1章64 『這い寄る悪意』 ⑧


 自室の扉を開けて中に入ると、蛭子 蛮ひるこ ばんは重く息を吐き出した。


 閉めた扉に背を預ける。


 現在は洗い物などの食堂の片付けを終えて部屋に戻ってきたところである。



(なんだってんだ……)



 日に日に増していく不穏さに顔を顰める。



 まずは、京都に本拠地を構える陰陽府との関係性だが、しかしこれに関してはいつも通りのこととも謂える。



 現在厄介なことの一つは、特に希咲 七海を悩ませている、美景の方で起こっている事案――クラスメイトの水無瀬 愛苗みなせ まな弥堂 優輝びとう ゆうきが巻き込まれている、もしくは関与していると思われる謎の事件。



 そしてもう一つは――



『おそらく――明日、また龍脈が暴走します』



 先程の紅月 望莱あかつき みらいの言葉。



(みらいの奴、何を知ってやがる……?)



 彼女はその詳しいところについては何も語らなかった。


 彼女は話す気がある時は、こちらから要求しなくともどんな話であれ勝手に聞かせてくる。


 つまり、その望莱が話さなかったということは話す気がないということだ。


 だからといっても、蛭子としてはその仔細について本人に問い質さないわけにもいかない。



 とはいっても、聞いたとしてもまともに答えてくれるとも思えないのも悩みどころだ。


 何より、そもそもが彼女の質の悪い冗談という可能性もある。


 しかし、彼女の冗談は大体8割ほどはエグイ下ネタで、こういった系統の冗談を言うことはあまり記憶にない。



 だからといって、それでスルーを決め込んで、本当に言われた通りの事態が起こってしまったとなったら、それこそ目も当てられない。


 何故なら、仮にまた龍脈が暴走を起こしたら、その時にメインで対応をするのは蛭子自身なのだ。


 他のメンバーは直接戦闘には頗る強いが、こういった種類のトラブルには滅法弱い。


 実際には蛭子が単独で対処に当たることになると予想される。



(オレに、出来るか……?)



 見下ろした掌を握って隠す。



 彼自身、こういった術系統のことを本格的に学び始めてようやく1年が経つかどうか、その程度のキャリアしか積んでいない。



(もっとガキん時から親父の話をマジメに聞いとけばよかったぜ……)



 だが、後悔したところで時間は還らない。


 自身にかかる重圧を鼻で嘲笑った。



「ハッ――どのみち、やるしかねェか」



 強く拳を握って、部屋の奥へ進む。


 すると、上着を脱いでベッドに座ろうとしたところで窓際に目がいく。



 閉ざされたカーテンが部屋の内側に膨らむように動いていた。



 日中に希咲が屋敷の掃除をしてくれていたので、換気のために窓を開けていたのだろう。


 この後はシャワーを浴びて寝るだけだし、もう閉めてしまおうと、蛭子は窓の方へ近づいた。



 窓を閉めて鍵を掛ける為に、カーテンレールにランナーをシャッと走らせる。



 すると、窓の外にあった二つの目玉と視線があった。



「――大将っ、やってるぅ?」


「どわあぁぁーーっ⁉」



 190cm超の男は情けなく悲鳴をあげて尻もちをつく。



「ふふ、蛮くんださぁ~い」



 その姿を窓の外の望莱が愉しげに見上げた。



「オ、オマエ……、なにやってんだ……?」



 驚きの目で蛭子も床から彼女を見上げる。



 望莱は答えず、満足げな笑みを浮かべながらブランブラーンと身体を左右に揺らした。



「……オマエ、マジでなにやってんの?」



 ジト目になった蛭子くんは、窓の外で逆さ吊りになっている彼女へ割とガチめに問いかける。



「実はわたし、少し困ってまして……」


「まぁ、そうだろうな……」



 腕ごと身体をロープでグルグル巻きにされた挙句に逆さまに吊るされて困らない人間などいないだろう。


 彼女の長い黒髪が捲れて二階の部屋の窓から地面に向かって垂れ下がっている。


 ミノムシのような、巨大な筆のような、形容しがたい情けない姿に蛭子は言葉がなかなか出てこなかった。



「オマエ、真刀錵と一緒に七海を運んでったんじゃねェの?」



 そのため、彼女の姿には触れずに経緯を探ることにした。


 そこでようやく自分が尻もちをついていることに気付き、情けなさならどっこいどっこいかと考えつつ蛭子は立ち上がる。



「はい。そのとおりです」



 みらいさんは厳かに頷いた。



「それでどうしてそんなことになってんだ? つか、これ屋根から吊るしてんのか……?」



 窓から身を乗り出して蛭子はロープの出所を覗き込もうとする。


 するとまず目に飛び込んできたのは、みらいさんの黒パンツだった。


 胸の下から腰辺りまでをロープで巻かれている逆さ吊りの彼女は、ワンピースの裾が捲れ下がり、空中で下半身丸出しの痴態を演じていた。



 スッと、自然な動作で蛭子くんは部屋の中へ身を戻す。



「蛮くんが――」

「――見てない」


「…………」

「…………」



 ジっと、二人は見つめ合う。



「蛮くんがわたしのパンツ――」

「――見てない」


「まだ誰にも見られたことのない清楚可憐な白ぱんつを舐めまわすように――」

「――なにが可憐だバカ野郎。テカテカ下品に光った黒パンツだろうが。清楚ナメんな!」



 思わず蛭子くんが自供してしまうと、みらいさんはスッとジト目になった。



「…………」

「……わざとじゃねェ。そういうつもりじゃなかった」


「まぁ、いいでしょう。素直に見たいと認めてくれたら、このわたしも吝かではありません。わたしとて紅月の女。どうぞ好きなだけ見てください」

「見たくはない。それだけは紛れもない正直な気持ちだ。あと、紅月家の女性はそういうモンじゃない」


「…………」

「…………」



 このままでは分が悪いとみて蛭子は話を変える。



「で? オマエはなんで真刀錵の手伝いもせずにそこで奇抜な遊びをしてるんだ?」



 本来の質問に戻した。



「手伝おうとはしたんですよ」

「どうせ邪魔したんだろ」


「ほら? 困ったことに、七海ちゃんったらお風呂にも入らずに眠っちゃったじゃないですか?」

「お前が睡眠薬盛ったせいでな」


「このままじゃ乙女としてよくないと思いまして」

「まずは今の自分の姿を見てみろよ」



 ただの一つの同意もない相槌たちの前にみらいさんは怯まない。


 眉一つ動かさずに理解を求めない説明を続ける。



「まずメイクを落としてあげまして、そして次は身体をキレイにせねばと」

「もう先が見えてんだわ」


「七海ちゃんの身体の汚れを舐め……ゲフンゲフンっ、拭き取ってあげようと私は考えました」

「…………」



 蛭子くんはみらいさんの不適切な言い間違いを聴こえなかったことにした。



「まずは服を脱がさねばならぬという強い使命感を持って、七海ちゃんの半ズボンのホックに手を伸ばしたところ……」

「真刀錵にシバかれたんだろ?」


「はい。七海ちゃんの半ズボンに触れる前に手首をガッとされまして、あれよあれよという間にこんなことに……」

「何の意外性もなかったな」



 呆れた目を向けるが彼女が反省という行動をすることはおそらく生涯ない。



「というわけで、助けてください」


「…………」



 みらいさんが誘うように身体を左右に怪しく揺するその姿に、蛭子は反射的に窓を閉めそうになる。しかし下手に無視をすると夜通し窓の外で騒がれることになる。


 それは避けたいので蛭子は大人しく彼女を部屋に引っ張り込んで拘束を解いてやった。



「おぉ、蛮くんすごいです。さすがはヤンキー」


「ヤンキーは関係ねェだろ」



 ブチィッと力ずくでロープを引き千切る蛭子に、望莱はパチパチと拍手をする。



「じゃあ何して遊びましょうか?」


「お前の“じゃあ”は意味わかんねェんだよ。もう寝るから出てけ」


「ま。こんなに早く寝ちゃうなんて蛮くんのお子ちゃまヤンキー」


「早く寝ろっつったのオマエだろうが」



鬱陶しそうに返事をしつつも、ちょうど彼女に聞きたかった話に触れたのでそれを聞いてみることにする。



「そんなことよりよ――」


「――はい。わかってます」



 具体的な話を蛭子がする前に、真剣な表情でコクリと頷いたみらいさんは右手を左肩へ動かす。



「……?」



 そして怪訝そうな顔をする蛭子の前で、ワンピースの肩ひもを片側だけスッとズラすと、そのまま背中から背後のベッドへと倒れた。


 パフっとシーツに身を沈めると緩く握ったお手てを口元に添え――



「――いい……ですよ……? でも、兄さんには内緒にしてください……」



 視線を逸らしながらそう言った。



「…………」



 スッと目を細めた蛭子は無言でベッドへ近づく。



 身体の大きな彼が片膝を乗せるとギシッと沈んだスプリングが大袈裟な音を立てた。



 そして望莱の紐のズレた左肩へ手を伸ばし――



――スっと肩紐を元に戻した。



「あれっ?」



 不思議そうな声をあげる彼女を無視して、そのまま彼女の首根っこをムンズと掴むと部屋の出口へと向かう。



「あれれ?」



 そして扉を開けて、首を傾げる望莱を廊下へ放り捨てた。



 すぐさま扉を閉めてカギをかける。


 施錠の2秒後にドアノブがガチャガチャと動かされた。



「ふぅ……」



 カギをかけてよかったと額の汗を拭いベッドの方へ戻る。



「ったく、なに考えてやがんだアイツは……」



 招かれざる客を排除したベッドに今度こそ座ろうとして――



「――あ、ヤベ」



 慌てて踵を返す。



「アイツに伝えることあるんだった……」



 呟きながら部屋のドアを開ける。



「オイ、みら――」



 しかし、廊下にはもう誰の姿もなかった。



「チッ、どっか行きやがったか」



 つい直前までドアノブが鳴らされていたと思ったのだが、彼女は立ち去ってしまったようだ。



「魔石の残りが姫さんの部屋にあるって言おうと思ったんだが……、仕方ねえか……」



 ぼやきながら蛭子はドアを閉めて再び部屋の中へと戻って行った。






 ペタ、ペタ――と、屋敷の廊下でスリッパの音が鳴る。



 足を動かしてスリッパから踵が剥がれるたびにその音が一定間隔で鳴り、やがて一つの部屋の前で止まる。


 すぐにドアを開いて、スリッパはその中へと入って行った。



「ふふふ、カギをかけ忘れるなんて真刀錵ちゃんもまだまだ修行が足りませんね……」



 そうほくそ笑んで希咲の眠る部屋に舞い戻ったのは無論みらいさんだ。



 彼女が部屋の奥へ目をやると、ベッドの上で横たわる希咲の姿が見える。



「げへへ……お邪魔しますよぉーっと」



 下衆な笑みを浮かべながら望莱はドアを閉めてベッドへと近づいた。



 眠る希咲の隣に尻を落として座る。


 わずかにスプリングが沈むと彼女の寝姿が揺れた。



 普段ならそれだけで眠っている希咲はパッと目を醒ましてしまうが、薬がよく効いているようで今日は起きる気配がない。



 すぐに猥褻行為に及ぶと思われたみらいさんだったが、特に手を出すこともなくジッと希咲の寝顔を見つめた。



「……ごめんなさい、七海ちゃん」



 ゆっくりと手を伸ばして彼女へ触れる。



「でも……」



 小さく、言い訳のように、呟いて、優しく彼女を撫でる。



 慈しむように目を細めると――



――ガチャっと、突然部屋のドアが開いた。



「…………」


「…………」



 部屋に入ってきたのは天津 真刀錵あまつ まどかだ。


 望莱は彼女と見つめ合う。



 すると、天津の目線がスッと動く。


 その目が捉えるのは望莱の手だ。



 真刀錵さんは目を細めて、スヤスヤと眠る七海ちゃんのお尻を撫でるみらいさんの手を睨んだ。



「ふぅ、困ったものです」


「まったくだ。誰が貴様の封印を解いたのか知らんが、余計なことを。しかし性懲りもなく戻ってくるとは、この私を侮っているようだな」



 ズカズカと部屋の中に踏み込んできた天津は再び不届き者の拘束に取り掛かる。



 みらいさんは特に抵抗をしなかった。








 家主の居なくなったアパートの一室。



 メロはテーブルの上に座ったまま、目の前に置かれた封筒を見ていた。



(これ……、なんのつもりで……)



『――ここに100万円入っている』



 どういう意図で弥堂がこれを置いたのか、そう言ったのか、メロにはまるで理解が出来なかった。



『別に。ただ、それをここに置いておく。ただ、それだけの話だ』



 それだけなはずがない。


 ただ自分の金を、これから留守にするのに客の前に置いていく。


 そんなことをする意味はないし、そんなことをするニンゲンはいない。



 彼の一挙手一投足その総てに何か裏が――何か含みがありそうで、いちいち疑心暗鬼にさせられてしまう。



(くれるってことッスか……?)



 確かにこれからの自分たちは何かと入用だ。


 そして、彼が言っていたとおり、金さえあれば当座の問題のほとんどを解決することも出来る。



 まさか、困っているだろうから恵んでやるだとか、餞別にくれてやるだとか、そういうことなのだろうか。



(……そんなわけない)



 もしもそうなのだとしたら、メロではなく水無瀬の方へ金を渡すはずだ。


 それにそもそも、弥堂 優輝というニンゲンがそんな善意からの施しをするようには到底思えない。



(こうやって置いて行って、ジブンが盗むかどうか試してる……?)



 そんなことをする意味はわからないが、彼という捻じ曲がった人格なら、その種の意地の悪いことをしてこちらを苦悩させ弄ぶ――そういったことをしてもおかしくはないと思える気がする。



(――いや、違うッスね。意地は悪いけど、意味のないことはやっぱりやらない……)



 即座に思い付きを否定する。


 そうなると、考えられるのは――



『あと、駅前でコーヒーを買った後、帰り道でいつも寄る場所に立ち寄る。だから俺は小一時間ほどは帰らないだろう』



 彼は最後にこんなことを言っていた。


 この上なく白々しい言動だ。



 どこへ行くのか、どれくらいで帰るのか。


 ただ、そんな普通のことを告げられただけなのに、全くそのようには聞こえなかった。



(もしかして……)



 手切れ金なのではと思いつく。



 出かけている間に金を持ってとっとと消えろと。



 そういう意味なのでは。



 彼の性格からすると厄介事を抱えることになって迷惑だと、そう思っているだろうし、それになにより――



『――朝目覚めて、家の中に見知らぬ人間が侵入しているのを発見したら』



 彼は自分自身にも水無瀬のことを忘れてしまう可能性があると言っていた。



『俺はその時、お前らを殺すぞ? まず、間違いなく――』



 だから今のうちに金を持って逃げて、その金でどうにかしろとそういう意味なのではないだろうか。



 水無瀬にそれを言った場合、彼女は絶対に金を受け取らない。



 だから――



(だから、ジブンに……?)



 呆然と金の入った封筒を見る。



 決断が自分に課せられている。



 思考も身体も硬直する。



 そのまま時間が経過する。



 時計もない部屋の静寂には何の音もない。



 やがて少しして、メロは目の前の封筒から目を背け身体を背け、テーブルから離れて行く。



 ベランダの方へ近づくと跳び上がり、履き出し窓の鍵を開ける。


 前足で押してカラカラと窓を開けて、カーテンを潜って外に出た。



 跳躍してベランダの柵に乗り、空を見上げる。



 緩やかな夜風が雲を流し、赤い目に三日月を映した。










 寂れた住宅街。



 その狭くて汚れた道を買い物帰りの弥堂 優輝は歩く。



 今夜は月が雲に覆い隠されており、ただでさえ暗い道の視認性がさらに悪くなっていた。


 空き家の方が多いこの一帯は道の整備も半ば見離されていて、設置された街灯もまともに点灯しているものばかりではなく、光の在る場所とそうでない場所とでまちまちだ。



 人の気配のない道にカサ、カサ、とビニールの擦れる音が鳴る。


 弥堂が提げる買い物袋が街灯の光をのっぺりと反射した。



 光に照らされる範囲を抜け、暗がりに入る。


 明るさが切り替わる瞬間にゆるく瞼を閉じて、周囲の気配を探る。



 特に問題はなかったので、淀みなく歩調を維持した。



 やがてまた光に照らされる範囲に侵入する。



 街灯の取り付けられた電信柱の足元では、道端に打ち捨てられた古い洗濯機が口を空けていた。



 あと何度か光の中を出たり入ったりしながら、最近何度か通った道を進む。



 眼を細めて、周囲の空気の動きから異常を探す。



 特に問題はなかったので、歩みを止めず右手に折れる。


 ここ最近何度か見た、工期がとっくに過ぎたまま放置されている看板と擦れ違い、ここ最近何度か来ただけのいつもの空き地の中へ入った。



 灯りのない工事途中の空き地。


 ゆるく夜風が流れ、空き地の中央を欠けた月が僅かに照らす。


 その光の中を弥堂が通り過ぎると、新たに漂着した雲が三日月を隠した。



 夜闇の中、積まれた建材の前で弥堂は立ち止まった。



「そろそろ声くらいかけたらどうだ?」



 建材の上に買い物袋を置きながら背中の向こう――空き地の入口へ声をかける。


 フゥーッ、フゥーッと、荒く息を吐く声がする。



「随分と熱心なストーカーファンかと思ったら……、お前か。随分調子がよさそうじゃないか」



 空地の入り口に立つのは黒いシルエット。


 全身タイツを着込んだような身体にフルフェイスヘルメットを被ったような頭部。



 明かりの薄い夜道に突如現れたのは、魔法少女ステラ・フィオーレとの決戦に敗れて死んだはずのボラフだった。



 弥堂は眼を細めてそのカタチを視る。



 人型のシルエットを模るその姿は以前より二回りほど縮んでいるように視える。


 三日月型の目口は歪み、眼球には血走ったように亀裂が入り、口の端からは泡を噴いていた。



 弥堂は身体を完全にボラフの方へ向ける。


 建材の前から一歩進んで足を置く。


 抉ってから埋め直した跡のある地面に踵を乗せた。



「――今夜は月が綺麗だな」



 空は雲に覆われ月は隠れている。



「今日あたりは三日月でな。それを見たいと思って散歩していたんだ」



 まるで世間話のように話しかけるがボラフは何も言わず、ただ荒く息を吐き出し続けている。



 生きる苦しみと、死に逝く苦しみ。


 相反するようで常に共存するその二つの苦が生存本能を暴走させ、酷く興奮状態にあるようだ。



「――大分削れたな。揺らいでいるぞ。存在が」


「……エの……ッ、オマエのせいで……ッ!」



 初めてボラフが言葉を返した。



「それは誤解だ。全てはお前が弱いせいだ。そういうルールだろう?」


「オマエさえいなければァ……ッ!」



 言葉を交わすわけではなく、ただその魂にこびりついた怨嗟を吐き出すように激昂し、ボラフは叫んだ。



 どこからともなく試験管とガラス玉を取り出す。


 弥堂も何度か見たことのあるアイテムだ。



 ボラフは試験管を口に突っ込むと噛み砕き、ガラス片を喰らうようにして内容液を飲み干す。


 そして手に残ったガラス玉を地面に叩きつけた。



 ガラス玉が砕け散ると破片と光の粒子が周囲へと拡がり空き地全体を包んだ。


 光が弥堂の身体を通り抜ける瞬間、ビリッと首筋に静電気のようなものが奔った。


 何度か覚えがある感覚。結界を張ったのだろう。



 つまり、逃がすつもりはないという意味だ。



「近所迷惑にならないか心配していたんだ。配慮してくれて助かるよ」


「グゥォォオオオオオオオ……ッ!」



 心にもないような言葉を口にする弥堂のつまらなそうな視線の先で、身を反らして大絶叫をあげたボラフの躰が肥大化する。


 だが、それでも水無瀬との決戦の時のように異形化・巨大化するほどではなく、精々元の人型のサイズより少し大きくなった程度だ。


 見た目の上では、弥堂より少し背が高いくらいだ。



「――コロシテやる……ッ!」


「そうだろうな」



 魔力が満ちて存在の維持が少し安定したおかげか、ボラフの目に僅かに理性の色が戻る。



「ノコノコと一人歩きしやがって……、テメェは狙われないとでも思ったのかよ……⁉」


「確かに。お前の言う通りだな」



 挑発ではなく、本当に道理であると思い、弥堂は認めた。



「……死ぬのが恐くねェのか?」


「全ての存在は必ず死ぬものだ。その時を自分で好きに選べる奴なんてそうそう居ないだろう?」


「テメェは選べる側のつもりだってのかよ……!」



 怒気と疑念の混じった視線に、弥堂は軽く肩を竦めてみせる。



「いや? そう思えたことはないな。それに、運が悪ければいつだって死ぬ。だったらそれは別によく晴れた日の太陽の下でもいいし、月の無い夜だっていい。いつだって同じだ」


「イ、イヤダ……ッ! シニたくナイ……キエたく、ナイ……ッ!」


「駄目だ。お前も必ず滅びる」



 突然ボラフの目の焦点が朧げになり、譫言のようにブツブツと呟き出す。


 やはり正気ではない。



「――コロシテやる……ッ!」


「それはもう聞いた」


「オマエさえ……、オマエのせいで……ッ!」



 繰り返される懐かしい怨み言に心地よさすら感じた。



 弥堂は生を思う。



 正気の大半を失っているようだが、しかしそれでもヤツの言う通りだ。


 弥堂自身も前々からそう思っていた。



 これまで廻谷部長から散々視聴を命じられてきた数々の“魔法少女モノ”の作品。


 その中に登場する軍師様だのお助けキャラだのという人物たち。


 戦えもしないのに魔法少女の戦いに随行して、時にはアドバイスをしたり、時には足を引っ張ったり。



 確かに彼らは最初は偶々巻き込まれただけなのかもしれない。


 だが、その後も素人の分際でノコノコと戦場に間抜け面を突っこむのを、弥堂は非常に不愉快な気分で観ていた。



 そして逆に不思議にも思っていた。



――何故こいつらを狙わないのだろうと。



 明らかに魔法少女にとって彼らの存在はネックなのに。


 人質にでもすれば非常に有利になるし、殺してその死体を見せつけて動揺を誘うことも有効な手段だろう。



 戦場の中で偶発的にそのような状況になったことがあるのは何回か見たが、陰で狙って攫い、最初から人質にとった状態で戦闘を開始するようなところはあまり見受けられなかった。


 とても有効なのに。



 だから――



 だからこうして、魔法少女にくっついて戦場をウロウロしていた弥堂が、闇の秘密結社のモノに狙われることは十分にありえることなのだ。



 言葉にならない咆哮をボラフが上げる。


 彼の腕が鎌に変化した。



 あれを弥堂の身で受ければひとたまりもなく、真っ二つに身体を斬り裂かれてしまうことであろう。


 何度かボラフと戦ったことがあるからわかる――というよりも、見れば誰にでも理解出来る事実だ。



 結局のところ、ヤツは今までは手加減をしていた。


 本気で殺す気がないのか、それともそれを禁じられていたのか。


 これまではそのような素振りが見えていたが、今はそれもない。




 もうほとんど正気を失いかけている。



 ボラフの存在自体が綻びかけ、ほどけていく霊子の結合は止めようもなく、その魂のカタチを保つことが困難になっていっている。


 そんな彼の“魂の設計図アニマグラム”が弥堂の瞳の蒼銀に映っている。



 今、ボラフの思考のほぼ全てを埋めているのは、生存本能だ。



 死にたくない。


 消えたくない。


 滅びたくない。



 自分という存在であることを――その意味を喪いたくない。



 それしか考えられなくなっている。



 そうなった存在はその時どうするか。



 喰らうのだ。


 他の存在を。



 喪った自身の要素を他から奪い埋め合わせる。



 この世界での慣習に、あるいは彼らの流儀に倣って表現をするのならば――



――ゴミクズーのように。



 ボラフはおそらく失敗をしたのだろう。



 こうなるはずじゃなかった――そんな未練があり。



 それは誰のせいで――その恨みを弥堂にもち。



 生き残りたい――生存本能から恨みの対象を餌とする。



 彼に弥堂を殺さない理由は一つも無く、今の彼の指向の総ては殺しに傾く。


 思考の全てが殺意に染まり、そしてそれは弥堂へと向けられる。



(俺の勝てる相手ではない)



 水無瀬に負けて、その存在が削られていたとしても、未知の薬品によってブーストされている。


 水無瀬と最後に戦った時ほどではないが、それでも何回か弥堂とやり合った時に比べれば遥かに強い。



(おそらく、あの薬品には滅びを助長させる側面もあるだろうが、しかし目の前のこの一戦に勝つことだけを考えたのならば、とても有効的な手段だ)



 まるで他人事のように心中でそう評する。



 もう一度声を荒げて何かを叫んで、ボラフが動き出した。



 その様子がスローモーションのように視えた。



 だが、そう視えるだけで実際には人間の反射をはるかに超えた速度だ。


 昨日に路地裏でやりあった時と同じで、視えてはいるものの身体の反応は追い付かない。



 力も、速さも、存在の強度も。


 何もかも全ては相手の方が上だ。


 ただの人間にどうこう出来るモノではない。



 当然、昨日路地裏でやられたように、弥堂に捌いたり躱したりすることは不可能だ。



 やはり他人事のように思いながら、迫り来るボラフを視る。



 自分よりも遥かに強いモノと戦うと、こんな風にスローモーションのように視えることが、弥堂にはこれまでに何度もあった。


 まるで走馬灯のようだと考えていた。



 普通は死の際に過去の情景などが垣間見えるものらしい。


 だが自分の場合は、自分を殺す相手――殺してくれる相手に、過去の総てよりも親しみを感じているのだろうか。



(どうしようもねえな)



 そんなことを考え、心中で苦笑いをする。



 いよいよ殺害可能距離キリングゾーンにまでボラフが迫る。



 罅割れた目玉をギョロつかせ、口の端には泡を噴く。


 殺すことが、喰うことが、生き残ることが嬉しいのか。


 どこか壊れた笑みを浮かべながら歓喜を喚き、涎を撒き散らしている。



 酷く無様なフォームで走っているが、それでも人間の反射性能を大きく超えている速度だ。



 それは端的に種族の差だ。


 ただのニンゲンと異形の怪物。


 そこには埋めようもない決定的な存在としての格の差がある。



 歪んだ三日月には怒りが溢れているようでもあり、生存の歓びに満ちているようにも弥堂には視えた。



 ならば――



 今、自身の胸の裡に過るのは死への歓びであろうか。



 ドクンと――生を強調するように心臓が大きく跳ねた。



 そんな下らない感傷を抱いている内に敵はもう目の前だ。


 脚を開いて地を踏み、ボラフが右腕の黒い鎌を振り上げる。



 弥堂はその鎌の先端をなんとなく視た。



 黒い三日月の向こうの夜空では雲が蠢き、その隙間から月明りが僅かに漏れ出る。


 薄い月明りが黒い刃を煌めかせた。



 その殺意の煌めきから逃れるため、今から身体を動かしてももう間に合いはしないだろう。


 いくら足掻いたとしても、どうにもならないものはどうにもならない。



 いつも通り危険に心臓を晒して、その時がくればただ死ぬだけだ。



 愉悦に染まった壊れた三日月が弥堂の顔を見下ろす。


 殺意か、嘲笑か、何かを喚いた。



 弥堂も言葉を口にしようと口を動かす。



 その唇の動きが終わるよりも先か、後か――



 薄いヴェールのような月明りを斬り裂いて、黒い鎌が振り下ろされた。



 弥堂の瞳にその軌跡が映りこむ。




 そして――




 くるくると回りながら、切り取られた右腕が宙へ舞い上がっていく。



 クルリ、クルリと、夜空へ浮かんだシルエットが天上の三日月と重なった。

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