1章29 『4月20日』
4月20日 月曜日 午前8時27分。
所属する部活動である『サバイバル部』の朝練を終えた
とりとめもなく意味もない、ただ騒がしいだけの高校生とかいうガキどもが発する雑音を聞き流しながら、本日の授業で使う予定の教材を机に詰めている。
今日の朝練はいつもよりも早めに終わった。
自分たちが何の練習をしているのかということについては勿論本日もわからなかったが、今日の朝練は元々軽く流す予定になっていて、サバイバル部としての本日の活動の肝となるのは放課後であると通告されていたので特に問題はない。
ひとつ問題があるとしたら自分が何を軽く流したのかがわからないという点だが、弥堂にとってはそれはどうでもよかった。
兼ねてより議題にあがっていた『普通の高校生として平穏な日常を送っていた僕がある日突然魔法少女と出会った件』についての議論を、いよいよ本日から本格的に開始するとあって、本日の朝練では議題についてのレポートを作成し提出するよう求められていた。
それに関してはきちんと事前に準備をしてきていたので、問題なく提出することが出来たのだが、そのレポートを渡した相手である部長の
先週末に会議の延期を通達された際に彼は『どうしても決着をつけなければならない相手がいる』と言っていたので、恐らくその戦いにおいて負傷したものと思われる。
包帯について特に指摘をせず弥堂は無言で彼にレポートを渡した。
そうすると特に聞いてもいないのに、彼は『あ、これかい? いやぁ、近所の野良犬と決着をつけてさ? いやぁ、あれはすごい戦いだったなー』などと説明をしてきた。
恐らく『余計なことは訊くな』と、そういう意味であろうと弥堂は解釈した。
野良犬とは暗殺者のことで、部長にとっては野良犬を追い払う程度のことでしかない。だからこの程度の傷で騒ぐな、と。
きっと彼はそう言いたかったに違いない。
男と男の暗黙の了解を承諾しコクリと一度頷いただけで黙ってしまった弥堂の方へ、『あー痛い。いやー、痛いなー』などと言いながらチラチラと視線を遣ってきていたようにも感じられたが、彼はトレードマークである色の濃いサングラスを今日もかけていた為、その目線の動きは掴みづらい。きっと気のせいだろうと弥堂は無言で待機した。
骨折のギプスを自慢する小学生ではないのだ。その手のアピールであるはずがない。
そうすると、気持ち落ち込んだようにも見えなくもない彼はノソノソと弥堂が渡したレポートを広げ、ザっと確認をした。
上から下へ流し見て、「はて?」と首を傾げてから二度見して、「そんなバカな」とギョッとしたようにレポートと弥堂とを交互に見比べて絶句した彼はどこかドン引きしていたようにも見えたが、彼は顔面に包帯を巻き付けていたのでその表情は読みづらい、だからきっと気のせいだろう。
やがて何かと折り合いをつけたのか、沈痛そうな声音で「これは責任をもって預かる。続きは放課後に」と言い残して彼は部室を出て行ってしまった。
いつもであれば、そこから朝練終了時間まで一人で喋り続ける彼がそのような行動に出ることは珍しい。
よほど自身の作成したレポートが秀逸だったのだろうと弥堂は自らの仕事に一定の満足感を得て部室の戸締りをし、そして教室へと向かい現在に至る。
弥堂の思いつく限りの『魔法少女との向き合い方』はレポートに記して廻夜へ渡した。きっと放課後に彼は弥堂では思いつくことの出来ないような効率のいい『魔法少女の仕留め方』を教授してくれるに違いないと期待を胸に秘める。
そうしていると、パタパタパタっという間抜けな足音が廊下から近づいてきてガラガラガラっと教室の戸が開く。
どうやら魔法少女様のお出ましのようだ。
例によってレールの上を勢いよく滑った戸はいつものように跳ね返って戻ってくる。
しかし今日は少し結末が違った。
戸を開けた者が入室する前に閉まろうとしていた戸は水無瀬さんのお手てによってハシッと摑まえられる。
彼女は首尾よくキャッチできたその戸を一度ジッと見てから「うんうん」と頷き、そして今度はカラカラカラとゆっくりと開ける。
そして教室に入りパタンと丁寧にとを閉めると何事もなかったかのように振り返って大きく手と声をあげる。
「みんなぁ、おはようっ!」
「おはよう、愛苗ちゃんっ」
「愛苗っちはろぉー!」
「おはよう水無瀬さん」
「おはよう!」
「おはよおおおぉっ‼」
「うおおぉぉぉぉっ‼ 水無瀬さああんうおおおおぉぉっ‼‼」
「おはよー! 愛苗」
「おはよう」
「……おはよう。水無瀬さん」
「……おはよう……」
「おはよう、愛苗ちゃん」
「おっ、おはよう、水無瀬さん」
「おはよう」
「うーっす」
「おはよー」
「やぁ、水無瀬くん!」
「けほっ、けほっ……おはよぅ……」
水無瀬の声に応えて挨拶の声が連鎖していく。
しかし――
「…………」
弥堂は違和感を覚える。
だが、すぐに「あぁ、そうか」と納得をする。
いつもよりも挨拶の声が少ないと思ったがそれも当然だ。
今日よりしばらく『紅月ハーレム』という
その中には停学中の
登校してきた
この教室では定番となっている朝の光景だが、水無瀬へ返る声が少ないのはそのためだろう。
しかし、そうだとしても――と、気に掛かることがあったのだが、それとは別の思考が浮かんでしまい、今しがたの気付きが上書きされ頭の奥に押しやられる。
その別の思考とは、主に2点。
『紅月ハーレム』と呼称しているのに何故その主である
もう1点は、希咲のことを思い出したせいで本日実行するようにと彼女と交わした約束を思い出してしまったことだ。
昨夜にedgeでメッセージでの対決を彼女としていたのだが、最終的に彼女に暴言をぶつけてそのまま電源を切り弥堂的には勝ち逃げをしたつもりだった。
しかし今朝起きてスマホの電源を立ち上げてみたら、充電が数%一気に減る程の大量の未着信メッセージがまとめて届き、流石の弥堂もゾッとした。
彼女との約束を反故にしたら、あれを超えるような爆撃をされる恐れがあるので、いくらなんでもそれはキツイなと、弥堂は希咲との約束の優先度を上げることにする。
机の天板に両手をついて上体を残したまま先に腰を上げる。
自然と前傾姿勢になったその一瞬に教室左後方の席が視界に映る。
そこに居るのは二名の女生徒。
教室左最後方の席にその席の主である出席番号最後尾26番の結音が座り、その脇に寝室が立っている。
寝室の席は結音の右隣の男子のさらに隣の席を割り振られているから、現在はそこまで出張ってきている形だ。
この二人はよく連るんでいるようで、黒ギャルの樹里と白ギャルの香奈で白黒ギャルコンビだのジュリカナだのの呼称で通っているようだ。
ガラの悪い男子生徒のグループのいくつかと関係があると弥堂の元にも情報が入っている。
その白黒ギャルは他には目を向けずに談笑している。
「…………」
一瞬だけ白黒ギャルを視て、しかし今の弥堂にはここにはいないメンヘラギャルの方が優先度が高かったのでジュリカナから目線を切り、彼女らの対角線上の教室右前方にある出入口へ歩く。
そうは時間はかからずに、仲の良い者に一頻り手を振ってからいつものようにモタモタと進行ルートを探す水無瀬の前に着いた。
保護者が不在中のクラスのマスコット女子に、クラスの危険人物が徐に近寄ったことで、教室中に俄かに緊張感が伝播していく。
ひそひそと話される警戒感を含んだ生徒たちの声をバックグラウンドに当の水無瀬さんは「あっ!」と弥堂に気付いたことで嬉しげな顔をすると、
「弥堂くん、おはよーっ!」
学園中の嫌われ者にも分け隔てなく元気いっぱいの朝の挨拶をした。
その挨拶の声を境に教室中の声がピタリと止む。
多くの者が警戒し緊張しながら二人の様子を見守る。
二人に近い位置に座る不良の鮫島くんが腰を僅かに椅子から浮かせた。もしも何かが起こりそうなら弥堂を止めるために飛び出していくつもりのようだ。
何やら教室の空気が変わったことを感じとった水無瀬が不思議そうに首を傾げる姿を弥堂は眼に写しながら、心中では別の女の姿を映す。
『なぁに? あんたそんなカンタンなこともできないわけ? クスクス、なっさけなぁーい』
やけに高飛車な仕草で口元に手を添え嘲笑う希咲 七海の姿を幻視する。
実際には彼女はそんなことを言っていない。近しいことは言っていたが事実ではない。
これは記憶に記録された彼女の映像ではなく、弥堂の印象から生み出された幻像だ。
なので、ただの思い込みなのだが、人は往々にして自身の感情や印象を起因として相手の人物像や真意を勝手に作り出してしまうものだ。それを被害妄想と呼ぶこともある。
しかし、これは自分が悪いのではなく、『世界』が人間をそうデザインしている以上そう思ってしまうことは仕方がないので、つまりそうデザインされている人間にそう思わせてしまうような、弥堂にそのような印象を与えてしまうような希咲の言動が悪いのだ。
弥堂はそのような言い訳を思いつき、そういうことにした。
希咲への反骨心を胸に滾らせ、水無瀬に向きあう。
「おはよう、水無瀬」
教室が俄かに騒めく。
普段目の前で挨拶されても頑なに無視をしている男が、今日に限ってわざわざ席を立って教室の入り口まで出向き自発的に挨拶を行うなど、一体どういった風の吹き回しだと、多くの生徒が疑心暗鬼になる。
「うん、おはよーっ。えへへ、ありがとう」
水無瀬さんだけは何も疑問を抱かず嬉しそうに再び挨拶を返し、何故か礼まで言う。
弥堂はそんな彼女の唇を視て、続けて胸をよく視る。
数名の女子から軽蔑の眼差しが飛んだ。
水無瀬の呼吸に乱れは視られず、胸の動きからも息切れをしている様子はない。
今日も走ってきたように思えたが、体力的な疲弊はないようだ。
少し当てが外れたなと思いつつ、しかしそれでもやることは変わらない。
「あ、弥堂くんもしかしておトイレ? ごめんね、塞いじゃって……」
「いや、気にしないでいい。ションベンじゃない」
慌てて道を譲ろうとする彼女に断りを入れて弥堂は無造作に近づく。
「今日も学校に来れて偉いな。さぁ、荷物をこちらに」
「へ?」
何を言われたのか理解が追い付いてない彼女が呆けている隙に彼女の手からスクールバッグをやんわりと抜き取る。
誰もがポカーンとする中ですぐに次の行動に移る。
彼女から取り上げたバッグの持ち手を腕に通すと、そのまま一息に水無瀬を横抱きにして抱え上げた。
『えぇぇぇぇぇーーーーっ⁉』
2年B組の生徒さん達はびっくり仰天する。
こうしてみんなの今週の学園生活は、開幕お姫様抱っこという凶行によってスタートを切った。
生徒たちは互いに目配せをする。
頭のおかしい男子が水無瀬さんに何か乱暴なことをしたり、酷いことを言ったりするのではと、そういったことを危惧して警戒をしていたのだが、思っていたものとは大分違った方向性の弥堂の蛮行に、誰もが戸惑いリアクションに困っていた。
当の本人はというと――
月曜の朝に登校してくるなり、隣の席の男子に脈絡もなくお姫様抱っこをされた水無瀬さんは特に大騒ぎするようなこともなく、ぱちぱちと瞬きをして自分を抱き上げる男の顔を不思議そうに見る。
コテンと首を傾ける。
「弥堂くん、私重いよ?」
「そんなことはない。この程度の重量、俺の腕力ならば問題はない」
決して軽いとは言わず、あくまで自身の腕力が上回っているということを主張する弥堂にいくつかの軽蔑の視線が飛んだ。
「わぁ、すごい。やっぱり力もちなんだねっ」
「キミよりはな」
何も特別な出来事などではないといった風に二人が普通に会話をしているため、他の生徒さんたちは尚更どう反応すればいいのかを迷う。
そんな中、水無瀬さんは突如ハッとして、恐る恐る弥堂の顏に手を伸ばし最初にチョンっと遠慮がちに触れ、それからペタペタと頬を触る。
「……なんだ?」
「あ、あのねっ――」
若干慌てたように何かを言い募ろうとするがまたもハッとすると、キョロキョロと周囲に目を配る。
そしてグッと身を縮めて弥堂の頭を抱え込むようにし、彼の耳元に口を寄せた。
「……あのね? 昨日のケガ、だいじょうぶ……?」
「…………問題ない」
耳輪を擽りながらコショコショと外耳道を潜ってくる囁き声にピクっと一度耳朶を震わせ弥堂は答える。
「……でも、いっぱい血でてたのに」
「治った」
「え?」
「治ったんだ」
「そうなんだー。よかった」
ごく近距離でニッコリと笑う少女の顔を見て、ゴリ押しでどうにでもなる分こいつの方が楽だなと弥堂は考えた。
「まぁいい。それより席に行くぞ。ちゃんと摑まってろ」
「え……? うん、ありがとうっ」
首にギュッと水無瀬が抱き着いてきたのを確認して弥堂は歩き出す。
しかし数歩進んだところですぐに立ち止まった。
目の前の障害物をジロリと見下ろす。
視線の先にいるのは中途半端な姿勢で立つ鮫島くんだ。
弥堂を止めるべきかと飛び出しかけたが、水無瀬さんのリアクションがあまりにも何でもなさそうだったので勢いを失いこのような体勢になっている。
「どけ。邪魔だ」
「……あ、あぁ……、悪ぃ……」
そしてこの時に至ってもどうしていいものか判断できていなかったので、言われるがままに横に避け弥堂に道を譲る。
弥堂は当然のことのように進んでいく。
言葉と思考を失った生徒さんたちはただ彼らを目線で追うことしかできない。
教壇を通った弥堂が自身の目の前を過ぎると、再起動がかかったように早乙女 ののかがハッとする。
「――こ、こうしちゃいられないよっ……!」
彼女は慌てて自身のスクールバッグを机に出し中身を乱暴にあさる。
そして取り出した物を弥堂の方へ向けた。
その手にあるのはスマホだ。
「ちょ、ちょっと、ののか! アンタなにしてんの⁉」
「撮影だよ! こんなの撮るしかないよ!」
「撮影って……、撮ってどうすんのよ?」
「もちろん七海ちゃんに送るんだよ!」
「はぁっ⁉」
「こんなの面白すぎるよ! 絶対面白いことになるよ……っ!」
「やめときなって! アンタも一緒に七海に怒られるわよ!」
一般的な観点から日下部 真帆は友人を諭そうとしたが興奮しきった様子の彼女は止まらない。
ベストアングルを維持すべく席を立って弥堂を追う。
一方、邪魔だとどかされた鮫島くんは『こんなはずじゃなかった』と首を傾げながら席に戻る。
すると自席の二つ後ろの席の小鳥遊くんが爪を噛みながら弥堂へ怨嗟の視線を送っていた。
「あぁ……、愛苗……っ、ちくしょう……っ!」
ぶつぶつと呟く彼へ怪訝な目を向けながら椅子に座る。
するとすぐ後ろの席の須藤くんが話しかけてきた。
「よぅ。よくキレなかったな」
「ん……? あぁ、まぁ……な……、つか、わかってんだろ?」
「ん? あぁ、もちろん」
「白」
「白だ」
「流石だ」
「あぁ、彼女はわかってる」
「裏切らねえよな」
「人格があらわれてる」
「例えばよ、希咲のとか見たら多分オレ勃起すんだけどよ……」
「オレもだ。でも、なんつーか……、違うよな」
「あぁ、違う。そーいうんじゃあねえ」
「いやらしさとかじゃねえんだよな」
「隠そうともしないっつーか、気付いてもいないのが、な?」
「あぁ。開放的なんじゃなくって無頓着さが、な?」
「純粋」
「無垢」
「清いな」
「あぁ、清い」
早乙女を止めそこなった日下部が隣の席から、自宅近くに放置された犬の糞を見る時の目で見ていることに気付かず、男たちは分かり合う。
そこにもう一名参入する。
「お、お前ら……っ! 見たのか……っ⁉ 愛苗のを……っ!」
「あん?」
「あぁ?」
弥堂に憎しみの波動を滾らせていた雰囲気イケメンの小鳥遊くんだ。
「ふざけんなよ……! 見てんじゃねえよ……っ!」
「うわ、うぜぇ」
「……小鳥遊、お前もしかしてガチ、なのか……?」
須藤くんが探るように見ると小鳥遊くんはマジの目を返した。
「そうだよ! だから俺以外の男が見てんじゃねえよ……っ!」
「うわ、きめぇ」
「……お前……、あれだけ希咲にこっ酷くフラれてよくその友達にイケるな……?」
「なんだよその目は⁉ 悪いのかよ……っ⁉」
「いや、悪くはねえけど……、なぁ?」
「そうは言ってねえんだけど……、なぁ?」
完全にガチであることが発覚した友人のことを慮り、須藤くんと鮫島くんはアイコンタクトをとりながら沈痛そうな顏で言葉を選ぶ。
「……お前、また希咲にトラウマ増やされるぞ……?」
「……そのメンタルはすげぇと思うけどよ……?」
「うるさあぁぁーーーいっ! ちくしょうっ! 弥堂の野郎っ! 希咲がいなくなった途端に……、卑怯者め……っ!」
希咲が不在になった途端に下心を隠さなくなった男は怒りに燃えていた。
気まずくなった須藤くんは話題を変えようと試みる。
「そ、そういや鮫島よ。おめぇよく止めに入ろうとしたな? 見直したぜ」
「あん……? あぁ。ちょっとポイント稼ごうと思ってよ?」
「ポイント?」
鮫島くんへ怪訝な目を向ける。
「おぉ。希咲がいねえ間に水無瀬さんを守ってやったらよ、ポイント上がるだろ? あいつが帰ってきたらさ、ワンチャンイケっかなって」
「……お前、先週希咲に公開処刑されてヘコまされたのにまだワンチャンあるって思ってんのか……。すげぇメンタルだな。アスリートかよ……」
「あん? あぁ、よくわかんねえけど、まぁな!」
須藤くんが前後の席の友人たちとの心の距離に孤独を感じている内に、水無瀬を輸送する弥堂は席に辿り着いていた。
足で適当に机をずらして水無瀬を椅子に座らせてやると、彼女のバッグを机に置きながらこれまた適当に隣の自分の席を足で引き摺ってきてガンっと粗雑に机同士をくっつける。
そのあまりに教養の感じられない荒くれぶりに周囲の者は口を開けて見ていることしか出来ない。
水無瀬さんもぽへーっと見ているが、彼女は特に何も考えていない。
「さぁ、バッグの中身を仕舞うんだ。ボーっとしているとHRが始まるぞ」
「あ、うん。そうだねっ」
隣にドカッと座った男に指示され、水無瀬はバッグの中から教材などを一つずつ取り出していく。
ルンルンしながら丁寧に机の上に教科書を並べて、それらをジッと見てから一つずつ机の中に仕舞い始める。
その間に次の行動の準備をと、弥堂はバッグからコンビニの買い物袋を取り出し自分の机に置き、水無瀬の作業が終わるまで様子を見守ろうとする。
しかし、モタモタとした水無瀬の動作に秒でイラっとして彼女の机へ手を伸ばした。
「一限目に使うものを上にしてそこから順番に下に積んで机に入れろ。使い終わったものはバッグに仕舞え。その方が効率がいいだろ」
「あ、たしかにっ。弥堂くん頭いいねっ」
「動作の一つ一つを切り取って最適化しろ。そうすれば効率よく流れが出来る。0.1秒でも多く自分が支配できる時間をつくれ。そうすれば――」
弥堂が以前に自分が師にクドクドと言われたことを偉そうに女子高生に語って聞かせていると、ふと目の前にスマホのカメラを向けてくる女子がいることに気が付く。
「……なにをしている?」
「…………」
胡乱な瞳で問いかけるが返事がない。
「……おい。早乙女」
「お気になさらず! ののかはカメラマンなので空気だと思ってくださいっ!」
「……カメラマンだと?」
スッと弥堂の眼が細められる。
「撮影しているのか?」
「バッチリ! まかせてっ!」
「バ、バカッ! ののかっ!」
どんな形であれ、自分が何かに記録されることに生理的な嫌悪感を抱く弥堂が不快感を露わにすると、日下部さんが止めに入る。
「ご、ごめんね、弥堂くん……、あ、あははは……」
「真帆ちゃん、ののかちゃん、おはよぉーっ」
「お? おはよ、愛苗っち!」
「おはよ、愛苗ちゃん」
水無瀬さんの元気いっぱいなごあいさつによって有耶無耶になりそうな雰囲気になりかけ、愛想笑いを浮かべる日下部さんは内心安堵するが、弥堂はジッとカメラを見ていた。
そのため、愛想の欠片もない無表情男が光沢のない眼で無言でカメラ目線をしてくる地獄のような映像が、現在進行形で早乙女のスマホのデータ容量を食い潰していた。
「はて?」と水無瀬がコテンと首を倒す。
「どしたー? 愛苗っち。こういう撮影は初めて? もしかして緊張してるのかなー?」
「ののかキモイ」
「え? ううん。緊張はしてないんだけど、今日は愛苗っちの気分なのかなーって……」
「お?」
「これからは“まなぴー”だって先週ののかちゃん言ってたから」
「おお? そだっけ……?」
「えっと……、そういえば言ってたような……?」
早乙女と日下部は顔を見合わせる。
二人ともに認識が曖昧なようだ。
「……まなぴーの方がカワイイな。まなぴーはどっちの方がいい?」
「もうまなぴーって呼んでるじゃん」
「えっとね……、私もまなぴーがいい!」
「おー? よぉーし、そしたら、ののかのことは“ののぴー”と呼べー? マホマホは“まほぴー”な? 3人の“ぴー”でユニット組むぞー。ユニット名はもちろん……わかってるな?」
「やめなさいよ! 愛苗ちゃん? ののかの言うことは聞きすぎちゃダメだよ? 帰ってきたら七海に怒られちゃうからね?」
「え? うん……、ユニットしないんだ……」
「そ、そんな残念そうにしないでっ……! ユニットしたかったの……? つか、ユニット組んで私たち何するの……っ⁉」
シュンとする愛苗ちゃんを日下部さんが困惑しつつ慰める。
そんな様子すら満足気に撮影する早乙女に弥堂は声をかける。
「撮影をしてどうするつもりだ?」
「もちろんビデオレターを送ります!」
「ビデオレター……? 誰に?」
「そんなの七海ちゃんに決まってるんだよ!」
「希咲だと……?」
「アンタまだそんなこと言ってんの⁉ やめなさいって……っ!」
日下部さんに叱られながらもビシッと敬礼をして早乙女は堂々とカメラを構える。
「び、弥堂君ごめんね。やめさせるから……」
「日下部さん……、いや、待て」
「え?」
こちらの顔色を窺いながら早乙女のスマホを奪おうとする日下部さんを弥堂は制止した。
顎に指で触れ、ふむ、と考える。
その時間は数秒ほどで、再び日下部さんに視線を戻す。
「……構わない」
「へ?」「え?」
目を丸くするクラスメイトの女子二名に弥堂は鋭い眼を向けた。
「構わない、と言った。撮影を続けろ」
「おぉっ⁉ 弥堂くん実はノリいい!」
「えぇ……」
まさかの撮影許可が下りて早乙女はテンションが上がり、日下部さんは理解不能だと顔を顰めた。
やると決めたらやる男である弥堂はすぐに行動に出る。
隣の座席に両手を伸ばし、その手を水無瀬の両腋に入れると簡単に彼女を持ち上げ自分の膝の上に乗せる。
「さぁ、撮れ」
「うおぉぉぉーーっ!」
「えぇ……」
クラスメイトの女子を膝に乗せて男らしく命令をする男に早乙女は盛り上がり、日下部さんはドン引きだ。
「そういえば弥堂くん?」
「なんだ」
このような扱いを受けても特別騒ぎもしない水無瀬さんが不思議そうに首を傾げる。
「なんで今日は抱っこしてくれるの?」
「今更……? てゆうか愛苗ちゃんなんで無抵抗なの……?」
「ふふっ、そんなところも可愛いわ」
日下部さんの疑問に答えにならない答えをしたのは、スッと背後に現れた舞鶴 小夜子だ。
弥堂が水無瀬を膝に乗せたあたりで、水無瀬の前の座席に座る彼女は席を立ち野崎さんの手を引いて彼女を連れてきた。
どうやら撮影会に参加するつもりのようだ。
「……小夜子的にこれはオッケーなの?」
「ん?」
日下部さんは慎重に舞鶴の顔色を窺う。
どうやら愛苗ちゃんガチ勢である舞鶴が弥堂の蛮行に怒り狂うのではないかと懸念したのだ。
「そうね。とてもいいと思うわ」
「そ、そうなんだ……、どういう基準で怒るのかわからないよ……」
「解釈違いは許さない。ただ、それだけよ」
「その解釈がわからないんだけど……」
「心で解釈しなさい。今回のこれは彼に性的な欲望が感じられないからアリよ」
「…………野崎さぁん……」
常識人である日下部さんにはおよそ理解の出来ない話だったので、同じく常識さに定評のある学級委員の野崎 楓に助けを求めた。共感が欲しかったのだ。
だが、
「……え? あぁ……、うん……」
「野崎さん……?」
野崎さんの反応は何故か芳しくない。
意見の相違というよりは単純に反応が鈍い。
どうしたことかと彼女の顔を覗くと、いつもしゃっきりとしている野崎さんの目の下には露骨な隈があった。
「すんごい寝不足らしいのよ、楓」
「そうなんだ。珍しいね」
「……あぁ、うん……。ごめんね……? もう少しで目醒めると思う……」
「大丈夫? 本当にしんどそうだけど……」
「……だいじょうぶ……、ちょっと休みの間ドカタ仕事が立て込んでて……」
「ドカタっ⁉ 野崎さんが⁉」
「ITドカタってやつね。なにか作ってたみたいよ」
頼みの綱からも理解しづらい返答が返ってきて日下部さんは絶望する。
野崎さんがこんな状態では、このカオスな状況で一般的な見解を述べることが出来る者が自分一人であることに気付き、その責任の重さに戦慄したのだ。
そして同時に確信めいた予感をする。
きっとこの程度では終わらない、と。
(七海……、早く帰ってきて……っ!)
希咲 七海不在の学園生活が開始され、初日の朝のHRが始まるよりも早く日下部 真帆の心は折れた。
気が付いたら女が集まってきて目の前で群れ始め、弥堂は眉を歪める。
女が増えれば増えるほどに喧しくなるという物理法則についての見識があったので不愉快に思っていると、ふと自身の顏に向けられる視線を感じとった。
お膝の上に乗せた水無瀬さんがじーっと見つめてきている。
弥堂もとりあえずジッと彼女の顔を見返して、すぐに「あぁ、そういうことか」と察しがついた。
そういえば先程の『何故抱っこするのか』という彼女からの質問に答えていなかった。
了解の意をこめて彼女の目を視ながらコクリと一度頷いてやると、彼女も弥堂の眼を見ながら「うんうん」と頷いた。
このアイコンタクトは恐らく成立していないと判断した弥堂は一応確認することにした。
「何故こうするのか、という質問だったな?」
「え……? あっ、うん! そうだった!」
「…………」
やはり通じていなかった。彼女は一体何にあれほど力強く頷いたのだろうか。
「……まぁいい。何故かと訊かれれば、それは仕事だからだ」
「おしごと……?」
「JKを膝にのせる仕事ってなに……?」
「しっ! マホマホ静かにっ! それはきっとこれから演者さんによって語られるんだよ!」
「水無瀬 愛苗。俺は今日一日貴様を甘やかすよう、とある人物より依頼を受けている」
「えっ? えぇ……っ⁉ そうなの? い、いったい誰が……っ⁉」
「多分一人しかいないと思うけど……」
「しっ! 野暮なことはナシよ、真帆。そんなニブニブなところもカワイイわ。このまま様子を見ましょう」
「悪いが依頼人のことは話せない。契約時に特別口止めはされていないが、守秘義務というものがある。俺はプロフェッショナルだからな」
「そ、そうなんだ。大変なんだね」
「甘やかしてたんだこれ……。JKを甘やかすプロ……。どうしよう、すごくいかがわしく聞こえる……」
「そのへんは男優さんにインタビューしてみるしかないねっ! おーい、弥堂くぅーん!」
カメラマンに呼びかけられ男優はその無機質な眼をカメラへ向ける。
「なんだ」
「依頼人について話せないのはわかりました。ですが! もしかして高校生の教室に相応しくないイカガワシイことをしようとしているのではと疑惑がかかってます」
「なんだと?」
「周囲のご理解のため、依頼内容について詳しくお願いします!」
あらぬ誤解を解くために弥堂は早乙女の持つスマホカメラレンズへ鋭い眼差しを向ける。
「いかがわしいだと? そのような事実はない」
「と言いますと?」
「そのような事実はないからだ」
「……なるほど! では依頼内容についてお願いします! 何のためにまなぴーを甘やかすのですか?」
「知らん」
「はぇ?」
素っ頓狂な声を出す早乙女に対して、弥堂は何一つとしておかしなことはないと言わんばかり堂々とした態度を崩さない。
「理由や目的など知らんし、どうでもいい。『これをやれ』と依頼され、俺はそれを受けた。ならばそれを実行するだけだ。その結果何が起ころうと知ったことではない」
「なるほど! なに言ってんのか全然わかんないけど、なるほどだよっ!」
「なにがわからない? 簡単な話だろ」
「だいじょうぶっ! 弥堂くんが実はだいぶ面白い人だってのがわかって、ののかテンション上がってるからだいじょうぶだよっ!」
スマホ越しにバチコンっとウィンクをかましてくる早乙女を視て、弥堂は現代の学生の読解力の無さを嘆き軽蔑した。
そしてその早乙女の隣に立つ日下部さんはもじもじとする。
現在教室中の視線がこちらに集まっている。当然だが。
とっても常識的な女生徒である日下部さんは、このように悪目立ちすることには慣れておらず、ひどく居心地悪く感じていた。
「ではでは! 今回の意気込みのほどをお願いします!」
「意気込み?」
「はい!」
「特別意気込みなどない。やると決めたらやる。俺はその為の装置だ。モチベーションなど必要ないし、そんなものに仕事の出来が左右されるのは二流以下だけだ」
「そこをなんとか! カメラの向こうの七海ちゃんに向けて、一言だけでも!」
「希咲だと?」
ふむ、と弥堂は顎に手を遣る。
「……いいだろう」
そういうことであるならと、ネクタイを弄って気持ち居住まいを正し、カメラのレンズへ向かって己の意志を発する。
「お望み通りこいつを甘やかしてやる。徹底的にな……」
「お望み通りって言っちゃった」
「しっ! マホマホ、声が入っちゃうから……っ!」
「お前が呑気にバカンスをしている間にこいつはすっかりと変わり果ててしまうことだろう。お前がアホ面さげて帰って来た頃にはもはや別人だ。だが、これがお前が望んだことの結果だ。その時になって後悔しようと手遅れだ……」
「女の子を甘やかそうって人の台詞じゃない……」
「ちょうど今読んでる小説がこんな感じね。悪魔に騙されて契約しちゃって酷い目にあう人の話よ」
「……弥堂君は真面目だから……」
「委員長の目の焦点が合ってないんだよっ⁉ ……珍しいからこれも撮っとこ……」
野崎さんの方へ向けてグリンっと動いたカメラが戻ってくるのを待って、弥堂は続きを口にする。
「……明日にはこいつはもうお前のことを思い出しもしなくなる。沼に深く沈めるようにして甘やかしてやる。今更止めようとしても無駄だ。もう止まらない。お前が何をしようと俺は必ず水無瀬を甘やかす。そのための手段は問わない」
「はい、ありがとうございましたーっ!」
いい絵が撮れたとホクホクの満足顔で早乙女はペコリと頭を下げる。そして彼女はさらに調子にのった。
「ですが、弥堂くん! こんなものなんですか⁉」
「……なんだと?」
ジロリと眼を向ける。
何ひとつふざけてなどいないそのマジな眼をスマホの画面越しに見た早乙女は、内心で『こいつヤベェな』と思っていたが、このままテンションに身を委ねることにした。
「先程の決意表明では、それはもうズブズブに甘やかすように仰っていましたが、でも今のところまなぴーを膝にのせてるだけだよね? それでズプズプと言えるのでしょうか⁉」
「ふん、早合点をするな。俺の甘やかしはこれで終わりではない」
「では、ズプズプだと?」
「うん? あぁ、ズブズブだ」
「ノノノノノッ。ズプズプ?」
「……あぁ、ズプズプだ」
「イエス! ズプズプッ!」
「お前は俺に何を言わせたいんだ?」
バチッとサムズアップしてくるクラスメイトの女子に弥堂は胡乱な瞳を向けた。
「では、カメラの向こうに見せつけちゃってください! さぁ!」
「……いいだろう」
何故かセクハラを受けたような気がして釈然としなかったが、弥堂は仕事を優先させる。
机の上に出しておいたコンビニのビニール袋から用意してきた物を取り出す。
「これは……っ⁉」
「プリン……?」
なんだかんだノリのいい日下部さんや舞鶴のリアクションを無視してペリペリとプリンを開封する。
そしてレジでもらったプラスティックのスプーンで一掬いし、水無瀬の口元へ慎重に近付ける。
「あむっ」
水無瀬さんは考えるよりも先にパクついた。
何故か見学している女子たちから「おぉ~っ」と歓声と拍手があがる。
あむあむゴクンとプリンを飲み込んでようやく水無瀬さんは首を傾げた。
「なんでプリンくれたの?」
「先に聞こうよ……、愛苗ちゃん……」
若干疲労を滲ませたツッコミが日下部さんから入るが、弥堂は淀みのない動作でさらにプリンを掬って水無瀬に与える。
「あぁ……、カワイイ……。私もやりたいわ……」
「び、弥堂くん……っ⁉ これはもしかして、甘やかしているのですか⁉」
「そうだ。すごい甘やかしている」
「ププッ……っ! プリンって……!」
「……甘やかそうと思ってプリン買ってくるって……、意外と可愛い発想するんだ……」
ヒソヒソと話しながら笑いを堪える早乙女と日下部さんへジロリと視線を向ける。
「脳の働きを効率化して頭の回転を早くするのには糖分が必要だという」
「はぁ……」
「だからこいつには糖分を与えるべきだ」
「……それは暗に愛苗ちゃんの頭の回転が遅いって言ってるのでは?」
「それはキミの受け取り方次第だ」
日下部さんと話しながらも、弥堂はその間も絶えず水無瀬に餌を与え続けている。
そこへフラフラと近づいてくる者があった。
「あぁ……、私も……、どうか、私にも……っ!」
愛苗ちゃんガチ勢の舞鶴さんだ。
熱に浮かされたように手を伸ばしてくる彼女の方へ、弥堂も手を伸ばし掌を上へ向けた。
「100円だ」
「えっ……?」
「1口100円だ」
「な、なんですって……っ⁉」
有料サービスであることを告げると舞鶴さんは激情に身を震わせた。
「バカにしないでちょうだい……っ!」
彼女はバッと身を翻すと自席へ戻っていってしまう。
「さ、小夜子……? 怒ったの?」
日下部さんが案じて声をかけるが彼女は振り向きもせずガサガサと机をあさる。
そして勢いよく振り返りズカズカと歩いて戻ってきた。
「これでお願いしますっ!」
バンっと弥堂の手に叩きつけたのは千円札だ。
弥堂はそれをジッと視て、
「いいだろう」
鷹揚な仕草で舞鶴さんにプリンとスプーンを貸し与えた。
「ふふふ……、じゃあ続きはお姉ちゃんが食べさせてあげるわね……」
「わぁ、ありがとうっ! 小夜子ちゃんっ!」
「お姉ちゃんって……! お姉ちゃんって呼んで……っ!」
「おねえちゃん……?」
「あぁ……っ! ありがとうございます……っ!」
涙ながらにプリンがのったスプーンを差し出すその姿に日下部さんはドン引きだ。
「の、野崎さん……っ。これそろそろ止めないと収拾が……っ!」
「……弥堂君は真面目だから……」
普段は頼れる学級委員の野崎さんはまだお目覚めではないようだった。
ややすると悲愴な声があがる。
「あぁ……っ⁉ そんな……っ!」
プリンが空になってしまった為に舞鶴さんからあがった絶望の声だ。
「ごちそうさまでした」
「うぅ……、お粗末さまでした……」
「小夜子が用意した物じゃないでしょ……」
「えぇーっ! もうおわりぃーっ⁉」
撮れ高にまだ満足していないカメラマンからも不満の声が出る。
その要望に応えるべく――ではないが、弥堂は袋からもう一つプリンを取り出しペリペリっと蓋を開けた。
「も、もう一個⁉」
朝登校してくるなり多量のカロリーを摂取させられている愛苗ちゃんがびっくり仰天して、チャームポイントのおさげがみょーんっと跳ね上がった。
「あ、あのね弥堂くん? 私もうお腹いっぱいだし……、それにこんなにいっぱい貰うのは悪いよっ!」
「なに、遠慮するな。キミはもっと糖分を摂った方がいい」
「やっぱり愛苗ちゃんのことバカにしてるよね?」
「で、でもでもっ。教室でお菓子食べるのはよくないし……」
「問題ない。風紀委員の俺がやっているから特別に許されるんだ」
「それは問題なのでは?」
水無瀬さんは消極的だが、段々弥堂に慣れてきたのか日下部さんのツッコミが代わりに遠慮が無くなってきた。
「あっ、そうだ。貸してー?」
何かを思いついて両手を差し出す水無瀬にプリンをとられる。
「今度は私が食べさせてあげるね? あーん……」
そうは言いつつ、弥堂の口がきちんと開くよりも先にスプーンを唇の隙間に挿しこんだ。
「…………甘い」
むぐむぐと咀嚼して弥堂は露骨に顔を顰める。
「そりゃプリンだし……」
「おぉぉぉぉっ⁉ 撮れてる! いい絵が撮れてるよ!」
「弥堂くん、甘いのキライ?」
「好きではないな」
「代わって……っ! それなら代わってぇ……っ!」
「……弥堂君は真面目だから……」
場の混沌は加速していき、日下部さんの懸念通り収拾が難しくなってきた。
「よぉーーーしっ! 盛り上がってきたよぉーーっ! まなぴーっ!」
昂りを抑えきれない様子の早乙女は、弥堂にプリンを奪われ再び餌付けされている水無瀬に声をかける。
「なぁに? ののかちゃん……、あむっ」
お口をむぐむぐしながら水無瀬さんはお返事をする。
「ぴーすをっ! ぴーすをお願いします! カメラにむかって!」
「え? ぴーす……?」
首を傾げながらも素直なよい子である愛苗ちゃんは言われたとおりにピースを向ける。
「両手でっ! 両手でおねがいしますっ!」
「両手……? こう……?」
「そうっ! いいっ! いいよぉ~っ! ぴぃ~す、ぴぃ~っすって!」
「……? ぴぃ~す、ぴぃ~っすっ」
「ひゅぅ~っ!」
神対応のファンサをしてくれる水無瀬さんに早乙女のテンションは鰻登りだ。
しかし、一気に絵面の犯罪性が増し教室内に騒めきの声が連鎖していく。
「はぁ~い、まなぴぃ~っ。まなぴぃは今ぁ~、なにをぉ、してるのかなぁ~?」
「え? えっとね、私、今ね、弥堂くんに抱っこされてるのっ」
「ちがうっ! 語尾を伸ばして! いちいち伸ばして! もっとIQをさげてっ! あと一人称は『まな』ね? まなはぁ~……って感じで、最後は『まぁ~っす』って。さんはいっ」
「えっ……? えっ? えっと……、ま、まなはぁ~、いまぁ~? びとうくんにぃ、だっこされて、まぁ~っす……?」
「おぉっ! いいっ! よくなったよ! もっと! もっとバカっぽく! 自分を捨てて魂を開放しよう!」
演出からの演技指導に適格に演者が応えることによって現場の空気はあったまっていく。ただしそれとは逆に日下部さんの顔色はサァーっと青褪めていった。
「……あぁ……っ! おしいっ! 筋はいい! 筋はいいんだよ! でももうちょっと……、えぇい、まだるっこしぃ! 委員長っ、カメラおねがいっ!」
もう少しで思ったようなクオリティの作品になるのにと、やきもきした早乙女は寝ぼけ眼でぼーっと立つ野崎さんにカメラを任せて自ら現場入りし出演をすることに決めた。
手近な机で紙にバババっと勢いよく文章を書き込みカンペを作成する。それを水無瀬の机の上に広げた。
機敏に主演の二人に近寄るとそれぞれに耳打ちをして個別に演技指導をする。何事かを囁かれた水無瀬さんのお目めはグルグルと回り、弥堂は白目を剥いた。
そして早乙女はキビキビとした動作で主演女優の髪型を整えつつも適度に乱れさせ、唇の端に横髪を一筋咥えさせる。
さらに主演男優のネクタイを緩めYシャツのボタンを上から4つほど外して胸元を大胆に開けさせ、イイ感じにチャラくスタイリングする。
それからカメラマンに目配せをすると、野崎さんは何故かコクリと頷いた。
続いて早乙女が日下部さんに目を向けると彼女はビクっと肩を跳ねさせる。
「ほら、なにしてるのマホマホっ! 早くこっち来て! ののかの逆サイドに立って!」
「い、いやよっ! なんで私が……っ!」
「なにノリ悪いこと言ってんの! マホマホがちゃんとやらないと終わらないよ? ほら、みんな待ってるから」
「えっ? いや、なに言って……」
「はやくっ! 先生来ちゃうよ! このままじゃマホマホのせいでみんな怒られちゃうよっ!」
「え……? えぇ……?」
意味不明な同調圧力をかけられ、日下部さんは不満げに首を傾げながらも弥堂の隣に立つ。
一般的なJKである彼女は『みんなが』と言われると逆らえなくなるのだ。
「よぉっし、それじゃさっきのとこから撮り直すよー? マホマホは適当にまなぴーの肩でも抱きながらドヤ顔しててー」
「う、うん……、うん? ねぇ、これやっぱりおかしく――」
渋々指示に従いながらも日下部さんがまだ何かを言っていたが、早乙女は無視して自分も水無瀬の肩に肘をのせ、カメラに向かってドヤ顔をキメる。
「いぇ~いっ! 七海ちゃぁ~ん、みってるぅ~~っ⁉」
画面の向こうの希咲さんへ向かってやけに鼻につく口調とテンションで呼びかけると、早乙女はジッと弥堂を見る。
「…………うぇ~い……」
白目のまま弥堂が指示通りの台詞を熟すと早乙女は満足げに頷く。
本当はテンションと棒読み具合に不満があったが、これ以上グイグイいくと自分がリアルにダブルピースさせられそうだったので、彼女は忖度をした。
なので彼女は何をしても許してくれそうな方へ続きを振る。
「ねぇねぇ、まなぴぃーっ? まなぴぃーはぁ、いまぁ、なにをしてるのかなぁ~~っ⁉」
「え、えっとぉ~……、まなはぁ~、いまぁ~、びとぉくんにぃ~、だっこされちゃってまぁ~っす」
お目めをグルグルさせながらも、よい子の愛苗ちゃんはだぶるぴーすをキメてお友達のお願いをきいた。
「わぁ~っ! ホントだぁーっ! ズップシだっこされちゃってるねぇ~? でもぉ~、まなぴぃホントにそれだけぇ~?」
「え、えっとぉ~、あのね? ななみちゃん……、ごめんね……? ほんとはぁ~抱っこだけじゃなくってぇ……、さっきぃ、びとぉくんにぃ~、プリンを~、『あーん』されちゃいましたぁ~」
「えぇーっ⁉ プリンを……っ⁉ いいのぉ~? まなぴぃ~? それって浮気になっちゃわなぁい?」
「え、えっとぉ……、ほんとはダメだけどぉ~、ダメなんだけどぉ……、でもぉ、プリンが甘くてぇ~、おいしいからぁ~……、まなぁ、がまんできなかったのぉ……」
「そうだったんだぁ~! でもぉ、しかたないよねぇ?」
「う、うん……、だってぇ、ななみちゃんがぁ、まなのこと置いてぇ、他の女の子とバカンスに行っちゃうからぁ~……これはしかたないのぉ……」
「うわー、ひどい彼氏だねぇ~?」
「そ、そうなのぉ……、ななみちゃんが悪いんだからね……? ななみちゃんがまなのこと寂しくさせるから…………、あのね、ののかちゃん? ななみちゃんは悪くないと思うの」
「しっ! まなぴぃ、カメラ回ってるから! 今は演技に集中してっ!」
途中で素に戻った水無瀬さんが至極当然のことを主張したが、演出家兼ディレクターに叱られて「ご、ごめんなさいっ」と謝ることになった。
「ちょ、ちょっとののか! アンタ悪ノリしすぎよ!」
「シャラップだよ! マホマホ! 撮影中はお静かにっ」
そろそろ本気でまずいと判断した日下部さんが早乙女を注意をするが聞く耳を持ってもらえなかった。
動画に映ることを恥ずかしがってか、日下部さんの目元を手で隠しながらもじもじする仕草のせいで、よりイカガワシさが増しているのだが本人に自覚はない。
「もうっ! ……ねぇ弥堂君? いいの? 好き放題させて。七海が帰ってきたら大変なことに……」
「……うぇ~い……」
「弥堂君っ⁉」
恐る恐る弥堂に進言をしたが、本人はこの状況を乗り切るために著しく自身の知能を低下させていたので、白目の陰気なパリピに成り下がっていた。
その間も撮影は進行している。
「ねぇねぇ、七海ちゃ~ん? いまぁどんな気持ちぃ~? ショックぅ~? もしかしたら七海ちゃんがぁ、まだ信じてないかもしれないからぁ~、これからぁ、『いいもの』を~、見せてあげるねぇ~?」
「や、やだぁ~……」
「まなぴぃ、まなぴぃ~? まなぴぃはこれからぁ、なにをされちゃうのかなぁ~?」
「え、えっとぉ~、まなはぁ、これからぁ~……、カメラの前でぇ、もう一回びとぉくんにぃ~『あーん』されちゃいまぁ~っす」
「えぇっ⁉ なにを⁉ なにを『あーん』されちゃうのぉ~⁉」
「あ、あの、プリンを……」
「えーっ! プリンをっ⁉ でもでもまなぴぃっ? これ、生だよぉ? 白くてぷるぷるの生プリンだけどぉいいのぉ~?」
「だ、だってぇ~、あまくてぇ、ぷるぷるしててぇ、生プリンおいしいんだもぉん……」
「そっかぁ~、じゃあ仕方ないよねぇ? ククク……、七海ちゃんはそこで一部始終をよく見て自分の無力さを噛み締めるといいよぉ~っ! ほらまなぴぃ、言ってやって!」
「え、えっとぉ……、ななみちゃぁん、よぉく……見ててね……? 今からぁ、まながぁ、浮気生ぷりんでぇ、浮気生あーんされてぇ、美味しくなっちゃうとこぉ~……」
「さぁ、男優さん! お願いしますっ!」
「……うぇ~い……」
台詞が一つしかない主演男優は演出兼ディレクター兼監督の指示に従い、プリンをスプーンで掬う。
安っぽい透明なスプーンの上にのせられた、生クリームと練乳たっぷりの白くてぷるぷるな生プリンが水無瀬の唇の隙間へと近づいていく。
上唇と下唇との間にできた割れ目にそれの先端が押し入ろうと――
「――のぉ~、のぉ~、かぁ~~……っ!」
ちょうど水無瀬がパクっとスプーンを咥えたのと同時に、横合いからニュッと伸びてきた手が早乙女の顔面をガッと鷲掴みにした。
「いたいいたいいたいっ! ツメがぁ……っ!」
「解釈違いは許さないと言ったでしょう……っ! NTRレですって……? 死にたいのか?」
闇堕ちをしたような表情で、学年トップクラスの成績を誇る舞鶴さんはNTRはナシであると、その聡明な頭脳から弾き出された解を意見表明した。
白くてぷるぷるな生プリンをむぐむぐしながら水無瀬は二人をとりなそうとする。
「さ、小夜子ちゃん……っ! ののかちゃんが可哀想だよ? 離してあげてー」
舞鶴はニッコリと水無瀬に微笑みかけると手の力を強めた。
「ぎゃあぁぁぁーーーっ⁉」
「な、なんでぇっ⁉」
びっくり仰天する水無瀬さんの耳にボソっと呟くような声が聴こえた。
「…………おねえちゃん……」
「え?」
声の主は舞鶴だ。その顔を見上げてみても彼女はただ微笑むばかり。
「……お、おねえちゃん……? やめてあげて?」
「ふふふ、わかったわ」
早乙女の顏からパっと手を離した舞鶴はクルっと水無瀬の方を向く。
そして徐に彼女を抱きしめた。
「大丈夫よ、愛苗ちゃん。お姉ちゃんが守ってあげる」
「え、えっと……? ありがとう……?」
「一緒の大学に行きましょうね。新歓コンパだろうと合宿だろうと、お姉ちゃんが必ずテニスサークルから守ってみせるわ……っ!」
「てにす……?」
抱きしめられながら首を傾げる彼女の口はまだモゴモゴしている。お腹いっぱいで中々飲み込めないのだ。
「小夜子って東大志望じゃなかったっけ……?」
「東大……? そんなものもうどうでもいいわ。私は愛苗ちゃんと同じ大学に行くのよ」
「えぇ……」
日下部さんが友人にドン引きしつつも、進路は真面目に考えた方がいいと説得をしようとすると時計塔の鐘が大音量で鳴る。
始業の時間だ。
この鐘がなっている間はうるさ過ぎて会話などまともに出来たものではないので、日下部さんは仕方なく言葉を飲み込み、代わりに溜息を一つ吐いた。
鐘が鳴り終わると同時に教室の戸が開く。
入室してきたのは担任の木ノ下 遥香だ。
HRをするために教室に入ってきた彼女は弥堂の周辺の光景が目に入るとギョッとする。
膝の上には水無瀬が、足元には顔面を押さえて蹲る早乙女が。
週の初っ端のHRから、いきなり自身に大きな試練が課されたことを察した若い担任教師の胃がキリキリと痛んだ。
「び、弥堂君……。その、どういうつもりですか……?」
その問いに弥堂は眉を寄せる。
「質問の意図がわかりかねますね。もっと具体的に訊いてもらえませんか」
「先生もそうしたかったんですが、どう言語化すればいいのかわかりませんでした……っ!」
自分の意見も満足に自分で言葉に出来ない無能な大人を心中で見下し、弥堂は彼女から興味を失い仕事の続きをする。
「ちょ、ちょっと! なにしてるんですか⁉」
何事もなかったかのようにスプーンでプリンを掬い、水無瀬の口元へ持っていく弥堂を咎める。
この美景台学園では基本的に校内での菓子類の飲食は禁止だ。
それを教師である自分の目の前で、さらにHRが開始しているにも関わらず堂々と行われ、酷く屈辱を感じた。
心折れかけの新米担任教師の彼女だが、その程度のプライドはまだ残っていた。
「こいつを甘やかす仕事をしています」
「はっ……? あっ……? えっ……?」
「だから、こいつを甘やかす仕事だ」
「えぇと……、甘やかすとは膝にのせてプリンを食べさせることで、それを仕事としてやっていると……?」
「他にどう聞こえるんだ」
教師である自分に対してかなり失礼な物言いだが、それよりも弥堂の返答が理解不能すぎて木ノ下には気にならなかった。
「……ですが、お菓子は禁止です」
「そうですね。ですが先生。お菓子とは娯楽目的で食する物がお菓子として分類されます」
「え……?」
数秒考えて自分なりに正論を言ったつもりだったが、それにもすかさず答えが返ってくる。
言われた内容は意味不明だったが、彼があまりに自信満々に堂々と話すので木ノ下先生は不安になった。
「これは学業のためのプリンなのでお菓子には分類されません」
「あの……、ごめんなさい弥堂君。先生恥ずかしながら学業のためのプリンというものを初めて聞きました。なんですか、それは……?」
「ふん」
万が一本当に存在している可能性も考慮して木ノ下先生は一応下手に出たが、強気な生徒は露骨に鼻を鳴らし侮蔑の視線を送ってくる。
木ノ下先生の涙腺がゆるんだ。
「糖分には脳の働きをよくする効果があります。それはご存じで?」
「え、えぇ、まぁ……」
「つまり、授業を受ける前に糖分をしっかりと補給しておけば頭の回転が早くなり、勉強が効率化されるというわけです」
「えぇ……?」
「要するに、頭の悪い者は糖分でも摂っておけば多少は頭が回るようになってマシになるんじゃないか、ということですね」
「あの……、それは遠回しに水無瀬さんの頭が悪いって言ってます?」
「それは先生の受け取り方次第ですね」
「言っておきますが、水無瀬さんは別に成績悪くないですからね?」
「そうですか。では引き続き成績を向上させましょう」
ぞんざいに先生との会話を打ち切って弥堂は再び水無瀬の口にスプーンを近づける。
しかし、水無瀬さんはイヤイヤをした。
「どうした?」
「あのね? もうお腹いっぱいなの……」
「そうか」
「というか、今更なんだけど、こんなにいっぱいお菓子もらっちゃって悪いよぅ」
「気にするな。経費で落ちる」
「そうなんだ。でも、ごめんね? お昼にちゃんと残り食べるから……」
「それは不衛生だな……いや、待て――」
水無瀬に答えながら弥堂の目線はヨロヨロと起き上がった早乙女に向けられた。
「――いたた……、でも、うふふふぅ……、これをバッチリ編集して……」
「――おい早乙女。ちょっとこっちに来い」
「え? なに? 弥堂く――むぐぅっ⁉」
野崎さんに預けていたスマホを回収している早乙女に声をかけ、彼女がノコノコと近寄ってきた瞬間顔面をガッと掴む。
そして親指と人差し指で早乙女の頬を挟んで無理矢理口をあけさせ、その口にプリンの容器をガッと捻じ込んだ。
「――いひゃまふぃおっ⁉」
よくわからない奇声をあげる彼女を無視して、シームレスに容器の底に付いているツメを折り、白くてぷるぷるの生プリンを喉奥に直接流し込んだ。
「んーーっ⁉ んぅーーーーっ!」
「駄目だ。全部飲み込め。零すなよ」
ジロリと冷酷な眼を見上げながら、早乙女は「んくっ……んくっ……」と喉を鳴らす。
弥堂が手を離すと彼女は口をあけて空っぽになった咥内を見せてくる。
「けほっ……けほ、うえぇ~、あまぁ~い……」
「なんの真似だ?」
「えっ? 一応礼儀として見せた方がいいかなって?」
「……?」
「はいはい。席に着くよー」
意味が分からないと弥堂は怪訝な顔をするが、日下部さんが早乙女の首根っこを掴んで回収していってしまったので、その真意について詳細に説明されることはなかった。意味はこれからもわからないままである。
「さ、早乙女さんっ! 大丈夫ですかっ⁉」
「あー、だいじょうぶです。この子は糖分入れた方がいいんで。少しはマシになったと思います」
「ちょっとマホマホっ? それはののかがバカだって言われてるように誤解されちゃうよ?」
「誤解じゃないし。直でバカだって言ってるのよ」
「ひどいよ!」
「あ、先生。今日の騒ぎは7割この子のせいです」
「そ、そうですか……」
あまり事態を理解出来ていなかったが、日下部さんのやたらとやさぐれた態度の圧に負け、木ノ下先生はそれ以上の追及ができなかった。
ズルズルと引きずられる早乙女の口の端には、白くてぷるぷるの欠片がこびり付いている。
それを見た何名かの男子生徒が両手を綺麗に両膝の上に揃えつつも、着席しながら不自然に前傾姿勢となった。
ようやく全ての生徒が席に着いた形になるが、木ノ下先生としてはもう一つ問題が残っている。
チラリと弥堂の膝の上にのった水無瀬へ視線を向ける。
正直もう触れたくはないが、教師としてそうもいかないと逡巡していると――
「遥香ちゃん、もういいだろ」
「おぉ、全部ツッコんでたらキリねえよ」
鮫島くんと須藤くんから声をかけられる。
「いちいち付き合ってたら身がもたねえって」
「そうそう。今週始まったばっかだぜ? ボチボチやってこうって」
「うぅ……そうでしょうか……?」
「あぁ。遥香ちゃんは頑張ってるって」
「また一限目のセンセ来ちまうぜ?」
「そう、ですね…………でも、うぅ……」
不良の男子生徒にメンタルケアをされた若い教師は迷う。
すると――
「起立っ!」
「えっ⁉」
ガタタっと教室中の生徒が立ち上がる。
号令をかけたのは目の下に大きな隈を作った学級委員の野崎さんだ。
「気をつけ! 礼っ!」
『おはようございますっ!』
木ノ下の意志を他所に、一週間の始まりを告げる朝の挨拶がされてしまった。
「…………」
木ノ下はオロオロとしながら生徒さんたちの顔を見回し、そしてその視線は水無瀬をお姫様抱っこする弥堂のところで止まった。
「…………おはよう、ございます……」
「着席っ!」
教師が空気を読むと同時に再びガタタっと音を立てて生徒たちは着席した。
こうして今週も地獄のような空気で2年B組の一週間は開始された。
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