1章46 『4月22日』 ⑤


 ゆっくりとこちらへ顔を向けた紅月 望莱あかつき みらいに、蛭子 蛮ひるこ ばんは微かに息を呑む。



 彼女の顏にはいつも浮かべているにこやかな笑顔はなく、いつもパッチリと開かれている瞼も僅かに細められている。



 常は彼女の黒い瞳を輝かせているハイライトはその瞼の裏に隠され、黒目の奥で血の様なくれないが揺らめいた。



 情欲をふすべるワインレッド。



 その紅に見止められた男は慎重に言葉を選ぶ。



「……なんだよ」



 望莱はすぐには答えず、警戒心を剥き出しにする蛭子を数秒見つめ――




――ニッコリといつもどおりの笑顔を浮かべた。



 それと同時に張り詰めかけていた空気も緩み、肩透かしをくらった蛭子も脱力する。


 ハァ……と、二人の様子を見ていた希咲の溜め息が漏れた。



「蛮くん遊びましょう」


「ハァ? マジでなんなんだよオマエ……」



 すっかりいつもどおりの調子で会話が行われる。



 蛭子が何を気遣い何を伝えようとしたのか、望莱が何を恐れ何に怒りを発したのか。


 それを正確にわかっている――わかってしまった希咲が漏らした二度目の溜息は、話し声に掻き消されて誰の耳にも届かなかった。




「蛮くんもやりましょうよ」


「なにをだよ」


「一緒に魔法少女になりましょう」


「いやだよ。そんな課金圧の強いゲーム」



 何か実体験の伴った嫌な思い出があるのか、蛭子は盛大に顔を顰めた。


 そんな彼の方を見ることなく、スマホに視線を戻した望莱は適当におしゃべりを投げ続ける。



「ヤンキーのくせに何を情けないことを。お金なんてカツアゲすればいいじゃないですか」


「幼馴染に犯罪を勧めるんじゃねえよ。バカじゃねえの」


「……もうすぐ停学明けるんだからやめてよね」


「オマエまでなんだよ。やるわけねえだろうが!」



 常識で考えてやるわけがないのだが、希咲にまで懐疑的な目を向けられた蛭子は心外だと声を荒げる。



「フツーはそうなんだけど……、あんた常識あるくせに気付いたら事件のど真ん中で人殴ってるとかしょっちゅうじゃん」


「……それは言ってくれるなよ……。好きでやってるわけじゃねえんだ。そもそもヤンキーじゃねえし」


「でも、その見た目と喋り方とケンカっぱやさでそれは無理があると思います」


「……うっせ」



 返す言葉を思いつかずに蛭子は目を逸らした。



「まぁでも、しょうがないですよね」


「アン?」


「蛮くんはガチャにお金使えないですもんね」


「そんなもんにアホほど金突っこんでるオマエがおかしいんだよ。オレら高校生だぞ」


「またまたぁー。そうじゃないですよねー?」


「ア?」


「蛮くんにはぁ、もっと重要なお金の使い途があるからぁ、他のことにぃ、使えないんですよねぇー?」


「……なに言ってんだオマエ」



 こちらを煽る気マンマンのムカつく口調によって湧き上がる苛立ちを抑えながら、蛭子は警戒心を滲ませ慎重に問い返した。



「えー? わかんないんですかぁー? 自分のことなのにぃー?」


「チッ、オマエほんとムカつくな。別に変な使い途なんかねえよ」


「わたし別に『変な』なんて言ってないんですけどー? 何か変な心当たりでも?」


「うるせえな。ねえよ!」


「ホントにー? このみらいちゃんが幼馴染のお金の流れを掴んでいないとでもー?」


「キメェなオマエ! そんなもん掴めるわけねえだろうが!」


「そうですか。では、このわたしの口から発表しても?」


「ねえもんを出来るわきゃねえだろ! 勝手にしろよ」



 自分には何も疚しいことはないと「ハッ」と嘲るように蛭子は鼻を鳴らす。


 堂々たる態度ではあるが、その目が若干泳いでいることを見逃さなかった希咲が彼へジト目を向けた。



「では! ねぇねぇ、聞いてくださいよ七海ちゃん。蛮くんったら最近ですね、ひどくご執心している女の子が――」


「――待てっ!」



 望莱がノリノリで話し出そうとすると、蛭子くんから強い発声で待ったがかかった。


 みらいさんはスッと真顔になり見下すような目をする。


 希咲さんも大体同じ表情だ。



「はい? なんです?」


「待てっ! もうやめてくれ!」


「何も疚しいことがないのでは?」


「オマエやっぱなんか怒ってんだろ⁉ オレが悪かったよ。もうカンベンしてくれ」


「ふふ。蛮くんださぁーい。よわよわ過ぎるので今回は許してあげます」



 情けなく詫びを入れてくる年上のお兄さんに一定の満足感を得てニッコリ笑顔を戻し、彼に赦しを与える。



「というわけで今すぐダウンロードを開始してください」


「わかったよ、クソッ……!」



 悔しげに呻きながらも蛭子は言われたとおりにスマホゲーのダウンロードを開始する。



「……なんでこんなに無駄に容量デケェんだよ。全然進まねえし……!」


「ワガママ言うんじゃありません。こんな孤島で電波が入るだけ感謝するのです」


「そっか、ここ回線遅ぇのか……、クソがよ」



 一向に進まないダウンロードバーをずっと見ている気にはなれず、蛭子は悪態をついて自身のスマホをテーブルに投げ出す。


 強引な布教活動が成功したことで既に手打ちにしたのか、望莱もそれ以上は彼に絡まず自身のゲームを再開した。




 しかし、それで済まないのは未だジト目の希咲さんだ。



「ちょっと待ちなさいよ。ねぇ、蛮。夢中になってる女の子にお金使ってるってなに?」


「えっ――⁉ い、いや、それは違うんだ!」


「もしかしてヘンな女にひっかかってお金貢いでるとかじゃないわよね?」


「変な女じゃねーよ! あの子はそんなんじゃねえ! そんな言い方やめろよな!」


「えっ? あ? お、おぉう……?」



 しどろもどろになって逃げていた男が急に強気になって断言口調で謎の女を庇い始め、希咲は思わずその勢いに圧されてしまう。



「これ……、ゼッタイにダメなやつじゃん……」



 蛭子 蛮といえば、髪を金色に染めた上にガタイもよく目立つので、様々な不良男子に絡まれる。

 それを次々と撃退していった結果として、現在では学園最強のヤンキーなどと呼ばれ、他校や街の不良にも知られる存在となった男だ。


 しかし、この大男は希咲たち幼馴染グループ以外の女を相手にすると、はっきりと強気に物を言えないところもある。そしてなにより折り紙付きの巻き込まれ体質だ。



 もしもおかしなヤベェ女に騙されて搾取されているのなら、自分がどうにかしてやらなければならないのではと、希咲は気が重くなる。



 聞きたくないけど大事になる前に詳しい聴取をせねばと、口を開こうとすると、その前にまた新たな人影が現れる。




「む、もう揃ってたか」


「真刀錵」



 ヌッと音もなくキッチンの方から現れたのは天津 真刀錵あまつ まどかだ。


 今日はダボダボの大きめのTシャツに学園の体操服のズボンを穿いている。



「待たせたな。そろそろ食事が出来るぞ」


「……だいじょぶそ?」


「出来栄えについては問題ない」


「随分と時間かかったじゃねえか」



 心配げに声をかけてくる希咲と不満を述べる蛭子に天津は「うむ」と鷹揚に頷く。



「リィゼの奴が唆したせいで聖人まさとが頑張りすぎてな」


「つまりいつもどおりってことですね」


「やな予感……」


「あの姫さんもマジで余計なことしかしねえよな。おにぎりと適当に焼いた肉でいいじゃねえか。おせえんだよ」


「聖人がやると言えば私に否やはない」



 忠臣も斯くやといった風に毅然と天津が言い切り、他の者も「今更これ以上言っても仕方ないか」と会話が止まる。


 すると、すぐに望莱はペタペタとスマホを弄り出す。



「む、みらい。お前はまたゲームをしているのか。少しは運動をしろ」


「指の運動中です」


「そうか。ならばよし」


「よくねーだろ」


「メンドくさくなったのね」



 注意を与えた割に天津は即座に望莱を見限った。


 物怖じなど無縁なみらいさんはそんなお姉さんにも絡んでいく。



「真刀錵ちゃんも魔法少女になりましょうよ」


「私は剣だ。魔法など不要」


「でもでも、今なら6万円ほど払えば実質無料で好きな魔法少女をお迎えできますよ?」


「それただの天井じゃねえか」


「金は自身の周りにしか積み重ならない。それによって集まる人心も栄光も所詮は虚構。自身を高めるには己の裡に積み重ねるしかない。それには心身の鍛錬あるのみ」



 これは結構いい言葉なのではと「ふんふん」と頷きながら七海ちゃんはSNSに投稿しようかと思いつく。



「でもでも、お金を集めるのに頑張ることも鍛錬とは言えないでしょうか。だって頑張ってますし。その経験は積み重なるはずです」


「む。たしかに」



 と思ったら、言った本人が即座に論破されてしまい、七海ちゃんはお口をもにょもにょさせながら作りかけの文章を削除した。



「あとー、爆死のリスクを抱えて毎週のガチャを乗り越えるのはメンタルが強くなると思います」


「一理あるな」



 天津 真刀錵という人物は基本的に他人に反対意見を押し付けないのだが、それは相手を尊重しているわけではなく単純に喋るのが面倒だからだ。


 だから、めちゃくちゃな反論であろうとも、心にも思っていなくても適当に肯定をして話をすぐに終わらせようとする悪癖があった。



「なるほど、わかった。つまりこれはお前の鍛錬なのだな」


「いいえ。これはパパのお金でやってます」


「駄目じゃねえか。つか、テメェの金でやれよ。オマエなんか怪しい会社やって稼いでんだろ?」


「こんなもんに自分のお金使うわけないじゃないですか。バカバカしい」


「ふざけんなよ、このクソガキ……っ!」


「あんた、マジで色んな人に謝んなさいよ……っ!」



 希咲と蛭子から非難を向けられるが、みらいさんは天才なのでその無敵の心に響くことは一切ない。



「じゃあ代わりに真刀錵ちゃんがガチャボタン押してください」


「あんたの『じゃあ』の使い方おかしい」


「オマエってマジで人の話聞かねえよな」



 年上のお兄さんお姉さんに叱られながらニッコリと望莱は微笑む。


 彼女に話しかけられた当の本人は、もう話は終わったと見做して瞼を閉じてジッとしていたが、その目を開きジロリと望莱の手のスマホを睨む。



「断る」


「真刀錵ちゃんならあらゆる物欲センサーを抜けられると思うんです」


「無暗に電子機器に触れると体内の電気信号の流れが乱れて身体操作に影響が出る」


「真刀錵ちゃんがなんか色々拗らせた頭おかしい大学教授みたいなこと言い出しました」


「健全な肉体にこそ健全な魂が宿る。そして鍛え上げた魂の強度こそが刀身の強靭さと成り、意思の冴えこそが斬れ味に成る。お前も鍛えろ」


「なに言ってるかわかりません。ここは論より証拠。健全な電気の腹筋を触らせてください」


「いいだろう」



 まるで噛み合っていないのに普通に会話している風の二人に希咲と蛭子が胡乱な瞳を向けているが、その視線を尻目に天津は望莱の前まで歩いていく。


 そしてダボTを持ち上げてお腹を差し出してやった。



「わぁ! スゴイです!」


「鍛錬の成果だ」


「カチカチです!」


「お前もやれ。私の見立てではお前は十年後デブになる」


「がーんっ⁉」



 ショックを受けたフリをしつつも天津の腹筋をペタペタと触る望莱を希咲は呆れる。彼女の不摂生と運動不足についてよく知っているので、天津の見立ては決して的外れではないからだ。



 でも――と、自分の方に背を向けて望莱の前に立つ天津の腰を見る。



 彼女の言葉どおりよく鍛えられていて、ダイエットの為のものではない強靭さがありつつも撓やかさも失われていない。


 同じ女性の自分から見ても“なかなかのモノ”だと希咲は感心する。



 夏も近いことだし、もしかしたら水着の撮影をするかもしれないし、何より大好きな親友の愛苗ちゃんとの海イベントも控えている。


 場合によっては自分も絞る必要が出てくるかもしれないので、その時は彼女に相談をしようと「うんうん」頷いていると、望莱と天津の向こう側で椅子に凭れてイヤそうな顔をしている蛭子が目に入る。


 女子トーク的な内容とは程遠いが、それでも女子色が強くなった空気感に居心地の悪さを感じているのだろう。



「真刀錵ちゃん真刀錵ちゃんっ。アレ、出来ますか⁉」


「出来る」


「いや、ドレよ。真刀錵も適当に返事しないの」



 何かを思いついたらしい望莱がスーパーカーに憧れる少年のような眼差しを天津に向けている。



「あるじゃないですか? 映画とか漫画とかで。逆さまにぶら下がって『フンッフンッ』って腹筋するやつ! 出来ますか⁉」


「造作もない」


「うわぁっ、見たいです! やってやってー!」


「いいだろう」


「ちょっと、これからここでご飯なんだからあんまり――」



『――埃がたつようなことしないでよ』と、希咲が全てを言い切る前に、チラリと上に目線を向けた天津が軽く――だが高く跳躍した。


 ゆっくりと蜻蛉を切るように空中で上下を反転させ、吹き抜けになっている二階部分の床の縁に足を引っ掛けてそのまま自身を逆さ吊りにする。



 希咲の眼前を逆さまになった天津のパーツが上から順番に通り過ぎる。



 まず彼女の長いポニーテールが鼻先を掠めていき、次に彼女の頭が通ってその後には背中だ。


 ここまではよかった。



 続けて目に留まったのは天津が着ているTシャツだ。


 立っている時は体操服のズボンを穿いているお尻がスッポリ隠れるくらいにサイズの大きなダボダボのTシャツ。



 そのTシャツが重力に従って捲れ下がっていく。



 腰と背中の素肌が露わになっていき、肩甲骨や菱形筋あたりの肌が露出し、胸椎部分全てが丸出しになったところで、希咲はあることに――正確には無いことに――気が付き血相を変えた。

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