1章03 『Good Morning』
2年B組の教室前に到着する。
HRが開始する午前8時40分まではあと10分弱ある。思っていたよりも余裕をもって準備が出来そうだ。
教室の前方側の引き戸に手を伸ばす。手が戸に触れる前に教室内から誰の者とも言えない一際大きな笑い声が聴こえてきた。
昨日の朝よりも教室に到着した時間は僅かに早い。HR開始までの時間により猶予があるせいで生徒たちの談笑もより盛況なのだろう。
喧しいだけで意味のないガキどもの喋り声など四分五裂に引き裂いてやりたくなるが法律上そうもいかない。
より精神が成熟していて良識のある自分が耐えるしかないと弥堂は軽く息を吐いた。
引き戸に手をかけ一気に開放する。
いつも通り右から左へスッと視線を流し、異変がないかを確認する。
弥堂がその作業を終える頃には教室内の生徒達も新たに教室に現れた者の正体に気付き、昨日同様、例によってフェードアウトするように教室中の話し声が萎んでいく。
弥堂も例によってそれを特に気にせずに室内へ足を踏み入れた。
引き戸を閉めて進行方向に顔を向けると、特に意識せずとも教室の出入り口近くに陣取った集団が目に入る。
なにも教室を出入りする生徒の邪魔をする為に彼らはそこに屯っているわけではない。その集団の中心人物が出入口に最も近い座席を振り分けられている為に、また彼の周囲に集まる者たちが多い為に、必然的にこうなってしまっている。
弥堂もそれが解っているため特に咎めるつもりもなく、スッと僅かに右に避けてその集団の脇を通行しようとする。
その際に集団の中心人物である数名、彼らの顏を横目で順に見遣る。
紅月ハーレム。
自称ではなくあくまで他称だ。
学生の集まりとしては極めて不健全かつ不適切なコミュニティの名称ではあるが、他にもっとわかりやすい表現の仕方を誰も思いつかなかったのだろう、教師たちですらその記号で認知している。
まず目に付くのが教室の出入り口に最も近い座席に座る男子生徒――すなわちハーレムとやらの主である
以前に彼の家系を調べたところ外国の血は入っていないはずだが、栗色に近い自然な明るい髪色で髪質も柔らかく、全体的に清潔感を感じさせる風貌をしている。
同性の弥堂から見ても整った容姿をしていると評価が出来る。もしも彼の人間性が下劣なものであったのなら、将来的に膨らんだ腹を支えながら仕事を探して途方に暮れる女が一定数出るだろうなと思わせるような色男だ。
幸いにも彼は品行方正で成績もよく人当たりもよく、欠点らしい欠点の見つからない人物のように今のところは思える。強いてそれをあげるのならば品行方正が過ぎる、そんなところだろうか。
次に目を遣るのはその紅月 聖人の隣の座席の主で、現在は机を移動させてぴったりと彼の横にくっつくようにして座っている金髪の女――紅月 マリア=リィーゼ。
日本国内にある日本人の通う学園内では、日本人らしくないという点で目立った風貌のように映るがそれも無理はない。彼女は外国からの留学生だ。そういう扱いになっている。
紅月の姓を名乗ってはいるものの、聖人と血縁関係があるわけでもなく赤の他人だ。日本で生活する上で便宜上紅月の姓を名乗っているらしく、本当の名は別にある。
名を明かすことの出来ない何処かの小国の王族であるというのが周知の事実なのだが、本人は本名を大して隠す気がないらしく何度かそれを名乗ったことがあるものの、一般的な日本の平民としては物語の中でしか聞いたことのないような長ったらしい名前のため、大半の者が記憶していない。
本人は押し掛け女房気どりで普段は紅月を名乗っているが、以前に弥堂が勝手に調査をしたところ、自称ではなくどうやら本当に紅月の姓で日本国籍を持っているようだ。だが結婚をしているというわけでもない。そして彼女本来の母国の国籍に関する情報は調べても出てこなかった。明らかに不自然だ。
輝くような金色の髪に翠玉色の瞳。一般的に日本人がヨーロッパ系の貴族に対して持つステレオタイプなイメージや、弥堂の自分で見聞きした実体験の記憶に照らしあわせてみても、如何にもお貴族様といった容姿をしている。
さらには信じ難いことに「~ですわ」などと、現実ではちょっと聞いたことのないお嬢様口調を駆使して流暢に日本語を操るのだ。一体彼女の脳内では母国語と日本語との変換をどのように処理しているのかが多少気に掛かる。
高校生のガキどもを相手に何かと自分は王族であるとアピールをしている恥知らずな女ではあるが、今の紅月にしな垂れかかるようにしている姿は場末の酒場で客を個室に誘う売女のようにしか見えない。
その次に目に入ったのは、そのお姫様の背後の座席に座る女――
青みがかったような黒色の髪。その髪をポニーテールにして結っていて、他は基本的には一般的な日本人によく見られる特徴の容姿だ。
ただ、涼やかな印象のその顔は整ってはいるものの眼光は鋭く、彼女の放つ雰囲気は一般的な女子高生のそれとはかけ離れている剣呑なものを周囲に感じさせる。
その為、周囲からは若干怖がられているところがあり、彼女単独では他の生徒から声をかけられることは少ない。
そういった点では弥堂と似た境遇と謂えなくもないが、一つ決定的に異なる点は、彼女は弥堂と違って別に嫌われているわけではないということだ。
黙って座っていれば、物静かな和風美人といった印象なのだが、大方校則どおりに着用している制服の一点、靴下だけがやたらと長いルーズソックスをチョイスしているためにその点が違和感を発している。簡単に言うと似合っていない。
天津自身は特に集団の会話に参加するわけでもなく、紅月 聖人の近くに控えるようにただそこに居る。鞘に納められ解き放たれるのを待つ日本刀のような鋭い印象が、彼女の美貌を損なっているとも謂えるし、逆により洗練させているとも謂える。どちらと評価するかは彼女を目に映した者の受け取り方次第だろう。
家が古くからの古武術の道場をしているらしいが、それ以外に彼女に関する目立った情報は出てこなかった。
四番目に視線を移したのが、天津の右隣に立ちながら前方に座る紅月 聖人の肩に手を乗せるこれまた黒髪の少女。聖人の実の妹であり、この中では唯一この2年B組に所属する生徒ではない――
天津 真刀錵よりも艶めいた濡れ羽色の髪。ツーサイドアップに括った両サイドの髪がふんわりとした印象を与え、全体的に高級感を感じさせる生粋の和製お嬢様といった風体だ。
優れた腕を持つ職人に造らせた極上の日本人形のように整った容姿で、それでも天津と違って怜悧な印象を持たせないのは、綺麗に切り揃えられた前髪の下の大きな目を覆う皮を柔らかな曲線の形状に保っているからだろう。
今年入学した新一年生で、彼女個人に関する細かな情報はまだ調べられていないが、今のような朝のHR開始前の時間や休み時間などに自らのクラスそっちのけでこうして兄のもとにやって来てはべったりとしている下級生だ。
ほぼ規定通りに着用しているように見えて、僅かに短くしているスカート下から伸びる両足は黒い艶めいたストッキングに包まれている。
彼女自身と直接会話をしたことはないが、今のような時間に漏れ聴こえてくる話し声から判断をすると、礼儀正しく丁寧な言葉を使う大人しい少女のように思える。
ただ一点粗を見つけ出すのなら、戸籍上間違いなく聖人とは血がつながっているはずなのに、その実の兄を愛していると公言して憚らないところだ。
弥堂の知る近親相姦者は、基本的には忍ぶものであり声を大にして表明することではないと言っていた。ここの社会でも基本的にはタブーとされているはずなので、それを対外的にアピールするのは社会に反旗を翻しているつもりなのか、それとも何も考えていないのか。どちらにせよ、おおっぴらに発言することにメリットは何もないはずなので、大人しそうな見た目によらず頭がおかしいのかもしれない。
以上の面子で構成される紅月ハーレムのメンバーを順繰りに見遣りながら彼らの前を通る。
他にも賑やかしのように周りを取り巻く者たちがいるが、こいつらは特に視る価値のない女どもだ。
擦れ違い様――
こちらの顔を見て何やら言いたいことでもあるのか、隣のマリア=リィーゼの顔色を伺いつつ、だが結局気まずそうに口を噤んだ紅月 聖人。
その隣で紅月の制服の袖を握りながら、敵意を込めて睨みつけてくるマリア=リィーゼ。
一瞥だけをして特に一切の関心を示さない天津 真刀錵。
何か珍しい生き物でも発見したかのように目を丸くした紅月 望莱。
視線でその四つの顏をなぞり、そしてその後に一点で止まる。
その視線の先に居るのは、紅月妹が立っている側とは反対側の天津の隣に立つ
何故か自然と除外して考えていたが、そういえばこいつもハーレムの構成員の一人だったなと不機嫌そうな彼女の顏を視る。
本人は自分は違うと主張していたが、世間では『大奥』『むしろ正妻』といった噂が実しやかに囁かれているらしい。
自分にとってはどうでもいいことだと、弥堂はふと浮かんだそれらの噂を脳内から切り捨てる。
一瞬――弥堂と視線を合わせた希咲は何かしらの意図をその瞳にこめる。
――わかってんでしょうね?
――わかっているさ
お互いのその心中の声がお互いに聴こえたはずはないが、すぐに希咲はプイっと顏ごと視線を彼の方から逸らした。
弥堂も彼女の大きく揺れ動いたピンクゴールドが煌めくサイドテールを目で追って、次にその髪を括る白い生地に黒の水玉模様の入ったシュシュを見て、それから彼女の方を見るのは止め進行方向を向く。
彼女とは昨日の放課後に、偶然成り行きの上で数時間ほど時間を共にすることになり、その際にある取り引きを交わしていた。
『4/16の放課後に希咲 七海に関連した全ての出来事を生涯誰にも伝えない』
それが彼女とした取り引き内容であり、弥堂が果たすべきことだ。
代わりに彼女には、金と性欲を持て余した間抜けどもから大金を巻き上げるために釣り役をやってもらうことになっている。
その内容を彼女には一切伝えてはおらず、何ら了承を得てはいないが、今度自分の仕事を手伝うという言質は録った。物的証拠がある以上は何があっても履行してもらう。
そう心中で決定事項を確認し弥堂は自席へと歩いていく。
自分たちを不躾に一瞥だけしてそのまま淀みのない歩調で通り過ぎていった長身の男の背を、興味深げに紅月 望莱は見ていた。
すると傍らの天津から声をかけられる。
「どうした、みらい? 何か気になるのか?」
「んー?」
その言葉にコテンと首を傾げる。
イケメン野郎の後ろの席に配置されたせいで、意図せずとも美少女たちが頻繁に周囲に訪れるという加護を得た出席番号3番の小野寺君が、彼女のその仕草を見上げハフハフとした。
そんな背後の変態には全く気付いていないといった風に、望莱は天津へ言葉を返す。
「ねぇ真刀錵ちゃん。あのひとが噂の狂犬さんですよね?」
「む? まぁ、そうだな。そのように呼ばれているようだ」
「へぇー。ということはお強いんですよね? 我がハーレムの狂犬担当の真刀錵ちゃんとしては襲い掛かったりしないんですか?」
「む? そうだな……」
さらっとにこやかな表情で狂犬呼ばわりされた天津だが、特に気分を害する様子もなく少し思案する。
「……なにか奴に興味を持ったようだから釘を刺しておくが。関わらん方がいいぞ」
「あら」
警告をするような天津の言葉に望莱は意外そうに目を丸くする。
「真刀錵ちゃんにしては慎重なお言葉ですね。珍しいこともあるものです」
「お前は私を何だと思っているのだ」
望莱から帰ってきた言葉に今度は不快感を顕にし眉を寄せる。
「だってだって、真刀錵ちゃんは戦闘狂キャラじゃないですかぁ? いつも『オラわくわくしてきたぞ』とか言っては、人々に襲い掛かってるじゃないですか」
「そんなことをしたことは一度もない」
「えー?」とまたも首を傾げる後輩に天津は呆れたような目を向ける。
「私が戦いを挑むのは強い者だけだ」
「へー。強い者だけ、ですか」
「……何か含みがある言い方だな」
「いーえ。そんなことありませーん」
幼馴染とはいえ自らの先輩にあたる人物に鋭い視線を向けられてもまるで物怖じせず、望莱は完璧に造られた笑顔でクスクスと清楚に笑う。
「でもでも、あのひとお強いんですよね? だったらマッチング成立じゃないんですか?」
「いかがわしい言い方をするな。だが、そうだな……」
言葉を探しながら返答をする。
「……確かに奴にはある程度以上の実力があるだろう。だが、恐らく奴の強さは種類が違う」
「種類、ですか?」
「あぁ。実際確かめたわけではないから明確には説明できんが、後腐れなく手合わせを、なんてことは奴とは成立しないだろう。一度攻撃を仕掛けるか仕掛けられるかしたら、その後は完全に敵対することになる」
「えーと……つまり?」
「やるなら完全に潰すつもりでやるしかないということだ」
剣呑な色を潜ませた眼光を向けられ望莱は「んー?」と唇に人差し指を当て、今度は逆サイドへ首を傾げる。
はらりと髪が重力で垂れさがり、左目の目尻下の泣きぼくろが露わになる。
「それってぇ、確実に潰せる自信がないってことですよねぇ……?」
黒曜石のような瞳の奥に種火のようなワインレッドが揺らめいたのを見て、天津はうんざりとしたように息を吐く。
「……潰すという意味合いの深さが違う」
「えー?」
「まず、それをするなら大義名分が必要になる。そして今私が言っている潰すとは……」
「とはとはぁ……?」
「…………」
「…………」
二人ともに目線を合わせたまま沈黙する。
「……もしかして喋るの飽きちゃいました?」
「あぁ。もういい」
「んもぅ。真刀錵ちゃんのいけずぅ」
少し緊張感の漂ったような二人の雰囲気だったが、すぐに張り詰めたような空気は霧散した。
「私の話はいい。で、お前はあの男の何に興味を持ったんだ? 余計なことはするなよ?」
「んー。あのひとにっていうかぁ……わたしがあれぇー?って思ったのは七海ちゃんなんですけどぉ……」
「七海だと?」
二人同時に天津の左隣に立つ希咲へと顔を向ける。
「ねぇねぇ、七海ちゃん。七海ちゃんってばさっきあのひとと目と目で…………おやぁ?」
まるで途轍もなく面白いものでも発見したかのように瞳を輝かせて希咲に話しかけた望莱だが、その相手である希咲の様子を見て途中で言葉を止める。
希咲は眉根を寄せて不機嫌そうに表情を歪めながら唇を波立たせている。
「どうした、七海?」
「あれは言いたいことあるけど言い辛くて、どうしようか優柔不断してる時の顏ですねぇ」
怪訝そうに希咲へ声をかけた天津に答えを齎したのは本人ではなく、とても楽しそうな笑顔で人差し指を立てて解説する望莱だ。
そして希咲は自らのすぐ横でそんなやりとりをしている二人には気付かず、しばらくすると「あぁ、もぅっ!」と苛立たしげに床を一度踏み、その勢いのまま歩き出した。
そんな彼女の剣幕に天津だけでなく、二人で談笑していた紅月やマリア=リィーゼも不思議に思い視線で希咲の背を追う。
ただ一人、望莱だけが実に楽しげな笑顔のまま口元に手を当て、「あはぁ」と愉悦の笑みを漏らす蕩けた唇の形を隠した。
グングンと机と机の隙間を縫って進み、希咲が踊り出たのは今まさに自席へとたどり着こうとしていた弥堂の前だ。
彼の進行を妨げるように希咲は不機嫌そうな顔で立ち塞がった。
疎らに戻ってきていた教室中の談笑の声がピタリと止んだ。
つい先ほど『昨日のことはなかったことに。関わるな』ということで合意を得たばかりと思っていた少女が突然進路に立ち塞がり、弥堂は眉を僅かに跳ねさせる。
(どういうつもりだ……?)
怪訝な眼を向けてみたものの、思わず足を止めざるをえないほどの眼前に飛び出してこられ、しかしこのまま馬鹿のように黙っていても埒が明かないので仕方なく口を開く。
「……なんだ?」
弥堂のその言葉に希咲はすぐには応えず、周囲の生徒たちがハラハラと様子を見守る中、スーハースーハーと気持ちを落ち着けるように深呼吸をしてからキッと強気で挑戦的な眼差しを弥堂へ向けた。
その視線を受け、どうやら心変わりをして昨日の続きでもするつもりになったらしいなと弥堂は判断し、右足を悟らせぬよう僅かに後ろに退き油断のない鋭い視線を返す。
突如高まる二人の間の緊張感が重圧となって周囲の者たちに圧し掛かり各々顔を青褪めさせていった。
少し遠巻きに自席でその様子を見ていた天津が椅子から腰を浮かせようとすると、背後に立つ望莱が彼女の肩をやんわりと抑える。
天津が肩越しに視線で制止の意図を問うてきたが、ただニコーと笑顔だけ返した。
弥堂が次の希咲の行動を慎重に待っていると、徐に握った右手を自分の口元に持って行った彼女は「んんっ」と喉の調子を整え――
「おはよ。弥堂」
不機嫌そうな顔でそう言った。
「…………?」
ただ疑問符だけを浮かべた弥堂だったが、この時に限っては珍しく教室内の他の生徒さんたちも彼と同じ気持ちだった。
「あによ。おはよ、ってゆってんじゃん」
「あ? …………それがどうした?」
「はぁ? 挨拶されたら挨拶しなさいよ。ほら、あたしにおはよってゆって!」
「何言ってんだ、お前?」
彼女の言うことは正論ではあるのだが、この時ばかりは他の生徒さんたちも弥堂の言葉に同意見で何名かは「うんうん」と頷いていた。
「なにって、だから挨拶でしょ。朝の挨拶」
「……お前マジで何言ってんだ……?」
すぐに弥堂が怒り狂って希咲と喧嘩になるのではと不安に駆られていたクラスメイトたちだが、弥堂が彼に似つかわしくなく口を開けて、これまで見せたことのないような表情でぽかーんとしている様に意外そうな目を集中させる。
「あんたもわかんない子ね。朝にクラスメイトに会ったらおはよって挨拶する。普通のことでしょ?」
「……そう、なのか……?」
「そうよ。そういうもんなのっ」
「そうか。なら、仕方がないな」
これまた意外にも希咲の言うことに納得する様子を見せた弥堂に驚愕し、クラス中の「えっ⁉」という視線が二人に突き刺さった。
唯一このクラスの者ではない望莱だけが、この上なく楽し気に目尻を垂れ下げ笑顔を維持したまま状況を鑑賞している。
「そうよ。仕方ないのっ。だから…………ほらっ?」
「あぁ。おはよう、希咲」
まさか弥堂が素直に他人の言うことを聞くとは想像だにしていなかった周囲の者たちは、一体何が起こっているのかと、今度は彼らがぽかーんとした顏で二人の創り出す状況に飲まれていた。
弥堂から要求通りの反応を引き出した希咲は――
「んっ。おはよ」
再び彼へと挨拶を述べ、
「よろしい。じゃっ」
不機嫌そうな顔のままシュバっと片手を上げると、用は済んだとばかりに踵を返す。
状況に着いていけていない教室中の生徒たちを置き去りにしたまま、何事もなかったかのように弥堂は自席に着こうとし、希咲は元居た場所へ戻ろうとする。
その時、突如として大きな音をたてて教室の戸が開かれ、今度は希咲が「わっ」と声をあげ驚きに足を止めることになった。
ガラガラガラっと勢いよく開かれた引き戸は、まるで昨日の朝の焼き直しのようにレール上を走って行き止まりのストッパーに当たるとやはり反動で跳ね返ってくる。そして、戸を開けたものが入室を済ませる前に再び出入口を塞いでしまった。
そして3秒ほどの間を開けた後に今度はカラカラと控えめに開かれる。
その空いた戸の隙間から気まずそうに顔を覗かせたのは、やはり昨日と同じ人物だった。
彼女は胸に手を当て弾む息と胸を落ち着かせると、その喜びを浮かべた瞳を前へ向ける。
「みんなぁ、おはようっ!」
教室中の全ての生徒へ届けるように元気な挨拶の声を投げかける。
すると――
「水無瀬さんおはよう」
「おはよう水無瀬」
「おはよう!」
「愛苗っちはろぉー!」
「おはよう水無瀬さん」
「よぉーっす水無瀬ー」
「おはよう!」
「ご機嫌よう愛苗さん」
「おはよおおおぉっ‼」
「うおおぉぉぉぉっ‼ 水無瀬さああんうおおおおぉぉっ‼‼」
「おはよー! 愛苗」
「まなちゃんおはよぉ」
「おはよう」
「おはようございます。水無瀬さん」
「ちっ……」
「……おはよう……」
「愛苗ちゃんいそいでぇー」
「おっ、おはよう、水無瀬さん」
「おはよう」
「うーっす」
「おはよー」
「やぁ、水無瀬くん!」
「けほっ、けほっ……おはよぅ……」
弥堂&希咲ショックでおかしな空気になっていた教室内に、連鎖して花が咲いていく。
謎の空気感でも問答無用に明るくしてくれる、水無瀬 愛苗の存在に多くの生徒達が感謝をした。
もたもたと自席へのルートを探していた水無瀬は、その自席の近くに自身の親友の姿を見つけると、ぱぁっと顔を輝かせ一目散に向かっていく。
「ななみちゃああんっ――って、はわーっ⁉」
「あん、もうっ」
だが自身の走る勢いを制御できずに盛大に躓いた。
そしてそんなことは想定済みとばかりに何事もなく希咲に抱き留められる。
そのままギュッと彼女に抱きついたまま顔を見上げ、ふにゃっと表情を和らげた。
「えへへ。ゴメンねぇ」
「あんたホントどんくさいわねぇ。なんで何もないとこで転べるわけ?」
呆れたような希咲の問いにも「えへへ」と曖昧に笑みを返していた水無瀬だったが、突如「あっ!」と声をあげるとパっと希咲から身体を離す。
ツンツンしたことを言っていた割に水無瀬に突然離れられ、希咲は「あっ……」と寂しそうに顔を曇らせた。
「ご、ごめんね、ななみちゃん。私今日はホントに汗かいちゃってるかも……」
「べ、べつにそんなの気にしないのに……」
くっつくのがイヤで身体を離されたわけではないことに安堵しつつも、希咲はもじもじとしながら言葉を返す。
「でもでもっ、今日はすっごいダッシュしちゃったし」
「あんたまた寝坊? もう、しょうがないわね。今日も髪直したげるから。ほらっ、こっちおいで」
呆れたような口調とは裏腹にやたらとウキウキした様子で、希咲はやんわりと水無瀬の手をとり、そのまま彼女の自席へと誘導する。
出会って3秒でイチャつき始めた二人の様子に、多くの生徒さんたちがほっこりとしながらお手てを繋いで仲睦まじく歩く二人の少女を見守った。
自席のすぐ目の前でそんなやりとりをしながら通り過ぎる二人の女の子に、弥堂は一瞬だけ気味の悪いものを視る視線を送るが、すぐに希咲に見咎められては面倒だと目線を切る。
誤魔化すように逆のサイドへと振った目線は先ほど水無瀬がやってきた教室の出入り口を映した。
紅月の周辺も特に何事もなかったように談笑に戻っていたが、紅月の妹がいつの間にか居なくなっているようだ。
時間も時間だし自分の所属する教室へと帰ったのだろうかと見当を付けていると、自身の左横で人が立ち止まった気配がする。
朝から面倒ごとばかりだとうんざりしつつも潔くそちらへ視線を戻すと、そこに居たのはやはり水無瀬と希咲だった。
水無瀬は弥堂へ向ける瞳を一際強くキラキラとさせると、
「おはよう、弥堂くんっ!」
元気いっぱいに挨拶をしてきた。
水無瀬 愛苗の顏を見上げ、そして視る。
昨日よりずっとその輝きが強く、その存在がより強くなった。
そんな気がする。
とりあえずいつもの様に一回は無視をしてみるかと無駄な抵抗を考えてみるが、水無瀬の傍らからジトっとした視線が送られてきているのを感じてすぐに観念する。
「そうか、そういうものだったな」
「そうよ、そういうもんだっての」
「?」
自身の目の前の男の子と、自身の隣の親友からポソッと呟かれた声に水無瀬は首を傾げるが、すぐに弥堂の顏が自分の方へ向けられたのでよくわからないままニコーっと笑う。
彼女のその笑顔に弥堂は一度溜め息を吐いてから、
「おはよう、水無瀬」
と、挨拶を返した。
「えへへー、おはよー!」
弥堂から挨拶が返ってきたことでさらに笑顔を強めた彼女は、目の前に居るのにも関わらず弥堂の方へ両腕を伸ばし、親愛の情を精いっぱいこめてヒラヒラーっと両の手を振った。
まるで子供番組のお姉さんが小さなお子さんたちにするようなその仕草に、強い屈辱を感じた弥堂はビキっと口の端を吊り上げ思わず拳を握る。
そしてそんな弥堂の仕草を見た希咲は口元を綺麗に伸ばした指で隠し、顔を背けて「ぷっ」と噴き出した。
さらに、そんな3人の様子を見ていた生徒さんたちの何人かはギギギっと悔しげに歯を噛み締める。
ある者は水無瀬 愛苗に希咲 七海といった可愛い女の子に個別に挨拶をしてもらえる弥堂 優輝という男を妬み、またある者はこの2年B組のベストカップルとの呼び声が高い水無瀬×希咲の間に入り込む弥堂という異物を憎んだ。
そんな周囲の様子に不思議そうに首を傾げる水無瀬だったが、間もなくして希咲に「ほらっ、いくわよ」と手を引かれ退場していく。
そうして二人が立ち去った後の弥堂の席に新たに近づく者があった。
普段、自分と水無瀬以外に弥堂に話しかける者など例外を除けばほとんど居ないので、希咲は「あたしたちに用かしら?」と足を止めその様子を窺ったが、どうやら弥堂に用事があるようだ。
入れ替わりで弥堂のもとに現れたのは、クラスメイトの野崎 楓だ。
野崎さんはとても真面目な子でこの2年B組の学級委員を務めている。眼鏡をかけて結った後ろ髪を片方の肩から前へ垂らしている、大人しそうな文学少女といった風体だ。
そんな善良な彼女に対しても、無法が服を着て歩いているような弥堂が何か無茶をするかもしれない。
何かあったら、というか何かある前に自分が飛び出して行って止めなければと希咲は謎の使命感を宿しながら、水無瀬のおさげを解きつつ慎重に二人の様子を監視する。
「弥堂君。今、大丈夫かしら?」
「む? 野崎さんか。構わない」
(ん?)
「♪」
野崎さんは特に弥堂に対して怯える様子もなく自然に話しかけ、弥堂もごく自然に応対をする。
その様子に希咲は違和感を感じ眉をピクリと動かした。
それらには気付かず水無瀬はお母さんに髪を結ってもらう幼女のようにルンルンとしている。
「朝から慌ただしくしてしまってごめんなさい。HRの件なのだけど、これを……」
「あぁ、ありがとう」
(んん?)
「?」
まるで秘書のように淀みのない動作で胸元に抱えていた書類の中から一枚の紙を弥堂へ差し出し、弥堂はそれに柔らかく礼を述べてから受け取って文面に目を通していく。
それにもやはり違和感を覚えた希咲は、何がおかしいのだろうと思案しながら無意識に指で摘まんでいた水無瀬の解いた髪をクルクルと指に巻き付ける。
水無瀬はそんな彼女を不思議そうに見上げた。
「あ、やだ、私ったら」
「どうした? 野崎さん」
すると、野崎さんは何か自分の手落ちに気付いたといった風に声をあげる。弥堂は書面から目を上げそんな彼女を窺った。
希咲は怪訝そうな目で引き続き二人を監視する。
そして水無瀬はそんな希咲をじーっと見る。
「ふふふ。自分の用件ばっかりで挨拶するのを忘れていたわ。おはよう弥堂君」
「あぁ、おはよう。野崎さん」
「はぁっ⁉」
「あいたぁーっ⁉」
ふふふ、と気安く笑みを浮かべる野崎さんに弥堂が自然に挨拶を返したのを見て、希咲はガーンっとショックを受ける。
反射的に水無瀬の髪を少し引っ張ってしまい彼女がびっくり仰天するがそんなことには気付かない。
そのまま茫然と弥堂たちのやりとりを見ていると、書類に目を通し終わった弥堂が野崎さんへと紙を返した。
「そうだな。この内容なら俺から全体へ伝えた方がいいだろう。任せて欲しい」
「……いいの? いつも貴方にばかり嫌われ役をさせているみたいで心苦しいわ」
「気にするな。俺は生徒を抑えつける。キミは生徒の声を拾う。適材適所だ。それに俺は身体は頑丈だが細かいことは得意ではない。こちらこそキミの心配りにはいつも助けられている」
「ふふ、そう言ってもらえると気持ちが軽くなるわ。ありがとう」
「なななななななっ――⁉」
「いたいいたいっ! ななみちゃん⁉ どうしたの⁉」
問題ないと、野崎さんへ向けて肩を竦めてみせる弥堂へ信じられないようなものを見る目を向けながら、どこか納得がいかない希咲は思わず胸の前で拳を握った。
当然髪を引っ張られる形になる水無瀬は、痛みから逃れるため椅子からお尻を浮かせて髪を握る希咲の手に頭を近づける。
すると、無意識なのか反射なのか、水無瀬の髪からパっと手を離して自身の胸に近づいてきた彼女の頭をギュッと抱き寄せた。
「ぴぃっ――⁉」
頭皮の痛みがなくなった代わりに今度は何やら硬いフレームのようなものを頬骨に押し当てられて、未知の痛みに水無瀬は呻く。
「な、ん、な、の、よっ、あれっ‼‼」
「いたいいたいっ! ゴリって! なんかゴリってしてるっ!」
「おい、うるさいぞお前ら」
すると、騒ぎを見咎められ弥堂から注意を受けた。
「うるさいじゃないわよ! ふざけんな、ぼけぇっ!」
「何を怒ってるんだお前は」
「ふふふ。二人とも今日も仲がいいのね」
すかさず弥堂へ怒鳴り散らすと、彼からは呆れた声が、野崎さんからは穏やかな声が返ってくる。
「はぁ⁉ こんな奴と仲いいわけないでしょ!」
「んー……こっちじゃなくって、そっち……かな?」
「え?」
ビシッと左手で弥堂を指差して野崎さんに否定をすると、彼女は困ったような笑顔を浮かべ希咲の胸元を指差す。
その指の指し示す方へ視線を下ろすと――
「う、うえぇぇぇ……いたいよぉ……」
自身の胸にほっぺを押し付けられながら、すっかりとベソをかいた水無瀬がいた。
「あああぁぁぁぁっ⁉ ご、ごめん愛苗っ!」
「いたかったのぉ……」
ようやく彼女の苦境に気が付き慌てて解放する。
完全に泣きが入った水無瀬は自身の赤くなったほっぺを指差して痛みを主張する。
「あぁ⁉ 跡になっちゃってる。ごめんねっ」
希咲はすかさず彼女の頭をよしよししながら、何か曲線を描くワイヤーのような物の跡がついてしまったほっぺたをふーふーしてなでなでする。当然そんなことをしても何も意味はない。
「ふふ。ね? 仲がいいわよね?」
その様子を見てほっこりした野崎さんが弥堂に同意を求めるが、彼は適当に肩を竦めるだけに留めた。
「うぅ…………ゴリって……なんかゴリってしたのぉ……」
「うぅ……ほんとゴメン……あたし気付かなくて…………」
「…………重装備が祟ったな」
「はぁ⁉ あんた今なんか言った⁉」
「いや、なにも」
おめめをウルウルさせて訴えてくる水無瀬に、希咲もおめめをウルウルさせて謝罪をしていたが、背後からボソッと低い声で呟かれた言葉をバッチリ聞き咎め、ギロっとそちらを睨みつけると適当に肩を竦めて流された。
「……うん。やっぱりこっちも仲がいい……?」
一歩引いた位置でそのやりとりを見ていた野崎さんが、唇の端に指を当てそっと呟いたが、それは誰にも聴き咎められることはなかった。
「じゃあ、私は席に戻るわね。そろそろ先生も来る頃だから、3人ともほどほどに、ね?」
懸命に水無瀬をあやす希咲を尻目に、「じゃあ弥堂君、HRの件よろしくお願いします」と綺麗なお辞儀をしてサッと立ち去っていく。そんな野崎さんを見て、弥堂は見事な引き際だと感心をした。
きちんとメリハリをつけて行動をする彼女に比べて、いつまでもガキのようにギャーギャーピーピーと喚いている隣の座席の二人へ侮蔑の視線を送る。
すると、希咲がカーディガンのポケットから何やら香水の小瓶のような物を取り出しそれをハンカチに振りかけて、自らの装備品である補強ワイヤーの跡がついた水無瀬のほっぺにそのハンカチをチョンチョンっとしていた。
「お前、そんなことしたってどうにもならんだろ」
「うっさいわね。カンケーないでしょ、黙ってなさいよっ」
「そりゃそうだ」
確かに彼女の言うとおりであると、弥堂は特に裏もなく言葉通り彼女の意見に同意をしたのだが、希咲にはそれは厭味にしか聞こえなかった。
というか、いくら強い呆れを感じたからといって何故余計な口をきいてしまったのだろうと、彼女らから目を逸らし弥堂は自分自身への疑心に眉を歪め、希咲は彼からの皮肉に――彼女は受け取った――やはり眉を歪めた。
それまでずっとメソメソしていた水無瀬はいつの間にか泣き止み、ぱちぱちと瞬きをするとそんな二人の顔をキョトンと見比べた。
水無瀬が自身の顏をじーっと見上げていることに気が付くと、希咲は不機嫌な顔を一転させ眉をふにゃっと下げる。
「愛苗ぁ……ホントにごめんねぇ……ゆるしてくれる……?」
今度は逆に希咲が不安そうな顔で目尻に涙を浮かべているのを見て、水無瀬は彼女を安心させるようにニコーっと笑う。
そして希咲の頬っぺたを指先で優しく摘まむと僅かに力をこめてから、その摘まんだ箇所をふにふにと軽く上下に動かした。
「うぇっ――⁉」
突然のことに希咲は驚き素っ頓狂な声をあげる。
すると水無瀬はすぐに摘まんでいた指を離し、今しがた掴んでいた希咲の頬に掌をあててじっと真っ直ぐに彼女の瞳を覗き込んだ。
「えっ……? えっ…………⁉」
事態についていけない希咲が言葉を失っていると、水無瀬はさらに彼女へ向ける笑みを深めてあげる。
「これで『おあいこ』だよ? ななみちゃん」
「えっ…………? あっ――」
「だから許すとか許さないとか、そんなこと心配しなくていいから……私怒ったりしてないからね」
「う、うん……」
「大丈夫だよ……? 私はななみちゃんのこと大好きだから……ね?」
「う、うん……あたしも…………すき…………」
周囲に白いお花がぶわっと咲き乱れキラキラと輝いたようにクラス中に錯覚をさせ多くの者がほわぁとする。
隣の席に座っていた弥堂はその大ぶりな花に顔面を押し退けられたような気分になり彼女らに迷惑そうな眼を向けた。
水無瀬が労わるように希咲のほっぺたをすりすりし、希咲がその手に自らの手を重ねてうっとりと水無瀬を見つめていると、朝のHR開始を報せる時計塔の鐘が何時もどおりの大音量で鳴り始める。
少女たちはその音に二人揃ってハッとなり、続いてお互い苦笑いを浮かべながら顔を見合わせる。
「髪……途中になっちゃったわね……」
「だいじょぶだよ! とりあえず適当に縛っておくし!」
「HR終わったらチャチャっと直したげる」
「ほんと? えへへ……やったぁ……!」
「じゃ、あたし一回戻るわ。またあとでね」
「うんっ。ばいばいっ」
そう約束して彼女たちは別れる。といっても同じ教室内だが。
振り返ってすぐに希咲は歩き出さず、水無瀬の隣の席の弥堂をキッと睨みつける。
「まだ何かあるのか?」
「あんたが悪いんだからねっ!」
「なんでだよ……」
「うっさい! やっぱあんた嫌いっ!」
ビシッと指差してそう宣言するとフンッと鼻を鳴らしてズカズカと彼女は歩き出した。
足早に自席へ向かう彼女が通り過ぎた後で、「ヤキモチ?」「ヤキモチ」「ヤキモチか」「ヤキモチなん?」と囁き声が聴こえてくる。
揶揄うようなその声たちにカチンときた希咲はグルンっと勢いよく振り返ると両手を突き上げ――
「うるさああああいっ――‼‼」
教室中に響き渡るような大声で癇癪を起したように喚く。
奇しくも、彼女のその絶叫とほぼ同タイミングで規定回数を消化した鐘の音が鳴りやみ、さらに同時にガラっと教室の戸が開かれる。
現れたのはこの2年B組の担任教師である木ノ下 遥香だ。
まだ社会に出て二年目である若い担任教師は異例とも云える早さで今期から担任を任されていたが、新学年が始まり1週間も過ぎた頃には自分は任されたのではなく押し付けられたのだということに気が付いていた。
問題児ばかりを集めて纏めたのでは、と職員室内で噂のこの2年B組の素敵な生徒達と日々触れ合うことで社会で自立して生きていくことの難しさに打ちひしがれ、彼女はすっかりと自身を失くし弱気になっていた。
そんな彼女が、「金曜だし今日さえ乗り切れば休みだ!」と己を鼓舞して自らの預かる教室に入るなり、ハーレムとかいう正気を疑うようなコミュニティを取り仕切るギャル系JKに出合い頭に大声で怒鳴られてしまった恰好だ。
木ノ下先生はビクっと大袈裟に怯える仕草を見せた。
「あ、あの…………希咲さんごめんなさい……先生そんなに乱暴に開けたつもりはなかったんだけど…………うるさかったよね……? ごめんね……?」
「ちっ、ちがうんですうぅぅぅっ!」
恐る恐る顔色を窺いながら謝罪をしてくる自らの担任に希咲は慌てて釈明をする。
結局、怯える担任教師を宥めすかしてどうにか誤解を解き、衆人環視の中で誠心誠意謝罪をした後、彼女は耳を紅くしながら最後列の自席へと戻っていった。
弥堂は後方から恨みがましい視線を感じた気がしたが、当然気がしただけなら気のせいなので気が付かないフリをした。
こうして本日の2年B組の朝のHRは数分遅れで開始された。
私立美景台学園高校2年B組の担任教師である木ノ下 遥香は気を取り直して教壇に立つ。
先生なのに朝イチでギャルにブチギレられるという不運に見舞われたが、どうやらそれは誤解であったようなので「自分はまだ大丈夫」と己を奮い立たせる。
まだ若干膝が震えているがしっかりと二本の足に力を入れて立つ。
そんな教師の姿に、木ノ下先生が立つ教卓の目の前の席に座るこのクラスきっての常識人である日下部さんは痛ましい目を向けた。
生徒からのそんな同情の視線には気付かず、パニックになってはいけないと木ノ下は脳内で自分のするべきことを確認する。
まずは出欠確認だ。
一人停学中の生徒がいるが、彼以外はみんな登校しているだろうかと、点呼を始める前に一度教室内を見渡すことにする。
脳裡に浮かべた『停学』という単語にキリと胃が痛んだ気がしたが、気力でねじ伏せて教室の左端から右端へと視線を移動させていく。
右端の窓際まで見渡したところで、どうやら全員来ているようだと安堵する。
そのまま視線を中央へ戻そうと左方向へ僅かに目線を動かしたところでギョッとし、焦って窓際の席を二度見する。
木ノ下の視線が釘付けになっているのは水無瀬 愛苗だ。
「みっみみみみみ水無瀬さんっ⁉」
「はいっ!」
突如大声で名前を呼ばれ、何故今日は自分から点呼されるのだろうと若干不思議に思ったが、よいこの愛苗ちゃんはお手てを上げて元気いっぱいにお返事をした。
らぶりーな彼女の仕草に周囲の生徒さんはニッコリとしたが、木ノ下はそれどころではない。
注意深く水無瀬の姿を見遣る。
左側のおさげだけが解けており、元々三つ編みをしていたのでその髪はウェーブして乱れている。そしてその髪がかかる顏の左頬には何か痛手を受けたような赤い跡があった。そして着衣にも若干の乱れが見える。
まるで詳細に言語化することが憚れる類の乱暴をされた後のように、木ノ下の目には映った。
「みっ、水無瀬さん……! あの……だ、大丈夫……なんですか……⁉」
「え……? んと……はいっ! 元気ですっ!」
何を聞かれているのかまるで理解していなかったが、水無瀬はとりあえず元気いっぱいにもう一度お手てをあげた。
どう見ても大丈夫ではない姿でニコーっと笑顔を向けてくる彼女に、木ノ下は茫然とした目を向ける。
どうしたものかと迷っていると水無瀬の隣の席の男が目に入った。
「…………弥堂くん」
「はっ」
「……なにか、知りませんか……?」
「質問の意図がわかりかねますね」
「……水無瀬さんのことです」
「不明瞭すぎてどうとも答えようがないな」
言い回しが若干アレなものの、弥堂としては本当に言葉通り何を聞かれているのかわかっていないのだが、木ノ下はそんな彼に懐疑的な目を向けた。
「あ、あのっ、先生どうしたんですか⁉」
そんな二人のやり取りに不安を覚えた水無瀬が割って入ると、教師は意を決したように水無瀬に再度問いかける。
「……水無瀬さん。聞き辛いのですが、その姿は一体何があったんです…………?」
「え?」
慎重に窺ってくる教師からの問いに水無瀬は自身の服装を見下ろしつつ顔をペタペタと触って自分の姿を確かめる。
「あっ! その、ごめんなさいっ! だらしない恰好で……!」
「……それはいいの…………でも、それは誰かに何かをされたの……?」
「え? えーと……これはななみちゃんに――」
「――希咲さんっ⁉」
「は?」
水無瀬の言葉を最後まで聞くことなく、彼女の口から出た名前に驚いた木ノ下はギュンッと希咲の方へ視線を回す。
「希咲さん……っ! あなた、なんで……!」
「へ? あたしがなにか?」
「あなたと水無瀬さんは仲良しだったじゃない! どうしてこんなヒドイことを……っ⁉」
「ヒドイこと……? って――あっ!」
突然教師に咎めるように問い詰められ、困ったように水無瀬の方へ視線を向けると、着衣の乱れた彼女の姿を見てようやく木ノ下の意図を察する。
「ち、ちがうんですううぅぅぅっ!」
ついさっきも聞いた絶叫が再び教室に響いた。
希咲はまた数分をかけて教師の誤解を解き、何故かまた謝罪をするハメになった。
「……ごめんなさい。先生早とちりしちゃって……」
「……いえ、いいんです……なんか、あたしもごめんなさい……」
「で、ではっ! 出欠をとりますねっ!」
己の失態を誤魔化すように急いで出欠の点呼を始めた教師を希咲は特に咎める気にはならなかった。
なんかもうとにかく恥ずかしかったのだ。
木ノ下が名前を呼び、該当する生徒が返事をする。
そんな毎朝の教室のルーティンを聞き流しながら弥堂は隣の席を横目で見遣る。
乱れ髪のまま自分の名前が呼ばれるのをお行儀よく座って待つ水無瀬を見て、次いで口を閉ざしたままの彼女のスクールバッグを見る。
教室に着くなりすぐによくわからない寸劇を希咲と演じていた彼女なので、当然その荷物の中身を整理する時間などなかった。
「……今のうちに荷物を整理した方がいいんじゃないのか?」
「え?」
点呼中に突如隣から声をかけられ水無瀬は驚く。
「HRが押しているから教材を鞄から出して机に詰めておいたらどうだ? HR後も希咲と予定があるのだろう? 1時限目に間に合わなくなるから今のうちに済ませておいた方が効率がいいだろ」
弥堂からアドバイスのようなものをもらった水無瀬はぱちぱちと瞬きをすると、
「うん。でも、先生が点呼してるからちゃんと静かにして待ってないと……」
「そうか」
自らの効率よりも礼儀だと言う彼女に弥堂はどうでもよさそうに答えて黙った。
しかし、自身の左頬を突っつく視線が気になり再び水無瀬を横目で見る。
彼女はニコニコしながら、じっと弥堂を見ていた。
目を細める。
弥堂は彼女がこちらにしっかりと顔を向けたことで顕わになった左頬を視る。
木之下に見咎められた頬についていた跡がきれいさっぱり消えている。
「……なんだ?」
「え? んーー……なんか今日は弥堂くんがいっぱいおしゃべりしてくれるなーって」
「……気のせいだ」
愛想もなくそう返して弥堂は今度こそ黙った。
しかし、心中で水無瀬に言われたことを考える。
(確かに余計なことか……)
無自覚に緩んでいると反省をしていると教師に自分の名が呼ばれたので無感情に返事をする。
そのまま目を閉ざしこの時間が過ぎるのを待った。
「では、今朝のHRは私からは以上です。この後は風紀委員会からの連絡があります。野崎さん、お願いします」
「あ、先生。今日は弥堂君の方から……」
「…………」
前置いて学級委員であり風紀委員でもある野崎さんへバトンを渡そうとしたら、彼女からは自身にとっては決して望ましくない言葉が返ってきた。
木ノ下は一度目を閉じ、数秒してから目を開けもう一度口を開く。
「では、風紀委員会からの連絡です。野崎さんお願いします!」
「おぉ……なかったことにしたぞ」
「遥香ちゃんちょっとメンタル強くなったな」
先ほどより若干勢いをつけて同じ台詞を言ってみたら、生徒達から感心したような声が漏れた。
「えーと……」
しかし、野崎さんは困ったように苦笑いだ。
その表情を見て罪悪感に囚われた木ノ下は自身の目の前の席に着く日下部さんに頼りない目を向ける。
常識人の日下部さんは沈痛そうな面持ちでただ首を横に振った。
「…………」
木ノ下先生はギュッと強く目を閉じてから何かを堪えるようにして言葉を改める。
「…………弥堂君。お願いします…………」
「はっ」
名を呼ばれた弥堂は今の一連のやりとりを全く意に介さず素早く立ち上がり淀みなく教壇へ歩き出す。
木ノ下は大変不服そうな表情でスッと横に移動し彼に場所を譲ってから、その背中に油断なく監視の目を向ける。
そんな教師と同じ気持ちであるクラスメイトたちのほとんどはとてもイヤそうな顔を教壇へと向けた。
弥堂は視線の集まる教壇に立ち、一度着席する生徒たちを睥睨する。
「おい、クズども。一つ訂正だ。これからするのは連絡ではなく警告だ」
開口一番の挑発的な言動に教室内に緊張が走る。
「この中に罪人がいる」
続いて告げられたセンセーショナルな言葉に生徒たちは俄かにざわつくが、弥堂は意に介さず視界に全体が映るよう視点を調整し油断なく鋭い眼光を放つ。
教室後方で希咲が額に手を当てたのが見えたが、それも意に介さなかった。
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