2章10 『ドロドロのミスゲート!』 ⑨

 茫然自失――




 そうなってしまったのは希咲だけではない。



 弥堂と希咲を取り囲む野次馬の者たちも、弥堂のとった行動によって思考停止してしまう。


 再び、場がシンと静まった。



 今この場で心も身体も自由なのは弥堂だけだ。


 だが、その弥堂も動かない。



 何故ならその身と、腕と、手で――



 力強く希咲を抱きしめているからだ。






 自身の身に起きたこと。


 肌に伝わってくる感触。


 それらによって希咲の思考はフリーズしている。



 だが、彼の胸板に触れているほっぺた――


 そこから伝わってくるぬくもりが、じわじわと違う体温を伝播してきて――


 しかしそれが自分の記憶にあるそれとの整合性がとれてしまうと――



――ギギギギ……っと、軋むような音を立てて希咲は首を動かした。



 不自由な動作と不自由な視界の中で、希咲は自分が何をされているのかを確かめる。


「おかしいな?」「でも“緊急回避”が発動してないからきっとまだセーフなんだろうな」――と、僅かに期待をにじませながら。



 何となくヨジヨジと肩を動かしてみると、余計に彼の腕の中に身体がスッポリと収まってしまった。


 自分よりも高い体温に温められているはずなのに、身体の芯の方はどんどんと冷え込んでいくように錯覚する。



 動くことも儘ならなくなったので、希咲はなんとなく目線を上げてみた。


 すると、すごく間近で自分を見下す冷たい瞳と、パッチリと視線が合わさった。



 希咲を抱きしめている弥堂は油断なく彼女を視下ろしている。


 自分を見上げてきた彼女の瞳に吸い込まれぬよう、しっかりと彼女の顏全てを眼に映した。



 ぱちぱちと、ハッキリとした睫毛がまばたきをした。


 次に、数日前に教室で見た時よりも色艶のいい唇が少し開く。


 その隙間から「スゥーっ」と息を吸い込む音が聴こえ、連動するように彼女の細い首と白い肌の上から喉の動きが窺えた。



(くる――)



 そう考えると、反射的に両手で防御の姿勢をとりたくなる。


 だが、弥堂はそれを強く抑圧した。



「ぎゃああああああっ――――⁉」



 もしかしたらこれまでの中で一番かもしれない。


 そんな希咲の大絶叫が轟く。



 その兵器染みた大音量の悲鳴は、周囲の人々にも犠牲を出した。


 頭の中がクワンクワンとなった生徒さんたちが目を回している。


 とはいえ、被害はそのくらいのもので、特に鼓膜が破れたりなどはしなかったようだ。



 だが、零距離で攻撃を受けた弥堂はそれでは済まない。


 もちろん彼のお耳はないなっている。



 しかし、それでも構わない。それは覚悟の上だった。



(両耳はくれてやる……)



 耳は聴こえなくても問題ない。


 ここからは相手の言葉など聞く必要はないからだ。


 ただ、自分の言うべきことを言えばいい。



 弥堂はよりしっかりと希咲の身体を抱きしめる。



「ぎゃあああっ! いやああああぁぁっ!」



 そうしたらもう一発絶叫をくらってしまう。


 三半規管が激しく揺さぶられ、弥堂の頭もクワンクワンした。


 だが、それでも希咲の身体は離さない。



 弥堂の右腕は希咲の背中に回され、その手で右肩をガッシリと掴まれている。


 さらに左手でしっかりと腰を押さえられ、希咲はまるで身動きが出来ない。



 物理的なセクハラを受けてお目めをグルグルさせた七海ちゃんはついに暴れ出した。



「ななななな、なにしてんだこのやろぉーっ⁉」


「暴れるな。ちゃんと抱けないだろ」


「やめろって言ってんだバカやろーっ!」


「落ち着け。ちゃんといいようにしてやる」


「きもすぎるーっ!」



 適当に喋り始めた弥堂だったが、あまりに会話が成立している手応えがなかったので、頭を振って聴力と三半規管の回復に努める。



 その頃には、スタン状態に陥っていた周囲の人々のステータスも回復してきていた。


 自分たちの中心で熱く抱き合っている男女の姿を見て、男子生徒も女子生徒も大いに盛りが上がり歓声をあげた。



「な、なんなの……⁉ なんで拍手されてるわけ⁉ あたしセクハラされてんだけどっ⁉」



 自分が公衆の面前でこんなにも酷い目に遭っているというのに、何故彼らや彼女らは喜んでいるのだ。


 自分が大喝采されることの意味がわからず、希咲はさらに混乱する。



 周囲の人々の目には、ついにケンカ中のカップルが仲直りすることが出来た――という風に見えているようだ。



「まぁ、無難な結末だけど、現実的にはこれが一番だよな」

「そうな。関係ねえけど同級生同士で別れたとか後味悪いしな」


「ビミョーに希咲ムカつくけど、でもまぁ、これでいっか」

「そうね。あのイカレ男を引き取ってくれてると考えると、一定の評価には値するわよね」

「万が一、アレに告られたりとかしたらコワすぎてムリだもんね」

「断ったらレイプされて脅迫とかされそうだしね」


「やっぱせっかく付き合ってんなら幸せになって欲しいしな!」

「だよね! とにかくおめでとう! 二人とも!」



 生徒さんたちは口々に好き勝手なことを言いながら、さらなる拍手を二人に送った。


 緊迫のバトル開始寸前――という心持ちだった希咲には、周囲からのお花畑な賛辞がまるで理解できない。



「え? なになになに……⁉ どーゆー……、ってか放せ! いつまでやってんだ! このへんたいっ!」


「うるさい。抵抗するな」


「ぎゃーっ! ちかいちかいさわんないでっ!」



 混乱しながら希咲は弥堂の顔面に手をやって引き剥がしにかかる。


 だが、弥堂のホールディングから腕を抜いたことで余計に密着感が増してしまった。



「なんなのなんなの⁉ やめてはなしていみわかんない! むりむりむりだからまじきもいっ!」


「要求や質問をいっぺんに言うな。答えづらい」


「ようきゅうっ、はなせ! しつもんっ、なんなの⁉ かんそうっ、きもいっ!」


「要求は断る。質問の答えは、お前がやれって言ったからだ」


「はぁっ⁉ ゆってないし! つか、いうわけねーだろ! あと、きもいっ!」


「そうか。がんばれ」


「がんばれないから! がんばりたくないし! つか、がんばることでもないでしょ⁉」


「ちっ、うるせえな」


「うるさいじゃなぁーーいっ! なんでいつもすぐ勝手にギュッてしてくんの⁉ マジありえないんだけど!」


「いつもってほどじゃねえだろ。まだ3回目だろうが。大袈裟に話を盛るな」


「は? 3回……? 2回目じゃなく……?」


「あ、やべ」



 弥堂は慌てて口を噤む。



 そういえば2回目に彼女を抱きしめたのは正門前での出来事で――


 その時は彼女が茫然自失している時にやったので、適当に有耶無耶にしていたのだった。



 腕の中で暴れていた希咲が一時的に大人しくなり、ジッと疑いの目で顎を刺してくる。


 なんとなくその顏が生意気でムカついたので、彼女のおでこにフッと息を吹きかけて前髪を乱してやった。



「あっ――なにすんだこのやろーっ!」


「ぐっ――」



 吐息でおでこから浮いた前髪が戻った際に上手いこと彼女のジト目に刺さって目潰しにならないかと画策したのだが、その行動はただ彼女を怒らせただけだった。


 逆に顎に頭突きをくらうことになって弥堂は呻く。



 この隙に逃がすわけにはいかないと腕に力を入れて彼女の拘束を強める。


 すると希咲はまたもがもがと暴れ出した。



「てゆーか! あたしがやれって言ったってなんなの⁉ そんなこと言うわけないでしょ⁉」


「…………」



 そういえば初めて彼女にこうした時よりも余裕があるなと気が付く。


 なんだかんだと嫌がっていても回数こなせば勝手に慣れていくものかと、希咲の顔をジッと見下ろしながら心中で納得した。



 すると、その視線になにか邪なモノを感じたのか、希咲はまたギャンギャンと怒鳴り始める。



「無視すんな!」


「別にしていないが」


「してんだろ! あたしあんたにこんなことしろって言ってない!」


「確かにお前が言ったことじゃないが、だが約束を守れと言っただろう」


「は⁉ 約束守ってなんでこんなことになんの⁉」


「今度会ったらこうするって約束になってただろうが」


「はぁっ……⁉」



 希咲の頭に大量の『⁉』が浮かぶ。


 いつものようにセクハラをするためにまた意味のわからない嘘を吐いているのかと疑惑の目で弥堂を睨む。


 しかし彼の表情にそんな様子はない。


 仮に彼が本気で言っているのだとして――だが希咲としてはそんな約束をした覚えは全くないので、唯々大混乱だ。



 パニック状態の彼女とは逆に周囲の方々はホッとする。


 ケンカ中のカップルが仲直りすると思って見守っていたら、希咲があまりに暴れて喚くので「これはもしや無理矢理なのでは?」と不安になっていたのだ。



『もうやだまじむりわかれる!』

『うるせえ! だったら最後に一発ヤラせろ!』

『あぁ……、いやぁぁぁっ!』



――的な想像を少なくない人数がした。


 しかし、今の二人の会話を聞いて、どうやらそういうことはないのだとホッと安堵する。



 きっと――


『もうすぐ旅行から帰るからー、次に会ったらギュってしてね?』

『やれやれ、しょうがないなぁ七海は。わかったよ』


――二人の間でこういったやりとりがあったのだろうと勝手に想像して補完した。



 そんな想像に拍車をかけたのが――



「――まぁ、希咲ってツンデレだしな!」


「そうね! そうだって有名だもんね!」



――希咲に付いているそんなイメージのせいだ。



「――んなわけあるかぁーーっ!」



 全力で否定を叫ぶが、人々はほっこりとした目を向けてくるだけだ。


 他からの救援は望めないと、希咲は隙あらば抱きついてくる変態男に再び怒りを向けた。



「勝手なことゆーな! こんな約束してない!」


「しただろ」


「あたしとあんたで、こんな約束するわけないっ!」


「それこそそんなわけがない。よく思い出せ」



 弥堂が真顔で冷静にそう言ってくる。


 希咲は少し不安を覚えた。



 こんな約束をしているわけがないのは間違いない。


 だが、無表情で読みづらいとはいえ、弥堂が嘘を言っているとも思えないのだ。



 だったら嫌がらせでこうしていることになるのだが、しかし――


――嫌な考えが脳裡を過る。



 最近、こういうことがいくつかあったからだ。


 過去の出来事や当たり前の認識において――元々そうだったはずのことが、他の人々にとってはそうではなくなってしまう。


 変わってしまうことが。



 希咲はその嫌な想像を振り払うようにさらに声を張り上げた。



「あんたが思い出しなさいよ! 約束ってこんなことじゃなかったでしょ!」



 希咲にとっての弥堂との約束とは、4月17日の放課後に学園の正門前でした約束のことを指す。


 愛苗に関する3つの約束だ。



 しかし、直近の記憶から遡っていった弥堂の認識は違う。


 弥堂が浮かべている『約束』とは、4月23日の希咲との通話内容のことだ。



 正確には、あの時夜の路地裏での通話でしたのは、『約束の締結』ではなく『約束の破棄』だった。


 自分はもうすぐ愛苗のことを忘れてしまうだろうから、これ以上は希咲との元々の約束を続けることは不可能だと。



 だが――



『聞かない。これ以上は不毛だ。さっき決めたろ? 不毛な話はしない。だからどうしても聞いて欲しければ、次に会った時にでも聞いてやる。覚えていたらな――』



――その通話の最後は弥堂のこんな言葉で一方的に締めくくられた。



 この中の『さっき決めた』とは、この時の通話の最初の方でしていた話のことだ。


 弥堂と希咲の間だけで通じる『諦めタイム』のことである。



『諦めタイム』とは、細かいこと一つ一つの全てでケンカになってしまい、いつまで経っても本題が始まらない進まない二人の会話を無理矢理進行させるためのルールである。


 この場で言い合っていても絶対に解決しないし、どうせどちらも譲らない。


 なので、次回会った時にそのことを覚えていたらその時に改めて決着をつけることにして、この場では言及しないようにする。


 そういったものだ。



 傍から見たらじゃれ合いにしか見えないだろうが、一応本人たちは割と真面目にそのルールを重要視している。



 だから、愛苗のことを忘れてしまうから希咲との約束は破棄する。


 だけど、覚えている限りは継続する。


 弥堂の中ではこういうことになっていた。



 しかし、それが真実ではあるものの――


 現在の弥堂は対外的には愛苗のことを忘れたことになっている。



 故に、その『覚えていたら履行する約束』の『約束』を何かに摩り替えなければならない。



 そこで引用されるのが――



『えー? 絶対あたしの方がすきだしー』


『俺の方がすきだ。なにせ、明日とは言わず、今この瞬間にでもキミに会いたいと思っているからな。この気持ちがほんの少しでも醒めてしまう前に』


『えー? なになにー? そんなにあたしに会いたいのー? うれしいけどー、そこまでガッつかれるとちょっとコワイってゆーかー? 会ってどーするのー?』


『あぁ、もちろん、ここでは言葉に仕切れない、この胸の裡を全てぶちまけるつもりだ。受け止めてくれるだろ?』


『えー? うれしー。でもでもー。その前にー。顏見たらうれしすぎてー、あたし飛びついちゃうかもー? でもぉ、つい、うっかり、ヒザからいっちゃうかもだけどー。もちろん、あんたも、ちゃんと受け止めてくれるわよねー?』


『当然だろ。それくらいは男の甲斐性だ。なにより、だいすきなキミに怪我をさせるわけにはいかないからな。しっかりと全力で抱きとめるよ。ただ、感激しすぎて、つい、うっかり、力が入り過ぎて、その細い腰がヘシ折れるくらい抱きしめてしまうかもな』



――の会話だ。



 これは先にキレて悪口を言った方が負けという新形式のバトルをしていた時のやりとりである。



 つまり――



「――俺だって待っていたんだ。お前が約束を守るのを。なのに、いつまでたっても飛びついて来ないから」


「なに言ってんのなに言ってんのなに言ってんのぉっ⁉」


「今度会った時に覚えていたら、こうして抱き合うという約束だ。電話でそう話しただろ」


「はぁっっ⁉」



 混乱する希咲の顔を冷静に視下ろす。


 彼女の腰を押さえる左手に思わず力が入って、この細い腰を圧し折りたくなるが努めて自制する。



 この場での目的は彼女の殺害ではない。



 希咲は希咲で、どうやら弥堂から何かしらの失言を引き出そうとしていたようだ。


 弥堂にはそれを躱す必要があったといはいえ、だが決してそれが弥堂の本来の目的ではない。



 この戦場での弥堂の勝利条件は、自身が愛苗を忘れていると希咲に思わせること。



 すなわち――


『自分が希咲 七海の彼氏であると思い込んでいる男を演じ切ること』


 ――だ。



「俺は彼氏だ。彼氏は彼女を殺さない。基本的には」


「マジでなに言ってんのぉっ⁉」



 強く自分に言い聞かせようとしたらつい口から出てしまった。


 しかし、問題ない。


 ここからは言葉数を減らして取り繕う必要がないからだ。



 二人のやりとりにまた、「わぁ」とギャラリーが湧く。



「やっぱりそういう話だったんだ」

「そりゃそうだろ」

「付き合ってるんだからムリヤリになるわけないもんね」

「付き合ってるから合意だよね」


「つ、つきあってる……?」



 ここでようやく希咲も周囲と自分の認識の違いを理解し始めた。



「うんうん。やっぱりクラスメイト同士のカップルには仲良しでいてもらいたいんだよ」

「だよねっ。拗れてるとこっちも気まずくなっちゃうしね」


「ちょ、ちょっと! ののか! 真帆っ!」



 キャッキャッと燥ぐクラスメイトたちに声をかけると、彼女たちはキョトンとする。



「あんたたち何の話してんの⁉」


「なにって……、ねぇ?」

「な、なんかあの状態で話しかけられるとドキドキしちゃうね……っ」


「そんなのいいから! さっきからみんなして『付き合ってる』とか言ってるけど、それって『誰と誰』の話してるわけっ⁉」



 なにやらモジモジとする早乙女と、キャっとお顔を手で隠した日下部さんに、希咲はついに直球の質問を投げかけた。


 すると、彼女たちはやはりキョトンとした。



 そのリアクションに、猛烈に嫌な予感が膨らんでいく。



「誰って、七海ちゃんとぉ――」

「――弥堂くんのことだけど?」


「はぁっっ……⁉」



 希咲にとってはまるで意味がわからないし、身に覚えもない。


 だが、今日のこの場での周囲の態度や言動がどういうことだったのかという点については、整合性が一気にとれて急速に理解が進んでしまった。



 ついに。



 ここでついに――



 弥堂くんと七海ちゃんが付き合っているということが、とうとう七海ちゃんにバレてしまった。

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