序-28 『終リ裁キ』

 安楽を求め喘ぎ、意図はなくとも生の欲求の為に勝手に開いてしまう上と下の唇――


 その隙間の中、洞の奥の道からは、取り入れたいはずなのに細く細かく排出されていくばかりで――



 どのくらいの時間が経ったのか、経っていないのか。それが長いのか短いのかすらも定かではなく、気怠さの海の中で自分が浮かんでいるのか沈んでいっているのかもわからないまま漂っていた。


 そんな錯覚の霞で曇った意識上ではなにもかもがあやふやなはずなのに、ただ一つ、断続的な一つの音だけをやたらと鮮明に認識させられている。


 頭の中で自分を支配するように響くその音が、自分自身の荒い息遣いであることは理性ではわかっているはずなのに、それがどこか遠くの出来事で、まるで他人事のように希咲 七海きさき ななみには感じられていた。



 もっと欲しい。足りない、まだ足りないと、息も絶え絶えに喘いでいると俄かに口元を覆われる。


(なんで……どうして…………まだ、なのに……)


 自分の欲求を満たさせてくれない、口元を覆ったその自分とは違う温度の何かに手を掛ける。手で触れたことで、口元を覆うそれが誰かの手なのだと気付くことが出来た。しかし力をこめる以前に身体の操作が覚束なく、吸息を邪魔するそれを退けることが出来ない。


 今も意思とは裏腹に排出され続ける吐息はその手に阻まれ、口周りに拡がり渇きかけた唇に不快な湿り気を齎した。


 自らが吐き出した息を体内に押し戻されながら、このまま海の中もっと深く、光も届かぬ暗い場所へと沈んでいくのだろうかと、諦観に似た錯覚を抱いていたら実際はそんなことはなく、徐々に思考と身体各部にラインが繋がり正常へと回帰していく実感を得た。



 感覚と思考が明晰になっていく中でまず、あーでもない・こーでもないと何かを語らう複数人の男たちの声を認知する。それは本当に他人事なので特に気に留まらず視界の方に意識を繋いだ。



 朦朧とした目を向けた先にはロックウールの天井板があるはずだが、その天井との間にある何かに阻まれ空が低い。呼吸が整っていくに連れてぼやけていた視界が晴れていくと、それが誰かの顏なのだと解った。



 男の顏。



 無機質な貌。



 自分をこんな目に合わせておいてこっちを見向きもしない酷い男の顏に、胸の奥から熱が沸き上がる。


 皮肉にもその怒りの熱量を以て思考に明瞭さが戻った。億劫さと戦いながらも努めて表情を歪めてその酷い男――弥堂 優輝びとう ゆうきの顏をどうにか睨みつけてやると、彼は目玉だけをこちらに動かし希咲の目を何ら感慨もなく見つめ返してくる。そして彼は希咲の口元を覆う手を外し、目線も彼女の顏から外した。



「……あっ、んた……っ………マジっ……で………ざけん、な……っ…………」



 本当は視線の先の――とは謂っても誠に遺憾ながら割とすぐ近くにある――腹ただしい無表情顏を思い切りぶん殴ってやりたいのだが、現在は背後から自分を拘束する彼に甚だ不本意ながら完全に体重を預け寄りかかる形になっており、業腹しいことに未だ身体に充分な活力が戻らずそれに甘んじていなければならないので、せめてもと怨嗟の意を息も絶え絶えに唱えた。


 すると彼はまた顏は外方に向けたまま眼球だけを動かしてこちらに視線を遣ると――それが何故か無性に腹立だしい――平坦な声を発した。



「ほう、まだ足りないか? 随分頑張るな。もう一度同じ目に遭いたいか」


「それ、は……やめ、て……謝るから…………で、も…………あたし、絶対……悪く、ない、から…………」


「何を言ってるかわからんが、過呼吸寸前までいっておいて中々のガッツだな。それは評価してやろう」


「あん、たね………こん、なんなる、まで……女の子、擽る、とか……小学生だって、しない、わよ…………あとで、殴らせ、なさいよね」



 その言葉には彼は応えず、彼の肩に乗せる恰好になってしまっている自分の頭が軽く持ち上げられたことで、肩を竦めるジェスチャーをして流されたのだと認知した。



 盛大に口汚く罵りながら引っ叩きまわしてやりたい衝動に駆られるが、今のコンディションではそれは難しい。少なくともその判断が出来るだけの理性は回復した。怒りの熱で煮え滾り精神は活力に満ちているのに、身体は気怠くて動けないし動きたがらなくて動かせないという、この心と身体のアンバランスさが不愉快で堪らない。


 今は雌伏の時だと希咲は目を閉じて憎き男の顔を無理矢理視界から消す。


 後でこいつを引っ叩くのは確定事項だとしても今はまず、こんな男に寄りかかっていないと立ってもいられないという情けない状態から脱却することが先決だ。それには安静にして状態を安定させる必要がある。


 こんな男に触れられたくないし触れたくもないが、身体を離して床にへたり込むのは現状よりも屈辱的なことだと何故か感じられた。自分でも物事の優先順位を間違えているような気がしたが深く考えないようにする。



 希咲は意識して弥堂のことを意識から外した。



 すると今度は、目を閉ざし視界を塞いだことで、先程無視をした複数人の男達の話し声が耳を通って自然と意識上に上がってくる。彼らは――間違いなく法廷院たちだが――何やら『入っていたのか入っていなかったのか』ということについて熱く議論を交わしているようだ。


 ちょっと目を離した隙に何の話をしているのか訳が解らなかったが、意味を知ったところで間違いなくロクでもない話題であろうことは容易に予想がついたので、言語は認知せずに音だけで聴き流した。


 そうやって体力の回復に努めているとやがて女の震え声が環境音に追加される。強く関心を惹かれたわけではなかったが、ほぼ反射で薄目を開けてしまう。開けてしまったのならば仕方ないと様子を確認することにした。



「……こんなの、おかしいわ…………」


 先程の物議を醸した弥堂と希咲の接触プレーのシーンに関して、厳正なる審議に及んでいるとそんなか細い声が被せられる。

 法廷院は議論に熱くなっている仲間たちを制し、その声の主の方へと目を向けた。


 彼のその目は優しくも、ただただ痛ましさを携えていた。


「白井さん……」


 視線の先の彼女――白井 雅は跪き拳をも床に着け打ちひしがれていた。こちらに切実な想いを伝えてきてはいても彼女は顔を上げてはおらず、もしかしたら泣いているのかもしれない。

 彼女の表情を窺うことは出来ないが、しかしその心情は痛い程に理解出来てしまう。


 敗北者の気持ちを。


 だから、彼女の名を呼ぶことしか出来なかった。


「…………納得が、いかないの…………出来ないのよ……だって、そうでしょう……?」


「……もういいんだよ、白井さん…………もう、やめよう……」


「何がいいというの⁉ いい訳がないでしょう! こんなの認められないわ!」


「…………」


 悲痛に荒らぐ声が吐露するその心情は、あるいは無様で、あるいは醜悪で見苦しいものだったかもしれない。だが、法廷院はただ憐れだと感じた。



「……だってこんなのおかしいもの…………不公平……そうよ、不公平だわ、こんな判定……!」


「……なんだって?」


 黙って白井の心情の吐露を聞いていた法廷院だったが、その言葉だけは聞き咎めた。



 無理もない。出した答えに因って、誰か幸せになれない人ができてしまうのならば、いっそ全員等しく不幸にしてしまえという主義の下に活動をする彼にとって、それだけは受け入れられないのだ。


 公平さを保つ為ならば答えを間違うことも厭わない。彼はそういう男であった。



「一体何が不公平だって言うんだい? 結果に異議を唱えるのはいいさ。でも過程に嫌疑をかけられるのはボクだって納得がいかないよぉ。だってそうだろぉ? ボクが公明正大な男であるという前提を覆すということは、ボクに死ねって言っているのと同義だからねぇ」


 不正を疑われた法廷院が、一見筋が通ってそうなだけでただそれっぽいだけの反論をすると、そこでようやく俯いていた白井が顔をあげ、ギロッとした眼を向けてくる。


 法廷院は怯んだ。


「不正よっ! 不条理で不平等よ‼ 今回の審査員はメンバー構成に不審点があるわ!」


「不審だって? ボクや同志たちに何の不満があるっていうんだよぉ?」


「大ありよ‼ だってそうでしょう⁉ 審査員のメンバー全員が同じ陣営から選出されているだなんて不正以外の何ものでもないわ‼‼」


 白井はその凶眼をグルっと回し、法廷院同様に審査員を務めた西野や本田にも疑惑をぶつける。


 西野くんと本田くんは怯んだ。



「い、いや……同じ陣営って…………あのね、白井さん? そのボクらとはキミも同じ陣営なんだけれども……」


「言い訳なんて訊きたくないわ!」


「いっ、言い訳っていうか……その理屈でいくとむしろ不利になるのは希咲さんの方なんじゃ――」


「うるさいっ‼‼ なによその目は! 上辺だけの薄っぺらい同情なんていらないわ! 私を哀れむのなら私の味方をしなさいよおぉぉぉっ‼‼」


 物理的なナニカさえ口から吐き出しそうなほどの憎悪の絶叫に、根は大人しい男子生徒たちは怯えた。特に気の弱い本田くんなどはつい『ごめんなさい』などと、謝罪の言葉を口にしてしまっていた。


 怪物は言葉が通じないからこそ怪物なのだ。



「――弥堂くんっっ‼‼」



 怪物は突如矛先を変える。途中で会話を打ち切られた形になる法廷院は、それに憤るでもなくむしろ安堵した。


 怪物を無理に説得しようとしても、このようにダメ論破をされるだけだからだ。



 白井から呼びかけられた弥堂は特にどこを見るともなしに見ていて何も返さない。またも大騒ぎを始めた彼らの様子を先程から見ていたので、確実に顏はそちらに向けているのにも関わらず、一切の反応をしなかった。



「…………ねぇ」


「なんだ?」



 弥堂が反応しないせいで奇妙な静寂が形成された場の空気に耐えられず、先程まで満身創痍に近い状態であった希咲が気を遣って、未だ彼の肩に頭を乗せて寄りかかったままで割とすぐ近くにある彼の顔を気怠げに見上げて話しかけると、彼は普通に言葉を返してきた。


 希咲はイラっとした。



 しかし彼女はプロのJKだ。例えこうなるとわかってはいても、場に妙な無言の時間が蔓延るのは許せないのである。



「……呼んでるわよ?」


「呼ばれてなどいない」


「呼ばれてるってば。めっちゃこっち見てるし」


「気のせいだろう」


「や、あんたね。いくらなんでもそんなパワープレー通らないって」


「問題な――「――弥堂くんっ‼‼」――…………」


「ほら」


「…………」


 希咲にジト目でそう促されると、弥堂は無言で小さく舌を打った。こうなっては仕方ないと白井の呼びかけに応じる。



「簡潔に言え」


 弥堂は簡潔に伝えた。


 本人にそのがあるのかは不明だが、およそ人間が人間に向けるべきではない侮蔑の混じった冷酷な眼差しに、明確にそののある白井はブルリと一度その背筋を震わせると努めて自制し、己が要望を発言する。



「判定を……訊かせて欲しいの……」


「判定だと? 何の話だ? きちんと理解出来るように発言をしろ、無能が」


 簡潔にと言われたから簡潔に言ったのに今度は言葉の足りない無能だと罵られる。これぞパワハラと謂わんばかりの余りに理不尽な弥堂の物言いにしかし、白井は鼻息を荒くした。



「……もちろん、下着の話よ。私の下着と希咲の下着、一体どちらが優れているのか忌憚のない意見を訊かせて欲しいの」


「はぁっ⁉」

「ほう……」



 白井のその言葉に嫌悪の声をあげたのが希咲で、感嘆の意を漏らしたのが法廷院だった。弥堂は眉を顰めた。



「それを俺に訊くことに何の意味がある? 特殊な嗜好でもなければ、男の俺やそいつらに女性用品の機能の優劣などつけようがないだろう。違うか?」


「違うわ。機能の話をしているんじゃないの――いえ、ある意味、機能ね。つまり私のパンツと希咲のパンツ、どちらがより煽情的で男性の情欲を煽るか。どちらが弥堂くん――貴方の仰角をより急斜にする性能に優れた機能を保有しているのか。貴方はそれをはっきりと口にする責任があると思うの」


『お前は頭がおかしいのか?』



 そう声にしかけて弥堂は口を閉ざした。代わりに眼を細めて白井を視定めようとする。


 高確率で気が狂っていると思われる人間に対してその真偽を問いかけることに意味はないからだ。



 すると弥堂が黙したことで出来た会話の間隙に希咲が割り込んだ。


「ちょっと! 白井、あんたいい加減に――」

「――黙りなさいよおおぉぉぉっ‼‼」


 割り込もうとしたが、即座に爆炎の如き強烈な怒りを叩き返された。



 地に這ったままの姿勢で憎悪の眼差しを希咲へと向けてくる。昏い情念とは裏腹に色鮮やかな毛細血管が眼球を彩る。


「余裕ぶって見下してんじゃないわよっ! あれで勝っただなんて思わないでちょうだい!」


「別にあんたの勝ちでいいわよ。結果がどうとかじゃなくって、どっちがどうとかって話されるのがイヤだっつってんの!」


「真面目に勝負する価値すらないって言いたいの⁉ どこまで私をバカにすれば気が済むのよ‼‼」


「うぅ……もぉやだよぅ……」


 七海ちゃんはヘタれた。



 あまりの会話の成立の成功率の低さに憔悴したのだが、白井はそれすらも言葉を返す価値すら感じていないほどに見下されていると受け取る。


 白井さん視点で現状の弥堂に寄りかかる希咲を見ると、自分をマットに沈めた歴戦のチャンピオンがロープに腕をかけニュートラルコーナーで優雅に佇みながら、『BOY、キミにタイトルマッチのリングはまだ早いぜ。出直してきな』と言わんばかりの眼で見下ろしてきているように映っている。



 実際は嫌いな男を支えにしなければ立ってもいられないほどに消耗し、尚も蒸し返されようとしているセクハラにもう勘弁してくださいと懇願をしているのだが、ヒトは自分の目を通してでしか『世界』を見ることは出来ず、そして見たものも自分の性能でしか情報処理をすることが出来ないのだ。


 人の世の複雑さを嘆いて、七海ちゃんは室内シューズの爪先で床をグリグリしたかったが、そんな元気はなかった。



 そんな彼女へのこれ以上の追い打ちを防ぐ為――な心づもりは当然欠片もないが、希咲が会話を諦めたので、その空いたスペースに今度は弥堂が顔を出す。



「何故俺にそんな責任があるのかはわからんが、そもそも、さっきそいつらがお前が言ったようなことを長々と喋っていただろう。それで足りんのか?」


「不足ね。何故なら、彼らは謂わば身内同士よ。審査員全員が同じ団体から選出されるなんてそんなのとっても不公平だと思わない?」


「その上で、その審査員どもと同じ団体に所属するお前が負けたのならば、これ以上の公平性はないのではないのか?」


「綺麗事で誤魔化さないでっ‼‼ 私はそんな言葉が訊きたいんじゃないの!」


「何言ってんだこいつ」


 あまりの破綻ぶりに然しもの弥堂も返す言葉を失くす。すると、


「ねぇ」


 懐にいる希咲からジロリと視線を向けられる。



「なんだ」


「わかってると思うけど、余計なこと言ってこれ以上拗らせないでよね」


「わかっている」


「……ホントかしら」


 弥堂がクラスメイトの女の子からのお願いに快く応じていると、会話に法廷院が参入してきた。



「なるほどね。白井さんの言うことにも一理あるね」


「「ねーよ」」


 弥堂と希咲から異口同音で即座に全否定をくらったが、その程度のことでは彼は怯まなかった。


「さっきも言ったとおり、審査するにあたってどちらかに肩入れをして結果を捻じ曲げただなんてことは絶対にないよ。ボクらの誰一人としてね。それは間違いなく神にも誓える。だけどね――」


「なに勝手に語りだしてんのよ。訊いてねぇっ――「――だけどっ!」」


 無作法な妨害が入りそうになったが法廷院は勢いで乗り切る。


「――だけど、嗜好に偏りがなかったかと問われれば確かにその可能性は否めない。というのも、事実ボクたちはもともと同志であり同士――つまり同行の士だ。気の合う気のいい愉快な仲間たちさ。趣味嗜好という点において共通し共有しているということは紛れもなく事実さ。だってそうだろぉ?」


「代表……それじゃあ……?」


 光明を得たような表情で期待を含ませた眼差しを送る白井に対して、法廷院は安心させるように微笑んでみせた。



 そして続ける。



「つまり白井さんの指摘どおりの事実がある以上、彼女の提案どおり外部の審査員を招聘してその見解を伺う必要があるとボクは判断した。よって‼‼」


 一度言葉を切りつつ言葉尻で声を荒げ、余計な口を挟まれないように、さらに大袈裟なジェスチャーを入れて周囲を牽制した。

 片腕を振り上げたままの姿勢で間接視野にて仲間たちの表情を確認する。



 今行っているこれはパフォーマンスである。



 法廷院は同志たちに対して、自分は批判を受けたとしても貴重なご意見として真摯に受け止め、それに寄り添った形で解決案を出すことの出来るタイプのリーダーなのだとアピールしたのだ。


 見ると『弱者の剣ナイーヴ・ナーシング』の面々は一様に満足気な様子だ。法廷院もそれに一定の満足感を得た。バッと勢いよく掲げた腕を振り下ろす。


「よって! ここに延長戦の開始を宣言する‼‼」


 わっと歓声が湧きあがった。



「ちょっと! あんたまた――」

「――さぁ! 正真正銘の決着の瞬間だぁ! 最後の審判を下すのはキミだよ!」


 すかさず希咲が制止しようとしたが、残念ながらこの場には彼女の話を聞いてくれる人間は一人もいなかった。


 法廷院がオーバーアクションで指し示したのは当然、弥堂だ。



 弥堂 優輝は思う。



 なんなんだ、このくだらない状況はと。


 この連中は一体どんな意味や必要性を感じてこのような事態を起こし、そして自分を巻き込むのだろうと。


 この場の人間の全ての目が自分へと向けられている。



 弥堂はかつて一時的に過ごしていた地方で神敵認定を受け、異端審問にかけられた時のことを思い出す。


 街の広場にて磔にされ足元に火をくべられながら多くの人間に石を投げつけられた時の記憶だ。あの時もこうして多くの注目を集めていた。


 そのようなロクでもない経験を想起し正気を保つが状況が変わるわけでもない。



「弥堂っ! あんた絶対やめてよね! 思い出すのも禁止なんだから!」


 すぐ近くで希咲が何か言っているが無視をする。


「アハハハハハハっ‼‼ 観念することね、希咲 七海っ! あなたはもう終わりよ!」


 イカれた女があげる哄笑の声が耳障りだったので意識から外した。



「作法はもうわかっているだろぉ⁉ 恥ずかしがらずにキミの女子のパンツへの思いの丈をぶちかましてくれよぉっ!」


 そう煽りながら法定院がバチバチっと不細工なウィンクを送ってくる。

 先程の自分たちの審査の真似事を踏襲しろという意図だろう。



 弥堂 優輝は考える。



 この戯言に付き合うか、付き合わないか。



 当然普通に考えたらこのような茶番に付き合う理由はない。公序良俗に反する催しであり倫理的にも憚れる。


 しかしその場合、この連中との問答をさらに続けることになる。それは大変に不毛なことであると、これまでの時間でよく解っている。



 では、付き合うか?



 そんなことをしても何もメリットはない。

 とはいえ、メリットがないのはどっちの場合でも一緒だ。



 ならば、どちらを選んでもメリットがないのであれば、よりデメリットの少ない方を選択するのが賢明だろう。



 この場合のデメリットとは、主に時間――それに伴う体力と精神力の消費だ。それは少なければ少ないほどいい。



 鑑みて、弥堂は彼らの茶番に付き合うことを選択する。



 次に問題となるのが――思考しながら胸元の希咲の顏をじっと視る。



「……ん? あによ? あに見てんのよ」


(――どちらを勝たせるか、だが……)


 怪訝そうに表情を歪める希咲の言葉には応えずに考える。



 一応、今後自分にとって有益に使用していく予定なのはこの女の方だ。白井には要はない。

 だからこいつに都合よく審査をすべきだろう。


 そうすると、この女を勝たせるべきか。果たしてそれが正解なのか。



 対象の心情を探るべく、より希咲の顔を注視する。


「ちょっ、ななななななにっ⁉ なんなのっ⁉」


 近距離で自分の顏を凝視してくる男からの圧迫感が増したことで、距離までもが縮んだように希咲には感じられ、彼女は激しく狼狽した。


「あっ、ああああんたまさかキスしようとしてんじゃ――やだやだやめてっ! ちかいっ! ちかいってば!」


 弥堂の顔面に手をあててグイっと押し返したところで彼女はハッと気付く。


(てか、あたしなんでこいつにずっとくっついてんの⁉ いくら身体がだるいからってありえないでしょ!)


 先程自分から彼の顏をボーっと見つめた時は気に掛からなかったが、彼の方からジッと顔を見詰められたら何故か急に嫌悪感と気恥ずかしさが湧きあがってきた。



 希咲は怠さの残る身体に鞭を打って弥堂から身体を離す。


 しかし未だ本調子でないのかバランスを崩しよろめくと、腕を伸ばした弥堂に腰を支えられた。即座にその手をぺちんっと叩き落とし、一歩分距離をとってからサイドテールをぴーんっと上に伸ばして威嚇する。



 それから手早く衣服の乱れを直し、体裁を繕うようにコホンとひとつ咳払いすると――


「勘違いしないでよねっ! たまたま寄りかかるのに便利そうだから使ってやっただけで、別に触るのオッケーしたわけじゃないんだからねっ!」


 右手をぶわっと振りかぶってから、びしっと指差してそう宣言する。



 戦後、敗戦のショックにも負けずに日本国民一丸となって培ってきた伝統的なツンデレ芸に、わっと歓声をあげて法廷院たちが拍手をする。


「なっ、なによあんたたちっ! バカにしてんでしょ⁉ 嘘じゃないんだからっ!」


 照れ隠しなのかなんなのかは弥堂にはわからないが、周囲にそう喚き散らしている彼女を見て考える。



 奴らの言う審査とやらに対して彼女はずっと否定的な姿勢であった。


 だが、それはあくまでも自らのおぱんつに関して言及されることを嫌っているからであって、仮に審査自体が強行されることになれば、その勝敗についてはどうでもいい――という訳では必ずしもないだろう。



 弥堂はそのように考察した。


 彼にしては珍しくだいたい合ってた。だいたい、は。



「ちょっと、あんた聞いてんの⁉ あたしが背もたれにする為に背中であんたを触ってただけで、あんたがあたしに触ってたわけじゃないんだから! わかってんの⁉」


 さっきの痴漢問答の時とは真逆のことを主張してくる希咲の言葉に、それは一体どう違うのか、どんな心理状態でそんな意味のわからないことを発言するのかと若干気をとられる。


 そして、『まぁ、負けるよりは勝つ方が好みだろう』と見当をつける。先程彼女の片足を拘束していた時もよくわからない負け惜しみを言っていたし、多分負けず嫌いで合っているだろうと。


 長考したわりに最後の最期でそんな大雑把な結論を出した。面倒くさくなったのだ。



「さぁ、弥堂クン! この全裸でしか勝負の出来ない憐れな女に現実というものを突き付けてあげてちょうだいっ!」


「どういう意味だコラっ! ひっぱたくわよ!」


「アハハハハっ、滑稽ね。もはや暴力に頼ることしかできないだなんて。そんなことしたって審査員の心象が悪くなるだけだわ。私をどうにかするよりも、審査員に媚びでもしたらどうかしら? その場でガニ股スクワットでもして、そのぶりっこおパンツを見てもらいなさいよ」


「別にぶりっこじゃないしっ! ふつーにカワイイでしょ!」


「さぁ? 生憎それを決めるのは私じゃないの。あ、ちなみに。弥堂クンは特別審査員だから彼の票は100ポイントよ。つまり彼の票を得た者が勝者となるわ」


「清々しいほどに後付けね……さっき言ってた公平性はどこにいったのよ……」


「フフフ、なぁにぃ? そんなに敗けるのが恐いのぉ? さっきまでの余裕はどこにいったのかしらぁ?」


「必ず自分が選ばれるっていう、その絶対的な自信はどっからくんのよ……メンタルどうな――って、あっ!」



 ハッと気付く。



(――そうよ! なにも無理してこいつを説得する必要ないじゃない。ムリだし。さっさとこの変態女を勝たせてやってお開きにすればいいんだわ)



「あらぁ? どぉしたのぉ~? 急に黙っちゃってぇ。また泣いちゃうのぉ~?」


 発言の途中で言葉を切り少し俯きながら思考を始めた希咲の様子を見て、効いていると判断したのかクソウザ口調で煽ってくる変態をチロリと見遣る。


 人差し指で唇を軽く撫で思考を続ける。


(一回勝たせたら卒業するまでマウントとってきそうで死ぬほどウザイけど……そうね――今後関わんなきゃどうにかなんでしょ。とっとと帰ってもらおう)



「ん~ん、ゴメンねぇ? ちょっと考えこんじゃってぇ。だってぇ~、またあたしが勝っちゃったらぁ、白井さん泣いちゃうかもしれないしぃ~、かわいそーかなぁってぇ」


「やだもぉー、希咲さんやさしー。でもぉ、希咲さんが心配してるようなことにはなんないからぁ、だいじょーぶだと思うなぁ。私は希咲さんの方が心配ぃ~」


「えー、そうかなぁ~? でもぉ、あっちの二人ともあたしの勝ちって言ってくれたしぃ~。白井さんすっっごくショック受けてたからぁ、なんかゴメンねぇーって感じぃ? ぜぇんぜんそんなつもりなかったんだけどぉ~」


「うふふふふふふ。もぉ~、気を遣いすぎだってばぁ~。ショックなんかちっっとも受けてないからぁ」



 朗らかな笑顔と柔らかな口調で繰り広げられる女子たちの会話に、その場に居た男子たちの中で気の弱い者どもは怯えた。誰も止める者がいないので尚も続いていく。



「私なんかのことよりもぉ~。希咲さんの方がたいへんかもぉ~」


「えぇ~、なんでなんでぇ? あたしわかんなぁ~い」


「だってぇ、明日から男子たちに『媚び媚びなパンツ穿いてる』ってイジメられちゃうかもぉ。男子って子供だから『ちょっと見せてみろよ』とかってぇ、いい年してスカートめくりとかするかもしんないしぃ? 希咲さんって繊細だからぁ、またパンツ見られて泣いちゃうかもぉ~。希咲さんかわいいしぃ~、色んな男子にモテるからぁ、私とぉってもしんぱぁーい」


「えーーっやだぁ~、そんなのこわぁ~~いっ。でもぉ、あたし的にはぁ~、白井さんの方が心配かなぁって。だってだってぇ、前にせんせーに下品な下着を注意されちゃったのにぃ、まぁたそんなえっちぃパンツ穿いてきちゃってぇ。せんせーとか好きな人にバレちゃったらたぁいへぇ~んっ。でもでもぉ。安心してねー? あたし聖人と一緒に居ること多いからぁ~、なるべくバレないよーに気をつけておいてあげるねぇ~?」


 翻訳すると、『お前のぶりぶりパンツ言いふらすぞ?』という脅迫に対して、『てめーのエロ下着を教師と好きな男にチクんぞ?』という脅迫が応酬された図だ。


 二人とも依然、爽やかな微笑みを浮かべ余所行きの声音のままだが、よく見ると額に青筋がビキっていた。そんな様子を男子たちがハラハラと見守る。



「わーありがとー。希咲さんやっさしー。やっぱりー、かわいい子ってやさしーよねー」


「えー、そんなことないよー。白井さんの方がかわいいってー」


 あははー、うふふーと笑いあった少女たちはそこで同時にスッと真顔に戻ると、ぐりんっと顔を回しギンっとした眼差しを向けてくる。


「弥堂っ!」

「弥堂クンっ!」


 二対の眼を向けられた弥堂はうんざりといった様相で、ただ鼻から細く嘆息した。


「スカしてんじゃないわよっ! 他人事みたいな顔すんな!」


「早くこの女に引導を渡してちょうだいっ! 私のパンツを選ぶのよ!」


 恋人でも夫でもない男に対して、自らの着用している下着の品評をするように強要をしてくる。


 弥堂はこの国の女学生たちの性の乱れを嘆き、目の前の二人の少女を強く軽蔑した。



「希咲。お前さっきは嫌がってたのにどういう風の吹き回しだ?」


「ふんっ。もうめんどくさくなったのよ。まぁ~? どうせ~? あたしが勝っちゃうしぃ~? さっさとシロクロつけた方が効率いいでしょ?」


「……ふむ…………」


 どこかヤケクソ気味な様子にも見える、顎を軽く持ち上げ高慢な態度をとる希咲の真意を探る――が、女が前言を翻すことなど特段珍しくもないし、考えたところで女性の心理が解った経験も一度もないのですぐに考えることをやめる。


 ただ、効率がいいというフレーズは気に入った。



「決着の時よ。訊かせてちょうだい、弥堂クン。私のパンツと希咲のパンツ――どちらが真にシコいかを‼‼」


「おい、シコいってなんだ?」

「あ、あたしに訊かないでよバカっ!」


 審査に関わる重要な項目のようだったのでその意味をクラスメイトの女の子に尋ねたら、弥堂は理不尽にも怒られてしまった。



(だが……)


 考える。


(希咲の態度の変化を鑑みるにあいつも俺に審査とやらをさせる意向のようだが……)


 希咲の顏を見て、次に白井の方を見る。


 ついさっきまで立ち上がって希咲とやり合っていた白井さんは、何故か床にまた座りなおし、さりげない動作でスカートの裾を乱すと特別審査員に媚びた。



(希咲を勝たせるということでいいのだろうか。それとも……――む?)


 白井から希咲の方へと視点を戻したところで気付く。



 対面の希咲がさりげなく、それでいて器用にパチパチとウィンクを送って目配せをしてきていた。



(この場をとっとと終わらせたいのは弥堂もいっしょのはず! 白井を勝たせればもう満足して帰ってくれるんだから、さっさとお望みを叶えてあげればいい)


 気持ちが伝われと彼への眼差しにより一層力を籠める。


(無茶苦茶なヤツだけど多分バカではないはず! 汲み取れぇ~、つ~た~わ~れぇ~~!)


 その熱烈な視線を受け止めた弥堂は――



(――ほう……なるほどな)



 得心した。




(つまりは俺に忖度をしろと、そういうことか)


 理解をしたという意を籠めて、希咲に向って一つ頷いてやる。


 

 アイコンタクトによるコミュニケーションの成立に二人ともに気分をよくする。


 精悍な顔つきで合図を返してくれたクラスメイトの男の子の頼もしさに、七海ちゃんのお顔はパァーっと輝いた。



 そして弥堂も希咲の心意気を気に入る。



 状況を自分たちにとって都合のよい結果に導く――その為には卑怯な手すら厭わない。今後子飼いとして便利に使っていく予定の者が、目的の為ならば手段を選ばない女であると解って一定の満足感を得た。


 弥堂の脳内で希咲 七海の評価が6段階上昇した。



「いいだろう。この俺が裁定を下してやる」



 静かに、しかし確かな意思でそう宣言した。



 弥堂のその宣言を受け、審査委員長であり大会組織委員長でもある法廷院が手早く身を正すと前に進み出てくる。

 しかし、先程の希咲と白井による、女子のこわいとこを目撃した影響で彼は若干腰がひけていた。


 彼が――というか、高杉が法廷院の乗る車椅子を全員の視界に入る位置まで押してきてそこで止めると、法廷院の脇の下に手を入れて持ち上げて座席の上に慎重に立たせてやった。

 完備された介護であった。



「フフっ。では訊かせてもらおうか。キミが思う勝利者の名を‼‼ 頼んだよ、狂犬クン――いや! ジャッジ弥堂っ‼‼」



 ジャッジ弥堂は応えた。



「勝者は希咲だ。スコアは……そうだな、10億対0だ」


「はぁっ⁉」

「なっ――そんな…………」


 頭の悪さが伺い知れるような点数を添えて告げられた最後の判定に男子生徒たちは沸き立つが、選手である女子たちは二人とも『裏切られた!』といった表情を浮かべ、演出を一切考慮しない即答に法廷院は唇を尖らせた



「ばかああぁぁぁぁぁっ‼‼ あんたはぁっ! なんでっ⁉ なんでっ⁉ もおおぉぉぉぉっ‼‼」



 ゴシャァっと崩れ落ちた白井を背後に置いて、希咲は即座に特別審査委員に詰め寄ると乱暴に胸倉を掴んで力いっぱい揺さぶった。



「鬱陶しい。離せ馬鹿」


「バカはあんたでしょおぉっ! なんであたしを勝たせんのよっ⁉」


「お前が目配せしてそうしろと云ってきただろうが」


「ゆってない! このコミュ障! へんたいっ! むっつり! ばかっ!」


「勝つ為に手段を選ばないその姿勢は見事だぞ。褒めてやる」


「うっさい! うれしくないわよっ! あんたマジで――ヒッ⁉」



 このまま精魂尽き果てるまで罵り続けてやろうとしたが、ふと背後から聴こえてきたか細い声に気をとられ、弥堂への罵倒を続けながら目線を回しそちらを見ると、希咲は恐怖で硬直した。


「……ナン、デ……? ドウシテ……ナノ…………?」


 先程崩れ落ちた白井が顔面を床に沈めながら、震え声で譫言のように魂の残滓にこびり付いた未練を吐き出す。乱れ髪が顔面を覆い僅かに空いた隙間からこちらへ向けてくるその目が怖すぎて、希咲は顔を引きつらせながらカタカタと震え弥堂の背後へと隠れた。


 完膚無きまでにホラーすぎたのだ。



「そうだね。ルール無用の高得点の理由はボクたちにしても気になるところだね。だってそうだろぉ? 10億シコP(ポイント)なんて前代未聞だよぉ」


「ゆっ……夢にでそう……」


 白井の疑問に法廷院も同意を示す。


 先の西野と本田の判定発表に倣うならば、この後詳細な寸評が弥堂に求められるはずなので、希咲としてはそんなコメントは止めなければならないはずなのだが、白井の狂態がガチで怖すぎて彼女は気が回らなかったのだ。



「それではコメントを願おうか、ジャッジ弥堂?」


「コメントだと?」


 ふむ、と顎に手を当て一息分思考をする。


「そうだな。そこの女のおぱんつはアレだ。チャーシューに巻き付いた紐みたいで外すのが面倒そうだ。0点だ」


「……ほう……チャーシュー、と……」


 法廷院は辛うじて堪えたが端で西野と本田がプッと噴き出した。白井がギロッとそちらを睨む。



「そして希咲だが……」


「へ? あたし? なに? なんの話してんの?」


 どのように褒めれば機嫌をとれるかと考えながら喋る弥堂に名前を呼ばれ、そこでようやく希咲は現状に気付く。


「あっ! ちょっとあんたもしかして! いいっ! いわな――」

「――そうだな。希咲のおぱんつはアレだ。まず機能面だが、やたらとカラフルであちこちにビラビラとなんか付いていて目に付きやすいから、その無意味に短いスカートが揺れ動いた時に容易に視認することが可能だ。あと、なんだ。掴みやすいし目立つから適当に部屋に脱ぎ捨てておいても紛失しづらいという利点もあるだろう。日常生活においてとても機能的で効率的な品物だ」

「――だからっ! 見せるために穿いてんじゃないって言ってんでしょ!」



 自分たちとは違った視点からの斬新な斬り口に、法廷院たちは或いは感嘆の意を漏らし、或いは考え込むような姿勢を見せる。


 その様子をチラリと確認しながら、弥堂は必死に何かを訴える希咲を無視して言葉を継ぐ。



 希咲を持ち上げつつ、このイカれた催しを確実に終結させる。


 その両方の結果を得るべく、先程の西野や本田の弁論を思い出しながらそれっぽく仕上げていく。

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