序-13 『弱さと書かれた免罪符』

「――ナイーヴ……ナーシング……?」


 その男が名乗った名を反芻する。


「そう。そう読んでくれて構わないよ。ただ字は『弱者の剣』と書いてくれたまえ。ココのナカでね」


 そう答えてその車椅子の男は自らのコメカミを人差し指でトントントンと3回叩いて見せた。



 希咲 七海きさき ななみは放課後の現在、学園敷地内東側にある音楽系の部活動や演劇部などが活動をする講堂にて、この車椅子の男を含めた何人かの生徒達に囲まれていた。



 今より数十分ほど前、昇降口棟にてうっかり窓を開け放ってしまい、廊下中を桜の花びらまみれにしてしまった後、希咲は急いで廊下を掃除してゴミを処分し道具を片付け、自身と親交のある上級生たちと部活動開始前に会うべく急いでこの文化講堂に来ていた。



 来週より10日間、G・W開始前であるにも関わらず学校を休み、諸事情により自身の幼馴染たちと旅行へ行くので、その旨を先輩方にご挨拶申し上げていたのだ。


 本来そんな挨拶などする筋もないのだが、その旅行に行くメンバーの中心人物の紅月 聖人あかつき まさとが学年問わず学内問わず大人気のイケメン幼馴染様で、自分以外にも同行する女子は何人かいるのだが、何のお伺いもたてずに呑気に遊びまわっていようものならば、『あいつらチョーシのってる』と、そんなイチャモンをつける口実を与えることになってしまう。


 ただでさえ希咲を含めたこの幼馴染グループである――希咲としては紅月とそんな関係になった覚えはないので大変不名誉な呼び名である――『紅月ハーレム』は、いい意味でも悪い意味でも目立つので、あまり嫉妬ややっかみから来るありがたいお言葉を頂くわけにはいかない。


 他の幼馴染たちは喧嘩上等な連中ばかりなので、希咲としてはこの『紅月ハーレム』の広報担当兼営業担当(不本意)として学園内外の知り合いたちとの調整を行い、不用意に揉め事に発展しないよう常日頃から苦心しているのである。



 そんな訳で本日の放課後はクラスメイトの素行の悪い女子2人にご挨拶し、その後文科系部活動に所属する先輩方に会いに来る予定であったのだが、自らの過失により廊下を汚してしまい、その清掃が完了後何とか予定どおりに事を済ませる為に、この文化講堂へと急行したのだった。


 どうにか予定を熟すことが出来て、本日の学園でのタスクを完了し、これから帰宅前にシフトを入れていたバイト先へと向かおうかと、講堂を後にしようとした時である。



 現在地の学園東側にあるこの文化講堂から、学園西側体育館、中庭付近の図書館、そして南側の文化部の部室棟、この三方向に別れる連絡通路へと入った時に――


 現在時刻の、部活動を行う者がそれぞれの活動場所への移動を終え、放課後に活動のない者たちが帰宅するべく粗方学園から出払った、校内の各通路に人通りが少なくなると思われる今のこの時を狙ったかのようなタイミングで――


 学園中心地の教師や警備員の詰め所などがある大人が常駐する時計塔への直通通路がないこの場所で――



弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』――そう名乗った目の前の集団が希咲 七海の行く手を阻んだのである。



 希咲はそれとなく視線を左右に流し一団を確認する。


(――5人、か……でも――偶然?)


 メンバー構成は車椅子の男を含めて、男子生徒が4人に女子生徒が1人。左手側――今は彼ら全員を視界に納める為に壁を背中にした為向きが変わったが、元々は希咲の進行方向であった帰路に着く為に向かった昇降口棟へ繋がる部室棟への通路を阻む様に車椅子の男を含む3名。

 希咲の右手側――体育館へと続く通路に1名。

 今は希咲の正面――図書館へと繋がる通路に1名。


 合計5名により包囲されていた。


 右手に太った男子生徒が1名。正面に特徴の挙げづらい多少陰気そうだが、普通としか形容できない男子生徒が1名。左手側にはこれもまた特徴の挙げにくい、地味――と謂うべきか――そんな女子生徒が1名と車椅子を押すためだろう後ろに控えたガタイのいい男子生徒が1名と、そして――



「ふふふ。『どうしてこんなことになったんだろう』なぁーんて、そんな回想は終わったかな? まだだったら遠慮せずに言ってくれよぉ? 完全下校時間までならいくらでも待とうじゃあないか。もちろん許すとも。だってそうだろぉ? 後悔は弱さ故に付き纏うものだからね。ならば、ボクはそれを許さなければぁならない」



――そして、この男だ。


 車椅子に座った――足が悪いんだろうか――痩せぎすの男。しかしその両の目だけはやけにギラついていて、粘着いたような貼り付くような、粘着質で嫌味ったらしく、まるでわざと人を苛つかせる為にしているような大仰な喋り方をする不気味な男。


(ここを通りがかった人なら誰でもよかったのか、それともあたしを待ち伏せしてたのか……)


 先程――『無知で弱いキミにモノを教えてあげて救ってあげる。ボクは人格者だからね、そのために来たんだ』――この不気味な男はそう言った。


(まるで、あたしを狙ってたみたいな口ぶりだけど)


 しかし、当然だがこんな連中とは希咲は面識がない。


 そもそも今この時間に自分がここに居ることをどうやって知った? 自分の中では予め決めていた行動だが、しかしそれを誰にも教えてはいないのだ。それに、件のイケメン幼馴染様関連での厄介ごとではないだろう。集まっている面子を見る限りそういう用件ではなさそうだ。


 しかし、なら、それ以外でこのように何の用件かはわからないが、取り囲まれて通行を妨げられるような覚えは、そんな恨みを買った覚えは全くないとは言わないが、検討もつかない。


 それこそ――


(まぁ、告白――だなんて、そんな雰囲気でもなさそうだしね、それにしてもこの連中……)


 何か違和感を感じる。



 普通の女子高生であればこのように突然複数人に囲まれれば怯えてしまいそうなものだが、しかし希咲は冷静に状況を考察する。


 この学園に於いて突然このように囲まれたり、また希咲 七海に限っても、このような状況になることは認めたくはないが別段珍しいことでもなく、全く喜ばしくもないが彼女は場馴れしていた。


 しかし、現状はその珍しくもない出来事とは少しズレを感じる。



 それはやはりこの連中の異質さだ。この異様な彼らに違和感を、そして表現し難い “やりづらさ” を希咲は感じていた。



 前提として、この学園でよくあるこういった騒動、迷惑行為。希咲 七海の身に起きるものとしては、先に挙げた幼馴染絡み――紅月 聖人にお熱な女子に唆されて自分に嫌がらせ、もしくは実力行使に来る連中。


 次いで、『俺と付き合えよ』だとか『一発ヤらせろよ』だのと、ちょっと見た目を平均よりはほんの気持ち少しだけ派手めにしてるからと謂って、勝手にお安く見てくれやがる勘違いした無遠慮な連中。


 そういった手合いが多い。


 そして、そんな連中は総じて――見た目からしてわかりやすくガラの悪い不良連中だ。


 対して現在目の前にいる彼らは―― 


 希咲はもう一度彼らを見遣る。



 何というか、不良などには全く見えない。普通というか……それどころか――


「なんだこの弱そうな連中は?――なぁーんて今そう考えたかなぁ? フフフ」


 また思考を先回りされたようで気味が悪くなる。


「なぁに、大丈夫だよ。失礼なことを――なぁんて怒ったりはしないさ。さっきボクが自分でそう言ったからね。ご明察だよ。ボクらはぁ弱いんだ。だからボクらを許してくれよぉ。まさか弱いくせに通路の真ん中に立ちやがって生意気だぁ、なぁんてそんなことはぁ言わないよねぇ? だってそうだろぉ? そんなのは『差別』じゃあないか。とぉっても『ひどいこと』だぜぇ」


 気味が悪い。


 そう、希咲はこの一見闘争や揉め事などとは無関係そうな、一人一人で見れば普通で大人しそうな彼らが、このように集団で自分を取り囲みニヤニヤと笑っている現在の状況が気味が悪くて仕方がなかった。



 正体の知れないもの。目的のわからないもの。

 得体の知れないものに対する畏れ。


 希咲 七海きさき ななみは対峙する『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』と、そう名乗った集団からそれを感じていた。


 

 だが、知らないものは調べる。わからないものは考える。それでもわからなければ直接訊けばいい。


 希咲 七海はそのように考える。


(まっ、このまま黙ってても勝手にこっちの意向を汲んで教えてくれるなんて、そんな親切な奴らには見えないしね。友好的でないのは間違いないし……)



「で?」


「ん?」


「答えになってないんだけど?」


「おや、そうかい? 『何』と訊かれたから正確に確実に僕らが『何』であるかと名乗らせて戴いたつもりだったんだがねぇ。あぁ、もしかしてボクの名前が知りたかったのかなぁ? これは大変失礼したね。至らなかったよ。これはボクの過失でありそして弱さだ。だから許してくれよ。ククク……」


「いっちいち回りくどいし厭味ったらしいわね。とりあえずあんたが『ヤなヤツ』ってことだけはよくわかったわ」


 一向に進まない会話。望んだ情報・答えが得られないやり取りに苛立ちが募る。しかし、おそらく――というかほぼ間違いなくわざとやっているのだろう。何の為にかは知らないが、こちらを怒らせる為に煽るような言葉ばかりを口から吐くのだろう。希咲はそれにはのらないよう努めて怒りを抑える。


「おいおいひどいじゃあないか。『ヤなヤツ』だなんて。そんなレッテルを貼るのはやめてくれよぉ。ボクのことをよく知らない人が誤解したらどうするんだい? それでボクがイジメられでもしたらどう責任取ってくれるんだい? まさかイジメられる奴が悪い。『ヤなヤツ』はイジメられても仕方ない。自力で解決できない、弱いことが悪いだなんて、そぉんな『ひどいこと』言わないよなぁ?」


「そうやって変な風に拡大していちいち大袈裟に喚くのが『ヤなヤツ』って言ってんだけど?」


「あぁ……大袈裟だなんて『ひどい』ぜぇ。被害者の気持ちを考えてやれよぉ。キミには大袈裟でもその人にとっては耐え難く辛いことだっていっぱいあるんだぜぇ? それこそ自殺にまで至ることだってある。そんな『ひどいこと』はこの世界からなくさなければならない。怒りに震えて涙が止まらないよぉ。人の気持ちを考えましょう、だ。だからボクは弱者の味方をするのさ、どんな時もね。だってそうだろぉ? 弱者には弱者の気持ちがわかるからねぇ。キミにもわかるはずさ、弱いか弱い――希咲 七海さん」


「あんた――」


「おっと、これは失礼! そう、ボクはキミを知ってる。キミの名前を知っているよ希咲 七海さん。でもキミはボクの名前を知らない。だから名乗ろうじゃないか。だってそうだろぉ? そんなのは『平等』じゃあないからね」


(――こいつ、やっぱりあたしを知ってて……)


「ボクの名前は法廷院 擁護ほうていいん まもるだよ。三年生でキミの先輩さ。おっと。だからって敬えとか敬語を使えとか、そんなことを言うつもりはないよ? 先に生まれたからって偉いなんてことはないからねぇ。 だってそうだろぉ? そんなのは『不公平』じゃあないか」


「――法廷院……」


 ここで待ち伏せをしていた上に自分の名前を知っている。間違いなく自分を狙って来たのだろうがしかし、彼が名乗った『法廷院 擁護』という名には全く聞き覚えがなかった。面識も間違いなくないであろう。目的が見えない。


「あぁ、すまない。これは伝え忘れた。ボクのことは名前で呼んでくれたまえ。自分の姓があまり好きではなくてね。『擁護ようご』と書いて『まもる』だ。『擁』も『護』もどっちも『まもる』って読めるんだぜ? おっと、守りすぎ――だなんて言わないでくれよ? 弱さは守られなきゃあならない。守っても守っても足りないんだ。『過保護』だぁなんてことには絶対になりえないんだよ。キミにならわかるだろぉ? 『過保護』な希咲さん」


「…………」


(……あたしのことを知っててあたしを待ち伏せしてた……話を聞いても、言ってることは要領を得ない、目的も見えない。けど、そんなのもう全部関係ない!)


「――どういう意味?」


「ん? なぁにがかなぁ?」


「『過保護な』ってどういう意味? あんた何を知ってるの? 『過保護』って何のことを言ってるの? 誰のことを言ってるの?」


(こいつ……もしも愛苗のことを言ってるんなら――)


「ねぇ――どういうイミ?」


(――ここで潰す……っ!)



「これは怖いねえ。文字通り目の色が変わったねぇ」


 視線で突き刺す。猫などがそうするように視線の先の獲物を逃さぬよう、瞳孔が縦長に収縮してピントを合わせる。


 こちらの纏う雰囲気が変わったのを感じたのか、今度は彼らが気圧されるように後退る。ただし、車椅子の男とその後ろで車椅子を補助する男は動かなかった。


「やめてくれよぉ、こわいなぁ。そんな眼で睨まないでくれよ。見てごらん、ボクの同志たちを。こぉんなに怯えてしまってかわいそうに。ボクだって震え上がってしまうよぉ。だってそうだろぉ? ボクたちは弱いんだぁ」


「質問に答えろってのよ。言っとくけどこれはとぼけさせたりしないから。絶対に喋らせる――無理やりにでもね」


「なんてこった。無理やりだって? おいおいおい、やめてくれよ、野蛮だなぁ。誰だって誰にも無理強いをしてはいけないよ。だってそうだろぉ? そんなの『自由の侵害』じゃあないか」


「だったら少しはあたしと『会話』してくんないかしら? 人の通行妨げてわけわかんないこと一人で喋って。あたしこれからバイトなの。人の時間奪っておいてよく言うわね。これはあんたの言う『自由の侵害』にはならないわけ?」


「おぉっと、こいつはぁ一本とられたねぇ。そうだね、キミの言う通りだぁ。ちょっと調子にノリすぎちゃったねぇ。どうか自制心の弱いボクを許してくれよぉ」


 言っていることとは裏腹に車椅子の男は――法廷院と名乗ったその男はまったく悪びれてもいなければ悔しそうでもない。その態度はずっと変わらず、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら不敵なままギラついた目を向けてくる。


 しかし、希咲としてもここに至ってはもはや退くわけにも見逃すわけにもいかない。



『過保護』。


 自分でも十二分に自覚はある。自身の親友に対して。水無瀬 愛苗みなせ まなに対して希咲 七海は過保護だ。目の前のこの神経を逆撫でする男の言ったとおりに、守っても守っても足りないくらいの想いで。


 だから。


『過保護』な自分は法廷院の言う、希咲 七海が過保護になっているという対象がもしも水無瀬 愛苗のことを示唆しているのであれば、彼女に対して彼らが悪意を持っているのか、もしくは何か行動を起こすつもりがあるのか、それを確かめずにはもはやこの場を一歩も動くわけにはいかないし、彼らを動かすわけにもいかない。



「許されたいってんなら、無理やりがイヤだってんなら、ちゃんと答えることね。女一人が相手だからってナメんじゃないわよ」


「おぉ、これは怖い。怖いから弱いボクは言われたとおりに喋ってしまおうじゃないか。喋るとも。でもさ、希咲 七海さん――」


「なによ?」


「キミ、ホントに出来るのかい? 無理やりなんて。おっと、キミにその実力があるのか?って聞いてんじゃあないぜぇ? このボクら相手にそんな『ひどいこと』を、キミには出来るのかなぁ?」


「…………」



 言葉に詰まる。



 そう、先に挙げた希咲が感じている『やりづらさ』がまさにそれであった。



 いつものような不良連中を相手にしている場合、このような言葉の応酬はそう長くは続かず、もっと早い段階で短気な相手が実力行使をしてきて、それをハイキック一発で沈める。いつもであれば、それでもうとっくに終わっている。



 だが、この連中は毛色が違う。


 間違いなくこちらにとって害となる行為をされているのだが、かと言って暴力に訴えてくるわけではない。


 自分から暴力を仕掛けることを、希咲は自分自身に絶対的なタブーとして禁じているわけではないのだが、ただこの連中相手にそれを――というと、何というか、そう。


――憚れる、のだ。



 取り囲んでわけのわからないことを言ってくるだけで、襲いかかってくるわけではない。こちらから仕掛けるにも、いつもの不良連中と違って彼らは弱そうだ。もっと言ってしまえば普通の生徒の中でも、さらに暴力などとは無縁な弱そうな部類に見える。弱すぎる。

 気の弱そうな太った男。陰気そうな普通の男。大人しそうな地味な女子生徒。まして先程から話している法廷院と名乗った彼は車椅子だ。


 憚れる。こういう彼らに、こんな彼らに暴力を振るうのは憚れる。『やってはいけない』と、そう思ってしまう。感じてしまう。

 

 これが希咲が踏み出せない要因であり、先程法廷院が指摘した『キミにやれるのか?』という言葉の指す意味なのだろう。そうであるなら正しく――


(――やりづらいっ)


 表情には出さぬように歯を噛み締めると、その血色のよい唇の形が僅かに歪んだ。



 チラリと車椅子の後ろに居る男に目を遣る。

 彼らの中では一人だけ異質で、体格もよく雰囲気もある、おそらく何かしら『やってる』男。


(こいつを用心棒みたいにしてて、その後ろに隠れてイキってんのかと思ったけど……)


 むしろその男は車椅子に座った法廷院 擁護ほうていいん まもるの背後で黙して動かない。


(いっそ、そいつをけしかけてくれた方が楽なのに――だけど……)



 いくらやりづらくても、いくら憚れても。

 水無瀬 愛苗みなせ まなに危険が及ぶのならば、その可能性があるのならば――


 それが必要なことで、自分に出来ることであるのならば――



(あたしはどんなことでもやってや――)

「――悪かったよ」



 思考を切られる。


 ある種の覚悟を決めようと、行動に踏み出そうとしたところで、結論を下そうとする直前に切られた。



「いや、希咲 七海きさき ななみさん。悪かったよ。ボクの悪い癖だ。調子にのった。余計なことを言った。すまなかった、許して欲しい」



 それは。その謝罪の言葉は先程のような揶揄するような口調でもなく、また恐れ媚び諂うようなものでもなく、本当に心からの謝罪のように聞こえた。そう感じた自分に違和感しかなかったが、だが希咲はそのように感じた。



「いや、ね。今回は違うんだ。ボクたちはキミにだけ会いにきた。キミ自身に用があるんだよ。キミが思い浮かべたその人は一切関係ないし、その人に何かしようなんて心づもりはこれっぽっちもないよ。どうか信じてほしい」


「…………」


 そう言って、車椅子の上で頭を下げるその男に希咲はまた先程とは別のやりづらさを感じる。


(本当のことを言ってるようには感じる。感じてしまう……だけど、だからって『はい、そうですか』ってわけにもいかない……ホント『ヤなヤツ』ね、こいつ……)



「じゃあ結局なんなわけ? 気付いてる? 最初の質問に戻ってるの」


「おやぁ? それにはきっちりお答えしたと思ったんだがねぇ」


 元の態度に戻りまた口元にニヤついた笑みを張り付けて喋る法廷院に苛立ちが募る。


「あの、さ。あんたコミュ障? 『なんなの』って聞いたけど別にあんた達が『何か』とか、あんたの名前が『何か』とか訊いてんじゃないの。『何か用? 用がないなら邪魔だからどけ』っつってんのよ。そんなのも汲み取れないから会話能力が低いって言ってんの。ねぇ――あんた達モテないでしょ」


「おぉっとぉ、これは辛辣だねぇ。でもねぇ事実でも言ってい――「――うるせぇんだよクソビッチが」――おやぁ?」



 ハンっと鼻を鳴らして嘲る希咲に法廷院が言葉を返す途中で、ぼそっと呟きが漏れるように言葉が挿しこまれる。


「は?」


 自分に投げかけられたであろう罵り言葉を聞き咎め、希咲はその声の方へと攻撃的な視線を向ける。


 視線の先は図書館へと続く通路、その道を阻んでいた普通そうに見える陰気な男から聴こえた声だった。その男子生徒は自身の右手で左腕の肘から肩までを擦るようにしながら、落ち着きなく手を動かし、視線は希咲とは合わせずに俯き加減にギョロギョロと泳がせる。

 挙動不審で怯えるような態度でいながら、しかしその口からはボソボソと言葉が漏れ続けている。


「――うるさいんだよ、低能のくせに、ギャルなんてどうせ目立つだけで男に媚びるだけで何にもできないくせに、ちょっと見た目がよくてちょっと周りからちやほやされてるからって勘違いして調子にのりやがって、どうせみんなお前の身体目当てなだけなのにそんなこともわからないで気分よく持ち上げられてるだけのクソビッチが、若くてかわいいだけのお前の長所なんて時間とともに全て失われるんだ、その時になって後悔するがいいさ、その点僕は違う、人生という長期に渡るプロジェクトをマクロな視点で見下ろせる僕は、ミクロ視点でしか生きられない刹那的なお前らとは違うんだ、今に見てろ、今に見てろ、資金を集めて投資して金を増やすんだ、やがては企業してシンガポールに移住して誰にも国家にすら囚われずに完全なる自由な存在になるんだ、その時になって泣きついてきたって僕は絶対にお前らを許さ――」


「あのさ、キョロキョロしながらボソボソ言ってないでこっち見て喋ったら? そういうとこがモテないって言ってん――」


「――哂うなあぁぁぁっ‼ 僕を哂うなっ! ちくしょう! バカのくせに! ギャルのくせに偉そうに見下して僕を哂うな‼」


 再度、鼻で嘲笑ってやろうとしたところで突如その男子生徒が大声を上げる。血走った目を向けてきて、会ったことも話したこともない男が憎しみをぶつけてくる。



「な、なによ突然。勝手に人のこと決めつけてわけわかんないこ――」


 言葉は最後まで続けられず、今度はバリボリ、バリボリと右側――体育館へと続く通路の方から聞こえてくる異音に止められる。


 そちらに視線が吸い寄せられる。



 視線を変えた先の体育館への進路を阻んでいたのは気の弱そうな太った男子生徒だ。彼もまた様子が豹変している。


 どこから取り出したのかはわからないが、片手で複数のスナック菓子の袋を抱え、もう片方の手をその袋に突っ込み、掌いっぱいに鷲掴みしたスナックを一心不乱に貪り続けている。

 荒い息、血走った目、そこから流れる涙。


 悍ましかった。



 希咲 七海は異様に過ぎる彼らを、その様子を悍ましいと思った。


「な……なんなの……あんたたち……」



 その言葉に彼らは答えない。

 答えず菓子を口いっぱいに頬張り、噛み砕き、飲み込み続ける。

 先の陰気な男はもうこちらを見ていない。視線を忙しなく彷徨わせ手の爪を噛んでいる。


「おやおや、これはすまないねぇ。ボクの同志たちが失礼をしたよ。どうか彼らの不作法を許してあげてほしい」


 その言葉には答えず、希咲は再び口を開いた車椅子の男――法廷院へと目線を戻す。


「ついでだし紹介しようかぁ。彼――そこでポテチョを食べてるふくよかな彼は本田君だぁ。彼は過食症でね。強いストレスを受けると食べずにはいられなくなるんだ。とても繊細で弱いんだよぉ。だから許してほしい。だってそうだろぉ? 彼は『かわいそう』じゃないかぁ」


 広げた掌を向けて紹介された本田へとチラリと目だけを向けた。


「そして、そっちの彼は西野君だ。彼は頭のいい男でねぇ。しかもそんな自分に胡坐をかくことなく常にアンテナを張って様々なものから知識を取り入れようと努力している立派な人なんだぁ。自己啓発本とかいっぱい読んでるんだ。すごいだろぉ? でもね、かわいそうなことにそんな彼も人から理解されづらくてね。ある日クラスの心ない連中に――あ、所謂カースト上位? とかって連中さぁ。読んでる本を取り上げられてね、クラス中で笑いものにされたそうだよ。それ以来こんな調子になっちゃってさ。笑われることが我慢ならないんだぁ。心が痛まないかい? ボクは自分のことのように痛いし、怒りに震えて涙が止まらないよぉ。だから彼の暴言を許してあげてくれ。彼は許されるべきだ。だってそうだろぉ? 彼はとぉっても『つらい経験』をしたんだから」


 紹介された西野はやはりこちらには目を向けず爪を噛んだまま譫言のように恨み言を漏らしている。


 希咲も彼から目を背けた。何が起爆スイッチになるかわからないような地雷原に踏み込みたくなかったからである。



「……それで? だから結局なんなわけ? あんたたちがつらい思いしてかわいそうだったとして、それであたしに何の用なの? あんたたちのそれはあたしのせいじゃないでしょっ」


「おいおい、自分のせいじゃない。だから彼らが傷ついていようが自分には関係ない。まさかそぉんな『ひどいこと』を言うのかい?」


「そこまで言ってないでしょ! だけど――「なぁ~んてねっ」――は?」


「冗談だよ。いやあながち冗談でもないんだけれど、でも今回はそうだね。キミの言う通りだ。それで納得をしようじゃないか。涙を飲もうじゃあないかぁ」


「……だったら……じゃあ、一体なんだってのよっ!」


 短絡的な人間は嫌いだった。だが、かと言ってそれとは真逆でもここまで迂遠な人間も初めてだった。気が付いたらもはや苛立ちも怒りも隠そうともすることが出来なくなっていた。


「ククク……そう、そこの本田君も西野君もキミに何かされた被害者なんかじゃあない。縁も所縁もない赤の他人さぁ。もちろん後ろの高杉君もこのボクもね。まぁ、ボクなんかは今は他人だけどキミとは同志になれると思ってはいるんだがね。だってそうだろぉ? 弱者と弱者はわかりあえるんだぁ。弱いか弱い希咲 七海さぁん」


「お断りよ! でも、じゃあ、おかしいじゃない。それだったらあたしに用なんかないはずでしょ!」


「おいおいおいおい、ひどいなぁ。この場にはもう一人いるだろぉ? 無視するなんてそんなの『ひどい』じゃあないかぁ。だってそうだろぉ? それは『いじめ』だぜぇ?」


「もう一人……」


「そう。さっきも言ったけど、ボクはキミとは同志になれると思ってるんだぁ。でもね希咲さん。ボクの同志がね、言うんだぁ。キミは疑わしいって」


「なによ、疑わしいって」


「いやね、希咲さん。希咲 七海さん。キミがね、弱者ではないんじゃないかって、同志が――『彼女』が言うんだ。キミは持ってる者なんじゃないかって。それというのもね、希咲さん」


 そう言って法廷院はカクンと首を横に大きく傾けた。


 首を大袈裟に傾げたまま、そのギラついた目でこちらの顏を覗き込むようにして睨めあげてくる。



「ねぇ、希咲さん。キミってかわいいよね?」


「は?」


「でもそれってさ、強いってことなんじゃあないのかな?」


「あんた何を言って――」


「続きは彼女の口から語ってもらおうかぁ。本人の、被害者の口から直接ね。ねぇ、同志――白井さん?」


「はい」



 返事をして、これまで一切喋らず横に控えていた女子生徒が歩み出る。


 大人しそうな子、地味な子、目立たなそうな女の子。希咲はやはりこの女生徒にも見覚えがなかった。



 白井と呼ばれたその女は車椅子の、法廷院の前に立ち希咲と対峙する。



「希咲 七海。あなたを絶対に許さない――」



 彼女は希咲 七海にそう宣戦布告した。


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