序-14 『悲運に捧ぐアーシャーム』

『絶対に許さない』


 目の前の生徒は、白井というその女子は希咲 七海きさき ななみにそう言った。



 希咲はその言葉に困惑と、そして少なくないショックを受けていた。



 揉め事などには不本意なことに場馴れしてはいるので、ガラの悪い者、気性の荒い者から罵詈雑言や卑猥な言葉を投げかけられることにはある種の耐性のようなものは出来ていた。

 しかし、今目の前に居るような所謂普通の生徒。それもこの白井という子のように大人しそうで真面目そうな女の子からそのような攻撃的な言葉をぶつけられたことは、記憶にある限り今まで一度足りとてない。希咲にとっても初めての出来事であった。


 そしてまた、このような子に『許さない』などと。そこまで強い言葉を言わせてしまうような恨みを、そんな傷をつけてしまうようなことをした覚えもまったく持ち合わせておらず、相まってショックを受けてしまった。


 先程までのように、厭味ったらしい法廷院を相手にしていた時のように、売り言葉に買い言葉で強い言葉を投げ返すわけにはいかない。もしも自分が意図せぬところで、目の前のこの女の子を傷つけてしまっていたのならば、ちゃんと話を聞いてあげて謝らなければならない。


 七海ちゃんは基本的にやさしくていいこだった。



 慎重に言葉を選びながらヒアリングをする。


「えっと、あの……白井さん、だっけ? 初めまして――よね? あたしたち。その……あたし、あなたに何かしちゃったかな……?」


「ふん、お高くとまりやがって白ギャル風情が。私のことなんて視界の端にも留まったことがないって言いたいの? 見下してくれるじゃない」


「あ、あれ?」


 白井さんは見かけによらず随分と攻撃性の高い女子だった。


「さっきも自然と私を数から省いてくれちゃって、なに? 男しか見えないわけ? さすが年中発情してるメス猿は違うわね。オスと見れば見境なく媚売りやがってこのヤリ〇ンが」


「そっそそそそそそそぉんなつもりじゃなかったんだけどぉ~っ、ふっふ不快にさせちゃったみたいでぇ~っ、ごっごめんなさいねぇ~っ……あとぉっ、ちょぉ~~っとあたしのことぉ誤解してると思うなぁ~っっ」


 とんでもなく不名誉な暴言を投げかけられたが、もしかしたら本来大人しくてとてもいい子な白井さんに、こんな汚い言葉を吐かせる程の、それ程までに怒り狂ってしまう程の何かを自分がしてしまったのかもしれない――そんな可能性がまだわずかに微粒子レベルで存在しているかもしれないことを考慮して、希咲は激しく口の端をピクピクさせながらもどうにか自制することに成功した。


 七海ちゃんは基本的にがまん強くて思慮深いいいこだった。


「そうだぜぇ。無視したつもりなんてなくても気が付かれなかったってのは、とぉっても傷つくんだぁ。それって『ひどいこと』だと思わないかい? だってそうだろぉ? 地味でブスなのが悪いだなんてそんなの――「代表」――え?」



 すかさず便乗して煽りにきた法廷院だったがその言葉は最後まで言うことは出来なかった。彼が援護をしようとした仲間である白井さんその人に言葉を切られたのである。


 白井はじっと法廷院を見る。まばたきもせずじっと。


「私、ブスではありません。ほんのちょっと地味めなだけです」

「あ、はい」

「認めましたね? 謝ってください」

「す、すみません……」


 目がマジだった。


「あと、うるさいから黙っててもらえますか? 代表、話長いんですよ。長いわりに中身なくて全然進まないし」

「あ、はい」

「認めましたね? 謝ってください」

「ご、ごめんなさい……」


 法廷院はしょんぼりして黙った。背後の高杉が労わるように彼の肩に手を乗せると、法廷院はそっと高杉の手に自分の手を重ねた。



(きも)


 男二人の仲睦まじい光景を見た希咲はそう思ったが、白井さんの言う通り彼の話は長いので、迂闊にそんなことを口にしてはまたどんな難癖を鬼の首をとったかのように嬉々として喚かれるかわからない。努めて飲み込んだ。



 瞬殺で法廷院をヘコませた白井は振り返ると再び希咲へと言葉を向ける。


「ふん、誤解なんてしていないわ。見たまんまでしょ? 男の目を惹きたいからそんなに派手に着飾って目立つんでしょうが」


「別にそんなつもりもないし、あたしそんなに飾ってもいないけど」


「へぇ、そんなにがっつり目作っておいてよく言うわね。どんだけ盛ってるのよ」


「や、あたしアイライナーしか入れてないけど」


「はぁ? よくもそんなわかりやすい嘘を」


「ほんとだってば。ほら」


 言いながら希咲は白井に近づき、少し屈むと指で瞼を抑えて彼女に見やすく顔を向ける。


「わ、ほんとだ。うそでしょ。これまつげも全部自前? はぁ~生え方きれー」

「うん。アイラインだけ引いてあとはグロス使うくらい」

「やだ。二重並行型じゃんしかもすごいキレイだし。いいなぁ私めっちゃ一重だし」

「え、でもでも、一重の方が色んなパターンのメイクできるし、あたしちょっと羨ましいなぁ。白井さん瞼腫れぼったいわけじゃないから、少しライン入れるだけで全然目大きくできるよ」

「え? ほんとに? 」

「ほんとほんと。下手にあいぷちとかまつエクするより全然自然にキレイに出来るわよ。あれ失敗するとすっごいのっけてる感するからあたしあんま好きじゃないし」

「えー、うそだー」

「マジよマジ。白井さんの目なら目尻の方に少し長めにライン引いてそのあとで指とか出来れば綿棒使ってぼかすの。シャドウなしで自然に目大きく見えるから」

「マジぃ? 帰ったらちょっと練習してみようかしら」

「やってみなよー。絶対かわいくなるって。使う色だけ自然になるように気を付ければわりと簡単よ」

「ほんと? ありがとー。ねぇねぇ、希咲のこれってカラコン?」

「ん、そうよー。色は派手じゃないから気が付かれにくいけどね、瞳のね輪郭強調出来るやつで。これだけでけっこう目力アップよ」

「へぇ。そうなんだー。私もやってみようかなぁ。先生とか大丈夫?」

「だいじょぶだいじょぶ、おじさん先生とか絶対わかりゃしないから」

「はぁ。でも色々選ぶのも大変そうね」

「あ、なんだったらあたしお買い物着いてってあげるわよ? アイライナー選ぶのとかも手伝ったげる」

「え? うそいいのー?」

「全然いいわよそれくらい。んー、でもあたしバイトしてるから予定合えばいいんだけど……あ、ねぇedgeやってるよね? ID交換しよー」

「やってるー、するするー」

「ちっと待ってねぇ今スマホだす――「ね、ねぇキミたち?」――あん?」



 突如始まった怒涛の女子トークに恐る恐るといった感じで法廷院が口を挟んだ。女子二人に「何よ? 邪魔しないでよ」的な視線を向けられ彼は怯んだ。


「あ、あのさ。邪魔して申し訳ない。だけどどうしてもね、ちょっと、その……」


「なんですか代表。言いたいことがあるなら必要なことだけさっさと言ってください。そして黙ってください」

「そういう空気読めないとこがダメって言ってんのよ、こりゃモテないわ」


「んんっきっつ。じゃ、じゃああのね手短に。……いや、キミらね。これから勝負だ! って感じの空気だったじゃん? え? これボクが空気読み違えてるわけじゃないよね? んでさ、こうして争いになった事情とか一切明かすこともなくすごい速さで仲良くなってるけどさ、ちょおぉっと超次元すぎやしないかなぁってさ……そ、そうだよねぇ?」


 少し前までの姿が嘘だったかのように自信なさげに同意を求める法廷院の言葉に、白井さんはハッとなるとドンっと希咲を突き飛ばし慌ててバッと距離をとった。


「お、おのれ、狡猾なメス猫め……あやうく騙されるとこだったわ」


「えぇぇ……」


 突き飛ばされた希咲は危なげなくバランスを取り戻すと、ちょっと残念そうにスマホをカーディガンのポッケに仕舞い、スマホに付けたキャラクターストラップだけ見えるように外に出した。なかよしのネコさんとタヌキさんがぷらんぷらん揺れる。



「そうやって人に取入って今の地位を築いたのね。なんて恐ろしい女なの……」

「えー、お買い物いこーよー」


 あざとく指を咥えながらちょっとだけうるうるさせた目を向けてくる希咲に、白井さんは「くっ……かわいいっ」と一瞬慄くが、すぐに頭を振りキッと眦を上げる。



「それはありえないわね。私はね、希咲 七海。あなたのせいで地獄を見たのよ……いえ、今も地獄にいるのっ!」


 今の仕草を自分じゃなくて愛苗がやったら多分墜とせたなーなどと思いつつ、希咲もスッと表情を切り替え白井に向き直った。


「ごめんなさい、よくわからないわ。あたしが白井さんに何かしちゃったってんならちゃんと謝るから、だから聞かせてくれる?」


「いいご身分ね。そうやってあなたが、あなた達ギャルが好き勝手に振舞ってるせいで、その陰で、どれだけ私たちのようにほんのちょっと地味めなだけで、真面目に学生してる罪もない清楚で可憐な女子生徒たちが迷惑をしていると思うの⁉ 私たちがどれだけ涙を飲んだか想像すらしたことないでしょう!」


「……ごめんなさい、それ、どういうこと? 本当にわからないの……だから許される、だなんて思ってないわ。お願い。訊かせて……」


 やたらと白井さんの自己採点が高そうな部分が気にはなったが、頑張ってそこには目を瞑り希咲は神妙に問う。どんなことがあったのか皆目見当がつかなかったが、切実な表情で訴えられる悲痛な白井の叫びに胸が不安で騒めく。


 希咲自身には他の一般生徒の迷惑になるような行為をした覚えは全くない。しかし、これだけ顔色を変えて訴えかけてきているのだ。自らの与り知らぬところでもしも彼女を傷つけてしまったのならば――それを知るのは怖い。嫌な予感に胸が締め付けられる。しかし、訊かないわけにはいかない。知らなかったから、悪気がなかったから、なんてことは言い訳にはならない――免罪符にはならないのだ。


 希咲 七海きさき ななみは覚悟を決め居住まいを正し白井へと真摯に目を向ける。白井は「いいわ、聞かせてあげる」と前置くと一度言葉を切り、胸に手を当て湧き上がる感情を外へと吐き出すように息を一つ吐くと静かに切り出した。



「――ねぇ、希咲さん。女子生徒の下着に関する校則――知ってるかしら?」


「下着の校則? そんなの決まってなかった気がするけど……ごめんなさい、詳細は把握してないわ」


「ふん。呑気なものね。まぁいいわ――代表、彼女に教えてあげてください」


「えっ? それボクが言うの?」


 自分に振られるとは思っていなかったのだろう、突如センシティブな話題に関して言及するよう要請され、完全に油断していた法廷院はギョッとした。


 白井はじっと法廷院を見た。まばたきもせずじっと。


「――わ、わかったよぉ……えぇと、そうだね。校則にはこうある。『女子生徒の下着の色は白』ってね。やれやれまったくだよぉ。今時の世界基準から考えたら時代錯誤もはなは――「あ、もう結構です。黙ってください」――あ、はい」


 法廷院は指示通りに口を閉ざすとしょんぼりとした。慰めるように高杉の手が彼の肩にそっと添えられ、法廷院はその高杉の手に頬を寄せた。


「補足すると正確には、『女子生徒の下着は白色が望ましく、またその形状・模様なども現代日本社会的な通念に基づき高校生としてふさわしいと思えるもの』と記載されているわ」


「そ、そうなんだ……でもそれが何か――」


 希咲はお互いの体温で痛みを和らげ合う男たちは極力見えないフリをしつつ、その真意を問う。


「――そうね、これだけなら別に何も問題ないわ。代表は何か難癖つけようとしてたけど、この文章を要約すると『別にやりすぎなければ何でもいいよ』ってことだもの。比較的校則のゆるいこの学園らしい校則だわ」

「じゃあ、それが――」

「――教頭よ」

「え?」

「三田村教頭先生。あの無駄にプライドの高い行き遅れのクソババアよ。あなたも自分が通う学校の教頭くらい知ってるでしょう?」

「えっ⁉ あーー……うーん、お名前とお顔はもちろん知ってるけど、その……それ以外の部分についてはどうかなぁ~……ちょっとわからないかなぁ~……」


 希咲さんは明言をすることを避けた。


「ふん、賢しいことね、まぁいいわ」

「えっと、ごめん。また話が見えなくなってきたんだけど、その、下着の校則と教頭とあたしが一体……」


 希咲が慎重に詳細な説明を求めると、白井さんはスッと表情を落とし遠い目をして虚空を見上げ語りだした。


「そうね――あれは半年ほど前の秋の頃だったわ……」

「あ、はい」


 ふと周りを見ると手持無沙汰になった男子たちはそれぞれスマホを弄りだしていた。希咲はわずかながら現状に不満を感じたが、白井さんの気に障らぬようさりげなく室内シューズのつま先で床をグリグリすることで気を紛らわせた。


「――去年の秋のある日。朝起きた時にね、珍しくとても気分がよかったの。私寝起きが悪くてね、朝はいつも最低な気分なことが多いんだけれど、何故かその日はさわやかに一日を迎えられたの。だからね……ちょっといつもと違うことがしたかったのかしら、私は黒のTバックを穿いて家を出たの。ローライズのね」


「は? あ、いや……続きをどうぞ……」


 思わず声を出してしまった希咲だったが白井さんがじっとこちらを見てきたので、彼女に謝意を示し続きを促した。


「――何で黒のローライズTバックを? って聞かれても答えられないわ。そういう気分だったとしか説明できないわね。それは許してちょうだい。もともとはね、私服でパンツ穿く時に透けたり下着のラインが出たりしないようにする為に購入した商品でね、学校に穿いて行こうだなんて思ってもいなかったし、穿いて来たこともなかったわ。ただの実用品よ。だからね、魔が差したってわけでもなく、起きたらたまたま気分がよかったから何となく思い付きで穿いてみた。それだけのことなの……でもそれは大きな過ちでそして、悲劇の始まりだっ――ちょっと? 聞いているの?」


「は、はいっ。ごめんなさいっ」


 そーっと自分もカーディガンのポッケからスマホを取り出そうとしていた希咲であったが、目敏くそれを見咎められ注意をされた。希咲は泣く泣く両手を身体の前で組んで清聴する姿勢を白井さんへとアピールした。


「それでね、登校中に風でスカートが捲れてしまってとかそういう話じゃないの。そんなとるに足らない出来事ではないわ……学校には無事に何事もなく着いたの。私はね、いつも決まった時間に登校をしていてね。特別な用事などがない限りは必ず毎日同じ時間に。別に潔癖なほど規則正しい生活をしなければ気が済まないとか、そういう性格ではないわ。目に余るほどのだらしなさは嫌いだけれどね」


「そーですか」


「登校時間だけ。これだけは必ず同じ時間に到着するように決めて実行しているの。何故だと思う?」


「いや、ちょっとわかんないっすね」


「ふふふ、そうよね。これだけじゃわからないわよね」


「そっすね」


 希咲さんの集中力はとっくにゼロになっていた。ふと見ると、希咲を取り囲んで散っていた男子たちも法廷院の周りに集まり、男子4人で何やら仲良くスマホゲーをしているようだった。彼らの集中力もとっくにゼロだった。


 希咲はこのままダッシュで逃げればこの一連の出来事を全部なかったことに出来ないかなと、そんな考えが一瞬頭に過る。

 だが、法廷院が先程示唆していた水無瀬について――彼らが彼女に対してどういうスタンスなのかを確かめるまでは、自分も彼らを逃がすわけにはいかないという事情を思い出し、世の無常と己の境遇を嘆いた。


「――どうしてもね、毎日その時間じゃないといけないのはね、そう……あのね、私ね――好きな人がいるの」

「はぁ……」

「その人がね、毎日登校してくる時間があって。まぁ、毎日ぴったり同じ時間ってわけじゃないわ。日によって多少前後するの。だからね、私はその人に逢いたくて、彼より少しだけ早めに毎日同じ時間に登校して、室内シューズに履き替えて、昇降口の隅っこで彼が登校してくるのを待つの」

「ほうほう、それでそれで?」


 恋バナ展開を見せてきた白井さんの話に希咲さんの興味が急速に回復してきた。彼女もまたJKのプロフェッショナルなのであった。自分の恋バナは苦手でも他人のそれは大好物なのである。


「でもね、それで彼と一緒に教室までとかそんな展開にはならないの。ごめんなさいね。あのね、彼はとても人気のある人でね、いつも場の中心にいるような人で。明るくて、優しくて、格好よくて。あと、ちょっとだけかわいくて……もちろん朝の登校の時も彼の周りには仲間がいっぱいで、その中にはかわいい女の子もいるし私なんかじゃとてもその輪には入れないわ。私はそんな彼をずっと、もう一年以上遠くから見ているの。片想いなの 」

「えーー白井さんかわいそうっ。でもでもちょっとそれ胸きゅん。話しかけたりしてみないのぉ?」

「ふふっ……話どころか挨拶もしたことないわ。多分彼は私のことなんて存在すら知りもしないと思う……なかなか勇気がでなくて話しかけられないってのも勿論あるんだけど、それだけじゃなくてね。言い訳に聞こえちゃうかもだけど、私ね。人の中心にいる彼の笑顔が大好きなの。だからね、こんな私みたいな女が声をかけて、彼の周囲の空気を壊したくないなって」

「きゃーーーなにそれぇ、白井さんちょーおとめー、かわいいーー」


 男子生徒たちはその頃死んだ目で各々のソシャゲのデイリーミッションを消化していた。男とは自分以外の男がちやほやされる話になど一切の興味がない生き物なのだ。


「でもね、私もね、一個だけ勇気をだして頑張ってることがあってね」

「うんうん、なになに?」

「あのね、登校してきた彼とその仲間がねシューズを履き替えて教室に向って歩き出したらね、私はそっとその後を追うの」

「うんうん、それでそれで?」

「もちろん声をかけたりはしないわ。私ね、急いで教室に向ってるフリして、少しだけ小走りでね彼らを追い抜くの」

「おぉ、でっ? でっ?」

「それでね彼の前に出て、行先が分かれるまで彼の前を歩くの。その時は――その時だけは、後ろ姿だけだけれど、彼が私を見てくれるのっ」

「きゃああああああっ、いいっ! それいいっ‼」

「でしょでしょ⁉ ほんのわずかな時間だけど私もう毎日ドキドキしちゃってぇ!」

「きゅんきゅんするぅー」


 多分敵同士である希咲さんと白井さんは手を合わせてキャッキャッと姦しく燥いだ。しかし今回はすぐに自力でハッとした白井さんに手をパシッと払われキッと睨まれる。希咲はまた指を咥えて目をうるうるさせるあざとい仕草をしてみた。

 白井さんはクッと呻くようにして視線を逸らすが頑なな姿勢は崩さなかった。


「慣れ合わないでちょうだい! 私とあなたは敵同士よ! それに言ったでしょう……これは悲劇なのよ」

「ちぇー、なかよくしよーよー」


 この子とは友達になれる。希咲はそんな手応えを感じていた。



「ふん、まぁいいわ。ここからが本題よ。偶然その日、たまたまその日、よりにもよってその日にね! ――ねぇ、希咲。この学園の室内シューズ、なんで靴紐がついてるのかしらね……?」

「えっ……っと……なんでだろう……?」


 声のトーンを落とし問いかけられた質問に、希咲は自身の足元に目を遣り自分が履いている室内シューズのその靴紐を見た。当然ながらそこに答えが書いてあるわけもない。


「ふふっ、別にね理由なんてなんでもいいの……それ自体に別に意味はないわ。でも、ね。時々思うの……もしも学園指定の上履きが、靴紐のないタイプのものだったならって……」

「えぇーっと……えっ! ……それって、まさか……あ、ううん、なんでもな――」


 希咲は白井の話すその先が見えてきたような気がする。だが、それに気付かないフリをした、しようとした。


「――私はその日、いつもよりちょっとだけ気分がよくて、だからかな? ちょっとだけ浮かれていたのかもしれない……いいえ、認めるわ。私は浮かれていた。だからね……気が付かなかったの……想像もしていなかったの……まさか、自分のシューズの紐がほどけているなんて……っ」

「あっ……あっ……そんな……そんなのって……」


 残酷な結末が、想像をしたとおりの結末が近づいてくる。気付かないフリをしたい、見えないフリをしたい。しかしそれは、その残酷な出来事の当事者たる――被害者たる白井が許さない。


「ふふっ、私ね。運動神経があまり良くなくてね。壊滅的ってわけじゃないんだけど、でも運動は得意ではなくて。でもね、何もないところで転んだりとか、そんなことは今までなかったの。ホントよ?……その時まではね――」

「あぁ……いやっ……いやぁっ…………」


 両手で左右の耳を塞ぎ首を振って続きを聞くことを拒絶する希咲に白井は近づき、彼女の両腕を抑え耳を開けさせると下から覗き込むように顔を寄せる。顏の横に垂れる髪が口の中に入っても構わず、希咲の耳元で「ダメよ……聞きなさい」と囁く。狂気を孕んだ彼女の瞳が妖しくゆらめく。


「やっぱり浮かれていたの。運動の得意でない私がね、多分いつもよりも少しだけ速いペースで走って彼を追って、そして追い抜いたの。フフフフフ……もうわかってるでしょうけど、でもダメよ。許さないわ。最期まで聞いてもらうわよ」

「やだっ……やだぁっ……もうやめてぇ……」


 涙を流し許しを懇願する希咲を白井は決して許さない。最期まで追い詰めていく。


「彼の前に、大好きな彼の前に躍り出た瞬間だったわ。タイミングなんてもっと前でもよかったじゃないっ、もうちょっと後でも、彼と別れた後でもよかったじゃないっ。そもそも、たまたま、普段穿かない下着を穿いたその日じゃなくてもよかったじゃないっ! でも、その日だったの。その時だったの。偶然、たまたま、彼の目の前に出た、そのタイミングだったの! ……私は靴紐を踏んだわ。思い切りね。もちろん転んだわよ……彼のっ、目の前でっっ‼ 恰好悪いでしょう? 笑ってちょうだい……アハハハハハハ……」

「そんな……そんなのって……そんなのってないわ……」


 白井は希咲の手を離すと壊れた笑みを浮かべよろよろと後退った。その頬には涙が流れている。


「転んだ私はどうなっていたと思う? 運動神経の鈍い私がどんな姿で……彼の目の前で……っ」

「もういい……もういいのよ白井さん……もうやめてぇ」


 白井にはもう希咲の声は聞こえてはいないのだろう。壊れた笑みで光のない目でどこも見てはいない。しかし、その口は、その口から出る言葉は止まらない。


「私ね、無様にね、顏を床に擦り付けて、彼の方へとお尻を突き出して這いつくばっていたわ。彼の――ずっと大好きだった彼の前にっ! 黒のローライズTバックを穿いたお尻を突き出してっ! まるで……まるで――浅ましくおねだりでもするみたいにねっ‼」

「し、しらいさあぁぁんっ」


 そこまでを言い切るともう限界だったのだろう、白井さんは両手で顔を覆うとワッと泣き出した。痛ましすぎて耐え切れなくなった希咲は、「おわりよ……私はもうおわりよ……」と譫言のように呟く白井さんに抱きつきワッと泣いた。二人しばらく抱き合いながら、わーっと泣いた。



 彼女らのやりとりに我関せずでソシャゲのスタミナ消化のノルマを熟していた男子たちだが、高杉君以外の3名は「お尻を突き出して――」の部分で若干そわそわしていた。自分以外の男が持て囃される話には一切興味がないが、下ネタ部分だけは聞き逃さず反応をするのが男という生き物であった。


「じら゙い゙ざん゙~、づら゙がっ゙だね゙ぇ゙~、がな゙じがっ゙だね゙ぇ゙~」


 スンスンと鼻を慣らし希咲が言った。


「わ゙だじの゙だめ゙に゙な゙い゙でぐれ゙る゙の゙ぉ゙? あ゙り゙がどね゙ぇ゙~、あ゙り゙がどね゙ぇ゙~」


 スンスンと鼻を鳴らし白井さんも言った。


「――でもね」


 白井は突如泣き止むとスッと表情を落とし立ち上がって、床に尻をつけて座りながら号泣する希咲を見下ろす。


「でもね、これでまだ話は終わりじゃないのよ――」

「え――」


 希咲の目から光が消え、その表情は絶望に染まる。尻もちをついたまま床を擦り白井から逃げるように後退る。


「――いや……むりっ……もうむりぃ……」


「ふふふ……ダメよ、許さないわ――ねぇ希咲。黒のTバックって男と女で認識が違うと思わない?」

「え?」


 突如投げかけられた質問に希咲は答えられない。思考が着いていかない。


「私たちからしてみたらさ、とっても実用的じゃない 黒のTバックって」

「え? う、うん……そうね。さっき白井さんも言ってたけど、透けないようにとか下着のラインがわからないようにとか対策に使うし、ローライズのパンツ着るなら下着もローライズじゃないと見えちゃうし……あ、あと、その……黒だと汚れも目立ちづらいし……」

「まぁ、そうよね。でも男どもってなんかやたらとありがたがってるじゃない? まるで男を誘う用の特別えっちな下着って感じで……この童貞どもがっ」


 希咲と話しながらキッと鋭い視線を童貞どもに向ける。


 しかし高杉君を除く男性陣3名はそれどころではなかった。

 希咲 七海きさき ななみの口から『女の子の下着は汚れるもの』、という世界的な新事実が公表され若干前かがみにならざるを得なかったからである。ピッチ上ではリアルタイムで緻密なポジション修正が必要とされていた。


 心の余裕を失くした七海ちゃんは言わんでもいいことまで答えてしまっていたのだ。



「こっちは必要に駆られてるんだからもっと気軽に使いたいってのにバカな男どものせいで、世の女性全員が迷惑して損をしてるのよ。そうでしょ?」

「え? あーーうーーん……まぁ、わかるような気もするけどぉ……」

「そうでしょ? 別に黒のローライズTバックなんて誰でも持ってるのに。希咲だって1枚くらい持ってるでしょ?」

「う、うん。まぁ。便利だし。あと黒はやっぱ締まって見えるから、下着に限らず普通に着たいよねぇ」

「ほら。聞いた? クソ童貞ども。黒のTバックはあんた達が信仰してるようなものじゃないのよ」


 女性の立場からの切実な事情を投げかけられたが、高杉君を除く3名のクソ童貞たちはそれどころではなかった。

 わりと女子のレベルが高いと市内外でも評判であるこの私立美景台学園の中でも、トップクラスにかわいいと評判の希咲 七海の口から『黒のローライズTバックを所有している』という歴史的な新事実が世界的に発表が成され、クソ童貞たちは興奮を禁じえなかったからである。



「まぁ、でも。性別が違うし、多少お互いの事情に疎くなるのは仕方のない部分もあるわ。私も男子の下着とかさっぱりわからないしね。希咲は詳しいでしょうけれど」

「あ、あたしだって別にそんなの詳しくないしっ」

「でもね、恐ろしいことに。同じ女性でもそこのクソ童貞どもと同じ認識の奴がいるのよ」

「え? そんなひといるの?」

「えぇ、悲しいことにね……さて、話の続きだったわね」

「う、うん」


 白井さんはさっきまで号泣していた希咲が泣き止んで少し落ち着いてきた様子を確認し、話を進める。彼女は自分でも気づかないうちに若干七海ちゃんに絆されてきていた。


「私が無様にケツを曝け出した時にね、もちろんだけどその場に居たのは彼だけじゃないわ。彼の友人の男子も女子も、関係ない人たちだっていたわ……くそがっ!」

「ケ、ケツって……」

「その中にね、居たのよ。そのクソ童貞と同じ価値観を持ったクソババアが」

「え、それってまさか――」

「そうよ。教頭よ。あのクッソババアのせいで私はさらなるクッソ地獄に叩き落されたのよ!」


 希咲は『ここまでで全然あたし関係ないじゃん』と思ったが、白井さんに同情していたので大袈裟に「ナ、ナンダッテー」と驚いて見せた。


「あんの行き遅れがよぉぉっ! タイミング悪く居合わせやがってばっちり私のパンツ見やがったのよ! 希咲も知ってるでしょ? あいつがどういう奴か!」

「あー、まぁ、ね。ちょぉーっと口うるさいわよね」


 希咲さんは若干言葉を濁した。



 この私立美景台学園の教頭である三田村先生は昨今の社会における女性の立場や男女平等などの、そういった問題に非常に熱心な方で、45歳という教職という業界においては比較的若い年齢で教頭という役職に抜擢され、生徒指導に関しての責任者は別に居るのだが何かにつけて口を出し、学園に通う生徒や同じ教師たちに対して非常に熱心な指導という名のご活動をされていらっしゃるご立派な方である。

 自立した女性として教育に身を捧げるためにと生涯独身を公言し、ステータス値にちょっとデフォで全男性へのヘイトがカンストしてらっしゃる不具合が発生している疑いがあるところが玉に瑕な、多様な意味で声の大きな女性であった。



「あんの売れ残りがよおお、よりによって彼の目の前で! 公衆の面前で! 私に『その下着はなんなんだ? そんな男性に媚びるような下着を身に付けて神聖な学び舎に来るとは不謹慎だ。あなたのような男に媚びる女がいるせいで世の女性の立場は一向に上がらず、いつまでも男性に搾取され続けるんだ。あなたは女性の社会的立場の向上を阻害するつもりか』とかなんとかよお、わっけわかんねえことぬかしやがって!」

「あーー、言いそう。絵が浮かぶわ」

「しかもさ、怒られてる私を見かねてさ、これもよりによって私の好きな彼がね? 止めに入ってくれたのよ! その優しさが死ぬほどつらかったわ! でも好きぃぃぃっ」

「うわぁ……」

「そしたらさ、あのババア、彼に絡み始めやがってさ! 『やっぱり男に媚びてくる女を優遇するの? あなたのような女性を蔑視する男性がいるせいでどれだけの女性が機会を与えられずに泣いていると思うの? あなたはこれからの社会での男女平等をどう考えてるの?』とかってさ、私と彼を並べて説教始めるのよ!  彼、小声で私に『ごめんね』って言ってくれたわ。私が悪いのに! 私もごめんなさいとしか言えなかったわ……ねぇ、信じられる? これが1年片想いした挙句の彼との初会話なのよ⁉ 彼のあの時の気まずそうな顔! 今でも夢に出るわ! あの時もうその場で舌噛んで死のうかと思ったわよ! ちくしょおおお!」

「き、きっつぅぅ」

「これが私よ! 白井 雅という女よ! 好きな男の前で年上の女から『お前はいかにいやらしい下着を着用しているのか』ってくどくど30分もかけて丁寧に説明された憐れな女よ!」

「は、はい……なんか、あの、申し訳ございません……」


 天井なしに吹き上がっていく白井さんの怒りの様相に希咲はもう罪過もないのに謝るしかなかった。

 

「大体、黒のTバックごときでいやらしいとかいつの価値観よ! あの脳みそアプデされてねえババアが社会問題とか笑わせるわ! テッメェらがわっけわかんねえお立ち台の上でセンス悪ぃ扇子振り回してケツ見せびらかしてた時代とはもう違ぇんだよ! あんなんただの実用品だわボケがっ!」

「んんっ、白井さん? ちょぉ~っとお口が悪いかなぁって」

「テメェが結婚絶望的だからってよぉコンプレックス拗らせやがってこっちの足まで引っ張ってくんじゃねえっつーのよ! 若い時に調子こいてテメェの価値高く見積もって売り渋ったから売れ残っただけの不良在庫がよおお! テメェが一番の女の敵なんだよ、あんのどブスがあああああ!」

「ちょ、ちょっと……」


「くそが! くそが! くそが!」と喚きながら白井さんは手近にあった法廷院が座る車椅子に蹴りを入れる。申告どおり運動能力に乏しいのか大して威力はないものの、男性陣は身を寄せ合って震え上がり「ごめんなさい、ごめんなさい」と罪過もないのに謝罪をすることしかできなかった。


 希咲が慌てて羽交い絞めにして車椅子から彼女を引き離すと、ようやく落ち着いたのか「ぜーぜー」と肩で息をしながら大人しくなる。男子生徒たちは涙目で口々に「ありがとね、ありがとね」と希咲に礼を言った。



 まだ何も全容は見えてこない。


 ただただ疲労感だけが希咲を苛んだ。



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