1章52 『4月23日』 ①
4月23日、木曜日。
昇降口で靴を履き替え、
2年生校舎へ繋がる渡り廊下を踏みながら、この後の教室でのことに考えを巡らせる。
彼女の親友である
日に日に人々が水無瀬について忘れる――正確には彼女への関心が薄れ、彼女のことを意識上に浮かべなくなるために彼女のことを思い出さなくなる――といった異常だ。
登校してきた水無瀬が教室に入る際に全体に挨拶をし、他の生徒達が挨拶を返すという恒例行事のようなものがあったのだが、日を追うごとに挨拶を返す者が減っているという現象にもそれが表れている。
昨夜は4体ものゴミクズーを仕留めるという激しい戦いがあった。
(それなら今日はどれくらい進んだか……)
弥堂としても予測しているものがあるので、現実の教室との差異を見極めて、現在起きている異常な現象についての自分の理解と予想が正しいものであるのかを確認するつもりだ。
二年生の校舎は昇降口棟のすぐ隣にあるので、教室にはそう時間もかからずに到着する。
毎日行っていることなので、特に心の準備も躊躇いも必要とせずに扉を開く。
カラカラという音に反応してこちらへ視線を寄こした生徒から順番に話し声が止んでいき、やがてそれが全体へと伝播していって教室に静寂が訪れるという現象も毎日のことだ。
「…………」
しかし、今朝は完全な静寂とまではいかず、僅かに話し声が残った。
それを若干気に食わないと弥堂は感じたが、気にしないことにしていつも通り室内へ入る前に視線を教室内の右から左へとスッと流す。
そして、ピクリと、僅かな動きで一度だけ睫毛を跳ねさせた。
目線を向けたのは窓際近くの自分の座席。
その隣の席で、現在地から視れば自身の座席の一つ奥。
その座席に座る一人の少女――水無瀬 愛苗だ。
チラリと左腕に巻いた腕時計に眼を遣る。
デジタル時計の小さな画面には23:55と表示されていた。
チッと舌を打つ。
どうも昨夜時計塔から地上まで落下した際に壊れてしまったようだ。
何となく腕時計は着けるものという感覚で使ってはいるが頻繁に時刻を確認する習慣がないので、壊れていることに気付かずに着けてしまっていたようだ。
有名なメーカーの商品で『地上10階から落としても壊れない』という触れ込みだったので購入した物だった。
時計塔は5階建てで、いくら通常の建物よりも1階分を高く造っていたとしても10階よりは高くない。
これは厳重なクレームを入れる必要があるなと、弥堂は大企業への憎悪を抱きながら時計を外し、教室の出入り口近くのゴミ箱へ投げ入れた。
まさか化け物と殺し合いをしながら5階の屋上より紐なしバンジーをする
胸の裡で燻る燃え尽きぬ怨嗟を一旦忘れ、弥堂は水無瀬へと視線を戻す。
彼女は席に座りながら俯き、机の天板を見つめている。
ここから視える限りでは何やら深刻そうに思いつめた表情をしているように見えた。
ここのところ彼女は毎朝のHRが開始される直前のギリギリの時刻に教室に飛び込んでくることが多かったので、本日もそうだと思い込んでしまっていた自分を弥堂は心中で嘲笑する。
特段彼女にはギリギリに登校しなければならない理由などないのだ。昨日までが“そう”だったからといって、今日も明日も当たり前のように“そう”である理由などない。
『そりゃそうだ』と声には出さずに嘆息しながら扉を閉めて自席へと向かう。
教室内に踏み入った弥堂へ掛けられる挨拶の声はない。
先週までの水無瀬の登校時の風景とは対照的なものだ。
それは弥堂自身が誰にも挨拶をすることがないので当たり前のこと。
自分から何かを発しなければ、それを受け止め返してくれる者も存在し得ないのは道理と云える。
そして、弥堂はこの現状に満足しており、むしろ好ましいとも――
「――お? 弥堂くんじゃん。おはよー」
「ん? あ、弥堂君おはよう」
教壇を横切っていた所で最前列の座席で談笑していたクラスメイトの早乙女 ののかと日下部 真帆に挨拶をされる。
弥堂はつい足を止めてしまった。
「…………」
「お? どしたー? ちゃんとあいさつしないとまた七海ちゃんに怒られちゃうぞー?」
「バ、バカッ……! ウザ絡みすんじゃないの!」
「ほれほれー。ののかに『おはよってゆって!』」
「ののかっ!」
気軽に気安く話しかけてくる早乙女の笑顔を視て、やはり気に食わないと感じ、それから仕方ないと諦めた。
「…………おはよう」
教室の話し声といい、彼女たちからの挨拶といい、どうも自分にとって好ましくない方向に進路が逸れてしまったようだと、弥堂は眉根を寄せながら渋々と返礼の声を絞り出した。
「お? お……? なんだ……、この感情……? ののか、そういう性癖なかったはずだけど、ウカツにも『ちょっとカワイイ』って思っちゃったよ!」
「ばかっ! やめなさいよ!」
「え? なんで?」
「えっ……? そういえば、なんでだろう……?」
「変なマホマホー……って言いたいところだけど、なんかののかもマズイような気がしてきたよ……。なんでだっけ……?」
「う~ん……――あっ! 七海っ! ほら、七海が……」
「えっ? 七海ちゃん? そうだったっけ……? う~ん……、言われてみればそんな気も……」
声を掛けるだけ掛けたまま弥堂を放置し、何やら噛み合わせの悪いやり取りをする二人の会話に弥堂は関心を示す。
「……なるほどな。そう辻褄が合わされるのか」
「――えっ?」
「どうかした?」
「いや、なんでもない。それより、キミには挨拶を返してなかったな。おはよう日下部さん」
「えっ?」
「あ、うん。おはよう。ゴメンね? 朝からウザ絡みしちゃって。イヤだったら無視しちゃってもいいからね」
「いや、問題ない。むしろ今日は助かった。おかげで色々確認すべきことに気付けた。ありがとう、日下部さん」
「え? あ、うん……、こちらこそ、ありがとう……?」
「ヒ、ヒドイ対応の差なんだよ……。なんだろ、この感情……? まさかののかにそっちの性癖もあるかもなんて……」
「では、な」
自身の肩を抱きながらワナワナと震える早乙女を侮蔑の視線で一瞥し、弥堂は会話を打ち切って自席へと進んだ。
背後から「今のことは七海ちゃんには内緒にしてね~」と掛けられた声には適当に肩を竦めて応えながら、改めて進行方向――水無瀬を視る。
よほどに深く考え込んでいるのか、今しがたの弥堂と彼女らとのやり取りには気付いていないようだ。
出来れば水無瀬が教室に着いた時の生徒達の反応を視ておきたかったが、現在の水無瀬の表情からある程度は察せるものもある。
今の早乙女や日下部さんの様子といい、今の水無瀬の表情といい、どうやら弥堂の予測した通り、昨日よりも“進んで”しまったようだ。
自席まで辿り着き、隣の席で変わらず俯いたままの水無瀬の頭頂部を見下ろす。
そろそろ彼女自身にも現状をどう考えているのか、一応聴取をするだけしておくべきかと考えを巡らせ、弥堂は口を開く。
「………………おはよう、水無瀬」
口を開いたはいいものの、まずはなんと声をかけるべきかすぐには思いつかず、数秒口を半開きにした後に出てきた言葉は何でもないありふれた朝の挨拶だった。
教室のあちこちから聴こえてくる談笑の声の雑踏に呑み込まれるくらいの、たいして大きくもなく特別誰も気に留めもしない普通の挨拶の声。
しかし、そんなつまらないものに驚きを見せる者が一人だけ居た。
声を掛けられた本人である水無瀬は、自身の頭の上から落ちてきたその低い声にハッとすると、ガバっと勢いよく顔を上げる。
そして――
「――弥堂くんっっ……!」
教室中に響き渡るような大声をあげ、そして席を立つと抱きつくような勢いで距離を詰めてきた。
「弥堂くんっ! 弥堂くん……っ!」
「……うるせえな。なんだよ」
大層慌てた様子でペタペタと身体を触ってくる彼女へ白目になりながらぞんざいな返事をする。
教室はシンと静まり返り、そして全員の視線が集まっている。
これだけ目立つ中では彼女へ訊こうと思っていたことは訊けないなと、諦める他なかった。
そんな弥堂の内心など知ったことではない水無瀬さんは、まるでボディチェックをするように弥堂の上半身から下半身まで隈なく確かめる。
弥堂の手首をとり手がプランプランしていないことを確かめ、その場でしゃがみこみ膝をツンツンして骨が繋がっていることを確かめる。
そして、弥堂の脛、太腿、腰、尻と順番にペタペタ触りながら登っていき、脇腹、胸、背中、肩と上に手を伸ばしていく。
それから弥堂の顏に触れようと手と爪先をめいっぱい伸ばして、それでも上手く触れないことに気が付くとピョコピョコとその場でジャンプし始めた。
「……おい、やめろ」
彼女が一生懸命ジャンプするので、グイグイと頬を押されたり、時には軽くビンタをされているようで、ここまでされるがままになっていた弥堂もようやく黒目を戻して水無瀬を制止した。
「――あっ、ゴ、ゴメンね……? 私……っ」
「お前なにをそんなに慌ててるんだ?」
「だ、だって……っ!」
「なんだよ」
鬱陶しそうな顔をする弥堂へ、ご説明をしようとして愛苗ちゃんはハッとなる。
そして周囲をキョロキョロと見回した。
「あ、あのね? 弥堂くん、ちょっとお耳貸してくれる……?」
少し声を落とした彼女は口元に手を添えて弥堂の耳元へ顔を寄せようとする。
しかし弥堂の身長が178cmなのに対し、水無瀬さんの身長は148cmだ。
おまけに、他人への配慮という概念がこの世に存在することを知らない可能性がある男は、彼女が耳打ちしやすいように身を屈めてくれたりなど、そんなことは思いつきもしない。
必然的に彼女のお口は弥堂のお耳までは届かず、お顔にお手てをあてたまま愛苗ちゃんは弥堂のネクタイの結び目あたりをジッと見た。
そしてその場でピョンコ、ピョンコとジャンプし始める。
「…………」
なにしてんだこいつ――と、お目めをバッテンにしながらいっしょうけんめいピョンピョンする彼女の顔を弥堂は胡乱な瞳で見た。
運動神経が芳しくない彼女の跳躍力では目的の高さまでまるで届いておらず、よしんば届いたとしてもその高さに留まることが出来なければ耳打ちでナイショ話など出来るわけがないのはいちいち言うまでもない。
呆れる弥堂の目の前で諦めずにピョンピョン跳ね続ける光景に教室中の視線が集まっている。
どこかコミカルな二人の姿に周囲の生徒のみなさんもほっこり――
――は、していない。
現在向けられている他の生徒からの視線はとても怪訝そうで懐疑的なものだった。
弥堂はスッと手を伸ばすと水無瀬の鼻を摘まむ。
「ぁいひゃぁーーっ⁉ ひゃんへおひゃなしゅねるのぉー?」
「なに言ってっかわかんねえよ」
ピョンピョンをやめて涙目でなにやら訴えてくる彼女に嘆息する。
他の生徒たちの視線は先週、または数日前まで水無瀬に向けられていたようなものではなく、どちらかというと普段弥堂に向けられているようなものに類似している。
ただ、そこにはまだ悪意や嫌悪といったようなものまではない。
困惑に近いかもしれない。
彼らや彼女らは現在水無瀬のことを忘れている。
彼らの視点では、見覚えのない生徒が何故か教室に居て、何故か厄介者と認知されている男の近くで騒いでいると、そのように見えているのだろう。
(――いや、少し違うか)
忘れているとはいっても、記憶から消えているわけではない。
正確に表現するのなら、普段あまり意識していない、することのない生徒。彼ら彼女らの認識だとそのような目立たない生徒が燥いでいる。そんな場面を目撃して困惑している。
そんなところだろう。
弥堂はチラリと目線を動かして、自席の水無瀬とは逆側の右隣の座席の女子生徒を見遣る。
ビクリと、二人の女子が怯えた様子を見せた。
弥堂の右隣の
彼女らはとても大人しく内気な女生徒で、普段誰かと積極的に話したり、また話しかけられたりする場面をほとんど見ない。この騒がしいクラスの中では特に目立たない存在となっている。
ちなみにそんな気弱な彼女らは『風紀の狂犬』と悪名高い弥堂 優輝と、『学園最強のヤンキー』と呼び声の高い蛭子 蛮の隣に配置されるという不運な女子たちで、そんな彼女たちを儚んだ希咲さんは常日頃から『早く席替えしたげて!』と心から願っている。
おそらく彼女らのような印象が薄く影響力のない生徒が、今の水無瀬の様な行動を突然起こしたら、周囲からの視線はこのようなものになるのだろうなと弥堂は理解に繋げた。
そう納得したところで、今日もまったく予定通りに物事が進まない苛立ちを抑えながら、「さて、どうするか」と思考を巡らせた。
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