2章06 『4月30日』 ③


「――生命は大切だよ、弥堂君。でもね、これはキミに博愛精神を持てだとか、他人の為に無償の奉仕を行えと言っているわけじゃあない。なによりキミ自身が幸せになるために、キミのその生命を大切にして欲しいと、僕はそう言っているのさ。ただ、勘違いして欲しくないのは、利己的になれと言っているわけでもないってことだ。自己の幸福の追求の為にあらゆる他人を踏み躙れという意味じゃあない。それはわかってくれるね? ありがとう。僕はね弥堂君。人類全てが幸福であって欲しく、また幸福であるべきだと思っているんだ。待ってくれ。大丈夫だよ。当然それが不可能だってことはわかってる。だからね、せめてこの僕の目に収まる範囲、手の届く範囲に居る人々はそうあって欲しいと願っているのさ。その為に僕は自分に近しい人々を大切にしようと思っている。だからそのためにまず、僕は僕自身を愛そうと思っているのさ。自分を愛して大切にしようと思っている。他人を大切にするためにね。だから僕はまず真っ先に自分の生命を大切に思うのさ。矛盾していると思うかい? まぁまぁ、落ち着いて聞いておくれよ。僕は適当にこんなことを言っているわけじゃあない。なにせ僕という男は清廉潔白な人物だからね。何よりもまず自分の陰部の快感を優先する爛れたリア充どもとは違うんだよ。そんな僕はキミに伝えたい。生命の大切さを。これはキミを大切にするためであり、僕を大切にするためにだ。だからキミに生命の大切さを伝えようと思う。いいかい? 弥堂君。キミは今こう思っているだろう? 生命の大切さなんてわからないと。自分も他人も大切だと思えないと。何故なら人は生まれた瞬間に死ぬことが約束される。生命は必ず喪われるモノで、喪われることが確定しているモノを必死に維持しようとすることなんて非常に効率が悪いと。キミはそう思うんだろう? わかるよ。僕はキミのその考えを尊重する。これはね、キミがこれまでに生きてきて歩いてきた道で、様々な出来事を見て聞いて、様々な何かを感じて、そしてそう考えるに至った――それを丸ごと全て尊重するという意味だ。僕にとって生命を大切にするという行為はこの行為を指す。生命とは、生まれた瞬間にろうそくか何かに火が灯り、その火が点いているか消えているかという状態を指すものではない。さっきも言ったとおり、生命は膨らんでいくのさ。過ごした時間の中で、人生の中で。今僕の目の前に居るキミの膨らみ――その中に在る全てのモノを愛し、そしてこれからもキミを膨らませてあげたいと思う。僕はキミを大切だと思っているからね。だけど弥堂君。そんなことを言われても困ると。そう言われても同じように自分も他人を大切に思うことは出来ないと、そもそも他人にそんなことを感じたことすらないから何が何だかわからないと、キミのその言い分はごもっともだよ。え? 何も言ってない? これは参ったね。あまりにキミを慮りすぎてキミの生命の膨らみを尊重するあまりどうやら理解が進み過ぎてしまったようだよ。キミならこう思うだろう感じるだろう、こう言うだろうと想像が膨らみ過ぎてしまったね。これは全くを以て僕の過失だ。本当にすまないと思っているよ。はい謝った! というわけで、此処までで僕は生命を大事にするという行為はどのようなものかを説明した。次はどうやって他人の生命を大切に感じる――感じるという感覚をアクティベートするか。その話をするよ。キミはキミの生命を大切に思うべきだ。他人の生命を大切に思うために、まずキミ自身の生命を大切に思うんだよ。あぁ、待ってくれ。違うんだ。自分と他人どっちが大切かって議論をしたいんじゃあない。情けは人の為ならずって話じゃない。僕はそれに否定的ではないけれど、それはもう一歩先でする議論だ。まずは自分だろうと他人だろうと、生命が大切だと感じるところから始めなければならない。その為には、っていうのが今している話さ。キミが他人の生命を大切だと感じられないのは、キミの中にその基準がないからさ。何が大切かと問われた時に、その答えは千差万別だろう。でも何かしら答えることは出来る。だけどね弥堂君。これが大切だと答えた瞬間、それより大切でないモノが必ず生まれるわけだろ? 大切だと答えたモノ以外の全てはそれよりも大切でないことになる。だから何か大切なモノを作るにはそれと比較するための別のモノが必要になるのさ。それが基準。その基準にするべきは自分の生命だと、そういう話を僕はしているのさ。何故なら生まれて初めて認識するのは自分の生命だ。日常的に最も身近にあるのが自分の生命だ。誰しもがそれを一番最初に大切だと思うからだ。失いたくないってね。当然だ。誰だって死にたくはない。だけどね弥堂君、キミの中にはその基準がまだ存在していない。キミは自分の生命を大切だと思っていないから、キミの中には生命の価値っていうものが生まれていないんだ。他人を大切に思うには、その基準となる自分の生命と相手の生命の、その価値を測るのさ。自分にとって本当に大切な人、その人の生命の価値は自分のそれと均衡するか、もしくは上回るはずだ。だけど弥堂君、極端に考えてはいけないよ? 自分の生命より軽いものは無価値だなんて。たとえ自分の生命よりも重く感じられなかったからといって、その重さはゼロじゃないだろ? 100と99かもしれない。それはほぼ同じだろ? 勝ち負けを決めるためや、取捨選択をするために測るんじゃない。自分の生命の重さとどれだけ近いのかを測るんだ。重さを測っても数を数えてはいけない。例えば今この部屋に生命はいくつある? 2つ? 不正解だ。今この部屋には僕とキミの生命が1つずつある。それが正解だよ。生命は一つ一つ別個のものだ。同じ単位で重ねてはいけない。だけど違うものとしてその価値を測る。生命は等しく全て等価値ではない。公的にはそうではあっても主観では違う。自分と他人、他人と別の他人。それらは全て違う。価値が違う。好き嫌いや色んなことが影響してその価値は異なる。それは紛れもない事実だ。だから大切な人というものが出来る。特別な誰かがね。だけどね、弥堂君。将来キミにその特別で大切な誰か――恋人や奥さん、友達でもいい――それが出来た時に、相手の生命を自分のものより大切だと思えなくてもいいんだよ。だけど、そう感じたとしても、きっとその比較は相当に拮抗するはずだ。その近さを感じるんだ。自分の生命より僅かに価値が低かったからって、それを捨てようだなんて思わないだろう? 100万円持っているからって別で99万円を捨ててもいいなんてことにはならないよね? そんなことを考える人間はいない。だってその価値はとても近かったんだから。そうやってお互いの生命が近く感じられるからこそ愛せるんだ。キミはその重さを全てゼロに設定している。自分にも他人にも価値を生じさせないようにしている。ゼロは基準には出来ない。ゼロとゼロじゃ比較出来ない。等しいからね。等しさは残虐だ。全ての価値が等しいならどれも大切だなんてことにはならない。どれも大切ではなくなってしまう。全てが同じなんだから。だからキミはまずは自分の重さを測るんだ。そして基準を作る。だけどね、弥堂君。その基準は必ず自分の生命にするんだ。他人の生命を基準にしてはいけない。自分を基準に他人の生命を測ることはいい。だけど他人の生命を基準に自分や別の他人を測ってはいけないよ。よく客観的な比較をーとか言われるけれど、そんなものはクソくらえだ。主観の伴わない比較に価値などないよ。口先だけでなく自分の心臓を先に秤に乗せるべきだ。だけど弥堂君。キミはこう言うんだろう? 重さに差があったとしてもどうせどちらも必ず失くなるものだって。だから大切にする意味が無いって。その考えはわかるよ。でもね、だからこそ逆なんじゃないかって。僕なんかはそう思うのさ。必ず喪われる生命。その確定した終わりに抗うんだ。少しでも長く続くように。少しでも大きく膨らませるように。その為に惜しめ。自分の生命を。惜しんでしがみついて駄々を捏ねるんだ。取り上げないでって。『いつまでも遊んでないでさっさと寝なさい!』ってお母さんに怒られてオモチャを取り上げられる寸前の子供みたいに。『やだやだやだ!』ってみっともなく泣き喚くのさ。それは反発であり、反抗であり、抵抗だ。その泣き声こそが『世界』へ向けた僕らの“rock 'n' roll”なのさ!」


「なるほど」



 続いていた冗長な廻夜の言葉に弥堂は短くそう応えた。



 その反応を予想していたのか、廻夜もそれについて何も言わない。


 ただ、少しだけ苦笑いを浮かべた。



「じゃあ、弥堂君。その次の話をしようか。さっき少し触れたね? 情けは人の為ならず。他人を大切にすることは自分の為。僕はこれには割と賛成だよ。大切な人を大切にして、それで長く一緒にいられれば、それは自分の幸せになる。シンプルな話だろ?」


「……そうですね」



 碌に話を聞いていなかったので、いつそんな話をしていたのかを弥堂はわからなかったが、とりあえず同意した。



「弥堂君。キミは今僕が全然関係ない話をしていると思っているだろう? "推し変"について聞いたのに、全く違う話を聞かされていると、そう思っているだろう?」


「……いえ、まさか」


「安心しておくれよ。これは十分に関係ある話だ。他人を大切にすること、思うこと。誰かを愛すること。自分の幸せ。これらは『推す』ということにも通ずる話なのさ。僕は部員の効率を落とさないタイプの部長だ。だからその話をしていくよ」


「恐縮です」



 弥堂は何も言わずに恐縮だけしておいた。



「誰かを推すということはその人を大切にすることだ。その人の価値に重きを置くからこそ赤の他人を推すことが出来る。そうしているとよく信者とかって言われる。それには反論はあるんだけれど、でも仕方のない部分もある。自らそうだと公言してしまっている人もいるし、傍から見たらそうとしか受け取れない言動をする人も決して少なくないからね。それはある種信仰にも似ているし、愛にも似ている。神を信仰することも、誰かを愛することも、全て自分の為だ。推すことも同じだ。だけどね、弥堂君。それでも推すという行為は信仰とも愛とも同じではない。信仰することや愛することと同じにしてはいけないし、同じものを推しに向けてはいけないよ。一つ一つ違いを説明しよう。信仰の向け先は神だ。救いを求めて信仰をする。だけど推しは神ではない。僕たちと同じ人間だ。だから推しは間違えるし失敗する。出来ないことはいっぱいある。完全無欠や全知全能を求めることを許されるのは、神が非実在存在だからだ。実在する人間にそんなものを求めてはいけないよ。理想を押し付けてはいけない。そしてそれが叶わなかった時に失望することも許されない。自分に救いを与えることを求めてはいけない。自分がその人を推すことで、勝手に何かを得て、それによって勝手に救われるんだ。推しの見えないところでね。推すという行為を勝手にして、それによって自分で自分を救うんだよ。推しはキミを救ってはくれない。それを求めてはいけない。それが信仰との違いだ。では、次に愛との違いを話そう。推すということは愛することではない。何故なら一方通行だからだ。愛は双方の間で循環してこそ成立する。推しを愛しても愛は返ってこない。返ってくるのは感謝だけだ。それを忘れてはいけないし、勘違いしてはいけない。ましてや絶対にそれを求めてはいけない。まぁ、これは以前にも言ったね? ガチ恋、ネトスト、直結など言語道断だと。記憶力のいいキミだ。それはしっかりと覚えてくれているだろうと信頼しているよ。というわけで、推すということは信仰や愛とは違う。完全に別種の行動だ。しかし、信仰や愛と同じようにキミの人生を豊かにし、キミを幸せにするための行動だ。なのに推し活というものは基本的に推しの為にする行動が多い。だから勘違いをしやすい。だけどね、弥堂君。それらは全て自分の為にやっているということを忘れてはならない。これは戒めでもある。何かの拍子に『自分はこれまでにこれだけのことをしてやったのに』なんて考えを持たないようにするためだ。見返りを求めないようにするためだ。推しは神ではないし、伴侶でもない。だから推しはキミに救いも愛も齎さない。だけど『ありがとう』とは言ってくれる。それをもう言ってもらえなくなるような行動は慎むべきだということを僕は言っているんだ。何よりそれも自分の幸せのためにね。SNSで恨み言を繰り返している人が幸せに見えるかい? 答えは聞くまでもないね。あれは自分を幸福から遠ざける行為だし、推しも悲しんでしまう。そうならないように推しがいつまでも笑顔でいられるような行動を心掛けよう。大切にしてあげれば推しは笑ってくれる。その笑顔に勝手に救われて自分も幸せになろう。推すと言うのはそういう崇高な活動なんだ。キミもそうは思わないかい?」


「素晴らしいと思います」


「そうだろうとも! さて、だからこそ。推すという行為は軽々に行うべきではないし、またやめるべきでもない。ましてや、その対象を変えようだなんてことは軽々しい問題ではないよ。だってそんなことをしたら推しが悲しんでしまうだろ? なのに今回キミはそれをやると言う。僕は基本的にそれを許さないと言った。しかし、だ。弥堂君。致し方ない事情もある。僕も常々言っている通り、なにせこの『世界』はクソッタレのクソゲーだ。推しがある日突然引退・卒業をしてしまうこともある。サ終してただのデータとして消去されてしまうこともある。悲しいけれどそれは避けようがない。そんな時にはそれまでの日々を儚みながらも僕らは歩いて行かなければならない。そんな悲しみを癒す為に次の推しを見つける。それは赦される。だからね、弥堂君。僕は頭ごなしに事情も考慮せずにキミの推し変を詰ったり禁じたりすることはしないよ。しっかりとキミの事情を考えてみようと思う。僕はキミの部長であり先輩だからね」


「恐縮です」


「弥堂君。キミは重度の効率厨だ。そんなキミはキミの効率を上げてくれる存在を好む。だから作中最強キャラである“メイたん”を推していた。これはとても自然な所作だ。だが、だからこそ。その“メイたん”を超える魔法少女が現れたのならば、そちらへ推し変する。キミの幸せの為に。それもまた自然なことであると言えるかもしれない。仮に。仮にだ、弥堂君。それでもキミが僕の言いつけを守って推し変をしなかったとしよう。その場合、果たしてキミは幸せであると言えるのか? 残念ながらそれはNOだと言えよう。きっとそうなったらキミは酷くストレスを溜めることだろう。その状態では健全な推し活を続けることは難しいだろう。キミの好みの基準は変わっていない。ならばその基準の上で最も好みにマッチングするキャラを推すのは、非情な決断ではあるが僕は『アリ』だと思う。本件においてはそう沙汰を下そうと思う。弥堂君。キミはそれほどにその新しい魔法少女が好きなんだね?」


「あ、いえ。違うんです」


「えっ?」



 バンっと手を振り下ろしてキメた廻夜に対して、弥堂は誤解であることを伝えた。


 どうも話が噛み合っていないと思っていたら、自分の説明がまだ不十分であったことに気が付く。


 ポカーンと口を開けたままの廻夜へ釈明を始めた。



「部長。俺が今回推し変の許可を頂きたいのはその魔法少女のことではないんです」


「え……? でも、さっき“メイたん”以上の魔法少女がって……」


「はい。それは間違いなくそうなのですが、俺の説明が不十分でした」


「はぁ」


「正確に言うのならば、その新しい魔法少女には既に推し変をした後なんです。今回ご相談したいのは、そこからまたさらに別の者へと推し変をしてもいいものかという内容になります」


「えぇっ⁉」



 弥堂の言い分に廻夜はびっくり仰天した。


 激しい動揺を表しながら弥堂へ尋ねる。



「ちょ、ちょっと待っておくれよ弥堂君……。えっ? よ、よくわからなかったんだけど、キミは“メイたん”から別の魔法少女へ僕に無許可で既に推し変を済ませていたにも関わらず、なのにまたこの短期間に全く別の子へさらなる推し変をしたいと。そう言いたいのかな?」


「……そうなりますね」


「な、なんだって……⁉」



 少し考えてから、概ねその通りだろうと弥堂は頷く。


 廻夜 朝次は慄いた。



「こ、こいつは驚いた……っ! なんと破廉恥な……! 弥堂君。僕は驚いている。心底驚いているよ……っ! まさかキミがそんな軽薄な振る舞いをし、あまつさえそれを恥ずかしげもなくこの僕に報告してくるだなんて、そんなこと夢にも思わなかったよ……」


「恐縮です」


「色々聞きたいことはある。だけどまず最初に。えっと、なにそれ? “メイたん”を超える魔法少女が実装されたことも知らなかったけど。え? なのにそれをまたさらに超えるインフレがあったってこと? いくらあのクソ運営でもそんなことってある? 僕毎日欠かさずプレイしてたのに全く知らないんだけど? もしかしてそれ海外情報? 日本のゲームなのに? これっぽっちも理解が追いつかないんだけど……」


「あ、いえ。それも誤解です」


「はぁ……?」



 廻夜は疑問符を浮かべっぱなしだ。信頼する部員が急に遠くに行ってしまったように感じられて心が不安定になる。


 弥堂は表情を変えぬまま淡々と説明を続けた。



「まず、“メイたん”から別の魔法少女に推しを変えたのは事実です。そしてその魔法少女から今回変えようと思っているのは魔法少女ではありません」


「魔法少女じゃ……ない……? 魔法少女ゲーなのに……? い、一体誰に推し変しようって言うんだい?」


「はい。それは、ギャルです」


「ギャル……? え? そんなキャラいたっけ……?」


「キャラではないのです。そのギャルは実在の人物です」


「な、なんだって……⁉」



 聞けば聞くほどに意味のわからない話に廻夜はひたすら混乱する。



「え? 待ってよ弥堂君。それって恋愛の話? ギャルに告ったらアニメとかキモイからやめろって言われたとか、そんな話なのかい?」


「いえ、そういうわけでは。ただ、恋愛かどうかと言われるとどう答えていいものか……」


「だ、だけど、弥堂君。だっておかしいじゃないか。そのギャルはリアルギャルなんだよね?」


「はい。リアルギャルです」


「ということはだよ? そのリアルギャルを推したとしてもキミの効率は上がらないじゃないか? え? もしかして人生全体の効率を上げるためにソシャゲなんてやってらんねえってこと? キミはプリメロを捨てるつもりなのかい⁉」


「そういうわけではありません。必要であれば引き続きプリメロへの課金は続けます」


「わからない……、わからないよ弥堂君……っ。キミの主義主張を捨ててまで何故リアル女子を……? キミほどの男が、そのギャルのことをそこまで好きだと言うのかい⁉」


「いえ。全く好きではないですね」


「はえ~?」



 あまりの意味のわからなさに廻夜は気絶しそうになる。


 しかし彼にも部の長としての矜持がある。


 グッと唇を噛み、その痛みをもって己の意識を繋ぎ止めた。



 グイっと手の甲で唇を拭う。


 チラリと見たその手の甲には特に血が付着していたりするようなことはなかった。



 ホッと安心した廻夜は、さらなる聴取に臨む。


 正気はデッドラインを超えたり戻ったりを繰り返し、心臓の鼓動は煩いくらいに高鳴っていた。



「び、弥堂君……?」


「はい」


「ぼ、僕の頭がおかしくなってしまったのかもしれないから、もう一度質問させて欲しいんだけど……」


「えぇ。どうぞ」


「キ、キミは“メイたん”から違う魔法少女に推し変したんだよね? その魔法少女のことは好きだからそうしたのかな?」


「ん? まぁ、そうですね」


「わかった。じゃあ、そこまではいい。そこまでのことには僕は口を出さない。では、その次のことを聞こう」


「はぁ」



 さっきとほぼ同じことを聞かれているので弥堂は生返事だ。


 しかし廻夜の方はゴクリと音を鳴らして唾を飲み込んでから、意を決して口を開く。



「キミはより好きな魔法少女に推しを変えた。なのにも関わらず、全然好きでもないリアルギャルにまた推しを変えたいと、そう言っているのかい? ぼ、僕の聞き違いだよね?」


「いえ。全くその通りですね」


「どういうことなのぉっ⁉」



 廻夜は頭を抱えた。



「じゃあダメだ! ダメだよ! そんなの許さないよ僕は……っ!」



 そして臍を曲げてしまった。



「部長、どうか許可を」


「イヤだよ! だって意味がわからないもの! 好きじゃないのに推すってどういうことなの⁉ ギャルは好きじゃないのに好きな魔法少女は捨てるって意味がわからないよ! そんなの推し活じゃないし、それにそもそもキミの好きの基準から大きく外れてるっていうか、それ以前にやっぱり全然意味がわからないよ! そんなことこの僕が許すはずがないだろ!」


「部長、そこをなんとか」


「ダメだダメだ、この話は終わりだ! 母さん! コーラを持ってきてくれ!」



 廻夜は腕を振るい弥堂の話を突っぱねる。


 そして昭和の飲んだくれお父さんが妻に酒を要求するようなノリでコーラを求めた。



 しかしこの場に母ちゃんは存在しないし、なおかつ彼は未婚だったので仲裁をする者は誰も現れない。


 弥堂は尚も食い下がった。



「部長、お怒りはごもっともです。しかしこれには事情があるのです」


「事情だって? 好きじゃないギャルを推すために推し変をすることに事情なんてないよ! 僕は聞きたくないね!」


「安心してください部長。推し変とは言いましたが、それはあくまでも一時的なものです」


「ん? 一時的……?」


「はい。仕方なく一時的にギャルを推しますが、用が済んだらあの女はボロ雑巾のように捨ててやります。そうしたらまた元の魔法少女に推しを戻します」


「な、なんだってぇ……?」



 あまりに率直な弥堂の物言いに廻夜は放心する。


 しかしすぐにその身を怒りに震わせた。



「余計ダメだよ! えっ⁉ マジでどういうことなの⁉ 一時的な推し変ってキミなにをするつもりなの⁉」


「そのことなんですが、実はやむにやまれぬ事情があり、俺はそのギャルの恋人のフリをしなければならなくなりました。なのでその間だけ一時的に推しを推すことを中断すべきかと。先ほど恋愛と推しは別だというお話をされていましたが、俺にはそのあたりがよくわからなかったので、きちんと推し変をした方が魔法少女に対して誠実なのではないかと判断したんです」


「は? フリ……? えっと、逆ってことなの? ギャルの方に告られて、ちょっとつまみ喰いしてやろうと付き合ってるフリをするってこと?」


「いえ、特にそのような事実はありません」


「ん? んん……? えぇっと、まず、事実確認なんだけど。弥堂君、キミはその子とは付き合ってないのかい?」


「はい。全く」


「う、うん? じゃ、じゃあその子がキミと付き合ってると勘違いしちゃってるとか……? それもよくわからないけど、なんかキミってそういう事態に陥りそうだよね?」


「ご冗談を。しかし、そういうわけでもないです。むしろ逆です」


「逆、というのは……? つ、つまり? キミとそのギャルの間に付き合っているという事実は存在しないし、そのギャルも正しく付き合っていないと認識している。その上でキミはそのギャルと付き合っているフリをするということなのかい?」


「正確には付き合っているフリというより、付き合っていると思い込んでいるフリをするのです」


「付き合ってないのに?」


「はい。付き合ってないのに」



 現状を正しく上司へ伝え終えると、廻夜はまたプルプルと震え出す。



「ダ、ダメだダメだダメだー!」


「部長」


「ダメに決まってるだろ⁉ だってさ弥堂君。それってただの厄介なガチ恋クソ野郎じゃん! あれだけダメって言ったネトスト気質のガチ恋厄介ファンじゃないか!」


「ですが、それは一時的なものです。事が済んだらすっぱりと切り捨てます」


「余計ダメだよ! それ完全にヤリ目じゃん! 直結野郎じゃん! 役満だよ! 一個もいいところがないよ! そんなの僕は推せないよ!」


「部長、どうかご理解を。どうしてもそうする必要があるのです」


「どんな必要だよ⁉ わからない……、わからないよ弥堂君……っ! 僕には全くを以て理解が出来ないよ! もう一度口に出してみようか? キミとギャルは付き合ってない。ギャルの方も付き合ってないとちゃんと理解しているしキミもそんなギャルと付き合ってないとわかっている。なのにキミは彼女と付き合っていると思い込んでいるフリをするって言うんだろ⁉」


「その通りです」


「そんなの意味わかんないよ! ぼ、僕は頭がおかしくなりそうだよ……っ! 一体全体何がどうすればそんなことになるんだい……⁉」


「部長……、俺もまったく同じ気持ちです。俺にも意味がわかりません。ですが、やるしかない……っ。やるしかないんです……!」


「び、弥堂くん……」



 やはり変わらず意味がわからなかった。


 しかし廻夜は、同じく意味がわからないと言う弥堂のその謎の想いの熱さに胸を打たれた。


 意思だけは強いことは伝わった。


 それは紛れもなく男の決意だった。



「わ、わかったよ弥堂君。僕も男だ。キミの言う事情も必要性も僕には全く理解が出来ない。だけどキミの決意は伝わった。男が決めたことにケチをつけるようなことはしない」


「部長……、では?」


「あぁ。キミの思うようにするといい。だけどね、弥堂君。100%全てをそのまま認めるわけにはいかない。折衷案を出そう。どうかそれを聞いて納得して欲しい」


「折衷案……?」



 弥堂はその言葉に眉を顰めた。



「いいかい弥堂君? そのギャルにストーカーすることは黙認しよう。だけど――」


「――ストーカーではありません」


「え? でも――」


「――ストーカーではありません」


「……わかった。キミがそのギャルと付き合っていると思い込むことは黙認しよう――」



 弥堂がその部分に並々ならぬ強い拘りを見せたので廻夜は譲った。



「――だからこうしよう、弥堂君。推しは変えずにそのギャルにちょっかいをかけよう」


「……? どういうことです?」


「……弥堂君。推しは変えないでいい。だが、増やそう」


「ふやす……?」



 今度は弥堂の方が意味がわからなくなる。



「弥堂君、実はね……、僕はキミに言っていなかったことがある。まだ早いと、教えていなかったことがあるんだ……」


「それは、一体……?」


「……推しというものはね、増やせるんだ……」


「え……?」


「推しは一人じゃなくてもいい。何人でも増やしていいんだ……」


「ば、ばかな……っ⁉」



 廻夜が告げたその真実に弥堂は驚く。


 反射的に反論をしてしまう。



「し、しかしそんな……っ。それではあまりに不誠実なのではないですか……⁉」


「…………」



 弥堂にしては珍しいほどに動揺を見せている。


 廻夜は内心で『どの口が不誠実などと』と思ったが、見事にスルーして説明を続けた。



「弥堂君、推しというのは何人作ってもいいんだ。だって言っただろ? 推し活とは恋愛ではない、と。つまり浮気は存在しないんだ」


「そ、そんな……」


「だから推しを増やそう。魔法少女は推したまま、そのギャルも別で推せばいいじゃない」


「し、しかし……っ。俺には、出来ません。魔法少女とギャルを同列に扱うなんていうことは……! それはあまりに……っ」


「フッ、安心してくれ弥堂君。そんなキミにいい言葉を教えてあげよう……」


「いい、言葉……?」



 廻夜は狼狽する弥堂へ慈愛に満ちた目を向けた。


 まるでその場所はかつて自分が通り過ぎた場所であるかのように。


 そこで今思い悩む若人を導くかのように手を差し伸べた。



「『最推し』、そんな言葉がある」


「さい、推し……?」


「そうさ。数いる推しの中で最も推す子。それが『最推し』さ」


「そ、そんなモノが……」


「あぁ。魔法少女がキミの最推し。ギャルはそうじゃない推し。そうやって区別すればいい。そうやって自分の中で整合性をとればいいのさ」


「で、ですが、そんなことが……、そんなことが許されるのでしょうか……? 神はそんなことを――」


「――弥堂君……」



 かつて出遭ったことのない概念に触れて戸惑う弥堂がその名を口に出そうとした時、廻夜がそれを遮りそしてフルフルと力なく首を横に振った。



「神はいないよ、弥堂君。この『世界』にそんなモノは存在しないんだ……」


「…………」


「だから誰もそれを咎めない。キミは自由だ。『世界』はそれをキミに許しているんだよ。弥堂君」


「し、しかし……」


「弥堂君。キミ自身が言ったんだ。やるしかない、と。そうだろ?」


「それは……」


「さぁ、覚悟を決めたまえ。弥堂君。我が友よ。キミはやるしかない。そうだね?」


「…………」



 まるで命令のようなその問いに弥堂が何かを答えようとした時、朝練の終了を報せるチャイム音が部室に設置されたスピーカーから鳴り響いた。


 半ば自失していた弥堂はその音にハッとすると、顔を俯ける。



 廻夜は何も言わず、ただ待った。



 そしてチャイムが鳴り終わると弥堂は顔を上げる。


 廻夜はやはり何も言わず、彼の表情を見て「フッ」と笑った。



 弥堂の瞳には常と変わらぬ意思の力が戻っていた。



「さぁ、これにて今朝の朝練は終了だよ」


「はい」



 男と男の間にもうそれ以上の問答は必要なかった。



 弥堂は素早く荷物を片付けると部室の出口へ向かう。


 その背に、思い出したように廻夜は声を掛けた。



「あぁ、一つ言い忘れていた」



 弥堂は立ち止まり顔だけで振り向く。



「さっきの推し変の条件。増やす方の話じゃなく、その前の推し変をする時に仕方のない事情があるならって話さ」


「はぁ」



 推しを増やすということで手打ちになったのに何故今更そんな話を――そのように感じたが弥堂は続きの言葉を待つ。



「例えばなんだけど、キミにすっごい推しの子がいて。でもその子は一ヶ月か二ヶ月に1回くらいしか配信をしてくれない。でもその一回で得られるモノは大きい。そんな推しが居たとしてさ」


「はい」


「ある日別の子に出逢う。一回一回で得られるモノはそこまででもないけど、でも定期的にそれをキミに供給してくれる。そんな子に出逢って、さぁどうするってなった場合――」



 廻夜のサングラスの奥で冷たい光が煌めいた気がした。



「――その場合はね弥堂君。もしも後者の方がキミの幸せの総量が大きいなと思ったら。その時は推し変をしてしまってもいいと思うぜ? 定期的に供給してくれる方を推してもいいと僕なんかはそう思うんだ」


「……? 増やすのではなく、ですか?」


「あぁ、そうだね」



 その話はさっきと同じ話にも、また矛盾しているようにも聴こえ、弥堂は怪訝な顔になる。



「なに。ただの例え話さ。深く考えなくてもいいよ。もしも似た状況になってキミがどちらかを選択しなければならなくなったら、その時の参考になればと。そんな軽い話さ」


「はぁ……」


「さぁ、これで僕の方は終わりだよ。キミの方からも何かあるかい?」


「そうですね……」



 弥堂はドアノブに手を伸ばしながら、何か聞きそびれたことはないかと記憶を探る。


 そして一つ思い当たった。



「そういえば――」


「うん?」


「連休明けに議論をすると仰った我が部の三番目のテーマなのですが、その内容はもう決まっているんですか?」


「ククク……」



 それほど大した内容ではなかったが、廻夜が軽い話をしたと言ったので、弥堂もそれに倣い同程度の話を尋ねてみた。


 すると廻夜は意味深そうにほくそ笑む。



 ニヤリと――


 彼の頬が吊り上がった。



「そうだね。まだ強く決めてはいけないけれど、これがいいんじゃないかって候補はある」


「……それは?」


「それはね、弥堂君……」



 鋭い視線が弥堂を射抜いた。



「……帰還勇者について――なんてどうだい?」


「…………」



 弥堂の身に緊張が奔る。


 これまでに廻夜がこうまで核心に踏み込んでくることはなかったからだ。



 無言のまま一秒、二秒と、時計が針を進める。


 その僅かな時間が永遠のように感じられた。



 しかし――



 ニカっと、廻夜が笑みを緩める。


 それだけで場の緊張感が弛緩する。



「なんてね。ただの候補さ。まだ決めたわけじゃあない」


「……そうですか」


「なに。連休明けまでには決めておくよ。だからね弥堂君。どうか、よき休日を――」



 弥堂は答えずドアを開けて廊下へ片足を踏み出した。



「あ、待って。あ、あのさ、弥堂君。さっき言ってた“メイたん”超えの魔法少女なんだけど……、それって一体――」



 弥堂はドアを閉める動作を止めないまま、狭まっていく隙間から部屋の中へ目線を向ける。



「――御戯れを」



 意趣返しのようにその言葉だけを部屋の中へ投げ入れ、淀みなく扉を閉めた。



 そして間髪入れずに歩き出す。


 部室の中からまだ何か声が聴こえていたような気がしたが、気がしただけなら気のせいだろうと判断した。気が付かなければ不敬にはあたらない。



 コッコッコッ――と、一定の間隔で廊下を靴底で打つ。



 廻夜の言葉――色々と考えるべきことはある。


 だが、それはまず生き残ってからだ。



 まず目の前の困難を生き延びてからの話だ。


 目先のやるべきことをやるしかない。



 その為には――



(――希咲 七海。俺は必ずお前を推してみせる……!)



 次の物語のページが捲られ、弥堂は次の戦場となる場所へ歩いて行った。









(――そういえば)



 部室棟から隣の校舎へ入る寸前に、弥堂は気が付く。


 廻夜へ聞くのを忘れてしまっていたことがあったのを。



 二つほどある。


 色々と衝撃的な話を聞かされて、すっかりと頭から吹き飛んでしまっていた。



 弥堂は己の未熟さを恥じる。



 一つはY'sのこと。


 あれは本当に廻夜部長が用意した人員なのか。



 そしてもう一つは評価だ。


 前回の部活動で廻夜から出された課題について。



(――部長。俺は“正解”をしたのですか?)



 今から戻って尋ねる時間はない。


 弥堂は教室へ歩きながらただ心中で問いかけた。






 周囲に誰もいないサバイバル部の部室前――



 扉へ手を伸ばし廻夜は施錠をしようとしている。


 その頬が、ニヤリと吊り上がった。



「答え合わせはしないと言ったぜ? 弥堂君――」



 言い終わると同時に手を回すと、ガチリと無機質な音が鳴る。


 閉ざされたその先へは堅く鍵が掛けられた。


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