1章51 『死線上で揺蕩う窮余の一択』 ⑯


「――他に知っていることは?」


「他には……、特にこれ以上はなかったと、思う……」



 ベッドに座らせた女の前に立ち見下ろしながら弥堂が問うと、圧迫感を受けながら女は記憶を探る。



「おそらく次の機会はない。キミをそんな目に遭わせた連中に報復をするチャンスかもしれんぞ」


「報復って、そんな…………。あの、アナタはなんで……?」


「質問は具体的に頼む」


「あ、はい。その……、何故アナタは“WIZ”を追っているの?」


「……本当にそれが知りたいのか?」



 ジロリと見下ろす視線の圧が強まり、女はビクっと肩を跳ねさせた。



「ま、まって……、探ってるわけじゃないの……っ。ふと今気になって、つい……」


「そうか。突発的な感情に釣られての“つい”。思いついたからと言って軽率に口には出さない方がいいぞ。思うだけなら自由だし、安全だ。思うだけ、ならな」


「ご、ごめんなさい……」


「その“つい”の回数を可能な限り減らす。それが長生きするコツだ。身に染みているだろ?」


「…………」



 特にそこまで言うつもりもなかったし必要性もなかったが、尋問対象が立場も弁えずに素性を探ってきたことが癇に障ったので、弥堂が“つい”相手の過去の失敗をあげつらってなじると女は消沈したように首を垂れた。



 その姿に「ふん」とつまらなさそうに鼻を鳴らし目線を切ろうとしたところで、『いや待てよ』と思いつく。



 もうこの畑から獲れる作物じょうほうは無いと興味を失っていたが、場合によってはこの女にはまだ利用価値があるかもしれない。



「…………俺が何故“WIZ”を追うか――だったか……」


「あ、あの、無理に聞きたいってわけじゃ……、ごめんなさ――えっ⁉」



 怯えながら謝罪をしようとしていた女は、目の前の男の突然の行動に驚き目を見開く。



 弥堂は突如として両手で顔を覆うとガクッと崩れ落ちるように床に膝をつき首を垂れる。


 俯いた彼の表情は女からは窺えないが、その肩が小刻みに震えている。



 この部屋で出遭ってからつい3秒前まで一切表情が動かず全く人間味を見せなかった男が、まるで泣いている――或いは泣くのを堪えているかのような様子を突然見せたことに女は強く動転し、キョドキョドと視線を彷徨わせた。



「……実は彼女が……、“WIZ”を射たれたんだ……」


「えっ?」


「ホスト遊びをしたりとか、そんな子じゃなかった……。ちょっと抜けたところもあるけど、そこが可愛くって……、でも真面目な女子高生だった……」


「『だった』……? あの……、えっ?」


「ある日、たまたま北口に用事が出来たらしくて、でも来るのに慣れてないから帰り道に迷ってしまって――」


「ま、まって……! 私、その――」


「――そこを悪い男たちにたまたま目をつけられてしまった……! 路地裏に連れ込まれてクスリを射たれ……、複数人に乱暴をされて……っ!」


「…………」



 自分の重い話を男に押し付けることには慣れているが、他人の重い話を聞かされることに慣れていない女は顔色を悪くする。


 自分も似たような体験をしているはずなのに、何を言っていいかわからず目の前の男の独白を止めることは出来なかった。



「――それからの彼女は見ていられなかった……っ! 突然『自分は魔法少女だ』と言い張るようになって、毎日のように『怪物を捜す』と街を徘徊するようになっちまった……」


「…………」


「心配だから一緒に着いて行ってたけど、俺……つらくって……! 猫やカラスに平和を呼び掛けたり……、川に落ちてる靴に溺れた人間の救助方法をレクチャーしたりもしていた……! そんな彼女を見るのがつらかった……!」


「…………」


「でも彼女はもっとつらかった。禁断症状に悩まされ、クスリをヤればそんな奇行を繰り返し……、でも一番つらいのは正気シラフの時だ……。根が真面目で純真だった彼女は、自分の身に起きたことを、自分のしていることも、現実として受け入れきれなかった……! だから余計にクスリにハマって……! 限界だった……、彼女も、俺も……。最低だよ……、俺のことを自分を犯した男だと勘違いして泣き叫ぶ彼女を、禁断症状を抑えるために、俺は……っ!」


「……あ、あの……、その、彼女は……?」


「……死んだよ。俺の目の前で……。童顔で背も小さくて、子供っぽい性格だった彼女が……、老婆みたいに枯れちまって……。あちこちの血管を破裂させ、目から耳から血を流し、顔中身体中から血を噴き出して……。あんまりに酷すぎて、目の前で見てたのに何かの冗談かと思っちまったよ……」


「…………」


「何故彼女があんな死に方をしなければならなかった……! 生きてきた中で悪いことなんて何一つしたこともなかったような子が……! それからのことは、想像がつくだろう……?」


「…………」



 女からの答えはない。



 両手で顔を覆い目線を床に向ける弥堂は指の隙間からチラリと女の様子を窺う。


 すると彼女の足が僅かに震えていた。



『馬鹿女め。そんなことだからカモにされる』と心中で蔑み、女の反応を待つ。



「……復讐、なのね……」



 やがてポツリと女が喋る。



「最初はな。調べ始めて少ししてから知ったんだが、彼女をあんな目に遭わせたヤツらはとっくに処分されちまったらしい。どうも売る相手を選ぶように指示が出てるみたいでな。それを無視して先走った馬鹿共だったらしい。復讐する相手はもういなかったんだ……」


「そんな……」



 息を呑む女の語尾が震え声になっていたのを聴いて、弥堂は手応えを感じた。



「……なんで今でも追っているかは自分でも実はよくわかっていない。だが、もう、他にやることはなくなっちまったんだ……。彼女とは将来を約束していた。彼女が死んだ時点で俺ももう死んじまったようなもんだ……」


「そ、そんなことは――」


「――理由なんてもう何でもいい。クスリに関わるヤツなら誰でもいいって八つ当たりでも構わないし、彼女と同じ目に遭う人を少しでも減らせるようにってキレイごとでも構わない。ただ、あのクスリを……。彼女を殺したクスリで金を儲けて笑ってるヤツの顔面を一発でも殴れれば……。俺の人生はもうそれだけでいい……っ!」


「は、はやまっちゃダメよ。そうだ、警さ――」


「――警察もグルだ。逆に捕らえられる」


「なっ――⁉ そ、そんな……」


「警察に頼らなかったキミの判断は正解だ。キミは運がいい。そんなわけで、手詰まりになった俺は今日外人街に乗り込んだ。結果は見ての通りだよ……」


「…………」



 ボロボロの弥堂の出で立ちを改めて見て、女は言葉を失う。



「殺されなかっただけマシなのか、それとも運が悪かったのか。それはわからない。だが、もう八方塞がりで……。そんな時にたまたま知り合った情報屋にアンタのことを聞いた。藁にも縋る想いで、今夜はキミに会いに来たんだ……」


「わ、わたし……っ」


「キミの話を聞いていて本当に胸が痛んだ……。まるで彼女の最期を追体験しているようだと……。きっと俺ももうイカレちまってる。キミのことを『助かった彼女』だと、彼女のことを『助からなかったキミ』だと、そう思い込みそうになった。直接クスリをやらなくても、アレに関わって俺もどうかしちまったんだ……」


「助からなかった……ワタシ……」


「気持ち悪いだろ? 聞き流してくれ」


「そ――そんなこと、ないわっ!」


「だが、“同じ境遇”のキミの“力になりたい”と思ったことは事実だ。自爆特攻しか手段の残されてなかった俺が、その直前にこうしてキミと出逢えたことは“運命”だと感じた。キミも少しでも“同じ想い”を感じてくれたなら、どうか“お願い”だ。どんな些細なものでもいい。ヤツらに繋がる手がかりを教えてくれないか……? キミに危害は加えさせない。必ず“守る”と約束をしよう。俺と“一緒に”この地獄から抜け出そう……っ!」


「ワ、ワタシ……、ワタシ……ッ!」



 女の目にジワッと涙が浮かぶ。


 弥堂からはその顏は見えないが、キュッと擦り合わされる女の膝を、指の隙間から醒めた眼で見ていた。



 女とてもういい歳だ。


 そこまで馬鹿ではない。



 この話はきっと嘘だ。


 そんな男には見えない。



 なにより、字面にすれば情感たっぷりに悲劇を語っているようにも思えるが、それを言葉にする男の声はここで出遭った最初の時から変わらずとても平淡なものだったからだ。



 何度も男に騙されたことのある女には、今回も“そう”だと、心の裡では感じ取っていた。



 だが――



 やがて何秒かすると女の膝の動きが止まり、同時に話しだす。



「……『Southサウス-エイト』ってわかる? 南口の“はなまる通り”の駅側から入って8番目の角から裏路地に入るとそういう名前のライブハウスがあるの。その店に来いって言われたわ……。でも、その店より奥は『R.E.Dレッド SKULLSスカルズ』のシマだから……。だから、ワタシ、行きたくなくて……」



 結局女は弥堂の話に乗っかった。



 本当か嘘かよりも、移入してしまった自身の感情を優先させた。



 実際の真偽よりも、“そう”であって欲しいという願望。



 一緒だ、同じだと、その方が気持ちよくなれるから。




 そんなどうしようもない女を弥堂は内心で見下しながら相槌をうって必要な情報をとる。



「ギャング気取りどもか」


「半グレだけど、ワタシからしたらマフィアやヤクザと変わらないわ……っ。あの店がナワバリの入口になってて、あの辺をうろついてるヤツはみんなチームのメンバーで、見慣れない人や襲えそうな人が来ないか見張ってるのよ……」


「横流しする気か」


「……たぶん。刻悸也ときやの先輩がそこの幹部らしくって……。どっちから持ちかけたのかまでは……、ごめんなさい……」


「いや、十分だ。わかっているとは思うが――」


「――近付かないわ。ワタシだってそこまでバカじゃない……。それより、守ってくれるのよね? 約束よね?」



 そんな約束をした覚えは弥堂にはなかったが、それならそれで構わないと懐から一枚の用紙を取り出し女へ差し出す。



「……? これは?」


「登録書だ」


「とうろくしょ……?」



 怪訝そうな声で反復する女へはまだ顔を隠したままだ。まだ演技であることをバレるわけにはいかない。



「俺たちくらいの年代では最近はedgeではなくて別のアプリが流行っていてな。キミを守る以上は連絡がとれた方がいいだろう?」


「そ、それはそうだけど……、edgeじゃダメなの……?」


「悪いが宗教上の理由でedgeは使えないんだ。すまないな」


「しゅ、しゅうきょう……? そんなピンポイントな新興宗教あるの……?」


「悪いな」



 口先だけの謝罪でゴリ押しされ、女は仕方なく書面に軽く目を通す。



「登録って、この紙で……? え? どういうこと……? アプリは?」


「その紙の下の方にURLが書いてある」


「手打ち⁉ ストアで落としてオンラインで登録するんじゃないの?」


「ちょっと何を言っているのかわからないが、当サービスはお客様との身近な触れ合いを大事にしている。登録は書面に記入でお願いします」


「えっ? いや……でも……」


「お願いします」



 お願いのゴリ押しに流された女は首を傾げながらもURLを入力する。


 弥堂は若干面倒さを感じてきていたが、あともう少しだと、化けの皮をかぶり続ける。



「……名前とか書かなきゃダメなの?」


「駄目だ……、です」


「まぁ、さっき社員証撮られちゃったし一緒か……。というか、これアプリの名前……? 聞いたことないんだけど……。M、S……N……?」


「ナメてんのか貴様――」


「――きゃっ……⁉」



 神を冒涜するに等しい失言をした女にぶちギレた弥堂は顔を隠すのも忘れ、女の胸倉を掴み上げる。



「M.N.Sだ。二度と間違うんじゃねえぞババア」


「バッ――⁉ や、やっぱり……っ! やっぱり演技……っ! ウソだったのね……⁉」


「さぁ? それはキミの受け取り方次第だ。俺の知るところではない」


「私を騙したの⁉」


「それもキミ次第だな。自分の身が可愛いのなら精々俺の機嫌を損なわないことだ」


「なんで……、なんでワタシばっかりいつも……っ! こんなクズ男に騙されて……」



 大層ショックを受けた様子で女はさめざめと泣き始める。


 自分の都合しか考えていないクズ男はそんな女を急かした。



「おい。いいからさっさと名前を書け」


「イヤよ! 誰がこんな怪しいアプリ……って! なんか勝手にインストール始まってる⁉」


「一度サイトにアクセスしたらそのアプリからは逃げられない。諦めることだな」


「ど、どうなってるの……⁉ ダウンロードキャンセルできない……!」


「無理に消そうとすればお前のスマホの中身を壊しつくして消えるようになっているらしい。新しいスマホを買う金はないだろう? 観念しろ」


「な、なんなの……、MNSって……」


「『Mamotte Network Service』だ。そのアプリがお前を守ることだろう」


「……もういいわ。言う通りにします……」


「賢明な判断だ」


「ていうか、私なんでキレられたの……?」


「当たり前だろ。神をナメてんのか? 殺すぞ」


「……すいませんでした」



 何を言われているのか女には全く理解できなかったが、身の危険を感じたのでとりあえず狂った男へ謝罪をした。


 過去の経験から、こういった類の男にはとにかく機嫌を損ねてはならないと女は理解をしていた。



 しばらくして女が『登録書』の記入を終えると弥堂はガッと乱暴に用紙を奪い取った。当然控えなどない。



「もしも助けが必要な場合、そのアプリのSOSチャットからメッセージを送れ」


「……一応その為のものではあるのね。わかりました」


「ただし本件に関わる事だけだ。別件の揉め事や関係のないメッセージを送ってきたら1件につき指を1本ヘシ折るからな」


「メ、メッセくらいでそこまでキレるの……?」



 戦慄する女に弥堂は鼻を鳴らし懐に『登録書』を仕舞うと、部屋の隅に転がしておいたビニール袋を拾う。


 そして、その中身を女の膝の上にぶちまけた。



「え――っ⁉ なに、これ……、お金……?」


「情報料だ」


「だって、アナタこれ……?」



 女は震える手で札束を一つ拾う。


 周囲には同じ束がまだいくつか落ちている。



「借金はいくらだ?」


「……200万」


「そうか。安いな。返しても残るな」


「あ、あの……?」



 女は怯えるような期待するような目で顔色を窺ってくる。


 男に縋ることしか出来ない馬鹿な女だと弥堂は心中で見下した。


 今回のことをこの金で無かったことにしたとしても、存在する力が脆弱なモノはどうせまた勝手に苦境に陥るのだ。



「キミの好きに使え」


「好きに……たって……」


「好きには好きにだ。その金で借金を返してもいいし、男を買ってもいい」


「…………」


「使い途に俺は関知しない。キミのことはキミが決めろ。俺のお勧めは逃亡資金にして他の街に移ることだが、別にその金でまた“WIZ”を買っても構わないぞ。その後のことは知らんがな」


「……あ、ありがとう……っ、ありがと、うっ……、うぅっ……」



 礼を繰り返しながらまた泣きだした女に弥堂は適当に肩を竦めてみせる。



『買った物に対する対価を払っただけで、礼を言われる筋合いはない』



 そんな意味をこめたつもりだったが、先程までとは逆の立場となっており、両手で顔を覆って嗚咽を漏らす女には伝わらなかった。



 別に伝わっても伝わらなくても大した違いはないと、弥堂はタイマーへ視線を遣る。



 残り時間は20分ほど。



 あと5分程ここに居て、それから帰ろうと決めた。



 対価を払った分は買わなければならない。



 特に何も考えずに蹲る女の旋毛を見つめ、時間がきてから声をかける。



「――あと1回は運が良ければ保つかもしれない。2回はもう取り返しがつかない。3回目はすぐに死ぬ。それがキミの状態だ」



 平淡な声で告げられた言葉に女はハッとして顔を上げる。



 ボロボロの制服を着た男はもう出口へと歩きだしていた。



「――ま、待って! アナタは……、一体……?」



 ドアノブを掴んで弥堂は目線だけを女へ向ける。



「別に。何者でもないさ。じゃあな」


「あ、あの……っ! また……」


「会えないといいな」



 女の言葉は最後までは言わせて貰えず、容赦なく閉ざされた扉に切り捨てられた。


 女はその扉をただ見つめることしか出来なかった。







 後ろ手でドアを閉めて一歩踏み出した所で弥堂はふと思い出す。


 クルっと振り返って、今しがた閉じたばかりのドアを開いた。




 ガチャッと、無造作に開かれた扉に女は驚きビクっと肩を跳ねさせる。


 部屋に入ってきたのは今別れたばかりの男だ。



「え? あ、あの……? どうしたの? 忘れ物……?」



 もう会うことはないと言って出ていった男が秒で戻ってきて、女は気まずそうに視線を彷徨わせる。



 自分に向けられたそんな気遣いなどカケラも気にすることなく、弥堂は無言で女へ向かって歩いていく。



「えっ……? えっ……? な、なに……?」



 黙って近付いてくる男の圧に身の危険を感じた女は焦る。


 そんな女の目の前に辿りついた弥堂はその勢いのまま女をベッドへ押し倒した。



「――きゃっ⁉ えっ? ど、どうしたの……⁉」


「…………」



 弥堂は答えずに女の上半身に着ているニットを捲り上げた。下着に包まれた大きな胸が露わになる。



「ま、まって……! やっぱりシタくなったの……⁉ ちょ、ちょっと待って……!」


「…………」



 焦りを浮かべつつも形ばかりの抵抗しかしない女に弥堂はやはり何も答えず、上着と同じ要領で乱暴に下着をずらし上げた。



「い、いやっ! お願い! 待って……! ワタシ逃げないから! ちゃんと“する”から……、だから、乱暴にしないでっ……!」



 何やら喚いている女の言葉には関心を示さずに、弥堂はポケットから道具を取り出す。


 指で取っ手のようなものを掴み、ビーッとヒモ状のものを伸ばした。



「えっ⁉ ちょ、ちょっと待って……! ワタシ縛ったりとかは……!」



 女はそういったプレイにも対応可能な歴戦の女であったが、急なことだったので拘束されることへの恐怖心から反射的に両手を背中とベッドとの間に隠す。


 そうすると自然に身を反る形になり、仰向けにベッドに寝る女の上に跨る弥堂の前に露出した両の乳房が差し出されるような恰好となった。



『なかなか話が早いじゃないか』と弥堂は内心で満足し、手に持ったメジャーを女の胸へ近付ける。


 完全にテンパっている女はその凶行に対応できない。



 弥堂は向かって右側にある女の左乳に両手を近づける。


 左手に爪を持ち、右手で巻き尺本体をしっかりと持つ。



 人間であれば男女に関わらず付いている胸の先端部位――その周辺に円形に拡がる『人間であれば男女に関わらずに付いているそれ』の左端にゼロ点補正移動爪を寸分の狂いもなく合わせる。


 そして目盛りテープのたわみをしっかりと伸ばして『人間であれば男女に関わらずに丸形や楕円形に拡がっているそれ』の右端を目指す。



「――んっ……」



 人間であれば男女に関わらず付いている胸の先端部位に目盛りテープが僅かに擦れ、女は声を漏らす。



 話し声より少し高いその声など気にかからない程に弥堂は集中している。


 一点の瑕疵も見逃さぬ心意気で目盛りテープの数値を睨み、そしてスッと手を離した。



 腕を振りながら巻き尺本体中央のボタンを押してスタイリッシュに目盛りテープを収納した男は徐に立ち上がると、部屋の出口へと向かって歩きだした。



「えっ? えっ……?」


「じゃあな。もう会わないといいな」



 混乱するばかりの半裸の女を部屋に置き去りにして、今度こそ弥堂は部屋を出た。


 そのまま階段を下りてビルから出ると、これから闇を失っていく残った夜に溶け込み自宅へのルートを辿る。



「な、なんだったの……?」



 部屋に残され呆然と呟く女の声に答える者は居ない。



 彼女にしてみれば災難で、何が何だったのか全く理解が出来なかったが、ただ一つ。



『もう会わないといいな』



 不審で難解な男が残していったその言葉にだけは心の底から同意した。



 脱力しベッドのスプリングに自重を渡す。



 薄汚れたホテルの天井を見つめるだけで女は呆然と自失した。



 約15分後――自分で設定したタイマーの音で正気に返るまでは。













 カリッ――カリッ――と、頭の上からする音に目を醒ます。



 自室の出窓に上体を凭れ掛けたまま水無瀬は眠ってしまっていた。



 物音でそんな自分に気が付き、彼女は慌てて顔を上げる。


 すると二階の彼女の部屋の窓の外で、宙に浮かんだ黒猫が前足で窓を掻いていた。



 逸る気持ちを抑え、下の階で寝ている両親を起こさぬようにそっと窓を開ける。


 わずかにカラカラと音が鳴った。



「――待っててくれたんッスか? マナ」



 部屋に入ってきたメロが申し訳なさそうな顔で言うと、水無瀬も窓を締めながら同じような表情を返した。



「うん。私急に飛び出しちゃったから、もしかしたらメロちゃん心配して探してるかもって……」



 ふにゃっと眉を下げる彼女へメロは苦笑いを浮かべた。



「ジブンこそゴメンッス。あの後追っかけたんッスけど、あっという間に見失っちまって……、そのまま迷子になっちまったッス」


「わ。ゴメンね? 私あわててて……。帰りに探そうとしたんだけどオマワリさんが……」



 お互いに謝り合う恰好となり、キリのいいところでメロはパートナーへと肉球を向けて制止する。



「まぁ、ここまでにしとくッス。お互い大事なかったってことで」


「うん。“おあいこ”だね」


「ヘヘヘッス。さぁ、もう時間も遅いッス。明日も学校だし寝ちゃおうッス」


「うん……、あっ、メロちゃんはだいじょうぶだったの?」


「ん? なにがッスか?」


「猫さんの会議に行くはずだったんだよね? もしかして私のせいで行けなかったらって……」


「あぁ、それッスか」



 メロは床に降り立つと先行してベッドへ歩き出す。



 プランッ、プランッと左右に振れるシッポが水無瀬の瞳に写る。



「元々大したハナシじゃなかったッスし、問題ねぇッス」


「そうなの?」


「うむッス! ジブンが行くまでもなかったッス。どうせ最初から結論は決まってたッスから……」


「そっかぁ。とにかく、よかったよ」



 水無瀬はメロの後を追い自分もベッドへ向かった。



 掛け布団を持ち上げて身体を中に入れると、メロも布団の中へと潜り込もうとする。



「あれ? 今日はおふとんの上じゃなくていいの?」


「うむッス。今日はジブンも一緒に中に入っていいッスか?」


「えへへー、いいよー」



 にこやかに迎え入れる彼女に誘われ潜り込む。


 ゴソゴソ、フミフミ……と寝床を整えると水無瀬にくっついて身体を丸めた。



「おやすみ、メロちゃん」


「おやすみーッス、マナ」



 今日の別れを告げあい、水無瀬が目を閉じたのをネコ目に写す。


 しばらくもしない内に寝息が聴こえてきた。



 無理もない。


 彼女がこんな時間まで起きていたのは、もしかしたら今まで一回もないかもしれない。



 おまけに魔法少女として戦ってきた後だ。当然疲れているだろう。


 彼女が寝坊してしまわないように自分が気をつけようと心に決め、メロも瞼を閉じた。




 長い夜が終わる。



 しかし、夜が終われば朝が来る。



 終わったばかりなのに、また始まる。



 時間の流れは止まらず、次の一日は待ってはくれない。



 どんなにこの時間を続けたいと願っても、強く爪を突き立てて今日にしがみ付いたとしても。



 明日に怯えながら今日が終わるのを待つ。



 強く目を閉じ、ピンッと耳を立てて、生きることを望みながら、明日の足音がいつまでも聴こえないよう祈る。



 祈りを届ける神など何処にも居ないのに。

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