1章63 『母を探す迷い子』 ⑤


 気が付いたら水無瀬は駅前にいた。



 逃げることに夢中で、当ても無く歩き続けて、何処をどう通ってきたかも定かではない。



 周囲の風景を見廻してみるが、見覚えのない場所だ。


 どうやらここは新美景駅の北口の辺りのようだ。



 水無瀬の普段の生活圏は駅の南口までの範囲で、反対側の北口は危ない場所だから行ってはいけないと母に言われていたことを思い出す。


 不安から逃げ出してきたのに、そのことでまたさらに不安を募らせてしまった。




(お家に帰りたい……)



 制服のポケットからスマホを取り出す。


 画面を点灯させると表示される時計を見て、水無瀬は気持ちを落ち込ませた。



 時刻から判断するに、公園を飛び出してからどうやら1時間以上も彷徨い歩いていたようだ。


 だが、それでもまだ帰宅するには早い時間だった。



 水無瀬の家は花屋を営んでおり、これから夕方にかけての時間帯はまだ忙しい頃だ。


 夕方を過ぎればもう暇になっていくが、今日は金曜日で仕入れのあった日だ。仕入れてきた花の手入れなどを合間にやっているはずなので、両親とも手がいっぱいであろう。



 今帰ったら迷惑をかけてしまう。


 やはり水無瀬はそのように考えてしまった。



 迷惑をかけないように――だが、それで自分のしていることといえば、学校をサボって、行ってはいけないと言われている場所を何もすることがなくウロウロとしているだけだ。



(せっかく高校に行かせてもらったのに……、お父さん、お母さん、ごめんなさい……)



 自分のしていることを隠したくての罪悪感ではなく、正直に話して謝れないことに罪悪感を募らせる。



(私、“わるい子”になっちゃって……、これじゃ二人ともざんねんになっちゃう……)



 下を向いて歩いていると、向かいから歩いてきた他の歩行者にぶつかりそうになってしまう。



「ご、ごめんなさい」



 足を止めて謝罪をするが、相手は立ち止まることも水無瀬へ目を向けることもなく歩いていってしまった。


 まるで彼女の存在すら認知していないかのように。



 寂寥感がまた膨らむ。



 頼りない気持ちで温かみを求めて、周囲へ視線を巡らせる。



 歩道の真ん中で立ち止まる水無瀬の前を後ろを――左を右を――人々が足早に通り過ぎていく。


 皆目的があって、行く当てがあるのだ。



 こんな場所でポツンと立ち尽くす自分のことなど、誰も見てもくれない。




 知らない場所で。


 知らない人だらけ。


 誰も関心を向けない。


 自分のことなど誰も知らない。



(こわい……、さみしい……っ)



 家にも帰れず。


 親にも言えず。


 拠り所にできるのは――



(――ななみちゃん……っ)



 水無瀬は“edge”を起動して、彼女とのチャットルームを開く。



 ここには居なくても、親友である彼女に『どうしたの?』と――



 そのたった一言だけでいいから、声をかけて欲しい。



 道端で立ち止まった彼女の周囲を人々が通り過ぎていく。


 水無瀬は知らないが、本日は市より『外出禁止令』が午後から出ている。


 新美景駅の北口のロータリーから歓楽街に繋がるここの通りは、いつもに比べればこれでも人通りは少ない方なのだ。



 だけど今の彼女にはそれすら目まぐるしく感じられてしまい、まるで人の流れに視界を思考の逆回転に回されているように錯覚する。


 段々と強くなる眩暈に視界が歪んでいく。


 水無瀬は焦燥に駆られた。



 早くしないと――


 このままでは何もかも見えなくなって世界が真っ暗になってしまうのではないかと、そんな不安を覚えながら慌てて新規メッセージを作成する。



 何を言っていいかわからなくて。


 自分のことを説明できなくって。


 だから言葉ではなく、文字ですらなく、一つのスタンプを選択する。



 いつも使っているお花のスタンプ。


 それ自体には何の意味もない。


 明るい色合いで元気そうな雰囲気がある。



 今の自分の心情とは真逆のものだ。



 だけど、せめて、これを見た彼女だけでも、楽しい気持ちになって元気がでたらいいなと。


 そんな風に考えて水無瀬は送信ボタンに指を近付ける



 しかし――



「――あっ……⁉」



 その時、後方からの通行人にぶつかられる。


 余程急いで歩いていたのか、勢いよく当たられて水無瀬は転んでしまい、そのショックでスマホが手から離れる。


 身体の痛みよりも地面を滑っていくスマホに意識をとられ、思わず手を伸ばした。


 しかし、その指は届かない。



 男性の歩幅で数歩ほど先でスマホは止まった。


 そこは人が流れている場所だ。


 別の通行人の足がそのスマホに下ろされる。



「だめぇー――っ!」



 水無瀬は自分の手を盾にして守るようにスマホに飛びついた。



 突然のその行動に通行人は少し驚きを見せて足を止め、それから舌打ちをして進路を変えて歩いていく。



 両手でスマホを手繰り寄せてお腹の下に隠し、水無瀬は歩道の真ん中でしばし蹲る。


 それから恐る恐る手の中のスマホを覗き込んだ。



「――あっ……、そんな……」



 落とした時の衝撃で画面が割れてしまったようだ。



(お父さんが買ってくれたのに……)



 それを壊してしまったことで、両親への罪悪感がまた一つ増えてしまった。


 外側のガラスが少し割れてしまっただけで画面表示には問題がないようだ。しかしそれには罅が入ってしまっている。



 画面に表示されているのは、親友である希咲 七海とのメッセージ履歴。


 文字やスタンプで色とりどりの世界。それが壊れた。



 これまで過ごしてきた彼女との日々に、罅が入ってしまった。


 まるで全ての思い出が壊れてしまったように錯覚してしまう。



 ポロポロとまた涙が零れ出し路面に痕を残す。


 だが、それすらもすぐに乾いて消えてしまう。


 自分という人間の痕跡はこの『世界』に何ひとつ残らない。



「ふっ……、ぅぇぇっ……、もうやだよぉ……っ」



 道端にへたり込んで泣き崩れる。



「ななみちゃん……っ、たすけて、ななみちゃん……っ」



 地面についた両手の間のスマホに懇願する。


 項垂れて泣きじゃくれば、ポロポロと零れた涙が水の無い罅割れた世界に降り注いだ。



 路面とスマホ、それだけが映る視界の端に時折通行人たちの靴が這入りこんではすぐに消えていく。



 そうして泣いていると、いくつかの涙が画面に落ちた時に誤動作が起き、送信前だった作成途中の新規メッセージがキャンセルされ、希咲とのチャットルームから一覧画面に戻されてしまう。



「やだよぉ……っ」



 その様子を目にしたことで身体が動き、水無瀬は慌ててスマホを手に取る。


 元通り彼女とのチャットルームに戻してから、スマホを大事に守るように、或いはそれに縋りつくように胸に抱いた




 身体を起こしたことで周囲の風景が目に入る。



「――っ⁉」



 その光景に息を呑んだ。



 周囲では変わらず人々がそれぞれの向かう先へ歩き、通り過ぎている。


 誰も足を止めることなく、淀みなく人が流れている。



 その真ん中で水無瀬が地面に尻をつけて泣き喚いていても、誰一人として足を止めることなく、目を向けることすらしない。


 道端に座り込んで泣く女子高生――そんなものはまるでここに存在していないかのように、水無瀬 愛苗は誰の目にも留まらない。



 その光景を見上げる視点で目に映し、水無瀬はゾッとした。



 自分は本当はここに居ないんじゃないか――そんな風に想像して恐ろしくなる。



「……なんで……、わたし……、わたしは……っ、ここに……っ」



 茫然と外側からその『世界』を見つめて、水無瀬は譫言のように意味のない言葉と涙を溢す。



「わたしなんて……、どこにもいないの……?」



 学園に居場所を失くし、行く先々でその場に居られなくなり。


 友達を失くし、知り合いすらいなくなり。


 誰にも頼れなくて。


 親も友達も、唯一の心の拠り所の親友もここには居ない。



 街の中に入りこめず、街から弾きだされたようで。


 この街の何処にも居てはいけないような気がして。



 この『世界』でたった一人――



 たった一人ですら存在することも許されていない。



 心は寂しく追い込まれてしまう。



 また胸がキュゥっと軋んだ。



 思わず両手で抑えてしまうと視点が変わり、一つの場所が目に入る。



 そこは駅のロータリーから繋がる歓楽街の入り口にある小さめの噴水広場だ。



 水無瀬はその場所だけ、ぼんやりと淡く光っているように感じた。



 フラフラと立ち上がり、頼りない歩調で其処へ近づいていく。



 その広場にはそれなりに人の姿があった。



 そこに居るのは水無瀬と歳の近い、若い女の子の姿が多い。


 そしてその誰もが、“ひとり”で其処に居た。


 広場に一人で立って、座って、みんな自身の手の中のスマホを覗いている。


 自分と同じ制服姿の女の子も少しだけ居る。



 そんな空間に、水無瀬は勝手にシンパシーを感じ、あそこなら自分も居てもいいのではないかと、そんな風に思い込んで縋るように広場に入って行く。



 水無瀬が近づいてきても、脇を通り過ぎても、やはり誰も目を向けることはない。


 それでも先程の通りよりは少しだけ安心感があって、水無瀬は噴水の縁の空いているスペースにちょこんっと座った。



 ここならみんな同じ。


 そんな錯覚にしがみついた。



 控えめに視線を動かして周りの女の子やお姉さんたちを見る。



 やはりみんなスマホを見ていて、時折誰かを探すように周囲を見回す人もいる。


 みんな無表情で、つまらなそうに、そして寂しそうに立っていた。



 その内のひとりに大人の男の人が近づいてきた。


 男の人と目が合った女の子はどこか他所他所しく会話を交わし、そしてその男の人に着いて広場から出ていった。


 少しの間広場を観察していると、同様の光景がいくつか起きた。



 男の人が女の子を迎えに来て、でもいつの間にかまた別の女の子が広場に入ってきていて、ここではずっと“ひとり”が減らない。



(お父さんと待ち合わせなのかな……?)



 でも、中には父親と呼べるような年齢ではない若い男の人も居た。


 あれはお兄さんなのかな? と、無知で無垢な彼女はそんな風に解釈した。



 自分もここで待っていれば誰かが迎えに来てくれるかもしれない。



 そんな儚い願いを胸に浮かべ、そして頭の中に思い浮かぶ顔は父親と、一人のクラスメイトの男の子だった。



 来てくれるわけがない。



 すぐに否定をして頭を振り、また寂しさに襲われる。


 周りの人と同じように、自分もスマホを見ようと思った。




(ななみちゃん……)



 やはり最期まで縋れる相手は親友である彼女しかいなかった。



 先程送信できずに消えてしまったメッセージをもう一度作り直す。



 彼女へよく送っていたスタンプをひとつ選び、それから『送信』のボタンへ指を近付けていく。




 ゆっくり――



 ゆっくりと――



 親指をその二文字へ――



 ほんの数cm程の距離――



 本来はたった1秒すらもかからないその距離――



 その距離が――



 何秒経っても辿り着かない。





 ハッ――ハッ――と、浅い息が緩んだ唇の隙間から漏れる。


 その音がやけに鮮明に頭の中に響いた。



 息を吐くペースが自分の意思を離れて段々と速くなっていく。


 苦しさは感じないまま、少し頭がボーっとしてきた。



(息……、吸わなきゃ……っ)



 そうは思えど、まるでそのやり方を忘れてしまったように、身体は言うことを聞かない。


 無理矢理にでも止めなきゃと、水無瀬は歯を食いしばってこれ以上息が漏れるのを妨げた。



 思考は身体の異変ではなく、たったひとつの事柄に縛り付けられている。


 考えたくないこと。


 それを勝手に頭が思考してしまう。



 指はたったの数cmも動かせないのに、心は辿り着いてはいけない答えに向かってどんどんと走って行ってしまう。




 本当はわかっている――



 本当は気が付いている――



――その可能性に。




 学園の、クラスの人も、違うクラスの人も、自分のことを忘れてしまった。



 そして、学園の外の、近所に住む人も自分のことを忘れてしまっていた。



――それなら?




 周囲の音が消える。


 そのことに動揺すると、また自分の吐く息の音が煩くなった。



 朝の様子を見ると、この一週間一番自分の近くにいた弥堂すらも忘れてしまったようで。


 いつもならすぐに自分のことを見つけてくれる友達のメロも、もしかしたら忘れてしまったから、この時まで姿を現していないのかもしれない。



 魔法少女としての自分を知るあの二人ですらそうなのであれば――



――それなら?




 荒く息を吐きながら希咲との言葉のやりとりを目に映す。




 もしかしたら、もうとっくに彼女も自分のことを忘れてしまっているかもしれない。



(だって……)



 いつもならいっぱいメッセージを送ってくれるのに、今日は一件も彼女からの着信がない。



 それは、“そういうこと”なのだ。



 そうに決まっている。



 自分とは別の自分が、頭の中で強くそう言ってくる。



 そんな風に思いたくないのに、そんなこと信じたくないのに。



 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――と、身体の中からナニかが抜けていってしまう。



 半ば酸欠状態に陥って霞みいく視界が、涙でさらにぐにゃりと歪んだ。


 そのせいで彼女との世界が見えなくなり、水無瀬は手で涙を拭うが、すぐにまた大量の涙が次々に零れ出てしまう。



「やだ……、やだよ……?」



 彼女も――希咲 七海の記憶からも、自分のことが消えてしまっている。



 希咲 七海の世界には、水無瀬 愛苗という人間はもはや存在していない。



「やだぁ……っ、そんなの、やだ……、ななみちゃん、やだよぉ……っ」



 記憶がないということは、彼女の中ではそんな人間は最初から存在していなかったということになってしまう。


 それは、これまでに彼女と過ごしてきた時間も、二人で分かち合った思い出も、その全てが無かったことになってしまうということだ。



 今、この手の中にある、彼女との世界も、無かったことになってしまう。



「やだぁ……っ、ぅっ、ぅぇぇっ、ななみちゃぁん……っ」



 高校に入って、お友達をたくさん作ろうと頑張ったけど、上手に人と接することが出来なくてどこか空回りをしてしまっていた。


 そんな自分にとって、彼女は初めて出来たお友達だ。



 学校以外でもお話してくれて、一緒に遊んでくれて、一緒にお泊りもしてくれる――たった一人の親友だ。



 そんな彼女が居なくなってしまう。


 もう話しかけてくれなくなって、遊んでくれなくなって、もう二度と笑いかけてくれなくなる。



「やだやだぁ……っ、やだもん……っ」



 そんな未来が永遠に失われ、そしてそうやって過ごしてきた過去も無かったことになってしまう。



 それは無理だと、思った。


 到底耐えられるものではないと。



 小学校、中学校とひとりぼっちで過ごしてきた自分には、小学校時代、中学校時代などというモノは無い。


 そして高校時代は、きっとあの日彼女が声をかけてくれた瞬間から始まったのだ。


 彼女が友達になってくれてから、色々と教わったり、色々と助けてもらったり、そうしてようやく周囲と上手にお話することが出来るようになっていったのだ。



 しかし、その彼女に忘れられてしまってはそれも無くなってしまう。



 自分なんて――水無瀬 愛苗なんて人間は居なかったことになり、誰でもなくなってしまう。


 それは『世界』から消えてしまうことで、とても“がんばれる”ことではない。



「そんなの、こわい……、そんなの、やだぁ……っ」



 そうなってしまったら、きっと自分はもう終わりだ。



「……たすけて……っ、たすけてよぉ、ななみちゃぁん……っ」



 ボロボロとスマホに涙を落としながら、そんな願いを口にする。


 無理な願いだとは自分でもわかっている。



 でもそれでも、そうすることしか出来なかった。



 希咲 七海に忘れられてしまうのはとてもこわい。


 そうなってしまったら自分はもうダメになってしまう。




――違う。



 また頭の中で別の自分がそう言う。



 そう。



 おそらく、違うのだ。




 そうなって“しまったら”――



 きっと、そうではなく。




――もう、そうなって“しまっている”。




 そうである可能性は高い。


 そうであってもおかしくはない。


 そうならない理由がない。


 だから――そうに決まっている。




 そんな風に自分で自分を傷つけ、追い込んでしまう。




 その考えを否定したい。


 そうじゃないって信じたい。



 だったらそれを確かめればいい。



 彼女は自分のことを忘れたりなんかしていないって、それを証明すればいいのだ。



 そして、それをするのはとても簡単なことだ。



 涙と眩暈で歪んでいた視界の一部が急にはっきりとする。



 その歪みの穴に映るのはスマホの画面だ。



 希咲 七海が水無瀬 愛苗のことを忘れてしまっているのかどうか。



 それを確認する方法はとても簡単で、今すぐこのスマホを操作して彼女へメッセージを送信すればいい。


 彼女はいつもレスポンスが早い。


 返事はきっとすぐに帰ってくるだろう。



 たったのそれだけのことで、彼女が自分のことを忘れたりなんかしていないと――


 はっきりとそう確かめることが出来る。



 自分の息を吐く音を聴きながら、水無瀬はスマホへ指を触れさせる。



 先程用意していたスタンプを消してテキストを四文字打つ。



『たすけて』と――



 後はこれを送信するだけだ。


 たったのそれだけだ。



 それをするだけで――きっと彼女には心配させてしまうだろうが――『どうしたの?』と返事が送られてくる。


 そうすればきっと優しい彼女に慰めてもらうことができる。


 自分はまだ彼女の友達なのだと、安心をすることが出来る。



 きっとあの時のように――初めて出逢ったあの日のように。



『あんたなにしてんの?』って。



 そう声をかけて自分のことを助けてくれる。



 そうに違いない。



 水無瀬は震える指を送信のボタンへ近づけていく。




 だが――



 もしも――




 彼女が自分を忘れてしまっていたら。



 その時はどうなるのだろうか。



 それを想像するだけで、胸が締め付けられ、息が乱れる。



 指を構えたまま時間が過ぎる。



 ハッハッハッハ――と、息を吐く速度だけが速まっていく。



 もしもこれを送ってしまったら――


 彼女がもう覚えていなかったら――



 その時は全く知らない他人からいきなりメッセージが送られてくるのだ。彼女はとても不審に思うだろう。


 もしかしたらメッセージを無視されてしまうかもしれない。運が悪ければそのままブロックされてしまう可能性だってある。



 仮にメッセージを返信してくれたとしても、その時の文面はきっとこうだ――



『は? あんた誰?』



「ひゅっ――」と、そんな音が喉から漏れた。



 無理だ。



 そんなこと恐すぎて、とても確かめることなんて出来ない。



 水無瀬は指を画面に触れさせることは出来なかった。



 噴水の縁に座り、スマホを持った手を膝の上に置いて、顔を俯けて涙を落とし続ける。


 さっきみたいに落ちた涙で誤動作しないように、『送信』のボタンの上は親指を傘にして守った。



「ぅぁぁっ……、ななみちゃん……、たすけてななみちゃん……っ」



 いくら彼女の名前を呼んでも、縋りつこうとも、彼女はここへは来てくれない。


 あの時のように助けてはくれない。



 あの時のように――






「――なにしてんの? あんた」



「――っ⁉」




 頭の上で聴こえた声に水無瀬は顔を上げた。








「――なんで、こんな……、一体なにが……?」



 目の前の光景のあまりに酷い有様に希咲 七海は言葉が上手く出てこない。



 こんな姿は見たくない。


 信じたくない。



 愕然とした心持ちで膝をつく。




 呆然と“それ”を見続けていても、やはり見た通り以外のものにはならない。



「誰がこんな……、ひどいこと……っ!」



 地面についた膝の横に思わず握った手を落とす。


 その手が砂浜に沈み、僅かに舞い上がった砂の粒が脚にかかった。




 目の前にはモーターシップ。



 希咲たちがこの島に来る時に使用した船がある。



 しかし――



 ――その船は破壊されていた。



 船体はあちこちが何か強靭な刃物で引き裂かれたように穴が空いている。


 これでは海に出て美景に戻るなんてことが出来ようはずもない。



 ようやくこれから親友のもとへ駆けつけて、彼女の力になってあげたいと、そう考えた矢先の出来事だ。


 屋敷から出て、この船着き場まで走ってきた希咲の視界に飛び込んできたのがこの光景である。



 思わず愕然とし、手に持っていたガソリンタンクを砂浜に落とし、そして希咲自身も膝をついて打ちひしがれてしまっていた。



 しばらくそう呆然としていると、背後から仲間たちの声と駆け寄ってくる気配がする。



 希咲はそれに反応することも出来ない。



 唐突に予期もせぬ形で希望は断ち切られてしまった。



 美景へと戻る唯一の移動手段が失われてしまった。



「あたしは……、愛苗を……」



 助けてあげると、守ってあげると――



 そう誓って、約束したはずなのに――



 これでもう彼女の――水無瀬のもとへ駆けつけてあげることは出来なくなってしまった。







「――なにをしているのかなァ?」



 水無瀬が顔を上げるとそこに居たのは知らない大人の人だった。



 彼女とは似つかぬ声、似つかぬ言葉。


 きっと追い詰められた精神が、あの日の彼女の言葉を求めてそう聴こえるように自分自身を錯覚させてしまったのだろう。



 だが、相手の姿を目にしてしまえば、いくらそんな精神状態でもはっきりと彼女ではない別人だと、そのように認知を正してしまう。



 彼女とは似つかぬ顔、似つかぬ姿。


 性別も年頃もまるで何もかもが違う。



 そこに居るのは小太りをした中年の男性。


 スーツを着ている。


 全体的に丸いシルエットのような印象を受ける。



 頭は額から頭頂部まで禿げ上がっており、申し訳程度に残った髪がバーコードのように張り付いている。


 その頭皮は脂ぎってテカテカと嫌な光を放っていた。



 顔には眼鏡をかけていて、その下の小鼻が好色そうにぷっくりと膨らみ、さらにその下の唇が口角を上げてから開かれて色の悪い歯茎を剥き出しにする。


 頭部の皮脂に負けず劣らずにニチャァッとした、脂ぎった笑みを男は浮かべた。



「こんな所で一人で泣いて、どうしたのかなァ? キミ」



 噴水の縁に座る水無瀬の方へ近づく。



「さぁ、オジさんに聞かせてごらん?」



 その広い身体の横幅を使って、逃げ場を塞ぐよう、立ち上がれないように水無瀬の目の前に立ってそう問いかける。


 そして、もう一度ニチャァッと脂ぎった笑みをその顔に浮かべた。

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