2章10 『ドロドロのミスゲート!』 ⑪
【
その刻印魔術は何か物理的な現象を直接『世界』に起こし影響を齎すものではない。
脳の処理領域を特定のものに集中させ、所謂『ゾーンに入る』という状態を意図的に引き起こす。
さらに心理的なブレーキを取り払い、自分自身をただ行動実行する為だけの装置とする魔術だ。
弥堂は普段からこのブレーキがほとんど壊れてしまっているような人間なので、いつもであればこの魔術の恩恵は集中力の強化の為にしか使わない。
だが、今回はそうではない。
この場においては、心理的なブレーキの解除を目的に使用している。
こんな弥堂のような人間でも感じてしまう“躊躇い”を捨てる為にだ。
今、この瞬間に。
己をただの装置とする。
ただ、希咲 七海を愛するだけの装置に――
「――な、なにっ……⁉」
弥堂のその誓い、決意を感じとったのか。
彼の腕の中で希咲はビクっと肩を撥ねさせた。
「い、いきなりお目めクワっとかさせないでよっ! ビックリするでしょ⁉」
突然自分を抱きしめたままで目ん玉をかっ開いた男に恐怖感を覚える。
「…………」
弥堂は何も言葉を返さず、嫌悪を浮かべた彼女の顔をただジッと視た。
その瞳の奥に、彼女の魂のカタチを映す。
「な、なに……⁉ なになになに……っ⁉ コワイんだけどっ! つか、あんたなんか目ぇ光ってない⁉ キモいんだけどっ!」
乾いた絵具のようなのっぺりとした黒い瞳。
その奥で微かに蒼い灯火がゆらめいている。
それはとても不自然で不可解なことなのだが、今の希咲には生理的な嫌悪感が勝ってしまう。
男から向けられるその眼に、女性としての根源的な恐怖を感じた。
希咲の二の腕を撫でるようにゾワっとした感覚が奔る。
「こ、こっちみんな……っ!」
モガモガと抵抗をするが力強い腕に押さえつけられ脱出は叶わない。
そして深い集中状態にある弥堂も、希咲の言葉などはもう聞いていない。
先日の悪魔との決戦。
最後に魔王に放った初代勇者の聖剣を再現した大魔法。
あの魔法を構築した時と同等の精神状態を作り上げる。
あの時と同じ力はもう弥堂の身の裡には無い。
だが、一度あの階位まで昇りつめた感覚は身体に残っている。
ならば出来るはずだ。
(ここでしくじれば――)
その悪魔との戦いを生き延びた意味もなくなる。
それだけではなく、もっと以前の異世界での戦いの日々も無意味になってしまう。
それでは弥堂を守り、彼を今日のこの戦場まで辿り着かせてくれた人たちの生命や想いすら無駄だったことになってしまう。
神ではなく――
記憶の中に記録された彼女たちに誓い、そして力を乞う。
(ルヴィ……、エル……っ! 俺に力を貸してくれ……!)
『貸すわけねェだろ、バカかよ』
『いい加減にしなさい、ユウキ』
何か否定的な言葉が聴こえた気がするが、気がしただけなら気のせいだ。
何故なら彼女たちは死してもなお、自分を見守ってくれていたのだから。
(お前たちの死を無駄にはさせない……!)
『お前が一番冒涜してんだよ。こんなことさせるために死んだんじゃあねェんだわ』
『どうして真面目に考えた結果、こうなってしまうんです……』
昔の女たちの幻覚がゴミを見るような目を向けてくる中、弥堂は意を決した。
「希咲――いや……、七海……」
「……は?」
勝手に名前呼びをされて反射的に怒鳴り返そうとしたが、自分を見つめる弥堂の瞳のあまりの真剣さに、希咲は声が出なかった。
その弥堂の真剣さは周囲の人々にも伝わったようで各所での話し声が止み、全員の視線が集中する。
誰かがゴクリと喉を鳴らした音がやけに鮮明に聴こえた。
そして弥堂はついに、それを解き放つ。
「七海……、お前が好きだ」
「………………………………………………は?」
時が止まる。
この場に居る全員にそう錯覚させた。
数秒して、時間が動き出す。
観衆は驚きと感動の声を上げ、それと同時に――
プツ、プツ、プツっと――
希咲の全身に鳥肌がたった。
彼女の動揺を弥堂は見逃さない。
すかさず追撃に入った。
「おい、無視をするな。俺は、お前が、好きだと言っている」
「い――」
弥堂は両耳を捨てた。
「――いにゃあぁぁぁぁぁーーーーーっ⁉」
本日イチの大絶叫によって、無辜の民たちのお耳はないなった。
希咲の放ったMAP兵器の範囲内に居た全員がお目めをグルグルさせて頭をフラつかせる。
最も近距離で攻撃を受けた弥堂のダメージはそれよりも大きいが、生き残ることを諦めている男はこの程度では止まらない。
たとえ三半規管が役に立たなくとも、腕の中の少女に愛を伝えることは可能だ。
「ま、まったく……、こんな所で『いにゃぁー』だなんて、七海ははしたない子だな」
「ぎゃぁーーーっ! きもいきもいきもいっ!」
「お前から聞いたんだろ。『好きなのか?』と」
「むりむりむりむりだからっ!」
「何度でも言うぞ。俺はお前のことが好きだ、七海」
「やだやだコクらないでっ!」
「お前はどう思っているんだ?」
「いやぁー! きもいぃぃっ!」
衆人環視の中で、自分と付き合っていると思い込んでいる世界一キモイ男に愛を囁かれ、希咲は半狂乱に陥る。
「わぁ、希咲さんあんなに照れちゃって」
「ねー? かわいーね?」
そんな様子すら人々には“ツンデレ”として処理されるようだ。
既に半泣きの七海ちゃんは、そんな人々に文句を言うことすら出来ない。
もう目の前の男がキモイとしか、考えることが出来なくなっていた。
「しょうがないな、七海は。でも、そんなところも可愛いと思ってるよ」
「や、やだぁ……っ!」
「やだじゃない。俺はお前を可愛いと思っている。何故なら俺がお前を好きだからだ」
「ダメっ! ダメだからっ……!」
「ダメだと言われてもこの気持ちは止められない。何度でも言うぞ。俺はお前が好きだ」
「いや……っ、いやぁっ……! もうコクらないでぇ……っ!」
「うるせえな。好きだって言ってんだろ。抵抗すんじゃねえよクソ女が」
「うっさい! しねっ! キモ男っ!」
これだけ好きだと言ってやっているのにも関わらず、腕の中で激しくイヤイヤをする聞き分けのない女に弥堂は強い怒りを感じる。
こちらとて、好きで好きだと言っているわけではないのだ。
「おい、俺はお前を好きだと言ってはいるが、だからといって調子に乗るなよ」
「イミわかんなすぎっ! むしろダダサガリだからっ!」
苛立ちからさらなる罵詈雑言を吐きたくなる。
だが今は愛を伝える場であり、憎しみを解き放つ場ではない。
弥堂は開きかけた自身の口を無理矢理閉ざす為に、唇に歯を立てた。
ツッ――と、弥堂の唇の端から血が垂れる。
「な、なにっ⁉ なんなの⁉ なんで急に血ぃ出すのっ⁉」
「うるさい黙れ。お前のせいだ」
「あたしなんにもしてないでしょ⁉ むしろされてんだけどっ! キモイから全部やめて!」
「あれもキモイ、これもキモイ。まったく七海はワガママだな。そんなところも好きだよ」
「ぎゃあぁぁっ⁉ きもいっつってんだろ! しね!」
「お前が死ね! 好きだから」
「いみわかんない!」
「すきだ」
「ひぃぃぃっ⁉」
弥堂の気が短いせいか、愛の語彙が少ないせいか、早くもボロが出始める。
幸い希咲の方もかなり冷静さを欠いていたので、弥堂のその虚仮に気付くことはなかった。
このままではマズイなと弥堂が自覚したところで、過去の記憶が再生される。
『怒りや憎しみに囚われてはいけません、ユウキ』
(そうだ……! ここで感情に流されるようでは三流だ……!)
最近何度も思い出しているかつてのお師匠様の言葉にハッとした。
彼女の言葉を思い出し、弥堂は強く自制を働かせる。
(そうだ……! こいつをエルフィだと思って喋ればいい……!)
弥堂はその閃きを実行するため、記憶の中の元カノの映像を現実の今カノ(偽)の実像の上に重ねる。
かつてエルフィーネへ向けて紡いでいた言葉を謳う。
「そんな顔をしないでくれ。キミに涙は似合わない」
「いやぁ! きもいーっ! つか、あんたが泣かしてるんだろ!」
「そうだ。キミの涙も笑顔も、どんな顏も。それは全て僕によってのモノでなければならない。キミは僕のモノだからね。そうだろ、七海?」
「ちがうっ! あんたのじゃないからっ!」
「そんな悲しいことを言わないでおくれ。約束するよ。流させた涙の分以上にキミをまた笑わせてみせる。僕のこの無限大の愛を以て。だから、ほら。泣くのはもう終わりだ。次は笑ってごらん。キミの笑顔が僕を強くさせる」
「ひぃぃぃぃっ……⁉ キモすぎるぅぅぅっ!」
弥堂の言葉は希咲にダメージを与え、彼女を大人しくさせる。
だが、拒否反応はどんどん強くなっているようだ。
『オマエら、いつもこんなキモチ悪ィやりとりしてたのか……?』
『そんなわけないです。ユウキが愛の言葉を口にするのは私を泣き止ませようとする時だけです。普段は全く言いません』
『それでも十分キモイけどな』
『というか、これ全部ルナリナが読んでいた小説の中の台詞なんですよね。それを義務的にそのまま言っているだけで、自分で考えもしていないです』
『クソだな』
『はい。最低です』
かつての女たちが呆れた目で見守る中、弥堂は焦燥を覚え始めていた。
弥堂の愛の言葉の手札は基本的には『好きだ』と『可愛い』しかない。
他にはまだ出していないが『やらせろ』くらいしか残っていない。
ルナリナが好んでいた処女の妄想小説の完全詠唱で墜とせなかった以上、残された手段は決して多くはない。
さらに――
(――ぐぅっ……! クソが……っ!)
この行為は弥堂の魂を非常に強く蝕んだ。
多大なストレスを感じている。
今すぐに悪口雑言を重ねてこの女を泣かしたくなる。
だが、それではいけない。
それでは目的を達することは出来ない。
もっと徹底する必要があると感じた。
異世界で身に着けたものだけでは足りず、今この場でさらなる進化をする必要がある。
『――覚醒すればいいんだよ。弥堂君』
(そうですね……? 部長……っ!)
都合よく廻夜の言葉を引用して己を奮い立たせた。
もっと、もっとだ――
口先だけの嘘ではなく、もっと心の底から『自分はこの女が好きなんだ』と強く思い込む必要がある。
そうしなければ、希咲 七海を口説き落とすことなど出来ない。
既に目的を見失いつつある弥堂は即断で行動する。
「――わぷっ⁉」
希咲の肩を押さえていた右手で彼女の後頭部を掴み、自身の胸元に押し付けて彼女の視界を塞ぐ。
さらに素早く左手を動かす。
腰の後ろからペンケースのような物を取り出しながら蓋を開け、中身を手に取る。
手の中でそれをクルリと回して向きを調節すると、ケースが硬質な音を立てて地面に落ちた。
人々の視線がそのケースに集中する。
その隙に弥堂は手にしたそれを首筋に突き刺した。
「――っ!」
それは注射器――魔力増強の麻薬である“WIZ”の最後の一本だ。
素早く押し込んで内容液を血管の中に流し込み、そして引き抜く。
そしてそれを足元のケースに落とし足で器用に蓋を閉じて踏みつぶした。
ドクンと――心臓が強く脈打つ。
『こ、このバカ……! こんなとこでヤク射ちやがって、正気か……⁉』
『あぁ……、神よ。バカなこの子をどうか御赦しください……。悪気はないんです……。ちょっと頭がどうかしてしまっているだけで……』
平和な学園の敷地内であるにも関わらず、人目も憚らずに犯罪性の高い危険な薬物を投与した男に、かつての保護者さんたちはビックリ仰天した。
そんな声は無視して、弥堂は急速に生みだされていく魔力を【
より強く、自分に暗示をかけた。
(俺は、希咲 七海が好きだ――)
――と。
ドドドドッ――と高鳴るその心臓の鼓動は、弥堂の胸に顔をつけた希咲にも聴こえている。
(えっ? えっ……⁉ め、めっちゃドキドキしてんだけどこいつ……っ! も、もしかしてマジなの……⁉ ホントにあたしのこと好きなの……⁉)
意図したカタチではないが、希咲に弥堂の本気さが伝わった。
本気であることだけが伝わった。
何に本気なのかという点についてはまるで認識が違う。
希咲は、弥堂が本気で自分のことを好きになっていると思っている。
弥堂は、本気で希咲のことを好きになろうとしている。麻薬を服用してまで。
似ているようで、その二つには地獄のような乖離があった。
しかし、一瞬で“乙女モード”に切り替わってしまった七海ちゃんにはそんなことはわからない。
口元に左のお手てを添えて、ゆるめにキュっと握り、お目めをキョドキョドとさせた。
(どどどど、どうしよう……っ⁉ こ、こいつってば……、ホントのホントにホンキなの……⁉)
また嫌がらせの類いか、何かの為の嘘を吐いているものとばかり思っていたが、どうやら彼が本気で自分で好意を抱いていることを知り動揺してしまう。
(だ、だって……、そんなのこまるっ!)
本当に困る。
色々なこと全てが困ってしまい、何ならいいことは一つもない。
どうか自分の勘違いであって欲しい。
ただの考え過ぎであって欲しい。
それを確かめたいが――
(どうしよう……っ! 今こいつの顏見れない……っ!)
それがとても怖いことのように感じてしまい、希咲は顔を上げられない。
すると自然と彼の胸に頬をより強く押し当ててしまう。
彼の心臓の鼓動が耳の軟骨を震わせ、その振動が鼓膜に伝わり、頭の中が全て彼の音で埋め尽くされる。
その音の全てが自分へ向けられる彼の気持ちなのだと錯覚してしまいそうだ。
どうして弥堂が本気で自分を好きになっていると思うに至ったのか。
それは――
だってお胸がドキドキしてるもん!
ドキドキしてるから好きなのねっ!
――という乙女論法だけではない。
普通の人間が相手ならそれで通じるかもしれないが、しかし今自分が相手にしているのは弥堂 優輝だ。
このクズが他人を好きになるなんてことはないし、通常であればこの男がどのように愛の言葉を囁こうが決して真に受けたりなどしない。
七海ちゃんはこれでも告白慣れしているのだ。
みらいさんには「実はモテてないのでは?」疑惑をかけられたが、それなりに男子からの告白を捌いてきた確かな実績がある。
なので、ちょっと「好き」と言われただけでテンパってドキドキしちゃったりなどしないのだ。
では、何故現在激しく動揺してしまっているのかというと――
――それも『何故弥堂が本気なのだと思ったのか』、これと同じ理由になる。
その理由とは現在が『通常時』ではないからだ。
愛苗が多くの人々に忘れられてしまって、彼女が居なくなったことの辻褄を合わせるために人々の記憶や認識が変わってしまっている。
通常時であれば、弥堂が自分のことを好きになるなんて絶対に在り得ないことだ。
だが――
不思議現象の一環としてなら、この男が人を好きになることもありえるのでは――
――そうとしか考えられなかった。
それ以外にこの男が自分を好きになることの説明がつかない。
逆に、世界中の認識が変わってしまうような規模の怪異なら、弥堂 優輝という生き物が人を好きになるという異世界転移レベルの不思議も実現可能なのではないか。
希咲にはそのように思えた。
(てゆーか――)
間近にある彼の制服のシャツをジッと見る。
(――こいつにも人を好きになる機能がちゃんと付いてたんだ……)
とんでもなく失礼で、人を人とも思わないような酷い感想だが、相手が弥堂なのでそう思ってしまうのも仕方なかった。
それにあながち間違ってもいない。
現在の彼のドキドキは、無理矢理心臓の鼓動を速めて魔力を生成させるという極めて中毒性と致死性の高い危険薬物によって実現されているものだ。
さらに、それによって生み出された魔力を精神に干渉するタイプの魔術刻印に注ぎ込んで、自分自身に強く暗示をかけている。
『自分は希咲 七海のことが好きなのだ』と――
(ど、どうしよう……っ)
その本気が中途半端に伝わってしまい、希咲はやはり困ってしまう。
前述の通り、彼女は別に初めて男子に告白されたわけでもないし、弥堂のことが好きなわけもない。
だから彼に告白されただけで、動揺することなんてない。
そもそも告白されたとしても、普通にフってしまえばいいだけの話である。
親友の愛苗ちゃんとのこともあるし、この男は最初から選択肢にも入っていない。
先程も考えたように、仮にそうなることがあったら人類史上例のないレベルの酷いフり方をするだけの話だった。
(でも――)
何故今そうしない――それが出来ないのかというと。
それはやはり今が『通常時』でないからだ。
通常の時にこの男がなにか血迷って告ってきたりすれば、そういう対応も出来るが――
(――もし、ヘンな怪異のせいでこうなっちゃってるなら、ちょっとカワイソウ……かも)
七海ちゃんはフルルっと睫毛を震わせる。
悪意を持っての告白や、下心を満たすことだけを目的にした告白なら、そんなことを考えてこちらが気を遣うことなどない。
だが、怪異で好きになっているのなら、逆に彼は純粋な気持ちのみで自分を好きになっている可能性が高いのではないだろうか。
弥堂という人間が理由なく他人を好きになるなんてことはない。
弥堂が女の子を好きになるなんて、それそのものが怪奇現象なのだ。
(な、なんて言って断ればいいんだろ……)
言い方を考えなければならない。
こんな終わってる男が何かの間違いとはいえせっかく人を好きになったというのに、バッサリと斬り捨ててドブに放り込むような対応をしてはトラウマになってしまうかもしれない。
そうなったら既に歪んでいる彼の人間性がさらに歪なモノとなり、どんな邪悪に進化してしまうか知れたものではないだろう。
彼自身を憐れんで慮ってというのもあるが、それ以上に邪神となったクズがどんなことをしでかすかわからないし、自分も逆恨みをされて何をされるかわからない。
ここは非常に慎重な対応が求められた。
(で、でも、どうしたらいいんだろ……っ⁉)
フることは確定している。
そこは考える余地はない。
ただでさえ普段から話が通じないのに、何かの事故でうっかり好きになってしまい、さらに既に付き合っているとまで思い込んでしまっている頭のおかしい男へかける言葉――
――それもなるべく相手の気分を害しない言葉を選ぶのは途轍もなく難易度が高かった。
ドドドドっ――と、今も頬の肌を叩いてくる彼の心臓の高鳴りが、答えを急かしているように感じてしまう。
(こ、こんなに……っ)
その鼓動はとても速く、熱い。
彼の胸に耳を当ててその音を聴いていると、頭がボーっとしてしまいそうだ。
(こ、こいつってば、いっつも無表情で、しれっとしてるくせに……)
その裏側では、その奥底では、こんなに――
(いっつも、こう、だったのかな……?)
頭がボーっとしてきたせいで、彼が前から自分のことを好きだった設定に書き換えられてしまった。
(なんか……、あたしまでわけわかんなくなってきちゃった……)
彼の生命の鼓動と気持ちの高鳴りだけがまるで世界の全てのように感じてしまう。
(こ、こんなにドクドクって……、すっごく速い……って――)
希咲はふと「んん?」と眉を寄せる。
(――これ、いくらなんでも速すぎない……⁉)
他人の心臓の音などちゃんと聴いたことはなかったが、果たして人間の心臓とはこんなに速く動くものだっただろうかと疑問を持つ。
(こ、これ……1秒に2、3回くらい動いてない……⁉ えっ⁉ ヤバくない……⁉)
さっきまでとは違った危機感を覚える。
弥堂の心臓は薬物で無理矢理通常の2、3倍の速度で動かしているので、その危機感はある意味正解だ。
(えっと……、フツーってどれくらいだったっけ……?)
口元に当てていた左手を自身の胸に持っていく。
耳から伝わる彼の心臓の鼓動と、指先に伝わる自分の心臓の鼓動とを比べてみる。
(わ、わかんないし……っ! てゆーか、なんだかこれ……)
激しく脈打つ彼の鼓動に自分のものが圧し潰されて掻き消されてしまうようで――
(こ、これ……、なんか、あたしまでドキドキしちゃってるみたいに……っ)
――さらにそれだけではなく、彼の鼓動がまるで自分の鼓動のようにも聴こえてきてしまった。
(あばばばば……っ⁉ このままあたしどうなっちゃうのぉ……っ⁉)
現在の状況の意味がわからなすぎて七海ちゃんはお目めをグルグルとさせてしまった。
弥堂の腕の中で何やらモジモジとしながら大人しくなった希咲の雰囲気にあてられてか、周囲の生徒さんたちもモジモジとした。
そんな中で、誰の目にも映らない者たちは胡乱な瞳で状況を見ていた。
『……オイ、なんか妙な雰囲気になってんぞ。まさかこれで本当にくっついちまうとかねェよな? フツーはそんなわきゃねェけど、このバカだきゃマジでわかんねェからな……』
『…………』
緋髪の女――ルビアのぼやきに金髪のエルフメイドさんは何も答えない。
『つーかよ、場合によってはナナミと戦うはずだったよな? なんで敵と付き合うんだ? 上手くいったとしてその後どうすんだよ? 余計マナのこと隠せなくねェか?』
『…………』
エルフィさんはやはり答えない。
『クソ……、いつものこととはいえ、アタシャ頭おかしくなりそうだぜ……っ。このバカなんでいっつもこうなんだ……。オイ、なんとか言えよ』
『……この子はそういうところがあります』
よくわからない状況の時によくわからないことをされて、それでさらによくわからないことになり、最終的に恋人になるというよくわからないことを経験しているエルフィさんにはそれしか言えなかった。
『オマエが甘やかすからだぞ。このクズどうせ一発ヤっちまえば、ナナミも言うこと聞くようになるとか思ってんだろ』
『というか、それ全部貴女がユウキにしたことですからね? 覚えさせたのは貴女です』
『……あーあ、酒呑みてェなァ……』
『まったく……』
スッと白々しく目を逸らしたルビアに、エルフィーネは呆れたように溜息を洩らした。
『あぁ、神よ……。この子たちはどうなってしまうのでしょうか……』
エルフィーネの祈りにルビアは答えない。
存在しない彼女の神も当然答えることは出来ない。
存在しない彼女たちの声を聴こえる者はいなく、だから答えられる他人も存在しない。
そして、心配をされている当の本人たちにも、頭がパーになってしまっているのでそれはわからなかった。
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