1章46 『4月22日』 ⑧


 希咲の恐ろしい形相を目にしてしまった蛭子くんが慌てて目を逸らす中、遅れて天津がハッとする。



 もしも望莱みらいの言ったことが真実なのだとしたら、自分の言葉で希咲を傷つけてしまったに違いないと気が付く。


 誓ってそこに彼女を貶めるような悪意はなく、純粋に相談をしたかっただけ、それだけのつもりだった。



 だが、悪気がなかったからといって許されるわけではない。


 いくら気心の知れた友人だとはいえ、言っていいことと悪いことがあるのだ。


 例え希咲が許したとしても、天津 真刀錵あまつ まどかは自分自身にそれを許さない。



 ここはしっかりとした謝罪をせねばならないと、天津はそう考えた。



「七海」


「なっ、なぁに……っ?」



 グルリと首を回して視界に映した希咲の表情は笑顔だ。


 ただし、あちこち引き攣っている。



「すまなかった。全面的に私が悪かった」


「……なっ、なに、が……っ⁉」


「む?」



 天津は戸惑う。


 言い訳など一切せずに真摯に謝罪をしたが、肝心の相手は何のことだかわからないというではないか。



 希咲の顏を見る。


 表面上笑顔を浮かべてはいるが、彼女と長い付き合いになる自分にはわかる。


 これは無理に笑っている時の顏だ。



 彼女が本当に笑っている時は目を少し細めて控えめに笑うのだ。


 現在のように顔全体で笑顔を作る時は愛想笑いであることが多い。


 これはよほど傷つけ、怒らせてしまったんだと心を痛める。



 根の優しい彼女は『何のことかわからない』と惚けて無罪放免としてくれようとしているが、そういうわけにもいかない。


 ただでさえ自分たちは普段から彼女の優しさと有能さに甘えているのだ。


 こんな時までそれに甘えて、自分の仕出かしたことまでをも有耶無耶にしてしまうのは己の信念に反する。そのように考えた天津は自身の口から事と次第を説明することに決めた。



「その、なんだ……、この度はだな……。私の口から語るのは、非常に憚れるのだが……」


「はっ、はぁ?」


「言い訳だと捉えて欲しくはないのだが、しかし、まさか……、と。そんな気持ちが強い。それが正直な気持ちだ。なにせ私もみらいも同じくらいの大きさだし、これが普通のことなのだとばかり……。だから、あえてそうしているのではと、愚かにも私はそう思い込んでしまっていたのだ……」


「なななな、なに言ってんのかっ……! ぜっんぜんっ……! わかんない……っ!」


「普段のお前の様子から気付いてやることが出来なかった。私の落ち度だ。気丈に振舞っていただけだったのだな……。私たちと共に笑っているその陰で、お前がそんなにも思い悩み、こんなにも己を儚んでいたとは……。気付いてやれなんだ。私はとても悔しい……っ!」


「べっ、べべべべべつにっ⁉ ぜーんぜんっ! 気にしてないからっ……! 気にする必要ないし……! だって、あるし……っ! あるから……っ! フツーにあるもん……っ!」


「あぁ、そうだな。お前の言うとおりだ。だが、聞いて欲しい。七海、お前はとても素敵な女性だ。胸の大きさなどで女性としての、人間としての価値が決まるものではない。お前は心根優しく、そして美しい。細やかな気遣いもできて家事も万能だ。家族思いでもあるしおまけに物知りで、なにより戦闘能力も高い。もしも私が男に生まれていたのならば、間違いなくお前を嫁に迎えようと躍起になって努力していたことだろう。自信を持て、七海。斯様な小さきことはお前の非の一つにすらならない。私はお前以上に良い女を一人たりとも知らぬ」


「…………」



 優しげな目でまるで愛の告白のような言葉を連ねられ、希咲の頭にカっと熱が入る。


 羞恥や恋心などではなくもちろん怒りだ。



 しかし、天津には悪意はない。ただ常識がないのだ。


 なので、怒鳴り散らしたくなる衝動を必死に堪えた。



 だが――



 普段は表情凛々しく、振舞いも凛とした姿勢を崩さず、軽薄さを嫌い無駄口をきかない。


 そんな天津 真刀錵が、気まずげに目を泳がせながら必死に言葉を選び、しかし言葉をかける時には真っ直ぐに真剣な目を向けてくる。


 その姿から、彼女に悪気はなく本気で同情し、憐れみ、罪悪感を感じているのだということがしっかりと伝わってきて――



――その分、酷く屈辱を感じた。



「ぐぎぎぎぎ……っ!」


「七海ちゃん七海ちゃん」


「――っ⁉」



 すると、悪気と悪意しかない困った子がちょっかいをかけてきた。


 反射的に罵詈雑言を浴びせかけそうになり、お口をキュッと閉じて堪える。代わりに目力マックスパワーで睨みつけるが、それすらも悦びに換えてしまうモンスターはにっこりと微笑んだ。



「こうして真刀錵ちゃんも誠心誠意ちっぱ――謝罪をしていることですし、ここは七海ちゃんもデカパイなここ――寛大なデカパ――寛大な心で、どうか真刀錵ちゃんを許してあげてください」


「どこに言い間違う要素あんだよ。お前が謝れこのやろう……っ!」



 極めて挑発的なみらいさんの言動に思わず自分でもびっくりするくらいの低い声が出る。


 ハッとなった七海ちゃんは「んっんっ」と喉を鳴らして体裁を繕い、そしてここで逆に少しだけ冷静になった。



 非常に業腹で全くを以て遺憾ではあるが、これ以上この話題を続けても自分にはこれっぽっちも得がない。


 望莱のことはとても許し難いが、とりあえず許したということにするしかないと判断して口を閉ざした。



 なにより、自分は別に小さくはない。


 ただ周囲にいる女どもがどいつもこいつも同年齢帯の平均値を上回っているので、相対的にそう錯覚してしまうだけのことなのだ。


 小さいのではなくただ、ほんのちょっと、少しだけ、平均値に満たないだけのことだ。


 つまり誤差範囲だ。



 それに、あと2年もすればそのマイナス進捗は解消される。平均に届く。


 だから問題などどこにもなく完全にノーダメであると、天津の背に隠れて七海ちゃんは「うんうん」と頷き、自分に強くそう言い聞かせた。




 望莱を無視して黙ってしまった彼女への助け舟かは不明だが、代わりに蛭子が口を挟む。



「……オマエらよ。頼むからオレの居るとこでそういうのやめてくんねえか……」



 彼の方も大分疲弊した様子でガチめのクレームを申し立てる。


 男一人でこういった女子的な話を聞かされるのは彼には耐えがたいことのようだ。



「またぁ、バッチリ居座ってバッチリ見てたじゃないですかー」


「カンベンしろよ。幼馴染とはいえ、そういうの見たくねえし聞きたくねえよ」


「意識してないならよいのでは?」


「……オレがよくてもソイツがよくねえだろ」



 あまり望莱と会話を長く続けると、また失言からの揚げ足取りコンボをくらうので、蛭子は顎を振って適当に天津に水を向ける。



「うむ。蛮の言うとおりだ」



 意外なことに、何故か彼女は蛭子の味方をした。


 望莱は目を丸くして彼女を見る。



「そうなんですか?」


「あぁ。私の身は聖人まさとに捧げたものだ。悪いがそういうのは困る」


「オレの方が困ってるわ。ふざけんな」


「だからまずは聖人の許可をとってくれ。ヤツがいいと言うのならば乳くらい好きにさせてやる」


「……あんたたちさ。お願いだから健全な人間関係を心がけてよ……」


「オレを見ながら言うんじゃねえよっ! こっちが頼みてえわ!」


「でもこうしていると『紅月ハーレム』って言うよりも、蛮くんのハーレムみたいですね」


「冗談じゃねえよ。オレまでテメェらの不健全な関係性に組み込むな」


「つーかハーレムって言い出したのあんただってわかってんだかんね、みらい。不健全なのは大体あんたのせいじゃない」


「なるほど。お二人の話はわかりました。では、みんなで健康になりましょう」


「は?」



 意を得たりと頷く望莱に希咲と蛭子は怪訝な顔をする。


 そんな二人を尻目に望莱は天津へ顔を向けた。



「真刀錵ちゃん」


「なんだ」


「みんなこう言っていることですし、当初の予定どおりお願いします」


「なにをだ?」


「逆さま腹筋で健康になりましょう。もしかしたらおっぱいも健康になって絞れるかもしれません」


「そうか。健康なのはいいことだな。ではやろう」


「あっ――ちょ、ちょっと……っ⁉」



 希咲が止める間もなく、天津は逆さ吊りのまま腹筋運動を開始する。



「いぃーちっ、にぃーいっ、さぁー……」


「こらっ! ばかっ! 見えちゃうでしょっ!」



 能天気な望莱のカウントを背景に、希咲は天津の腹筋運動に合わせて跳ぶ。


 現在は希咲の手によって天津の胸を隠している状態なので、それが露わになってしまわぬようピョンコピョンコとジャンプして、希咲は必死に手ブラを維持する。



「む? なんだ、七海。それはどういった修練なのだ?」


「強いて言うなら精神修養かしらねっ! つか、一回止まれ!」


「すぐに止めては修練にならん。最低でもあと50――んぅっ……⁉」



 凛々しく修練の厳しさを説こうとしていた真刀錵さんだったが、着地した際に希咲の手が僅かに胸からズレてナニかと摩擦したことで、何かしらの異変とも謂える化学反応が身体に起きたようだ。



「これは――っ⁉」



 カッと目を開き己の異変に戸惑う。


 奇しくもそのおかげで腹筋運動は一時中断された。



「どうしました? 真刀錵ちゃん」


「うむ。先端がビリっときたというか、何か電気のようなものが胸に奔ったのだ」


「え? あっ……! ご、ごめん、まど――」


「――なるほど。そういうことですか……っ!」


「知っているのかみらい……っ⁉」



 何が起きたかを察した希咲が慌てて謝ろうとするが、馬鹿二人には聴こえない。



「それは電気信号です」


「なんだと?」


「胸に負荷がかかっている証です。筋肉が喜んでいるのです」


「どういうことだ? 私は頭が悪い。はっきりと言ってくれ」


「おっぱいは鍛えられます」


「なるほどな」


「先っぽを擦るとビリビリきて筋肉になるのです」


「そうか。七海。もっと擦ってくれ」


「バ、バカなこと言ってんじゃないの! そんなわけないでしょ!」


「それだけではダメです。恐らく腹筋をしながらというのが条件なんでしょう」


「任せろ」


「あ、こらっ! また……っ! やめなさいってば……!」


「遠慮はいらん。擦れ、七海っ! 厳しくな!」


「バカじゃないのぉーーっ⁉」


「遅いっ! もっと速くです、真刀錵ちゃん!」


「よしきた」



 希咲の制止も聞かず天津はさらに「ふんっふんっ」と腹筋運動を加速する。



「ま、まって……、だめっ! だめだってば……っ! ちょっと! マジで手外れちゃうって……」


「七海ちゃん七海ちゃん」


「なによっ⁉ 邪魔しないでっ!」


「今更で恐縮なのですが、実は私もブラをしていなくて」


「はぁ? どうせまた邪魔しようとしてそんなこと言ってんでしょ? あんたにかまってるヒマないの。あっち行ってて!」


「ホントです。ほらっ」



 高速ピョンピョンを強いられる希咲に近付いて、望莱はワンピースの胸元を広げてピョンコと一緒にジャンプする。



「マジだった⁉」



 同じ建物内に男子2名女子4名が居て、その女子の内の最低半数はノーブラであることを知り七海ちゃんはびっくり仰天した。



「あ、あんたまで、なんで……っ⁉ バカなんじゃないの⁉」


「私だって好きでノーブラなんじゃありませんっ!」



 意識の低い後輩女子を叱ろうとすると、何故か逆ギレをされる。



「ほら、私って下着は上下セット派じゃないですか? 上と下で違うのになるとなんか収まりが悪いんですよね。七海ちゃんはお休みの日のお家では結構上下違うことありますけど」


「う、うっさいわね! 別にいいでしょ!」


「私今日は黒パンツの気分だったんですけど、バッグの中がぐちゃぐちゃでこれとセットのブラが見当たらなかったんですよ」


「だからって何でブラしねえんだよ! 他のセットにすればいいじゃんっ!」


「ヒドイですっ! 私はただ七海ちゃんに喜んでもらいたくって、それでどうしても黒パンツを……っ!」


「なんであんたが黒パンツであたしが喜ぶのよ⁉」



 ここにきてついに七海ちゃんは完全にブチギレた。



「ど、い、つ、も、こ、い、つ、も――っ!」



 天津が頭を持ち上げる動きに合わせて自身も高く跳び、宙へ舞い上がる。



 ふわりと飛び、空中で希咲も姿勢を上下反転させる。


 そして足払いをかけるように、二階の床の縁に引っかけている天津の両足を蹴って、彼女の逆さ吊りを強制解除させた。



 普通の女子高生らしからぬ脚力で足を蹴り払われた真刀錵さんは姿勢を崩し、空中で縦回転をしながら真下でボケっと見上げていたみらいさんを巻き込んで墜落する。


 二人仲良く頭をゴッツンコしながら床に叩きつけられ、二人仲良くグリンっと白目を向いた。



 突如として目の前で容易に行われた危険行為にヤンキーの蛭子くんはギョッとした。



 くるりと身体を回して一人華麗に着地をキメた希咲さんは、床に倒れる馬鹿二人の首根っこを左右それぞれの手で掴み上げる。


 そしてそのまま気絶した二人をズルズルと引き摺って歩き出した。



「お、おい、七海……?」


「あによっ?」



 その背中に蛭子くんが恐る恐る声をかけるとギロリと強烈な眼光で睨まれる。



「ど、どこに行くんだ……?」



 まさか森に埋めに行くのではと危惧して彼は慎重に問いかけた。



「…………」



 その彼を希咲は無言のまま数秒ジッと見る。


 蛭子くんの頬にタラリと冷たい汗が流れた。



 それから希咲さんはスッとジト目になった。



「部屋持ってってこいつらにブラ着けてくる」


「あぁ、まぁ、そうな」


「ごはん出来たら先に食べちゃってていいから」


「おう」



 慣れた様子でスッと怒りを引っ込めた希咲はそれだけを言い残して、実に面倒くさそうに二人を引き摺り二階への階段を昇って行った。


 蛭子も慣れた様子でどうでもよさそうに返事を返し、スマホを弄り出す。



 二階からバタンとドアが閉まる音がする。



 時刻はもう11時をとっくに過ぎている。


 この調子ではブランチではなくランチになりそうだ。



 一人きりになったダイニングスペースが静まる。


 空腹の怒りを訴えてくる腹の虫がその静けさを乱そうとするのを黙らせ、蛭子はハァと薄く溜息を漏らした。

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