1章55 『密み集う戦火の種』 ⑨
古く小さな聖堂。
薄暗いその屋内は調度品が少なく所々物が足りない。
老朽化の進み具合が床や壁に表れていて窓やステンドグラスも一部ガムテープで塞がれていた。
静謐さを埃や黴の臭いが覆い、人気の見えないそこでは時折り吃逆の声が漏れている。
ギィィっと不快な音を鳴らし建付けの悪い扉が開かれた。
外光と共に勝手口の小さな扉の外から聖堂の中へ顔を覗かせたのはウィンプルを被った若い女だった。
その女は聖堂の中を右左と見回し説教壇の所へ目線をやるとギョッとする。
そして修道服の裾を摘まみながら屋内へ踏み入ってきた。
「パオロ神父っ!」
「……んあ~?」
パタパタと駆けてきたシスターさんに大声で名前を呼ばれた男は寝惚けたような返事をする。
聖堂の床に尻をつけ説教壇に寄りかかっていた男は黒いスラックスに上半身は作務衣を着ていて焼酎の入った一升瓶を抱えている。
酔っぱらって居眠りをしていたようだ。
「『んあー』じゃありませんっ! 主の目の前でなんと罪深い……っ!」
「あー? なぁにが罪深いってんだ? 人は酒も飲むし眠くなったら寝る生き物だ。つまり主の御心のままってわけだ。クララちゃん、これガチエイメンな?」
「お酒は夕飯の時に食卓で、寝る時は自分のベッドで! 言葉も態度もだらしなすぎます! 貴方は神父様なんですよ⁉」
「オレァ牧師だよ」
「なに勝手に宗派を変えてるんですか! 貴方は神父だしここはカトリックの教会です!」
「えぇ……、もっと自由に生きようぜ……。主よ。どうか迷える子羊――つまりオレにフリーエイジェントを」
「そもそも神父様が着てる服はお坊様の服じゃないんですか?」
「おぉ。楽なんだぜ? これ」
そう言って神父と呼ばれた男――パオロはだらしなく気崩した作務衣の襟を掴んで見せる。
申し訳程度に首から下げられた十字架のチェーンがチャリと擦れる。
シスタークララは呆れて溜息を吐き、彼の顔を胡乱な瞳で見る。
浅黒い肌、だらしのない無精髭。色素の薄い黒髪の隙間から覗く碧い瞳は色だけは美しいが、酩酊状態のため焦点が定まっておらずやはりだらしがない。
白い頬にかかった金色の髪を流しながらシスタークララはもう一度溜め息を吐いた。
すると、そんな彼女と目が合ったパオロ神父はへらっと軽薄に笑い、大事そうに抱えていた一升瓶を口に突っこみ盛大に傾けて焼酎を喉へ流し込んだ。
「――あっ⁉ いけませんそんな飲み方をしては!」
「あぁっ⁉ か、かえしてくれ……!」
あまりに冒涜的な飲酒に目を剥いたシスタークララは急いで酔っ払いから酒瓶を取り上げる。
もう30をとっくに超えているはずの中年男は、二十代前半の女性の腰に情けなく縋ってきた。
「クララちゃぁ~ん、お酒かえしてよぉ~」
「かえしません! もうすぐ子供たちも帰ってくるんですからしゃんとしてください! 今日の夕食前のお祈りは神父様の番ですよ」
「うげ、マジかよ。あれめんどくせぇんだよなぁ」
「あぁ、主よ。この者の罪をどうかお赦し下さい……」
シスタークララは修道服のスカートの上から一升瓶を腿で挟むと跪いて両手を組み、不良神父が寄りかかる説教壇の向こうの大きな十字架に祈りを捧げる。
あちこちの教会で不祥事を起こして左遷を繰り返す内に世界を股にかけてしまってこの極東にまで流れてきた憐れな神父が、今しばらくはこの国に留まれるよう神さまにお願いをした。
すると背後からガタンを扉を押す音がした。
この聖堂の玄関口となる大きな扉だ。
シスタークララが振り返るとその扉は閉まったままでガタッガタッと音を鳴らし続けている。
教会の扉はいつ何時も誰にでも開かれている。
別に施錠をしているわけではなく、単純に建付けが悪すぎて普通に押しても扉が開かれないのだ。開けるのには少々コツがいる。
「あ、はい……! ただいまー」
急いで立ち上がり扉を開けに行こうとするが、一歩間に合わずガゴンっと一際大きな音が鳴った。
シスターから見て左側の扉が勢いよくこちらに開いてバゴンっと壁に激突し、さらに嫌な音を立てながら蝶番から剥がれ落ちて床に倒れた。
「なっ……⁉ なななな……っ⁉」
神聖なる教会で起きた信じられぬ狼藉に言葉を失ったシスターが入口に目を向けると、夕暮れの外光の中からヌッと男性の足が地面と平行に生えていた。
その足はすぐに床に下ろされ、男は聖堂に這入って来る。
革靴にスラックス、上は高校の制服ブレザー。
少し日に焼けたくすんだ肌の色。光沢のないのっぺりとした黒い瞳。そして黒い髪。
パオロ神父よりも濃い黒。
その黒に罪の濃さを感じてしまい、シスタークララは心中で懺悔をした。
「――邪魔をするぞ」
茫っとしていると抑揚の欠けた声がかけられる。
「惣十郎から聞いているな? 仕事の話をしよう」
そう言って男が眼を向けたのはシスターではなく聖堂の奥――説教壇によりかかる作務衣の神父。
「おぉ。主よ、どうかこの男の罪をお赦しください」
パオロ神父はそう嘯いて不敬な参拝者へ軽薄な笑みを返す。
その祈りに男は――
「あの……、本日はどういったご用件で……?」
へべれけの神父を椅子に座らせ、とりあえずの体裁を繕ったシスタークララが弥堂に問う。
その表情は決して彼の来訪を歓迎するものではなく、彼へと向ける目線も懐疑的なものだった。
理由は言うまでもないことだが、この男がどう見ても真っ当な人間に見えないからだ。何度も会ってはいるがいつ見ても彼は殺し屋に見えてしまう。
「言ったとおりだ。この時間にここに来るように惣十郎に言われている。人と落ち合うことになっているはずだ」
「はぁ……」
シスターは生返事を返してから神父をジロリと見遣る。
そんな話はこれっぽっちも聞いていないからだ。
またこのいい加減な男が地元のヤクザと何か適当な約束をしたのだろうとアタリをつける。
ここは美景北教会。
新美景駅の繁華街裏のアパート群と旧住宅街と呼ばれる地域、そして北の外人街スラムの三つの地域の境目となるような場所に在る古い教会だ。
この建物は美景市の北側にあり18年前の津波の災害からは難を逃れることが出来た。
しかし、そのせいで復興計画からは除外され、地震で中途半端に痛めたまま建て直しをすることが出来ずに老朽化を重ねることになってしまった。
そのため15年ほど前に一度放棄されてしまったのだが、それを外国の教会関係者が買い取り、何度か代替わりをして現在は派遣されてきた彼らが住み込んでいる。
パオロ・エチェルオ神父とシスタークララ、この二人が併設された孤児院と教会を共に運営していた。
「パオロ神父。客はもう――」
弥堂は神父に話しかけようとしてすぐに眉を顰めた。
「……アンタまた呑んでんのか? 少しは控えろよ」
「カテェこと言うなよ。これも主の恵みだぜ?」
まったく悪びれもしない神父に溜息をつき、弥堂はシスターの方を向く。
こっちの用を先に済ますことにした。
「シスタークララ。これを――」
「――えっ?」
手に持っていた大きめの紙袋を修道女へ手渡す。
「これは……、お洋服、ですか……?」
「あぁ。子供服だ。先週のバザーの余り物を安く譲ってもらった」
「ありがとうございます! いつも助かります」
「物の価値を間違って覚えるといけないと思って中古品にしたんだが、新品の方が良ければ言ってくれ。次からはそうする」
「いえ、清貧は教会の教えに反しません。それに、あれくらいの子供たちはすぐに服をダメにしてしまいますからね。この方が気兼ねなくて嬉しいです」
そう言ってクスリと笑ったシスターの顔を弥堂は無感情に視る。
弥堂は以前の経験から修道女に取り入るには子供を取っ掛かりにすると効率がいいことを熟知していた。思惑どおり、彼女の顔からは警戒心が消えた。
ダメ押しをするべく弥堂はもう一つの紙袋をシスターへ渡した。
「これは……?」
「使い捨てのビニール手袋だ。キミが使うといい」
「私、ですか……?」
キョトンとする彼女へ弥堂は頷いてみせる。
「最近の女性は水仕事をする時に肌荒れを気にしてそういう物を使ったりするそうだ」
「え、えっと、でも……」
「気にしないでくれ。潰れた飲食店で廃棄に困っていた在庫を引き取ってきた物だ。定期的に用意することは難しいからそれは期待しないで欲しい」
「あ、ありがとう、ございます……」
消え入るように言って俯いてしまったシスターさんを見下ろし、弥堂は内心で『バカめ』と見下した。
「カカカッ、オメェはほんとクズだよな」
「何を言っているかわからないな」
ニヤリと笑ってチャチャを入れてくる酔っ払いの妄言は無視した。
「それよりパオロ神父。俺の客はどこだ」
「あぁ? 客だぁ?」
「どうせチャンさんだろ? まだ来ていないのか?」
「おぉ! なんだよそれを早く言えよ。チャン爺さんならそこに居るだろ」
「あ?」
「え?」
聖堂の長椅子と長椅子の隙間を指差す神父に疑問符をあげたのは弥堂だけではなかった。
シスタークララも同様に怪訝そうな目でその場所を覗いた。
するとそこには椅子と椅子の間の床に寝そべる小柄な老人がいた。
「ヒッ⁉ だ、誰ですか⁉」
シスターが思わず悲鳴をあげるとその声に反応してカランっと音を鳴らして老人が身を起こし彼女を見た。
「アイヤァ~?」
「あ、あの、貴方は……」
「アー! アー! ダイジョブ! オジョウチャン ダイジョブ! アルヨ! イイエステ アルヨ!」
「エ、エステ……?」
「ポッキリ! ヤセテポッキリ! オマタモスッキリ! イチマンエン! ポッキリヨ!」
「そ、そうではなくって……」
「アイヤー! ダイジョブ! ダイジョブダカラ! リンパダカラ!」
「いやぁーーっ⁉」
ガバッと老人が勢いよく近づいてくると彼の腰から提げられている網の中の空き缶が喧しい音を立てる。驚きと生理的嫌悪感でシスターは本気の悲鳴を叫んだ。
「リンパコスッテ! ツボヲクチュクチュシテ! ケンコーニナルヨ! ツイデニヤセルヨ! ナノニポッキリネ!」
「おい、チャンさん」
「ンア?」
ガチ泣きしそうなシスターを見かねて弥堂が割って入りホームレスの老人を引き剥がす。
彼は瞼を覆うほどに伸びきって垂れ下がった眉毛を指で捲り、弥堂の顔を覗き込んできた。
「アー! アー! アー! オニサン! オボエテル! エーエフ オニサン! コナイダノエーエフ ドーダタカ⁉」
「チッ、アンタまたトンでんのかよ」
「ダイジョブ! アルヨ! キョウモ イイ ケツアナ アルヨ!」
「いらねえよ。ほら」
「アイヤァーーーッ!」
鬱陶しそうにしながら弥堂が聖堂の床にシケモクをぶち撒けると、チャンさんは喜びの声をあげてそれに飛びついた。
「シケモク! ワタシノ シケモク! ゼンブ ポッキリ ワタシノヨ!」
「心配しなくても誰もとらねえよ。ほらライターもやる」
「……ンパッ ンパッ シケモク ンパッ」
「悪かったなシスター。もう大丈夫だ」
「な、なんなんですかぁ……」
乱れた衣服を直しながら半べそになるシスターを下がらせ、弥堂はしばし待つ。
すると――
「――クカカ……、オメーに教会とは惣十郎の坊主も皮肉が一丁前じゃねぇか」
落ち着いたしゃがれ声に溜息で返す。
「よう、ユウ坊。久しぶりだな」
「5日前に会ったばかりだぜ」
「アー? そんだけ生き延びりゃあ上等だろうが」
「違いない。用件はわかってるな?」
「カァー、クソガキがよ。生き急いでんじゃあねえよ。世間話もロクにできねえのか? アァン?」
「そんな間柄でもねえだろ」
「若者は冷たいのぉ。若ぇ姉ちゃんの機嫌ばっか取りやがって。ワシには土産一つねえのか? 年寄りを敬えや」
「それなら神父のために酒を持ってきてる。仕事が終わったら一緒に呑め」
そういって残っていた最後の紙袋から酒瓶を取り出そうとすると、いち早く神父が反応した。
「オォ、子羊よ。テメェの心付けを神は忘れはしねえぞ? テメェは必ず救われるでしょう」
「オォ、紹興酒たぁ気が利いてんじゃあねえか。パオロ坊呑もうぜ」
「へへ、こっち来いよ爺さん。コップ出してやるからよ」
軽い足取りで説教壇に向かうダメな大人をシスターは呆然と見送る。
「おい、仕事が終わってからにしろ。それ呑んだらお前ら使い物にならなくなるだろ」
そして目の前をダメな男がもう一人通過していくと、ハッと我に返る。
教会の聖堂内で飲酒に喫煙。
敬虔なる神の信徒としてこのような暴挙を許していいはずがない。
息を吸って声を張り上げようとすると、その前に新たな来訪者が聖堂の玄関口へ現れた。
「オォゥッ! ジャマするでぇ~……っ!」
威勢のいいダミ声とともにガタッガタッと扉が押される。
先程弥堂が入ってきたまま開いていた2枚扉の左側に白スーツの足を入れながら、閉まったままの右の扉を力づくで動かそうしている。
「ア、アニキ……ッ、あんま力入れると――」
「――オンドリャァーーッ!」
開かない扉に業を煮やして白スーツに柄シャツを着た男は蹴りを入れた。
すると、先程の弥堂の時の焼き増しのように勢いよく開いた扉が壊れて床に倒れる。
「ウラァッ! クラァッ! ボケェッ! ワシを誰だと思っとんじゃあっ⁉」
アニキは一頻り倒れた扉に得意のストンピングを喰らわすとバッと白スーツの上着を脱いで肩にかけた。
続いてガバッとアニキが股を開くとススっと二人の子分が寄って来る。
リーゼントの男がアニキの口にタバコを咥えさえ、もう一人のパンチパーマの男が淀みなくそれに火を点ける。そして二人ともにササッとアニキの両サイドにポジショニングしガバッと股を開いた。
アニキはプフゥーっと盛大に煙を天に吐き出す。
「どぉもぉ~っ!
聖堂中にその大声が響き渡るとシスタークララは十字架の前で跪いた。
「あぁ、主よ。どうか私をお赦しください……」
不良神父に国籍不明のホームレスに殺し屋にヤクザ。
神聖なる教会で飲酒や喫煙をするこのようないかがわしい社会不適合者たちを踏み入れさせてしまった罪に卒倒しそうになる。手離してしまいたくなる意識を祈りによって必死に繋ぎ止めた。
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