1章28 『こちらはどちら、そちらはどちら』


 ジィッ――とゆっくりファスナーが引き上げられる。



「じゃあ、また水曜日にね」


「あぁ……」


「あ、ちょっと待ってて」



 ジャージの上着のファスナーを半分ほどまで閉めたところで、何かを思いだした女はテーブルに置かれた自分のバッグを取りに行く。



「――はい、これ」


「なんだこれは」



 問いながら華蓮さんが差し出してきた物を受け取った弥堂は、手に持った瞬間に見当がつく。



 厚みのある封筒だ。



「必要ない」


「必要になった時に使って」


「自分で稼げてるから大丈夫だ」


「急に入用になることもあるでしょ。いいから……、ほら――」



 押し切るように言いながら、押し付けていたものを弥堂の手から取ると、上着の隙間に手を挿し入れ内側に仕込んだ小型のバッグに封筒を突っこむ。



「あのな、華蓮さん……」


「気にしないで」



 聞く耳をあえて持たないようにしてすぐに華蓮さんは弥堂のジャージを完全に閉じて、ポンポンと胸を叩く。



 何かにつけて他人から金を奪おうとする弥堂だったが、華蓮さんのような人からこのような形で金を渡されるのはとても苦手としていた。


 それとこれとにどんな違いがあるのかというと、『借り』になるからだ。



 元々敵対していた者や、無関係でこれから敵対しても構わないというような他人から、犯罪紛いや犯罪になる方法で金を奪っても何も思うところはない。


 しかし、そんな彼でも、敵対するつもりのない相手から温情や施しを受けると借りになってしまうため、それに居心地の悪さを感じてしまう。


 一般的な道徳や倫理からズレているのは間違いがないが、それでもその程度の人間性はまだ弥堂にもあった。



「ふふっ……、あとこれもあげる」


「……もう勘弁してくれ」



 嫌いな物を口に入れた子供のような表情をする――華蓮さんからはそう見える――弥堂に微笑みかけながら、彼女はハンドバッグの中から追加で物を取り出す。



「なんだこれは」


「ゴムよ」


「ゴム?」


「避妊具。コンドーム」


「あぁ、これが……こういう箱に入ってるのか」



 物珍しそうに手に持った箱を目線の高さにまで上げて視ると、光沢のある箱の素材が部屋の照明を明後日の方向へ跳ね返した。



「なんで見たことないのよ。もうその反応がキミがいかにカス男かを物語っているわね」


「なにを言っているのかよくわからないな。それより、これはなんだ?」


「だからゴムだって言ってるじゃない」


「そうじゃなくて、何故これを俺に?」


「あぁ、そういうことね」



 得心がいったと華蓮さんは一歩下がり、胸の下で腕を組むと諭すように切り出す。



「いい? いつも女の子の方が用意してて着けてくれるわけじゃないんだから、ちゃんとキミが常備してなさい」


「なんの話だ」


「真面目な話よ。男が用意してなくて無理矢理ナマでサレたってことばかり取り沙汰されるけど、そこに付け込んでくる女もいるからね?」


「付け込む? どういうことだ?」


「ワンチャン妊娠しちゃえばこの男を確保できるって、そう考える女もいるのよ」


「……それは怖いな」


「……お前覚えがあるな? 気に食わねぇ」



 ギロっと睨まれるも束の間、また元の表情に戻りレクチャーのようなものを続けられる。



「口調。アンタ一体なんの心配をしてるんだ?」


「んん、要は自衛のためよ。ナマでシたがるのはなにも男ばっかりじゃないから。キミがどれだけ他所で遊んできても私は構わないけれど、妊娠はマズイからね。キミ、子供抱えながら生きるのなんて出来ないでしょ?」


「……それは確かにそうだが、誤解がある。俺は別に女遊びなどしていないし、その予定もない」


「それでも急に入用になっちゃうこともあるでしょ」


「あるわけないだろ」


「いいえ。私にはわかるわ。特にそんなつもりもなかったのになんか気が付いたらそういう感じになってて、『あれ? 俺なんでこの女抱いてんだ?』ってなるのがキミよ。覚えがあるでしょ?」


「……ちょっとわからないな」



 極めて特殊な状況を想定した極端な質問をされたので弥堂は明確な回答は控えさせてもらった。



「キミが自分で持ち歩くのがイヤならギャル子に持たせておきなさいよ。言い訳が出来ないように追い込んでおくのよ」


「アンタどんな状況を想定してんだ。そういう相手じゃないと言ってるだろ」


「甘く見ちゃダメよ。若くても女の子の方がそのへんしっかりしてるなんて嘘よ。その日の気分で簡単に振り切れるし、運命の相手なんて何度でも現れるのよ」


「なにか身に覚えでもあるのか?」


「……ちょっとわからないわ」



 何か身につまされることでもあるのかと思って尋ねてみたが、何故か明確な回答は避けられた。



「とにかく持って帰りなさい。すぐナマでヤりたがる男はただのバカだけど、なにかにつけてナマでサせたがる女はマジでヤバイから」


「……わかったよ」


「……一応。これは本当に一応だけど、念のため。もしもデキちゃったりしても簡単に産んでいいなんて言うんじゃないわよ。地獄だからね。あと、ヤった後に急に半年くらい連絡断ってからある日突然母子手帳持って現れるマジモンのバケモノもいるからね? 油断しちゃダメ。絶対に絆されるんじゃないわよ。私が責任とるから連れてきなさい。費用はもつわ」


「わかったって言ってるだろ。ほら、受け取るよ」


「あと、女の方から出してきたゴムには穴が空いてないかちゃんと確認するのよ」


「もういいだろ。しつこいぞ」



 彼女が何を言っているのか弥堂にはよくわからなかったが、受け取らないと終わりそうになかったので渋々テカテカ光る箱を懐に収めた。



「その点ではマキちゃんは安心よ。ああ見えてめちゃくちゃ計算高いから決定的なリスクは侵さないわ」


「薦めてるのか咎めてるのかどっちなんだ」


「薦めてはないわよ。あのタイプはその代わりに、ある日『あ、今日からちゃんとしよう』ってなってスパッと遊び相手を全部切るわよ。のめりこんでたら地獄よ? 気を付けなさい」


「だからそんな予定はないと言ってるだろ」


「……キミって意外と押しに弱いっていうか、何度断っても相手がめげなかったら面倒だからって手出しそうなのよね……。それってウチの子がナメられてるみたいで気に食わないわ」


「……そのような事実はない」



 弥堂は若干目を逸らしながら強く否定した。



「……それなら、そうだな。今度代わりの男でもマキさんには紹介しておこう。マサルでいいか。男好きと女好きでちょうどいいだろ」


「……あの子はダメよ」



 顔なじみのどうしようもない男を生贄に捧げようと提案したが、華蓮さんはなにやら渋い表情だ。



「マサル君さ、昇格したって聞いた?」


「あぁ、さっき聞いた」


「あれね、上がれたのはスカウトで8人だか9人一気に入れたからなんだけど……」


「……そういえば言っていたな」



 先程マサル君からの申告と数字が合わなかったが弥堂は気付かないフリをしてやった。



「あれさ、多分ヤバイわ」


「やばい?」


「えぇ。最初の子が入店して数日経ってから違和感あって他の子も観察してみたんだけど、あれ、全員がマサル君と付き合ってるって思ってるわ」


「……そんな馬鹿な話があるのか?」


「あるわよ。別にちゃんと出来るんなら色管理してもいいと思うけど、あれはダメなパターンね。最近全員が薄々気付いてきたのか待機席の空気が地獄みたいになってるらしいわ」


「…………」


「私はあまり待機にいることないから関係ないっちゃ関係ないんだけど、あれは時間の問題ね。遠くない内にバレるわ。半分以上辞めるとかってなったら風紀の罰金だけじゃ済まないでしょうね」


「借金負わされた上に降格か。だが、複数の女性を騙すなどというのは非常に許しがたいことだ。その責任はとるべきだろう」


「…………」



 自分の入れ知恵から起こった事態であることを悟られるわけにはいかないので、弥堂は軽薄で無責任な男に対して義憤を燃やしてみたが、却ってそのことで何かを察したのか、呆れたような侮蔑したような目を華蓮さんに向けられた。



「……まぁ、私達には関係ないわね。関係ないけどもしもの時は私がなんとかしといてあげるわ」


「……関係ないが、頼んだ」



 暗黙でなにかを取り決めたのでこの話はもう終わったことになったので、話題を変える。



「……ところで、最近店や街の方で何かないか?」


「随分とざっくり聞いてくるわね」


「何もないならいいんだ」


「待って……、そうね。最近クスリのことでちょっと……」


「へぇ?」


「……これはまだ確定情報ではないわ。でもクスリの撒き方が前よりも強引になってきてるかもしれない」


「具体的には……?」


「……言ったでしょ? まだなにも確定してない――」


「――言えよ」



 目を背けながら話す彼女の言葉を遮り強く言いつけると、ビクっと一度肩を撥ねさせ、それから諦めた様に溜め息を吐く。



「……どのみちキミには遅かれ早かれ話はいくものね。いいわ。先週うちの女の子たちが営業終わりにホストに行ったのよ」


「それで?」


「そのうちの一人だけ他所に連れ込まれてマワされたわ」


「クスリは?」


「もちろん」


「同行していた他の女は?」


「普通に帰されてたわ」


「そうか」



 情報を整理しながら考える。



「その女は今?」


「症状が普通じゃないみたいで、皐月組の持ってる医者で預かってたんだけど……」


「惣十郎か?」


「……えぇ。惣十郎くんのところの人が来て預かるって」


「そうか。相手はハーヴェストか?」


「……そうね」


「わかった」



 いくつかの点が繋がる。


 街で情報を探ることも含めて街に出るように依頼されたが、主となる目的は弥堂を戦場に近い場所に配置することのようだった。



 本来であれば腕利きの情報屋であるチャンさんを使っているのなら、情報収集に弥堂を使う必要などない。


 チャンさんは今回の新種のクスリはまだ表にはあまり出ていないといった。


 惣十郎も電話ではまだ情報はほとんどないと言った。



 どうやらどいつもこいつも本当のことなど全部を話す気は全くないようだ。


 とても信頼など出来たものではない。



 しかし、それは当然だ。


 奴らは味方でもなければ仲間でもない。



 同時に、それでこそだと評価する。


 背中を預ける仲間としては全く信頼できないが、同じ標的を追う別働の戦力としてその性能は信用に値する。



 その上で自分が欲しいだけの成果を得ればいいだけのことだ。



「黒瀬さんは?」


「……とりあえずは被害者の子から情報とれるまでは様子見だって」


「だろうな」


「しばらくはあのグループの店には行かないようにって通達されたわ」


「客にも注意しろ。恐らく売人が侵入してくるぞ」


「……黒瀬さんもそう言ってたわ」


「今のところは?」


「多分、まだ大丈夫よ」


「そうか」



 ジッと彼女を視て、尋問でもするように尋ねていく。


 気の強い女でもあるし、ナワバリ意識も高い女だ。


 こんなナメたマネをされたら怒り狂うはずだが、彼女は冷静だ。


 それどころか――



「――ねぇ」


「なんだ」


「この件」


「もちろん俺も噛む」


「……私はそうして欲しくないと、思っているわ」



 それどころか、まるで怯えるように自身の露出した肩を抱きどこか不安そうな様子だ。



「らしくないな」


「これ、勘だけど、多分大きなハナシになるわ」


「だろうな」


「本当はもう用心棒なんてやらなくても生活できるでしょう? 私に気を遣って――」


「――それだけで俺が首を突っこむと思うか?」


「…………」


「この件は恐らくキミの目的にも繋がる」


「――っ⁉」



 彼女の身体が震える。


 怯え、不安、それ以外に怒り、悲しみ、喪失感、様々な感情がその身体を震わせる。


 それらは過去からくるものだ。



「……ねぇ、やっぱり――」


「――キミは俺を最大限利用すべきだ」


「そんなの……」


「もともとそのつもりで俺を拾ったんだろ? だったらそうするべきだ」


「それは――っ! だけど……、そうね、そうよ。でも今はもう……」


「どのみち、キミが手を退いたとしても関係ない。例え皐月組に手を退けと言われたとしても、俺は俺の目的の為にこの件には介入する。恐らく人が死ぬ。結構な数が。その中に特定の人物の死体がいくつか増えるだけのことだ」


「待って。だからってそれでもしも――」


「きちんと線を引け。キミの目的を達成するためなら避けては通れないだろう。あらゆる手段を使うべきだし、それが出来ないのならとっとと実家に帰って結婚でもして全部忘れてしまえ」


「そんな言い方……っ!」


「拾った野良犬が手元で死ぬか、野に帰した後にどこか知らない場所で野垂れ死ぬか、それだけの差だ」


「どうしてそんなことを言うの……っ!」


「何度も言っただろ。どのみちずっと一緒には歩けない」


「…………」



 彼女はこちらを見ない。


 泣き出しそうになると顔を見られたくないから目を合わせなくなる癖がある。



 だから近寄り踏み込んでその身体を抱く。


 腰を引き寄せ頬に手を当てこちらを向かせる。



「華蓮」


「聞きたくないわ……」


「新種のクスリだそうだ。売る相手を選んでいるらしい。だがその基準はわからない」


「今、そんなこと……」


「通常なら潜り込んだ売人が餌を撒いて売り子を繁殖させるんだろうが、どう出てくるかわからない」


「…………」


「いいか。調べようとするなよ。そういう気配を感じたら俺に報せろ。後は勝手にやる」


「……私の言うことは聞かない癖に、自分ばっかり――ぅむっ……⁉」



 不満を漏らすその口を言葉の途中で塞ぐ。



 唇で。



 彼女は抵抗の意思を見せる。


 力をこめて押し返そうとする。


 しかしそれは形ばかりで、しばらく唇を合わせていると諦めを示すように彼女は力を抜いた。



 唇を離すと恨めしそうな目を向けられる。



「……悪いことばっかり、上手なんだから」


「悪いな。頼む」


「……わかったわよ。今日はもう帰って。キミは明日学校でしょ」


「あぁ」



 用は済んだと一切の余韻も未練も見せずに弥堂は踵を返す。


 部屋の出口の扉に近づくと背後からそっと触れられる。



「……死なないでよ」


「運がよければな」



 スッと腕を前に回されて抱きしめられる。



「……ちゃんと帰ってきてね…………、いってらっしゃい……、ユキト……」


「……あぁ…………、姉さん」



 振り返らずに扉を閉めた。





 店から出るために順路を遡って出口へと戻ってくると、エレベーターにほど近いキャッシャー前に正座をしてシクシクと泣くウサギさんが居た。



 足を止めジッと様子を窺う。



 首からは『反省中』という札がさげられ、身体の脇には脱いで揃えられたハイヒールと立て看板が添えられている。


 その看板はそれなりに重いのか、彼女の手によって支えられているのだが、バランスが碌にとれておらずグラングラン揺れている。


 看板の方には『私は悪いウサギです』と書かれている。



 恐らく仕事でミスをしたか、そもそもサボっていたのか。


 どちらにせよ役に立たないクズに罰を与えているのだろう。


 マネージャーの黒瀬さんは仕事には厳しい人だ。


 碌に売り上げに貢献が出来ないのなら、せめて見世物にでもなって客を楽しませていろという意向だろう。



 実に効率のいいクズの活用法であると弥堂は黒瀬さんに感心をし、それと同時に役立たずのクズに侮蔑の視線を投げかけてからエレベーターへ向うため足を再び動かした。



「ちょっと待ってよおぉぉーーっ!」



 ところが彼女の前を通り過ぎようとしたところで、足にしがみつかれる。



「無視すんなよおぉぉーっ!」



 ダーっと涙を流しながら左足に抱き着いてくるバニーさんに弥堂は嘆息する。



「離せ」


「なんでそんなひどいこと言えるのぉっ⁉」


「与えられた仕事を碌に熟せないクズめ。反省をすることも出来ないのか? 役立たずが」


「全部キミのせいなんだけどぉっ!」



 この期に及んでもまだ他責思考をするどうしようもない女を弥堂は心の底から軽蔑した。



 仕事中でもケジメをつけずによく巫山戯る彼女がこうして罰を受けることは間々ある。



――線引きをしろ。



 店内に案内された時に彼女へ言った言葉で、先程華蓮さんにも言った言葉だ。


 無様な罪人の姿を見てそれが想起される。



(よく言うぜ……)



 そんな言葉を心中で漏らし自嘲をしていると――



「――お疲れ様です。弥堂さん」


「黒瀬さん。悪いな、面倒をかけた」



 キャッシャーの中からマネージャーの黒瀬が現れる。



「いえ、構いませんよ」


「華蓮さんにも時間をとらせてしまった」


「それこそ構いません。彼女のリフレッシュにもなったでしょう。最近また不安定になってましたから……」


「……そうか」


「……出来ればもう少し彼女と――」


「――黒瀬さん。それでは何も解決しない。俺に出来るのは彼女の敵を殺すことだけだ」


「……失礼しました。差し出がましいことを」


「構わない。アンタの話は出来る限り聞くべきだと、そう考えてはいる」



 何やら深刻そうな雰囲気で話す男たちを正座バニーがキョトンと見上げている。



「……なんだ?」


「いや、正直なんの話か全然わかんなくて、でも真剣ぽいから黙ってたんだけどさ? 日常会話の中でサラッと『殺す』とか出てきたからビックリしちゃって」


「気にするな。キミが気にするべきことはもっと他にある」


「そうですよマキさん。勤務態度を改めてもらわなければ困ります」


「ワタシが悪いのーっ⁉」



 びっくり仰天するバニーさんに男二人は冷ややかな目を向ける。



「お得意様なんです。よりによって最中に部屋に乱入だなんて……」


「あれはユウキくんが悪いんだってば!」


「どうせアナタがまた邪魔をしたんでしょう」


「そうだけど! でも黒瀬さん、ユウキくんに甘くない⁉ ユウキくんも黒瀬さんにはなんか丁寧だしっ! なんなの⁉ ホモなの⁉」


「マキさん。ここは所詮は夜の店ですが、それでも軽はずみにそんなこと言うべきではありませんよ。失言罰金ですね。2000円引きます」


「失言罰金っ⁉ そんなのひどすぎる! 助けてユウキくん!」


「俺は仕事の出来る人間には敬意を払う。逆に、仕事の出来ないクズは1秒でも早く1人でも多く死んで欲しいと心から願っている」


「味方がいないよ! うわーーんっ!」



 自分をチヤホヤしてくれる男が多い環境ばかりに身を置いて生きているバニーさんは、あまり経験のないアウェイ状態に動揺する。


 しかし、あざとく泣き真似をしつつたまにチラっと顔色を見てくるあたり彼女のメンタルも中々のものだった。



「それよりも黒瀬さん。惣十郎からは?」


「今のところは何も。ですが、なにかしらの意図があって情報を制限していると思います。恐らく貴方をハメるつもりはないとは思います」


「そうか。恐らくだがこの店にも……」


「来るでしょうね」


「明日からはしばらく俺も夕方以降は駅前近くにいることが多いと思う」


「その時はすぐに連絡します。お手数をかけますが……」


「構わない。今回は俺の個人的な目的にも副う」


「わかりました」


「では」


「また」



 男二人で何やらアイコンタクトをとると弥堂は歩き出し、黒瀬は恭しく一礼をして見送る。



 しかし――



「待ってよおぉーーっ!」



 バニーさんが飛びつくようにして足首を掴んでくる。



「しつこいぞ」


「少しはワタシにフォローくらいしてよ!」


「マキさん? 誰が正座を崩していいと言いましたか?」



 何かを弥堂に訴えようとしていた様子だったが、黒瀬マネージャーに冷酷な眼差しで注意をされ、バニーさんは渋々元の姿勢に戻る。


 弥堂は嘆息する。



「……手短に言え」


「責任とって!」



 発言内容とは真逆にバニーさんの表情は構ってもらえてうれし気だ。



「何の責任だ?」


「おっぱい見られた!」



 ちょうどタイミング悪くエレベーターがチーンと音を鳴らして開き、入店してきたお客様が入り口の異様な様子にギョッとする。


 黒瀬のコメカミに青筋が浮かんだのを見て取った他のエスコートバニーさんが慌ててその客を店内へ案内していく。



「マキさん。罰金です」


「ユウキくんが払います!」


「なんでだよ」


「だってユウキくんのせいでワタシ、知らないオジサンにおっぱい見られたんだからね! バニーさんのおっぱいはタダじゃないんだよ!」


「どうせしょっちゅうそこらへんで放り出してんだろ」


「んなわけないわー! 相手は選んでるわー!」



 無神経な男に自身の乳の価値を著しく貶められバニーさんは憤慨した。



「一応さ、二プレス付けてたからそこは守れたけど、他は丸出しだったんだから!」


「別にいいだろ」


「よくなーい! お触り禁止のバニーさんのおっぱいが丸出しでいいわけなーいっ!」


「触られたのか?」


「いや、そうはならなかったけどさ、めちゃくちゃ気まずかったんだから! お客さんビックリしたせいか『うっ……』ってなっちゃったみたいで……、キャストの子にも超ニラまれちゃったしっ!」


「うるせえな。わかったよ」



 うんざりと言い捨てながら弥堂は懐に手を突っこみ封筒を取り出す。


 そして封筒の中から一万円札を抜きだし、正座中のバニーさんの胸に挿しこんだ。



 バニーさんはパチパチと瞬きをし、胸の中の万券ではなく弥堂の手の中の封筒を見た。



「華蓮さんに貰ったんでしょ?」


「……そのような事実はない」


「女に貰ったお金を他の女に使うとかキミはクズいなぁ~。まぁ、クズい方が遊び相手としては最高なんだけどね」


「何を言ってるのかわからないな」


「ふぅ~ん……、わかんないんならちゃんと説明してあげようか? 華蓮さんもいる時に」



 弥堂は無言で封筒の中から追加で3枚ほど紙幣を抜き出し、バニーさんの胸元に捻じ込んだ。



「まいどっ!」



 てへぺろりんっとサムズアップ付きのバニースマイルが返ってきた。



 黒瀬が頭痛を堪えるように眉間を揉み解していると、ふとその脇をフラフラと一つの人影が通り過ぎる。



 常連客の清水さんだ。



 清水さんは何かに憑りつかれたような様子でバニーさんに目を奪われながら長財布を取り出し、中から紙幣を一枚抜き出す。



 黒瀬はガッと清水さんの肩を掴む。



「お客様。当店ではエスコートガールへのタッチは禁止とさせて頂いております」


「く、黒瀬くんっ! 後生だ! 一度やってみたかったんだ……、たのむ……っ!」



 黒瀬はチラっと清水さんの手へ目線を遣り、握られているのは千円札であることを確認する。



「お客様。お席にお戻りください」


「そんな……っ⁉」



 清水さんは常連ではあるが必ずフリーで入りワンタイムで帰る単価の低いお客様だ。


 しかも初回タイムの割引イベントやフロントでダンピングをした時にしか来ず、たまに気紛れで場内指名を入れてもドリンクは絶対に飲ませず、さらに何があっても本指名はしないという拘りを持つゴミ客だ。



「ちくしょうっ! いつも来てるんだ! 少しくらいいいだろっ!」


「お客様。ルールはルールですので……、ゴリ美さん」


「ぶるあぁぁぁぁぁぁっ!」



 パチンと指を鳴らす黒瀬マネージャーの呼び声に応え、待機席に繋がる通路の奥から現れたのはベテランキャストのゴリ美さんだ。



「ぎゃあぁぁぁぁぁっ⁉」



 野性味溢れる逞しい胴体に撒きつけられた布は胸筋によりはちきれんばかりにビッチビチだ。


 勤労意欲を示唆するように前傾姿勢で腕をブンブン振ってカッポカッポと脇を鳴らしながら近づいてくる巨体に清水さんは恐怖の叫びをあげた。



「シャチョサン イイオトコ ワタシ ドリンク ノム ツメシボ オネガイシマース」


「ち、ちくしょうっ! いつもいつも俺にはブスばっか付けやがって……っ!」


「お客様。店内でのキャストへの暴言はご遠慮下さい」



 ズルズルと店内へ引き摺られていく常連様に黒瀬は恭しく一礼する。


 当店のキャストの魅力に興奮したお客様は激しく暴れるが、ゴリ美さんの頼りがいのある丸太のような腕に掴まれては逃げ出すことは叶わない。


 黒瀬は後ろ髪をアップにしたことで露わになっているゴリ美さんの屈強な背筋を見てフッと微笑む。



 ゴリ美さんは対ゴミ客用に雇っているブスで、黒瀬の懐刀だ。


 普段は待機席でバナナを食っているだけだが、こういった場面では如何なく活躍してくれるし、なんならたまに輩を撃退して森に連れていってくれる。


 規律と利益の鬼である黒瀬マネージャーは、自身の預かる店舗の充実ぶりに一定の満足感を得た。



「せ、せめて、人類を……っ! せめて人類のメスをつけてくれぇぇ……っ!」


「お客様。キャストへの誹謗中傷はお控え下さい」


「だって体毛が……っ! どっからスカウトしてきたんだよこんなの! ちくしょう、また掲示板に書いてやるからな……っ!」



 アルカイックな黒服スマイルで、とても楽しんでおられる様子のお客様を見送り、清水さんが店内へ消えるとスッと表情を落として天真爛漫なバニーさんを冷たい視線で刺す。



「ゴリ美さんってマジでなんなんだろ……? 会話出来ないけどバナナあげれば言うこと聞いてくれるし……」


「マキさん。困りますね。お客様にルールを守っていただく為には、我々スタッフの方が誤解を与えるような仕事をしてはいけません」


「今のワタシのせいなの⁉」


「一体どうすれば本当に反省してもらえるのでしょうか……」



 びっくり仰天する正座バニーさんを黒瀬は品定めするように見る。



「なんでいつもユウキくんには怒らないの⁉ こんなの不公平だぁーっ!」


「……黒瀬さん」



 人を巻き添えにしようと目論むような下賤な女に自由に発言をさせてはいけないと、弥堂はバニーさんの言葉を遮り黒瀬に話しかける。



「なんでしょうか」


「マキさんは正座を始めてからどれくらい……?」


「……そうですね。30分といったところでしょうか」


「わかった。任せてくれ」



 弥堂は一歩進み出るとバニーさんが手で支える立て看板にガッと足をかける。



「わわ……っ⁉ うわわわ……っ⁉」



 元々看板を支えるには彼女の腕力では心許無いところにさらに荷重をかけたことで、看板がバニーさんの方へ傾く。



「な、なにすんだぁーっ⁉」



 すると看板に圧し掛かられるようにバニーさんは正座をしたまま後ろに仰け反る。


 そして弥堂は逃げ場をなくした彼女の足の裏を踏んづけた。



「ぴぎぃぃーーーーっ⁉」



 30分間もの懲罰により痺れていた足を虐められバニーさんは絶叫する。



「ほう……」



 その姿を見て黒瀬は感心したように銀縁の眼鏡を光らせた。


 スタッフが藻掻き苦しむ様を興味深げに観察しながら、バニーさんを中心に弥堂とは逆サイドに回り、もう片方の足を踏んづけた。



「ぎゅぴぃぃぃーーーーっ⁉」



 再び絶叫をあげ思わず前屈みになろうとする彼女の肩を黒瀬が掴み身体を折ることを許さない。


 それとほぼ同時に弥堂が立て看板を掴んでバニーさんの身体の方へ倒し、さらに苦難を与える。



「や、やめろ、このドSコンビーーっ!」



 二人ともに彼女の訴えには何も答えず、ただ無言でグニグニと彼女の足の裏を踏み躙る。



 身体を大きく仰け反らせ、苦しみから生まれた脂汗が首筋から垂れて彼女の両胸の間に食い込む立て看板の持ち手の棒と彼女の肌との隙間にツーと流れ込む。



「あっ……、だめ……っ! なんか、なんか開いちゃう……っ! なんか新しいのが……っ!」



 意味のわからない実況をするウサギ女を無視しながらツープラトンで責め苦を与えていると、不意にパシャッパシャッとシャッター音が鳴る。



 一同そちらに視線を遣るとネルシャツをジーパンにインした不潔そうな髪型の男がスマホをこちらへ向けて構えていた。



 常連客の大西さんだ。



「大西くーん、たすけてぇーっ!」


「マ、マキちゃんを虐めるな……っ!」



 気弱そうに目を逸らしながら聴き取りづらい声量でイキった大西さんは、言葉とは裏腹に今しがた撮影に使ったスマホを毛玉いっぱいのネルシャツのポッケに隠そうとする。


 その手をいつの間にか接近していた黒瀬にガッと掴まれた。



「お客様。店内での撮影は禁止とさせて頂いております。ご理解を」


「て、店内で従業員同士で特殊なプレイおっぱじめといて何言ってんだ!」


「申し訳ありません。ちょっと仰っている意味が……」



 黒瀬にすっ呆けられ大西さんがもう一度現場に目を遣ると、既に弥堂もバニーさんとは十分な距離を空けて離れていた。



「くそっ……、ずるいぞ! ボクだってマキちゃんとお話したいんだ!」


「申し訳ありません。エスコートガールは席についての接客サービスはしておりませんので」


「マ、マキちゃんから聞いてるぞ! いつもキミたちにイジメられてるって……! ボクがマキちゃんを守るんだ!」


「お客様、ご理解を。……ホネ香さん」


「……うぅ~らぁ~ぎぃ~りぃ~もぉ~のぉ~……」


「ひっ、ひぃぃーーーっ⁉」



 顏だけ申し訳なさそうに繕う黒瀬がパチンと指を鳴らすと、通路の角から怨嗟の声が響き大西さんは恐怖の叫びをあげた。


 通路の壁を異様に長い爪でガリガリと引っ掻きながら、ガン開きで血走った片目だけを覗かせるのは当店特級呪物のホネ香さんだ。



「なぁんで……、連絡返して……、くれないのぉ……?」


「うわあぁぁぁ、く、くるなぁーーーっ⁉」



 異常に痩せ細った身体にはサイズの合うドレスがなく、ほぼ骨と皮だけのように見える肢体にダルダルのドレスを纏い、ホネ香さんはゆらりと角から出てくる。



 この大西さんは常連客ではあるが、『ボクはマキちゃん目当てでここに通ってるからさ』などと宣い、それを建前に絶対に誰も指名をしないしドリンクも入れないという確固たる意志を持ったクソ客である。


 そして、それでありながらフリーで付いた女の子の連絡先は意地でも聞き出し、指名する気など欠片もないくせに一日数十回ものメッセのやりとりを強要し、同時に複数のキャストに告ってくるタイプのキモ客だ。



 当然そのような自分の売り上げに繋がらないのに連絡コストだけを強いられるようなキモ客の相手をしたがるキャストなど存在しない。


 しかし、それで連絡を断つと、『この店のキャストはやる気がない。どういう教育してるんだ。質が悪い』などと鬼の首をとったように騒ぎ立てる困ったお客様だ。



 そこでこの手のキモ客へのカウンターカードとして黒瀬が重用している式神がこのホネ香さんである。



「指名してくれるって……、言ったじゃなぁい……っ」



 薄暗い店内の部分照明が血の気の薄いガサついた肌を不気味に照らす。


 顏だけは厚く塗られた化粧により白く強調され、突き出た頬骨が異様な立体感を醸し出す。つけまとマスカラでゴリッゴリに肥大化されたヒジキのような目元がとってもチャーミングだ。



「い、いやだあぁぁーーーっ!」



 ガタンと腰を抜かした大西さんがズリズリと尻を動かし逃げようとするのを、100均で売られているカーテンポールのように細い腕が追いかける。


 手首にジャラジャラと付けられたリングの隙間から無数のリスカ痕が垣間見える。



 キャストに粘着してくる割に売り上げにならないキモ客には、このホネ香さんを差し向け逆に粘着してやるのが当店のマニュアルである。


 ホネ香さんは秒間0.7件のペースでメッセを送り続けられる最強のメンヘラ兵器だ。


 もしも返事を返すまでに10分以上かかろうものならば、新たな手首の傷を撮影した写真を送りつけられることになる。



 おまけに、無理矢理口説き文句を言わされた場面のスクショとリスカ写真をSNS上に晒されお気持ちまで吐露される、まさに手が付けられない怪物だ。


 承認欲求がカンストしているホネ香さんは自分を構ってくれるなら相手は誰でもいいので、どんな属性の敵にも雑に編成して放り込める非常に汎用性の高いユニットとも謂える。



 弥堂はさりげない動作で移動し、目の前を通り過ぎようとする特級呪物との間にバニーさんを配置した。



「ユウキくん、ホネ香さんのこと苦手だよねー? まだ怖いの?」


「怖くなどない。ふざけるな」


「ホネ香さんの料理すっごいおいしいんだよ?」


「冗談じゃない」


「ユウキくんって絶対メンヘラホイホイでしょ?」


「うるさい黙れ。声を出すな。気付かれるだろ」


「ゃんっ」



 咎めるように爪先を持ち上げ正座をする彼女の尻の間を突く。



 すると、ズリズリとドレスを引きずりながら移動するホネ香さんがグルンっとこちらへ顔を向けた。


 絶対に目を合わさぬよう弥堂もグリンっと顔を他所へ向ける。



「…………」


「……ぅわわっ……⁉ なになに……っ⁉」



 ジィッ――と爛々とギラつく浮き出た目玉を向けられ、弥堂は防御のためにバニーさんを抱き上げ視界を遮る。



「これはいけません」



 その様子に危機感を感じた黒瀬は懐からレーザーポインターを取り出す。


 そしてホネ香さんのガンギマリの目ん玉へ向けてカチカチと二回、赤外線レーザーを照射した。



「ィギャアアァァァァーーーーッ⁉」



 突然藻掻き苦しみ絶叫をあげたホネ香さんはギロリと大西さんを睨み、ガリッガリのその身体からは考えられないような速度で襲いかかった。



「う、うわわぁぁーーーーっ⁉」



 半泣きで怯える大西さんの服を口で咥え、四つ足で蜘蛛のように店内を駆け抜ける。



「ぜ、絶対にまたレビューで晒してやるからなぁーーっ!」



 大西さんの恨みの声が、並外れたスピードで階段を駆け上がり上階へと消えていった。



「やれやれ、危ないところでした」


「すまない黒瀬さん。助かった」


「……いつも思うんだけど、それどういう仕組みなの……?」



 弥堂にお腹に腕をまわされて抱っこされたバニーさんはストッキングに包まれた足をプラプラしながら怪訝そうな顔をする。


 弥堂も黒瀬も彼女を無視した。



「ところで、今更ですが。今日の会談はうまくいきましたか?」


「あぁ。おかげさまで」


「医者、でしたっけ」


「あぁ。何でも言うことを聞いてくれる医者と弁護士のお友達は居た方がいいと聞いてな」


「優秀そうな弁護士のお客様がいたら連絡しましょう」


「助かる」



 弥堂に丁寧に降ろされながらじぃーっとジト目を向けるバニーさんを無視して男たちは締めに入っている。



「このお店、こんなことばっかしてるのにさ、なんでそこそこ売れてるんだろうね……?」



 彼女の疑問には誰も答えない。



 チーンと音が鳴ると弥堂はスッとエレベーターの中へ消えていき、それを見送った黒瀬もスッとキャッシャーの中に消えていく。


 ペタンと床に女の子座りして、ストッキングに包まれた足をモミモミするバニーさんだけがその場に残された。



 Club Void Pleasureは新美景駅北口徒歩3分


 初回50分4500円、初回指名料2000円


 延長30分3000円、指名延長料、場内指名料30分1500円


 TAX20%


 土日祝日も休まず年中無休で営業中


 新規のお客様も大歓迎


 皆さまのお越しをお待ちしております!




 エレベータ―が閉まりチーンとひとつ音が鳴った。


 夜は続く。





 エレベーターを降りてビルから出ると、フロントの様子は来た時と然して変わらない雰囲気だった。



 やる気のない態度で煙草の煙を空に向かって吐き出していたマサル君が、弥堂の姿に気が付くと嬉しそうな顏で近づいてくる。



「おつかれービトーくん!」


「あぁ」


「へへっ……、どうだった?」


「うん? あぁ、上手くいった」


「うまく……⁉ それってすんげぇってことか⁉」


「うん? まぁ、そうだな」


「マジかよ……、やっぱナンバーワンだからすんげぇのか⁉」


「うん? まぁ、そうかもな」


「へへっ……、ビトーくんさえよければよ、今度オレにもヤラせてくれよ。一回でいいからさ、試しにさ」


「うん? まぁ、いいんじゃないのか」


「マジかよ! やったぜ!」



 エレベータ内で考え事を始めまだその答えが出ていなかったので、それを続けながら上の空でマサル君との会話に応じる。


 かなり適当な受け答えをしたので後々になにか不都合がありそうだ。



「ありがとなビトーくん! 代わりにこっちも女まわすからよ!」


「うん? あぁ、そういえば……」



 そこで何か記憶と現実に繋がるものがあり、ようやくまともに対話相手に目線を合わせる。



 ジッと、マサル君を視る。



 憐れな男だ。



 昇格しただのと浮かれていたが、近いうちに数百万円の罰金を課された上に降格させられるのだろう。しばらくの間は給料から借金を天引きされながらの奴隷生活だ。



 弥堂は懐から華蓮さんに貰った封筒を取り出し、そこから3万円ほど抜き出す。


 その紙幣をクシャっと丸めようとした瞬間に希咲の説教顔が浮かんだので、そのままマサル君に握らせてやった。



「アン? なんだこれ? くれるのか⁉」


「……お前が引っ張った女の誰でもいいから連れて、なにか美味いものでも食ってこい」


「昇格祝いってやつか⁉」


「うん? まぁ、そうだな」



 正確には降格見舞いだが、事前に勘づかれて飛ばれると面倒なので弥堂は言葉を濁した。



「サンキュー! ビトーくん!」


「では、またな」



 別れを告げて万札を掲げて小踊りする男を置いて立ち去る。



 五月ビルの入り口前に並んだ各店舗の電飾看板の隙間を抜けていく。


 看板一つにつき黒服が一人か二人、脇に立っている。


 ビルに入っている各店のフロントたちだ。



 その内の一人がゆらりと弥堂の前に立ちはだかる。


 それ以外の店の者たちがギョッとした。



「オイ、テメェ。ウチの客蹴っぽってくれたらしいじゃねえか。ウチに喧嘩売ってんのかよこの――クペッ」



 特に立ち止まることもせず擦れ違い様に右を振って顎を横から叩く。


 パキャッと小気味のいい音が鳴ったので恐らく顎が割れたのだろう。



 そのままシームレスに相手の容態を確かめもせずに敷地から出ていく。用心棒のパートタイムはもう終わったのだ。



「うっ、うわあぁあぁーっ⁉」

「ち、血だっ! 血の泡がでてるぅーっ!」

「おいぃ! ヴォイプレさんよぉ! ちょっとチョーシにノリすぎじゃあねえか⁉ あぁっ⁉」


「……へ? オ、オレッ⁉」


「クソがっ! やっちまえ!」

「ナメんなゥオラァッ!」

「ぶち殺すぞダボがぁっ!」


「ちょ、ちょっと待って……っ! オレ関係な……っ、ビ、ビトーくーんっ! ビトーくぅーんっ! た、たすけ――」



 何やら背後が騒がしいが、考えごとを再開しているため特に気にせずに表通りへ戻る道を辿った。




 7分弱ほど歩いて新美景駅に到着する。



 階段を上がり駅構内へ入り、北口と南口を繋ぐ通路を通り改札近くのコインロッカーを目指す。


 通路の真ん中には白い線が引かれ左右に分割されており、歩行者は皆、自身の進行方向に対して左側を通行している。



 三段積まれているロッカーの真ん中の段の右端の扉にカギを差し込んで開く。中から黒革のボストンバッグを回収して扉を閉めた。


 本来であれば店に行く前にこれを回収するはずだった。中身は着替えなど数点で特に大した物は入っていない。



 一度バッグの口を開けて、ざっと中身に問題がないかを確認し通路に戻ろうとする。



 目の前は南口から北口へ歩く人の流れ。


 南口へ行きたい弥堂はこの流れを渡って白線の向こうの北口から南口へ向かう人の流れに合流しなければならない。




『線引きをしろ』




 今日何度か自分で口にした言葉だ。



 言うまでもないが、ある特定の物事に対して自分の立ち位置を明確にしろと言う意味だ。


 どこまで関わって、どこからは手を引くのか。


 或いは全く関わらないのか。



 それを他者に対して明示するのもそうだが、何よりも自分で自分がどこに立っているのか、そして何に対していて、何処へ向かうのか――それを強く認識し自覚している必要がある。


 そうでなければ、人はすぐにブレてしまう。



 毎日、毎時、毎秒。


 様々な情報が目から、耳から、肌から。



 この身の裡に這入り込み、染み込み、溶け込んで。


 自分という不確かなモノが狂い惑い彷徨って、様々なものが曖昧になってしまう。




 例えばマキであれば、あくまで大学在学中に効率よく金を稼ぐための一時的なアルバイトをしているだけで、水商売を本業にするつもりはなく、店の対外的な事情には一切関係せず、いずれは一般社会に戻る。


 これがClub Void Pleasureという職場に対する彼女の立ち位置だ。



 例えば華蓮であれば、自身が所属するVoid Pleasureを繁栄させ再びあそこの歓楽街トップの店に返り咲かせることで、後から入って来て居場所を奪っていった競合店たちとその背後の者たちをこの街から叩き出し、その結果、或いはその過程で探し人を見つけ出す。


 ただ、同じ結末に辿り着けるのなら、その手段は探し人、若しくは近くに居る者の情婦に自分が為ることでもいいし、先に述べた敵として直接対峙することでもいいし、或いは居なくなっても誰にも気にされないような拾った野良犬に首を持ってこさせてもいい。そしてその後のことはどうでもいい。


 これがこの街に対する華蓮という女の立ち位置だ。



 例えば黒瀬であれば、基本的には華蓮の意向を汲んで彼女の願いを叶えつつ店を経営し競合店のリソースを奪い自店を繁栄させる。ケツモチである皐月組とそれと敵対する半グレや海外マフィアの揉め事に時には協力し、時には見て見ぬフリをし、また時には揉め事を提供する。


 関係せざるをえないあらゆる個人や組織とのバランスをとり、最悪でも店と従業員が存続し続けられるように、華蓮が生き続けられるように維持をする。そのラインだけは死守する。


 というのが裏社会に対する黒瀬の立ち位置だ。




 では、例えば水無瀬 愛苗であれば。



 私立美景台学園に通う高校生として生活をしながら、それ以外の時間に魔法少女として闇の組織と戦い、この街の平和を守る。


 もしくは、闇の組織を潰して平和を創ることが目的で、その為の生活拠点を得る為に高校生をしているのだろうか。



 後者は少々考えづらい。


 まず、彼女の生活する場を決めるのは彼女の両親だ。そしてその両親は普通の花屋を営んでいる。

 この街に引っ越してきたのは娘の愛苗が高校に進学する少し前のようなので、その点で疑わしいと考えることは出来なくもない。


 しかし、愛苗やメロは晩飯がどうのと何度か帰宅時間を気にする素振りを見せた。加えて、催眠状態になった水無瀬をそのまま自宅に連れ帰った場合に両親への説明に困るというメロの発言もあった。


 もしも魔法少女の活動に対する両親の理解や認知があるのならばこれらの発言は出てこない。

 つまり、両親には内緒で活動をしていることになる。



 この辺りの考察が正しいのだとすると、弥堂はまだ彼女らの言うことが魔法少女や闇の組織の真実なのだとは信じていないが、彼女達が証言していた『ある日突然魔法少女の力を手に入れた』という話の真実味が少しは増す。


 そうすると、済し崩しに状況の中心に放り込まれ、成り行きで見掛けた、若しくは見つけたゴミクズーから街を守っているという方が現状ではしっくりくる。


 だが、そう考えるには自分をネコ妖精だと名乗り、『ある日突然水無瀬の前に現れ、魔法少女になる力を与えた』というメロの話の真実性と、あのネコのカタチをしたモノの立ち位置を確かめなければならない。


 それを考えたら次はゴミクズーと闇の組織といったアレらが、この街だけの問題なのか、この国中、あるいは世界中で起こっていることなのか……と話を広げていかなければならない。


 しかし、話が大きくなればなるほど弥堂との関連性は薄れ、手にも負えなくなっていく。



 アレらが放っておいてはいけないモノなのだとしたら。


 もしもこの街だけの話なのだとしたら街を出ればいい。


 もしもこの国だけの話なのだとしたら国を出ればいい。


 もしも世界中でのことなのだとしたら何処に居たとしても同じことなのだから、その時はもう考える必要がなくなる。



 現状の弥堂の考えでは、一部の地域に限定した話なのだと考えている。


 現代の発達した情報伝達・拡散技術がある中で、世界中であんなものを隠せるわけがない。


 それとも人類の科学技術を凌駕し、秘匿し尽くすような魔法でもあるのだろうか。これは考えてもわからない。



 つまり、現状では水無瀬 愛苗という少女の立ち位置はわからない、ということだ。



(そのあたり、もっと訊いておくべきだったな……)



 そういえば、4月16日の放課後に学園正門付近で彼女に『生命を狙われる覚えはないか』と尋ねた時のことを思い出す。


 あの時彼女は『そんなものはない』と答えた。あからさまに怪しい態度で。



 なるほど、と納得をする。



 (確かに嘘ではないな)



 生命を狙われているわけではないが、生命を失う可能性のある状況に身を置いてはいる。


 だから、『生命を狙われていない』と答えることに後ろめたさを感じてのあの態度だったようだ。



 こんなことももっと早くに思い至ってもいいものだ。



 自身の手落ちを自嘲する。




 もしも弥堂のこれらの推測とは違って、水無瀬が世界を平和にする為に全てを投げ打ってでも戦っていたとして――


 ゴミクズーや闇の組織といったモノの悉くを滅ぼし尽くし、戦いが終わり世界が平和になったと思ったその時に――


 実は人間の世界はこれっぽっちも平和などではなかったと、人外など関係なかったと気付いてしまったとしたら――



――彼女はどうなってしまうのだろうか。



 その思考が思想が、信仰は素行は、価値観や倫理観はどうなってしまうのだろうか。


 そのままでいられるのだろうか。


 それとも、剥がれ落ちて裏返って、全く別のナニかに為り変わってしまうのだろうか。


 その時に彼女は、何を願い、何に祈って、その魔法の杖を今度はダレに向けることになるのだろうか。



 それは今考えても仕方のないことだし、もしかしたらいつ考えても仕方のないことなのかもしれない。


 それは弥堂にもわかっている。


 しかし、酷く苛々する。



 仕方ないと、意味がないと、関係がないと、そう中途半端に距離を空けてきた結果が、ここまでの中途半端な対応だ。


 それは自分という、弥堂 優輝という人間としては受け入れ難いことだ。



 やるならやる。やらないならやらない。


 はっきりとさせるべきだ。



(そろそろ決めなければな)



 水無瀬 愛苗の立ち位置がわからない。


 メロの立ち位置がわからない。



 だが、そんなことよりも、他人のことよりも自分のことだ。



 弥堂 優輝は何処に立っているのか。或いは何処に立つのか。


 自分自身の立ち位置を明確にするべきだ。




 右から左へ。北口方面へ向かう人の流れへ足を入れる。


 人と人との間を縫って泳いで渡って通路の中央へ進む。



 何処に線を引いてどちら側に立つのか。


 立ち位置を決めるにはまず線を引く必要があり、そして何処に線を引くかを考えるには目的が必要だ。



 その目的とやらを見出すことが弥堂には出来ない。



 願いがなく、欲求もなく、当然夢も希望もない弥堂が何か目的を持つ時は常に他人からそれを与えられた時だ。


 理不尽で無理難題な目的を押し付けられ、それから逃れることが出来ず、それを叶える過程で失ったモノと見合った結果にする為に。


 目的を叶える為だけの装置として自分を造り変えていった為れの果てが今ここに居る弥堂 優輝で。


 そして自分一人で、この身の裡から湧き出るモノに従って見出す自分自身の目的、自分だけの目的、そういったものが見つけられなくなってしまった。



 以前まで身を置いていた環境であればそれでもよかった。


 与えられた目的に敵対する者、邪魔をする者、足を引っ張る味方、それらと戦ってさえいれば目的に副っていることになるからだ。



 その戦いの途中で環境の中から放り出され、流れて流されて、流れ着いたのが此処であり、そして今だ。



 此処には弥堂に目的を与えてくれる存在はいない。



 美景台学園の風紀委員に所属している以上、委員会やその上の生徒会長がそういう存在であるという風に表向きはなるが、彼女らに従っているのはあくまでもスパイ活動の一環である。


 それをするように命じたサバイバル部の廻夜朝次めぐりや あさつぐが、それに一番近い存在なのかもしれない。


 だが、廻夜は命じてはくれるが目的そのものはくれない。何処に向かい何を目指しているのかは教えてくれない。



 華蓮は自らの目的を叶える為に弥堂に命令をしてはくれない。


 彼女には世話になったから一度くらいは彼女の為に戦ってやってもいいのだが、彼女はこれからもきっとそうはしないだろう。



 だから自分自身で目的を見出さなければならない。


 でなければ、草花のようにただ呼吸をして成って朽ちるしかない。それは許されない。




 直近で直面している盤面は二つ。



 一つは、この街の裏社会での非合法組織同士の勢力争い。


 違法薬物はそれに紐づく問題の一部で、弥堂はこの新種のクスリとやらに個人的に興味を持ってはいるが、その利権などには関心はない。



 もう一つは、この街の裏の世界――とでも謂えばいいのだろうか――で争っている魔法少女と闇の組織。


 こちらに関しては弥堂にとっては利害関係はほぼない。

 場合によっては邪魔になる可能性があるというくらいのもので、基本的には巻き込まれただけで積極的に関わる必要はない。


 だが、例え成り行きでも一度敵対したモノを野放しにしていいのか、という考えはある。利益が競合しなくとも敵対したことがあるというだけで充分に殺し合う理由になる。



 これらの二つの盤面に同時に関わることは出来ない。



 薬物への興味と、クラスメイトというしがらみ。


 これらは誰かに与えられたものでもなく、命じられたものでもなく、自身の裡から生じたものだ。


 だからその関わり方は自分で決めなければならない。



 どちらに関わり、どちらに関わらないのか。


 どちらを優先し、どちらを後に回すか、或いは切り捨てるか。



 どの位置に自分を置くのかを決める。



 以前はそれを誰かが決めてくれていて、その位置に立ち、こちらを向いてる奴との間に線を引けばよかった。


 そいつらと戦ってさえいればよかった。



 今はそれを自分で決めなければならない。




 南から北へと歩いていく人の流れを横断していると、スマホを見ながら歩く水商売風の若い女に露骨に迷惑そうな顔をされ、スーツを着た休日出勤の帰りと思われる草臥れたサラリーマン風の男にこれ見よがしに舌打ちをされる。


 こんな連中などその気になれば3秒もあれば殺せる。そんな連中にナメられる。


 だが、ここでは自分などこの程度の存在なのだ。



 3秒で殺せるような奴でも、自分がどこに向かっているのかわかっている。自分で目的を決めている。


 そんなことすら出来ないのが弥堂 優輝なのであり、この社会においてはそんな奴が底辺なのだ。


 ナメられて当然だ。



 目的が見つけられないのなら、せめて最初から何処かに線が引いてあればどちらに立つか――こちら側に立つか、あちら側に立つか、それだけを決めればいいのであれば自分にも出来そうだ。



(そう、例えば――)



――足元の白線を踏む。



 人の流れを縫って通路の中央に辿り着いた。



 背後では右から左へ歩く人の流れがあり、弥堂が立つ白線で区切られた目の前では、左から右へと人が流れる。



 白線上で立ち止まったまま、右を――駅の南口方面を向く。



 こうして最初から線が引いてあれば、人は勝手に己の立つ位置を見極め向かうべき方向へ進んでいけるのに。



 多くの人間が、色々な人間が行き交う。



 弥堂の右側では擦れ違っていく人々が、左側には追い越していく人々が。


 それぞれの目的のもとに進んでいく。



 頭の悪そうな者、素行が悪そうな者、育ちが悪そうな者。


 そんな連中ですらこうして線が引かれていれば立つべき場所に立って流れに入って歩いていく。



 何人かは通路のど真ん中で立ち止まる弥堂に迷惑そうな顔をするだけで、特に敵対してくれることもなく、目もくれずに居なくなっていく。



 当然だ。



 己の立ち位置すら判断出来ないような者には敵も味方も居ない。



 これが現代社会における異物でしかない弥堂 優輝という存在だ。



 これから弥堂は南口に出て家に帰る。



 この線の左側の流れに入って歩いて行けばいい。



 この社会の中で自分で考えて自分で出来ることなどその程度のことしかない。



『世界』がそのように弥堂をデザインした――わけではない。



 子供の頃、実現可能かどうかはともかく自分で何かしらの夢や目標を思いつくことくらいは出来た。



 ここ何年かで、自分で勝手にそれが出来なくなっただけだ。



 一から十まで総て自分の責任だ。




(まるで迷子だな……)



 そう自分を嘲ってみたところで、立ち位置も線も見つからず、そしてもう誰も教えてはくれない。



 こんな自分を見たらきっとルビアは呆れるだろう、エルフィーネは怒るだろうか、もしかしたら泣くかもしれない。


 いずれにせよ――



(――情けない)



 しかし、こんなことには慣れていて、こんな時にどうすればいいかは知っている。



 その方法はルビア=レッドルーツが教えてくれていた。


 弥堂がいずれこうなると彼女にはわかっていたのかどうか、それは定かではないが、それでも彼女が言っていたことならきっと正しいのだ。それは定かだ。



――アン? テメェそんなこともわかんねえのか? なっさけねえ男だなユキちゃんはよぉ。いいかぁ、クソガキ。そういう時はよぉ、線だの立ち位置だの意味わかんねえこと考えてねえでよ、人を見ろ。誰でもいい。目の前にいるヤツでもいいし、そっちにいるヤツでもいい。誰でもいいからその辺にいるヤツを適当に見廻してよ、そんで一番ムカつく顏してるヤツをブン殴れ。夢だの希望だのが信じられねえって時は自分の敵意を信じろ。夢も希望も愛や友情も、そいつらは時にテメェを裏切るがな、敵意だけはテメェを裏切らねえ。一目見てコイツどうにもイケ好かねえなってヤツは敵で間違いねえ。適当に目に付いたヤツによぉ、ごアイサツすんだよ。『こんにちはー。どうもどうも。ところでオタクはどちら様ですかぁー?』つってよ。そんでなんかムカついたら即座に殴りかかれ。ぶち殺せ。でよ、失敗してもケンカ売っちまったら敵対するだろ? そうすりゃその後することは決まる。敵対決定だからな。それならそいつとテメェの間に線が引かれて、何処に立てばいいかなんて勝手に決まんだろ? んでな? 逆にだがよぉ……、もしも目✕前のヤ✕を見て、なん✕✕知んねえ✕どなんか✕イツを✕りてぇってよ、そ✕✕った時は……って、✕い? なん✕✕、寝✕✕のか……、人がせっか✕✕✕メに語っ✕✕ってん✕✕よ。やっ✕酒飲ま✕✕のはマズか✕✕か……またエルのヤ✕✕うる✕ぇな――




――記録を切る。


 不完全な記録。



 まだガキだった時の弥堂が彼女に悩みを吐露した時に、めんどくせえことは酒飲んで忘れろと無理矢理飲酒をさせられた時の記憶だ。


 おかげで最後の方は酔いつぶれていたせいで記憶が途切れているが、必要な部分は記録されている。これで充分だ。



 目的がないのなら、線がないのなら、敵がいればいい。



 敵さえいれば、敵さえ見つければ、それ以外は勝手に決まる。


 敵がいればそいつの目的を潰すこと、或いはそいつ自身を潰すことがそのまま自分の目的となる。そうして敵対をすればそいつと自分との間に勝手に線が引かれる。



 人間関係は全て敵対関係にしてしまえば一番楽だ。


 長生きがしたいのであれば話は別だが、そうでないのならそれが一番効率がいい。



 周囲を視る。



 擦れ違う人、追い越す人。


 一番ムカつく顏をしたヤツを捜す。



 タイミングよく――悪くか――前から一人の男がフラフラと歩いてくる。


 酔っているのか足元が覚束ない様子で近づいて来て立ち止まっている弥堂にぶつかった。



「ゥオラァッ! テメ――ぺぴっ⁉」



 全てを叫ばせる前に即座に首を絞めて持ち上げる。


 革靴を履いた男の足が床から数cmほど浮いた。



 近くに引き寄せて男の顏をよく視る。



 真っ赤な顔色を赤黒く変色させながら涙を溢し必死に首を振ろうとしている。



 汚いツラで不細工なツラではあるが、別にムカつきはしない。


 これじゃない。



 不必要なものを放り捨て歩き出す。


 敵を捜して。



 自分は感情が希薄な方ではあるが、別に皆無というわけではない。


 他人に敵意を持つことはそれなりにある。



 だから居るはずだ。



 敵が。



 ムカつく顔をしたヤツが。



 どこかに。



 視界に入る人間たちの顏を視ながら南口に出る階段を降りていく。



(敵はどこだ――)



 夜の街を背後に歩けば喧騒は遠ざかり人通りは減っていく。


 苛立ちは募っていく。







“ぶおぉ~っ”と吠えるドライヤーの音が鳴りやむ。



 シッポを巻き付けてドライヤーを、前足でヘアブラシを、それぞれ抱え上げたままネコ妖精のメロは空中をふよふよと浮遊し、今しがたお世話をした自らのパートナーの周りを飛んで自身の仕事の出来栄えを確認する。



「……カンペキッスね! カァーッ、ツレェー。ネコ妖精女子力高すぎてツレェーッス!」


「ありがとうメロちゃんっ。でもね……、その……」



「うんうん」と頷きご満悦な様子の羽の生えた黒猫に、風呂上がりの水無瀬 愛苗は感謝の言葉をかけつつもどこか言い辛そうに言葉尻を濁した。



「ん? どうしたッスか、マナ? ははぁ~ん……、わかったッス。皆まで言うなッス」


「え? なにが?」


「ブルブルする猫の手ならパンツが入ってる引き出しの中っス。ちゃんとメンテはしてあるッスからいつでも使えるッスよ」


「え? でも私今日は肩凝ってないよ?」


「なぁに、安心するッス。ジブン小一時間ほど席を外すッスから心置きなくエキサイティンするッス!」


「えと、よくわかんないけどそうじゃないの……、あのね……?」



 自分は全てわかっているとしたり顔で後方に回って腕組みをするネコを首だけで追いかけて、ふにゃっと困ったように眉を下げる。



「あのね? ドライヤーのコードが絡まっちゃって動けないの。ブルブルじゃなくってグルグルなの」


「おっと、こいつはいけねぇッス」



 ドライヤーを持ったまま水無瀬の周囲を回ったせいで電源コードが彼女の身体に巻き付き両腕を拘束したようになってしまっていた。


 メロは素早く逆回転してコードを回収する。



「とれたぁーっ!」


「にゃーーッス!」



 拘束を解かれた水無瀬は両腕を大きく広げて己の自由さを強調する。


 メロも四つ足を空中で広げて迎合した。


 ただの雰囲気だ。



 その勢いのままルンルンする水無瀬さんの今日のパジャマはタヌキさんの着ぐるみパジャマだ。



「ム……ッス」



 腕を広げたことで露わになったその服装をネコさん妖精が見咎めた。



「クォラァッス! マナ! なんでネコさんパジャマじゃないんスか⁉ 浮気ッスか! これは信頼関係に関わるッスよ!」


「え? でもネコさんのは今朝メロちゃんがパジャマの上で毛玉吐いちゃったからお洗濯だよ?」


「おっと、こいつはジブンうっかりしてたッス。ついジェラシーしちゃって忘れてたッス! ゴメンッス、マナ」


「ううん、へいきだよ? お洗濯終わったらまたネコさん着て一緒に寝ようね?」


「いや、いいんッス。色んな動物を着ていいんッス。奔放に育っていくッスよ」


「でも、メロちゃんがヤなんだよね?」


「ふふっ、そこは複雑な乙女心ってヤツッス」


「おとめ……?」



 コテンと首を傾げるパートナーにメロはドヤ顔で説明をしてやる。



「確かにジブンの大好きなマナが他の動物の着ぐるみを着てたら正直ジェラっちゃうッス。それは正直な気持ちッス」


「じゃあ……」


「まぁ、待つッスよ。確かにネコさんハートがギュッて締め付けられるッスが、このジェラシーが最高のスパイスなんッス」


「すぱいす……」


「そうッス!」



 まったく着いていけてない水無瀬を前に、メロはムンっと胸を張り一匹で盛り上がっていく。



「まるで他のケダモノに大事なマナを取られたかのような喪失感から怒りや悲しみを感じつつも、その裏で仄暗くも、しかし確かな興奮が湧き上がってくる。それも正直な気持ちッス」


「えっと……、たいへん……? なんだね……?」


「そうッス! 大変な背徳感ッス! これがNTRっ! 人類はなんて恐ろしい概念を生み出してしまったんスか! このドスケベ生物めッス!」


「また“えぬてぃーあーる”……、流行ってるんだね。私全然知らなかったよ!」


「もう流行ってるなんてモンじゃないッスよ。その概念は最早人類の遺伝子にまで組み込まれていて本能として皆持ってるものッス!」


「そ、そうだったんだ……。私まだ全然わかってないんだけど、私もなの?」


「うむッス! 避けては通れないッス。マナも一流のレディーになるためには、いつでもNTRされる覚悟を持っているんスよ!」


「う、うん……、よくわかんないけど私がんばるねっ!」



 バーンっと肉球を突き付けて宣告してくるネコさん妖精に対して、水無瀬も両の手を握力15㎏のマックスパワーで握ってみせ、フンフンと鼻息荒くNTRに前向きな姿勢を見せる。



「まぁ? とはいえッス。そこらへんに関しては我々ネコさんの方が先んじてるッス。ウチら元々NTRフリーみたいなもんッスからね! 野性だしッス!」


「えぬてぃあーるふりー……?」


「アイツが言ってたッス。ドスケベ法令がどうとかって」


「あいつ……、あっ、弥堂くんのこと?」


「おっといけねぇッス」



 メロは慌てて二つの肉球で自身のお口を塞ぐ。



 今日聞いたばかりの言葉をつい喋ってしまったが、そういえばあのニンゲンのオスがそれを言っていた時には水無瀬は催眠状態に陥っていた。


 催眠に掛かっていた状態に起きたことを、あまり彼女に知らせるべきではないと考えていたメロは口を噤む。



「そういえば、アイツって…………えーと、あー……」


「弥堂くんがどうしたの? メロちゃん」



 誤魔化すように話題を変えようとして失敗する。



「んーーと、そういえばアイツって学校でも『あぁ』なんッスか……?」


「『あぁ』?」


「あーーっと、その、どういうヤツなんッスかね? ヘンなヤツッスけど」


「んとね。真面目……? かなぁ。いっしょうけんめい風紀委員のお仕事がんばってるよ」


「……そうッスか。あの、マナ……?」


「なぁに? メロちゃん」


「アイツとは……」



 先の言葉が出てこず、メロは黙る。



「いや、なんでもねえッス! 明日上手くいくといいッスね!」


「えへへー。うん。喜んでくれるかなぁ……?」


「だーいじょうぶッスよ! マナが一生懸命選んだんっすから!」


「そうかなぁ」


「そうッス! なぁに、もしも微妙なリアクションしてたらお乳をボロンって見せてやるッス! そのオッパイに悦ばねえオスは地球上に存在しねえッス」


「おっぱいは関係ないよぅ……」



 お乳に手を当ててふにゃっと困ったように眉を下げる水無瀬に、ガッハッハッと豪快に笑いかけてメロは誤魔化した。


 そのままの流れでドライヤーとヘアブラシを片付けに動く。



「今日は疲れたッスねー。イベント多すぎッス」


「そうだねー。いっぱい歩いたねー」


「……ところで、身体の方は大丈夫ッスか?」


「え? うん。そんなに疲れてないよ」



 ゴソゴソとわざとゆっくり作業をしながら、振り向かずに水無瀬へ労いをかける。水無瀬もそれに答えながらベッドからぴょんこと降りてテーブルに置いたネコ用ブラシを取りに行く。



「……そうじゃなくって、その……、どこか痛かったり苦しかったりとか、大丈夫っスか?」


「あ、そういうことか。うんっ、全然へいきっ!」


「ホントに……? ムリしてないッスか?」


「ホントだよっ。むしろなんかいつもよりちょっと調子いい……? かも……?」



 心配するパートナーへ自らの健在ぶりをアピールするため、水無瀬は両腕を素早く何度も上げ下ろしして躍動感を表現する。



「……そうッスか。それならよかったッス」


「えへへ、心配してくれてありがとう。メロちゃんは疲れてない?」


「へへっ、ジブンはいつでも絶好調ッス! 女子力高いッスからね!」


「わぁ、すごい。かわいいっ」



 メロは素早く床に寝転ぶと身体をグリングリン捻りながらゴロゴロ転がり、獣としてのバイタリティをアピールしてパートナーを喜ばせた。



「それじゃ今度は私がブラシしてあげるね。メロちゃんおいでー」


「……はぁ~いッス…………、って、いけないッス!」



 床にペタンと座り両腕を広げる水無瀬の元へフラフラと寄っていきそうになったメロだったが、ハッとしてから頭を振る。



「どうしたの?」


「お気持ちはありがたいッスが、それには及ばねえッス!」


「え? ブラシしないの?」


「うむッス! とっても魅力的なお誘いッスが、ジブン今夜は予定があるッス!」


「そうなの?」



 無職の飼い猫の分際でと弥堂なら苛つくところだが、素直なよい子の愛苗ちゃんは多忙なネコさんのことを自らと同等の存在として尊重している。



「今夜はご近所の野良猫の集会があるッス」


「わ、そうなんだ。私もいきたいっ」


「おっと、それはダメッス。アイツらニャーニャーと威勢よく鳴く割にはどいつもこいつもヘタレッスからね。ニンゲンを見たらションベンチビッて逃げちゃうッス」


「そっかぁ。驚かしちゃったら可哀想だもんね。やめとくよ」


「悪いッスね。本来なら崇高なるネコ妖精のジブンはあんな下賤なケダモノどもの集まりには参加する義理はないんスけど、不在の時になにを決議されるかわからないッスからね。ちゃんと参加してちゃんと声をあげることが大事ッス」


「よくわかんないけどネコさんたちも大変なんだね」


「うむッス。先日役所のクソ野郎どもが一斉に野良猫の去勢をやりやがったッスからね。これから訪れるであろう少子高齢化のネコ社会についてどうするべきか、ジブンがバシっと言ってやってくるッス!」


「ご、ごめんなさーい!」


「なぁに、マナが気にすることじゃないッスよ! 所詮お外は弱肉強食! ニンゲンに酷い目にあわされない為に我々ネコさんはもっと可愛さに磨きをかけていかなければならないッス! あの野良どもがもっと可愛ければニンゲンどももメロメロになって何でも言うこと聞いてくれるに違いないッス! つまりは女子力で、結論タワマンッス!」


「よ、よくわかんないけど、タワマンじゃなくってゴメンね……?」


「今のは一般論ッス。ジブンこの家が好きッス! お花の匂いには時々お鼻がムズムズするッスっけど、パパさんもママさんも大好きッス!」


「わぁ、よかったぁ」


「もちろんマナのことが一番好きッス!」


「えへへー、私もメロちゃんが大好きだよー」


「うへへーッス!」



 にこーっと笑いあって会話を終わらせる。


 メロが窓際に立つと水無瀬も近づいて来て窓の鍵を開けてやる。



「カギはかけちゃっていいッスよ。ジブン朝帰り予定ッスから」


「うん。わかったよ。知らないおじさんについてっちゃダメだよ?」


「おっ、ナナミの真似っスかー?」


「うんっ。早くまたななみちゃんに会いたいなぁ」


「まぁ、2週間くらいッスよね? そんなのすぐッスよ」



 カラカラと窓を開けてやるとメロは数歩進む。



「マナこそ、知らないおじさんが窓開けてくれーって来ても開けちゃダメッスよ?」


「ここ二階だよ⁉」


「甘く見ちゃダメッス。プロのおじさんはこれくらい平気で上がってくるッスよ」


「そうなんだ。おじさんってすごいんだね……」


「知ってる男でもダメッスよ。アイツが来ても開けてはいけないッス。ママにされちゃうッスよ」


「アイツ……? 弥堂くん?」


「そうッス。ジブンにはわかるッス。ヤツは近年まれに見るレベルのドスケベッス。間違いなくプロッス。結婚するまで簡単に許しちゃダメッスよ」


「弥堂くんは来ないよぉ。お家知らないと思うし」


「へへ、それもそうッスね」



 にへへーと笑いあうコンビは、そのプロのドスケベが学園の事務室に不法侵入し既に個人情報を入手済みであることを知らない。



「それじゃ、行くッスね」


「うん、気を付けてねっ」


「ういうい、おやすッス」


「うん。おやすみなさい」



 二階の窓から黒猫が飛び立ちふよふよとゆっくり地面へ降りていく。



 その姿を見送り水無瀬は窓とカーテンを閉めた。



 振り返ってベッドへ向かう。



 明日の月曜日からはまた一週間学園生活だ。



 授業などで必要なものはすでにバッグに詰めて準備を終えているので、あとはもう寝るだけだ。



 いつもは22時か23時には就寝してしまうので、普段よりは少し遅い時間だが特に問題はないだろう。



 いつもより魔法少女の活動が長引いてしまったので、帰りが遅くなり、その結果の日付が変わる少し前の時間だ。



 今日はあちこち移動をした。


 だからメロも気遣ってくれたのだろう。



「メロちゃんは心配性だなぁ」



 そう漏らすが表情は嬉しげで、言葉とは裏腹に胸の奥がポカポカとする。



 以前のことがあるから余計にメロにも両親にも心配をかけてしまって、逆に心苦しいものもある。



(……でも、今はこうしてどこにでも歩いて行けるから、こんなに元気なんだってもっと安心させてあげないと……)



 心中でそっと決意する。



 メロは心配していたが、彼女へ答えた言葉どおりそれほど疲れてもいない。



 むしろ、いつもよりも元気なくらいだ。



 お昼過ぎからあちこち歩いて、夕方にショッピングモールで見たことないくらいに大きなゴミクズーと遭遇し、戦った。



 それを考えるともっと疲労していてもいいはずだが、何故だか妙に調子がいい。


 なんなら戦いが始まる前よりも元気になっているくらいだ。



「なんでだろう?」



 一人きりの部屋で首を傾げる。



 他にも気になることはある。



 ショッピングモールの戦闘の記憶がない。



 メロも彼も、自分がゴミクズーを倒して力を使い果たして倒れてしまったと、そう言っていた。



 そうだっただろうか?



 その時のことを思い出す。



 ショッピングモールの敷地に入ったところで悪の幹部であるボラフが現れ、ギロチン=リリィという名前の巨大な花のゴミクズーを喚び出し、周りの人々がパニックになったところで慌てて変身して結界を張って世界を隔離し、そして戦闘に入った。



(……大きすぎてどうしようって思ってたら、あっというまに捕まっちゃって、きゃーってなってたら――)



――そうしたら彼が現れた。



 弥堂 優輝。


 クラスメイトの男の子。



(弥堂くんはすごいなぁ……)



 身体がおっきくて力が強いのは知っていたが、魔法が使えるわけでもないのに急にゴミクズーと戦うことになっても全然恐がらないし、慌てすらもしない。



「私はすぐゴミクズーさんにぶたれちゃうのに……」



 あの巨大なギロチン=リリィの攻撃を当たり前のように躱して、その上どんくさい自分に魔法の当て方まで教えてくれて……



「――あれっ?」



 そこから先の記憶がない。



 次に思い出せる場面は戦闘が終わった後の場面だ。



(あの後魔法が当たって倒せたのかな……?)



 その後魔力切れで倒れたという話だったが、そんな自覚症状は全くない。



(むしろ……)



 むしろ、魔力は増えているくらいだ。



 おかしいと、そう思うがしかし――



(――でも、みんながそう言うんならそうなんだよね)



 弥堂やメロが自分に嘘を吐いているのかもしれない。


 そのような発想は水無瀬 愛苗には全くなく、可能性を思いつくことすらない。


 ゼロだ。



 だから――


 もしかしたら大きな戦いの後で興奮しているから、高揚感から調子がいいように感じるのかもしれない。そういえば初めて魔法少女に変身した時もそうだった。だから今回もきっとそうだ、と。


――そのような方向に考えがいく。



「うんうん」と納得して頷いたところで、自分は今部屋に一人だったことにハッと気が付き動きを止める。



「……さみしいな」



 ポツリと漏らす。



 ここ何年かはいつもメロが一緒に居てくれる。


 今日のように特別な事情がない限りは一人きりになることはない。


 自分ももう高校生なので、いい歳だ。



 でも――



――ひとりの部屋は寂しい。



 親友の七海には暫く会えない。




 気持ちが落ち込まないように、いつも一緒のパートナーのことを考える。



 そういえば、彼女はしきりに弥堂のことを気にしていたようだ。



 彼はいつも『あぁ』なのか、と。



(『あぁ』ってなんだろう……?)



 よくわからない。



 だから、明日聞いてみよう。



(そうだっ。明日……っ!)



 ハッと思い出してテテテッとテーブルの方へ駆けていく。



 テーブルの上に置いておいた紙袋からキレイにラッピングされた包みを両手で取り出す。



 それを持ったままトトトッとスクールバッグのもとに移動する。



(忘れちゃうといけないから)



 包みが潰れないように中に入っていた教科書類を並べ直してスペースを確保する。


 この日のために準備をしてきたのだ。



 その為にメロも母親も七海も協力をしてくれた。



『あぁ』



 その意味は実はなんとなくはわかっている。



 学園でも色んな人が彼のことを『そう』言っている。



 危ない。頭がおかしい。乱暴者。コミュ障。空気が読めない。悪い人。クズ。カス。ゲス。ヤクザ。人殺し。などなど……。



 彼が多くの人たちから『そう』言われていることは知っているし、耳にだって入っている。


 いくら自分が鈍くたってそれくらいのことには気が付いている。



 でも――



(――違う……)



 違うのだ。



(――そうじゃない)



 そうではない。



 それだけじゃない。



 自分にはわかる。



 今から大体1年前。


 去年のG.Wが終わった頃に彼は転入してきた。



 高校1年生で入学式から一か月遅れで編入という形でクラスメイトになった彼のことを周りの生徒たちは物珍しそうにしていた。



 頭の回転の遅い自分はなんとなく「そうなんだー」とボーっとしていただけだったが、すぐに気が付いた。



 自己紹介をするようにと先生に言われて教卓に立ってこちらを向いた彼が顔を上げた瞬間にわかった。



 自分の気のせいでなければ視線をこちらへ向けた彼と、目と目が合った瞬間に気が付いて、そして気になった。



 だから、自分は知っている。



『そう』じゃないと。



 その直後に今年の自己紹介と同じようなことをして、その後も連日色々とヤンチャをして、それが続くうちに『そう』言われるようになってしまったが、絶対に『そう』じゃないのだ。



 色んな人に悪口を言われたり、たまにケンカをしたりしているみたいだが、自分は知っているから、自分は彼の味方でいようと決めたのだ。



(ななみちゃんみたいに……)



 高校に入学してすぐにクラスで各委員会の担当を決める際に、何か人の役に立つことをしようと、家が花屋をしているからという安易な思い付きで、学園の花壇の世話などを主にする『いきもの委員会』に所属することを立候補した。


 しかし、そこで上手く行動が出来なくて浮いてしまっていた自分に声をかけて、仕事も周囲との関係も上手くいくように助けてくれたのが、現在親友になっている希咲 七海だ。



 今にして思えば空回りしていたのだと思える。


 色んな人の役に立とうと、色んな人と仲良くなろうと張り切りすぎて、その方法もわからないのに気持ちだけで暴走していたのだ。


 その自分に出来なかったことを完璧に実演してみせたのが七海なのだ。


 とにかく七海ちゃんはカッコよかった。



 それから「七海ちゃん、七海ちゃん」と後に着いていっていたら、なんやかんやで仲良くしてくれて、親友にまでなってくれたのだ。


 その時からずっと七海ちゃんが大好きだ。



(ななみちゃん……)



 お胸がぽわっとするがすぐにハッとなる。



 今は七海ちゃんではなく弥堂くんのことだった。



 ともかく、七海のおかげで自分は他の人とも仲良くなれて快適に学園生活が送れるようになったので、今度はそれを自分が弥堂にしてあげようと、そういう心づもりだ。



 誰かに優しくしてもらって、『いいこと』をしてもらって。


 自分もその人に同じだけのことをしてお返しをして。


 さらに他の誰かにも同じことをしてあげて。


 その誰かもさらに他の誰かに。



 そうすればきっとみんな幸せになれるはずなのだ。



 水無瀬 愛苗はそのように信じている。



 そのための行動の一つが魔法少女であるし、また別の一つがこのラッピングされた包みなのだ。



(喜んでくれるといいな……)



「――弥堂くん」



 ドクン――と、跳ねる。



 その名前を思わず口に出した瞬間、心臓が一つ大きく跳ね、そして今はドキドキドキ……と、いつもよりも強く動いているように感じられた。



 体調不良ではない。



 身体は調子がいい。



 とてもいい。



「なんだろう……」



 呟きに応えてくれる者は今は誰もいない。



 一人きりの部屋で胸に手をあてて、その鼓動にきいてみた。





 寝静まっていく住宅地の道路をトボトボと一匹のネコが歩く。



 毛並みの黒い彼女は、今そうしているように羽を隠してしまえば、夜闇に溶けるちっぽけで存在感のないただの黒猫と変わらない。


 ただの黒猫と同じように四つ足を動かして目的地へ進む。



「結局言えなかったッスね……」



 そう口に出しそうになって慌てて噤み、心中で留めた。



 先程の愛苗の部屋での出来事。



――アイツとは、



 言いかけて止めた、口に出来なかったその先の言葉を思う。



――友達をやめた方がいい。



 そう言いたくて、言うべきで、だが言えなかった。



 自分以外の、ちゃんとしたニンゲンの友達が愛苗に出来ていることはとてもいいことだし、何も含みはなしにメロとしてもとても嬉しいことだ。



 ちょっと前のことを考えれば、彼女に友達が出来ているなんてとても考えられないことだったので、歓迎すべきことなのだ。



 日々彼女から聞く、学校でお友達と仲良くお話できた、だとか。



 ななみちゃんと一緒に楽しく遊べた、だとか。



 彼女から聞かされるそれらの話はメロにとってもとても喜ばしい話だった。



 だから、少しくらい素行の悪いニンゲンだったとしても、悪意なく彼女と仲良くしてくれるのなら別に構わないと、そう考えてはいる。




 だが――




(――アレはダメだ)




 あのニンゲンの眼を思い出してゾッと毛を逆立てる。



 アレはきっと違うモノだ。



 ニンゲンではない自分にもそれくらいはわかる。



 アレは絶対に関わってはいけないニンゲンだと。




 電灯に照らされない闇の中を選んで、目立たぬように新商店街の方向へ進む。




 アレは異常なモノだ。



 初めて遭った時には疑心を抱き、そして今日の出来事で確信した。



(絶対に普通じゃないッス……)



 あんなニンゲンがいるはずがない。




 メロがニンゲンというものと身近に接するようになったのは、愛苗と出会って彼女と共に過ごすようになってからだが、今まであんなニンゲンは一度も見たことがなかった。



 今日のショッピングモールで、結界を張る前にゴミクズーが人の多い場所で現れ、その時その場に居合わせたニンゲン達はパニックを起こして阿鼻叫喚となった。



 それが普通なのだ。



『俺が信じようが信じまいが目の前で起こっている現象は変わらんだろう。だったらとっととそういうものだと割り切って先に進めた方が効率がいい』



 あのニンゲンはそう言っていた。



 その時は自分も、そんなニンゲンもいるかもしれないと軽く流した。


 だが、そんなわけはない。



 普通のニンゲンでは到底知り得ない魔法を使う少女に出会って。


 普通の動物とはかけ離れたゴミクズーという化け物と遭遇して。


 さらにそれ以上の超常な存在であるボラフやアスと対峙をして。


 ましてやそれらと敵対をしようだなんて普通であるはずがない。



 あのニンゲンは異常だ。



 魔法少女である愛苗やそのパートナーである自分、それに化け物であるゴミクズーにそれを使役する怪人のボラフやアス。


 これらの戦いの中に入って来たあの男は間違いなくただのニンゲンであるはずなのに、魔法を使うわけでもなく異常な言動で存在として格上であるはずの自分たちと渡り合ってみせる。


 そんな弥堂 優輝というニンゲンがメロは恐くて仕方がなかった。



(魔力があるわけでもないのに、どうしてあんなことが……)



 正確には魔力は生物である以上はどんな生き物にもある。


 しかし、それを以て超常の現象を起こすには一定以上の量が必要になる。


 あのニンゲンにはそれがない。


 どう見てもそこらの一般的なニンゲンと大して変わらない程度の魔力しか持っていない。



 あのニンゲンが行使している攻撃方法はただの手足を使ったものに過ぎない。



 一つだけよくわからないのは催眠だ。



 何をどうやったのかはわからないが、愛苗をおかしくしたアレは魔法ではない。



 だが、どんな手段だったとしても、アレは到底許容できるものではない。



 あんなことは何度も起こさせるべきではないし、もしかしたらもう二度とさせてはいけないものかもしれない。




 だから、あのニンゲンには関わって欲しくない。


 アレは敵でも味方でも近くに置いておいてはいけないモノだ。



 だから――



――友達をやめるように、と。



 そのように言おうとして、言うべきで、言わなくてはいけなくて、しかし言えなかった。




 地面を見つめながらトボトボと前足を伸ばしてゆっくり歩く。




 自分はいつもこうだ。



 やるべきこと、やらなければいけないことがあって、それがわかっていても出来ない。



 目先の相手の顔色が変わることを恐れて決断を、実行を先送りにする。



 先々を考えたら、どう考えてもそうした方がいいとわかりきっていたとしても、今目の前にいる愛苗が悲しむことを恐れ、嫌われることを恐れ、何も言えない。


 大事なことは何も言えず、誤魔化すために巫山戯る。


 何の役にも立たないクズだ。



 このままでは絶対にいけない。



 あのニンゲンが関わること。


 特にあの催眠とかいうのは二度とやらせてはならない。


 あれのせいで進んでしまった。



 だが、元を辿れば総ては――



(――ジブンのせいッス……)



 今が幸せで、今が楽しくて。



 ゆったりと時間が進むその今を少しでも壊したくなくて、失いたくなくて。



 まだ大丈夫と、目を逸らし、目先の楽を啜っている内に確実にそれは近づいてくる。



 それまでの時間がどれだけ長かったとしても、いつかは必ず辿り着いてしまう。



 こんな風に。




 足を止めて顏を上げると目的地にしていた空地に辿り着てしまっていた。



 嫌でも望まなくても歩いていれば必ず目的地に辿り着いてしまう。



 いつまでも足を止めていたいのに。



 停滞したままぬるま湯に浸かり続けることが出来たら。




 それは叶わない。




 生きている以上必ず生命は消費され続け、何をしても何をしなくても必ずそこへ辿り着く。


 望んでも望まなくても。




(なんとか、しなきゃ……っ!)



 手を握り心中でそう強く願い、メロは空き地に足を踏み入れた。





 シャワーを終えてダイニングに戻る。



 暗い部屋の中では点けっぱなしのテレビだけが光源になっていた。


 現在放送されているのはローカル局のニュースバラエティだ。


 弥堂はそちらにチラリと目を遣る。


 画面左に並んでいる『本日のトピックス』と書かれたリストには大したニュースはなかった。



 雑にバスタオルで頭を掻き回しながらチャンネルを変える。


 変えた先は大手民放局のチャンネルだ。


 こちらもニュースをやっている。



 原稿を読み上げるキャスターの声を聞き流しながらスマホを操作して夕方以降のニュースを流し見る。特に目立った出来事はない。



 ないものは仕方ないとスマホをテーブルに放り投げる。



 希咲のせいで真っ二つに割れたテーブルをガムテープでグルグル巻きにして無理矢理固定しているのだが、そのガムテープがいい感じにクッションの役割を果たしており安心してスマホを投げられるため、弥堂は若干このテーブルを気に入ってきていた。



 バスタオルを床に放って用意していた適当な服に着替える。



 テレビからはもう何ヶ月間も続いている聞き飽きた政治家の不正問題についての何も進展のない話が流れてきている。

 特段緊急性のあるようなニュースはなにもないようだ。



 いくつかチャンネルを回しているとスマホが鳴る。



 途端に嫌な予感がして眉を顰めるが、鳴ったのは普段使いしている物とは別のスマホだ。


 実はこちらの方が最初に所持したスマホで、普段学園などで使っているのは学園に編入してから契約して増やした2台目のスマホとなる。



 通知を確認してみると華蓮からのメッセージのようだ。



 特に考えもせずにedgeのアプリを操作して、『あぁ。俺もたのしみにしているよ。』と乾いた瞳で文章を作成し返信をする。



 店を出る前に約束させられた水曜日に家に来いという件について念押しをされたのだ。


 弥堂としては一応行くという風に聞こえなくもないニュアンスの返事をしたかもしれないが、水曜日は当日に急に大事な用件が出来て行けなくなる予定になっている。


 だから、約束をした段階では行く意思があったという証拠を残す為にこのような前向きな姿勢の文章を返したのだ。



 こちらのスマホは華蓮の家で厄介になっていた時に、連絡用にと彼女から買い与えられたものだ。月々の使用料は今でも彼女が払っている。自分で払えるのだが払わせてくれないのだ。


 学園に編入した際に使い分けをする為に増台した形になる。



 古い方のスマホには、当時の弥堂がチンピラのような生活をしていた為に、ロクでもない者たちの連絡先ばかりが溜まってしまった。学園生活の中でこの中身が何らかの形で誰かに見られるようなことがあれは大変不都合がある。


 そのような理由から真っ新な端末を用意したのだが、結局どのみち悪いことばかりをしているうちに中身は大して変わらないものとなってきて、今では2台持つ意味を本人もあまり感じなくなってしまっていた。



 そもそもメールにせよチャットにせよメッセージにせよ。


 弥堂はこういったものを好まない。



 自分の発言が相手のもとに記録として残ることに生理的な嫌悪感があるからだ。


 しかし、自分の手元に言質を残すことも出来るので、便利さを人質にとられ渋々利用している。



 基本的にヤバイ仕事をする時は電話を使うことが多いので、古い方のスマホでメッセージのやりとりをする相手も、今ではほぼ華蓮だけになっている。



 その彼女へ送ったメッセージに既読がつき、すぐにハートのスタンプが返ってくる。



 彼女はあまり余計な連絡をしないし、一回のやりとりも余計に長引かせたりもしない。


 恐らく弥堂がこういったコミュニケーションを好まないことを知っていて気を遣ってくれているのだろう。


 ありがたいことだ。




 そう思った矢先に『ぺぽ~ん』と再びスマホの通知が鳴る。



 まだ何かあるのかと手を伸ばすが、通知ランプが点灯しているのは今しがた使っていたスマホではなく、普段使い用の2台目のスマホだ。



 今鳴ったのはedgeのメッセージ着信を知らせる通知音で、edgeの主な利用用途は風紀委員会の連絡だ。しかし日付が変わるようなこんな時間にその連絡が回ってくることなどない。


 ということは――



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おきてる?』



 ポップアップされたその文字列を視て、弥堂は一度スマホを置き天井を見上げた。



 別に驚くようなことではない。


 風紀委員関連以外でこのIDを知っているのはこの女だけだ。


 この2台目のスマホのメッセージ機能はほぼ希咲 七海専用になってしまったのだ。


 1台目も2台目も大して変わらないのならそろそろ1台にまとめるべきかと考える。


 ただし、注意しなければならないのは、華蓮さんと違ってこの女はこちらのことを慮ってなどはくれないということだ。



 さてどうするかと、なんと返すべきか、そもそも返信するべきかしないべきか、この時間なら寝ていたという言い訳が成立するな、などと考えながらチャット画面を表示させると、その途端――



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:おきてんね』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:はやく返事しなさいよ』



 プッ、プッ、プッと矢次早にメッセージが増える。



(――しまった)



 弥堂は唇を噛む。



 そういえば既読機能とかいうゴミ機能がこれにはあるのだった。それをすっかりと失念していた自身の手落ちを強く恥じる。


 だが、それにしてもこんな機能は『世界』に存在していてはいけないと強くそう思う。



(これを最初に考え付いたヤツは頭がイカれている……)



 弥堂は顔も名前も知らない何処かの技術者を強く軽蔑した。



 しかし、存在してしまっている以上は『世界』が許しているのだし、こうなってしまってはもはや諦める他ない。



 それにしても、こいつは既読がつくまで画面を見張っていたのだろうかと思うと首筋にプツプツと鳥肌が立つ。それを無視して希咲への返事を送る。



『なんのようだ。ななみん。』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:それやめろっつってんだろ なんでしょっぱなから挑発してくんの⁉』


『うるさい。なんのようだ。』



 何故この女はこんなに攻撃的なのだと画面の向こうの世界の何処かに居る彼女を軽蔑する。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あした』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ガッコいく?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:いくでしょ?』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ちゃんといきなさいよ』



 なんのつもりだと眉を歪める。



『関係ないだろ。母ちゃんかお前は。』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:誰があんたのママよ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あとカンケーあるし!』


『ねえよ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あるっ!』



 溜息を吐く。



(なんなんだろうな。こいつは……)



 ズケズケとモノを言ってくるくせに会話がいつも遠回りな気がする。



(水無瀬とはまた違った効率の悪さだな)



 希咲 七海という少女について考えているとまた新たにメッセージが新着する。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:うそつき』



 なんのことだと首を傾げようとして思い至る。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:やくそく』


『わかってる』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:うそ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ぜったい忘れてた』



 そういえば明日は彼女と交わした約束を果たす日だったなと思い出す。



 チッと舌打ちが出た。



 この土日で大分情勢が変わった。


 こんなくだらない案件に関わっている暇はない。



 それをわざわざこんな風に前日の夜に念押しをしてきやがって、と。


 これじゃバックレられねえじゃねえか、と。



 そんな理不尽な怒りを感じているとどんどんとメッセージが送られてくる。



『@_nanamin_o^._.^o_773nn:うそつき』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:記憶力いいって言ってたくせに』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:わすれてんじゃん』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:やくそくしたのに』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:うそつき』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:うそつきうそつき』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:うそつきうそつきうそつき』



 ビキっと口が引き攣る。



『うるさい。忘れてないっていってるだろ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:言ってない』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:『わかってる』って言っただけ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:↑みろ ばか』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:やっぱ記憶力よくないじゃん』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:なに約束したかいってみろ ばか』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばか』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばかばか』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばかばかばか』



 口の端が吊りあがり今度はコメカミが引き攣る。



 なんて嫌な女なんだ。



 ちょっと約束を守る気をなくしていただけで何故こんなにも非難されなければならないと、弥堂は憤る。



(なんでコイツこんなにムカつくんだ……)



 と考え、すぐに答えに行き着く。



(そうか――)



 ギロリとスマホのディスプレイを睨みつける。



(――お前が俺の敵か)



 ようやく見つけたと、百年の怨敵に出会ったようなノリで返信文章を作成する。



『うそつきでもばかでもない。記憶も抜け落ちてなどいない。俺は一度記憶したことは忘れないと何度言わせる。きおくりょくがないのもわすれっぽいのもお前だばかめ明日見做せを甘やかせばいのだろうそれくらいおぼえてるかくごしろ俺があいつをあまやかしきってもう二度とおまえのことなど思い出さないくらいにあまやかしてやってMTRしてやるその時なって公開するがいい』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:わ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:びっくりした』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:長文きもい』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:句読点どうした』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:よみづらい!』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:いみわかんない!』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あと』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:こないだあたしが返したお金』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ちゃんとお財布にしまったの?』


『かんけいねいだろ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ある!』


『ねえよ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:うるさい! ちゃんとしまったの⁉』


『さいふなんかねえって言っただろうが』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あっそ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:じゃあいい』


『なんなんだ』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:いいってゆってんじゃん!』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:しつこい!』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:とにかく』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:あした ちゃんとやってよね』


『@_nanamin_o^._.^o_773nn:ばかっ!』


『うるせえぶす』



 やはり言い合いでは勝てないので、ルール無用の前時代的暴言を打ち込んですぐさまトドメの『他人を激怒させるスタンプ』を2つお見舞いした。



 ぺぽぺぽ連続で鳴り続ける通知を端末の電源を切ることで無理矢理黙らせてからスマホをテーブルに投げつける。


 ついでに、聞きたいニュースなど一つも出てこない役立たずのテレビも電源を切って黙らせた。



 もうやることはないと寝室に向かう道すがら、八つ当たりでダイニングテーブルの足を蹴りつけるとその威力がガムテープの粘着力を上回りテーブルがゴシャァっと崩れ落ちる。



 ガターン、バタバタ……っと何やら階下から聴こえてくる物音を聞き流して寝室の戸を閉めた。



 最悪の気分で日曜日が終わり明日からはまた学園生活が始まる。


 あるいは、続く。


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