1章66 『4月25日』 ④

「――ふわぁ~、お風呂ありがとう」



 ほくほくとした顔でバスタオルを頭に被った水無瀬 愛苗みなせ まながダイニングに戻ってくる。



「あぁ」



 彼女へチラリと視線を向けた弥堂 優輝びとう ゆうきは、一度だけ彼女を見ると、すぐにテーブルの上のノートPCへ視線を戻す。




 4月25日 土曜日。


 今日は週末だ。



 二人が通っている美景台学園高校は本日はお休みとなるが、弥堂が仕事をもらっているバイト先はバリバリの稼働日だ。


 現在振られている仕事を全て片付けてしまおうと作業を行っている。


 後腐れのないように。



「さっぱりしたッスか? マナ」


「うん、メロちゃんもお風呂する?」



 彼女たちのどうでもいい会話を聞き流しながらキーボードへ手を伸ばそうとすると、濡れた前髪から水滴が一つ落ちる。


 それがPCに触れる前に掌で受け止め、掌をズボンに擦り付けて拭いた。



 最初は水無瀬に先にシャワーを浴びるよう勧めたのだが、「悪いよぉ」「弥堂くんが先にして」などと面倒くさいことを彼女は言いだした。


 順番の譲り合いなど時間の無駄だし、何より『こいつ風呂遅そうだな』と考えた弥堂は、結局自分が先に使うことにした。


 そして、自分はシャワーを終えて次に使っている彼女が出てくるまでの時間を活用し、仕事に充てていたところである。



 検索窓にターゲットの氏名を打ち込んでエンターキーを押す。


 ディスプレイが一瞬ブルーライトを点滅させてから2秒ほどのラグがあり、検索結果が表示される。


 浮気調査の対象となる男が街のあちこちで撮影された画像だ。


 画面を睨んで、その中から決定的証拠として使えそうなものを選び出す。



「少年、ドライヤー貸してくれッス」

「ない」


「こっち向けよッス。メンドイからってウソつくなッス」

「そんなものはこの家にはない」



 ノートPCから視線を動かさないまま告げられた答えに、メロは一瞬ポカンと口を開けた。



「いやいや、なんでないんッスか」

「ないからだ」


「そんなわけないだろッス」

「……? わからないな。必要ないから無い。それだけの話だろ」


「えぇ……」

「メロちゃん……」



 ドン引きしたように脱力するネコさんを、水無瀬がやんわりと宥めた。



「そこに出てる弁当を好きに食え」



 そんな彼女らへ適当に指示を出しながら、弥堂はいくつかの画像を大きく表示させ細部をチェックし、納得のいったものはコピーしてフォルダに入れる。



「高校生ともなれば普通ドライヤーくらい使わねえッスか? オマエそれなりに髪の長さあんのに。つか、さっきから何やってんッス……っか⁉」



 胡乱な瞳をしながら近寄ってきたネコ妖精は、弥堂の操作するノートPCの画面を覗いてギョッとする。



「なになに? みんなで動画観てるのー?」

「ママママ、マナッ! 遊ぶ前に先に髪乾かしてゴハンたべるッス!」



 興味を持ったのか、同じくこちらへ寄ってこようとした水無瀬をメロは慌てて押し止めた。


 清らかで純真な自身のパートナーに、ニンゲンさんの交尾画像を見せるわけにはいかない。



「仕事だ」


「そうなんだ。弥堂くんなんのお仕事……」

「シッ! マナ、あんまり聞いちゃダメッスよ」



 水無瀬の濡れた髪をタオルで挟んでポンポンっと前足で叩きながら、彼女の興味がエロ画像から離れるように努めた。


 クラスメイトの女子が泊まりに来ているというのに、朝イチで堂々とエロ画像を収集し始めた男へメロはチラチラと疑惑の目を向ける。


 しかし一方で――一度イキリ立てば、いついかなる時であろうとも、なに憚ることなく正々堂々とエロ活に興じる――そんなおとこの中の漢に畏怖の念も抱いた。



 そんな誤解を受けながら弥堂は一件仕事を片付け、すぐに次の案件にとりかかる。


 迷子の犬捜しだ。ターゲットの写真画像を検索にかけて同様の工程を踏んでいく。



「それよりゴハン食べようッス」

「あ、うん。そうだね。弥堂くん、お弁当頂いてもいーい?」


「好きにしろって言っただろ」



 弥堂に許可をもらって愛苗ちゃんはウキウキでお弁当にお手てを伸ばす。


 手で触れた弁当はひんやりとしていた。



「あ、冷蔵庫に入れてたからチンしないとッス」


「あ、そっか」



 お弁当を手に持って愛苗ちゃんはキョロキョロする。


 そしてお仕事中の弥堂へ顔を向けた。



「弥堂くんゴメンね。レンジってどこにあるの?」


「そんなものはない」



 一瞬無言になり愛苗ちゃんはパチパチとまばたきをした。



「ないの?」


「ない」


「電子レンジなしでどう生活してんッスか……」


「俺はこれしか食わないと言っただろ。必要ない」


「少年は文明とどう向き合ってんッスか……?」


「これは非常に文明的な食べ物だ」



 げんなりとするネコさんの視線を無視して、弥堂は“Energy Bite”の包装を剥いて一口齧った。



「お弁当……」



 冷たいお弁当を持ちながら愛苗ちゃんがシュンとすると、飼い猫が食ってかかってくる。



「オイテメェ! マナが可哀想だろッス! 今すぐコンビニ行ってあったかい弁当買ってこいよッス! ダッシュな!」


「金ならやるからお前が行ってこい」


「ネコさんに対応してくれるレジはこの国にはねェんッスよ!」


「うるせえな。魔法で温めればいいだろ」



 弥堂の代案を受けてメロは水無瀬に目線を戻す。



「マナ、そんな魔法使えるんッスか?」


「まほう……?」



 魔法少女は初めて聞いた言葉を反芻するようにしながら首を傾げた。


 ちょうど仕事が一段落した弥堂も彼女の方へ顔を向ける。



「出来ないのか? 魔法で魔物を蒸発させられるんなら、弁当を温めるくらい簡単だろ?」


「う~ん……」


「ちょっとチャレンジしてみたらどッスか?」


「そうだね。やってみるねっ」



 ポジティブな笑みを浮かべて、水無瀬は手に持った弁当に「むむむ……っ」と集中すると、何やらむにゃむにゃと唱える。


 すると――



「――あっ! できたっ」

「さすがマナッス!」


「…………」



 ほかほかとするお弁当に歓声をあげる二人を弥堂は遠巻きに視ながら眼を細めた。



 4月21日の“アイヴィ=ミザリィ”との河原での戦いの後。


 その時も水無瀬は魔法少女の変身解除後に魔法を使っていた。


 魔法少女としての彼女に出遭った最初の方では、『魔法は変身中にしか使えない』と、確かにそう証言していたのに。



 彼女が嘘を吐いていたとは、弥堂も思わない。


 恐らく『使えるようになった』のだろう。



 他人から忘れられるという彼女の身に起きた変化。


 それと同様に、ある程度の魔法が通常時にも使えるようになった。


 これも彼女の身に起きた変化の一部と見做すべきだろう。



 そこまで考えて、だからなんだと思考を切り、弥堂は仕事に戻る。



「オイィ! 少年ッ!」



 だが、すぐにメロに声を荒げられ、眉間に皺を寄せることになる。


 声音でわかるが、また何かのクレームだ。



「……なんだ」


「野菜がねェッス!」


「あ?」


「この弁当には野菜が入ってねェッス!」



 言われて水無瀬が蓋を開けた弁当に眼を遣ると、確かにメロの言う通り米と肉、魚しか入っていなかった。



「だからなんだ?」


「少しは女子に気を遣えッス! ウチの娘の健康と美容をなんだと思ってんッスか! 肉類オンリーとかゴリラじゃねェんッスよ!」


「ゴリラは肉食わねえだろ」


「口答えをするなァーッス!」


「あ、メロちゃんにはお魚の方あげるね?」


「あ、ヘヘヘ。こりゃアリガテェッス」



 弁当の蓋を引っ繰り返してそこに白見魚のフライをのせてやると、ネコさんは嬉しそうにテーブルに上がってハグハグと食らいついた。



「もう少し栄養バランスってものを――」

「――あ、メロちゃんシャケもあげるね」


「シャケはハンブンこにしようッス。シャケまでジブンがガチっちまうとマナのオカズがなくなっちまうッス」

「うん、わかったぁ」



 フライをあっという間にたいらげ、すかさずクレームの続きをしようとするネコさんに、飼い主さんはエサを与えて黙らせた。



「ゴリラ……」


「弥堂くん? どうしたの?」


「……いや、少し、なんでもない」


「……?」



 ゴリラと呟く同級生に水無瀬は不思議そうに首を傾げる。


 そんな彼女には構わず、弥堂は頭の中でその単語を繰り返す。



(ゴリラ……、なんだったか……。最近どこかで聞いたような……)



 もちろん『ゴリラ』が何なのかわからないわけではなく、誰かの重要な発言の中でその言葉を聞いたような気がする。


 眼に力をこめて自分自身の“魂の設計図アニマグラム”から、それが記録されている記憶を探し始めた。



「――少しは栄養のバランスってモンを考えて欲しいッス!」



 そうしようと思ったが、シャケを食い終わったらしいネコにしつこく抗議をされ、気が散ったことで目の前にあった記録が霧散する。


 弥堂は迷惑そうにクレーム猫を見た。



「しつこいぞ」


「女子への配慮が足りねェッス!」


「バランスがそんなに気になるなら“Energy Bite”をやる。これなら完璧だ」


「い、いや、それは……」



 強気だったネコさんは途端に及び腰になる。


 愛苗ちゃんも悲しげに俯いた。



「というか、一緒に買ってきたリンゴが入ってただろ。持ってきて勝手に食え」


「そういえばあったッスね」



 ポンと肉球を合わせたネコさんは冷蔵庫へ行くと、リンゴを二つ取ってきてそれを水無瀬へ渡す。


 愛苗ちゃんはそれをジッと見ると――



「弥堂くん弥堂くん」

「なんだ?」


「あの、果物ナイフか包丁って……」

「あぁ、もちろんない」


「…………」



 愛苗ちゃんはふにゃっと眉を下げた。



「オマエは人の暮らしをなんだと思ってんッスか……」


「うるせえな。ちょっと待ってろ」



 弥堂は席を立つと寝室へ向かう。


 ベッドの下に勝手に作った床下収納から缶ケースを取り出してテーブルまで運んだ。



「あ、それ……」

「あ?」



 それを目にすると水無瀬が申し訳なさそうな顔になる。



「あのね? 昨日弥堂くんがお買い物行ってる時にね、間違えてメロちゃんがそれ見つけちゃって……」

「…………」



 ジロリと視るとネコさんはビクッと震えた。


 間違えて床下収納を開けて中に入っている物を取り出してしまうことの意味がわからなかったが、まぁいいかと肩を竦める。



「それで?」


「えっと、中を見ちゃって……」


「そうか。別に構わない」



 口ぶりとは裏腹に酷く不快な気分になったが、それ以上にガキに気を遣われていることの方が屈辱的でより不快だったので、弥堂は特に咎めることをしなかった。



 缶を開けて中から黒い包みを取り出す。


 それをテーブルに置くとゴトリと、重量感のある音が鳴った。



「それなんなんッスか?」


「…………」



 クソネコの問いかけを無視して布の包みを開く。



「ウゲッ⁉」



 中から出てきた物を見てメロがドン引きした。



「これで皮を剥け」


「あ……、うん……」



 弥堂が水無瀬に渡した物は、黒い装飾のない無骨な刃渡り20cm前後のナイフだった。


 それが水無瀬の手に渡ると彼女の腕力はその重みに一瞬負けそうになる。



 弥堂は再びノートPCへ眼を向けメールをチェックする。


 愛苗ちゃんは左手にゴツいナイフを、右手に赤いリンゴを構えて、それらをジッと見下ろした。



「ちょちょちょちょーっと待てェーッス!」



 あんまりな光景にメロは慌てて制止の声を上げた。



「……なんだ?」



 弥堂は不機嫌そうに目線を彼女らへ戻す。



「これはないだろッス!」

「どういう意味だ」


「だって、オマエ、これ……」

「なんだ」


「これって絶対人を刺したことあるヤツだろーッス!」



 メロが強く疑念を主張すると、弥堂は水無瀬に渡したナイフを見る。



「……洗ってあるから大丈夫だ」


「否定するポイントが間違ってんッスよ! オマエこれアレだろ! これであのビニールシートの上でバラしやがったな⁉」


「意味がわからんな。文句があるなら皮ごと食え」



 これ以上のワガママには付き合いきれないと弥堂は仕事に戻ろうとしたが、目線を動かす寸前にナイフを持った水無瀬の姿が視界に入る。



「…………」



 このナイフは教会の暗殺部隊で支給されている戦闘用兼自殺用のナイフで、エルフィーネから貰ったものだ。


 そして今朝夢の中で観た一場面、強姦オジサンを殺害した時に使用したものである。



「……貸せ」


「え?」



 弥堂は水無瀬へ手を差し出してナイフとリンゴを渡すよう要求する。


 水無瀬はコテンと首を傾げた。



「私リンゴの皮剥きできるよ?」


「いいからよこせ」



 半ば強引に彼女からそれらを奪い取り、左手にナイフを持って皮剥きを開始した。



 流石の弥堂から見ても、水無瀬のような少女が強姦オジさんの首をバラすのに使ったナイフを構えている絵面は、いくらなんでもないなと感じての行動だ。



「あれ? 弥堂くんって右利きじゃなかった?」

「あ? ある程度どちらも同じくらい使えるが、一応左利きではある」


「そうなんだ。時計も左手にしてたし、字書く時も右手だったから、てっきり右利きだと思ってたよ」

「そうやって見た目で騙されてくれるよう普段は右利きに見えるように振舞っている」


「そ、そんなこと考えて生活するんじゃないッスよ……」

「うるさい黙れ」


「じゃあ右手でも皮むき出来るの?」

「ん? あぁ……、ほら」


「わぁ、すごいっ」



 右手に持ち替えてナイフを使って見せると、水無瀬はこんなどうでもいいことに手を合わせて喜んだ。


 弥堂はつまらなそうな顔で皮を剥き終えたリンゴを切り分けて、メロがエサ皿代わりに使っていた弁当の蓋に並べてやる。



「おら、食え」


「ありがとうっ」

「なんでいちいち偉そうなんッスか」


「うるさい黙れ」



 冷たく突き放してナイフを持って流しに行き、それを洗い流す。


 洗い終わったナイフを口に咥えて、冷蔵庫から飲み物を取り出し、テーブルへ戻る。



「飲め」


「え? あ、ありがとうっ」



 水無瀬へ牛乳のパックを渡してやって、自分は水のペットボトルを新しく開ける。


 ドン引きするメロの視線を無視してナイフをテーブルに置き、そしてまたメールのチェックに戻った。



「メロちゃんも牛乳飲む?」


「お、いいんッスか? ここのゴハンが入ってたとこにちょっと入れてくれッス」


「えへへ、いいよー」



 一つずつ返ってくる仕事の受領完了のメールを確かめながら彼女らの会話を聞き流す。


 チラリと横目を向けると、ピチョピチョとミルクを舐めるネコを、リンゴをシャクシャクしながら水無瀬が笑顔で見つめていた。



「…………」



 目線を戻す。



 食事を終えた彼女らはリンゴを摘まみながらどうでもいい会話を始めた。


 弥堂は特に何も喋らず、ただ時間が過ぎる。




「まったくつまんねェ家ッスねー。ゲームのひとつくれェないんッスか」



 少しすると、退屈そうに毛繕いをしながらメロがこちらへ水を向けてくる。


 弥堂は目線も向けずにぞんざいに答えた。



「あるわけないだろ」


「メロちゃん、そんなこと言っちゃダメだよ」


「でもマナァ……」


「泊めてくれただけでいっぱい感謝だよ。弥堂くんが居なかったら私たち大変だったんだから……」


「まぁ、そりゃ確かにそッスね……。少年ゴメンな!」


「弥堂くん、ホントにありがとう」



 感謝を向けてくる彼女らに、やはり視線も向けずに適当に肩だけを竦めて返事とした。



 水無瀬とメロは苦笑いをして顔を合わせる。



「あ、そうだ。メロちゃん、しりとりして遊ぼー?」


「お? いいッスねー。悪いけどジブン今日はガチらせてもらうッスよ?」


「えへへ、私もがんばるねー」


「…………」



 弥堂は思わず彼女らへ胡乱な眼を向けてしまう。



「ん? なんッスか?」

「弥堂くんも一緒にしりとりする?」


「……しない」



 弥堂は短く断ってPCへ眼を戻した。


 いくらなんでも高校生がしりとりはないだろうと、弥堂的にも呆れてしまったのだ。



 そんなこちらの心情には気付かず彼女らは楽しそうに遊びだす。


 弥堂は無言でメールの返信を待つ。


 あと一件返信がくれば、それで現在抱えている仕事は全て完了だ。



「よし、じゃあマナからスタートッス。『しりとり』の『り』からッス」


「うん、いっくよー? りーりー……」



 初手から長考に入りそうになった水無瀬の目に手に持った物が目に入る。彼女の頭の上にピコンっと電球が光るところが幻視された。



「『りんご』ー!」


「『ゴリラ』ーッス!」


「スー、スー……」


「あ、マナ。今の『ス』は語尾の『ッス』なんで無視していいッスよ?」


「あ、そうなの? じゃあ最初からいくね?」


「バッチコイッス!」


「…………」



 たかがしりとりすらスムーズに開始出来ないポンコツコンビのやりとりに弥堂は苛立つが、努めて聞き流すようにした。


 彼女らのお遊戯が再開される。



「りんごー」


「ごりらー」


「らっぱー」


「ぱんだー」


「だー、だー……」


「――っ⁉」


「わっ⁉」


「な、なんッスか⁉」



 弥堂が思わずガタっと椅子を鳴らして上体を起こすと、二人はびっくりしてしりとりをまた中断してしまった。


 何事かと弥堂へ目を向けるが、そんなことには構わずに弥堂は記憶の中の記録を猛スピードで検索していた。



「リンゴ、ゴリラ、ラッパ、パンダ……」


「どうしたの? 弥堂くん」

「やっぱオマエもしりとりしたかったんッスか? 三人で最初からやるッスか?」


「うるさい!」


「ぴっ⁉」

「にゃ⁉」



 作業の邪魔をする彼女らを怒鳴りつけたところで、ようやく該当の記憶に行き当たる。



『――ゴリラ』



『――さらにラッパ。そしてパンダだ』



 それは廻夜 朝次めぐりや あさつぐの言葉だ。


 4月22日の放課後。


 サバイバル部の部室で彼が口にした言葉。



(なんの話だ……? 部長は他に――)


『サービスだよ』


(サービス……? なんの……?)



 弥堂が部室を出る間際の言葉。何についての話だったか。



『宿題だ。』


(宿題……)



 それはどんなものだっただろうか。



『ちなみに答え合わせはしない。次にキミに会う時に、会ったその瞬間にキミが宿題を出来たか、問題を解くことが出来たかどうかが僕には一発でわかるからね。』


「問題……」



 弥堂は彼に何かを問いかけられていた。



『じゃあさ弥堂君。逆の視点からの話に変えようか。誰かにさ、他人に何かを忘れさせるってのはどうやればいいと思う?』



 直前に問われたものはこれだ。


 その中で宿題とされたものは――



『僕は三つほどあると思うね。今日はその内の二つだけを言うよ?』


「…………」



 記憶の中に記録された当日の映像を再生させ、今まさに彼から言葉を賜るように弥堂は眼を強く開いて待つ。


 そんな様子を訝しげにしつつも、水無瀬もメロも大人しく彼を見守った。



『まず一つは、記憶の中に保存されているファイルを壊すのさ。』


「記憶の欠損。“魂の設計図アニマグラム”を破壊すること……」


『二つ目は、検索機能を壊してしまうこと。』


「脳機能の破壊。思い出すという行為を出来なくさせること……」


『じゃあ、だとしたら三つ目は?』



 その三つ目を解くことが彼からの宿題だ。



(それは――なんだ……?)



 それについてのヒントが先に思い出したキーワードだ。



(ゴリラ、ラッパ、パンダ……、これが一体なんだ?)


『ちなみに宿題の答えに限りなく近いヒントは今日の僕の話の中に既にあるからね。遠慮なくその記憶力を最大限に活用して答えを導き出しておくれ』


「違う……」



『ゴリラ』『ラッパ』『パンダ』


 これらはヒントだとは言われていない。


 彼はサービスだと言ったのだ。



(それは、どういう意味だ……?)



 サービス。



(ヒントのヒント……?)



 或いはヒントの追加。



『答えに限りなく近いヒントは今日の僕の話の中に既にある』



「既にある……、既に言った……、もう言った……」



 もう、既に、言っている。



『ゴリラ』『ラッパ』『パンダ』



 その前に、手前に。



「リンゴ……?」



 さらに遡って廻夜の発言を洗う。


 彼の話の中で『リンゴ』についての言及は――



『例えば今、この机の上、キミと僕との間にリンゴが置かれていたとする。』



――あった。


 弥堂は思わずテーブルの上のリンゴへ眼を向ける。


 皮を剥かずにカタチを保ったままの赤いリンゴが一つ。



 その日の部活が始まってすぐの最初の方に、確かに彼は言及していた。


 それはどんな話だっただろうか。



『例えば今、この机の上、キミと僕との間にリンゴが置かれていたとする。僕は『美味しそうなリンゴだね弥堂君。はんぶんこしようか』と言う。するとキミは『これはミカンです』とこう言うわけさ。お互い『え?』ってなるでしょ? それが現状だよ。僕がリンゴだと思っているものをキミはミカンだと思っている。そんな認識の相違が僕たちの間にあるかもしれない。』


「認識の相違……」



 そんな話には覚えがある。似たような近いような話があった。



 弥堂が眼を向けると、水無瀬は不思議そうに首を傾げた。


 これは彼女の話だ。



「リンゴが、ミカンに……」



 では、これはどういうことだ。


 これに関しても似たようなことに聞き覚えがある。


 それは廻夜部長の話ではなく、つい昨夜のことだ。



 テーブルの上、昨夜から置きっぱなしになっている落書きが描かれた紙切れ。


 水無瀬に“魂の設計図アニマグラム”について説明した時の――



『これが“魂の設計図アニマグラム”だとする』


『お前がお前として存在しているのは、お前の“魂の設計図アニマグラム”にお前という意味が書かれているからだ』



 これらは弥堂自身の発言だ。


 これではなく――



『じゃあじゃあっ、私のに、もしも『ななみちゃん』って書いたら、私はななみちゃんに変身できるの?』



――これだ。



「水無瀬が希咲に……、リンゴがミカンに……」



 そうであったモノが、そうではない全く別のモノに為り変わる。


 水無瀬 愛苗が水無瀬 愛苗だと、誰もわからなくなる。



(廻夜部長は……)



『例えリンゴ自身が自分はリンゴだと必死に訴えたところで、リンゴのことをリンゴと呼んでくれる人がこの世界に一人もいなかったら、』

「そいつはもうリンゴでは居続けられない」


『別にミカンだと言わなくたっていい。もしもこの『世界』からリンゴという意味そのものが消えてなくなってしまったら。』

「その時はもうリンゴはリンゴではなくなり」


『他の人もそれを見ても誰もリンゴだとは思わないし呼ばなくなるのさ。』



 それはまさに今の水無瀬に起こっていることだ。



『それは別のナニカに為り変わってしまったことに、別の存在に生まれ直してしまったことと同義だよね。たとえ生まれ直したそれが新たに認識され直したとして、それでまたリンゴと呼ばれたとしても、もう元々のリンゴという意味はこの世のどこにも存在していない。もう全く同じものには返れないのさ。』


「意味が存在しない……、何故なら――」


『――違うものに孵ってしまったからね』


「違うものに、孵る……? 変わるではなく……?」



 一瞬言い間違いかと考えるが首を振る。


 あの廻夜 朝次がそんな凡ミスをするはずがない。



 それに、『孵る』


 その言葉にも聞き覚えがった。



「為り変わる……、生まれ直す……、生まれ変わる……、生まれ、孵る……」



 それは昨夜。



 この部屋で聞いたものではなく、出かけた先――


 駅近くの人気のない空地。



 そこで聞いた言葉。


 殺す寸前にボラフが最期に言った言葉だ。



 記憶の中の記録から映し出される。


 聖剣によってバラバラに切り刻まれ、首だけになったボラフの歪んだ三日月の中から、その答えが出る。



「――リバースエンブリオ……、生まれ孵る卵……」


「えっ?」



 ポツリと呟いたその言葉にメロが聞き返してくるが、弥堂は無視をしてドクンっと心臓を強く跳ねさせた。


 血流が巡り、生み出された魔力を眼に廻して、【根源を覗く魔眼ルートヴィジョン】を起動させる。


 そしてその眼で水無瀬 愛苗を視た。



 彼女の“魂の設計図アニマグラム”がはっきりとその眼に映し出される。



 さらに――



 記憶の中の記録も呼び起こす。



 鮮明に記録されているこれまでに視てきた彼女の“魂の設計図アニマグラム”。



 昨日の――


 一昨日の――


 その前の――


 初めて出逢った日の――



 記憶にある全ての彼女のそれと、今ここに居る彼女のそれを見比べる。



「……そうか」



 魔力を切る。



(そういうことか……)



 答えは既に在った。


 与えられても居た。


 ずっと目の前に在った。



 水無瀬 愛苗という少女の身に起きていること。


 その答えに弥堂は辿り着いた。



「び、弥堂くんっ!」


「あ?」



 思考を整理したところで慌てたような水無瀬の声に意識を呼び戻される。



「なんだ?」


「なんだじゃねェッスよ! 目っ! 目ッ! 血が……!」


「あ?」



 言われて顔に手を当てると、ドロリと瞼から血が零れた。



「あぁ、気にするな」



 他人の“魂の設計図アニマグラム”を詳細に読み過ぎた弊害だ。


 弥堂は水無瀬が渡してきたバスタオルを適当に受け取ってそれで血を拭う。



 もう一度思考に戻ろうとすると――



「――な、なぁ? 少年?」



 ビクビクしながらメロが声をかけてくる。


 弥堂は不機嫌な眼で彼女を見た。



「うるせえな。なんだその態度は」


「なんだはこっちの台詞ッス! 唐突に流血されたらドン引きするに決まってんだろうが!」


「ほっとけ。で? なんだ?」



 改めて問うと、彼女は上擦った声で聞いてくる。



「リ、リバースエンブリオってなんッスか……?」


「あ?」


「いや、今言ってたじゃねェッスか」


「だからなんだ? 何故それが気になる? 何かあるのか?」


「コ、コエェッスってば! いきなり新ワードが出てきたら気になるに決まってんだろッス!」


「チッ」



 彼女に聞かれ、弥堂も改めてその言葉を聞いた時の記憶を思い出す。




「――リバースエンブリオ……?」


「そ、そうだ……、『生まれ孵る卵リバースエンブリオ』それがあの子に悪さをしてる……」


「それはなんだ?」


「わか、らねェ……、そこまでは聞かされて、ねェ……」


「随分信用がないんだな」


「ヘッ……、でも、アスの判断は正解だったみたいだぜ……?」


「あ?」


「もしも、知っていたら、オレはここでオマエにゲロっちまってたからな……」


「そうか。じゃあお前はもう用済みだ」


「クソ……、消えたく、ねェなァ……。なぁ? オレは――」


「――駄目だ。死ね」



 聖剣エアリスフィールの切っ先を黒い丸い頭部に突き立てたところで、記録を切る――




「チッ」



 もう一度舌を打つ。



(もう少し、情報を引き摺り出すべきだったか……?)



 そう考えてすぐに頭を振る。


 知ったところで、自分にどうにか出来るようなモノではないだろうと判断した。



「いや、知らないな」


「え?」



 適当に答えて、水無瀬の方へ顔を向ける。


 彼女は心配そうにこちらを見ていた。



「…………」



 その視線から眼を逸らして、彼女の胸元のペンダントを視て、眼を細めた。



「……なぁ、水無瀬」


「弥堂くん、お目め大丈夫なの?」


「そんなことはどうでもいい。それよりもお前……」


「なぁに?」



 言葉を切って彼女を見つめる。


 水無瀬も真っ直ぐに見返してきた。




「…………いや、なんでもない」


「え? うん……、あのね? 弥堂くん――」


「――うるさい。仕事の邪魔だ。しりとりでもしてろ」


「えぇっ⁉」



 自分から話しかけてきたくせに、冷たく突き放されて愛苗ちゃんはびっくり仰天する。


 しかし素直なよいこである彼女は言われたとおりに、しりとりを再開する。


 チラチラと心配そうに弥堂へ目を向けながら。



 弥堂はその視線を無視してノートPCのディスプレイを睨む。


 最後のメールの返信はもう既に届いている。


 仕事は終わっている。



『お前もう魔法少女をやめろ』



 そう言いかけて、止めた。



 言っても意味がないと思ったからだ。



 彼女にはもう魔法少女しかない。



『水無瀬 愛苗』という意味を失ってしまった彼女にはもうそれしかやることがなく、それしか縋れるものがないのだ。


 もう魔法少女しか為れるものがない。



 今朝に観た夢の中の自分。



 元々の『弥堂 優輝』という意味を失い、右も左もわからない世界へ放り出され、そしてただ目的を達成するだけの装置と為った。



 セラスフィリア=グレッドガルドから与えられた目的を叶える為だけの存在。


 それだけが自分という意味だった。



 当時の自分に『そんなことはやめてしまえ』と言ったところで、果たして聞き入れただろうか。



 そんなわけがない。



 他にすることがなく、縋れるものがない。



 それすらも取り上げられてしまえば、本当に何者でもなくなってしまう。



 だから、『魔法少女をやめろ』などと、そんなことを言う資格は自分にはないと思った。



 例えその先に未来がなくとも。



 自分が消えてしまうことになろうとも。



 せめて意味のある自分のままで消えていけるなら、それが本望だと。



 あの時の自分はそう考えていた。



 きっと彼女も――



「――あ、ちょっと待ったッス」



 メロがあげた声に思考が中断される。


 視線を向けると彼女は何やらそわそわとしていた。



「どうしたの? メロちゃん」


「ヘヘ、ジブンちょっとお花を掘ってくるッス」


「この部屋に花などないぞ」


「バッカモーンッス! ションベンの暗喩じゃろがい!」


「花を摘むじゃないのか?」


「そこはほら、ジブンネコさんッスから……」


「お外に行ってくるの?」



 ベランダの方へ向かうメロへ水無瀬が尋ねる。


 メロは掃き出し窓を開けながら振り返った。



「うむッス。ついでにジブンこのへんパトロールしてくるッス」


「え?」


「普段来ない場所ッスからね。ネコ妖精のジブンが来てるって教えとかないとこの辺の野良ネコどもがビビッてションベンチビっちゃうッスから」


「ションベン漏れそうなのはお前だろ」


「女性にションベンの話はすんじゃねーッス!」


「あ、いってらっしゃーい」



 そう言って飛び出していったネコさんを見送り、水無瀬はベランダの窓を閉めた。



「えっと、弥堂くんしりとりする……?」



 そう聞いてくる彼女へ答える前に、弥堂はスマホを操作してメールを送信する。



「少しだけなら付き合ってやる」



 適当に水無瀬に答えてから、スマホをテーブルに置いてノートPCを閉じる。



 嬉しそうに戻ってきた水無瀬が椅子に座ったタイミングで、弥堂のスマホが着信を報せる。



 メールの着信だ。



 弥堂はその内容を確認しない。



 誰からのどんな返事かは見るまでもないからだ。



「リンゴー」

「ゴキブリ」


「リ、リスー」

「スリ」


「リ、リ、理科っ」

「狩り」


「リ、リ、リ、陸っ」

「首切り」


「リ、リ、リ、リ…………」



 そして全てを『リ』で返す意地悪を開始した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る