1章裏 『4月26日』 ⑦


「――なんッスか? ここ……」



 3階に上がって少し進むと広いスペースに行き当たる。


 そのフロアを映した赤い目をメロはパチパチとまばたきさせた。



 廃墟であることには違いがないが、この3階はここまでの下の階とは少し雰囲気が違って見える。



 1階には瓦礫と放棄された器材などが積まれており、2階には先程のホームレスの男が持ち込んだものだろう――ゴミが散乱していた。


 それと比べてこの3階には何もない。



 元々は通う患者が多い科の待合スペースだったのだろうか。


 一定期間愛苗と共に病院で過ごした経験のあるメロはそんな風に感じ取った。



 1、2階とは対照的にこの3階のある程度広さのあるスペースには物が無い。



「ここだけキレイッスね。廃墟にキレイって言うのもおかしいッスけど……」



 ここに来るまでに弥堂に――あるいは弥堂と二人っきりで居ることに慣れたのか、リラックスした様子で暢気に呟きながらメロは進んでいく。


 この場に辿り付いてから歩を止めていた弥堂を追い越していく形となった。



 目的地に向かう弥堂は基本的に足を止めない。


 それはここまでの道中もそうだった。



 途中で出遭った人間に話しかけられようが、同行者が追い付いていなかろうが、そんなことは彼には関係ない。


 彼自身が特別に必要性を感じなければ淀みなく一定のペースで進み続ける。



 その彼が足を止めるということは目的地に着いたということを意味する。


 そのことの意味にメロはまだ気が付いていなかった。



「なんにもないッスね……って、あれは――」



 言いながらメロは一つの物に目を留める。



 彼女の言葉どおりここには何も無い。


 だが、文字通りに本当に何も無いわけではない。


 そして何も無いからこそ、唯一在るモノが目立ち、目に付いた。



 彼女が見つけたものは青いビニールシートだ。


 この何も無いフロアに唯一あったのはスペースの真ん中に敷かれた広いビニールシートだけだった。



 何故だかそれを見た瞬間にメロはうなじの辺りがゾワッとした。


 だが――



「――なんでこんなモンだけ……、ハッ⁉ ははァ~ん、さては……」



 彼女は気のせいとし、能天気な声をあげる。


 今しがたの悪寒を振り払うかのようにおチャラけた態度で、親指と人差し指を顎の角度に合わせて開きニヤリと笑った。



「さては少年、オマエここでジブンにエロいことするつもりッスね?」


「意味がわからんな」



 したり顏で振り返る彼女への弥堂の返答は相変わらずのにべもないものだ。



「あそこまでこれ見よがしなシートがあったら、それだけでこの場所が特殊な撮影スタジオであることが丸わかりッス。ジブンの目は誤魔化せないッスよ。なんせジブン、サキュバスッスから」


「いつも言っている『ネコさんッスから』より語呂が悪いな」


「あ、誤魔化したッスね? 大丈夫ッス、ジブン怒ってないッスよ」


「お前は勘違いをしている」


「まったく、いきなりニンゲンの姿になれとか言うからなんだと思ったら、そういう目的だったんッスね?」


「そのような事実はない」



 あくまで否定する弥堂を詰るようにニマニマと笑みを浮かべる。



「フフン、オマエ本当はこの姿が気に入ったんッスね? カァーっ、しょうがないッスねぇ。ジブンこう見えて美少女ッスからね」


「本当に美少女なのなら、こう見えた段階で美少女だろ」


「またそんな屁理屈言ってぇ。あのビニールシートで一体何をする気ッスか? このドスケベめ。ちゃんとあの下にマットレス敷いてるんだろな」


「言っている意味がわからんが、何度も言っているようにお前の勘違いだ」


「まぁまぁ、恥ずかしがるなよッス。今回だけマナには内緒にしといてやるから隠さなくてもいいッスよ」


「別に隠しているつもりはない。お前が天使だったら“それ”でもよかったんだがな」


「ん? どういう意味ッスか?」


「気にするな」



 どこか意味深げな弥堂の言葉にメロは眉を寄せる。


 弥堂は明確に答えないままメロの方へ歩き出し懐に手を入れた。



「そんなことより、ちょっとこれを見てくれないか?」


「これ?」


「これだ」


「あっ――⁉」



 弥堂が取り出したのはスマホだ。


 しかし距離が空いている為に彼女にはそれがよく見えなかったようだ。



 目を細めて上体を乗り出す彼女を尻目に弥堂はそのスマホを放り投げた。



 ふわっと高く放物線を描いてそのスマホはメロの方へ落ちていく。



 しかし――



「――ちょっ……⁉ 強すぎッス……!」



 彼女の言葉どおりそれはメロの頭上を越えて背中側へ落ちていく。


 メロは慌てて振り返り、両手を伸ばしてそれをキャッチしようとした。



 すると――



 当然、言うまでもないことだが、必然的に彼女の視界から弥堂は完全に消えることになる。



「オマエ意外とノーコンッスね。それともわざと――」



 危うげながらも弥堂が投げたスマホをキャッチし、振り返ろうとして、メロは息を呑む。


 ほんの一瞬、目を離した僅かな間に、弥堂がすぐ背後まで近づいていたからだ。



「――っ⁉」



 ゾワリと――



 つい先ほどにビニールシートを見た時と同じ悪寒が首筋に奔る。


 そのことを頭に浮かべた次の瞬間――



「ギッ――⁉」



――ガツンと、強い衝撃を受けてバチンっと視界が白滅した。



 メロは上下左右の感覚を喪失する。


 自身の身体に受ける痛みと衝撃が、自分が吹き飛ばされて地面を転がっていることを遅れて理解を促してきた。



 次に視界が戻った時、目に映ったのは一面の青だ。


 見下ろすチープな空の上にポタポタと赤い雫が落ちていく。



 これもまた遅れて痛みが教えてくれた。


 その赤い雨は自分の鼻血で、自分がフロアの真ん中のビニールシートの上にまで吹き飛ばされたのだということを――



「――え……? なっ……⁉」



 一体何が起こったのか。


 まるで理解が出来ずメロの頭はパニック状態だ。



 茫然と首を回すと、ゆっくりと歩いてくる弥堂の姿が映る。



 ここには自分と彼しか居ない。


 その状況を考えれば、自分は彼に突然殴り飛ばされたことになる。



 だが、自分と彼は仲間同士で、これから一緒に上手くやっていこうとさっき話したばかりだ。


 その彼がいきなり自分に攻撃をしてくるなんてありえないことだ。


 やはり、意味がわからなかった。



「何度か言ったが、理解していないようだからもう一度言おうか。『勘違いをするなよ』」



 こちらへ歩いてくる弥堂には慌てた様子も、不審がる様子もない。


 つまり、彼にはメロが“こう”なっている原因・理由がはっきりわかっているということだ。



 彼の表情はいつも通りで、感情の窺えない色の無い瞳だ。



 いつも通り。



 初めて彼と出会った時と同じ。


 これまでの様々な場面と同じ。


 今日の水無瀬家での時と同じ。



「な、なんで……ッ⁉」


「なんで?」



 弥堂に殴られた顔を手で押さえながらメロは放心したように彼を見上げる。



 すると――




「俺たちは上手くやっていける? 何もかも元通り――?」




 若干不快そうに細められた瞼の中――




「そんなわけがないだろう? この――」




 昨日、魔王率いる悪魔の大軍と戦っていた時とも全く違わぬ眼が――




「――悪魔め」




――冷酷な蒼銀の光を佩びて、ニンゲンの少女の姿をした小さな悪魔を見下ろした。

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