1章07 『lunch break』

 コッコッコッ――と規則正しく靴底で床を鳴らす。



 目的地へ向かう道すがら、空中渡り廊下へ入り辺りの人気がなくなったことを確認して手に持ったスマホを通話モードにする。


 喧しく鳴り続けていた着信ソングがピタっと止んだ。



「俺だ」

『いよぉ、兄弟。オレだ』

「待たせたな」

『構わねえよ。取り込み中だったかい? なんなら改めるが』

「いや、問題ない。むしろ丁度良かった」

『ハッ、そうかい。そいつは重畳』



 受話口から聴こえてくるドスの利いた声が上機嫌そうに哂う。



「で?」

『あぁ。用件は二つだ。まず一つ。予定通り来週から放課後の寄り道が規制される。風紀委員で取り締まりをする許可もとれそうだ。兄弟には悪ぃが外回りしてもらうぜ?』

「構わない。で?」

『あぁ、問題は次だ。二つめ』



 どこか軽薄そうに話していた語り口が神妙そうなものに変わる。



『兄弟。オメーの睨んだとおりだ。例の新種のヤク、ありゃあ外人街が出処だな』

「……そうか」



 高校生が昼休みに学園内でするにはあまりに物騒な内容の話題となり、弥堂は目を走らせ周囲の気配を探ってから続きを促す。



『当然ヤサは奥のスラムにあるんだろうが、連中外人街の入り口近くでも堂々と捌いてやがるらしい……ナメやがって……』

「……海からか?」

『だろうな。美景の新港に運び入れてからウチのシマを土足で通り抜けて北口の外人街まで持ち込んでやがる。こいつは屈辱だぜ』



 地理関係としては、美景市の南方に新設された貿易港がある。


 北口の外人街とは新美景駅北口の歓楽街のさらに奥だ。留学や出稼ぎの名目で日本に訪れそのまま失踪した者や不法入国者といった、外国籍の者たちが住みついてナワバリにしている地域だ。


 電話口の向こうの男の組織が縄張りにしているのが新美景駅南口の繁華街周辺となる。



「それで?」

『こいつの流出を防ぎたい』



 進行方向先の渡り廊下から次の校舎への入り口に複数の女生徒が立ち話をしているのが視える。



「……具体的には?」

『あぁ。防ぐ、とはいってもスラムにまでカチこむわけにはいかねぇ。今はまだ、な』



 弥堂は空中渡り廊下の窓を開けると迷わず外へ飛び降りた。


 タタタッと軽い音を立てて何事もなかったように着地をし、そのまま校舎の外を歩いていく。



『なんだ今の音は? チャカじゃねぇよな?』

「気にするな。それで?」

『……あのクサレ外人どもはあそこの外へは出てこねえ。だが奴らはこの街の半グレどもを取り込もうとしてやがる』

「佐城派か?」

『ハッ、流石だぜ兄弟。話が早ぇ』



 上機嫌に鼻を鳴らす音が漏れ聴こえる。



『最近佐城派の鼻タレどもが街で随分ハバきかせてやがる。オレらのシマで燥いでるだけなら多少は目溢ししてやるんだが……』

「奴ら海外マフィアに取入る気か?」



 この美景台学園内の不良たちの派閥は大きく分けて二つある。


 佐城派とはそのうちの一つで、三年生の佐城という男を頭にした大きな不良グループだ。



『そいつはまだわからねぇ。あいつら馬鹿だからな。普通に外人街に喧嘩売りに行く可能性もある』

「だったらいいな」

『ハッ、ちげぇねぇ!』



 カッカッカッと快活な哂い声が受話口から聴こえるが、彼と既知の弥堂にはわかる。おそらく目は笑ってはいないだろう。



『少々面倒な話なんだが、奴ら最近『上』と揉めたらしい。売春うりのアガリをちょろまかしてたのがバレたようでな。上ってのはあのマフィア気取りで路地裏を占拠してるギャングの連中だ。知ってるよな?』


「あぁ」


『それのペナルティってことでドラッグのノルマを上げられた。んで、そいつにブチギレた佐城が半グレの幹部と喧嘩になった』


「それで佐城が勝ってしまった、と」


『その通りだぜ、兄弟。厄介なことにあの野郎、強ぇは強ぇからな』



 通話をしながら弥堂は部室棟の壁沿いを離れ、室内シューズのまま体育館の方へ向かう。



『だが、チームとチームの戦争になれば話は変わってくる。なにせ数が違ぇからな』

「だろうな」

『佐城派は戦争を回避したいはずだ』

「そのために新しい後ろ盾を求める」

『そうだ』



 電話口の向こうでカチンと金属の打ち合う音が鳴る。煙草に火を点けたジッポライターを閉じた音だろう。


 フーっと重く煙を吐き出す声が伝わる。



『オレが懸念してるのはな、この学園でクスリを撒かれることだ』

「…………」

『オレらも目ぇ光らせてはいるが、既に学園内でウリをやらされてる女どもがいる。ゼロにはできねぇ。今んとこ奴らドラッグを校内で捌くのは自重してるみてぇだが、ノルマが上がるとなったらそうもいかねぇ』

「だろうな」

『それは外人街とツルんでも一緒だ。奴らは路地裏のマフィア気取りどもよりももっと甘くねぇ。下手したら新種のヤクをばら撒かれて、最悪この学園は地獄になる』



 ギリっと電波を通して伝わる歯を噛む音には確かな怒りが滲んでいた。



『なぁ、兄弟。こいつぁ許せねぇよなぁ? オレらっがナメられてるってことだぜ……?』


「そんなことはどうでもいい」


『あ?』



 同意・共感を求める言葉をバッサリと切り捨てる。



「お前の面子も奴らの面倒も俺にとってはどうでもいい」

『おいおい……』

「結局お前は俺に何をさせたいんだ? 外人街とギャングチームのそれぞれのボスの首を一つずつ取ってくればいいのか?」

『……おい、兄弟。見縊るなよ? オレぁオメーを鉄砲玉にする気なんかねぇぜ』

「そうか」



 体育館に到着し建物の裏手へと周る。



『……オメーにならそれも出来るんだろうが、そんなことしたって意味がねぇ。別のクビに変わるだけだからな』

「そうだな」

『兄弟。オレがオメーにやって欲しいのはな。水際だ』

「水際……だと……?」



 体育館裏への一つ目の角を曲がる。



『あぁ。来週から風紀委員の見廻りで街に出るだろ? そん時に街で見かけたうちの学園の不良どもを片っ端からシメてくれ』

「それは全員、という意味か?」

『そうだ。佐城派はもちろんだが、ウチの兵隊どもも事情がわかってねえようなのはやっちまって構わねえ』

「…………外人街や半グレどもは?」

『そっちは今は出来るだけ揉めねえで欲しい。連中と正面きって戦争する準備はウチにもねえし、それは出来るだけやりたくねぇ』



 建物沿いに進んでもう一つ角を曲がれば昨日も利用した弥堂の一人飯スポットだ。二日連続で同じスポットを使うのは出来れば避けたかったが仕方がない。



『――だから水際で防ぐ。奴らがウチのガッコのモンにちょっかいかけてくるのを防ぐのは勿論だが、こっちから奴らへ接触するのも妨害しなきゃなんねぇ。その為の『放課後の道草はやめようね週間!』だ』

「……言っていることはわかるが、それに大人しく従うような奴らならそもそもこうはなっていないだろう」

『あぁ、兄弟。オメーの言うとおりだ。学園から注意喚起をしたって従うのは一般生徒のイイコちゃんだけだ。従わねえからこその不良だしな』

「だったら――」

『――まぁ、待て。聞けって。だからオメーさんなのさ。道草すんなっつってんのにお外で遊びたくて仕方ねえバカなガキにはよぉ、兄弟。オメーからニラミをきかせて欲しいのさ』

「…………」

『普通の風紀委員じゃ無理だ。逆に危険になる。そしてオレらも難しい。下手したらオレらっとの間で戦争になっちまう』

「なるほどな」

『あぁ。単独。どこの不良ともツルんでねえ。だが強ぇ。兄弟。オメーが適任だ。これはオメーにしか頼めねえ』

「…………」



 目的地までの最後の曲がり角へ到着し、弥堂はその少し手前で足を止める。



「……二つ質問だ」

『あぁ、いいぜ。なんでも訊いてくれ』

「まず、新種のクスリとはどんなものだ?」

『…………わからねえ』

「わからない、だと?」



 弥堂からの質問に受話口の向こうの声は顰められた。



『ツテのある刑事デカから情報を買ったんだが、サツにも詳細はわかってねえらしい。成分も産地もよくわかんねえときたもんだ』

「そんなことがあるのか?」

『絶賛解析中! だが難航している、らしい。カタリじゃねえとは思う』

「そうか。見た目は?」

『液体だ。粉でも草でも錠剤でもカプセルでもない。試験管みたいな形の安いプラスティックの瓶に入っている』

「使い方は?」

『……そのまま飲む、らしい。だが、やべぇのは注射だ。相当トべるみてぇだ』

「具体的には?」

『幻覚、妄想拡大、激しい興奮。それらを含めた極上の快楽ってとこか』

「副作用は?」

『強い中毒性に依存性とか言ってたな』

「それだけか?」

『…………死ぬ。それもかなりの確率で……』



 通話相手が黙り、辺りがシンと静まった気がする。そのおかげか、曲がり角の向こうから話し声が聴こえてきた。


 弥堂は壁に肩をつける。



『……一回や二回くれえならまだどうにかなるらしい。だが、運悪くバレねえで常用していた奴らは死体になって発見されてる。検死してみたら新種のヤクと同じ成分が検出された、だとよ』

「そうか」

『随分とひでぇ死に様らしい…………全身あちこちから血を噴き出してるそうだ……』

「そうか」

『……そんで、死体は急速に老化でもしたみてぇに痩せ細っちまって枯れ木のようだって話だ……』

「…………」

『……兄弟。オレはな。こんな危険なモノをオレらの街で――』

「――心臓は?」

『あ?』



 そう問うと電話の向こうの声が鋭いものに変わった。



「心臓は破裂していなかったか? 血管も」

『…………兄弟。オメー何を知ってる?』

「なにも。偶々俺の方に入ってきた情報の中にそれがあっただけだ。お前の反応からするとどうやら同じクスリについての情報だったようだな」

『…………まぁ、いい。オメーを信じるぜ。確かに兄弟の言うとおりだ。血管と心臓が破裂し全身の穴から血を噴き出して身体は枯れる。こんなのは人間の死に方じゃあねえぜ』

「そうか。心が痛むな」



 無感情な声で読まれた弥堂の言葉は周囲の静けさに溶けて無に帰す。

 角の向こうから聴こえてくる複数人のガラの悪い話し声だけが耳に残った。



「二つ目の質問だ。これはただの情報提供か? それとも『依頼』か?」

『ハッ――、そんなの決まってらぁ! 両方だぜ兄弟っ!』

「そうか」



 スマホを耳に当てたまま顔を傾け首を鳴らす。



「断る」

『はぁ――っ⁉』



 素っ頓狂な声が耳元で鳴った。



『――いやいや…………はぁ? 兄弟オメー何言ってんだ……? 今の完全に引き受ける流れだったろ?』

「そうか?」



 何でもないことのようにすっ呆けてみせる。



『おいおい、そりゃあねえよ兄弟。情報抜くだけ抜いといてそんなモン通るわけ――』

「――知ったことか」

『あ?』



 通話相手の声に剣呑な色がのる。



「いいか? 俺はお前らの横でも下でもない」

『…………』

「勘違いをするなよ? 俺はヤクザでもマフィアでもギャングでも不良でもない。当然正義の味方でもない。この街で誰がどんな商売をしていくら儲けようが知ったことではない。そしてその結果誰が何人死のうがどうでもいい」

『テメェ……』

「お前らのナワバリ争いに俺を利用するな。それは俺の役割ではない。というわけで依頼は断る」

『おい兄弟、そいつは――』

「――だが、」



 弥堂は足元に荷物を下ろすと角を曲がり歩き出す。



 視界の奥側には地べたにガニ股でしゃがみこんだ4名の男子生徒が居る。


 その彼らへ向かって歩きながら電話口へと告げる。



「だが、俺は風紀委員だ。この学園の――延いてはその支配者たる生徒会長閣下、並びに司令官たる風紀委員長殿にとっての正常で優秀な犬だ。彼女らにやれと言われたことを実行する為の装置であり、それが俺の役割だ」



 弥堂はそこでスマホを持った腕を下ろす。


 今まで通話していた相手の声が遠くなり、代わりに数歩先であがる下品な笑い声が近くなる。



「――ギャハハハハっ! やっぱモっちゃんはサイコーだぜ! あの中坊ども完全にブルってたべ!」


「へッ、ナマイキなガキはよぉ、コーコーセーのオレらでキョーイク? してやんねーといけねーからなぁ!」


「さすがだぜモっちゃん! オレぁよ、サイシューテキにこのガッコシメんのはモっちゃんだって信じてっからよ!」


「ったりめーだろ? オレぁよ天上天下唯我独尊だからな! 誰だろうと上等だぜ!」


「……そういやモっちゃんよぉ。D組の猿渡のヤローがよ、モっちゃんに上等クレてんらしいんだよ。あの野郎、モっちゃんがヤるってんならいつでもヤってやるとかハシャイでたらしいぜ……」


「…………へっ、あのサル野郎そろそろシメてやんねーといけねーみてえだな……」


「モっちゃん! それじゃあ……?」


「まぁ、待てよ。こういうのはよ、先に喧嘩売った方がダセーんだ。カク? が下がるってゆーかよ」


「おぉ! さすがモっちゃんだぜ! よくわかんねーけどイカシてんぜ!」


「だろ? まぁよ。あのサル野郎がどうしても俺とヤるってんならよ、そん時はオレもテッテーテキに? ヤってやっからよ」


「頼むぜモっちゃん! オレよ! あのヤローのチャリからチリンチリンパクってやったからよ!」


「え……?」


「おいおい、サトル。オメーマジかよ。チリンチリンパクるなんてオメー相当ワルだな!」

「気合入ってんじゃねーかサトル!」


「あたぼーよ! オレぁモっちゃんの一番の舎弟だべ? オレも全員上等よ! ギャハハハハっ」


「……そういやモっちゃんよぉ。B組のヒルコのヤローどうするよ? あの野郎勝手に学園最強とかフカシやがってよぉ……オレぁガマンなんねーよ」

「おぉ! そうだぜ! あいつ新学期早々にテーガクとか目立ちやがってよ!」


「えっ? あっ、あぁ…………ヒルコか……そろそろヤツとはどっちが上かハッキシさせとくか……」


「モっちゃん! それじゃあ……⁉」


「まぁ、待て。こういうのはよ、先に喧嘩売る方がダセーからよ? まぁ、ヒルコのヤローが? どうしてもこのオレとヤるってんならオレぁいつでもタイマンはってやっけどよ」


「さすがだぜモっちゃん! シビィぜ!」


「頼むぜモっちゃん! オレよ! ヤローのジャージのズボン切って半ズボンにしてやったからよ!」


「えっ……⁉」


「マジかよサトル! オメー超ワルだな!」

「気合入ってんじゃねーかよサトル!」


「……サトル君……? どうしてそんなことを……?」


「おぉ! あいつ今テーガクでガッコいねーべ? 何かパクッてやっかってんでロッカー開けたらよージャージ入っててよー! オレよーヒラメいちまってよー! あのヤローがテーガク明けたら一人だけ半ズボンで体育だぜ! ギャハハハハっ」


「……そうか、閃いちまったか……しゃあねえな…………」


「それよりモっちゃん! B組といやービトーのヤローだべ? あのヤローマジでチョーシ――」



 ノリノリで上等コいていたサトル君だったが突然固まる。


 仲間たちが怪訝な目を向けるが、サトル君は向かい合う彼らの肩越しに何かを見上げ表情を引き攣らせるばかりだ。


 埒が明かないと、彼らはその視線を辿って振り返る。



 そこには――



「よう、クズども。随分と景気がよさそうだな」


「――ビッ、ビトーっ⁉」

「ヒッ、ヒィ…………⁉」



 今しがた名前を挙げた者がスマホを持った手をぶら提げて立っていた。



「テッ、テメェ……ここになにしに――」



 反射的に尻もちをついて後退ったモっちゃんはハッとして、仲間たちの顔を窺う。


 誰もが突然現れた弥堂への驚きへと恐怖で自分には意識を向けていなかった。



 彼は何かを堪えるようにしてグッと歯を噛み締めると視線に力をこめて顔を上げる。



「――ビトーっ! テメーこの野郎っ! こないだはよくも゙っ――⁉」



 弥堂へと掴みかかろうとしたが、立ち上がるよりも先に弥堂の爪先が鳩尾へと突き刺さった。



「お゙っべぇぇぇぇぇぇっ――⁉」


「モっちゃーーーーん⁉」

「うわあーーー! モっちゃんがゲロ吐いたあーーーっ⁉」



 腹を抑え、自らが撒き散らした吐瀉物の上をのたうち回るリーダーの姿に彼らは周章狼狽した。


 そんな中でも勇猛果敢にも弥堂へ立ち向かう者もいる。



 サトル君だ。



「ッベーな。ッメー死んだぞ? ッべーことしてくれやがって。ひき肉カクテーな?」



 全員上等な男であるサトル君は懐から自転車のチェーンと思われる物を取り出しヒュンヒュンする。



「テメー上等だべ? オレも上等な? あんまチョーシくれてっとマジやって――」


「――なに言ってんのかわかんねえよ」



 まるで鎖分銅のようにチャリチェーンをヒュンヒュンするサトル君の手首を足で蹴ってズラしてやる。



「あべしっ――⁉」



 すると振り回していたチェーンが彼の顔面を強かに打つ。



「いでぇぇぇ……っ! いでえよお……オデのガンベンがビギニグになっぢまっだあ…………」


「そうか、痛いか。可哀想にな。今、楽にしてやる」


「べっ? ぶぼっ――‼‼」



 弥堂は悶絶するサトル君に近づくと彼の腹に拳を突き刺した。



 ズンッと重い衝撃に身体を貫かれたサトル君は腹を抑えて前かがみになり泡を吹く。狂牛病の牛のように内股になった足をガクガク震わせると、両目をぐりんっと裏返してそのまま前に倒れた。



「サッ、サトルーーーーーーっ⁉」

「う、うわあーーー! サトルがカニみてえになっちまったあーーーーっ⁉」



 慌てふためく残りの二人を無視して弥堂はモっちゃんに近づいた。


 横倒しになって苦しみ藻掻く彼の鳩尾を、わざと威力を弱めて爪先で何度も蹴り続けて胃と横隔膜に負担を与える。


 手加減されているとはいえ、鳩尾の同じ箇所を何度も打たれて嘔吐くモっちゃんは呼吸ができなくなっていく。



 茫然とそれを見ていた生き残り二人はハッとなると弥堂に取り縋る。



「ビッ、ビトー! テメーやめろ! モっちゃんが紫色になってんじゃねーか!」

「ビトーっ…………いや、ビトーくん……もうカンベンしてくれよ。モっちゃんが死んじまう……っ、頼むよ……っ!」



 弥堂はモっちゃんを蹴る足を止め、自分を制止する者たちの一人へ顔を向ける。



「やめて欲しいのか?」


「えっ……⁉」


「許して欲しいのか、と訊いている」


「あっ――あぁ! もうカンベンしてくれ! たのむ! このとおりだ!」



 勢いよく頭を下げる二人のその後頭部をつまらなそうに見下し、弥堂は鼻を鳴らした。



「フン、いいだろう」


「え?」


「許してやると言ったんだ」


「マジか⁉」


「あぁ。もちろんマジだとも……」



 喜び顔を見合わせる彼らを尻目に弥堂は内心ほくそ笑む。




「あ、ありがとう……! ビトーくん!」


「あぁ。気にするな」


「じゃ、じゃあ、オレらはこれで――」


「待て」



 すぐに倒れた仲間を回収してこの場を立ち去ろうとした彼らだが、弥堂に呼び止められ肩を跳ねさせる。



「誰が行っていいと言った?」


「え……? でも…………」

「勘弁してくれるって……」


「あぁ。許してやると言った。だが話が終わったとは言っていない。終わりかどうかを決めるのは俺だろ? なに勝手に終わらせてんだ? お前ら俺をナメてるのか?」


「ヒッ――ちがっ……!」

「わ、悪かったよビトーくん……オレらそんなつもりじゃ……」



 助かったと安堵していたところから、理不尽に難癖をつけられ彼らは顔を青褪めさせる。



「お前らは俺に借りがある。そうだな?」


「え……? 借り……?」

「ま、まってくれよ……なんのこと――」


「――あ?」


「――ヒッ……⁉ ま、まって……怒らないで……っ!」

「バ、バックレてるわけじゃねーんだ……! マジでなんのことか……」



 怯え戸惑う彼らを弥堂はそのまま数秒ほど無言で視る。


 弥堂に借りなど彼らには心当たりがないが、彼が齎す重圧の中で必死に記憶を探る。



「俺はお前らの頼みをきいてやっただろ。これは借りじゃないのか?」


「た、たのみ……?」

「な、なんのことだよ……⁉ オレらそんなの――」


「――『許してくれ』と言われて許してやっただろ? 『頼む』といったのはお前らだ」


「そっ、それは――⁉」


「つまり、だ。今、俺が一方的にコストを強いられ、お前らが一方的に得をしていることになる。そんなのは不公平だよな? そうは思わないか?」


「ム、ムチャクチャだろ……っ!」

「テっ、テメーあんまチョーシに――」



 弥堂は反抗的な態度をとった者の二の腕を掴み、筋と筋の間に親指を食い込ませて強く握る。



「アイデデデデッ――やべっ……やべで…………っ!」


「なにか不服なのか? それとも踏み倒すつもりか? 俺をバカにしているのか?」


「ま、まって! ちがうっ……! アンタに逆らう気はねぇっ! はなしてやってくれっ……!」



 弥堂は止めに入った者の目をジロッと見遣る。



「それは『頼み』か?」


「え……? あ、いや…………それは……」



 言葉に詰まり逡巡するが痛みに悶える仲間の絶叫にハッとなり、否が応にも選択を強いられる。弥堂と仲間の顔を見比べながら彼は目に涙を浮かべた。


 その情けない顏を数秒無感情に見つめてから弥堂はスッと手の力を抜いて捕らえていた男子生徒を解放してやる。



「冗談だ」


「え?」


「冗談だと言ったんだ」



 茫然とこちらを見上げる男を弥堂は乱暴に突き飛ばす。彼は体育館の外壁に強かに肩をぶつけ顔を顰めた。


 続いて二の腕を抑えて痛みに身体を丸める男の髪を掴むと、ガッと顔を上げさせて無理矢理視線を合わさせる。



「今のはサービスにしといてやる。どうだ? 俺は優しいだろ?」



 無表情のまま口の端だけを持ちあげてそう嘯き同意をするように圧力をかける。


 冷酷な眼差しに射抜かれた彼は鼻水と涎でグチャグチャの顏を泣き笑いのように歪めてヘラッと笑った。



「笑ってんじゃねえよクズ」


「あぎぃっ――⁉」



 スッと表情を戻した弥堂が彼の腿に膝を突き刺す。



「ギャアアアアアアアっ――あじぃっ……⁉ イダイッ! イダイィィィィっ!」



 男はアフターチャージを受けた南米の選手のようにゴロゴロと地面を転げまわって激痛と悪質さを訴えた。


 しかしここにはレフェリーは居ないので特に弥堂にカードが提示されることはなかった。



 しかし、それは仕方がない。



 彼ら自身が好んで、この人通りが少ない場所、他の生徒や大人の目の届かない場所を選んだのだ。


 それは同時に、自分たちを助けてくれる者もこの場には訪れないということにもなる。



 地を転げる男の涙と鼻水と涎に塗れた顔が、一回転するごとに徐々に土埃で汚れていく様がちょっと面白くて苛ついた弥堂は、腹いせに彼の尻に蹴りを一発ぶちこんで強制的に動きを止めさせる。


 そして、先程壁際に突き飛ばした男へ眼を向けた。



「ヒッ、ヒィィィ……っ! や、やめて……っ! 殴らないで……っ!」



 すっかり怯えきってしまった男は頭を丸めて座り込んでしまう。


 彼に近づいた弥堂は特に暴力は振るわず、ドカッと彼の隣へ腰かけた。ガッと彼の肩に腕を回して引き寄せる。



「というわけだ。お前らは俺に借りがある。当然返してくれるよな?」


「……なんで……なんでこんなことに…………」


「おい、聞いているのか?」


「ヒッ――ま、まってくれよビトーくん。オレならなんでも言うことをきく……でも、オレらの頭はモっちゃんだ……! 勝手なことはできねえ……っ!」


「そうか。随分頑張るじゃないか。立派なことだな。いいぞ。俺も俺でお前に負けないよう努力をする。お前らが俺の言うことを聞きたくなるような最大限の努力をな」


「――イっ……⁉ イダイイダイイダダダダダッ、ダイッ!」



 自分たちのリーダーに筋を通そうとする不良生徒の肩を抱いたまま、彼の鎖骨に指を引っ掛けて力づくで圧し折りにかかるが――



「――待ってくれっ‼‼」



 そう声をあげ震える足を叱咤し、ゲロと泥の中で立ち上がる者がいた。その男は――



「モっ、モっちゃーーーーーんっ‼‼」



「ヘッ…………待たせたかよ?」



 脂汗を浮かべながらニヒルに笑ってみせた。



 そして、仲間のために立ち上がる者は一人ではない。



「ジョオオオオオトオオオオオオオオっ――‼‼」


「うおおぉぉぉぉ――っ‼‼」


「サトルぅっ! タケシぃっ!」



 膝をガクガクするサトル君と、身体を螺子って肛門を抑えるタケシ君だ。


 彼らはヨタつきながらもモっちゃんの隣に立ち、肩を貸しあいながら弥堂へ対峙する。しかし足は内股でガクガクだ。



「ビトーよー。今日のところはオレらの負けだ。それが貸しだってんなら、しょうがねえ。要求は呑んでやんよ……だがな――」



 モっちゃんは目に力をこめ弥堂を睨みつける。



「だがよぉ、クスリやパー券サバけってハナシならきけねぇぜ? そいつはオレらの流儀じゃあねえ。どんだけボコられても出来ねえもんは出来ねえ」


「…………」



 モっちゃんは真っ直ぐな眼差しで、自分たちのような不良にも譲れない正義はあるのだということをアピールした。



 生命知らずの信念など下らないとばかりに弥堂はフンと鼻を鳴らす。



「勘違いを――」

「――さっすがだぜ、モっちゃん! シビィぜ!」

「おお! チョーイカシてるぜ!」


「…………」



『勘違いをするな』と言おうとした弥堂だったが、それよりも先に酷く興奮した様子でモっちゃんを称賛するサトル君とタケシ君に発言の機会を奪われる。


 激しく苛立ち思わず無言になってしまうと、ドンっと突き飛ばされた。



 油断をしていたとしか言いようがないが、拘束していた腕の中の男がダッと仲間の元へ駆け出していた。


 彼は仲間たちのもとへ辿り着くと、彼らと一緒に自分たちのリーダーを褒め称える。



「へっ、よせよお前ら…………前にも言ったろ? オレぁハンパはしねえってよ…………」

「カカカカカッケェーー! モっちゃんカッケェーーー!」

「ハンパねーよ! モっちゃんの上等ハンパねーよ!」

「なんつーかよ……オレらっみてーな不良でもよ? ゆずれねーセイギ? みたいなもんはあるんだなって感じがしたぜ! 一生ついてくぜ、モっちゃん!」


「つーわけだからよぉ、ビトーっ! オレらぁカンタンにはテメーのグンモン? にはクダらねーぜ……っ!」



 モっちゃんは両足をガバっと開き前に出した左足の爪先を敵へ向ける。上体はやや反るようにしながら顎を上げ見下ろすようにガンを飛ばし、両手で横髪を後ろへ流してビシッとリーゼントをキメた。


 他のメンバーも彼の半歩後ろでそれぞれポケットに両手を突っこんでガバっと股を開き上体を反る。ポケットの中で一生懸命に手でスボンを外側に引っ張り、縄張り争いをするクジャクの羽のようにボンタンを広げて弥堂を威嚇した。



「…………」



 弥堂は無言だ。



 ゆっくりと立ち上がり、ポンポンと尻の埃を払う。顎に手を当てゴキリと一度首を鳴らした。



 顔面神経痛にでもなったかのように表情筋を歪めてこちらにイカつい眼光を向ける彼らを尻目に背後へ振り返る。


 肩幅より少し足を開き、今しがた背を着けていた体育館の外壁へ拳を押し当てる。



 瞬間――



 ボゴォっ――と壊滅の鈍い音を立ててコンクリートが内側から弾け飛び押し当てていた拳が減り込む。それを中心点としてコンクリート製の壁に蜘蛛の巣状に亀裂が走った。



零衝ぜっしょう



 弥堂が師より習得を命じられた技術で、足の爪先から拳までの各関節を適切に捻り稼働させることにより、大地より生み出した威を体内で加速・増幅させ適格に対象の内へと徹す技術であり、必殺のいちだ。



 普通に生活をしていたらまず目撃することのない破壊現象をまざまざと見せつけられた不良たちは、凶悪な破砕音に思わず真顔になり反射的に『きをつけ』の姿勢をとった。



 弥堂が壁から拳を引き抜くとパラパラとコンクリの破片が地に落ちる。


 彼らはそれを真顔で見る。



 そして真顔のまま仲間たちと目を見合わせると一瞬でアイコンタクトを成立させ、一度だけ強く頷きあう。



 それから責任ある立場に就く者として、モっちゃんが代表して一歩進み出ると、弥堂へと真っ直ぐな眼差しを向けた。



「なんでも言ってくれ、ビトー君。オレらはアンタの便利なパシリだ」


「ランコーか? 親戚のおっさんが余らせてるマンション部屋いつでも借りれっからよ。防音効いてっからシャブもオッケーだ。パーティ会場なら任せてくれよ」

「それとも売春うりか? ちょうど家出した中坊どものコミュニティにアテがある。女なら紹介するぜ?」

「チャリなら何台でもパクってくるぜ? マッポくれー上等だからよ!」



 口々に協力を申し出てくる物分かりのいい生徒達に、弥堂は満足気に鼻を鳴らす。



「いい心がけだ。だが俺は風紀委員だ。お前らが好むような下衆な犯罪に手を染めるわけがないだろう。俺を侮辱しているのか?」


「ふ、うき…………? えっ……?」

「――あっ! そういえば……」

「わ、わるかった……そんなつもりじゃなかった」

「悪気はねえんだよ……」



 まるで弥堂が風紀委員であることに今始めて気が付いたかのように取り繕ってくる彼らに、弥堂は非常に不愉快になった。



「じゃ、じゃあオレらに一体何をさせようってんだ……? 心配しなくても今日のこの場でのことは誰にも言わねえぜ」



 不安を滲ませながら顔色を窺ってくる男をつまらなそうに見下す。



「逆だ」


「えっ?」


「お前らには今日のことを大勢に言い触らしてもらう」



 弥堂はそう言ってスマホを胸ポケットに仕舞い、意図が掴めず困惑する彼らに座るよう命じた。





 2年B組教室。



 弥堂によって空気を滅茶苦茶にされた後、しばらくはお互いにチラチラと窺い合う気まずい雰囲気が続いたが、現在は女子6名、和気藹々とランチを楽しんでいる。



「――えーー⁉ じゃあG.W終わるまで戻ってこれないかもしれないのー?」



 早乙女が大袈裟に驚いてみせると希咲はそれに答える。



「んーー。最初は10日間で帰ってきてG.W前の27日と28日は登校しようと思ってたのよ」


「なにかトラブル?」


「そういうわけじゃないんだけど……なんか長引きそうなのよね……」



 少し心配そうに眉を顰める野崎さんへ向けた返答に、今度は日下部さんが首を傾げる。



「旅行に行くんだよね?」


「んとね。説明がめんどいから、いちおそういう風に言ってるんだけど…………聖人たちのご実家関連の……なんていうか、イベント……? みたいな……?」



 舞鶴は我関せずといった態度で、一生懸命ご飯をたべる水無瀬をうっとりと見つめている。



「……えーと…………もしかして、あまり訊かない方が……?」


「や。言いたくないとかそういうんじゃないんだけど……とにかくややこしくて…………出来れば関わんない方がいいと思うし……」


「ふぅ~ん…………でも七海ちゃんのお家って普通のお家だよねー?」


「そーよー。うちのママはフツーの人よー」


「そうなんだ? でも七海はその……関わって大丈夫なの……? 彼らのお家ってなんていうか……やんごとない的な旧家……? だったよね……?」



 日下部さんにそう問われ「あははー」と、とりあえず苦笑いだけ先に返す。

 そして、自身のオカズを箸で掴んではせっせと水無瀬の口へ運ぶ舞鶴を見ないようにしながら答える。



「まぁ、あたしの場合もういまさらっていうか? 何回か関わっちゃったから、向こうのお家の人たちも無関係とは見てくんないだろうし…………それにほら? あいつらだけでほっとくと何やらかすかわかんないしさ」


「なるほどー…………つまり結納ってこと?」


「なんでだよ」



「うんうん」と頷いてから大仰に言い放った早乙女に対して、思わずちょっと低い声が出て慌てて「んんっ」と体裁を繕う。



「わーん! まなぴー! 七海ちゃんが怒ったーー!」



 しかし、早乙女はわざとらしく泣き真似をしながら席を立つと水無瀬に縋りつく。


 食事中にお行儀がわるいとは思うも、よく見れば彼女はもう自分の昼食を終えていたようで、小柄な見た目のわりに意外と食べるのが早いと、脳内でメモをする。



「どうしたの、ののかちゃん?」


「七海ちゃんがヒドイの! ののか達よりもバカンスが大事なんだよ!」


「ちょっと、ののか! んなこと言ってないでしょ!」



 めんどくさい彼女が言いだしそうな台詞を引用して嘘をつく早乙女に希咲が抗議すると、水無瀬は困ったように苦笑いした。



「ののかちゃん。あのね? ななみちゃんは大事な用があってお出かけするからしょうがないんだよ……?」


「甘いよ、まなぴー! まなぴーは七海ちゃんの彼氏でしょ⁉ 自分の彼女が他の女と旅行に行くんだよ? いいの⁉」


「そこまでよ、ののか。愛苗ちゃんに余計な概念を教えないで。それは穢れよ。私たちはあるがままをコンテンツとして鑑賞させて頂くだけ。そう話し合ったでしょう?」



 舞鶴が同意してくれなかったので早乙女は他の者に目を向けるが、全員に呆れた目で見られて憤慨する。



「でもでもっ! まなぴー寂しくないの⁉ 半月近く七海ちゃんに会えないんだよ⁉ 寂しいでしょ?」



 その言葉に、「かれし?」と首を傾げていた水無瀬はシュンと肩を落とす。



「さみしい…………」



 へにゃっと眉を下げたそのお顔を見て、七海ちゃんもへにゃっと眉を下げた。



「ご、ごめんね……っ! ごめんね愛苗っ! なるべく早く帰ってくるから……っ!」



 彼女は既に半泣きだ。



「……ううん。あのね……私、だいじょぶだから……! だから気にしないで楽しんできて……?」



 健気にニコっと笑ってみせる愛苗ちゃんの姿に七海ちゃんの涙腺は崩壊した。



「お、おみやげ……! おみやげ買ってくるから……! だからゆるして……みすてないでぇ……っ! クルマっ! クルマ買ってあげるから……っ!」



 ヒモ男に貢ぐダメ女みたいなことを言い出した希咲に取り縋られた水無瀬は「免許ないよぅ」とお顔をふにゃらせた。


 その二人の様子を周囲はほっこりと見守る。



「まなぴー! 七海ちゃんが居ない間はののかが面倒みてやっからな! 安心しろ?」



 水無瀬の腹に顔を押しつけて抱き着いている希咲の、水無瀬を挟んだ逆側から早乙女も抱き着いてくる。



「う、うん……ありがとう、ののかちゃん。ていうか、昨日まで愛苗っちって呼んでなかった?」


「そんなの気分だよー。まなぴーの方がカワイイかなって。そんなことより、なんだこのお胸はー!」


「わっ⁉ ののかちゃん、くすぐったいよ……⁉」


「ちくしょー! このロリ巨乳めっ! ののかとキャラ被ってんだよちくしょー!」


「ののか! コラっ! やめなさい! てか、あんた口調ブレブレよ⁉」



 水無瀬のお胸に顔を突っこんでなにやら憤慨する早乙女を日下部さんが引き剥がすと彼女はさめざめと泣き出した。



「うぅ……ののかはこれまでロリ系として生きてきたのに、ここで自分の上位互換と出会ってしまったのよ……その辛さがマホマホにわかる⁉」


「え、えーと……あんたもなんか苦労してるのね……」


「この学校はロリ系には生き辛すぎるんだよぅ……」



 彼女も彼女で何か苦労をしているようだ。



「の、ののかちゃん元気だして……? 私、お話きくよ……?」


「まなぴー…………ちくしょー、明日からはののかに任せとけー? 七海ちゃんのことなんておじさんが忘れさせてやっからな?」


「え? 忘れないよ?」



 ゲス顏で告げた早乙女の言葉の意味は当然水無瀬には通じない。

 それをいいことに早乙女はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。



「ふっふっふ……まなぴーが忘れなくても七海ちゃんはどうかな?」


「えっ?」


「バカンスが楽しすぎて七海ちゃんはまなぴーのことなんか忘れて帰ってこなくなるかもだぞー?」


「そ、それは困るよー!」



 何でも真に受けてくれる水無瀬に早乙女はさらに調子づく。



「だからぁ……昔の女のことなんて忘れて、ののかとなかよく――」



 しかしそれを許さぬ者もいた。


 横合いからヌッと手が伸びてきて早乙女の顔面をワシッと掴む。



「――言ったでしょう? ののか。解釈違いは許さないと……」


「ギャアーーーーっ⁉ ツメがっ、ツメがーーーー⁉」



 やっかいオタクの手によりNTRおじさんは強制退場させられた。



「七海ちゃん……私のこと忘れないでね……? ずっとずっと待ってるから、きっと帰ってきてね……?」


「わぶっ――⁉」



 縋りついていた希咲の頭をギュッと胸に掻き抱くと、大きなお乳に顔面を圧迫されて希咲は呼吸を奪われた。


 慌てて水無瀬の腕をタップして許しを乞い解放してもらう。



「……もうバカね。ちゃんと帰ってくるに決まってるじゃない」



 これまでの付き合いの中で、何度も水無瀬の胸で窒息しかけた経験をもつ希咲は慣れたもので、この程度でパニックを起こしたりはしない。



「私のこと忘れない……?」



 ウルウルおめめを向けてくる彼女に苦笑いをして、今度は逆に自身の胸に抱く。


 特にその理由が明確に語られることはないが、そのことで水無瀬さんが窒息するようなことには決してならない。



「だいじょぶだから。あたしがあんたのこと忘れるわけないでしょ?」


「ほんとに……?」


「ホントに。約束する。あたしは絶対に愛苗のこと忘れない」


「……えへへ…………私もななみちゃんのこと忘れたりしないからね……?」


「はいはい。てかフツーにメッセ送るし。あんたも好きな時にメッセ飛ばしてきていいからね?」


「うん!」



 隙あらばイチャつく二人に周囲も満足気だ。



「やっぱカップルなんだよなー。これは解釈違いにはならないの? 小夜子ちゃん」


「ふむ…………アリよりのアリね」


「小夜子は実際なんでもいいんでしょ……」


「はい。じゃあ、まとまったところでみんな席に戻ってご飯片付けちゃいましょ。お行儀悪いよ?」



 そうして野崎さんの号令のもと、少女たちは席に戻りまた輪になって談笑を再開する。


 この場にはただ、ほのぼのとした雰囲気だけが彩られていた。

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