序-29 『失伝:眇眇たる涅色、その手にはなにも』

 ジャッジ弥堂によるおぱんつ査定のお時間だ。



「あとは――そうだな……デザインについて、だが。俺の知見では芸術的な観点での評価を下すのは難しい。だから別の見方をしてみようと思う。先程のお前らの評価ではこいつのおぱんつは一見するとガキっぽいだの可愛らしいだのと、そんな評価をしたな? だが、俺はそれは罠だと捉える」


「あんた何言ってんの⁉ こいつらのマネしなくていいからっ!」

「罠――だって……?」


「そうだ。罠だ。よく思い出してみろ。こいつのおぱんつの形状を――」


 弥堂は一度言葉を切ると目を閉じて、記憶の中に記録された希咲 七海のおぱんつのフォルムについて、その総ての情報をふつくに取り出す。


 それに促されるように法廷院たちも目を閉じて、希咲 七海のおぱんつについて可能な限り審らかに思い出そうとする。



「ちょっと! 全員思い出すな! 禁止ってゆったじゃん! きんし!」


 慌てて止めようとする希咲であったが、例によって手遅れであった。



「いいか――よく思い出せ。女児用の下着にしては布面積が少ないとは思わなかったか? あれこそが純真無垢を装っておいて、そのような少女を毒牙にかけようと目論む浅はかな男を釣る為の罠なのだ」


「それは――しかし…………」

「そんな……そんなことって……」

「……即座に否定は……できませんね……」


 ジャッジ弥堂の鋭い指摘に他の審査員たちはハッとして俄かにざわついた。自分たちにはない発想であったが一定の説得力を彼の言に感じたからだ。


 純真無垢かは不明だが、幼気な同級生の少女を使って、美人局などという犯罪を軽率に目論む男の口から出る言葉は重みが違った。


「アホびとぉー! わけわかんないこと言ってんじゃ――もがぁっ⁉」


 色々な意味で酷すぎる考察を語りだした男の口を物理的に塞ごうと、希咲は彼の顏に手を伸ばしたが、逆に弥堂の手に口を塞がれる。リーチの差が決定的な戦力差となった。



「そして己がハンターであると勘違いをした愚かな獲物は彼女のおぱんつに手を伸ばすだろう。道端にぶちまけられた小銭に這いつくばりながら手を伸ばす惨めな物乞いのようにな。その後は簡単だ。掴みどころの多いおぱんつを容易に手にし、速やかに次の行為に移るだろう。そして事が済んだ後で今の今まで獲物だと思っていた女に社会的立場を人質にとられ、金を請求された時にようやく気が付くのだ。己が主導権を握っていると思い込まされていたことにな」



 長々と口上を述べ、バンっと片手を突き付けながら主張するジャッジ弥堂の弁論に各人は言葉を失う。脳裡では必死に反証のシミュレートをしていた。


 逆の手には「むーむー」と呻き怒り心頭に抗議をする希咲が居たが、今は彼女に構う余裕のある者は――



「――うそだっ‼‼」



――たった一人だけ居た。



「きっ、希咲さんはそんな子じゃないっ! 彼女を悪く言うな!」


 この短時間で七海ちゃんガチ恋勢となった本田くんだ。



「希咲さんは優しい子なんだ! そんな童貞を騙すようなことはしない!」


 何故彼が自分を擁護するのか、その理由は希咲にはわからなかったが、現状のただ一人の味方と判断して「むぃむぃ」と本田を応援した。



 弥堂に口を塞がれているため彼女の言葉は聞き取れなかったが、自分へと視線を向けて何かを訴える健気な姿に童貞は勘違いした。だって目が合ったから。



「希咲さんから汚い手を離せ! 僕と勝負しろ弥堂っ‼‼」


 ただのガチ恋勢からたった一瞬で過激派へとミラクル進化を遂げた豚は、不細工なファイティングポーズで息を巻いた。突如として主人公ムーブをし始めた彼を慌てて仲間たちが止める。



「ちょ――本田っ、バカっ! 殺されるぞ」

「気持ちはわかるけどね、本田くん。でも暴力はよくないし、それに『言論の自由』は誰にでもあるからね? だってそうだろぉ?」


「だけどっ! あいつ、希咲さんをまるで悪女みたいに――!」


「いや、でもね――「――その通りだ」――え?」


 内輪揉めに挿しこまれた同意の声に全員の動きが止まる。



「そいつの――ジャッジ肥満の言うとおりだ。希咲 七海は悪女などではない」



 本田を擁護したのはまさかの弥堂であった。


 本田と意見が対立していた相手からの援護に、希咲も含めて全員揃って戸惑い「え?」と彼の顔を見た。



「――ど……どういうことなんだい? ジャッジ弥堂」


「……どういうことなんだろうな?」


 余裕たっぷりに質問に質問で返す彼の態度に周囲が騒めく。その言葉の真意を探る為に誰もが長考に入った。



 だが、実際は勿体ぶって煽る為でもなんでもなく、もはや弥堂自身にさえも、自分が一体何を言っているのかわからなくなっていたのだった。



 あまりに議題がどうでもよすぎて、適当に喋っていたら方向性が取り返しのつかないことになってしまったのだ。


 弥堂 優輝は、目的の為なら手段を選ばず何事も徹底的にやる男であったが、目的外のことについてはまるで関心がなく、適当な言動の果てにしばしばこのようなカオスを生み出すことがあった。



「あーその、アレだ。こいつは天才だ」


 そしてそれを真剣に取り繕うことはしようともせず、さらに適当な言葉を上塗りしていく。



 しかし、その弥堂の言葉に法廷院と西野は「ふむ」と関心を示す。見れば本田も若干満足気な様子だ。

 日本人は『天才』という言葉が大好きなのだ。



「さっき言ったとおりの現象を悪意を以て意図的に起こせばそれは悪女だろう。しかし彼女にはそういう素振りは見られない。ちょっと男に触られただけですぐにギャーギャー喚くおぼこだからな」


 その言葉にカチンときた希咲は大層お怒りのようだったが、審査員たちは全員処女厨だったので静聴の姿勢をとった。どうやらこの路線がお気に召したようだ。



「以上の証拠から、彼女は意図的に男を騙すわけではなく、あくまでも偶発的にそういう現象を起こしてしまう天性の才覚を持っていると謂えるだろう。つまり天然モノの――なんだ……? なんかそういうアレだ」


「――小悪魔である、と?」


「そうだ。それだ」


 適当に喋り過ぎて結論が出てこなくなりつつあった弥堂に、ジャッジ西野が眼鏡を光らせながら助け船を出すと、弥堂はすかさず雑に肯定をした。



「これは男を勘違いさせるような言動と容姿で懐に入り込んだところで相手に主導権を渡し敵が攻勢に出る為に攻撃用の陣形に変わったところで素早く空いてるパスコースを限定しながら距離を詰め敵選手が孤立するような位置に追い込んでから囲い込むことでボールを即座に奪還し手薄となった相手ゴールになるべく近い位置から反撃を開始し少ない手数で決定的な場面を作り出すという欧州では主流となる戦術の一つだがそれに独自解釈を加えたこれは、そうだな……仮に――『七海式カウンタープレス』と呼ぶことにしよう」



 半分白目になりながら話す男の口から出た言葉は法廷院たちにとってまるで意味不明だったが、「こ、これが……あの――⁉」などとそれっぽいリアクションで彼らは知ったかぶった。


 日本人はヨーロッパで流行っていると聞くと、それがハイセンスなものであると勝手に思い込んで否定しづらくなるのだ。



「この『七海式カウンタープレス』は非常にロジカルに練られた戦術だ。タクティカル且つ、フィジカル的なプレイスタイルであり、それをフルタイムでやりきった彼女は極めて高度なインテンシティとクオリティを我々に見せてくれた。そして『このおぱんつカワイイでしょ?』などと宣いながらも、その時がくれば躊躇いなくそれを脱ぎ捨てる覚悟を常時備えているこの16歳の日本人は戦士のスピリットまで兼ね備えているのだ。彼女はスーパーだ」


 白目で宙空を見上げながらベラベラと喋る男自身の思考と身体の強度は大分緩んだようで、彼に拘束された希咲がその手から逃れる。



「――ぷはっ。こんのアホ弥堂っ! あんた絶対ふざけてんでしょ⁉ なんなのよ、その外国のインタビューを無理矢理日本語に訳したみたいな台詞は⁉ おいこら! こっち見ろ! どこ見て喋ってんのよっ!」


 すかさず彼に喰ってかかり胸倉を引っ掴みながら責め立てる。



「だいたい『ななみかうんたー』ってなに⁉ 変なもんに人の名前勝手につけておかしな技作んな、バカ!」


「おい。カウンターではなくカウンタープレスだ。その2つが使用されるのはまったく別の局面だ。二度と間違うな」


「なんであんたがちょっとキレてんのよ! あたしが怒ってんのに! おかしいでしょ!」


「うるさい。キレてなどいない」


「キレてんじゃんっ! いみわかんないことばっかゆってるあんたが悪いんでしょ!」


「だから、効果的にショートカウンターを決める為に的確に整備されたカウンタープレスで確実に相手のロングカウンターを潰すのだ。何故この意味がわからない?」


「だって一生カウンターばっかしてんじゃん! わかるわけないでしょ⁉ てか……あんたマジでなんの話してるわけ?」


「…………お前のおぱんつだ」


 話の方向性を完全に誤った自覚のある男は、かろうじてスタート地点だけは覚えていることを、ジト目となった少女へとアピールした。



「その…………いいかい? 話の総括が欲しいんだけど……」


 恐る恐るといった様で会話から消えていた法廷院が進言する。



 なにも弥堂や希咲に遠慮して沈黙をしていたわけではない。法廷院――そして仲間である西野や本田も一様に弥堂へ向ける視線の色が変わっていた。



 その目に宿るものは――畏敬だ。



 ここまでの弥堂の論を全て理解したわけでも共感したわけでもない。


 だが、明らかに自分たちとは違った視点を持ったその考え方に、一定の説得力を感じてしまったのも否定はできない。


 彼らが感じた、自分とは違うと思ってしまった弥堂のその視点とは――明らかに実戦を潜り抜けてきた者のみが持ち得るだろうと思わせる価値観である。


『持たざる者』であるというコンプレックスが、『持つ者』への嫉妬と恐怖で心身に異常を齎してくる。



 しかしだ。



『童貞を捨てる』という慣用句がある。



 それならば――



 相手もまた、ある意味『持たざる者』であり、自分もまた『持つ者』たり得ると。


 法廷院は己をそう叱咤し、平等で対等だと認めた好敵手へと向ける視線に敬意と敵意を混めた。



「総括だと……? そうだな…………アレだ」


「どれよ?」


 口を挟んできた希咲のジト目に目線を合わせしばし彼女と見つめ合う。



 そして無言で彼女の肩を軽く突き飛ばした。



「あいたっ――」


「――つまり冒頭に戻る。効率的だという話だ」


「あんたね! 反論できないからってそういうことすんじゃないわよ!」


 その言葉に彼は応えない。応える必要性を感じなかったからだ。

 つまり図星ということである。



 キャンキャン喚く女を無視して締めに入る。


「要は、そのつもりもないのに戦術的で効果的な装備と行動を選択できるそのセンスを気に入った。掴みやすくて簡単にズリ下ろせるおぱんつを選ぶこの女は極めて性的な女だと認定する。それは便利な女で効率的な女だということだ」


「んなっ――⁉」



 あまりに酷すぎる結論に希咲は絶句し、法廷院は興味を示した。


「ほう……効率が」


「あぁ。便利だ」


「10億シコ?」


「10億シコだ」


 法廷院はその答えを噛み締めるように瞑目した。



「なっなななななな……」


「おい、服を引っ張るな。服の上からでもアウトだぞ痴漢女め」


「うっさいっ! なっ、なによ、ズリお……って⁉ あんたあたしとそーゆーそーぞーしてるわけ⁉ きもいんだけどっ! へんたいっ!」


「なんの話だ」


「絶対させないんだからっ! きもいっ! きもいきもいっ!」


「うるさい」


「きもい!」



 弥堂からの自分の下着に対するあんまりな感想に、効率のいい便利なおぱんつを好む性的な女子であると評された希咲さんは『きもい』以外の語彙を吹き飛ばされ、弥堂の制服をグイグイひっぱることで非難の感情を伝える。


 すぐに気安く触れてくる、そんな同級生の女子に弥堂はうんざりとした。



 弥堂としてはこのような押し問答にしかならない不毛な会話は早々に打ち切りたいのだが、最低最悪なセクハラを受けた希咲としてはそうはいかない。


 怒りと羞恥で目元を真っ赤にしながら涙目で言い募る。しかし――



「あんたね! そういうのマジでキモイから女の子に言うんじゃないわよっ! ガチでサイテーなんだけど! ってか、想像するのも絶対禁止なんだか――って、ちょっと⁉ なんなのあんたたち」


 勢いよく捲し立てていたが、そこに感極まった様子の法廷院たちが雪崩れ込んできて会話を切られた。



「なんだよおぉぉっ! わかってんじゃぁん。実は結構イケるクチだね狂犬クゥン? だってそうだろぉ⁉」

「やっぱりフリルとリボンは正義だよね⁉ 推せるよね⁉」

「いやぁ、なかなか考えさせられる論説でしたよ、ジャッジ弥堂。聞く者によっては誤解を与えかねない乱暴な言葉でしたが、しかしとてもシンプルでそしてなにより本質をついている。感服しました」


 自分と同じ嗜好を持っている。そう判断をした同担歓迎のオタクたちは唐突に懐いてきた。


 意味のわからないことを羅列しながら馴れ馴れしく自分を称賛してくる連中に対して、弥堂は死んだ目で宙を見上げながらただ時が過ぎるのを待った。



「だからあんたらそれやめろっつって――」


 興奮のボルテージが上がり過ぎた彼らを希咲は止めようとしたが、それは叶わなかった。それどころか、彼らは称賛の矛先を弥堂から希咲へと変える。


 先程の再現のようにまたも口々に思い思いの言葉で、希咲のパンツに対する思いの丈をそれぞれが語った。


 希咲も精一杯言い返そうとしたのだが、もはや順番もクソもなく3人同時に訳のわからないパンツ論を大声且つ早口でぶつけてくる勢いに呑まれ、完全に劣勢となる。



 正気を失くしたかのような血走った眼で、正気とは思えないようなことを叫んでくる。なに憚ることなく己が性癖を完全開放して発表してくる集団に希咲は羞恥した。



 やがて顔を紅く染め、目に涙を浮かべてプルプルと震えながら俯いてしまう。



 誰も謀ったわけではないが、弥堂がこの場に乱入してくる直前の『パンツみせろコール』のシーンと同じ構図になってしまった。



「……べっ……べつに、あんたたち喜ばせるために選んだんじゃないし……見せるために穿いてきたんじゃないから……かんちがい、しないでよ……」


 震え声でせめてもの負け惜しみを言うと、それまでは何を言っても聞こえていなかった彼らが何故かその言葉だけはきっちり拾って、さらにわっと盛り上がる。



 希咲は恥ずかしいのか、ムカつくのか、それとも悔しいのか――多分その全部だ――とにかく自分でもよくわかんない感情でグチャグチャになって、何故か自分が泣きそうになっていることだけは自覚できた。


 もういっそ泣いたら満足して帰ってくれるかな? などと見当はずれで自暴自棄な結論を出しそうになったところで、勢いよく捲し立ていた法廷院が語彙のストックが尽きたのか言葉に詰まる。


「――とにかく希咲さん! キミはサイコーだよ! だってそうだろぉ? 可愛くてスタイルもよくって、一見気が強そうで口も悪くて怖そうだけど、でも実はボクらみたいなオタクにも優しくって、それでそれで……えーっと、遊んでそうだけど実際あんまり免疫なさそうですぐ恥ずかしがっちゃったり泣いちゃったりして……そんなの……そんなのさぁっ! ……えーっと、何て言えばいいか……ああぁぁぁっ! クソっ! なんだ⁉ これってなんなんだ⁉ ちくしょうっ‼‼」


 高速で好評価ポイントを並べ立てていくが、しかし結論部分の表現をすることが出来ずに謎の怒りが湧き上がる。それは西野と本田も同じ様子で、推しを褒めたいのにその為の最適な言葉が自らの裡にない。彼らは自身の不甲斐なさに激しく苛立ち限界化した。



 だが、己の裡にないのであれば余所から借りてくればいい。自分の足りない部分を補完してくれる、それが仲間だ。そしてその仲間が自分には居るのだ。


「狂犬クン!」


「……なんだ?」


「なんだ?じゃないだろぉっ! ボォーっとしてんじゃあないよぉっ、ここは戦場だぜぇ! 素人かよ⁉」


「俺はプロフェッショナルだ」


 特にムキになったわけではなかったが、弥堂は脊髄反射でそう言い返した。



「希咲さんだよ! どう言い表わしたらいいかな⁉ キミの知恵を貸しておくれよぉ!」


「あ?」


 必死な様子で助力を乞われるが、その求めているものが理解出来ずに眉根を寄せる。



「やめて弥堂っ! あんたまで参加しな――」


「――だからさっ、ほらっ! 何て言えばいいのかってことだよっ! かわいいんだけどパっと見遊んでそうで恐そうだけど、実は優しくて友達思いで男慣れもしてなくてちょっとした下ネタで照れちゃったりとかしちゃって! 極めつけにさ、派手っぽいからパンツもいやらしそうなのに実際スカートという名のその秘密のベールを捲って見たらなんと! やたら可愛らしいフリフリなおぱんつが隠されていてさ! おまけにそのおぱんつ見られて恥ずかしくて泣いちゃったりとか! そんな感動を! そんな彼女を! どう言い表わしたらいい⁉ どう称賛すべきなんだよおぉぉっ⁉ ただでさえ尊すぎて軽率に死にたくなっているってのに、この感情をどう表現すればいいかもわからないだなんて、そんなのとっても『つらみ』じゃあないかぁっ! だってそうだろおおぉぉぉっ⁉⁉」


『知ったことか』


 目の前で絶叫しながら悶絶する軽蔑すべき限界オタクに対して、またも脊髄反射でそう返答しそうになったが、寸でのところでその言葉を呑んだ。



 彼らが直面している問題に対して関心があったわけでも、何か助け舟を出してやろうと気まぐれを起こしたわけでもない。


 ただ、やたらと早口で捲し立てられた法廷院の言葉の中のいくつかに既視感があったからだ。



 それは最近に聞いたことがあったような内容で、全くを以て奇遇にも今日その出来事を思い出して記憶の中の記録を閲覧しており、そしてそれは今しがた法廷院の口から語られた内容と多分に一致するものであったからだ。


 さらにその記憶の中の誰かは、目の前の彼らでは辿り着けなかった結論までをも語っていたはずだ。



 軽く目を瞑り本日の昼休みに脳裡に浮かべた記録の中の、該当する内容を記憶から思い起こす。



 それを語っていたのは誰であっただろうか。



 廻夜 朝次めぐりや あさつぐだ。




――――要するにそれってさ――――



――――流行ってるわけだよ。ギャルが実は優しくていい子で――――



――――見た目派手で遊んでそうで怖いけど、実は――みたいなさ――――



――――とどのつまりこれってさ、おぱんつなんだよね、おぱんつ――――



――――あいつら遊んでそうで何かいやらしいから黒でTバック――――



――――でもね弥堂君。そんないやらしい黒のローレグTバックが出てくると思ってスカートを捲ったらさ、なんかやったらと可愛いおぱんつが出てきたらどうだい?――――



――――派手なスカートでも地味なスカートでもその中身は捲ってみるまでわかんないわけじゃん?――――



――――そんなわけない。わかってる――――



――――だけどね弥堂君。夢はさ――捨てたくないなって。可能性は――追いたいなって――――



――――考えてもみてよ弥堂君。パっと見遊んでそうなギャルで気が強くて口が悪くて怖くてさ、でも実は友達思いで家族思いで実際男慣れなんかしてなくて純真な照れ屋さんとかさ、ありえないよ? ありえないけれども。でももし、そんなのが実在したとしたらそりゃあもう――――



「――『優勝』、だな」


 カっと目を開いてその言葉を弥堂が宣言した瞬間、発狂寸前のように藻掻き苦しんでいた男たちの動きが、まるで落雷に打たれたかのようなショックでピタっと止まる。



 狂乱の様相を呈していた場に突如静寂が訪れた。



「は? あんたなに言っ――「――静かにっ‼‼」――ひゃぅっ」


 プロフェッショナルなJKの責務に従い沈黙を解消しようとしたが、何故か法廷院に大声で叱られて七海ちゃんはびっくりした。



「なっ、なによっ! 急におっきな声ださないでっ!」


 つい可愛らしい悲鳴を漏らしてしまった照れ隠しと悔し紛れで、法廷院に抗議を送るが彼にはもう聴こえていなかった。



 法廷院はノロノロと車椅子から立ち上がり、まるで救いを求めるかのように頼りなく両手を伸ばしながら、ヨロヨロと定まらぬ歩調で弥堂へと近づいていくと、彼に縋りついた。


 ゾンビか無夢病者かといったようなその有様に怯えた希咲は再び弥堂を盾にして隠れた。



 半ば、心ここにあらずといった表情の法廷院は、弥堂の顏を見上げながら問い掛ける。



「……い、いま…………なんと……?」


「優勝だ」


「……ゆ、う…………しょ……う……?」


「あぁ。優勝以外はありえない」



 その言葉を聞くとそれ以上は何かを問うこともなく、法廷院はただグワっと目ん玉を剥きだしてワナワナと震えた。


 周りを見れば彼の同志である西野と本田も同じ様子で、震える口で「ゆうしょう……ゆうしょう……」と譫言のように、それでいてまるで己の心身に馴染ませるかのように繰り返していた。



 そんな光景に当然の如く、希咲さんはどんびきだ。


「な、なんなの……? 優勝……? マジで意味わかんないんだけど…………てか、ガチできもいからっ……」


 周囲の者どもの様子を不安そうに見周しながら深刻な生理的嫌悪感を抱いている旨を訴えるが、当然誰も慮ってはくれない。



 希咲の申告を無視した法廷院は――或いは本当に聞こえていないのかもしれない――居ても立ってもいられないといった様子で、バっと上半身だけを回し仲間たちの方を向く。


 そして不安気にこちらを見ていた同志たちへと、晴れ渡った夏の空のような笑顔を見せた。


 その笑顔を受け取った西野と本田も、お互いに顔を見合わせながら表情を輝かせる。


 そして示し合わせるでもなく、彼らは雄叫びをあげた。



「うおおおおぉぉぉぉっ‼‼」

「よっしゃあああぁぁっ‼‼」

「ふうううぅぅぅぅぅっ‼‼」



 彼らの人生で恐らく初めてとなる渾身のガッツポーズをそれぞれがキメる。



 突然の男数人の絶叫に希咲は短い悲鳴をあげると心底恐怖し、さらに弥堂の背中に身を隠す。


 しかしそこは位置が悪かった。



 一頻り叫び声をあげた彼らは、わーっと弥堂へ駆け寄る。弥堂の背後にポジショニングしたせいで、目が完全にイッた集団がまるで自分へと迫ってくるかの様に感じられてしまい、希咲は「ぎゃああぁぁぁっ!」と叫びをあげる。


 もはや形振り構っていられないほどにテンパった彼女は、背後から抱きしめるように弥堂の腰に手を周すと、前開きになっているブレザーの前裾を左右それぞれ引っ掴み、彼の背中側に無理矢理引き寄せ包むように自分の頭を隠した。



「やだっ! やだぁっ! こないでぇっ!」


 ガチなトーンで拒絶の意を訴えるが興奮状態の集団には通じない。


 弥堂へと取り付いた彼らは喜びを爆発させた。



 ――セレブレーションだ。



 ダービーマッチの後半アディショナルタイムに決勝ゴールを決めた味方選手にそうするように、口々に弥堂への賛辞と称賛を述べ、そして喜びを分かち合おうとする。


 彼らは最大限の祝福をしながら弥堂にハグをし、肩を叩き、乱暴に頭を撫でた。



 男3人にもみくちゃにされる弥堂の身体が揺れる度に、背中側から「きゃあぁぁっ」だの「いやあぁぁぁっ」だのと女の金切り声が発せられる。


 その声の主たるところの希咲によって、弥堂はわけのわからない手法で拘束をされており、前裾を強引に背中側に引っ張られているせいで両腕も巻き込まれて持っていかれている為、群がる暴徒どもを振り払うことが出来ない。


 そのせいも勿論あるが、希咲ほどではないにせよ、この意味不明過ぎる乱痴気騒ぎには、さしもの弥堂も大分思考停止に追い込まれていた為に反応が鈍り、法廷院たちの無礼を回避することが出来ずいいようにされてしまった。



 弥堂のコメカミに青筋がビキっと浮かび上がる。



 そうこうしている内に感極まった様子の法廷院がピョンコと跳び上がり弥堂の首っ玉に抱きつこうとしてくる。


 さすがにそこまでの蛮行は許さず、弥堂は片手を強引にブレザーから引き抜くと、彼の顔面をガッと鷲掴みでキャッチした。


 数秒ほどそのまま宙吊りにしてやってから、乱暴に叩きつけるように床へと放り捨てる。



 ドシャアァっと結構な鈍い音を立てて倒れ込んだ法廷院の姿に、シンと廊下が一瞬で静まった。


 ふと我に返ったかのように西野と本田が心配そうに彼へと駆け寄る。



 弥堂のブレザーに包まって顔を隠していた為に、何が起こったのかを認知していなかった希咲は、突如訪れた静寂に「……おわったの……?」と、騒ぎが終結したことを期待してそろーっと顔を出す。



 しかし今日の『世界』はとことん彼女に優しくなかった。



 倒れた法廷院を気遣い、容態を伺うように彼の顏を覗き込もうとする二人をバッと指を開いた片手を突き出し本人が制する。


 地に膝を着けたままガバッと勢いよく顔を上げ、二っと男臭い体育会系の笑みを浮かべてみせた。


 リーダーの健在ぶりに彼らは再び湧き立ち喜びの声をあげる。



 テンションあげあげで遊園地のマスコットに突撃し勢いあまって転んだ子供が、興奮しすぎて痛みを感じずにそのまま元気いっぱいに燥ぎ続ける様に酷似していた。


 すぐに彼らの関心は一番人気のマスコットへと向く。すると、違う生物を見るような眼で恐ろし気に彼らの様子を凝視していたために、希咲はモンスターたちと目が合ってしまった。



 痛みを錯覚するほどに心臓が跳ね、反射的にあげた悲鳴は声に鳴らず、彼女はただ強く息を呑むことしか叶わない。恐怖に硬直し、逃走の選択肢を発想することすらできずにいた彼女は、わーっと駆け寄ってくる複数の男たちにあっという間に群がられた。



 半狂乱になった希咲は絶叫しながら、弥堂の制服の背中を引っ掴み、身を守る盾のようにして必死に振り回す。



「ぎゃああぁぁぁぁっ! やあぁぁぁぁっ! こないでぇっ!」


「おめでとう、希咲さん!」


 その弥堂の身体の向こうから順番にヒョコっと顔だけ覗かせて、彼奴らは口々に意味不明な祝福を送ってくる。



「やだぁぁぁっ! ちかいっ! さわんないでっ!」


 希咲はパニックになりながらも盾を上手く使い、押し寄せる化け物たちに懸命に抵抗する。


「はっはぁー! なかなかやるねぇ!」


 そんな彼女の健闘ぶりを見てとった法廷院は更に興奮を昂らせる。もはや彼自身も何に対してなのかよくわかっていない賛辞を述べると、狂乱の中心から少し離れた場所に居た高杉へと目配せをした。

 高杉は無言で首肯するとこちらへ近寄ってくる。



「ななななっ、なにっ⁉ あんたまでっ⁉ や、やるっていうのっ⁉ じょじょじょっ、上等よ、かかってこいっ!…………てか……ねぇ? ふつーになぐりっこのケンカしよ……?」


 かわいそうなギャル系JKは恐怖と混乱のあまり、懇願するように物騒な提案を持ち掛けた。


 しかし、そんな彼女の言葉には反応を示すことはなく、高杉は同志たちの傍まで来ると立ち止まった。



 そして彼ら――『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』の男子メンバーたちは、特に相談をするでもアイコンタクトをとるでもなく、淀みのない動作でそれぞれの手を繋ぐと、希咲と弥堂を中心点に置いて二人を円状に取り囲んだ。


「ななななにっ⁉ なにっ⁉ なんなの⁉」


 予測不可能すぎる狂った行動の数々に焦燥に駆られ、言葉に合わせて弥堂の制服を乱暴に引っ張る。


 そんな希咲に対して彼らはただニコッと爽やかな笑顔を向けると、彼女の周囲をグルグルと回りだした。


 七海ちゃんはびっくり仰天した。



「きゃああああぁぁぁっ! やああぁぁぁぁぁっ! なんなの⁉ なんなのおぉぉぉっ⁉」


 その質問には当然答えず、彼らは「アハハハハハ」と朗らかに笑いながら高速で彼女の周囲を回り続ける。



「おめでとう! 優勝おめでとう!」

「なにがっ⁉」


「かわいいよ希咲さんかわいいよ!」

「きもいっ!」


「キミがっ! キミこそがナンバーワンだっ!」

「こわいっ!」


 意思の疎通など不可能なほどの狂騒へと発展した。



「びとーっ! びとー! びとーってばぁっ‼‼」



 頼れるもののない彼女はいよいよ追い詰められ手に持った盾に縋りつく。



「……なんだ? というかお前いい加減にしろよ」


 いいようにぶん回されていた彼は当然の如く不機嫌だ。


「あれっ! あれっ! やっつけて! ぶっとばして!」


「自分でやれ」


「むりぃっ! やなのっ! きもいのっ! 校則違反だから捕まえて!」


「何の違反になるんだこれは?」


「きもいから校則違反っ!」



 無茶苦茶なことを言い出したクラスメイトの発言内容に弥堂は眉間に皺を寄せた。


「独善的なことを言うな。いいか? 生理的な反応は誰にでもある。それは仕方がない。だが、それを理由にして他者を排斥することは決して社会的に許されることではない。それは差別だ」


「急にまともっぽいこと言うんじゃないわよっ! ぶっころすわよ⁉」


「殺す……だと? 貴様、殺人は校則違反だぞ」


「うっさい! へりくつゆーなっ!」


 過激思想に囚われた少女に対して呆れながらも、弥堂は辛抱強く説得を試みる。



「希咲よ。気持ちはわからないでもない。だが、何事も暴力で解決を図るべきではない。それは野蛮人の発想だ。わかるな?」


「どの口が言ってんのよ! あんたそれしかできないんでしょっ⁉」


「うるさい黙れ。それに……いいか?」


「なによっ⁉」


「もうすぐ18時になる。今からこいつらをぶちのめして身柄を処理していたらサービス残業だ。つまり無駄な行いだ。俺の師が言っていた。神は無駄をお許しにはならないそうだ」


「どこの神よそれっ!」


「どこにでもある、どこにもいない神だ」


「いみわかんないことゆーなっ!」


「チッ、めんどくせぇんだよ」


「それが本音かクソやろーっ‼‼」



 聞き分けのない小娘に、弥堂はついうっかり本音を漏らした。希咲は激昂し彼の制服をさらに強く握る。そして――



「――どいつも、こいつも――」


 彼女の怒りや混乱に恐怖といった様々な感情のボルテージは、螺旋状に絡み合いながら昇りつめ終に最高潮へと達した。


「――い、い、か、げ、ん、にぃ――しろおおおおぉぉぉっ‼‼」


 未だ高速でグルグルと周り続ける連中へ向って、何の役にも立たないクソ野郎を力いっぱいにぶん投げるように押し出した。



 その細身の一体何処に――といった強い力で突き飛ばされた弥堂は、馬鹿笑いをしながら回る4人の内の誰かにぶち当たると、手を繋いでいた彼ら全員を巻き込んで派手に転倒をし、揃ってもみくちゃになりながらいくつもの鈍い音を立てて、男5人密に絡み合いながら床に倒れた。



 ようやく場に静けさが戻ったが、彼らが倒れた際にちょっと引くくらいのヤバい音が出たので、すぐに希咲も我へとかえった。



「あ……っと…………その、ごめん……つい…………だ、だいじょぶ……?」


 もしかして怪我をさせたかもしれないと、気遣わしげに声をかけるが――



「ひゃっはああぁぁぁっ!」


「ヒッ」


 何事もなかったかのように彼らは順番にびょーんと跳び上がり次々に立ち上がってくる。



「おいおい、なにやってるんだよぉ狂犬クゥン。ほらっ、立てよぉ」


 ついでに、縺れ合って倒れ込んだ際に本田の下敷きとなり、床に顔面を強打していた弥堂へと爽やかに手を差し伸べ助け起こそうとしてやる。


 弥堂は強い屈辱を感じ、その手を振り払った。


 ベシンとそれなりな音をたてて叩き落された自分の手を見下ろした法廷院は仲間たちと顔を見合せると、深夜の通販番組に出演する外国人のようなオーバーリアクションで肩を竦め、揃って「HAHAHA!」と笑い出した。



 弥堂は思わず目の前にある彼らの足首を引っ掴んでへし折ってやりたい衝動に駆られたが、寸でのところで、過去に自分の身に起きた屈辱的な出来事の内の第五位を思い出し正気を保つことに成功する。



『あの時よりはマシ』『だから問題はない』と厳しく己を諫めた。



 やがて不揃いに笑うのをやめた男どもは、ゆっくりと希咲を見た。



 ビクっと肩を揺らした彼女は再度の襲撃に備えて構えようとし、ハッと自身の両手を見下ろす。


「たっ、盾が――ないっ!」



 なんたることか、先程敵を一掃する為に投擲してしまったので唯一の装備を彼女は手放してしまっていたのだ。


 今も床に打ち捨てられたままの盾は口の端をビキっと引きつらせて、過去に起きた屈辱的な出来事の内の第三位を頭に浮かべる。



 途端に頼りなさから不安に見舞われた希咲はおろおろとして周囲を見回す。


 代わりの兵装を見つけるか、逃走経路を探すか――敵はそんな彼女の準備が整うのを待ってくれなどはしない。



「よおっし! こうなったら希咲さんを胴上げだぁっ! いくぞぉ、みんなぁっ!」



 どうなったら、なのかは誰にもわからなかったが法廷院の号令のもとに、彼らは手をワキワキとさせながら希咲へとにじり寄り包囲しようする。



 変態どもに迫られる焦燥から彼女は「やだっ……やだっ……」と呟きながら尚も周囲を必死に見渡し、やがて――逃走を選択した。



 踵を返し走り出す彼女に対して、変態たちはその本能に従うまま追走する。



「いやああぁぁぁぁぁっ! こないでってばあぁぁぁぁっ!」



 現在のこの場所は学園内東側に所在する文化講堂2階の、隣接する他の各棟へ連結をしている連絡場所だ。その為にちょっとした広さのある空間となっている。


 その広場内を複数の変態を引き連れた女子高生が縦横無尽に走り回る。



 希咲 七海は身体能力に優れている少女だ。とりわけスピードに関してはこの場にいる他の誰の追随も許さないほどに圧倒的なものだ。


 故に、どこか別の建物に向って一目散に真っ直ぐ走り去ってしまえば、余裕で不埒な追手を振り切ることは可能である。


 しかし、彼女は相当にいっぱいいっぱいになってしまっているのだろう。まるでこの広場から出てはいけないというルールでもあるかのように同じ空間内をあっちこっちに走り回っている。



 苛々としながら立ち上がった弥堂の目の前を、変態を引き連れた半べその女子高生が「きゃああぁぁぁっ――」と必死に走り抜けていき、ややすると今しがた走っていった方向から「わーーっ――」と楽しそうに声をあげる変態どもに追われながら戻ってきて、今度は弥堂の背後を通り過ぎていき先とは別の方向へ逃げていく。



 弥堂はふぅと一息を吐くと脱げかけていた制服のブレザーの袖に腕をとおす。


 そして面倒な事故などが起きぬようにと念のため、今も蹲ったままで浜に打ち上げられたワカメのように床に髪を拡げてシクシクと泣いている白井の腹に足の甲を当てると、引き摺って壁際に押しやった。


 人権をまるで無視されたに等しい非道な扱いを受けたモップ女は、昂る自らの業に嘘はつけず涙は流したままで蕩けた笑みを浮かべた。



 無事にモップを片付けた弥堂は「さて、今度こそ帰るか」と歩き出す。


 しかし、何歩か足を進めたところでやかましい集団の声が背後からまた近づいてくるのを感じ取った。

 うんざりしながら振り返ると一番に目に映ったのは先頭を走る希咲の引き攣ったような泣き顔だ。



 完全にパニックになっている彼女が真っ直ぐ自分に向かって走ってきているので、弥堂は一歩横に避けて道を譲る。すると、希咲は先程までのように広場の向こうまで走り抜けていくのではなく急旋回して弥堂の周囲を回る。


 その後に続く法廷院一同も当然彼女に追従しているので、複数の人間が弥堂の周囲をグルグルと走り続ける恰好となった。



 あまりにくだらなくて、あまりに滑稽なこの状況が、あろうことか自身を中心点として繰り広げられているという現実に弥堂は一瞬気が遠くなる。彼という男としては滅多にないことに怒鳴り散らしてやりたい衝動が湧きあがる。



 さすがにそこまでの醜態は晒したくはないので、ひとまず希咲に声をかけることにした。



「おい、きさ――」


 しかし、彼が呼びかけるよりも先に、急に方向転換した希咲が先程の戦闘時に見せていたような動きと速さで懐に飛び込んできた。



(しまった――)



 そう思ったのも束の間、弥堂が反射行動をとるよりももっと速く、希咲は視界から消え背後に周った。



「ちぃ――」


 あまりに馬鹿々々しい状況に完全に油断をした。最も愚かなのは自分であったと否応なく一瞬で理解する。

 このまま背中から刃物を突き入れられるであろうことは容易に予測ができた。


 己の油断の代償として内臓を抉られることは覚悟し、相打ちで相手の顔面に肘を打ち込むことを決める。



 しかし、想定していた皮膚を穿ち肉とともに裂きながら貫き別け這入ってくる既知の感触はなく、代わりに衣服を強く摑まれた感触を知覚する。


 投げ技を直感しその始動を潰すために、上体を回して半ば当てずっぽうに肘で頭部を狙った。



 しかしパニック状態にあるはずの希咲はそれに的確に対処する。重心を落とすことで器用に弥堂の肘を潜り、タックルを入れるように弥堂の腰に取り付いた。


 すぐに右を打ち落そうとした弥堂は、その的となる相手の顔面を視認して――握った拳を緩めた。



 視線の先にあった希咲の顏が――その表情があまりに情けないベソ顏をしていて、釣られて脱力したのだ。



 もはや自分が何をしているのかすらきちんと自覚出来ていないほどに泡を食った様相の希咲は、真正面から抱きつくように弥堂にしがみつく。


 勿論のこと愛情表現でもなければ、恐怖と混乱のあまり頼れる存在に縋りつくため――などでも当然なく、彼女の行動の目的は身を守る盾を得るためだ。



「むりむりむりっ! マジむりっ! あっちいって!」


 ガシッとしっかり弥堂のベルトを掴み相撲でもとるように向きを変え、彼らと自分との間に弥堂を押し遣る。


 弥堂の目の色が白んでいく。



 彼女を追いかけまわす不埒者どもは、希咲が「わーきゃー」と嫌がる姿を見るだけで楽しくてしょうがないといった乱痴気具合で、着かず離れずを保ったままで彼女の背後をとろうとまたも周囲を回りだす。


 すると、あくまでも彼らに対して弥堂で防御をしようと試みる希咲も彼らに合わせて連続してクルクルと向きを変えるので、ほぼ抱き合っているような恰好の二人は、まるで不出来なステップで拙劣な社交ダンスでも踊っているかのようであった。



 その有様に苛立ったのは弥堂だけではない。



 床に這ったままで口惜しそうに様子を見ていた白井が、嫉妬の心が唆すままに希咲の足をガッと掴む。



 バタバタと動いて連続して重心を移し続けている最中にそんな危険行為をされれば、当然の如く希咲はバランスを大きく崩すことになる。


 そしてさらに必然的に、その彼女に腰に腕を回してしがみつかれている弥堂もその道連れとなった。



 急激に体勢が崩れたことで運動能力・反射神経に優れる二人はそれぞれに対処をしようとする。


 身体を斜めに倒しかけている希咲は弥堂のベルトをより強く掴み直立を維持しようとし、弥堂は転倒しかけたダンスパートナーを放り捨てることで己だけは難を逃れようとした。



 結果――



「ふぎゃっ⁉」

「ぅぐっ」



 希咲の片手だけは外すことに成功したものの、もう片方の手にはバッチリとベルトを摑まれたままの状態で、弥堂が希咲を押したせいで余計に横方向への力だけが増幅された形になり――結果的に二人仲良く並んで顔面から壁にぶつかった。



 弥堂が顏を抑える横で、希咲はズルズルと壁を滑るように腰を落とすと、ペタンとお尻を着けて床に女の子座りになる。



 そして――



「――うえぇぇぇぇ……もぅやだぁぁぁぁぁ……」


 ただでさえ追い詰められていた希咲さんは、物理的なダメージにまで後押しされ本格的に泣きが入った。



「なんでころぶ方にいっしょにとぶのっ⁉ ひっぱってくれてもいいじゃんっ! ――はれ?」


 床をバンバンしながら気の利かないパートナーに向ってダダをこねていたが、突如として身体に感じた浮遊感に気を取られる。



 ビキビキと大量の青筋を浮かべた弥堂が、元から悪い人相をさらに険しく歪め、希咲の襟首を掴んで持ち上げていた。



「ちょっと! これやめてってゆったじゃん! あんたなんべんおんなしこといわせんのよ、このばかっ!」


 すぐに彼へと抗議の声をあげるが――



「……ナメやがって……クソガキが……」



 彼は大層お怒りの様子であった。



 そういえばこいつが感情露わにしてるの見るの初めてかもー……などと場違いな感想を呑気に浮かべた希咲だったが、その顔色をすぐに変えることになる。



 弥堂が暴徒たちの方を目標に、手に持つ自分を振りかぶるような体勢を作ったからだ。


 とてつもなく嫌な予感がして希咲はサーっと顔を青褪める。



「ちょ――ちょっとまって! やだやだやだっ! うそでしょっ⁉」



 信じたくない。冗談だと言ってほしい。



 そんな願いをこめて叫ぶが、横目でこちらに向けられた弥堂の眼を見て、最悪の未来がこれから自分に降りかかることを確信する。



「なんでっ⁉ なんでっ⁉ やだっ! やなのぉっ! それだけはやめてぇっ!」


 必死に泣き喚き懇願をするが彼はあくまでも非情で無慈悲だ。



「せいぜい楽しんでくることだな――」



 先程の高杉との戦闘時に法廷院に対して弥堂が投げた爆竹と同じような感覚で、ポイっと投げ放たれた希咲は放物線を描くようにふわっと軽く天井付近にまで上がってから、自重に従い今度は落ちながら落下地点へと近付いていく。



 運動能力に優れる彼女だ。着地をすること自体は別段造作もない。



 しかし着地可能な範囲には、狂った形相の男たちが今か今かと空の手を伸ばして待ち構えていた。


「ヒッ――」



 漏れだしそうになる悲鳴を懸命に堪え、どこか逃れることの出来る道筋を空間を賢明に見出そうとする。



 しかし、非情で非常な現実には必ずしも正解となる生存が約束されたルートが用意されているわけではない。



「いっ――」



 彼女の向かう先は、複数人の密集した男たちで埋め尽くされていた。



 受け入れ難い未来が訪れるまで、考える時間も覚悟を決める時間も逃避をする時間すらも与えてはもらえない。時間は決められたとおりに平等に誰しもに等しい速度で流れていく。



「――いやあぁぁぁぁぁぁっ!」



 そして重力は――その法則を定めた『世界』は、哀れな少女を狂った男たちへと与えた。



 それは悲運故か、それとも――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る