかってはいる。



 それを彼女に言うべきか、言わずにおくべきか。


 そう逡巡する暇を稼ぐために思い出す作業をしているフリをしている。



 すぐに彼女へ自分の吐いた言葉の説明をしないのは、自分自身そうは思っていないからだ。



 もうしばしの迷いの後、弥堂は諦め躊躇いながらも話し出す。



「……今日、あった出来事を。楽しかった思い出にするには。共犯者、協力者が必要。だそうだ」


「……?」



 ピンとこないのか希咲は首を傾げる。


 話している弥堂自身も同じ気持ちだ。



「仮に、今日の出来事が本当に楽しかったとしても、それを知るのが、楽しかったと言う者が自分独りだけでは、それは妄言にも等しいただの思い込み。らしい」


「……なんか難しいこと言ってる? よくわかんない」


「だが、いつかの未来で。今日の出来事を共に経験した者と、あの時は楽しかったと、そう口裏を合わせることがもしも出来たのならば。それは『楽しかった思い出』に出来る。そういうことに、出来る」


「…………」


「だから。もしもキミが今日のことを『楽しかった思い出』にしたいと、そう考えたのならば。そう変えたいと願ったのならば。無理に今ここで切り替えを試みるのではなく、いつかの未来で――それをいつに設定するのが最適なのかはわからないが――今日のこの時が楽しかったと、そう一緒に笑い合って口裏を合わせてくれる、そんな『共犯者』を見つけるべきだ」


「……きょう……はん、しゃ…………」


「きっとそいつが、『楽しかった思い出そういうこと』にしてくれる」



 そこまで言って弥堂は口を閉ざす。


 希咲も言われた内容を咀嚼しているのか特に言葉を返さない。


 彼女も自分と同様に理解し難いようで、それには時間がかかりそうだ。



 そう考えて、納まりの悪さを自身の裡で処理している内に、予想に反してもう飲み込み終わったのか希咲がこちらを見ていることに気が付いた。


 だが、なにやら信じられないようなものを見るような目で、ぽかんとした顔をこちらへ向けている。



「……なんだその顔は」


「え? なにって……」



 そう喋り出そうとした彼女だが、しかしなにやらむず痒そうな様子で言葉を続けない。


 そして――



「――ぷっ。ふふふふっ……あははははははははっ――」



 そう声を出して大きく笑いだす。



「……今度は何が面白かったんだ?」


「え? だ、だって……ぷぷっ、あははははは」



 不可解そうに問いかけるが、よほど可笑しかったのかお腹を抑えて笑う彼女はすぐに話すことは困難なようだ。


 一頻り笑って。



「あーーー、めっちゃツボったー。おなかいたい……」


「なんだってんだ」


「えー?」



 ようやく彼女は説明を始める。



「だって……『楽しかった思い出』って……ぷっ、ふふっ…………」


「? ……なにかおかしいか?」


「ヘンよ。だってさ、似合わなすぎだもん」


「似合わない?」


「うん。だって、あんたが『思い出』って……ぷぷっ…………その顔で『思い出』…………あははっ……」


「もういい」


「あん、ごめんってば。怒んないでよ。バカにしてるわけじゃないの」



 慌ててフォローを入れてくる希咲に肩を竦めてみせ、別に怒ってはいないと示唆する。



「でも意外。あんたも案外いいこと言うじゃん。ちょっと見直したわ」


「……ただの受け売りだ」


「へー。ちなみに誰に教わったの?」


「部活の部長だ」


「…………なんか一気に信頼性がなくなったわ」



 感心するような目が一気に白けたものに変わる。



「貴様、ひとの上司を侮辱する気か? ただでは済まさんぞ」


「や。だってさ、『おぱんつリスペクト』とか頭おかしいルール作ってるヤツが言ってることでしょ? なんか素直に聞けなくない?」


「そんなことはない。部長はとても優秀な人物だ」


「…………あんたとその部長ってどんな関係性なのよ」


「キミには知る資格がない」


「はいはい、そーですか」



 すっかりお決まりの解答拒否をする弥堂を希咲も特に追及はしなかった。頭の後ろで手を組んで興味なしと示唆するが、すぐに一つ不安な点に思い当たる。



「……ちなみにちなみにさ、さっきの『取り引き』とかってやつ。あれもそいつの受け売りなの?」


「いや…………それは元保護者の方だ」


「あ、そうなんだ。けっこう物騒というか過激なこと言うひとなのね。エルフィさんって」


「エルフィ? 何故エルフィの話になる?」


「え? だってあんたの保護者兼彼女なんじゃないの?」


「どうしてそうなる。保護者はまた別の女だ」


「は?」


「恋人を保護者とは呼ばんだろう」


「……ま、それもそっか。…………ちなみに名前は?」


「何故だ? そんなことを聞いてどうする?」


「いいじゃん。教えてよ」


「…………ルビアだ」


「……ふーん…………」



 ジトっと半眼になった希咲の謎の圧に押され、弥堂はつい口を割ってしまう。


 希咲さんは、ちょっと突いただけで何やらただならぬ関係性を匂わせる二人の外国人女性の名前を出してきた男へ疑惑の眼差しを向け、引き続きの尋問をする。



「そのルビアちゃんはいくつなの?」


「ちゃん? そんな可愛いものじゃないぞあいつは。俺が出会った時で25をすでに超えていたと思うが」


「そーなんだー……じゃあエルフィちゃんは?」


「だから『ちゃん』はやめろ。あいつはもっと年上だ」


「……へぇー……じゃああんたとは随分年が離れたカノジョさんなのね? お小遣いとかもらってたの?」


「金? 確かにエルフィには金を工面してもらうことは度々あったが……ルビアは逆に俺に酒代をせびってきてたな……というかお前、そんなことを知ってどうするつもりだ?」


「んーん。べっつにぃー。ただ、年上の女のひとを『あいつ』呼ばわりするんだーって。それも二人も。ふーん。随分おモテになるようね?」


「……お前ら小娘が面白いと好むような類の下世話な話はないぞ。もう終わりだ」


「……そうね。情報量多すぎてあたし的にもパンパンだから、この話は一度社に持ち帰らせて頂いて後日改めて伺わせて頂きます」


「……もう答えんぞ」



 ペコリとお辞儀をしながらも汚物に向けるような侮蔑の視線を射かけてくる希咲に拒否の意を表す。

 何故馬鹿正直に訊かれたことに答えてしまったのだと後悔しながら。



 今日のところは一旦解放はするが、この男は叩けばいくらでも埃が出てくるようなクズ男である可能性が高い。そんな目の前のクラスメイトの女関係について、自身の親友の為にも後日に必ず徹底的に追及することを希咲は心に誓った。



 それはそれとして、この話は今の本題ではないので、この場はパっと切り替える。



「でもエライじゃん?」


「あ?」


「その人たちに教わったこと、ちゃんと守ってるんでしょ? あんた誰の言うことも聞かなそうって思ってたから、意外と聞き入れたりもするのねって」


「……別に聞き入れている、というわけでもない」


「? そうなの?」



 首を傾げ問う彼女への言葉をしばし探す。



「……これはこうだ。あれはああしろと。そう言われて、それを理解や納得をした上でその言葉に従っているわけでは、必ずしもない」


「……じゃあ、なんで?」


「なんで、か…………。そうだな…………俺は色々と上手くない」


「上手く……?」


「あぁ。わかりやすく言えば無能だ。だから俺が理解や納得を出来なかったとしてもそんなことはどうでもいいことだ。無能が持つ疑問や意見には何の価値もないからだ」


「…………」



『そんなことはない』


 言い捨てるような弥堂の言葉にそう反論したかったが、それを口にする彼の顏を見て何故だか息を呑んでしまい、声にならなかった。


 

 自分のことを「俺は無能だ」と語る彼の表情には、特段苦悩やコンプレックスが表れているわけでもなく、いつも通りの無表情だ。

 まるで、手に持ったリンゴを見せて「これはリンゴ」だと、当たり前の事実を口にしているだけのようで、そこには何の感情も感じられない。


 彼の話に相槌を入れることも忘れ見入り聞き入る。



「対して、例えば部長だ。彼は優秀な男だ。だがお前の言うとおり彼の言葉は少々難解で、今でも俺には理解できないことが多い。最初は俺も疑念を抱いた。だが、現実には彼の言ったとおりの現象が多く起こり、彼のプラン通りに部は発展した。だから彼の言うことは正しく、俺の疑問には価値がない」


「…………」


「そしてルビア。あいつを優秀と言っていいのかはわからん。いい加減で、ガサツで、暴力的で、だらしがない、酒浸りのクソ女だった。だが、強い人だった。俺が今ここでこうして学生などをしていられるのは、あの女に教わったことの多くが影響をしている」


「…………」


「だから、彼女は正しい。あいつに教わったことは教訓というよりはどちらかというと流儀のようなものが多かった。どう振舞うべきか、といったものだ。何故そんなことをしなければならない? そう思うようなことが多い。だが、大体の場面で、彼女の言ったとおりにしていれば大体のことがどうにかなった。だから、そういうものなのだろう」


「…………」


「優秀な者や強い者は基本的に勝つ。そして自分たちが正しくなるルールを作る。その正しい者がその後もより勝ち続け易くなる仕組みを作る。だから正しいことは正解になりやすい。この『世界』は――とりわけ人間の社会せかいはそうなっている」


「…………」


「それは、『世界』がそう在ることを許し、『世界』がそうすることを許し、その為の『加護ライセンス』を一部の者どもに与えたからだ。だから、正しい者の言うことは正しくなる。それが許されている。ならば、それに従っていれば、優秀でない俺も正解を引きやすくなる」


「…………」


「もしも。仮にそれを覆したいと、そう考えたのならば。その時は――」


「…………?」


 そこで不意に弥堂の言葉が止まり、耳を傾けていた希咲は首を傾げることになる。


 続きが語られないのはどうしたことだろうと目線を向けた彼の顏は苦虫を噛み潰したようなものだった。



「……どした?」


「…………喋り過ぎた。すまない」


「……んーん。だいじょぶ。続きはいーの?」


「……あぁ。ルビアのことはキミに関連する話ではないからな。忘れてくれ」


「ん」



 頓挫を告げる弥堂を希咲も追及はしない。



『そんなことはない』



 やはり、彼の話にそのように反論をしたかった。


 だが――



(勝つ者が正しい。正しいことが正解。だから勝つ者に従う。そういうものだと受け入れる……)



 そんな彼の言葉に理解も共感もできない。



――しかし、そう言い切ってしまう彼にとても危うさを感じて、それを否定するための言葉が出てこなかった。



 どうするべきか逡巡していると、


「……実のところ。さっきの思い出がどうのって話のことだが。やってみて実際にどうなるかはわからん。だが、恐らくそれが正しいのだと思う」


 さすがに納まりが悪かったのか弥堂が口を開く。


「何故お前にそれを話す気になったのか、話してしまったのかは自分でもわからない。恐らく口が滑っただけだ。だから特に信じなくてもいいし、実行する必要もない」


「…………」



 まるで言い訳でもするかのような口ぶりの彼の顔を見る。



「あんたはどう思うの?」


「?」


「今日のイヤなことも、いつか『楽しかったね』って誰かが言ってくれたら、いい思い出になる。あんたはそうなると思う?」


「さっき言ったとおりだ。それが正しいのだと――」


「――違うわ。優秀な人が言ってたからとかじゃなくて。『あんたは』どう思う?」



 言葉を遮られ、重ねて同じ言葉で問いかけてくる彼女に眉を顰める。



「……わからない」


「わからない?」


「あぁ。実際にそんなことをして過去のロクでもない記憶が、いい思い出に変わるなどとは思えない。というか、仮にそれが可能だったとして、そんなことをする必要があるのか、そんなことに意味があるのか、それが俺にはわからない」


「どうして?」


「……思い出になるかどうかとは、ようするに記憶に対しての自分の感情次第だろう? 出来事が起こればそれは事実として記憶に記録される。その出来事に対して好悪どちらの感情を抱こうが、事実は何も変わらない」


「だから、意味ない?」


「……そうだ。思い出――いい記憶が多いことが、人生だか青春だかを充実させることに繋がると聞いた。だが、俺はそれに価値を見出せない」


「なんで?」


「いい記憶がなく嫌な記憶ばかりだとしても人は死なない。逆にいい思い出ばかりを集めて記憶を埋めたとしても死ねば全てが無くなる。過去が充実したとしても未来は約束されない。だから、意味がない」


「そっか。あんたは、そう思うのね」


「…………」



 渇いた絵具のような黒色の瞳。


 のっぺりとした弥堂のがらんどうのその瞳がより空虚さを増したような気がした。



「じゃあ、あたしはどうしたらいいと思う?」


「……それは、わからない」


「わかんない?」


「あぁ。俺にはわからない」


「そか」



『わからない』



 そう言う弥堂に対して、『わからないくせに偉そうに言うな』だとか『無責任だ』などと非難をすることもできる。



 しかし――



 わからないことをわからないと、そう言ったことを――言ってくれたことを、希咲は彼なりの『誠意』なのだと勝手に解釈することにした。



 だから――



「んじゃ、試してみましょ?」


「試す?」


「そ。実際どうなるか。わかんないんならやってみればいいじゃん? カンタンでしょ?」


「……それはそうだろうが、結果に責任は持てんぞ? それでもいいのならキミの好きにすればいい」


「なーに他人事みたいに言ってんだか、このドンカンおばかは」


「? どういう――」



 ビッと指差して彼の言葉を遮る。


 先ほど弥堂の顔面に右ストレートを叩き込んだ時よりも速く、自身に出せる最速のスピードで、彼の鼻先に希咲は人差し指を突き付け、そして告げる。



「――『共犯者』」


「……俺が、か?」


「そーよ。当たり前でしょ?」


「……何故、そうなる」



 困惑気味に自分の指先を見ている彼の様子に、希咲は自身の胸の奥が騒めきだすのを自覚した。



「だって、あたし一人じゃ無理じゃん。一緒の時間を一緒に経験した人が必要なんでしょ?」


「……それは、そうだが」


「まさか、法廷院とか白井に頼めなんて言わないわよね? いくらなんでもそれは無理があるでしょ?」


「……そうかもしれんが、だがな――」


「――いつかの未来。これはいつにしようかしら」



 反論を試みようとする弥堂を無視して、希咲は彼に指を突き付けたまま宙空を見上げて考えるフリをする。



「おい、希咲――」


「――そうね。卒業っ。卒業の時にしましょ」


「……卒業?」


「そそ。ほら、さ? うちのガッコって2年から3年になる時はクラス替えないじゃん? どうせこのまま卒業まで同じクラスなんだから、そん時でよくない?」


「だから、俺は――」


「――ちゃんと、あんたから言ってよね? 『あんなことあったけど楽しかったな』って」


「……これは『取り引き』か? それなら――」


「――違うわ。『約束』よ」


「約束……」


「そ。約束。ただの口約束。守っても守んなくてもどっちでもいい約束」


「…………」



 逡巡するように黙る弥堂の顏をじーっと面白そうに希咲は見上げる。



「あ、ちなみにっ。あたしがさっきあんたとしたのは『取り引き』だから、卒業する時には『お前誰にも言ってねーだろーな⁉』って問い詰めるかんね?」


「…………結果は保証できんぞ」


「だから。それを、あたしと、あんたで、一緒に確かめましょって話じゃん? そうすれば、あんたも誰かに言われたらーとか、そいつの方が優秀だからーとか、なっさけない理由じゃなくって、ちゃんと自分でどういうことかわかるでしょ?」


「…………」


「だから――」



 一度言葉を切り、弥堂へ向けていた右手の人差し指を引っ込め、代わりに小指を差し出す。



「――だから、よろしくっ」



 そう言って、自分にどこか挑戦的な風にも映る強気な笑顔を向ける彼女の瞳に弥堂は魅入った。



 数瞬、彼女と目を合わせ、それから特に何も考えずに彼女の差し出した手に自身の右手を動かす。


 緩慢な動作でゆっくり吸い込まれるように弥堂の手は希咲の手へ近づいていく。小指と小指が触れ合いそうなったその瞬間――



 スーっと寄って行った弥堂の手を、希咲の手がサッと躱してそのままぺシっと叩き落す。



 虚を突かれた弥堂は目を丸め、ぱちぱちと瞬きをしてから、不意に拒絶された自身の右手を見下ろす。


 そんな彼に似つかわしくない表情や仕草を見た希咲は、悪戯が成功したことを喜びクスクスと笑みを溢す。



「ざーねんでしたっ。そうカンタンにあたしに触れるなんて思わないことね。そんなに安くないんだからっ」


「…………金を払えばいいのか?」


「ばーかっ」



 目を細めて舌を出す、そんな彼女の顔を見て、弥堂は自身が騙されたことに安堵した。



「んじゃ、約束したかんねっ。あたし帰る!」



 しかし指切りはせずとも、どうも『約束』は成立していたようで、その旨を告げた彼女はわけがわからず呆ける弥堂を尻目に踵を返し校門へ向かう。


 ステップを踏むように跳ねていく希咲の髪の動きをやや茫然と見送っている内に、彼女は学園の敷居を跳び越える。


 そこでようやく我に返った。



「――おい、きさ――」


待てストップ!」



 慌てて呼び止めようとしたが、それよりも速く振り返った彼女に再び指を差され制止させられる。



「この距離でいこ?」


「……?」



 言われた意味がわからず眉を顰める。



「あんたの任務はあたしが無事に下校するのを見守ること! そうよね?」


「……あぁ」


「べつにさ。バカ正直に隣り合って一緒に歩いて送ってく必要ないでしょ?」


「……だが――」


「――だってさ、そうやって一緒に帰ったら。あたしは無言とか苦手だからいっぱい喋っちゃうし、あんた的にそれはうざいでしょ?」


「仕事を遂行するかどうかの判断に、俺が不快感を持つことが影響を齎すことはない。それは三流の仕事だ」


「女子に話しかけられて不快感もつんじゃねーよ。そこは気ぃ遣って『全然そんなことないよ』って言え。嘘でもいいから」



 社交辞令という概念など持たぬ男に一瞬だけジト目を向けるが、すぐに意思の強い瞳に戻す。



「大体さ。わかるでしょ? もしもヘンなのに襲われたとかあっても、そんじょそこらの暴漢や変質者にあたしをどうこう出来ると思う?」


「それは…………」



 ほんの少し前に、そんじょそこらのオタクや変態にイジメられてギャン泣きしていたギャル女が何か言っていたが、注意されたばかりなので弥堂は気を遣い口を慎んだ。



「あたしが先に歩く。あんたはこんくらい距離空けて着いてくる。無事に目的地に着いたら解散! どう?」


「…………」


「仮に何か問題が起きても、こんくらいの距離なら、あんたは間に合うでしょ?」


「それは、そうだが……」


「それに一緒に歩いておしゃべりしてたら、絶対にあたし達またケンカになるって思うの。だから、その方がお互い余計な手間もかからないし、気も遣わない。そうね。効率がいいって思わない?」


「……わかった。いいだろう」



 自分にとってのキラーワードを放った――放ってくれたのかもしれない――希咲の説得に弥堂も折れて、彼女の提案を呑むことにした。


 効率がいいというフレーズが気に入ったのだ。


 そういうことにした。



「あたしのバイト先、新美景の駅前なんだけどさ。そこまで歩くけどいい? 二駅分くらいあるけど」


「……大した距離じゃない。無駄に歩かされるのは慣れている。問題ない」


「無駄っつーな。そうゆうとこよ、あんた」



 ジッと咎めるように睨むも束の間、



「んじゃ、いくわ」



 表情を緩めると同時に身を翻し、希咲は校門の壁を右に曲がる。



 やはり彼女の切り替え速度に着いていけず、その様子をややボーっとしながら、壁の向こうへ彼女の髪の尾が消えていくのを見つめた。


 遅れて自身の足に動くよう命令を出し、一歩踏み出そうとしたところで、先行した希咲が壁の向こうからヒョコっと顔だけ覗かせる。


 またも虚を突かれ思わず足を止めてしまった。



「そうそう。二つ言うの忘れてた」


「……なんだ?」



 怪訝そうに問い返す弥堂の顏を希咲は悪戯げな表情で楽しそうに見つめる。



「さっきの『約束』。あんたは、いつかの時に自分がその言葉を言えば、今日のイヤなことが楽しかったことに変わる――それが本当かどうかって考えてるみたいだけど……」


「……あぁ」


「あたしはね。この話の『キモ』ってそこじゃないって思ってるのよね」


「……どういうことだ?」



 彼女の言うことがますます理解のし難いものになる。



「それはね――」


「…………」



 勿体つけるように言葉を切る彼女を黙って待つ。



「ふふーん。教えてあげないよーだ」


「……おい」



 しかし、あえなく肩透かしをされ咎めるように睨む。



「知りたかったら、『約束』。守ってみせなさいよね」


「…………」


「あたしはべつにどっちでもいーけどっ」



 焦らして弄んでいるつもりなのか、どこか得意げな様子の彼女の顔を黙って見つめる。



「それが一つか。二つ目はなんだ?」


「ん? んーーー?」



 弄ばれるのも癪なので諾否は返さず、次を促すと希咲は宙空へ目線を遣り少し考える。


 それから彼女は若干身を正すように姿勢を変え、コホンと一つ咳ばらいをして体裁を整えると――




「――じゃあね弥堂。バイバイっ」




 そう言って目を細めた。



「…………あぁ」



 弥堂がそのように挨拶にもなっていない返事をすると、彼女は器用にパチッとウィンクをしてみせ、今度こそ壁の向こうへと歩いていった。



 彼女の言うことすることが弥堂にはまるで理解が及ばず、その場に立ち竦む。



 思考を巡らせようにも、彼女について何が解らず何から考えればいいのか、まるで手も足も出ない。



(――いや)



 足は出る。



 弥堂は左足から一歩踏み出した。



 例え目的地がなくとも、何処へ向かっているのかわからずとも、左右の足を交互に動かせばとりあえず前へは進む。



 その作業には思考も思想も必要ない。


 無能な自分にも出来る簡単な作業だ。




 いつかの未来で、一緒に過ごした過去の時間は楽しかったねと、そう言えたのならば。


 それは楽しかった思い出となる。




 優秀な廻夜部長がそう言い、自分よりも遥かに機微に聡い希咲が否定をしなかった。


 ならばきっと、それはそういうものなのだろう。



 以前、『世界』に放り出され――或いは吸い込まれ――右も左もわからずただ怯え立ち竦むばかりであった役立たずの子供に過ぎなかった頃、ルビア=レッドルーツは自分に「いいからとっとと歩け」と命じこの背中を叩いた。



 縋るように記憶から記録を取り出す。



『――ビビってんじゃあねぇよクソガキがよぉ。世間の右も左もわかんなくてもよぉ、テメェの右足と左足ぐらいはわかんだろ? そいつを順番に動かせ。そうすりゃお前は進める。進んでる方が前だ。そうすりゃどっちが右でどっちが左かなんて勝手に決まんだろうがよ。どうでもいいことゴチャゴチャ考えてねえでよ、いいからとっとと歩け! ……あ? どこに向ってんのかって? ……へへっ、クソしみったれた町だと思ってたらよぉ、あっちの路地裏にウメェ酒出す店見つけたんだよ。ちぃっとばっかガラ悪ぃがまぁ、なんかあったら全部燃やっしちまえばいいだろ。オラいくぞユキ。このアタシに着いてきな――』



 彼女の背を追うばかりだった日々の彼女の言葉を思い出す。



『前』を見る。



 猫背でヨタヨタと歩くガラの悪い後ろ姿の彼女とは違い、背筋を伸ばし綺麗な所作で歩く希咲が居る。



 彼女とは遠く離れたこの地で、今も自分は変わらず女の背を見て歩いている。そのことに酷く嫌悪感を抱く。


 彼女の背中を見て、彼女の言葉を浮かべる。それが途轍もなく気に食わなかった。



 だから、目線を少し上げて『前』から逸らし、希咲の揺れるサイドテールに固定して歩く。




 全て詮無き――



 揺れる彼女の尾を目で追いながら足を動かす。


 自分をただそれだけの装置として、思考を鈍らせることを試みる。



 考えても仕方のないことは、考えても意味がない。


 だが、そうであっても別に考えないことに価値があるわけでもない。


 どちらにせよ意味がないのなら、どちらをしても良く、どちらをしても悪く、どちらをしてもやはり意味がない。



 答えを探して抗おうとも、流れに身を任そうとも、結局辿り着く結末は同じだ。



 何も出来ず何も為せず。



 早いか遅いかの差しかそこにはなく、その違いを決定付けるのはただの運だ。



 弥堂が今日ここでこうして歩いていることは、ルビア=レッドルーツに謂わせれば運のいいことであり、しかし弥堂にはどうしてもそうとは思えなかった。



 だけど、未だ死んでいないから、何を考えても考えずとも彼の心臓は毎秒動作する。



 拍動したそれは弥堂の全身のあらゆる箇所に血と魔を遍く巡らせてから、『世界』より齎された恵みと肺の中で混ぜ合わせ、その身に熱を灯し揺蕩う生命を留めさせる。



 詮無き矮小な身なれど、然れど未だこの身は朽ちず。



 ただ燃え尽きぬ怨嗟が虚ろな生命を燻らす。




 いつかの未来で――



 もしも、自分とルビア=レッドルーツに――或いはエルフィーネとの間に、そんな『いつか』があったとして、彼女らに『あの頃は楽しかったね』などと、そんな恥知らずなことを言ったとして。


 もしも、廻夜 朝次めぐりや あさつぐの謂うとおりに、あれらの時間が『楽しかった思い出』などというものに変わってしまったとしたら。



 きっと自分はもう己という存在を保ってはいられないだろう。


 心砕け身は千切れ、『魂の設計図』は見えない粒へと崩れいき、この形状を保てなくなる。



 だからそれは在り得ないことであり、決して許されない。


 決して許されてはならないから、在り得てはいけない。




 希咲 七海との『約束』。



 この学園から卒業し高校生を終えるその時に、今日の出来事が『楽しかったね』と彼女にそう伝える。



 たった二年ほど先の未来でたった一言彼女へと喋りかける。



 ただそれだけのこと。



 しかし、弥堂にはそのたったそれだけのことが、到底自分には出来るとは思えない。



 たった二年先の未来すらまるでリアリティがなく、想像をすることすら出来ない。



 だからきっと彼女との『約束』は果たされることはなく、そして果たす気もない。



 そんな簡単なことすら自分には出来ず、だから自分は何者にも為れない。



 弥堂 優輝という存在を定義付ける為の『魂の設計図』がそうデザインされているからだ。




 だから詮無きことであり許されていることだ。



 そのことに罪悪感はなく、在るのは諦観と僅かな劣等感だ。



 そしてその劣等感が水無瀬 愛苗みなせ まなを想起させた。



 彼女ならばきっと可能だろう。



 自分よりも遥かに存在の強度が高い、彼女を彼女たらしめる彼女の『魂の設計図』はそのようにデザインされているからだ。



 そんな彼女ならば、きっとこんな約束を守ることは可能だろう。



 希咲は約束をする相手を間違えた。



 彼女が約束を結ぶべき相手は水無瀬であり、希咲 七海の『共犯者』にはやはり水無瀬 愛苗が相応しい。



 だから自分は悪くない――とは思わない。



 自分は悪であることが多いし、正義であることには意味がない。




 もしも何か欲しい物があるとしたら。



 それは、いつかの未来ではなく、過去のいつかだ。



 それは叶わないし、許されてはいない。



 彼女と歩いた道はもうないし、あの時自分の背を押した彼女の手もここにはない。



 ただ、この胸の奥で燻る燃え尽きぬ怨嗟の火種が仄かに熱を伝えてくる。



 だが、それは弥堂 優輝という形を作る『魂の設計図』の中の僅か一文にそう記されているからであり、それすらもこの牢獄の中に居る自分というナニカから生み出されたものではない。



 地を蹴ろうとする左足の爪先に僅かに力がこもる。



 この背を押す懐かしい手はなく、しかし海へと帰る春の風が彼女の代わりにこの背を押した。




 春。



 誰かと別れたまま今までが続いており、これからなどどこにもない。この道の先には誰もいない。


 それでも、優しくて残酷なその春の風が弥堂の背に手を付けたまま、ただ『前』へ進めとその耳に囁く。


 行く先も生い先もわからず、それでもこの足は動き、動かせばどこかへは進む。


 骸となった幻想を置き去りにしながら。




 そのことが全て栓無きことと諦めを助ける。


 そのことに弥堂 優輝は特に何も、思わない。



 右足と左足を交互に、コッコッコッ――と不変の拍子を意識する。



 弥堂 優輝は今も歩いている。




 そんな彼の『前』を希咲 七海は歩く。



 彼の今の心の内など当然知らず、ただ自分の心の内を知られぬことにだけ努める。



 綺麗な歩調で姿勢を保ち軽やかにその長い脚をスッ、スッ――と左右交互に前へと動かす。



 何も考えてなどいないと、背後の彼にそう見えるように。




 いつかの未来で――



 もしもその『約束』がきっと叶ったのならば、それは多分楽しいんだろうなと期待をし、そして絶対にその『約束』が叶わないことを願って歩く。



 彼女の特徴となる緩やかにウェーブするサイドテールを軽やかに揺らして。


 希咲 七海はその瞳に何も映さないで済む為に前を歩く。




 今日、誰も居ない桜の並木道で交わされた誰も知らない二人の『約束』。



 無数に舞う桜の花びらたちに見守られながら交わされた二人の『約束』。




 だが、約束をした当人たち二人ともに、それが果たせるとは考えず、果たそうとも思わず。



 このまま二人ともに口を閉ざしてしまえば、なかったことにされるそんな『約束』。



 目撃者である桜の花びらはすぐに地に堕ちて風に攫われその亡骸を朽ちさせ、そして口は封じられる。



 だが――



 夜の訪れに抗う夕間暮れの時に僅かに『世界』に色を残す、そんな春の空に滲んだ夕陽が、確かに二人の『約束』をその光の中に写した。



 このまま誰にも知られず消えていくだけのその約束の証人となった。




 いつかの未来で――



 約束を果たすことは過去への罪で。


 約束を果たさぬことは現在への罪で。



 だから二人ともに、なかったことと、流れる時間の中で漸滅し立ち消え忘れられることを願う。




 間接正犯の生ひ末を許すか否か。



 それは『世界』だけが決める。


 その権限を――『加護ライセンス』を、『世界』は二人には能えていない。



 

 将又それを暴き罪に問うか否か。



 それは二人が決める。


 総ての人間には『嘘』という『加護ライセンス』が平等に能えられている。



 なのに、人間が人間の『嘘』を許すことはない。



『世界』が許しても人間が人間を許さない。



『嘘』を行使し、『嘘』が露見したその時に、彼と彼女は己を許すのだろうか。相手を許すのだろうか。



 自分にとって。相手にとって。誰かにとって。



 何が『嘘』となり、何が『誠実』となるのか。



 

 いつかの未来へ――




――コインは投げられた。


 

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