1章36 『4月21日』

 生まれ落ちたことは過失で――




 死んでいないことは悪徳で――




 ならば、それに値する罰は――






「――みんなぁ、おはようっ!」




「おはよう、水無瀬さん」


「愛苗っちはろぉー!」


「おはよう水無瀬さん」


「おはよぉーっす!」


「うーい、水無瀬さんはよーっす」


「おはよー! 水無瀬ちゃん」


「おはよう」


「おはよう。愛苗ちゃん」


「愛苗ちゃんおはよう」


「おはよう」


「うーっす」


「おはよー」


「やぁ、水無瀬くん!」





 考え事をしていたら、喧しい挨拶の連鎖が響き弥堂は顔を上げる。



 4月21日の火曜日、今は朝のHR開始前の時間だ。



 恥ずかしいことに周囲への注意が散漫になるほどに考え込んでいたようだが、今しがたの騒ぎはどうせいつもの水無瀬のご登場とクラスメイトたちの歓迎の挨拶のはずだ。



 ゆっくりと目玉を回して周囲の顏を見ながら、今度は首を動かし教室後方へ視線を移動させる。


 そこでは、結音 樹里と寝室 香奈が他所には目もくれず談笑をしている。



「…………」



 それを目を細めて視ていると、隣で人が立ち止まる気配がする。


 当然、自席まで移動してきた水無瀬 愛苗みなせ まなだ。



 どうせいつもの挨拶だろうと彼女へ眼を遣る。



 しかし、常日常能天気そうにしている水無瀬は何やら気まずげにモジモジとしていた。



「び、弥堂くん……、おはようっ」


「ん……? あぁ」



 甘やかしDAYは昨日だけで終わったので無視してやろうと思っていたのだが、彼女らしからぬ態度に怪訝に思い、つい返事をしてしまう。



「あの……っ! 昨日は、ごめんね……?」


「……なんのことだ?」



 特別惚けたわけでもなく、本当に何のことに謝罪をされているのかわからなかった為、普通に問い返してしまう。


 というか――



(――どれのことだ?)



 謝られる覚えがいくつかあったので、彼女の答えを待つ間に候補を脳裡に並べ立てていく。



「えっとね……、その、いろいろ……っ! だから、いっぱいごめんねっ!」



 だが、抽象的すぎてまるで要領を得ない答えとともに彼女はペコリと頭を下げる。



「……あぁ、気にするな」


「えへへ、ありがとう」



 彼女から詳細に事の次第を聞き出すのは大変骨が折れることを、弥堂はこれまでの関わりでよく理解していたので面倒になり、結局は適当に流した。



 そんなことよりも――



「――気付いてないのか?」


「えっ?」



 コテンと首を傾げる彼女の顔を視て、「あぁ、まぁそうだろうな」と勝手に自分の中で納得をする。



「いや、なんでもない。それより早く授業の準備をした方がいい」


「あっ、そうだねっ。ありがとうっ」



 なので、体よく彼女を追い払うがやはりそんなこちらの皮肉や悪意に気付かない鈍感な様を確認し、「やはりそうか」と納得をする。



 他人のことよりも自分のことだと水無瀬から意識を切り離して、情報の処理にリソースを割く。


 どう受け止めてどうするべきか。


 その判断をし直すことの必要性を測りながら弥堂は机から教材を取り出し始める。



 手を動かしつつ、希咲への報告は早まったかと考えていると、昨日と同じ様に水無瀬の周りに女どもが集まってくる。



「おはよー、水無瀬さん」

「今日は早かったね、愛苗っち」



 ピクっと手を止める。



 目玉だけを左に動かし、水無瀬へ声をかけてきた二人を視る。



 早乙女さおとめ ののか、日下部 真帆くさかべまほの二名だ。



 水無瀬は少し戸惑ったような様子を見せてから二人へ挨拶を返した。


 どうやら彼女も自分と同じ違和感を感じたようだ。



 1限目の数学の小テストの予習としてカンニングペーパーを作りつつ、様子を見守る。



 彼女らの会話は表面上は昨日と同じ他愛のないものだ。


 気さくにやりとりをしている、ように見える。


 だが、そのやりとりには弥堂でも気付くほどに、どこかぎこちなさがあった。



「真帆ちゃん。こないだ教えてもらったLaylaレイラさんの曲聴いたよっ。あのね? とっても――」


「――あれっ? どの曲だったっけ? ごめん、水無瀬さん。自分で薦めといてちょっとド忘れしちゃった」



 日下部とも――



「ののかちゃん。はなまる通りにね、ゲロモンの屋台出てるんだって! よかったら一緒に――」


「――ゲロモンだとぉ⁉ もしかして愛苗っちもゲロモン好きなの?」


「え? う、うん……、こないだ――」


「――なんだよぉっ! 早く言ってくれよぅ。みんなゲロモンのことキモいって言って共感してくれなかったのに、こんなところに同志がいるとは!」


「う、うん……、私も、好きなんだ……。ね、ねぇ、ののかちゃん?」


「お? なんだー、愛苗っち?」


「あの、私のこと……、その、呼び方……」


「お?」


「……ううん。ごめんね? なんでもない……」



 早乙女とも――



 どこか会話がぎこちなく、どこか噛み合っていない。



 彼女たちに何か悪意的な、或いは攻撃的な雰囲気があるわけでもない。


 だが、違和感が確かにある。



 そしてその違和感は弥堂や水無瀬だけでなく、彼女ら二人も感じているようだった。



 水無瀬が『真帆ちゃん』、『ののかちゃん』と名前を呼び掛けると、彼女らが返答をするまでに1秒にも満たないほんの僅かな間がある。



 昨日の昼休みに水無瀬に名前を呼ばれた結音が見せたような不快感ではなく、どこかむず痒さのような掴みかねるような手応えのなさが垣間見える。



 再度、結音の方へ視線だけを向ける。



 いつも通り、教室の窓際の最後方にある結音の席に寝室が来ていて二人で談笑をしている。


 彼女らにはこちらに視線どころか意識すら向けている様子はない。



 例えば、自分たちが手を下した何かの効果を確かめるような、そんな雰囲気は一切ない。



 だからといって、この場で何か確定的な判断を下せるわけでもないが、彼女らが何かをしたようには思えないのも事実だ。



(少し、試してみるか)



 弥堂は作業をする手を止め身体ごと向きを変えて日下部へ視線を向ける。誰がどう見ても、見ているとわかるようにジッと彼女を見つめた。


 当然そんな露骨なことをされれば本人もすぐに気が付く。



「? なぁに、弥堂君? って、挨拶してなかったね。おはよう」


「……あぁ。おはよう、日下部さん」



 抑揚のない声で挨拶を返し、尚も彼女を視続ける。



「えっ? え……? な、なぁに? 私なんか変?」



 その視線に居心地の悪さを感じた彼女は、慌てて自分の服装をチェックする。



「ふふふー、マホマホ覚悟を決めるんだよ」


「え? どういう意味?」


「ののかにはわかるよ。弥堂くんはきっと『この女そろそろ抱き時だな』って考えてるに違いないよ!」


「アンタまたそんないい加減なこと……」


「いい加減なんかじゃないよ! なにを隠そう、ののかは昨日すでに抱かれちまったかんな! それも廊下なんかで!」


「は? えっ……?」


「通りすがりの人々にパンツ見られまくりだったかんな! ちくしょう! 安売りしてなかったのに、このヤロウ! 責任とれ!」


「こ、こらっ! やめなさい!」



 喋っている途中で、昨日の自分の扱いについての憤りが蘇ってきたのか、早乙女は弥堂の胸倉を掴んでユサユサと揺する。


 日下部はそれを慌てて止めに入り、彼女を引き剥がす。



「ご、ごめんね弥堂君。あーあ、もう、制服シワクチャに……」


「いや、別に構わない。それよりも日下部さん――」



 早乙女にメチャクチャにされた襟を直しながら、弥堂は日下部に問いかける。



「――キミは俺を恐がっていなかったか?」


「え?」



 問われた日下部は目を丸くする。


 そして、何か恥じ入るような、照れくさそうな仕草でクスクスと笑う。



「……うん。ごめんね。でも、なんていうか失礼な言い方になっちゃうかもしれないけど、ちょっと慣れたというか……」


「実はこの人超面白くなーい?って昨日マホマホと喋ってたんだよ!」


「こ、こら、ののか! その言い方は感じ悪く聞こえるでしょ! ご、ごめんね弥堂君っ。別にバカにしたわけじゃないの」


「構わない」



 どうも自分に対しての反応は変わらないようだ。



 変わらないというより、正確に言うのならば続いている。



 昨日までの関係性が蓄積されていて、そして今日という日が正確に昨日からの続きになっている。



 一方で――



「ののかっ。アンタそんな風にベタベタすんのやめなよっ」


「え? なんで……って、あ、そうか!」



 少し声を潜めた日下部に注意をされ、早乙女はハッとする。


 そして二人でソローっと水無瀬の方を見た。



「み、水無瀬さんゴメンね? この子ちょっとバカで。でもそういうのじゃないから……」


「てかてか、平然としてるよ? 愛苗っちってばもしかしてNTRオッケー女子だったの?」



 水無瀬に対しては蓄積されたものがないように、どこか焼き増しのようなやり取りが見受けられる。



 一瞬だけ逡巡した後、水無瀬はニッコリと笑顔を作って彼女らに言葉を返す。



「NTR知ってるよ! 流行ってるんだってね」


「お? おぉ……? 愛苗っちってば意外とNTRに造詣が深い……? あ、あの、もしかしてそういうご経験がおありで?」



 どこか恐れ入ったように畏まった早乙女に水無瀬は能天気に返す。



「うんっ。一昨日したよ? NTRっ! タヌキさんで!」


「どういうことぉっ⁉」



 己の持つ価値観では測ることが出来ないような特殊な性癖に遭遇し、早乙女は頭を抱えてプルプルと震える。



「――の~の~かぁ~……っ!」



 そこへヌッと手が伸びてきて、ギュッと早乙女のほっぺたを抓り上げた。



「――いひゃいひゃいひゃいひゃいっ⁉」


「穢れた欲望を愛苗ちゃんに教えるなと言っただろうが……っ!」


「爪はやめへーーーっ!」



 無慈悲に早乙女の頬肉に爪を食い込ませるのはもちろん舞鶴 小夜子まいつるさよこだ。



「おはよう弥堂君」



 毎日のように見る乱痴気騒ぎに軽蔑の目を向けていると、いつの間にか近くに寄ってきていた学級委員の野崎 楓のざきかえでに声をかけられる。



「あぁ。おはよう野崎さん」


「ごめんね? 真帆ちゃんたちに少しだけ弥堂君のこと話しちゃった」


「俺の?」



 一体何の話だろうと怪訝な眼を向ける。



「うん。さっき話してたでしょ? 恐くないのかって」


「あぁ」


「誤解されることも多いけど弥堂君はとても凄いことをしたんだよって、昨日みんなに話したの。そういうのあまり好きじゃないだろうから、気を悪くしたらごめんなさい」


「……特に不都合がなければ問題ない」


「そっか。よかった」



 そう言ってはにかむ野崎さんの真っ直ぐな視線から目を逸らす。


 いい気はしないのは確かだが、彼女にはある程度好きにさせてやってもいいとも考えている。


 何故なら野崎さんは使える女だからだ。



「そういえば、その時にね、愛苗ちゃんと意気投合したんだ」


「…………へぇ。それは是非聞きたいな」



 下衆な打算を働かせていたら、続けて言われた野崎さんの言葉に違和感を覚える。



「うん。弥堂君はとっても真面目で一生懸命なんだって説明したんだけどね、それにすごく共感してもらえたの。ねっ? 愛苗ちゃん」


「え? う、うん。私も弥堂くんはいっぱい頑張ってると思うよっ」


「……そうか。よかったな」



 一瞬戸惑いつつも明るい声音で笑った水無瀬へ適当に言葉を返す。


 水無瀬にも野崎さんにも、どっちにも言ったとも捉えられる微妙な返事に二人とも首を傾げてしまう。



 そんな彼女らには構わずに弥堂は別の女に声をかける。



「舞鶴」


「これに懲りたらもう二度と――ん? 私かしら?」


「あぁ。取り込み中にすまないな。ちょっといいか?」


「えぇ、かまわないわ」



 涼しげな声で了承の意を伝え、舞鶴は床に早乙女を放り捨てる。


 床に崩れ落ち乱れた早乙女のスカートから一瞬ドギツイ光沢のある紫色の布地が顔を出すが、慣れた動作で素早く日下部さんがそれを隠した。



 その様子をジッと視てから弥堂は舞鶴に視線を戻す。



「なに一つ憚るものはないという堂々としたその姿勢は立派だけれど、せめて得したぜくらいのリアクションはしてあげたらどうかしら。一応礼儀として」


「ん? あぁ、大したことじゃない。気にするな」


「まぁ、大したものじゃないし気にすることでもないわね」


「扱いがヒドすぎるんだよ! せめて気にはかけてよ! ののかのパンツにリスペクトがなさすぎるよ!」



 憤慨する早乙女を無視して舞鶴に用件を伝える。



「こちらも大した用じゃないんだが。時に、舞鶴」


「なにかしら」


「昨日の水無瀬の餌が残っているんだが」


「――なんですって……⁉」



 クワッと目を見開く彼女の前に、駄菓子屋の10円ゼリーを10本ほど取り出す。



「――1本100円だ」


「――買うわ……っ!」



 パンッと弥堂の掌に千円札を叩きつけてゼリーを毟り取ると、彼女は喜び勇んで水無瀬の方へ向かった。



 遠慮する水無瀬の口にゼリーをグイグイ押し付ける彼女とその周囲の笑い声を遠くに見る。



(さて、これはどういうことなのか……)



 気のせいでは済ませられないほどに膨れ上がった違和感は異常を確信させる。


 しかし、その異常の正体が不透明すぎて薄ら寒さを覚えた。



 教室内の喧噪の総てまでもが何処かあべこべなように錯覚する。



 それが本当に錯覚であることを保障してくれるものなど何処にも存在しない。



 今、何が起こっているのか、それとも起こっていないのかについては何もわからないが、そのことだけは弥堂 優輝びとう ゆうきはよくわかっていた。






 白い砂浜に足を落とす。



 風に波打つカーテンのようなそれは実際には白に近い灰色で、そのグレーの幕に体重を預けると足は沈みこみ、細かな砂粒が足とサンダルとの間に侵入してきて、これらは一つのものではないのだとわかる。



 普段SNSでよく見る、まるで芸術作品のように一枚の絵として綺麗に撮られた写真も、思い切り拡大して寄ってみれば粗くてギザギザとした色の汚い粒しか見えなくなり、遠目に見て美しいと感じるものも実体は所詮それらの集合体でしかないのだと知っている。



 目の前に広がるある程度整備された砂浜を見渡して、「これもそれと同じなのかしら」と思い浮かべ苦笑いをする。



 果てしない空色の下、碧い海、白い砂浜、自然の蒼。



 この環境下でそんな身も蓋もなく夢もないことを考えるのは、決して自分が醒めていてつまらない女だからではなく、足の親指と人差し指の間に這入りこんだ砂粒から伝わる熱が足りないせいだからだと言い訳をする。



 砂浜から感じる温度は人肌以下で、それもそのはず、時節はまだ4月。


 南国でもあるまいし、今時分はわざわざ学校を休んでまでこんな場所へ来るような季節ではないのだ。



 不意に海からの風が強くなる。



 その風は肌寒いというほどでもないが、決して清涼さを齎してくれるものでもなく、真っ先に浮かんだのは「髪型崩れる!」だった。


 そんな淡泊で即物的な考えに、まるでアイツみたいだとこのような風景に最も似つかわしくない男の顏が浮かぶ。



 自分はあのバカとは違うと目を逸らすために視線を上げ、「もっとやる気だしなさいよ」と天上で胡坐をかく呑気な太陽を、希咲 七海きさき ななみはジトっとした目で睨みつけた。



 そんな彼女の心情さえ知らなければ、青く広がる空の下、碧い海の緩やかな波に撫でられる白い砂浜で、海の向こうから届く風に靡きそうになる髪をおさえて立つその姿を遠巻きに写せば、周囲の風景に負けない輝きを持つ彼女の美しさは正しく絵になっていた。



 そんな絵画を鑑賞しながらトロピカルグラスを揺らして微笑むのは紅月 望莱あかつき みらいだ。



 しかし、彼女は遠目から上澄みの綺麗さだけを見ているのではない。


 希咲とは小学校に上がる前からの幼馴染である彼女は、今この場で希咲が何を考えているかを正確に理解しており、理解した上で、そんな希咲にほっこりとしていた。



 ビーチチェアの上で優雅に足を組みながらそんな屈折した友愛を茹で上げていると、いつの間にか太陽に向いていたはずのジト目が自分の方に向いていることに気が付いた。



「あによ」



 その声には答えず、咎めるように歪められる瞼の上で震えた彼女の睫毛を見つめニッコリと笑う。


 すると、希咲はムっとした顔を見せ、若干肩を怒らせながら近づいてくる。



 人の足跡のないなだらかな砂浜の曲面を素足で穿つ。



 マイクロミニのデニムのショートパンツからは、ほぼ全てと謂っていい脚線が露わになっている。


 彼女が細長い脚を乱暴に動かすたびに、短いデニムの裾からはその脚の付け根が見え隠れする。


 望莱は余裕たっぷりの姿勢で彼女が自分の元に辿り着くのを待ちながら、ねっとりとした視線をそこに固定した。



 やがて、ビーチパラソルでは防ぎ切れていなかった光量がさらに落ちる。


 すぐ間近で立ち止まった希咲が腰を折って太陽を遮っていた。



「どうしたんですか? 七海ちゃん」


「あんた、あたし見て笑ってたでしょ?」


「えー?」



 今現在、自分の身体が彼女の影に覆われているという事実に内心興奮してきたみらいさんだったが、ニッコリとした笑顔を維持して誤魔化しながらわざとらしく首を傾げる。



「別にいいじゃないですか。幼馴染同士だし、女の子同士だし」


「どうせまたロクでもないこと考えてたんでしょ」


「もうやだ、七海ちゃんったら。疑り深いのはメンヘラの始まりですよ?」


「うっさい。ダレがメンヘラか!」



 望莱は自身に向けられる疑惑の眼差しに笑顔で嘘を返した。



「てかさ――」


「――はい?」



 希咲から向けられる目が疑惑から呆れたようなものに変わり、それに合わせて声音も同様のものに変化する。



「あんた、なんてカッコしてんのよ……」


「恰好? なにかおかしいですか……?」



 希咲に指摘され、望莱は不思議そうに自身の姿を見下ろす。



 そこそこ広く綺麗なビーチにビーチパラソルを立て、その下にセットしたビーチチェアに凭れかかる彼女の服装は白いビキニの水着で、その手にはトロピカルグラスに盛り付けられたフレッシュジュースがある。


 場所柄だけを考えるのであれば特におかしなこともなく、むしろ相応しい恰好と謂えなくもない。ただ――



「まだ、4月なんだけど……?」



――季節感だけがスッポリ抜け落ちていた。




 現在彼女たちは学校から許可を得て休みを取り、この後にくるゴールデンウィークと合わせて長期の休暇に入っている。


 その期間を利用してこの場所に来ていた。



 しかし、ここはビーチはあれど別に南国でもなんでもなく、東京湾から秘密の方向に内緒の距離を進んだ場所にある紅月家所有の無人島だ。



 厳密にいえば本当の所有者は違うのだが、やんごとない事情から一応表向きは現在の管理責任者は紅月家ということにされており、日本地図にも世界地図にもその存在が記されていない非常に如何わしい島である。


 1平方キロメートル以上あるらしいこの島が公式には存在しないことになっていることに深い闇を感じ、希咲は投げやりに「あははー」と笑う。



 それを不思議そうに見てくる望莱の視線に気づき、頭を振って話題を戻す。



「あんた実はちょっと寒いでしょ? 鳥肌たってるし」


「そうなんですよね。困ったものです……」



 望莱は頬に手をあて悩まし気に溜め息を吐く。



「なにを他人事みたいに。あんたのことでしょ。なんか羽織りなさいよ」


「せっかくビーチに来たから気分だけでもと思いまして」


「あんたそんなアクティブな子だったっけ? アウトドアきらいじゃん」


「む。まるでわたしがヒキコモリかのように。確かに家と学校の往復とコンビニに行く以外では全く外出をしませんが、それでもわたしはセレブ。気持ちだけはパリピなんです」


「セレブでもパリピでも風邪ひく時はひくかんね。ほら、これ着なさい」


「ありがとうございます。実はさっきからお腹が冷えてきてキュルルルっていってます」



 希咲はその辺りにこれ見よがしに置かれていたセレブガウンを拾ってやり彼女に手渡す。


 望莱はトロピカルジュースをサイドテーブルに置いてガウンを受け取り、雪山で遭難する人が毛布を被るようにガウンを肩から掛けて丸くなった。


 希咲は胡乱な瞳を向ける。



「身体を張ってまでふざけるんじゃないの。なにがあんたにそこまでさせるのよ」


「なにって……強いて言うなら七海ちゃん、ですかね……?」


「へ? あたし……?」



 顎に人差し指をあて「んー?」と考えてから望莱が出してきた答えに希咲は目を丸くする。



「七海ちゃん――っ!」


「な、なによっ……?」



 それまで貼り付けていた笑顔をキリっとさせて、突然望莱から真剣に咎めるような目を向けられると、希咲は僅かにたじろいだ。



「どうして水着じゃないんですかっ!」


「は?」



 しかし、すぐに眉を顰めることになる。



「どうして海に来てるのに水着じゃないんですかっ!」


「どうしてって……、あんた今それを身をもって知ったんじゃないの……?」


「口答えをするなーーっ!」


「わっ――⁉」



 極めて正論を述べただけなのに理不尽にも年下に怒鳴られて七海ちゃんはびっくりした。


 本日の七海さんは、いつもは後ろ髪を残して横髪だけで作っているサイドテールを後ろ髪も纏めて括っており、うなじを露わにしたマリンルックモードだ。


 限定増量したサイドテールをぴょこんっと跳ね上げる。



「な、なんなのよっ⁉ いきなりおっきぃ声ださないでっ!」


「七海ちゃんがダルイこと言うからいけないんです」


「はぁ? いっつもダル絡みしてくんのはあんたでしょ?」


「健気に懐いてくる妹分になんて言い草ですか」


「あんたのどこが健気なのよ! いつもそうやってヘンなこと言ってすぐふざけるじゃん!」


「ふざけてなんかいません。わたしは大真面目です」



 望莱はテーブルからトロピカルジュースを取りクネクネしたストローで一口吸ってから、希咲へと真剣な眼差しを向けた。



「海では水着。なにもおかしなことではないでしょう?」


「いや、だから季節感がおかしいんだってば」


「このままじゃ、わたしが水着着てたらワンチャン七海ちゃんも水着になってくれるかなって頑張ってたのが馬鹿みたいじゃないですか」


「そんなこと考えてたのか、あんたってば……」



 疲労と呆れを滲ませながら肩を落とし、仕方ないと溜息を吐く。



「つか、着てるし」


「え?」


「だから水着。着てるし」



 ぱちぱちと瞬きをしたみらいは、腰に手を当てて立つ希咲の姿を足先から舐めるように目線を動かし睨め上げ、最終的に希咲の股間に戻しそこで固定する。



「半ズボンです」


「ショートパンツ」



 続いて希咲の胸元に視線を移す。



「ジャンパーです」


「ラッシュガード。女子力。どこに置いてきた」



 クイ気味に修正をくらった望莱は希咲の顔に視線を動かしジっと見ると、指を咥えて物欲しそうな顔をする。



「あによ」


「水着じゃないです」


「この下に着てるんだってば」



 そう言って希咲は開けっぱなしにしていたショートパンツのホックを左右それぞれ摘まんで僅かに広げてみせる。すると黄色い布地がチラ見えした。


 みらいさんは真顔でそれを凝視し、思わずトロピカルグラスを握る手にグッと力がこもる。しかし、彼女は身体能力クソザコなので特に何も起きなかった。


 みらいはジュースをさらに一口飲んで平静を装いつつ、今度は希咲の胸元を見る。



 胸の所だけをボタンで留め、さらに胸の下辺りを紐で結んでいる。


 他の部分は留めていないので海風に時折り靡き、胸の谷間とおへそがチラチラ見える。



 みらいさんは知っている。



 あの谷間は数々のツールとスキルによって作られたものであり、さらに胸の下で結んでいる紐も胸の立体感を強調して少しでも大きく見えるように小細工を施している彼女の涙ぐましい努力であることを知っている。



 ほっこりとした気持ちになったみらいさんはさりげない動作で羽織っていたガウンをはだける。


 そこから露わになるのは高校入学間もない身分でありながらD判定を叩き出したお胸だ。


 その胸の下に腕を差し入れてこれ見よがしに持ち上げてから離す。



 ぽよよんと揺れた白いビキニに包まれる胸肉を希咲がムッと睨む。


 その不機嫌顔を見てみらいさんは満足げに笑顔を浮かべた。



「じゃあ脱ぎましょう」


「イヤよ。『じゃあ』のいみわかんないし」


「脱ぎましょう」


「イ・ヤ。寒いし日焼けするし」


「日焼け止め塗ってあげます」


「もう塗ってる」


「日焼け止めの基本は二度塗りです。任せてください」


「それももうしてる」


「わかりました。とりあえず脱ぎましょう」


「なにがとりあえずか。絶対イヤよ」


「えー?」


「あたしたち遊びに来てるわけじゃないし、泳ぎもしないのになんでお尻出して歩かなきゃなんないのよ。バカみたいじゃない」


「それは泳ぎもしないのにお尻だしてるわたしがバカだってことですか!」


「だからバカみたいだから服着ろっつってんだろ!」


「やーだやだーっ! 七海ちゃんのお尻みーたーいーっ!」


「うっさい、おばかっ!」



 グネグネと身体を揺するみらいを叱りつけるが、彼女は駄々を捏ねる子供のようにズルズルと姿勢を崩し、ビーチチェアに寝そべる。


 希咲は呆れた目でそれを見る。



 しかし、それは望莱の擬態だった。



 望莱はさりげなくハイパーローアングルで希咲の股間を凝視する。



 希咲は脚が細くお尻も小さめだ。


 マイクロミニのショートデニムとはいえ、彼女の細さならそこに必ずズレが生まれる。一流のストライカーは決してそのスペースを見逃したりしない。



 ほぼ真下からショートパンツの裾の奥の足の付け根を覗くと、デニムとは違った種類のブルーが目に映る。



「えっ……?」


「ん?」



 望莱は困惑する。



 不思議そうに首をコテンとさせる希咲に構う余裕はなく、口元を手で押さえて入学試験第一位の頭脳をフル回転させて今しがた得た情報を精査する。



 先程おへその下に見えた希咲が着用しているビキニパンツと思われるものの色は黄色だった。


 しかし、今ショートパンツの裾から見えた股間部分の布地の色はこの海と似た色のブルーだった。



(――なんで……っ? なんで色が違うんです……? 一体どんなデザインの……)



 みらいさんは実物が見たくなりすぎて精神が不安定になった。



「――オマエらうるせえぞ」



 茂みを揺らす音ともに呆れたような男の声が挿し込まれた。






「遊んでんじゃねえよ、オマエら」



 挙動不審に目玉をギョロギョロ動かすみらいを希咲が胡乱な目で見ていると、別の方向から声がかかる。



「あ、蛮。おつかれ」


「おう。まだ午前中だってのにもうお疲れだよ」



 内陸部の森林から現れたのは彼女らと幼馴染で、希咲と同じクラスでもあり、進学早々に喧嘩をして処分を受け現在も絶賛停学期間中の蛭子 蛮ひるこ ばんだ。



「遊びでやってんじゃないですよぉーーーっ!」


「うぉっ⁉」



 言葉通り疲れた様子で首をゴキッと鳴らした彼だったが、脈絡もなく望莱みらいに怒鳴れられ、190cmオーバーの筋肉質なガタイをビクッと引かせる。



「いきなりなんなんだコイツ。コッワ……」


「あー、なんか情緒不安定なのよ。この子」


「いつものことか。ダリィなコイツ」



 言いながらこれまた言葉通り、蛭子は気だるげに不快感を顕わにする。眉間を歪めて望莱を見遣る。



「つーかよ、オメェなんつーカッコしてんだよ」


「えー? なんですか蛮くんったら。親友の妹に対してそんな獣欲まみれの視線を向けるなんて……。兄さんがいいって言うならいい……ですよ……?」


「キメェこと言うなや。まだ4月だぞ? なんでもう水着なんか着てんだよ。バカじゃねーのオマエ」


「これは七海ちゃんのお尻を見るために仕方なく脱いだんです」


「なんで七海のケツが見たくてオマエがケツ出すんだよ。頭おかしいんじゃねえの?」



 あらゆる過程をすっ飛ばした望莱の説明に不可解そうに眉を寄せるが、理解することは諦め希咲の方へ目を向ける。



「ねぇ、蛮。疲れたって……、もしかしてあんまり状態よくなかったってこと?」


「ん? あー……」



 そう問われると蛭子は粗雑に頭を掻きながら言葉を探す。


 サイドをヘアピンで留めてラフに後ろへ流している鬣のような金髪が乱れる。



「……そうだな。あまりまともに手入れされてなかったみてぇだ。随分汚れてっし修理もしなきゃなんねえ」


「てことは時間かかるってことよね。今日は昨日と同じとこに泊まりでいい? 他の場所の別荘に移るんなら先に掃除しとかなきゃなんないし」


「だな。今夜は移動なしだ」


「オケ」


「話はまとまりましたね。ということで、蛮くん。脱いでください」


「なにが『ということで』なんだよ。今そんな話してなかっただろ。ホント人の話聞かねえよな、オマエ」


「蛮くんってばヤンキーのくせに細かいですね」


「オメーらが自由すぎんだよ。つか、ヤンキーじゃねえし」


「ちょっと、あたしも一緒にしないでよ」



 不機嫌そうに表情を歪める蛭子くんは、その鋭い目つきにイカつい風貌と逞しいガタイのせいで昔から不良にイチャモンを付けられやすく、都度撃退していたら気が付いたら最強のヤンキーと呼ばれるようになっていた難儀な男子だ。


 弱気な姿勢を見せたり下手に出たりすると嵩にかかって襲われるので最早引くに引けない状況になっていた。



 彼自身は割と常識的な感性を持っているので、この『紅月ハーレム』と周りから呼ばれる幼馴染グループの中では、希咲に次ぐ損な役回りをしている。


 しかし、油断をしたら名のある不良とタイマンを張る状況に陥る巻き込まれ体質の為、彼もしっかりと希咲の頭を悩ませるトラブルメイカーだった。



 そんな彼だったが、希咲から抗議の視線を向けられると口を閉ざす。


 もしも彼女にヘソを曲げられると、彼女が負っているトラブル処理が全て自分に回ってくることを正確に理解しているからだ。


 誤魔化すように話を戻す。



「つか、なんでオレが脱がなきゃなんねえんだよ」


「海では水着です。この世の真理です」


「季節考えろよ。ガキじゃねえんだからよ」


「ふう……、やれやれです。これだからヤンキーは」


「ア?」


「今のは気を遣ってあげたんですよ?」


「どういう意味だ」


「そのアロハ、死ぬほどダサイから脱いだ方がいいって遠回しに教えてあげたんです。すごくヤンキーっぽいです」


「オマエほんとムカつくな!」



 登場するなりあっという間に望莱のオモチャにされる彼に希咲は溜息を吐き、パンパンと手を叩いて二人の意識を自分に向けさせる。



「はいはい、そこまで。ところで、蛮。真刀錵まどかは?」


「アン?」



 収拾がつかなくなりそうだったので、無理矢理話題を変えようと希咲が機転をきかせるが、問われた蛭子は怪訝な顔をする。



「オイ、待て。アイツはオマエらと一緒じゃなかったのか?」


「え? あんたと一緒だとばかり思ってたんだけど」


「真刀錵ちゃんならお日様の方に走っていきましたよ?」


「は?」



 あっけらかんと告げた望莱の方へ二人そろって顔を向ける。



「お日様って、どういうこと?」


「それがですね。真刀錵ちゃんに『自分は何処に向かえばいい?』って哲学っぽいこと聞かれたので、わたしもそれっぽいことを答えようと思いまして」


「……それで?」


「特に何も思いつかなかったので、太陽に向かって走れと適当に答えました」


「うぉいっ! 準備終わったらオレんとこ来いって伝えろってオマエに頼んだだろ⁉」


「そうですね。でもその方が面白いかと思いまして」


「ふざけんなよ⁉ 伝言くれえまともにやってくれよ!」


「えー? そんなに言うんなら電話かメッセすればよかったじゃないですかー」


「森ん中は電波入らねえんだよ。クソッ、アイツを一人で野放しにしたら……」


「――私を呼んだか?」



 蛭子が最悪の事態を予想してワナワナ震えていると、彼が出てきた方とは別の場所からガサガサと葉を鳴らし新たに人が現れる。


 トレードマークである黒髪ポニーテールを揺らし、学校ジャージに身を包んだ天津 真刀錵あまつ まどかだ。



 蛭子はバッとそちらに顔を向ける。



「オイ、真刀錵テメェ、今まで何処で何を――って、待て。なんだその手に持ってる物は……?」


「ん? これか?」



 一緒に作業をする予定だったのに勝手に単独行動をした天津を咎めようとした蛭子だったが、それよりも彼女が手に持つ物を見咎める。


 問われた天津が全員に見えやすいようにと手に持った荒縄のような物を茂みから完全に引き抜くと、それを目にした蛭子がびっくり仰天する。



「オ、オマエ……っ! それまさか東のロッジの……っ⁉」


「うむ。中に入ろうと思ったのだがこれが巻かれていたのでな」


「でな、じゃねえよ! なんで持ってきてんだよ! オマエなにしたっ⁉」


「斬った」


「はぁ⁉」



 声を荒げて焦る蛭子の様子にトラブルを確信した希咲は額に手を遣り、望莱はニンマリと笑みを浮かべた。



「ふざけんなよオマエ! それオレが前回補修したヤツだよ! なんで斬るんだよ⁉ それでも天津の娘かオマエは!」


「天津の娘だからだ。立ち塞がるものは斬れと言われている。不可解なものも斬ればわかるとおじいさまに教わった」


「あんのクソジジイがよぉっ! つか、なんでわざわざ持ってくんだよ!」


「うむ、斬った後でそういえばこれは蛮が巻き付けていたなと思い出してな。壊してもいいものかどうかは私にはわからなかったので、お前に見せてやろうと持ってきた」


「気遣いするポイントがズレてんだよ! そもそも、壊してもいいものなんてこの世にはねえ!」


「諸行無常。万物は変わりそして滅ぶ。世は儚いな」


「きっぱりと人災だろうが! どうせオレが直すのわかってんだから置いとけよ、メンドくせえな!」



 まったく悪びれた様子のない天津に頭を抱え彼女を怒鳴りつけるが、それで彼女がどうにかなるなら、今こうなってはいないと諦める。


 ガシガシと頭を掻いて切り替え、話の通じる人に話しかける。



「あぁっ! ちくしょう! 七海っ!」


「はいはい、東ね。あっちはコテージだっけ?」


「あぁ。向こうの修理を優先させる。今夜は向こうに泊まることになるだろうから、悪ぃが先に片付けといてくれ」


「オッケ」



 多くは聞かず、意を得たりと希咲は請け負う。



「ついでにみらいも連れてけ。そいつも野放しにしたらロクでもねえことしかしねえ」


「んま。心外です」


「おだまり。あんたはあたしとお掃除よ」


「えー」



 移動を渋る望莱を引っ張り上げて立たせ、しっかりとガウンを着せる。



「ふむ。私は? 蛮」


「テメェはオレと来いっ! 当たり前だろ!」


「だが私には聖人を護衛する役目がある。あまり離れるわけにはいかんぞ」


「たった今まで離れて勝手なことしてたよな⁉ つか聖人のヤツはどこに――」


「――ウフフフ、こっちですわぁ~」



 自身の親友のことを今思い出し辺りを見回そうとすると、先んじて能天気な笑い声が聞こえてくる。



 声がした海辺の方に目を向けると波打ち際を走る一組の男女の姿があった。



「わたくしを捕まえてごらんなさい~」


「待ってよリィゼー!」



 ウフフと笑いながら本気で逃げるつもりのない走り方をする女を、男が本気で捕まえる気のない速度で追っている。



 紅月 聖人あかつき まさととマリア=リィゼのバカップルだ。



 パチャパチャと水を鳴らしながら、4月の海で水着姿の二人は追いかけっこをして戯れている。



「そんなことじゃわたくしを捕まえられませんわよぉ~」


「うわ、冷たっ! リィゼ? けっこう水冷たいよ? 転んだりしたら普通に風邪ひくからもうやめといた方が――」


「ウフフフ、愛しているならわたくしを捕まえてみせてごらんなさ~い」


「聞いてる⁉」



 青い空と海。白い砂浜。


 その波打ち際を王子様のような柔らかい雰囲気の美男子と、まさしくお姫様な金髪の美少女が走っている。



 完璧に絵になりそうな光景だが、決定的に時代を間違えていた。



 そんなひどくレトロ臭のする昭和の寸劇を見せられた4人はスンっと真顔になった。



「……なにやってんだあれ」


「……リィゼが昔のドラマを観たらしくって。『ぜひやってみたいですわぁ~』って言ってたわね。やっぱあれマジで言ってたんだ……」


「……聖人め。なんと軟弱な」


「……兄さんは主体性ゼロの男ですから。基本女の言いなりです。そんなところがステキです」


「おい、あの二人も連れてけよ」


「イヤよ。リィゼに掃除なんて出来るわけないじゃない」


「こっちに連れてっても役に立たねえんだよ」


「私が見張っておこう」



 バカップルの監督責任を希咲と蛭子が擦り付けあっていると天津が申し出る。



「……オマエもだいぶ不安だが……、それしかねえか……」


「ふふふ。蛮くん大変そうですね」


「うるせえな! オマエが言うんじゃねえよ! クソっ……! 結局ワンオペかよ……!」


「悪いけど頼むわね、蛮」


「……まぁ、ぶっちゃけソイツが一番なにするかわかんねえ。みらいを頼むぞ、七海」


「……あたしもぶっちゃけていいんなら、この子だって掃除なんか出来ないのよね……。絶対邪魔するし」



 蛭子に頼まれた希咲は、早速どこかへフラフラと歩き出そうとする望莱の首根っこを捕まえ渋い表情をする。



「さぁーて、いってくんぜぇー」



 その希咲の顔から目を逸らして、気が変わって望莱を押しつけられる前にと白々しい棒読みを残し蛭子は踵を返した。



「では各々。よろしく」



 そして、まるでデキる人風な顔をして天津も聖人とリィゼを追いかけていく。



 二人の後ろ姿を見送り、希咲が無言で望莱の顔を見ると彼女はにっこりと笑った。



 希咲は「はぁ」と重い溜息を吐き、動きたくないとダダをこねて砂浜に尻をつける望莱を引きずりながら歩き出す。



 白い砂浜に東へ向かって太い線が引かれていった。





 美景台学園2年B組教室。



 現在は3時限目が終わった後の休み時間だ。



 弥堂 優輝びとう ゆうきは不安気に困惑する隣の席の水無瀬 愛苗みなせ まなの顏を視ていた。



 彼女の周囲には朝のHR開始前と同様のメンバーが集まっており、女子特有のとりとめのないお喋りが高回転で繰り広げられている。


 ただの四方山話なら先週までと同じよくある光景なのだが、それをしている彼女らの様子が少々おかしい。


 HR前にも感じた違和感だったが、そこからまた様子が変化していた。



「――ねねねっ。最近この街ちょっとヤバくない?」


「事件のことかな?」


「遥香ちゃんが言ってた変質者でしょ? 昨日また出たらしいね」


「やっぱり美景川沿いみたいね。“カゲジョ”の子が被害に遭ったらしいわよ。セーラー服のスカーフをとられたって。性癖に闇を感じるわね」


「…………」



『えー、こわーい』と口々に街の治安についてどこか他人事のように話すその光景自体は別に珍しいものでもない。


 野崎、舞鶴、早乙女、日下部の4名が水無瀬の席に集まり会話をしているのだが、その輪の中心に居ながら水無瀬はまったく会話に参加出来ていない。



 先週希咲 七海が弥堂の前でやってみせたように、一定以上の人数が参加している会話の中での発言が得意でない水無瀬の為に、都度様子を見て話を振ってやるといったことは誰も行っていない。



 少なくとも昨日までは、彼女たちも水無瀬に対してそういった気遣いのようなものをみせていたはずだ。


 それが今は誰もやっていない。それぞれが好きに話している。



 かと言って、別にそのような手ほどきをしなければいけないといった決まりが別に存在するわけでもないし、頻度が極端に減っただけで彼女らも全くしていないわけでもない。


 弥堂 優輝という地獄のようなコミュニケーション能力しか持たない男からしてみたら、普段だったら気にも留めないだろう。



 さらにおかしな点もある。



「多いよね。暗い話が……」


「ウチの正門に出たっていう変態もあれだけど……」


「うん。そういう系の事件だけじゃなくて、人が亡くなっちゃう事故とか事件もよく聞くようになったね」


「……モールの件かしら? 酷い事故よね。居眠り運転のトラックに轢かれてガードレールとの間に首が挟まれて……」


「ぎゃあぁぁぁっ⁉ や、やめて小夜子ちゃん! ののか、そういうのマジむりぃっ!」


「意外とビビリよね、アンタ」


「ホラー好きのマホマホがおかしいんだよっ! だって、あんなのまるでギロチンみたいで……」


「人聞きの悪いこと言わないで。現実で起きて間もない出来事をホラーコンテンツとしては見れないわよ」


「ホラーっていえば美景川の自殺もあったよね。水門のところだったっけ? 小夜子」


「そうね、楓。こっちは“カゲコー”の子ね。男に酷い裏切り方されて身投げ、だったかしら」


「……あれはもっとホラーとしては見れないよ。性犯罪でしょ?」


「あー、ののかも聞いたな。好きな男に呼ばれて行ったら複数人居てとか」


「……遺体は何も身に着けていなくて、自殺現場の橋の上には靴しか残されてなかったんだってね」


「その子の服って橋から離れた犯人たちの溜まり場にあったんでしょ……?」


「……経緯を想像したくないわね。女からしてみたらこの事件が一番怖いわ」


「確かに……。ののか的にも首チョンパで一瞬で死ねる方がマシかもって思っちゃう……」



 最近の街の治安が悪化しているという彼女らの見解には弥堂も同意だ。


 だが――



(犯されてから殺され、挙句に首を斬り落とされて晒されることもある。どっちがマシかなど死んでみるまでわからないし、死んだ後にはもうどれでも関係ない。全ては死体を見る側の感傷だ)



 そこまで想像が至らないのは彼女達が善良である証拠でもあるし、そんな彼女たちが一般的な住人として暮らすこの街の治安はまだまだマシだとも謂える。


 彼女達よりももっと残酷な最悪を想定出来る自分が、彼女達よりもマシな人間だとは少しも思わない。



「――ねぇ、水無瀬さん」


「えっ?」



 ここで、ようやくと言うべきか野崎さんが水無瀬に声をかける。



「…………」



 弥堂は野崎さんに視線を向け注意深く彼女を視た。



「水無瀬さんはいつも帰り早いし、比較的安全かもしれないけど、それでも出来るなら誰かと一緒に帰った方がいいよ?」


「そうね。愛苗ちゃんは橋の向こうに住んでるんだったかしら? 出来れば七海と帰った方がいいけど、あの子忙しいものね」


「水無瀬さん優しそうだから変態のおじさんも声かけやすそう」


「わかるぜマホマホ。愛苗っちすぐに知らないおじさんに着いていっちゃいそうだしな!」


「そ、そんなことないよぉ」



 アハハと笑う彼女たちの声がどこか空虚にも聴こえる。



(誰一人、一緒に帰ろうとは言わないんだな……)



 水無瀬に声をかけた野崎さんの言葉もどこか義務的だったり事務的だったりしたような印象がある。



 確かに彼女たちは希咲に頼まれて、彼女の留守中に水無瀬の面倒見ている。


 そこには義務感といったものもあるのだとは思う。



 しかし、自分でもあるまいし彼女たちがそこまで割り切った人間たちだとも弥堂には思えない。



 もしかしたら、最初は、始まりはそうだったのかもしれなくとも――



『――それは確かにそうかもしれない。だけどね、弥堂君。最初そうだったからといって、ずっとそうであるとは限らないんだよ。キミもさっき言っていただろう? そこには確かな悦びがあった、と――』



――廻夜部長もそう言っていた。



 元々敵対関係にあったというわけでもなければ、何気ない会話のようなものでも関係を重ねていく内に蓄積されていくものは必ずある。



 事実、昨日までは確実にそれがあった。



(あぁ、そうか……)



 ここで少し、現状起こっている現象の薄気味の悪さに見当がつく。



 まずは彼女たちの水無瀬の呼び方だ。



 4月の頭にこの新クラスが始まった時、希咲が先週の金曜日に彼女たちを集めてきた時、そして昨日と今日。


 それぞれその時に彼女達が水無瀬のことを何と呼んでいたかを確認するため、記憶の中から記録を取り出す。


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