1章26 『Void Pleasure』



――それでさ、僕はこう思うわけだよ弥堂君。そもそもの話さ、許可証とか強制執行とか言われてもさ、キツイって。いやね、全部を否定するつもりはないんだ。僕たちみたいにね、自力で及べない者や至れない者にもね、及んで致せるようにってありがたい話ではあると思うよ? だけどさ、弥堂君。考えてもみておくれよ。そもそも論だけどさ、誰にアプローチしてもいいって国が許可します! 断られたら相手を罰します! さぁどうぞ! って言われてもさ、じゃあって、『あ、そこのキミ。そうそうキミキミ。悪いんだけどさ、これからちょっと僕に抱かれてくんない?』って、そんなの言えるわけがないじゃない。それが言えるんだったらそもそも陰キャなんかやってないっつーのって話なんだよ。わかるかい、弥堂くん? うん……、わかる、わかるともさ。キミの憤りはご尤もだよ。僕は完全に同意するね、え……? 何も言ってない? あ、そう? それは悪かったね。高まった僕の共感能力が見せた幻覚のようだったよ。本当に申し訳ないね。はい謝った。それでね、弥堂君。実際何が問題なのかって。究極なところ国家権力を盾にすれば極論やれるかやれないかで言えばそりゃやれると思うよ? あ、ここでのやれるは実行が可能かどうかのやれるであって、ヤれるとか犯れるとかではないからね? そこのところは誤解しないでおくれよ。あくまでこれは例え話であって、僕の願望ではないからね? 僕は清廉潔白な男だもの。まぁ、それはいいとして話を戻すとさ。まぁ、やれます。でもだよ? それで実際に及んだとしてもさ、絶対に嫌な顏されるわけじゃん? あ、でも女の子が悪いって話じゃないよ? 悪いのは僕さ。だって見てごらん、この悲しきフォルムを。これじゃ太り過ぎて皮がダルダルになったトドさ。もしも僕が女の子だったら僕だって嫌さ。垂れさがった皮捲ったらすっげぇ垢溜まってそうとか考えちゃうもの。それは仕方ないよ。つまりね? 何が言いたいかっていうと、嫌な顏されるのは仕方ないとしてさ。それでも及ばなきゃいけないわけでしょ? 法律だから。でもさ、そんなの無理だよ。酷いことだからって話じゃないよ? どんなに可愛くたって、どんなにオッパイが大きくたってさ、そんな死ぬほど嫌な顏されてたら僕のメンタルがもつわけないじゃない。それに絶対相手怒ってるよね? 無理だよ。怒ってる女の子とか恐すぎるじゃない。絶対空気ピリピリするよね? そんなの耐えられないよ。励めるわけがないじゃない。よしんばさ? 相手が怒ってなかったとしてもさ? 気が弱い子とかで。絶対泣いてるじゃん? そんなの無理だよ。僕のメンタルがもつわけがないじゃない。僕は可哀想なのは抜けないんだ。もちろん例外はあるよ? でも基本的には無理なんだ。そういうスタンスだ。それはわかってくれるよね? そんな中でどれだけ励んだとしても出るのは胃液だけだよ。こんなんじゃ誰一人産まれはしないよ。え? 口答えされるのが嫌なら拘束して脱がした下着を口に突っ込んで頭にズタ袋でも被せておけばいい? なんてことを……、シッ、静かに。身を低くして。カーテンを閉めてドアにカギを掛けるんだ。ゆっくり慎重にね。こんなことがヤツらの耳に入ればタダじゃ済まないよ。それはもう叩かれる。大炎上さ。いや、キミを責めてるわけじゃないんだ。だけど僕らは監視されている側なんだよ。ドスケベ法令だけでもギリギリなんだ。それはわかって欲しい。でもキミの漢っぷりは受け取ったよ。大丈夫。僕はそういうのにも理解はあるつもりさ。それはともかくとして、うん、話はまだ終わりじゃない。もうちょっとこのまま喋らせておくれよ。んん。では、例えば。あくまで仮にだけどね? 今挙げた全ての問題をクリアできたとするじゃん? 及べて至れて励めたとするじゃん? あくまで仮にだからね。そうするともっと大きな問題が出てくる。うん。そうだよ。キミの言うとおりさ。流石だね弥堂君。そう、NTRさ。え? そんなこと言ってない? まぁまぁ、いいじゃない。そこは流してよ。えと、どういうことかっていうとさ。法令でこの僕に孕ませが許されてるわけじゃん? でもそれってさ、同時に他の男にも許されてるってことじゃん? そうするとさ、結局今と変わらないよねって話なのさ。どうせ僕のような気の優しいナイスガイがまごまごしている間にさ、イケメンとかパリピとかヤンキーとか、あとインフルエンサーとベンチャー社長だ。ヤツらがさ、全ての女を持っていくわけさ。むしろ女の子の方からそっちに行くよね? どうせならそっちの方がマシってさ。そんなの当たり前だよね? だけどそれだけならまだいいよ。ギリ我慢できる。いややっぱり我慢できない! 僕は嘘を吐いた。どうもすみませんでした! はい謝った! だってさ考えてもみてよ弥堂君。今のさ、自由競争の中ならさ、僕は参加しませーん、恋愛? 結婚? 興味ありませんけど? 出来ないんじゃなくってしないんですぅーって振舞っていられるわけじゃん。だけどさドスケベ法令が一度下されればそうもいかない。強制的にレースに参加させられ、そして今よりも強く格差を思い知ることになる。己の劣等を突き付けられることになる。そんなことは許さないよ。でも真の地獄はその先にあるのさ。もしもさ、なんかの間違いで僕が至れてしまったとするじゃない? これはこの場ではっきりと断言できるけどね。もしもそんなことがあったとしたら、僕は最初の一人目の女の子を好きになるよ。なっちゃうよ。当たり前じゃない。だって童貞だもの。だけどさ弥堂君。その子はさ、その後でもしも他の男から求められたらそれに応えなければならない。だって法律だからね。仕方ないんだ。それを阻止することは僕にも出来ない。だって法律だもの。これがどういうことかわかるかい? そう、まさしくNTRだ。それも合法のね。それどころか推奨されてすらいる。そんな世界で我々ユニコーンが生きていけるとでも? あまつさえだよ? そんな奔放な世界になったらさ、絶対に情報が共有されるわけじゃん? 僕の寝床での戦闘能力が。想像しただけでうんち漏れそうだよ。デブくせーとか、デブ下手くそとか、デブ早いとかさ。僕が何をしたっていうのさ。どうしてこんな目にあわされなきゃならない。もちろん僕だけじゃなく全ての人のデータが収集され精査されランク付けされるわけだろ? その結果やっぱりイケメンやベンチャー社長に富が集中するのさ。完成だよ。ドスケベカーストの。一体どれだけのユニコーンの脳が破壊されることになると思う? 僕は断固として認めないよ。そんな世界。でもさ弥堂君。キミならそんな世界でも生き残っていけそうだよね? むしろ本領発揮して猛威を奮いそうだもの。キミからはエロゲ主人公的なオーラを感じるよ。しかもだいぶ昭和よりの。もしもそんなことになったらどうか僕の分まで励んでおくれよ。一番目に産まれた子供には是非僕の名前を付けて可愛がってあげて欲しい。それはともかく、百万歩譲ったとしてさ、もしも譲歩できるとしたらハーレムだよ。男が僕一人ならギリ許容できる。いややっぱり出来ない。無理だ。女子しかいない世界なんて恐くて無理だ。でもドスケベ格差よりはマシ。そういう話さ。うんこ味のカレーとカレー味のうんこならどっち?的な究極の選択をするならってことさ。どっちも嫌だよ。でもまぁ、残念ながらこの世界には男子の出生率が極端に低いなんて設定はないし、そもそもの話さ? 少子化対策だっつってんのに全男がいなくなりましたーなんて本末転倒だもんね。つまりだよ弥堂君。これまでに述べた事柄を総合的に判断すると、女子と接するにはやっぱりモニター越しがちょうどいいってことになる。すなわち、我々サバイバル部としてはドスケベ法令なんてものは――』




――記録を切る。



 なにか言ってなかっただろうかなどというレベルではなかった。


 廻夜は弥堂の印象以上に情熱的な見解を持っていた。



 やはり、彼が何を言っているのかは弥堂にはさっぱりわからなかったが、己のやるべきことははっきりしている。



 弥堂は懐から風紀委員会の腕章を取り出し腕に巻く。


 そして不退転の覚悟を灯した鋭い眼差しをアスへと向けた。



「貴様らの思い通りにはさせん」


「へぇ。私達の思惑がわかったと?」


「当然だ。俺の上司は以前から貴様らの計画を見通していた。そして決して迎合してはならないと俺は命を受けている」


「なんだって? 一体何者が……」


「知ってどうする? これから死に逝く者には不要な情報だ」


「強気ですね。まだ勝てるつもりでいるとは」


「勝てるかどうかなど関係ない。ひとたび命令を受ければ誰が相手であろうとも敵対するし、殺せと言われれば誰であろうと何人でも殺す。俺が死ぬまでな」


「やはり狂っているようですね」


「狂ってなどいない。正常で優秀な犬だ。貴様らの野望は俺が潰す。必ず阻止してみせる――ドスケベ法令を」


「フフフ……、そこまではっきりと宣戦布告されては最早見逃す理由はありませんね。知らなければもう少し長生き出来たというのに……。私達は何としてでも、どれだけ時間をかけようとも成し遂げますよ。ドスケベ法令を…………ん? ドスケベほうれい……?」



 瞳を妖しく光らせ敵意を剥き出しにしようとしたアスだったが、己の口からこれまで一度も発音したことのないような頭の悪い単語が発せられたことで強い違和感を覚え、瞳の紅い光が霧散する。



「あの……、今、なんと……?」


「惚けるつもりか? 無駄な足掻きだな」


「いえ……、その、すみません。どうやら上手く聞き取れなかったようで。もう一度お願いできますか?」


「ふん、いいだろう。貴様らの目的を白日に晒してやる」


「お手数かけます」



 脳の情報処理に大きな負荷がかかったアスは何故か畏まってお願いした。


 弥堂は侮蔑の視線を投げかける。



 やはり、違う。



 このアスという男。



 人外の存在であり、ヒトの及ばない力を持ちそれなりに思慮深いようではあるが、それでも彼に比べれば所詮はこの程度だ。



 やはり、廻夜 朝次は別格だ。



 先程の記憶はしばらく前に交わした会話のものだが、あの時点ですでに彼はこの状況を見通していたということになる。


 いずれこうなると予見をし、この時に弥堂が迷いなく行動できるよう先に知恵と方針を示してくれていたのだ。



 弥堂がとるべき行動は二つに一つ。


 この世に存在する廻夜以外の男を皆殺しにした後で自殺をすること。もしくは何としてでもドスケベ法令を阻止することだ。


 前者は効率が悪い。よって、まずはこいつらの行動を阻害することを選ぶ。



 闇の組織のアスとボラフ。



 なるほど。確かに人外である彼らは弥堂よりは強いかもしれない。


 しかし、廻夜 朝次の足元にも及ばない。


 彼は圧倒的だ。



 己の上司の大きさに武者震いをしそうになる身体を弥堂は意思の力で努めて自制した。



 そして確信を持って口を開く。



「貴様らの狙いはドスケベ法令の発令だ。性交を自由化し、種付けを義務化することで少子化対策をするつもりだろう。しかしそれは建前だ。孕ませ許可証をバラ撒くことで人間社会を混乱に陥れ人心を乱すことにある。だがそうはさせない。我々は決してNTRフリーを認めない」


「性交自由化……、種付け義務……、孕ませ許可……、ドスケベ法令……、NTRフリー…………」



 インテリエリートであるアスは、何のために存在するのか不明な頭の悪い単語を脳が処理することを拒否したためフリーズした。



「おいっ! おいこらっ! オマエェッ!」



 その隙にメロが弥堂に喰ってかかる。



「オマエ、マナをはな――」


「――動くな」



 弥堂はこれ見よがしに水無瀬の白い首の皮膚に折れたシャフトの鋭利な先端を押し付けてメロを脅迫する。



「バッ――⁉ オマッ……、刺さってる! それちょっと刺さってねえッスか⁉」


「それが嫌なら言われたとおりにしろ」


「ジブン魔法少女のお助けキャラなんスけど⁉ なんでジブンまで⁉」


「うるさい黙れ。お前も敵だ」



 混沌犇めく戦場の中で状況を明瞭にするために、弥堂は全員と敵対することに決めた。


 これこそが彼の本領であり、狂犬と謂われる所以であった。




 しばらくして再起動したアスが人質をとった卑劣な犯人との対話を再び試みる。



「すみません。ちょっと何を言ってるのかわからないのですが……」


「往生際が悪いな。魔法少女に死なれたら困るのもこいつを苗床にするつもりだからだろう? 普通の人間より頑丈だからたくさん産めそうだしな」


「アナタ……、女性に対してそんなことを言ってはいけませんよ? もうそれが褒め言葉になるような時代じゃないんです」


「薄っぺらいな。大体こいつに触手を捻じ込んで卵を産みつけようとしていたのは貴様らだろう」


「ボラフさん……? アナタ……」



 アスが心底から軽蔑するような目を向けると、酷い風評被害を受けたボラフは勢いよく首を横に振った。



「そして俺は風紀委員だ。学園の風紀を守る義務がある。我が校では校則により女生徒の妊娠・出産は推奨されていない。うちの女子を妊娠させたいのならまずは俺の許可をとることだな」


「クッ……、ダメだ……、なにを言っているのかまるで理解できない……」


「あと俺はクリーニング屋に行くんだ。よくも邪魔をしてくれたな。無駄な時間を使わせやがって」


「クリーニング⁉ そんなことで我々に戦いを挑んでくるのですか⁉ そんなバカな……!」



 アスは頭痛を堪えるように頭を押さえて、優秀であるはずの自分の理解が及ばない生物に慄く。



「ちくしょう、テメェ! 昨日も今日も好き放題暴れやがって! いい加減にしろッス!」


「大人しくしていろというのがわからんか。お前も妊娠させられるぞ」


「ジブン孕まされるんスか⁉ ジブン、ネコさんなんですけど⁉ くぅ……っ! こ、こいつ、種族なんて関係ねえってことッスか……! なんて圧倒的な雄度……! ムカつくヤツだけど正直キライになれねえッス……!」



 ネコさん妖精のメロは、自分のことを性的な目で見てくる二足歩行に戦慄し身を伏せるとプルプルと震えお尻をもぞもぞ動かした。



「あの……、キミ、なんか急に頭悪くなってないですか?」


「安い挑発だな」


「……ボラフさん。彼が何を言っているのかわかりますか?」


「聞くなよ。わかるわけねえだろ。言ったじゃねえか。コイツ頭おかしいって。関わるのやめようぜ」


「……そうですね」



 頭の悪い者との会話を嫌うアスは急速に弥堂への興味を失い半眼になる。



「えぇと、それで……? あなたの要求はなんです?」


「お前らの野望を阻止することだ」


「そもそもそんな野望は持っていないのですが……わかりました。とりあえずアナタの言うようなことはしません。それでいいですね?」


「敵の言うことを真に受ける馬鹿がどこにいる? 戦いは民族浄化をするまでは終わらない。必ず根絶やしにしてやる」


「クッ……、無駄に意識高くてやる気のあるバカは本当に厄介ですね……! 孕ませ……、孕ませだと……? ナメやがって、ニンゲンが……っ!」



 意識高い系の悪の大幹部であるアスはこれまでに何度もやる気のある無能に足を引っ張られてきた苦い経験を想起させられる。


 さらに意味不明なIQの低い言葉で己の崇高な仕事が穢されたような気がして強い憤りを感じた。



「アス様」


「……わかってます」



 宥めるようにボラフが呼びかけると、アスは苦く歯を噛み締める。


 その様子を弥堂はジッと視ていた。



「だが、こちらも全面戦争は本来望むところではない。とりあえずの要求としては路地裏から手を引いてもらおう。それがこの場での手打ちの最低条件だ」


「……路地裏?」


「主に繁華街や歓楽街だな。あそこは我々の作戦領域だ。そこに立ち入ることは敵対行為と見做す」


「アナタたちはそこで一体なにを」


「本来なら答える義務などないのだが、いいだろう。『放課後の道草は殺すぞキャンペーン』だ。我が校の生徒の道草を取り締まる活動だ。貴様らはその邪魔だ」


「道草だと……」



 ツッコんだら負けだと感じたアスはそれ以上の言葉を飲み込んだ。



「出来ればこの街から手を引いてもらいたいものだな。他の街でなら何人殺そうが孕ませようがこちらは一切関知しない」


「アナタ、人としてそれでいいのですか?」


「目的も遂げられずに能書きばかり垂れるクズよりはマシだ。あとこいつ――魔法少女に関してもだ。殺すのは構わんが妊娠は駄目だ」


「クズはテメェだろうが」


「おやめなさい、ボラフさん。これ以上関わってはいけません。いいでしょう。アナタの要求を一部のみます」


「ほう」



 何故か譲歩の姿勢を見せた闇の組織のモノどもに弥堂は真意を探るような眼を向ける。



「本来ならばニンゲンごときがなにを……と言うところですが、もう疲れました。正直アナタとは関わりたくありません」


「そうか」


「この街から出るのは無理です。ですが、アナタが指定した地域には極力立ち入りません。完全には無理です」


「………」


「必要があればこちらもそこへ出向かざるをえないこともあります。しかし、アナタの邪魔はしませんし、その……なんですか? お宅の女生徒を妊娠させたりもしません。それで妥協しなさい」


「ふむ……」



 弥堂は相手の返答を吟味する。



「オイ、いいのかよ?」


「ボラフさん。いえ、あまり良くはないのですが、別に支障も大してありません。何より、私こいつともう話したくありません」


「まぁ、気持ちはわかる」


「意味不明すぎて後々問題が出てきそうですが、それはもうその時対応しましょう。正直追い詰めすぎると本当に何をするかわかりません。このニンゲン、平気で彼女を殺しますよ? それをされると困るのは確かですし……」


「お、おぉ……、アンタがそんななってるの初めて見たぜ……」



 憔悴した上司の姿に慄くボラフを無視してアスは弥堂と内容を詰める。



「代わりと言ってはなんですが。アナタも魔法少女に関わるのはやめなさい」


「…………」


「我々に直接的に人間社会をどうこうする心づもりはありません。当然国政に打って出るつもりもない。アナタが首を突っこまなければ本来競合することなど何もないのですよ。文字通り棲む世界が違うのです」


「……いいだろう。とりあえずはそれで手打ちだ」


「なんでお前が偉そうなんだよ。破格だろうが」


「いいんです、ボラフさん。我慢なさい」



 目の前で何故か和解の方向で話がついていく状況をメロは頭上に『?』を多数浮かべながら見ている。


 どういうわけか助かりそうな雰囲気が伝わってくるが、その理由がわからず只管混乱した。



「では、何かあればいずれ調整に来るかもしれませんが、今日はこれで失礼します」


「……オマエ、今日のは奇跡だからな? 二度はねえぞ? マジで。もう首つっこむなよ?」


「行きますよ、ボラフさん」


「あぁ」



 心なしかトボトボとした足取りで闇の組織の幹部たちは離れていく。



「ヴィンテージワインがあります。20年ものを開けます。付き合いなさい」


「おぉ、なんかスゴそうだぜ。美味いのか?」


「それは飲んでみるまではわかりません。実は古いからといっても必ず美味しいわけではないのですよ。ですが、今日は時の流れを感じたい気分なんです……」



 会社帰りの上司と部下のように連れ添って歩く人外のモノたちは、ある地点でフッとその姿を消した。



 弥堂は彼らが消えたその地点をまだ油断なく視続ける。



「い、いみわかんねえッス……、なんでジブンら助かったんスか……? 少年、オマエ色々スゲェッスね。頭おかしいッスけど……」



 いまだ生存した実感の薄いメロは茫然と呟きを漏らしながらフラフラと近づいてくる。



 彼女が足元に来たところでようやく弥堂は水無瀬の首から凶器を離し、地面へ放り捨てた。



「あっ……! そうだ、マナぁーっ!」



 メロは宙へ浮かび上がり彼女の無事を確かめようと顔を覗き込む。



「あぁ……、なんてひどい………。こんな数日に渡って複数人にマワされた後みたいな目になっちまって……」


「…………」


「オイ、テメェー! なに他人事みたいなツラしてんスか⁉ オマエがやったんだろッス! 一体どこ見て…………ハハァーン」



 他所を視る弥堂の視線を追うとその先はギロチン=リリィが生えていた場所だ。そこに在るものを見つけたメロはイヤらしい笑みを浮かべる。



「カァーッ! たくっ、このエロガキはよぉー。しょうがねぇなーッス!」



 なにやら管を巻きながら彼女はそこへ寄っていき、地面に付着していたギロチン=リリィの体液だと思われる白濁液を肉球で拾い上げる。


 そうしてウキウキとしながら軽い足取りで戻って来た。



「わぁーってるッス。みなまで言うなッス。でもちょっとだけッスよ? かぶれちゃうかもしんないッスからね。ジブンがチャチャッと顔に塗ってやるからすぐに撮影するんスよ? 早めに拭き取りたいッスからね。そんであとでedgeで写真を送ってくれッス……」



 言いながらメロは白濁液を光のない瞳で佇む水無瀬の顏へと近付けていく。



 弥堂は溜息を吐くと無言でドスケベ妖精を叩き落した。



「フギャニャッス⁉」


「余計な真似をするな。もうここから出るぞ。そいつを元に戻す」


「あいてて……ッス……。もとにって、これちゃんと戻るんスか? カウンセリングとかいらないんスか?」



 起き上がりながら疑問を呈するメロを無視して、弥堂は水無瀬の正面にまわり彼女の顔を覗く。


 首から提げたネックレスをまた外そうとして、やめる。


 面倒だったのだ。



「おい、水無瀬。またパチンとするからもう戻れ。それでいいな?」


「それでいいなってなんスか! そんなテキトーなので戻るわけ――」



 ニャーニャー喚く煩いネコを無視して弥堂はスリーカウントを開始する。雰囲気だけでもそれっぽくしようと思ったからだ。


 そして水無瀬の目の前で指をパチンとすると――



「――はっ⁉ 私はいったいなにを……っ⁉」


「ウソでしょおぉーーーッス⁉」



 周囲でボカンボカン爆発が起きていてもビクともしなかった愛苗ちゃんがあっさりと覚醒し、ネコ妖精はびっくり仰天した。



「よし戻ったな。ご苦労」


「マナぁーーっ! よかったッス! ジブンこんなのママさんにどう説明すればいいかと……」


「あ……、メロちゃん、弥堂くん。私、今まで――って、ちちちち血ぃーーっ⁉」



 記憶の整合性がとれず混乱しながら弥堂の顔を見上げた水無瀬は血塗れのクラスメイトの姿に驚く。



「あっ……! そういえば! 流血が似合い過ぎてて全然違和感なかったッスけど、そういえばケガしてたッスね。大丈夫ッスか? 少年」


「問題ない。いいから結界を解け。俺は忙しいんだ」


「え……? でも、すごい痛そうだし……」


「うるさい、さっさとしろ。オラ、早く」


「はははははいっ! Blue Wish おねがいっ!」



 言いながらパンパンと大きな音で手を打ち鳴らして急かすと水無瀬はピョンコと跳び上がり勢いに流されて変身と結界を解除する。



 パラパラとパズルが崩れるように世界が捲れていきやがて光が瞬くと、そこはいつものショッピングモールの風景に変わっていた。



 弥堂は周囲に眼を遣る。


 黒焦げになっていた車も、火の海になっていた駐車場も、彫刻刀で刳り貫いたように破壊されていた建物も何事もなかったようで、やがて弥堂たちの周りにも人通りが戻っていく。



 弥堂はスマホを取り出し時刻を確認する。



「びっ、弥堂くん! 今救急車呼ぶねっ!」


「やめろ。それよりも、結界の中とここでは時差などはないのか? このスマホの時計はそのままで合っているのか?」


「えっ……? えと、今まで時間がズレたりとかそういうことはなかったと思うから大丈夫かなって……」


「……そうか。チッ、時間がないな」


「じゃあ弥堂くん。一緒に病院に――」


「――行かない。この程度の負傷は問題ない。ほっとけ」


「ほ、ほんとに……? あっ! そういえばゴミクズー……ギロチン=リリィさんは⁉」


「大丈夫だ。お前が倒した。それで力を使い果たしたお前は気絶していた。そういう感じだ」


「えっ、えっ……? そういう感じなの……?」


「そういう感じだ」


「そっかぁ……」


「くっ、くぅぅぅぅ……、我がパートナーながらチョロすぎるッス……。カワイイけども」



 ゴリ押しで水無瀬を納得させた弥堂はすぐに歩き出す。


 向かった先はショッピングモールの出口だ。



「び、弥堂くんっ! どこに行くの⁉」


「用事がある。もう行く」


「あ、うん……、でもクリーニング屋さん行くんだよね? そっちは出口だよ?」


「時間がないからもういい。じゃあな」


「あ、あれだけクリーニングに拘ってたくせにそんなあっさり……、やっぱこいつおかしいッスよ。一体どこに行くんスか?」


「キャバクラだ」


「はぁっ⁉」


「きゃばくら……?」



 学校ジャージを身に纏い顏には血痕が。


 確実に入店を拒否されるであろう状況でも、何を差し置いてでもキャバクラへ向かう。


 コテンと首を傾げるパートナーの横で、そんな弥堂の漢っぷりにメロは恐れ入ったように呻く。



「弥堂くんっ!」


「待つッス、マナ。引き留めちゃダメッス。行かせてやれッス……」



 尚も取り縋ろうとする水無瀬をメロは訳知り顔で止める。



「メ、メロちゃん……、でも……」


「男には行かねばならぬ時があるんス。ヤツにとっては今がその時なんス……」


「そ、そうなの……? わかったよ。でもちょっとだけ――弥堂くん待ってぇ!」



 少し声を張り上げると弥堂は立ち止まり振り向く。迷惑そうに顔を顰めながら。



「なんだ」


「えっと、邪魔してゴメンね? 少しだけ」


「なんだ」


「あのね? 明日……、学校来るよね……?」


「学校……? 生きてたらな」


「えっ⁉ やっぱり傷が――」


「――問題ないと言っただろう。だから明日も学校に行くという意味だ」


「あ、そっかぁ。よかった」


「だったら最初からそう言えッス。めんどくせぇ男ッスね」


「うるさい黙れ。それでなんだ? 何かあるのか?」



 いちいちチャチャを入れてくる目障りなネコを黙らせ水無瀬の顏を視る。



「あ、ううん。なんでもない……、でも、えへへ……おたのしみにっ」



 はにかんだように笑い答えを濁す彼女へ怪訝な眼を向ける。



 曖昧な答えを嫌う弥堂だが、今は時間がない。


 仕方ないので流すことにした。



「もういいか?」


「あ、うん。ありがとうっ」


「じゃあな」


「うんっ。ばいばいっ弥堂くん」



 弥堂は再び歩き出す。



 一瞬フラつきそうになるのを意志の力で無理矢理抑え込む。


 また病院だなんだと騒がれては面倒だからだ。



 ダメージを負いすぎた。



 局面だけを見るのなら、格上の敵と遭遇しこちらに有利な条件を取り決めた上で戦いを終わらせたと見ることも出来る。



 しかし、弥堂の役目は闇の組織と戦うことでも、ゴミクズーを駆除することでも、魔法少女を手伝うことでもない。


 本来の自分の目的は何も果たせてはいない。



 ゴミ拾いによる地域への貢献アピールは警察に連行されることで失敗し、クリーニング屋に行くという私用ですら失敗した。


 次をしくじれば今日は何一つ成果をあげられなかったことになる。


 歯を噛み締めて地面を踏む。



 己の無能さが嫌になりそうになるが、しかし失敗塗れの弥堂の人生ではこんなことはよくある。



 だが、昨日そうであったからといって今日や明日もそうであることが許されるわけではない。



 次は失敗は許されない。



 時間を使い怪我を負い、コストを支払って何一つ得られていない。



 神は無駄を許しはしない。



 弥堂自身に信心は欠片もないが、彼の師である女はそうではない。



 彼女が信じる神が許してくれないということは彼女も許してくれないということだ。



 だから、次をしくじることはエルフィーネが許してくれない。



 昔の女を思い出しながら弥堂はショッピングモールの敷地から足を踏みだし、決意強く地面を押し出して目的地へと進む。



 一路、キャバクラへ――




 なにか大きな意志を秘めて歩いていく男の背中を見ながら少女とネコは立っていた。



「行っちゃったッスねー……」


「うん、行っちゃったねぇ」


「マナも早く用事済ませた方がいいッスよ。もう晩御飯の時間になっちゃってるッス」


「あっ、そうだね。急がなきゃ」



 メロは水無瀬の背中を昇っていくと彼女の背負ったリュックサックの中に入り込み、顔だけを外に出してグテッとする。



「ジブンはこうしてぬいぐるみのフリをしてるッスから、なにかあったら話しかけてくれッス」


「うん、ありがとう」


「ジブンちゃんとリサーチしといたッス。男モンは3階っス。20時には閉まるから急ぐッス」


「わわわっ……! たいへんだぁー」



 パタパタと水無瀬は駆けていく。


 彼女も彼女なりのミッションを遂げるためショッピングモールの中へ入っていった。



 弥堂や彼女達の居なくなった駐車場からは他の人々も消えていく。


 とうに夕食時になっている夕暮れの下で次々と車が国道へ出ていく。



 人気の減ったモール入り口の交差点で、挿されていた花の亡くなった空き瓶がコロコロと転がった。





 新美景駅北口歓楽街。



 駅のロータリーから伸びているメインストリートは、この街で働く者たちにはキャッチ通りとも呼ばれている。


 その呼び名の通り夜となったこの時間帯は、このキャッチ通りでは飲み屋や風俗店のキャッチが精力的に動いている。



 この街に遊びに来たものの、特別目当ての店を決めてこなかった客たちは自分からここの客引きに捕まりに行く。


 その客たちを各店のキャッチや何店舗かの店と契約しているフリーのキャッチが奪い合う構図だ。



 そして首尾よく交渉成立させた客を該当の店へと連れて行く。



 今も1組の飲み客と話をつけた男が先導して案内を始めた。


 利用するのはキャバクラのようだ。



 ここの歓楽街はキャバクラや風俗を好む者たち、さらにその業界で働く者たちの間では最近有名になってきており、市外や県外から遊びに来る者も多い。


 そしてそれに伴い、日本各地の有名店を擁する経営グループたちがこの地にも店舗展開をしようと参入してきた。


 彼らが元々もっているケツモチと、この街を牛耳る外人街のバックについている海外マフィアとの間で、珍しくはない程度にいざこざを起こしながらも一応表向きは歓楽街として栄えていっている。



 その結果として元々この地を本拠地として営業をしていた地元の者たちは、他所から来た巨大な資本と暴力に追いやられることとなった。



 このメイン通りに面するような立地のいい場所に出店しているのはほとんどが外来の店舗だ。



 今しがたキャッチの男に着いていった客たちも、一際開けた場所に建つ一際大きなキャバクラビルへと案内され中へ入っていった。



 そのビルの前を通り、さらに二棟ほど別のビルを過ぎると一つの路地がある。


 極端に狭くはないが短い路地だ。



 この路地に電灯はなく、入口からはメイン通りからの光が入り込み、短い道路の出口は向こう側からの光で照らされている。


 そのため、この路地の中間点を少しだけ過ぎた辺りは一際暗くなる。


 暖簾をくぐるようにその一瞬の暗がりを抜けると、表よりはいくらか古い雰囲気のビルが並ぶ裏路地だ。



 裏路地に入っていくらか進むと、この中では大きくてネオンの目立つビルが見える。



 その一つのビルの前に電飾看板が4つほど置かれており、数人の黒服の男たちいた。


 4店舗ほどが入っているキャバクラビルのようだ。



 その内の一つの看板に寄りかかって煙草を咥えながらスマホを弄っている金髪の男がいる。


 男は応募するつもりのない求人情報を見ながら気怠げに煙を吐き出す。


 すると、間接視野で他の店のフロントたちが動いたのが見えた。


 どうやらこのビルに客が来たようだ。



 本来であれば男も彼らに加わり、もしもこの来客がフリー客であれば我先にと営業をかけ自身の所属する店に引き込むか、もしくは自分の店の客なのであれば他店に奪われないようにしっかりとガードする必要がある。


 しかし、このビル内では店同士が比較的仲が良いので、お互いの客には手を出さないという暗黙のような取り決めがある。



 客と他店のスタッフたちは立ち止まって会話をしているようだ。



(――てことはフリーか……。あぁ~、オレも行かなきゃだけど、やる気でねー……)



 俄かに、聴こえてくるフロントたちの声が営業トークのトーンではなく、どこか殺気だったものに変わる。



(あん? まさか引っ張り合いでもしてんのか? まぁ……でも、ウチはダイジョブか……)



 たまに働き始めて間もない者がミスをしたり、尖っているつもりの勘違い野郎が暗黙の了解を破ることはあるが、男の所属する店の客に手を出されることは比較的少ない。


 彼の働く店では頭のおかしいバウンサーを飼っていることが割と知られているからだ。


 あのイカレた用心棒が営業中の店内にカチコミに来ることを考えれば、たった一組の客を引っ張ることなど全く割に合おうはずがない。



 そういった理由から対岸の火事だと無関心を決め込んでいると――



「おぉーいっ、ヴォイプレさーん! オタクの客だぜー!」


「あん?」



 不意にビジターの相手をしていた他店スタッフの一人に呼びかけられ、ようやく顔を上げる。



「そのカッコじゃ無理だっつってんのに、このニイさん聞かなくってよ……」


「はいはーい。ただいまー!」



 何度も口にした接客文句を反射的に出しながらスマホを仕舞う。



(ウチかよ……、やべっ……!)



 慌てて煙草を足元に捨て隠すように靴で踏み躙った。



「ど、どうもー。お待たせしました。ご指名はありま、す……か……」



 愛想笑いを浮かべながら寄りかかっていた看板から背を離そうとすると、その客の顏が目に入り思わず口にしていた定型文が止まる。



 そこに立っていたのは、先程頭に浮かべていた頭のおかしいバウンサーだった。



「チャチャチャーーッス! オツカレーッス! ビトーくんっ!」



 弥堂 優輝びとう ゆうきである。



 黒服がビシッと気を付けをしてガバっと腰を折って頭を下げると、彼が寄りかかっていた看板に書かれた店名が露わになる。



「話は聞いているな? マサル」



 弥堂はその『Voidヴォイド Pleasureプレジャー』と書かれた電飾看板をチラリと一度見てから、すぐに黒服へ用件を伝えた。



「あー、ハイハイ。聞いてるッスよー。ちょっと待って下さいねー。あー、マネージャー聞こえます? ビトーくんが来ました。通して大丈夫ッスか?」



 落ち着きのない男のようで、弥堂と話している間からもうインカムのマイクのボタンを押し、ほとんどシームレスに店内の上司に呼びかける。


 言い終わるとすぐにニカッと悪気のない笑顔を弥堂へ向けてきた。



「久しぶりー、ビトーくん。言ってた時間より遅かったッスね?」


「あぁ。少々トラブルに巻き込まれてな」


「マジかよ。ビトーくんしょっちゅうケンカしてるよな」


「そんなことはない。どうしてそう思う?」


「いや、だってよ、なんか恰好ボロボロじゃん?」


「あぁ。悪いな、こんな服装で」


「ホントは学校ジャージはマズイんだけどよ、ビトーくんならマネジャーも文句言わねえだろ……って、いや、そっちじゃなくてよ。なんか薄汚れてんじゃん。血もついてっし」


「気のせいだ。ちょっと汚れる作業をしていただけだ」


「なんだよ、汚れる作業って……。ビトーくんが言うと人間解体でもしてんじゃねえかってマジビビるわ」


「そのような事実はない」


「あーでも……、別に顏に傷とかねえし、ケンカじゃねえっぽいか。あー、そういや話変わるけどよ、オレさビトーくんに礼言わなきゃって……、おもっ……って……」



 電飾看板に照らされる弥堂の顔を検分するようにジッと見て無事を確認し、続けて上機嫌にお喋りをしようとしていた黒服は話の途中で片耳に手を当てて言葉尻を窄めていく。


 インカムで店内からの連絡が入ったのだろう。



「……オケ。準備出来たみてえだ。案内するぜ」


「わかった」



 彼に続いてビル内のエレベーターへと向かう。


 ビルの入り口には『五月さつきビル』と書かれている。



「礼とはなんだ?」


「あん? あー、そうそう! オレよ、今月から主任に上がれたんだよ」


「へぇ。やるじゃないか」


「へっへっへっ、サンキュ。いやー苦労したぜ。オレらこの街でスカウトしづれえからよ、女入れらんなくってもう終わったーって思ってたぜ」


「……あぁ。ハーヴェストか」


「おぉ! あいつら外人バックにつけて何かとデカいツラしてオラついてくんだよ。オレらのケツモチがここに入れねえからってチョーシこきやがって……」


「わかってると思うが、モメるんなら外でモメろよ」


「わぁーってるよ。こないだ駅前でスカウトしてたら囲まれてよぉ。南口に誘い込んでボコってやっぜってダッシュしたらさ。なんか撒いちまってよ。オレの逃げ足さすがだわーって。そうそう逃げ足と言えばよ。こないだ変態に絡まれそうになって女置いて逃げたらフラれちまってさ――」


「――おい、昇格の話じゃなかったのか」


「――ん? あぁーっ、そういやそうだった。へへへ、悪いな」


「…………」



 弥堂の苦手なタイプの女のように話がとっ散らかる彼のお喋りにうんざりとした心持ちになったところで、エレベーターの前に到着する。


 マサルは上階を示すボタンを押したところで人懐っこい顏をまた向けてきた。



「いやよ。ほら、スカウトきちぃって言ったじゃん?」


「言ったな」


「だからよ、こないだビトーくんに教えてもらったヤツ試してみたんよ」


「……俺が?」


「あぁ。ほら、マッチングアプリで女引っ掛けて付き合ったフリして働かせちまえってヤツ」


「……あぁ、そういえばそんな話もしたな」


「あれで見事によ、一発目で一人入店させられたんだよ! マジサンキュな」


「そうか。そいつは運がよかったな」



 適当に返事をしながら目線を上に向けて、エレベーターの現在位置を見る。


 しばらく7階のままで停まっていたエレベーターがようやく下に向けて動き出した。



「いやぁー。マジあれのおかげだわ。今度メシおごるよ」


「それには及ばない。というか、一人入れただけでノルマを達成できたのなら元々近いところまで数字を出せてたんじゃないのか? 別に俺の功績ではないだろ」


「あん? いやー全然よ。一人入ったから、こりゃイケるってよ。その後も同じことやって気合で7人入れたんよ」


「……なんだと?」



 訊き咎めた弥堂がピクっと眉を跳ねさせたところで『チーン』と音が鳴る。

 エレベーターが到着したことの報せだ。



 中から程よく酔って上機嫌な様子の中年男が降りてくる。


 擦れ違いざまに、ここまで待たされた腹いせに彼の腿に膝を入れて蹴り転がす。


 そのままエレベーターに乗り込む。



 マサルは腿を抑えてゴロゴロと悶絶する男を一度真顔でジッと見てから、何故か「へへっ」と照れ臭そうに笑みを浮かべて一緒に乗り込んできた。



 マサルが3階のボタンを押して扉が閉まるのを待ってから再び彼に話しかける。



「……大丈夫なのか?」


「あん? ヘーキ、ヘーキ。今日は日曜だしよ、この時間になったらもう指名しかどうせ来ねえからちょっとくれぇフロント空けたってダイジョーブだぜ」


「そうじゃない。スカウトの話だ。やるなら一人だけにしろと言っただろ? 後で絶対にバレてモメるぞ」


「あー……、まぁ大丈夫っしょ。みんな優しい子だし。オレよ、泣いたフリと土下座したフリは得意なんだ。多分許してもらえるよ」


「……土下座したフリはもう土下座してるだろ」


「ん……? ビトーくんたまに難しいこと言うよな。でもまぁ、これで給料も上がったしやっと風紀の罰金払い終わりそうだぜ」


「…………」



 近い将来、その罰金は何倍にも膨れ上がるだろうことを彼に報せようかと思ったが、そうするとこのマサルという男は飛んでしまいそうなので、万年人手不足に悩むマネージャーのことを慮り弥堂は口を閉ざした。



 エレベーターが3階に到着する。



 開いた扉を手で押さえるマサルの前を通ってフロアに出る。



「じゃーな、ビトーくん。今度一緒にナンパしような!」


「しねえよ」


「あ、ビトーくんナンパとかダメな人? んじゃヤリたくなったら女まわすからいつでもメッセくれよな! 7人もいっからさ……あれ、8人だっけか?」


「何故お前らは会うたびに身近な女を俺に抱かせようとするんだ。不要だ」



 尚も何かを言おうとするマサルを突き飛ばしてエレベーター内の奥に押しやると扉が閉まり下の階へ戻っていった。



「お待ちしてました。弥堂さん」



 エレベーターが閉じるタイミングを待っていたかのように声がかかる。


 弥堂が振り返ると細身のスーツを几帳面に着こなす眼鏡をかけた男が待っていた。


 男は弥堂に一礼をすると顔を上げてエレベーターの扉を睨む。



「……口の利き方がなっていないようですね」


「構わない。それより遅くなって悪かったな、黒瀬さん」



 黒瀬と呼ばれた男は顔を弥堂の方へ向けると表情を操作し柔らかなものに変える。



「いえ、それこそ構いませんよ。ただ……、その、少々不愉快なものをお見せすることになるかもしれませんが……」


「あぁ……、華蓮さんか。まぁ、土下座してるフリをすれば大丈夫だろう」


「フリでも土下座をすればそれはもう土下座なのでは……?」



 怪訝そうな顔をする黒瀬に近づきつつ懐から数cmほどの厚みのある封筒を取り出す。



「悪いがマネージャー。少し迷惑をかける」


「受け取れません。貴方には返しきれない恩がある」


「じゃあ華蓮さんを少し借りるかもしれんから彼女の売り上げにしといてくれ」


「…………わかりました。頂戴致します」



 黒瀬マネージャーは恭しく両手で封筒を受け取った。



「……きっと、こんなことより、メッセージ一つ送ってあげる方が遥かに喜びますよ?」


「参ったな。彼女はそんなことまでアンタに話すのか?」


「フフフ、いえ。見ていればわかります。それくらい機嫌がよくなります」


「聞かなかったことにするよ」


「はい。こちらも差し出がましいことを言いました」



 適当に肩を竦め合ってお互いになかったことにする。



「一応店に来なくなるようなことにはしない。個人的に取引をするだけだ」


「助かります。ですが、最悪、構いませんよ。確かに太客ですが替わりが効かないというほどではありません」


「わかった」


「それはそうと――」



 黒瀬は弥堂に近づき声を潜めて続きを口にする。



「――最近街の雰囲気がよくない。もしかしたらお願いをすることがあるかもしれません」


「わかった」


「これはその時に支払う貴方へのギャラの足しにさせてもらいましょうかね」


「それこそ受け取れない。彼女への借りはまだ返せてないんだ」


「その借りはきっと返せないままでいる方が貴方にとってはいいと思いますよ」


「……勘弁してくれ」



 罰が悪そうに眉を顰めると黒瀬は一歩下がって店内の方へ声をかける。



「マキさん。ご案内をお願いします」


「はいはーい! 一名様ご案内しまぁーす!」



 マネージャーの指示に応えて近づいて来たのはエスコート担当のバニーガール姿の女性だ。



「ユウキくん、ひっさしぶりー! 今日はワタシ指名?」


「悪いなマキさん、手間をかける」


「おいこら無視すんなし!」


「キミは接客はしないだろう?」


「そうだけどぉー、今夜はユウキくんだけトックッベッツッに――」


「――マキさん?」


「――はぁーいっ! ではご案内しまぁーす!」



 黒瀬から咎めるような声をかけられるとバニーさんは弥堂の手を両手でギュッと握ってから笑顔で下から顔を覗き込み、片手は繋いだままで残して先導を始める。



 店内に進んでいく二人の姿を見ながら、黒瀬は溜め息を吐く。


 自分でも口煩いと自覚があるほど接客態度について指導をしているのだが、どうしていつまで経っても成長しないスタッフばかりなのだろうと、頭痛を感じて眉間を揉みほぐした。




 数十の卓がセットされた広い店内をバニーさんに手を引かれながら弥堂は進む。


 それなりの客が入っているようで活気は悪くない。



 店内は喧しいトランスミュージックが流れていて耳障りな電子音が喧騒を助長させている。ボリュームがかなり大きく客たちやキャストたちの会話の内容はほとんど聴き取れない。



「マキさん、手を離してくれ。客どもの視線が集まってる」


「えー? なぁにー? 聴こえなーい」


「嘘つくな。アンタ普段案内でこんなことしねえだろ。目立つからやめろ」


「いいじゃん、べつにー」


「仕事しづらくなるぞ」


「ワタシべつに客とらないから関係ないしー?」


「……階段までだぞ」


「はぁーい」



 そうしている間にフロア中央にある上階に繋がる階段が近くなる。



 この店の3階と4階は吹き抜けになっており、3階は一般席、4階は半個室のVIPシートとなっている。


 そして4階と5階の間はしっかりと天井と床で隔絶されており、5階はお忍びでも使える本当の意味でのVIP用の個室となっている。


 この五月ビルの3・4・5階の3フロアが『Club Void Pleasure』の領土ということになる。


 弥堂が用があるのは5階だ。



「もう離せ」


「えー? いいじゃーん。このまま行こうよー」


「危ないだろ」


「なーに? 恐いの? キミ運動神経いいからダイジョーブっしょ」


「俺じゃなくてキミだ。そんなに高いヒール履いてるんだから危ないだろ」


「えー。ダイジョブだよー。慣れてるしぃー」


「うるさい。つべこべ抜かすとケツに指突っこむぞ」


「わわわわっ……⁉ ワタシそっちはNGだからっ!」


「さっさと行け」


「はーい」



 弥堂に叱られるとバニーさんは大して名残惜しさも見せずにパっと手を離す。そして階段を昇り始めた。


 弥堂は後を追い彼女の後ろ姿をジッと視た。



 彼女の言葉どおり特に危なげなく階段を歩いている。


 腰上まで伸びる網タイツに包まれた両の足が軽やかに踊る。


 健康的な程よい太さの足の上をバックシームが奔り、足の動きに合わせて歪む直線がむっちりとした肉の中の大腿骨や脛骨のラインを想像させた。



 足元のハイヒールから上に伸び、足首、脹脛、膝裏、太腿、そして臀部の総てを覆うその網タイツは、上にいくに連れて露出する白の面積の大きな網目が増えていく。



 弥堂が注視するのは色香に湾曲した白い平行四辺形ではなく、その網で覆ったものの中心部である尻肉の谷間から拡がっていく歪んだ黒布の底辺なき三角形だ。


 45度~60度の間で数値が揺れ動く艶めいたその鋭角が創り出す面で踊り、バニーさんの歩くリズムに合わせてフリフリと揺れるまんまるな白いうさシッポを警戒心たっぷりに鋭く睨んだ。



 弥堂はうさシッポには火傷を負った記憶がある。



 この街に来る前に数年ほど過ごしていた地域では、こことは生活習慣も様式もまるで違ったのだが、何故だかバニーガールの文化はあった。


 今よりはまだ弥堂にも人の心が残っていた頃、天真爛漫にぴょんぴょんして無垢に誘ってくるうさぎさんにフラフラと着いて行ったところ、酷いハニートラップに掛かったことがあったのだ。


 どうもうさシッポに爆発物が仕掛けられていたらしく、魅惑の60度上でフリフリと揺れるうさシッポが突如白滅し、目の前で女を爆裂四散させた。



 咄嗟に身を躱したものの、圧し折れて砕けた女の腰骨だか仙骨だかわからない無数の破片がしこたま腹に刺さり重傷を負うこととなったのだ。


 傷が近すぎて応急で縫うことも出来ず、面倒だからと自作の焼きゴテで腹の傷を適当に焼いて止血したところ、雑菌でも入ったのか火傷がひどく炎症を起こし生死の境を彷徨うことになった。



 そういった非人道的な罠や単純に食事に毒を盛られるなど様々なハニートラップを幾度も仕掛けられては、その悉くに引っ掛かりつつもどうにか生き延びてきてしまった弥堂は、愛想よく近づいてくる女――特にメイドさんとバニーさん――は一切信用しないことに決めている。



 多感な思春期にそういった女の相手ばかりをするハメになり、その結果、愛想のいい女は蹴り転がし踏みつけ唾を吐き掛け、自分は頭がいいと勘違いしている仏頂面で生意気な女は引っ叩いて脅して言うことを聞かせる――それこそが異性とのコミュニケーションスキルの最高到達点であると真理に至った。



 最も効率がいいのは疑わしさが垣間見えるよりも先に殺してしまうことだ。


 その場合は秘匿性が問題となる。



(ここでは証拠が残る)



 決してうさシッポを視界から外さずに油断なく素早く左右に目線を振った。


 いざとなれば階下へ身を投げるしかないと考えていると頭上から声を掛けられる。



「ねぇー、めっちゃお尻見てくるし。なに? コーフンしちゃった?」


「気のせいだ」


「否定すんならケツから目ぇ離せよ。顏見ろし」


「黙れ。歩け。妙な動きは見せるなよ」


「もぉー、しょーがないなぁー。サービスだかんね?」



 そう言って前を向き直したバニーさんは有言実行でプリプリと弥堂の眼前のお尻を振る。


 弥堂は反射的に階段の手摺を跳び越え宙に身を投げ出しそうになったが、かろうじて自制することに成功した。


 握った木製の手摺が指の形に凹む。



 再び歩き出そうとするとバニーさんが立ち止まっていることに気が付く。


 彼女は手摺をジッと見てから弥堂の顏を見てニコッと笑った。


 そのまま無言で階段を昇っていく。



(しまった。借りを作った)



 チッと舌を打ち陰鬱な気分を紛らわせてから後に続き、再び厳しい眼差しでうさシッポを監視する。



 3階フロアの客席から二人の姿を見ると、汚ねえジャージ姿の怪しい男がバニーさんのお尻を嗅ぎながらVIP席にエスコートされていく図にしか見えず客席は俄かに騒めいた。



「はいっ、とーちゃくっ、と……」



 バニーさんは最後の一段を軽やかに跳び越えると宙で身を返しこちらを向いて着地する。



「はいっ」



 そして右の掌を上に向けて弥堂へ伸ばす。



 弥堂はその手を無視して彼女を追い越し4階へと踏み入った。



「もぉー、いじわるぅーっ! ――って、うわわわ……っ⁉」



 その愛想のない男の背中へ文句を投げかけようと振り返ると、勢いをつけすぎたのかバニーさんは大きく体勢を崩す。



 このまま階下まで転げ落ちれば運が良くて重傷、ほとんどの場合は死ぬだろう。営業中の店内で人死にが出れば大騒ぎだ。


 そうなれば弥堂がここに来た目的が果たせない。



 仕方ないと溜め息を吐き、彼女へ近寄り左手を伸ばす。



 右足で爪先立ちになり必死に両腕と宙に浮いた左足を振ってバランスを取り戻そうとするバニーさんの右手を掴む。


 そうして彼女を4階のフロアへ引き戻してやった。



「えへへー、ありがとーっ。じゃあいこっか?」



 九死に一生を得たはずのバニーさんはあっけらかんとして、弥堂の手が離れる前に素早く掴み直し、そのまま手を引いて何事もなかったかのように歩き出した。


 握られた手にギュッギュッと二回ほど力をこめられてようやく気付く。



「……騙したな」


「えー? なぁに? きこえなーい」


「嘘つけ。ここは静かだろ」



 3階フロアの喧騒は遠く、ここでは落ち着いたジャズミュージックが流れている。



「だーいじょぶだって。ほら? ここは半個室だし。見えない見えない」


「……好きにしてくれ」



 4階のVIPシートはパーテーションで各席が仕切られ、通路や他の席とは視覚的にはそれぞれが隔れている。


 確かに問題にはならなそうだし、それなら面倒だからもういいかと彼女の好きにさせることにした。



 歩き出した弥堂の諦めを敏感に察知すると、バニーさんは繋いだ手の指を絡めて恋人繋ぎを仕掛けてくる。



 もう二度と罠に掛かるかと考えた矢先になんてザマだと自嘲した。



 八つ当たりとして少し力を入れて手を握り返してやると、こちらを流し見る彼女の瞳が少し熱っぽくなる。どうやら勘違いをさせてしまったようだ。



(しまった……)



 思わず空いている右手を額に遣りそうになったが、それは自重した。



 並んで歩き、4階フロアの奥を目指す。



「ねぇー? 最近楽しい?」


「あぁ」


「普段どこで遊んでんのー? 全然街で見ないんだけどー」


「そのへんだ」


「今度遊びいこーよー。またオゴってあげるからさー」


「そのうちな」


「いつヒマなのー?」


「3年後だ」


「それ遊ぶ気ないやつじゃんっ」


「そんなことはない。俺もキミと遊びたいと思っていたところだ」


「キャハハ、ウケるー。この子ウソしか言わない」



 スッと身を寄せてきて客席に聴こえないようにと、肩が触れる距離で声を潜めてくる彼女のお喋りに適当に付き合う。


 近い距離で耳を震わせるクスクスとした笑い声を聴き流す。



 他愛のない話をしながら4階フロアを通り抜ける。


 奥の目立たない場所に防火扉があった。


 関係者以外立ち入り禁止と書かれたその扉を開けると薄暗い通路に出る。



 背後で扉の閉まる音がし辺りがさらに暗くなると、スルっと腕を絡められる。



「ねー、お店で会うとなんか冷たくない?」


「そんなことはない」


「あるよーっ。前遊んだ時はもっと優しかったー!」


「気のせいだ」


「サービスが足りないのかなー? ほれっ、おっぱいだぞー? うりうりうり……っ」


「ガキじゃないんだ。そんなことをしても期待には応えられない」


「オマエ高校生だろ。もっと反応しろよ……、あっ、階段だから気を付けてね」


「それを言うなら離れてくれ」



 腕に胸をグイグイ押し付けてくるバニーさんに辟易しながら5階への階段を上がる。



「うぅ……、やっぱり一度抱いた女はもう用ナシなのね……、それともお小遣いをあげないと構ってくれないのかしら……? ワタシ弄ばれたんだわ……トホホ……」


「事実を捻じ曲げるな。キミが俺を弄びたいんだろ」



 訂正を要求しつつ、実際に「トホホ」とか聞いたのは初めてだなと考え、記憶の中に該当するものはないか片手間に探す。


 ヒールが階段を打つ音が密閉された通路に反響している。



「そうだよ、もてあそばさささせろよー」


「『さ』が多いぞ。というか遊ぶ相手は選んだ方がいい」


「お? なんだなんだー? 『オレに構うとヤケドするぜ子猫ちゃん』的な? スカしやがってこいつめー」


「違う……、いやそうでもないか……。マキさん。キミはこの業界でずっとやっていくつもりはないのだろう?」


「え? まぁ……、確かにここのバイトも大学出たら終わりかなーって思ってるけど……、それがどうしたの?」


「キミはいずれ表に帰る人だし、帰れる人だ。しっかりと割り切って線引きをした方がいい。こちらでしか生きられないような者とは深く関わるべきじゃない」


「お? お? そういう手口かー? 『キケンだからオレとは距離を置いたほうがいい。だからオレはずっと一人でいいのさ、フッ……』みたいな! そうやって匂わせてワタシみたいな女を沼に落とすんだろ! ちくしょう! すきーっ!」


「……忠告はしたからな」



 グリグリと胸を擦り付けてくる女に軽蔑の眼を向けながら、そういえばこの手の『自分は上手くやれている』と勘違いをしている女が、本来こういった世界に居る必要がないのに怖いもの見たさでチョーシにのっている内に気が付いたら沼から足を引き抜けなくなってズルズルと身体を売り続けることになると、以前にルビアが言っていたなと思い出す。



 やがて階段の終わりが近づく。


 5階の通路を塞ぐ分厚い扉のドアノブに手を伸ばす。



「まぁ、たしかに? 最終的にはちゃんと普通の人と結婚して普通の主婦になろうと思ってるし子供も欲しいし? 期限決めてそれでちゃんとしないとなーって思ってるよ?」


「だったら――」

「だから――」



 言葉を被せられ、絡められていた腕を抜かれると代わりに首に両腕を絡められた。



「――だから、今のうちにめいっぱい遊ぶの。キミみたいなアブないオトコノコと遊べるのなんて今だけだから……」


「わからない女だな。危険の認識が甘い。怪我だけじゃ済まなくなるようなことに巻き込まれるぞ」


「そうかも。だから、キミがワタシにわからせて……? ヤケドしちゃうくらい、アツくして……?」



 首にしがみつきながら熱っぽい瞳で見上げてくる。


 その視線を受け流す。



「残念ながら俺は冷たい人間のようでな。キミもそう言ったろ? 熱くはならない」


「むー、これでも動じないとかー! オラァ、これでどうだー!」



 ヤケになったのか、力づくで身体を密着させてくる。高いヒールを履いて背伸びをした彼女に首に体重をかけられ、頭を下げさせられた。


 露出の多いバニー衣装から覗く白い柔らかみが、ジャージの向こうの硬い胸板に押し返されてグニグニとカタチを変える。


「ほれほれー。どうだー? バニーさんだぞー? ギュッとしちゃえー?」


「悪いが、俺はメイドさんが好きなんだ」


「お? 意外とそっち系なの? 仕方ないにゃぁ~、今度着てあげるね?」


「着たからってキミの誘いにはのらないぞ」


「ちぇー、今日はダメな日かー」


「OKな日があるみたいな言い方はよせ」


「う~ん……、学校とかでモテるようには見えないけど、なーんか手馴れてるよねー? キミー」


「そんなことはない」


「え? モテモテってこと? もしかして彼女できた? だから遊んでくんないの?」


「違う。モテないし慣れてもいない。こういうことに興味がないだけだ」


「ほぉー、キョーミがないときたか。へぇー」


「いくら頑張っても時間の無駄だ。諦めろ」


「こいつぅー、おねえさんを甘くみてるなー? そこまで言うなら考えがあるぞー? うりゃっ!」


「おい――」



 グイっと引っ張られ身体の向きを変えられたと思えば、今度はすぐに押されて5階通路へのドアに背中を付けられる。



「――離さないでね?」



 そして彼女は弥堂の首に手をかけたままその身を後ろに倒し、階下へ身を投げた。



「――っ⁉」



 反射的に後ろ手でドアノブを握りもう片方の手を壁につけて身体を持っていかれないようにする。


 そして首に力をこめて彼女の体重を重力と奪い合う。



「さっすがオットコノコー! 力あるねー!」


「……兎はもっと臆病な動物のはずなんだがな」


「ふふーん。発情したうさぎさんはとってもアグレッシブなんだぞー」



 かなり危険な行動をした彼女だが悪びれた様子はまったくない。



「落ちたら死ぬぞ」


「そうだねー。だからちゃんとワタシを抱き寄せて」


「…………」


「それとも――ワタシと一緒に落ちてくれる……?」



 器用に瞳を潤ませて視線で熱を伝えてくる彼女に溜め息を返した。


 無言で彼女の腰に手をまわして一息で引き寄せる。



「わわっ……!」



 口だけ驚いたような声を発しつつも、バニーさんは抜け目なく勢いを利用して身体を押し付けてきた。



「えへへー、正攻法がダメだったので病み系で攻めてみましたー。好き?」


「最低だ」


「えー? じゃあ、おしおきしちゃう?」


「そうだな」



 グイっと強く腰を引き寄せて、ドアノブから離した手も彼女へ回す。


 太ももの裏から尻へと指先だけでツっと撫で上げる。



「あん……っ、その気になっちゃったの? やだー、こんなとこで困っちゃうーっ」



 口ぶりとは裏腹に期待を込めて見つめてくるその瞳を冷たく見下ろし、彼女の尻を撫でていた手でガッとうさシッポを掴む。


 そして容赦なくそれを捥ぎ取った。



「あーーーっ⁉」



 用済みになった煩い女を脇に置いて、手に掴んだうさシッポをジッとよく視る。どうやら危険な物は仕込まれていないようだ。



「なんばすっとかー⁉」



 ペイっと放り捨てたうさシッポを持ち主が追いかけていく。そしてそれを拾ってくると猛烈な抗議をしてきた。



「なんてヒドイことするの! 壊れちゃったじゃーん!」


「安全上必要なことだったんだ」


「もーっ! また意味わかんないこと言ってー! どうすんのよこれぇ……」


「どうでもいいだろ。もういくぞ」


「やだーっ!」



 子供のようにダダをこねた元バニーさんが弥堂の進路を塞ぐようにドアにへばりつく。



「おい、邪魔だ」


「こんなみすぼらしいカッコじゃ恥ずかしくてフロア歩けない!」


「シッポがとれただけだろ」


「耳とシッポがあってバニーさん! どちらかでも欠けたらワタシはその瞬間ただのハイレグねえちゃんになっちゃうの!」


「もっと他の所に拘って仕事しろよ」



 弥堂は目の前に突き出された尻に胡乱な瞳を向けた。



「直してー! 直してくんなきゃやだー!」


「自分でやれ。もういい。ここからは一人で行くから部屋番を教えろ」


「直してくれるまで絶対言わないもん! やだやだやだー!」



 徹底抗戦の意思を表すべく元バニーさんはシッポの無くなったお尻をブンブン振って弥堂を威嚇する。



「直すたってどうやればいいんだ?」


「はい、これ。これで留めて。とりあえず応急で」


「……安全ピンか」



 諦めて要求をのむことにすると、まるで用意してたかのように後ろ手で安全ピンを渡してくる。


 銀色に光る小さなそのバトンを受けとった弥堂は続けて彼女の手から乱暴にシッポを毟り取る。



「あっ! ちゃんと丁寧に扱ってよ! 着ける位置にも拘ってね!」


「うるせえ。いいから黙って、そこのドアに手を付けてケツをこっちに向けろ」


「はぁーい」


「こんなチャチな針で刺さるのか?」


「あんっ……! やだ……、そんなにがっしり腰掴まれるとドキドキしちゃう……、力強い……っ」


「余計な口をきくな」


「うん……、声でないように頑張るね……?」



 なに言ってんだこいつ?と侮蔑の眼を投げながら弥堂は階段を二段ほど降りて高さを調節する。



「あ……! そのまんま刺しちゃダメだよ? ワタシの肌にも網タイツにもキズつけないでね?」


「俺に細かいことを期待するな。神にでも祈ってろ」


「なにそれ。カンタンだから。ほら、そこ……、スーツの横からこうやって指入れて持ち上げて?」


「……こうか?」


「うん、そう……ひゃんっ⁉ ちょっとヒヤっとしたー。えへへ、バニースーツって意外と蒸れるのよね」


「どうでもいい。で?」


「うん、そのまま奥まで入れて……、そうそう。タイツとスーツの間に隙間つくってぇ……、こうすればデキるでしょ……?」


「……ほら、済んだぞ」


「あぁん、もう? はやいよぉ……」


「早くて何が悪い。オラ、終わりだ」


「やんっ」



 ピシャっとバニー尻を打って事の終わりを示唆する。


 ぴょんっと跳び上がったバニーさんは左右から振り返り自分のお尻を覗き込んで出来栄えをチェックする。



「うーん。よく見えないなー。ね? ズレてないかチェックして?」


「大丈夫だ」


「まだ見てないじゃん! ほらほらーよく見てー。お尻だぞー?」



 目の前でフリフリと揺れるうさシッポを無感情に眺めてチェックをしたフリをする。



「大丈夫だ」


「あ、そう? へへー。じゃあー、はいっ……!」



 ぽふっと突き出された尻の谷間に鼻先を食われる。そのまま小刻みに左右に振られると頬骨が柔肉に食い込んだ。



「サービスだよっ!」



 パっと離れた彼女はこちらへ振り向きバチンっとあざといウィンクを送ってくる。



「……気は済んだか?」


「えぇーっ! なぁにそのリアクションの薄さ! せっかくお尻触らしてあげたのにー」


「お前がケツで俺に触ったんだろ」


「あー! そういうこと言うんだー。言い触らしちゃおっかなー。お触り禁止のバニーさんのお尻揉んだーって」



 自身の肩を抱きながらうさシッポをフリフリしてこれ見よがしに被害者面するバニーさんに、弥堂もこれ見よがしに舌を打つ。


 この後の仕事の為にと、弥堂にしては大分我慢した方だがそろそろ面倒になってきたようだ。



 ゴソゴソと懐を探りながらバニーさんに近寄り、大きく開いた彼女の胸元にグイっと万札を捻じ込んだ。



 バニーさんは不思議そうに自身の胸の谷間を見下ろしてぱちぱちと瞬きをすると、今度はポーズ付きでバチコンと会心のウィンクをキメる。



「まいどっ!」



 金銭での解決を選んだ男はそれには何も返さず、無言で彼女をどかしてドアノブを操作し、今度こそ5階のフロアへと這入った。

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