序-30 『その福音は唯独りの勝利者の為に鳴る』

「わぁーーっしょいっ!」

「ぎゃあぁぁぁぁぁっ!」


「あ、そぉーーーれっ!」

「いやあぁぁぁぁぁっ!」


「よおぉぉぉいしょっ!」

「おうちかえるうぅっ!」



 放課後の私立美景台学園内の文化講堂二階にて、そこに集まった生徒たちは、まるでホームでリーグ戦初優勝を決めた試合後に監督を胴上げする時のような最高潮の盛り上がりを見せていた。


 円陣を組むように密集した男たちの輪の中から、ほぼ一定のリズムでポーン、ポーンと放り上げられた半べその女子高生が宙を舞う。


 勿論その女子高生とは、本日の当学園の生徒の中で『ひどいめにあったランキング』などというものが仮にあったとしたら――間違いなくぶっちぎりで優勝するであろう、とっても不憫な希咲 七海きさき ななみさんである。



 彼女は運動能力に優れる女子であり、同時に戦闘能力も高い。


 先程クラスメイトで風紀委員である弥堂 優輝びとう ゆうきと乙女の尊厳を懸けて戦った時には、空中に滞在したままで何発も蹴りを放つなどという離れ業をもやってのけた。


 そんな彼女ならば、現在意味不明に自分を胴上げしている法廷院 擁護ほうていいん まもるを代表とした『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』などと名乗るイカレた集団の凶行から、仮に逃れることだけを考えるのなら、弥堂に見舞った時と同じように蹴り飛ばしてしまうことによって可能といえば可能である。


 しかし、それは乙女的な事情により現実的とは言い難い。

 位置関係が非常にまずいのだ。



 希咲から見た彼らの位置は、空中に放り上げられた時にはほとんど自分の真下になる。


 そのような位置関係のまま、制服の短いスカートを穿いた状態で彼らに対して蹴りなどを放とうものならば――どういうことが起きるかは考えるまでもない。


 希咲 七海はプロフェッショナルなJKである。


 例え普通の女子高生らしからぬ戦闘能力を備えていようとも、物事の優先順位は乙女アルゴリズムによって決定されるのだ。


 これがもしも、彼女の幼馴染でありクラスメイトでもある天津 真刀錵あまつ まどかであれば、たとえ全裸を見られることになろうとも敵へ凶器を振るうことを躊躇わないだろう。


 あの女とは違うのだ。

 警棒を隠し武器として持ち歩くためなどという野蛮な理由でスーパールーズを好んで着用するような女とは。


(あたし的には、制服には70から80㎝くらいがカワイイと思うの。ちょっと流行ってるし。長いのも好きだけど、センセによっては眉顰めるのよね……あ、明日はルーズにしよっかな……)


 時代が廻り現代の女子高生の制服コーデの選択肢に再来した、米国に起源を持ちながら何故か我が日本国の伝統的な民族衣装となったルーズソックスについて、そんな風に思いを馳せていたがすぐにハッとなり、自分が現実逃避をしていたことに気付く。


 今はそんな悠長なことを考えていられるような状況ではないのだ。



 改めて自身の現状を確認する。



 トチ狂った男連中に追い回された挙句に胴上げをされている。


 以上!



(なにがどうなったらこんなことになんのよ!)


 わけがわからなすぎて対処のしようがなかった。


 先刻に自分の欠点は突発的な未知の事態に弱いことだと自省したばかりだったが、いくらなんでもここまで頭がおかしい連中に初見で対応できる者など相当に限られると認識を改める。


 それこそ相手と同じか、もしくはそれ以上に頭がおかしい者でもなければ無理だろう。

 例えば弥堂とか。


 しかし、己の裡でいくら自分を擁護してみせたところで現実は変わりはしない。外の世界を変えるにはそこで何らかの影響を及ぼす現象を起こすしかないのだ。


 今の自分はほぼ無抵抗な状態にある。



 頭のおかしい風紀委員に放り投げられ、頭のおかしい集団の魔の手に落ちいく最中で自分に出来たことといえば、姿勢制御し地に降り立つ前に空中で全員蹴り倒してしまうことでもなければ、誰かを踏み台にして彼らの手の届かない範囲まで飛んで逃げること――でもなく、足を折りたたんだ状態で背中から落ちていくことだけだった。


 前述した乙女的な諸事情――とにかく下着を見せたくない、胸やお尻やふともも等の部位にも触れられたくない、背中ならギリがまん出来るかも――により、このような哀れな境遇となった。


 天井に正対し膝を抱え込むように丸くなることで胸や尻に足といった部位に触れさせないようにする。

 左手でお尻側のスカートを抑え、畳んだ足の踵で裾を固定。前側の裾を掴んだまま右手を股の間に突っ込んで両の腿でぎゅっと挟んだ。


 このような体勢で出来ることといえば、宙に放り上げられて落下する際に身体の向きが変わらぬように姿勢を維持することだけで精一杯だ。



 触れられるのが背中だけなら――先はそう考えたが、それは甘かった。


 ブラウスとカーディガンの布二枚で隔てた背中ごしに伝わってくる複数人の男の手の感触。再び宙にあげようとする際に、横になった自分を上から覗き込んでくる複数人の男の顏。


「ひぅ……」


 女の身で感じる本能的で根源的なこの恐怖感と嫌悪感は堪えようもなく心身を苛み、瞼には涙が滲み肌は粟立つ。


 喉の奥から漏れた小さくか細い悲鳴は、男たちの狂声の中に呑み込まれた。


(ちゃんとキャミも着てくればよかった!)


 ブラウスの下にキャミソールを着込んだところで嫌悪感の防波堤には到底足りる訳がないのだが、そんな薄布にまで縋ってしまいそうなほどに混乱しきった頭は、そろそろ本当に形振りを構わない――厭わない決断を下してしまいそうだ。


 いくらなんでもこんな場所でそこまでを見せてしまうのはダメなことだ。


 僅かに残った理性を総動員してグッと奥歯を噛み締め、決壊しそうな恐怖と涙を食い止める。


 そして希咲は理不尽へと立ち向かう。



「ばかっ! あほっ! へんたい! キモオタっ! どーてー! 陰キャ! えーと……えーと…………もやし! めがね! でぶ! きんにくっ!」


 七海ちゃんはいっぱい悪口を言うことで、わるい男子たちをやっつけようとした。


 しかし身体的特徴を詰るような罵倒にすら今の彼らは大喜びだ。


「「「「ゆーしょー! ゆーしょー! ゆーしょー! ゆーしょー!!」」」」


「うるさいっ! なんで盛り上がるのよ! やだっていってんじゃん!」


 反撃をしたつもりが完全に逆効果を生み出し、何故かより一層盛り上がった男たちの野太い声が合唱となって響き渡る。



 そんな彼女と彼らの様子を弥堂は心底見下げ果てた眼で見ていた。すると、足元に僅かに違和感を感じる。そちらに視線を向けると、地べたに頬杖をつきながら弥堂のズボンの裾に指を絡め、うっとりとした表情をしているメスのモップが居た。


 チッと舌を打ち強引に足を払い白井の指を振りほどく。その勢いのままこの場を辞してしまおうと目論む。行きがけの駄賃とばかりに、ついでに白井を踏みつけてから踵を返そうとさらに足を動かそうとしたところで、乱痴気集団から声をかけられる。


「おぉーい、狂犬クン! そんな端っこで何してるんだよぉ? まさか一人ぼっちで帰ろうだなんて考えてないよねぇ?」


 まるでそれを阻むようなタイミングで声掛けしてきた法廷院へと慎重に目を向ける。弥堂としてもこのような馬鹿騒ぎにこれ以上関わりたくないからだ。


「そんな寂しいこと言わないでくださいよ? 水くさいなぁ。僕たちもう仲間じゃないですか。ほら、ここ空いてますよ?」


 何故か照れ臭そうに鼻の下を指でこすり、へへっと笑いながら言ってくる西野の言葉にビキっと口の端が引き攣る。



 仲間? ――誰と誰が?


 空いている? ――なんのことだ?



 見れば、そう言った西野は希咲を胴上げするための円陣の中で僅かに横にずれて、隣の法廷院と自分との間にひと一人がどうにか入れそうなスペースを設けた。


(こいつら――まさか、この俺に加われと言っているのか……? バカな…………)


 圧倒的気付きにより珍しく他人の意向を汲んだ弥堂は何故か戦慄した。



 努力して自身の感情の処理を試みていると、


「なにモタモタしてんだよ! こいよ、弥堂っ!」


 快活な声で男らしく豪快に手招きをしながら、本田に命令された。


 その態度が無性に癇に障った弥堂は、この場に居る者どもを20秒以内に皆殺しにする具体的な手順を瞬時に頭で組み立て、しかしそれを速やかに実行に移す寸前で、意図的に自身の知能を低下させることで踏みとどまることに成功する。


 弥堂 優輝は、こうした幼稚で意味不明な者たちが多く在籍する頭のおかしい学園で過ごす中で、ナメた態度をとるガキどもをうっかり殺害してしまわないように、意識して自身のインテリジェンスを下げて――なんなら思考の全てを放棄することで――手を汚さずに場をやり過ごす術を身に付けていた。


 弥堂が自身で編み出した数少ないオリジナルの技法のひとつである。



 思考能力をドブに捨てて白目になった弥堂はオートモードとなり、言われるがまま狂気の円陣に近づいていく。


「ちょっと! あんたまさか参加する気っ⁉ 正気なの⁉」


 残念ながら今の彼は自ら正気を捨てている。


「なんであたしのいうことは聞いてくんないのに、こいつらのいうことは聞くわけっ⁉ ていうか――たすけなさいよおぉぉぉっ!」


 希咲の必死な訴えも虚しく、白目の男は着実に近づいてくる。寄ってきた弥堂を迎え入れるため、法廷院と西野がいそいそと彼の手をとり背を押して、手厚く輪に入れてやる。


 必然、一時的に希咲を胴上げするメンバーが半減してしまっているが、元々彼ら二人は貧弱なので、胴上げの動力としては大して足しになっていなかったので問題なかった。


「やだやだやめてっ! さわんなっ、あほ弥堂っ!」


 受け流し力に強烈なバフの入った状態の弥堂にはどんな悪口も届かない。無事に円陣の一部となった彼はあらゆる思考を放棄して、希咲の胴上げに参加した。


 屈強な動力を得て胴上げの勢いと『優勝コール』も心なしか増した。


「もうやだあぁぁぁっ! たすけて愛苗ぁぁっ!」


 ここに現れるはずのない親友へと縋る、完全に泣きの入った希咲の声の悲痛さも極まる。


「弥堂っ! 絶対へんなとこさわんないでよねっ!」


 せめてもと、抗議と願いという本来混じり合うはずのないもののハイブリッドで仕上がった言葉を言い終わるかどうかというその時――この狂乱の場の騒音以上の大音量が廊下に、いや学園中に響き渡った。


 時計塔の鐘の音だ。



 ついに完全下校時間となったのだろう、美景台学園の一日の終了を告げる恒例の知らせであり、学園に通う生徒や教師に他スタッフのみならず、近隣の住民にも須らく迷惑がられている鐘の音である。


 しかし、本日のこの場に居る何名かについては様子が違った。


「――福音だっ!」


「はぁっ⁉」


「これは希咲さんを祝福する福音なんだ!」


 そう叫んだのは、今日の放課後のわずかな時間のみで七海ちゃん信者となった本田だった。もはやこの世の全てのものは彼女のために存在していると、そう思いこむような領域にまで足を踏み込んでいた。彼はガチ勢なので仕方ない。


 そして本田が創り出した流れにすかさずその仲間たちがノる。


「おめでとう! おめでとう希咲さん!」

「世界が! 世界がキミを祝福してる!」


「またっ! いみわかんないこといわないでっ!」


「MVPだよ! キミこそがMVPにふさわしい! 神がそう決めたんだ!」


 この場合のMVPとはもちろん、『most valuable pantyモスト バリュアブル パンティー』の略だ。


 自分たちの仲間――彼らは勝手にそう思っている――からMVPが選出されたことに彼らは興奮を禁じえない。怒号は際限なく高まっていく。


「――うるさっ! もうっ! うるさいっ! みんなうるさい! みんなしねっ!」


 狂ったように鳴る鐘の音と狂ったように騒ぐ男たちに、希咲は憤りを隠せない。


 その時、あまりに煩い周囲の音に、ハッと弥堂が我に返った。


 大音量の鐘の音と男たちの叫び声に迷惑そうに顔を歪めながらも、惰性で落ちてきた希咲を受け止めてまた放り上げる。宙を舞いながら喚く彼女を見上げ『なにしてんだこいつ?』と怪訝に思った。


 そこで、オートモード中に彼女に何か言われていたような気がしたと記録を参照する。



『弥堂っ! 絶対へんなとこさわんないでよねっ!』


 そう彼が思い起こしたその時に奇跡が起きる。



 落ちてくる希咲を受け止めるために手を構えていたが、『へんなとこってどこだ?』と僅かに躊躇いから身動ぎをしたために、位置がずれる弥堂の指先と――


 悲鳴をあげながら天井付近から落下してきた希咲の背中が――


 天文学的なタイミングで邂逅を果たし――



――ぷちっ



「――へっ?」


 大騒乱の中でその音を聴力によって捉えることは難しく、弥堂と希咲だけがその指先と背中で、手応えによってのみ聴き取った。


「――えっ? え? えっ⁉ うそっ⁉ うそっ⁉」


 自身の胸周りの締め付けが急に頼りなく感じられるようになり、希咲は茫然自失する。


 そして次に落下してきたタイミングで、自身の背骨に沿うラインで上背と下背の中間あたりに置かれた手の持ち主の、その無機質な眼と自分の目があった瞬間に何が起きたかをはっきりと認識する。


「びっ、びびびびびどうっ! あんたっ! なにしてっ! なにしてくれてんのおぉっ!」


 言葉と同時、スカートのお尻を抑えていた左手をバッと素早く胸にまわし、必死に守るように抑えつける。


「くそやろうっ! ころすっ! ころすっ! ぜったいころしてやるっ!」


 騒音の中聴き取りづらいが、ポンポンと宙に浮かびながら涙目でこちらを睨み、何やら怨嗟の声を出す少女を怪訝に思い首を傾げた。


「コテンってするな! かわいくないのよっ! ――てか、ねぇっ! もうこれやめて! マジでやばいの! だめになったの!」


 弥堂だけでなく今度は胴上げをする全員に向けて緊急事態が起こったことを知らせる。しかし会場の大歓声にその訴えは掻き消される。


「きけっ! きいてってばぁ! もうだめなの! あたしの…………ブラが――ブラがあぁぁぁぁぁっ!」


 奇しくも、またも神がかったタイミングで規定の回数を鳴らし終えた鐘の音が止み、最後の『ブラがあぁぁぁぁぁっ!』の叫びがやけに大きく響いた。


 今回も例により彼女の願いは叶わない――そう思えたが、


「お前らっ! 何をしとるかっ‼‼」


 別方向から現れた誰かのその図太く重い怒声に場の空気が一瞬で静まった。



 大きく天井付近まで浮かび上がった希咲は嫌な予感がし眼下を確認すると、落下をする自分を受け止めるべきはずの者たちの誰もが新たな闖入者を確かめようと外方を向いていた。


「――えっ? ちょ、ちょっと――!」


 言いながらも慌てて落下中にどうにか着地するため姿勢を変えようとするが――


「――ぶぇっ」


 突如首元に負荷がかかり喉が締まって、決して自分が出したとは認めたくないかわいくない声が出た。


 何事かと確認すると、他所に視線を向けたままで落ちてくる希咲をキャッチした弥堂に奥襟を掴まれていた。


 ちゃんと受け止めてくれたことには感謝しなければなのだが、先に何回も注意をしたようにそのやり方がよくなかった。


「これやめてっていったでしょ! おなかでちゃうからやなのっ!」


 先までに何回か同じように襟を持って持ち上げた時とは違って、高所からの落下で体重が乗った状態で掴んだ今回は、彼女の懸念どおりの事態になる。


 スカートの中にしまっていたブラウスの裾が引っ張られ、羽織ったカーディガンの前を閉じていなかったために、希咲の白くきれいなお腹が露わになる。


 おなかが――という指摘につられ、自然とそこに視線を向けてしまった弥堂の眼に、縦長のおへそとその両サイドにうっすらと筋のとおった、よく締まった腹が写る。


 すると、そのお腹を滑るように服の中からポロっポロっと何かが二つ床にこぼれ落ちていき、そちらに関心を奪われる。


 興味がなくなったので弥堂に雑に放るように解放された希咲は「ぉととっ」とバランスを調整し床に降り立つとすぐさま弥堂に詰め寄って、指を突き付けながらギャーギャーと文句をつける。

 弥堂はそれを無視して床に落ちた物を腰を折って拾い上げた。


 手に取って眼に映したそれは布製のもので、柔らかいのだがしっかりと形を保つように作られていて、しかし決して固くはないという不思議な感触だった。

 手触りもよく指で押し込むとゆっくりと膨らむ様に形が戻る。


 弥堂はそれを『ふにっふにっ』と二回ほど指で揉んでから、どうやら隠し武器や薬物などの非合法なものではないと確認し、持ち主に返してやることにする。


「――ってんでしょ! やっていいことと悪いことわかんないわけ⁉ ねぇちょっと、きいてん――」

「――おい、落としたぞ」

「――はぁ? 今そんなことどうでもいいでしょ⁉ あたしの言ったことちゃんと聞いてたわけ? だいたい落としたってなに、を…………みゃっ――⁉」


 ポッケから落ちた何かを拾ってくれたくらいでこの怒りがおさまると思うなよと言わんばかりに勢いづいていたが、弥堂が手に持って出してきたものの正体を実際にその目で認めると、ビシッと希咲は固まった。


 ぷるぷると小刻みに震えながら僅かに俯き、垂れさがった揺れる前髪でその目が隠れる。


「ちょ、ちょっとキミたち。イチャつくのは後にした方がいいよぉ」


 闖入者の正体を確認した法廷院が若干怯えながら小声で忠告をしてくれるが、今はそれどころではない彼女には届かない。本当はそれどころなのだが。



「これはお前のものではないのか?」


 弥堂は念のため拾得物を希咲の眼前に持っていきよく見せてやって確認をする。ついでに『ふにふに』と再度親指でもみもみした。感触が気に入ったのかもしれない。


 目の前でそれを見せつけられた希咲の髪がざわざわと波立つ。


「おい、さっさと受け取れ」


 一向に動く気配のない持ち主に焦れた弥堂は、希咲の右手――左右の手をそれぞれ両の胸に片方ずつあてて抑えていた――を丁寧にとると、掌を上に向けさせそこに落とし物をのせてやろうとする。


 希咲のサイドテールがゆらりと一度大きく揺れた。



 希咲の掌の上へと持ってきた弥堂の右手が、その握った物品を手放そうと指を解いた瞬間――下から上へとパシンと手を払われる。



 弥堂の眼前で打ち上げられていくそれを、彼は反射的に眼で追ってしまった。



 大した高度まではいかずにくるりくるりと回転しながら落ちてくる謎の拾得物を、今度は上から下へと視線を追従させていく。やがてその『何か』と希咲の姿が直線上に並んだその刹那――



――雷が迸り、バチンっと弥堂の視界が弾けた。意識が眩む。



 希咲が、落下してきた胸パッドがちょうどブラインドとなった一瞬を狙い、腕を伸ばす道すがら器用に片方のパッドを回収しつつ、それを握りしめたままで神速の右ストレートを弥堂の顔面に叩き込んだのだ。


 身長差の影響で下から打ち上げるような軌道となったその攻撃で、弥堂の顏は天を向き上体が仰け反る恰好となる。



 希咲は右手を引き戻しながらさらに左フックを軽く振るように、落下中のもう片乳分をパシッとキャッチすると、その勢いを利用しグルンと大きく身体を回転させる。



(何が起きた――⁉)


 バチバチと火花が散るように眩む視界の中で、弥堂はかろうじて攻撃を受けたということだけは理解した。


 グッと奥歯を噛み、仰け反った上体を無理矢理にでも戻す。


 次に彼の視界に飛び込んできたのは、本日何度も目撃したためにすっかりと覚えた、かわいらしく装飾されたミントブルーのMVPだった。


 そしてすぐに顔面間近に迫った学園指定の室内シューズのゴム製の靴底が視界を埋め尽くし、そのスカートの奥の光景は消え去った。



 捻りを加えながら渾身の力で放たれた希咲の後ろ回し蹴りが弥堂の顔面に突き刺さる。


 必殺の意思をこめた希咲のフィニッシュワークが直撃し、弥堂は鈍い音を立てながら派手に後方に吹っ飛ぶと背中から壁にぶち当たって後頭部も強打し、ガクンと首を垂れて昏倒した。



 今のこの場にそぐわない、余りに鮮烈で余りに突然なKO劇に、『しん』と静まる。



 両手を交差させるようにして胸を抑えながら、ハァ……っ、ハァ……っ…………と荒く息を吐く希咲を、誰かが宥めたり咎めたりするよりも先に、彼女はぐりんっと首を回し次の獲物を捉える。


 目尻に涙を溜めたままだが、はっきりと強烈な戦意の伝わるその表情に、敵意を向けられることに身に覚えのある者たちはビクっと肩を揺らし、そして揃って壁際に目線を持っていく。


 先程まで暴虐の限りを尽くし、この学園内でもトップクラスの強さを持つと評判であった風紀委員が、一瞬でぶっ飛ばされ力なく壁に凭れている。


 その凄惨な有様に、普段日常的に気を失った人間を見る機会などのない一般的な生徒である者たちは「ひっ……」と小さく悲鳴を漏らした。



 彼らに言い訳や命乞いのチャンスを与える間もなく希咲は動き出す。彼らには彼女のその動き出しを捉えることすらできなかった。



 希咲から見ての位置関係は、近い順に西野、本田、法廷院、高杉と並んでいる。



 最前列に立つ西野が認識できたのは見えない何かが自身の横を通り過ぎたと思われる、ヒュンっという音のような感覚だった。


 希咲はその圧倒的なスピードで西野の横を通り過ぎると、彼と本田との間で急停止し身を沈める。


 股割りをするような体勢で大きく開脚したままクルっと回転をし、西野と本田の両名の足を同時に払った。


 後ろから足を払われた西野は上体を反らし背後へ、前から払われた本田は前のめりに大きく身体を崩し倒れ込む。何が起きたかわからないまま、彼らはただ『ふわっ』とした浮遊感だけを感じた。



 前に倒れようとする本田の視界に、自分の方へ向けて背中から倒れてくる友人の姿が写り込む。気の優しい彼は咄嗟に西野を受け止めようと手を伸ばした。


 しかし彼の手が友人に届くよりも速く、希咲の飛び膝蹴りが本田の顔面に突き刺さる。鼻骨が後頭部の向こうまで貫通して飛び出したかのような衝撃を受け本田の意識は飛んだ。


――1KILL!――



 天を仰ぎながら後ろ向きに倒れる西野が捉えられたのは、本田に膝蹴りを見舞った後の希咲のスカートの裾だ。


 典型的なインドアオタクである彼には当然戦闘能力など備わってなどいない。


 しかしそれでも自分と仲間たちに危機が訪れていることだけは彼にもわかった。


 戦うことはできない。だがそれでも、せめてもと――せめて上空に居る希咲のスカートの中だけはこの目と記憶にしっかりと刻み、もしも生き残ることができたのならばどうにか後世へと伝えていこうと気を強くもった。


 ギンッと、強く強く意志をこめて生命力の全てを注ぎ込む様に両の目に力を集める。


 だが、それすらも叶わず、先程の弥堂よろしく――スカートの中を視認する前に顔面を室内シューズで踏みつけられ視界を閉ざされた。


 その踏みつけられた衝撃で西野は後頭部を床へと強打し気を失う。


――2KILL!



 希咲は本田の顔面に膝を入れ、床へと降り立つ前に西野の顔面を踏みつけて、さらに高く空へと舞い上がる。



 空中で身を捩り回転をしながら、驚異的なその身体能力で彼女は慣性やベクトルさえも支配下に置き、両足の裏を向けながら法廷院へと迫る。


 自分の上へと両足で着地をするかのように迫ってくる彼女を前に、法廷院は動けなかった。


 車椅子に乗っていたのはブラフであり、肉体の健康に何ら問題がないと言った彼であったが、しかしそれでも運動能力に優れているわけでもない。彼はやせ細った貧弱な身体を震わせることしか出来なかった。


 だがそれでも、せめてもと――せめて自分の上に降り立とうと迫りくる希咲のスカートの中だけはこの目と記憶にしっかりと刻み、もしも生き残ることができたのならばどうにか後世へと伝えていこうと気を強くもった。


 ギンッと、強く強く意志をこめて生命力の全てを注ぎ込む様に両の目に力を集める。


 だが、それすらも叶わず、左右の足の裏を法廷院の両肩に乗せて着地した希咲は、片手で胸を抑えもう片手を両腿の間に入れて完璧なガードを築いていた。


「ちくしょおおぉぉぉぉぉっ!!」


 悔しかった。ただ、ただ、悔しかった。

 目まぐるしい状況の中それしかわからなかった。


 希咲は足場にした法廷院をそのまま両足で強く前に押し出すようにして、彼の背後に居た高杉に押し付けてやると、再び天へと舞い上がる。


 そして宙でトンボを切ると、法廷院を受け止め無防備となった高杉の脳天へと激烈に踵を墜とす。


 呻きをあげた高杉の顔面と彼の胸元に居た法廷院の顔面とが衝突し、法廷院の意識は吹き飛んだ。


――3KILL!


 さらに希咲は踵を決めた直後に逆の足で法廷院の肩を蹴り、反動で宙返りをしながら背後にふわっと飛ぶ。


 すると、そこに先ほど膝蹴りをくらってその肥満体を宙へと浮かび上がらせてから落下してきていた本田が、まるで計算されていたかのように落ちてくる。彼女はそれを踏みつけた。


 気絶中の本田は踏まれた衝撃で背中から強く床に叩きつけられる。


――OVER KILL!



 希咲は床へ背中から落下中の本田の腹を足場にして、最後の一撃を決めるべく一際高く跳び上がる。


 天井にまで舞い上がると空中で身の上下を反転させ、床にしゃがみこむような姿勢で天井に着地をした。


 ピタっとその一瞬だけ時が止まったかのように錯覚する。



 その錯覚を感じたのは、次に己を仕留めにくるであろうと予測をし彼女を目線で追っていた高杉だ。


 天井に立つ希咲と目が合う。


 その瞬間に生き残る術はないと判断をした高杉は、腕の中に抱えた法廷院を巻き添えにせぬようにと気絶中の彼の身を横へと放る。


 投げ捨てられた法廷院の脳天が、床に横たわったままでいた白井の腹に突き刺さり彼女は悶絶した。


――4KILL!



 希咲は己自身を標的を貫く弾丸とするように強く天井を蹴る。


 初動を切ると空中で加速をしながら身を捩り回転を加え、再び上下の姿勢を変換しトップスピードへと到達をする。


「――見事っ」


 来るとわかっていても、来るとわかっていたのに反応できず、高杉はただ己を打倒する者への賛辞を、その顔面に希咲の足裏が突き刺さる直前にどうにか口にできた。


 強烈に捩じりを加えて叩き込まれた飛び蹴りに、高杉はギュルンギュルン回転しながら壁にぶち当たり、まるで床を転がるように壁を走ったあとで床に頭を強打し昏倒した。


――5KILL!



 高杉の顔面にファイナルアタックを叩き込んだ希咲は、そのまま再び宙でバク転をするように身を返し、高杉を吹き飛ばした攻撃の威力の強烈さとは真逆に、ふわりと軽やかに着地をする。


「ふぅ……」


――STAGE CLEAR! COMPLETE!!


 まるでそのような文字が頭上に表示されていそうなくらいの晴れ渡った気分で、手の甲で額の掻いてもいない汗を拭う。


 今日これまでの全てのストレスを吐き出したかのように、とにかく魂の解放感が半端ではなかった。


「ぉごごごごぉ……っ」


「ん?」


 すると肉食の獣の唸りのような重低の呻きが耳に入る。

 不審に思いそちらに眼を遣ると腹部を抑えた白井が地べたで丸くなっていた。


「あんたなにしてんの? ねぇ、ちょっとだいじょぶ?」


 女性として尋常ではない音程を出す彼女を心配し声をかけるが――


「ひっ――ひいぃぃぃぃぃっ! 殺されるうぅぅぅっ!」


 つい今しがたの無双っぷりにガチで怯えられ不名誉な悲鳴をあげられる。


「人聞きの悪いこと言うんじゃないわよ。なんだっつーの」


 白井の様子を窺おうと歩み寄る。


「いっ――いやあぁぁぁっ! たすけて! たすけて、先生っ!」


「はぁ? せんせい……?」


 何を言ってるんだと眉を寄せようとしたところで、ハッとする。


 そういえば、先程大暴れする直前に誰かこの場に現れていたような――


 バッと覚えのある方向へと身体を回す。



「…………」


 そこには無言で佇む、弥堂や高杉が華奢に見えるほどの筋肉の塊が居た。



 その数学教師らしからぬ屈強な肉体の持ち主は、学園内でもこわいと評判の権藤先生だ。


 希咲はさらにハッとすると、ババっと再び上体を回し周囲を確認する。


 そこらには、今さっき自身が皆殺しだとばかりに纏めてブチコロがした男どもが5名、無残にも床に転がっていた。


 希咲はサーっと顔を青褪めさせ滝のように脂汗を流すと、あわあわと権藤先生へと向き直る。


 権藤という教師は、今時の世論など知ったことではないとばかりに、口で言っても理解できない野性動物のようなナメたガキには、その鍛え上げた強靭なフィジカルを以てして思い知らせる、そんな圧倒的に雄度の高い教師であると周知されている。


 しかし、その彼は何故か沈痛そうな面持ちで何やら気まずそうにしていた。



 よりにもよって一番怖い先生の前で自分が何をやらかしてしまったかを正確に認識した希咲は、どうにかこれは不幸な行き違いから起こった事故のようなものなのであると説明をしようと試みる。



「ち――」


「……ち?」


 聞き返す教師に対して続ける言葉を探し、頭を急速回転させる。

 しかし、どう考えてもいい訳のしようがないほどの圧倒的現行犯だったので、結果的に何も効果的な言葉が思いつかず、七海ちゃんはおめめとサイドテールもぐるぐると急速回転させてあわあわした。


「ち、ちがうんですぅぅぅっ」


 どうにか違うということだけは主張してみる。


「……希咲。その…………なんだ……」


「ひゃいぃっ」


 何が違うのかはまるで理解出来なかったが、権藤は重苦しそうに口を開いた。


 先生に叱られる。


 ちょっとばかり見た目が派手で戦闘力は高いものの、極めて一般的な感性をもつ希咲は、大半の学生がもつであろう本能的恐怖感からピシっと『きをつけ』の姿勢をとる。


 しかし、権藤の口から出た言葉は予想とは反するものであった。


「今時分のな……特にキミのような若い娘にこう言っては、時代遅れだとか、そういう風に思われてしまうかもしれないんだが……」


「……?」


 怒鳴り付けられるかもと身構えていた希咲としては、肩透かしをくらったようなその静かな喋り出しに、真意が掴めず首を傾げる。


「女の子らしく――とまでは言わんが…………いや、違うか。くそっ…………あぁ、すまない希咲。先生な、恥ずかしい話だが、キミのような華奢な女生徒が男子を5人も、見たこともないような秒殺の仕方をした映像がな……その、ちょっとショッキングで…………正直まだ受け止め切れていない」


「ごっ、ごめんなさぁいぃぃぃぃぃっ!」


『イマドキ』だろうと『カコドキ』だろうと、全くを以て返す言葉がなかったので、最終的に全員をKOをし勝利者となったはずの彼女は勝鬨をあげるどころか、クイ気味に謝罪をすると両手で顔を覆いながらしゃがみこんでメソメソと泣き出した。


 怒鳴られはしなかったものの、予想と反した別方向からのご指摘が正論すぎて、ある意味もっと『きついお言葉』のように感じられた。穴があったら入りたいほどに恥ずかしい気持ちになる。



 権藤は目の前で泣き出した生徒と、戦場に打ち捨てられた遺体のようにそこらに転がる数名の生徒達を見渡すと、悟られぬように重い息を吐き出す。


 本日の業務時間終了直前に運悪く行き遭ってしまったこの厄介ごとに、眉間を揉み解しながら『仕事だから仕方がない』と、そう心中で自分を納得させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る