1章64 『這い寄る悪意』 ①


 せがのびなくて


 いちばんまえの まんなかにはたてず


 はじっこにおかれた



 あしがおそくて


 だましあいもへたで すぐにおいつかれる


 だから うしろにさげられた



 ほそいからだで せかいの ちゅうしんにたつ


 ぶつかられれば すぐにころんで だいじなものを うばわれる


 かこまれれば こわくて まわりがみえなくなる


 さらに うしろにさげられた



 だけど せがちいさくて あしがおそくて ほそいから


 まんなかには やっぱりいられなくて


 はじっこにおかれた



 せかいの


 いちばんうしろの いちばんはじっこ



 だけど はしりきる たいりょくがなくって


 そとにでろと いわれた



 しかくい せかいから


 ぼくは おいだされた











 自身のテーブルに並べられた皿の上の料理を突きながら、希咲 七海きさき ななみはフォークの先を物憂げに見つめている。



 周囲では仲間たちが今日起こったことを報告し合い、これからのことについて議論をしている。


 その声を心ここにあらずな様子で聴いていた。



(あたし……、ホントにダメだ……)



 心中ではずっと同じ思考が回っている。



(いつもみんなにやってあげてるって思ってて……、自分が一番しっかりしてるつもりのくせに……)



 テーブルの上の料理に意識を遣る。



 これらの夕食は、希咲が無我夢中で倉庫の中を引っ掻き回している間に、紅月 聖人あかつき まさとが作ってくれていたものだ。



 彼だけではなく――



 壊れた船を前に茫然とすることしか出来なかった自分を天津 真刀錵あまつ まどかが助けてくれて。


 自分が動揺して何も考えられない時には、蛭子 蛮ひるこ ばんが場を取り仕切っていてくれて。


 普段面倒を見てあげているつもりのマリア=リィーゼにも気を回してもらって。


 そして、手のかかる妹分として見ている紅月 望莱あかつき みらいにも守られている。



(一人でなんにも出来ないのは、あたしの方だ……)



 こんな体たらくだというのに、普段は彼らに面倒をかけられている気でいるなんて、そんな風に考えている自分自身を強く恥じた。


 1年ほど前に水無瀬 愛苗みなせ まなと出逢った日に、そんなみっともない思い違いは正してもらったと、そんなつもりでいたのに。


 まだまだ全然思い上がりをしていたことに気が付いてしまった。



 俯けた瞳にじわりと涙が浮かぶ。




 何より――



(結局、愛苗のことだって……)



 守ってあげると、そう決めたはずなのに――




(――ダメダメ……っ! 切り替えろ七海っ!)



 このまま自虐と負の思考の底に沈んでいったとしても、彼女は何一つ救われない。



 希咲はぶんぶんっと頭を振って、不毛な気持ちを頭から追い出し、胸の奥に閉じ込めた。



 そうして顔を上げると、話し合いの参加はそこそこにしていた望莱と目が合う。


 彼女はニコっと微笑んだ。



 思い悩む様を観察されていたようで、色んな意味で気恥ずかしくなる。



「落ち着きましたか?」


「……うん。ゴメン!」


「では、一緒に考えていきましょう」



 意識して元気に振舞ってみせる希咲に、望莱も人差し指を立てて目線を向けるべき先を指し示す。


 暗闇で未来への道を照らすように。



「さて、七海ちゃん。七海ちゃんがまず考えるべきことは?」

「今やらなきゃいけないこと。それから、今できること」


「はい。では、今やるべきこととは?」

「美景へ帰る方法の確保。それから愛苗の安否確認」


「はい。ではまず帰還方法から考えましょうか」

「おけ!」



 希咲の思考の整理をしてやりながら認識の共有を始める。



「ちなみに七海ちゃん。今の魔石の在庫は?」

「……ダメ。ちょっと戦う分には問題ないけど、ここから美景までの距離をもたせるのは厳しいわ」


「まぁ、それでギリギリ辿り着けたとしても、向こうがもしも戦闘が必要な状況だったら、その時に何も出来なくなってしまいますしね」

「それに、愛苗のことを抜きにしても、あたし以外のみんなが帰ることを考えたら、結局船は直さないと……」


「それは確かにそうですね。ふむ……」



 希咲の意見に同意をした望莱が少し思案をすると、ジッとこちらを見ているマリア=リィーゼに気が付いた。



「どうかしましたか? リィゼちゃん」


「……いえ。よきにはからいなさい」


「いいえ」


「――っ⁉ 弁えなさいミライ。誰に口をきいているつもりですの? このエルブライト公国第一王女、マリア=リィーゼ・フランシーネ・ル・ヴェルト・ラ・エルブライト。かような屈辱を受けたのは生まれて初めてですわ……!」


「こーら! 二人ともやめなさい。みらいも、意味もなく断って遊ぶんじゃないのっ」


「はーい」


「失礼しちゃいますわ」



 ちょっと隙を見せればすぐに諍いを始めるお嬢さまと王女さまを窘める。


 マリア=リィーゼの方は気分を害してそっぽを向き、みらいの方は確信犯なのであっさりと態度を改めた。



「それではここで、考えかたの順番を変えてみましょう」


「順番……?」



 意味を窺うような希咲の視線に望莱はニッコリと微笑む。



「はい。まず、船がなければ全員が美景へ戻るのは不可能――それはそのとおりです」

「うん」


「その為には、船の修理が必要――それもそうです」

「そうね」


「だから、まずは船を直す――これはノーです」

「え? どうして?」



 最後で意見が相違し、希咲はキョトンと目を丸くする。



「何と言っても、部品がありません。既に話した内容ですが、外装はともかく内部の機械に関してはどうにもならないですよね?」

「それは……、そうね……」


「それに、部品があったとしても直せるとは限りません。電子機器系統の修理は成功したことありませんよね?」

「……うん」


「もしも部品の調達とそれによる修理を目標に置いてしまうと、苦労していざ物が揃ったとして、だけど修理は出来なかった――この失敗を引いた時のリスクが高すぎます」

「なるほど……、そうね」


「だから、直すのなら正規の手段と部品で直すことを考えるべきです」

「でも――」



 それこそ無理だ――と、否定しようとする希咲の言葉を望莱は視線で制した。



「――はい。ですので、船を直すために船を使わずに美景へ帰る。もしくは、美景の方から迎えの船と人員を寄こさせる。現状のベターはこのどちらかしかありません」



 希咲は望莱の提案を一度飲み込み、それを考えてみる。


 周囲のメンバーは二人の会話を邪魔しないように聞いていた。



「でもさ、みらい。後者はともかく前者は……」

「はい。『つよつよ武器』を掘るための『つよつよ武器』が無いってことですね?」


「え……? うん……?」

「わたしたちには『つよつよ武器』は無くとも、『つよつよギャル』が居ます」



 ドヤ顔で出した例えに全く手応えがなかったが、みらいさんはゴリ押した。話が逸れてしまうので、七海ちゃんは仕方なくお口をもにょもにょさせながらスルーしてあげた。



「まず、船なしでの帰還。海上百数十キロほどの距離を独力で渡り切る。これが出来るのは七海ちゃんだけです」

「でも、みらい――」


「――はい。先ほど確認したとおり、それをするには大量の魔石が必要です。海を渡ってその後の戦闘も可能にするだけの量。これを用意するには、わたしの計算では2日ほど必要です」

「そんなにかかるの……っ」



 悔しそうに唇を噛む希咲に、望莱は安心させるように笑いかける。



「――なのでっ、両方を進めます!」


「えっ? 両方……?」



 驚きに目を大きくした彼女の反応にうれしげに微笑みながら望莱は続ける。



「はい。パパに連絡して、迎えの船を寄こすようお願いします。ただ、物と人員の用意には時間がかかる可能性はあります。そして、その時間がどのくらいなのかということも、まだわかりません。ですので、この後すぐに手配をします」


「すぐには来れない――っていうか、そもそも『そんなのムリ!』って言われちゃう場合もあるってことね」


「はい。そうなった場合のことも考えて、これから魔石の用意も開始します。先に船が来ればそっちで帰ればいいですし」


「先に魔石のチャージが終わるか、迎えが来れなかったり間に合わなかったりした場合は、あたしが一人で――」


「いえすです。というわけで空の魔石のストックはありますか?」


「うん、ちょっと待って」



 ひとつ頷いた望莱の要請を受けて、希咲は何もない所から木箱を取り出す。彼女の指にはまたいつの間にか指輪が付けられていた。


 床に現れた木箱を開けて望莱は中身を確かめる。



「これだけですか?」


「蛮に渡した方にも作り置きがあるわ」


「蛮くん?」


「ちっと待て……、あー、うん。確かにあるな」



 目線で問う望莱に蛭子は指輪を持って中の在庫を確認する。



「そういうわけで、蛮くん。以降、わたしは戦力として数えないで下さい」


「元々戦力になってねェけど、まぁ、わかった」


「これは七海ちゃんの問題だけではなくて、わたしたち全員が帰る手段を確保する意味もありますので」


「わーってるよ」


「――僕も手伝おうか?」



 蛭子と今後の戦力の運用について相談していると、そこへ聖人が申し出てくる。


 望莱は兄へ向けた顔を横に振った。



「いいえ。戦闘以外で兄さんを消耗させるのは絶対にNGです」


「それを言うんならオマエが使えなくなるのも――」


「いいえ、蛮くん。極論、兄さんさえ万全で戦えるのなら、ほとんどの状況に置いて負けることはありません」


「まぁ、そうだけどよ……」


「みらいはここでもまだ何かが起きると思ってるの?」


「さぁ。ですが、絶対に何も起きないと考える理由はないですよね? 何かが起きた際に必要な最低限の戦力を維持するのは当然の対応です」


「そっか……。でも、大変な時に手伝えないのは心苦しいよ」


「その代わり、有事の時には兄さんには馬車馬のように働いてもらいます。その際には兄さんの人権は消失します」


「あはは……」



 ニッコリとブラックな起用法を告げてくる妹に、聖人は曖昧な苦笑いを返した。


 それに満足した望莱は希咲の方へ顔を戻す。



「では次に、水無瀬先輩の安否について――です」



 希咲にとっては一番大事な案件だ。自然と表情に緊張が滲む。



「その前に、念のためにみんなに確認ですが。この中で『水無瀬 愛苗』という人物が誰のことかわからない人はいないですよね?」



 問いかけてから望莱は全員の顔を見回す。


 返ってくる表情から、ここに居るメンバーは全員問題がないことを確認した。



「よろしい。どうやら『水無瀬 愛苗』という人物が誰のことかわからないのは、このわたしだけのようですね」


「うっさい。絶対わかってんじゃん。そういうのいいから」



 幼馴染のお姉さんに冷たくツッコミをされ、一定の満足感を得たみらいさんは本題に入る。



「では、七海ちゃん」

「あ、うん」


「現在、水無瀬先輩とは連絡がとれないんですよね?」

「……うん。“edge”の方もケータイの電話の方も、どっちもダメだった。“edge”のアカウント作った時に使ったメルアドの方も死んでる。何故か繋がらないの……」


「ふむ。ちょっと興味がありますが、この原因は多分ここで考えても究明出来ないでしょうね。他の連絡手段を考えましょう。他のお友達たちは?」

「そっちもダメ。みんな誰のことを言っているのかさえ伝わらなかったわ」


「なるほど。兄さん――?」


「うん? なんだい、みらい?」



 急に水を向けられて、少し驚いてから聖人は答える。



「兄さんからクラスメイトの何人かに『水無瀬さんが今どうしてるか知らない?』って、電話で訊いてみてもらえませんか?」


「構わないけど……。でも七海がもう聞いたんだろ? みんなが嘘ついてるって疑ってるの?」


「いいえ」



 控えめにだが、僅かに咎めるような兄の目線を、望莱はバッサリと否定する。



「彼らは『忘れている』と仮定しましょう。弥堂先輩の話では、強固な魂を持った、存在の強度が高い誰かが居て、その人物の影響力によって、現在こういうことになっていると聞きました」


「うん。僕もさっき蛮にそう聞いたよ」


「先輩はこうも言いました。兄さんはその魂が強固で影響力の強い存在であると」


「……僕のその“影響力”……? ってやつで、みんなが元に戻るかもってこと?」


「はい」



 こういうことには察しがよくなる兄に、望莱は頷いた。



「昨日は七海ちゃんが電話した際に、その“影響力”で、クラスメイトたちが一時的に水無瀬先輩のことを思い出す。そういう現象が起きました。それをこの中で最も“影響力”の強い兄さんによって、再現出来ないか――それを試す価値はあると思います」


「……みらいは出来ると思う? 弥堂の言うその“影響力”って本当にあると思ってる?」


「いいえ。弥堂先輩はさらに、これを起こしている人物は、わたしや兄さんよりも“存在の強度”が高いとも言ったそうです」


「それでもやるの?」


「はい。これは検証も兼ねています。“影響力”とやらが本当に実在するのか。弥堂先輩の言った“存在の強度”――その序列が正確なものなのか。どんな結果になったとしても、それらを測るための何かしらの材料は得られるはずです」


「うん。わかったよ。みらいの言うとおりにする」



 快く頷いてから聖人は少し席を外し、クラスメイトへの連絡を始めた。


 すると、希咲が口を開く。



「あたしは? 弥堂に連絡しちゃダメ……?」

「う~ん……」



 控えめなその申し出に望莱は少し考える素振りを見せた。



「……七海ちゃんのカンは何て言ってます? ちなみに、わたしのカンはまだダメって言ってます。論理的な根拠はないです」

「……わかんない。すぐにでもあいつに連絡した過ぎて、今ちゃんとカンが正常に働いてるか冷静に判断できない」


「ふふ、そこだけ切り抜くとえっちですね。先輩好き過ぎな七海ちゃんカワイイです」

「こら、ふざけないの」



 愉しげに目を細める望莱を希咲はジト目で注意した。



「なんにせよ。他に連絡が出来る人を頼ってみてからにしましょう。弥堂先輩は最後の手段ってことで」

「でも、他って言われても……」


「クラスメイト以外の、学園の外の人で、誰か共通の知り合いはいませんか?」

「うーん……、いないわね」


「そんなことないと思いますよ?」

「えっ?」



 またも目を丸くする彼女へ望莱はしたり顔をする。



「身近な人たちを忘れてますよ? 家族です。お互いの」

「あっ――⁉」


「水無瀬先輩の家電いえでんと、七海ちゃんの家族にも聞いてみましょう。家族ぐるみでの付き合い、ありますよね?」

「うん! そうよ。そうだった。なんですぐに思いつかなかったんだろ……っ!」


「ふふふ。七海ちゃんったらテンパりカワイイです」

「うっさい」



 揶揄ってくる望莱をあしらいつつ、希咲はスマホを取り出す。



「あたしは愛苗のお家に電話してみるから、あんたはウチのママか弟にメッセかなんかで聞いてみてくんない?」

「構いませんが……、わたし、大地くんにブロックされてるんですよね」


「は? なんで?」

「中学生になった大地くんの成長を見守りたくって、わたしにチン凸するよう強要し続けたらブロックされちゃいました」


「あんたさ! 身内にそういうことすんのやめてよっ!」

「身内じゃなかったらオッケーだって言うんですかー⁉」


「うっさい! 逆ギレすんなぁー!」



 悪びれる様子のないみらいさんをガーッと怒鳴りつける。



「もういい。じゃあママに連絡して」

「任せてください。“さーなちゃん”とはズッ友です」


「ひとのママと同級生ノリしないでよね……」

「好きな人できたとか相談されます」


「マジでやめてよ……。とりあえず、よろ」

「おけまるです」


「。の後に『です』付けたらヘンじゃん」

「おけまるですまるです」


「…………」

「おけまるですまるですおけ」



 スルーされたのでさらにチャレンジしてみたがガン無視されてしまい、みらいさんはふにゃっと眉を下げながらスマホを弄った。


 そうしている間に希咲の方はすぐに電話が繋がったようだ。


 彼女は立ち上がってテーブルから離れて行く。



「こんばんは、おばさん。七海です。忙しい時間にゴメンなさい」


『あら七海ちゃん? 珍しいわね。お店に電話なんて』



 当たり障りのない挨拶を置いて、希咲は息を飲み込んで意を決して切り出す。



「すみません、いきなりお電話しちゃって。今ちょっとだけ大丈夫ですか?」


『えぇ。お店はもう閉めるところだったから大丈夫よ。どうしたの?』


「あの……、今、お家に愛苗はいますか?」


『えっ?』



 キョトンとした声が伝わってくる。


 いつもスマホでやり取りをしているので、家に電話をかけて連絡をとることなどこれまでに一度もない。


 恐らくそれを訝しがられたのだろう。



 その理由について聞かれたら上手く答えられる自信がなかったので、希咲は先に自身の要求を伝えることにした。



「もし帰ってたら替わって欲しいんですけど……」


『まな……ちゃん……?』


「え?」



 今度は希咲が口を開けてしまう。



 何か不自然な感じがした。


 彼女は自分の娘のことを『ちゃん付け』で呼んでいただろうか。



 なにより、受話口から伝わってきたそのトーンに強烈な違和感を感じ、急激に不安が膨らむ。



『えぇっと……、おばさん察しが悪くってゴメンなさいね? 『まなちゃん』って子は七海ちゃんのお友達のことかしら?』


「お、おばさん……? なにいって……」


『もしかしてウチのお店で待ち合わせの約束でもしてた? 同年代の子かしら? でも、それらしい子は誰も……』


「まって……、まってください……。おばさん、まなは……」


『あら? ちょっと待ってね。お鍋が沸騰しちゃってるみたい。おばさん今お夕飯の支度してて……』


「あ、あの……、おばさん、まさか……?」


『ゴメンね、七海ちゃん。もしよかったら後でまたかけ直してくれる? おばさんキッチンに戻らなきゃ――』


「ま、まっ――」



 慌てて呼び止めようとするが、向こうも余程慌てていたのか通話が切れてしまった。



 腰から力が抜け、希咲はヘナヘナと膝を落とし、床にペタンと尻を着けてしまう。



「うそ……、うそよ……、そんなの……」


「七海ちゃん? まさか――」


「みらい……、おばさんが……」



 慌てて駆け寄ってきた望莱へ希咲は呆然とした目を向ける。


 その目線を受け取った望莱は悔恨の表情を浮かべ、心を痛めたように唇を噛んだ。



「すみません。わたしのミスです」

「みらい、どうしよう……、愛苗が……、おばさんまで……」


「これは想定しておくべきことでした。そうですよね。ご両親が対象にならないなんてことは……」

「まって? まってよ……。じゃあ、愛苗は今、どうしてるの……?」


「落ち着いてください」



 会話が嚙み合わず譫言のように親友を想う言葉を漏らす希咲の前に望莱も膝をつけて座る。



「――七海、みらい」



 そこへ聖人が戻ってきた。



「兄さん。どうでしたか?」



 希咲の背中を抱きながら望莱が問うと、兄は目を伏せて首を横に振った。



「駄目だ。『誰のことを言ってんの』みたいな反応しか返ってこない」


「……そうですか」


「でも、野崎さんが――」


「委員長さん、ですか?」



 聖人は一度希咲の方へ痛ましげな目を向けてから、望莱へ答える。



「このままじゃ何も成果が上がらなそうだったから、野崎さんにだけもう一回電話かけ直して、少し食い下がって聞いてみたんだ」


「それで?」


「そうしたら、急に思いだしたみたいな様子で。一つ変な話があったんだ」



 望莱は無言のまま視線で先を促した。


 聖人は頷き、口を開く。



「今朝のHR開始前のことみたいなんだけど――」

「朝――ですか」


「下級生かな? 知らない女の子が教室に迷い込んできたらしくて。誰もその子のことを知らないみたいなんだ。だけど、その子はクラスの全員の名前を知っていたみたいで……」

「まさか……」


「多分そうだと思う。だけど野崎さんたちからしてみれば……」

「知らない人――ですね」


「うん。気味が悪いとまでは言っていなかったけど……」

「まぁ、そうですよね。それで?」


「先生が来たら教室から出て行っちゃったってさ」


「そんな――っ⁉ じゃあ、愛苗はガッコにもいられなくって……、家にも……っ」



 その話を聞いていた希咲が愕然としてその瞳から光が失われる。



 だが、それはほんの一瞬のこと――



 すぐにバチっと電力が通ったように再起動して、バッと立ち上がる。


 しかし、その瞳に宿る光はどこか昏いものだ。



「いかなきゃ――」


「待ってください」


「はなしてっ」


「行けないって、さっき話したばかりじゃないですか……っ」


「でも――っ!」


「まずは落ち着きましょう?」


「そんなこと言ってられ――そうだっ! 弥堂に……!」



 慌ててまたスマホを操作しようとする彼女の手を望莱は止める。



「それも少し待ってください」


「ジャマしないでっ!」


「違います。電話の邪魔はしません。ですが、一回落ち着きましょう」


「だからそんな場合じゃ――」


「――そんな場合です。もうミスれないんですよ?」



 望莱のその言葉に希咲の手から力が抜ける。



「今の情緒不安定なままで先輩に電話したら、上手く話せませんよね? ただでさえ、普通の時だってすぐにケンカしちゃうんですから」


「……わかった、ごめん……」


「わたしはいつだって七海ちゃんの味方です」


「ありがとう……、でも、愛苗は……っ。愛苗はきっと今、ひとりぼっちで……っ」



 ついに希咲の目からは涙がこぼれ始めた。



「ぜったい、不安で、さみしいと思う……っ。スマホだって、誰とも連絡とれなくなっちゃって……」

「七海ちゃん」


「なんで……? なんで愛苗がこんな目にあわなきゃいけないの……? なんにもわるいことしてないのに……っ。あんなにいいこなのに……っ!」

「はい。ですから、絶対に助けてあげましょう」


「あたし……、あたしが傍にいてあげなきゃいけないのに、いけなかったのに……! あたしが居ないから……、美景に、ここに来ちゃったからぁ……っ!」

「それを言っても始まりません。それに、今からだって絶対に遅くはありません。ですから七海ちゃん。一度きちんと落ち着いて、それから弥堂先輩に電話しましょう。ね?」


「でもぉ……っ、あいつがでなかったら……っ」

「大丈夫ですよ」


「だって! あいつだって、愛苗のこと……、忘れちゃってたら……っ!」

「出ますよ」


「……どうして?」



 きっぱりと断言する望莱へ希咲は縋るような目を向ける。


 その目に溜まった涙を見て、望莱は胸に苦しさを感じた。



「いいですか? 先輩がもしも水無瀬先輩を忘れていたら。それは今は好都合なことです」

「なんで……?」


「水無瀬先輩の件が記憶にないのなら、七海ちゃんからの連絡を突っぱねる理由も失くなっているはずだからです」

「そ、そうか……っ」


「はい。だから、ほら? 一回椅子に座って。お茶でも飲んで。気を落ち着けてから先輩に電話しましょ? 泣きながら電話したりしたら、またバカにされちゃいますよ?」

「うん……」


「ちゃんと愛想よくするんですよ? いきなりキレちゃダメですよ?」

「うん、わかった」



 望莱は希咲の手をとって、元のテーブルの方へエスコートをする。


 彼女を椅子に座らせると、握っていた手の細い指へ触れた。



「ほら、こんな物騒な指輪は外しておきましょう? 今ここで誰かと戦うわけじゃないんですから。これはわたしが預かっておきますね?」


「うん、ごめんね」



 取り乱した希咲の指には数個の指輪がいつの間にか嵌められていた。


 望莱はそれを全て取り上げると、彼女へニコッと清楚に微笑みかけた。



「――では、このみらいちゃんが健気に手ずからお茶を淹れてきましょう。ちょっと待っててくださいね」

「……うん」


「んもぅ。泣かないでください。こんなにポロポロと涙を溢しちゃって、可哀想に」

「あたしっ……、なんて……っ、みらいが……みんなだっているし……っ。でもっ、まなは……、きっと、いまっ、ひとりでぇ……っ、ぅぁぁぁっ……!」


「あらまぁ。ほら、ハンカチを。わたしは行ってきますね」



 望莱がキッチンへパタパタと駆けていくと、泣いている希咲の元に天津が近づいてきて無言で彼女の肩に手を触れさせた。



 しばらくその場には希咲の嗚咽だけが聴こえていて、全員がその泣き声を聴いていた。



 少しして、望莱が戻ってくる。



「お待たせしました」

「……ありがとう」


「パーフェクトな温度ですが、一応気をつけて飲んで下さいね?」

「……うん」



 スンスンっと鼻を鳴らす彼女へ琥珀色の液体の入ったカップを手渡す。


 人肌のぬくもりを感じるカップからは湯気は上がっていない。



 何秒間か、カップの中に映した自分の瞳と見つめ合っていた希咲が、呼吸を落ち着けてからやがて口元へとそれを近づける。


 その様子を望莱は黙って見守っていた。



 カップの縁を下唇の上に乗せて、そしてそれを傾ける。


 熱さを感じない薄まった琥珀色が唇の隙間を通って、彼女の咥内へ緩く注がれる。



 適量、口に含んで希咲はカップを離した。



 見つめる望莱の視線の先、希咲の細い喉が嚥下の動きを見せた。



 そのタイミングで望莱は再び彼女へ歩み寄る。



「さて、ではカップを預かりますね?」


「え……? まだ一口しか……、てゆーか、これ……めっちゃ……ぬる……っ――あれっ……?」



 望莱へ向けた希咲の目が、喋りながらトロンっとしていく。


 呂律も覚束なくなり、彼女自身がそれに疑問を感じた瞬間には、希咲の意識は落ちた。



「おっと――」


「七海?」



 すぐに床に倒れようとする希咲の身体を支えようとした望莱だが、彼女の貧弱さでは支えきれず一緒に転びそうになる。


 すぐに近くに立っていた天津が反応し、二人まとめて支えた。



 天津が意識のなくなった希咲の身体を抱え、椅子の上で姿勢を安定させてやる。


 すると、望莱が得意げに笑った。



「ふふふ、見事に確率の壁を抜けましたね。さすがはみらいちゃんです」


「みらい、貴様……」



 そんな望莱へ天津がギロリとした目を遣るが、彼女が怯むことはない。


 天津と似たような表情の蛭子が口を開いた。



「オマエ、まさか……」


「安心してください。眠り薬ですよ」



 先読みして望莱は先に答えを述べる。



「本当か? 七海ってその類のものは効かないはずじゃ」


「七海ちゃんにかなり前に頼んでいたんですよ。七海ちゃんすら眠らせちゃうような強力なやつを作って下さいって」


「それでも、七海は毒の類は無効化するはずだろ?」


「ふふふ、きっと運がよかったんですね」



 淑やかに笑いながら望莱は心中で解答を浮かべる。



(正解は指輪をとったからですね)



 希咲 七海には毒物系を無効化する特殊技能がある。


 それが仲間内での共通認識だ。



 だが、その正確なところを望莱だけが知っていた。



 無効化するのではなく、無効化する確率が高い。


 それが正確な情報だ。



 加えて、それを彼女が装着している指輪の内の一つの効果によって、その確率が限りなく100%に近くなるまでにブーストしている。



 そういったカラクリであることを望莱だけが知っていた。



 そして、そのことをこの場で他のメンバーに伝えるつもりはない。



「さて、七海ちゃんを部屋に運びましょうか」



 望莱がそう呟くと、溜息を吐いて蛭子が立ち上がる。



「オレが――」


「――待て」



 希咲に近寄って手を伸ばそうとすると、横合いから天津が止める。


 その声は酷く冷たいものだった。



「触るな。私が運ぶ」


「ア? ンだ? その言い方ァよ?」



 そんな天津に返す蛭子の声も酷くささくれ立ったものだった。



「男が七海に触るな」


「なんだそりゃ。オレに当たってくんじゃあねェよ」


「五月蠅い。普段ぐだぐだと理屈を述べる割にお前は役に立たないな」


「アァッ⁉」



 何故か言い争いを始める二人を、だが誰も止めたりはしない。



「お前はさっさとみらいと話しあって、私が誰を斬ればいいのかを決めろ」


「なんだと?」


「七海をこうした者――生かしてはおかぬ」



 殺気のこもった天津の怜悧な眼差しを受けて、蛭子もハッと鼻で嘲笑った。



「タリメェだ。キレてんのはオレだって一緒なんだよ。ナメたマネしやがって……! キッチリケジメとってやる……っ!」


「待ってよ、蛮」



 瞳に獰猛な色を灯し息巻く蛭子へ、横合いから聖人が声をかける。


 蛭子はギロリと彼を睨みつけた。



「まさか止める気じゃねェよな? いつものいい子ちゃん理屈なんざ聞かせやがったらブン殴んぞ?」


「止める? 僕が? まさか」



 蛭子へ向けた聖人の目にも激しい戦意が漲っていた。



「七海がこんな風に泣いたところを、僕はもう随分と見てない。これをやったヤツがいるんだろ? 絶対に許さないよ」



 強烈な怒りを露わにしていた蛭子や天津さえ息を呑むような迫力が、今の聖人にはあった。



「はっきりと宣言をしておくよ。これをやったヤツは――僕の敵だ」



 その口から明確に敵意が告げられる。


 出遭う前から聖人がそれを露わにすることはこれまでにないことだった。



 だが、この場の誰もがそれを疑問に思いはしない。



 希咲 七海に手を出す。


 それは彼らにとっては宣戦布告を受けたに等しい。


 それは今更確認し合う必要のない共通認識だった。




「それでは真刀錵まどかちゃん。お願いします」



 頃合いを見て、望莱が天津に促した。



 それを受けた天津はすぐには動かず、望莱へ鋭い目を向ける。



「これは七海のためなのか?」


「当然です」



 眠りに落ちた希咲の体重を支えながら望莱に問うと、彼女は即答をした。



「わたしの言動の一つ一つどれを取っても例外無く余すこと無く、漏れ無く総て一切合切が七海ちゃんの為です。それ以外のモノは一つたりとて存在しません」



 真っ直ぐに向けられるその言葉に天津はすぐには答えずジッと望莱の顔を見る。



「そうか。何故眠らせた? そんな必要があったのか?」


「はい。この様子じゃ、無駄だとわかっていても七海ちゃんは徹夜で船の修理とかしかねないですからね」


「何もしないでいるよりはいいんじゃないのか? 七海の気も紛れるだろう」


「いいえ。七海ちゃんにとっての本番は明日です。今日はしっかりと寝て、体力・気力を万全にしておく必要があります」


「……それはどういう意味だ?」



 不可解なことを口にする望莱を睨みつけ、その真意を問う。


 望莱は屈託のない調子で答えた。



「ただのカンです」


「……いいだろう」



 何の答えにもなっていないが、しかし天津はそれで納得し、希咲を抱きかかえると食堂から出て行った。



 彼女の姿が見えなくなると、望莱が男子たちの方を向き、にこやかな笑みを見せる。



「二人もあまりハッスルしないで下さいね? ついでに、蛮くんにも今日はちゃんと寝ておくことをおススメします」


「あ? なんだって?」


「もしかしたら、わたしたちにとっても明日が本番かもしれません」


「みらい。さっきからその『本番』ってどういうことなの?」



 問いかける兄に向ける顔から、望莱は笑みを消した。



「おそらく――明日、また龍脈が暴走します」


「なんだと?」

「なんだって⁉」



 その言葉に二人は驚きを見せる。



「何故だ?」

「わかりません」


「何故そう思う? カンか?」

「いいえ。演算です」



 きっぱりと言い切る彼女の答えに二人は言葉を返せない。



 返せないまま数秒が経ち、そして10秒を超えたあたりで、聖人が気まずげにキョロキョロと他のメンバーの顔色を窺い、それからコソコソと蛭子へ話しかけた。



「ば、蛮……っ。演算ってどういうこと……?」

「…………」



 蛭子はそれに答えを返さない。


 返す答えがなかったからだ。



 仕方ないので、咎めるように望莱を睨む。



「……オマエ。演算って言ってみたかっただけか?」


「はい」



 ニッコリと笑みを浮かべて彼女は無邪気にそう答えた。



「いい加減にしろよ! 今そういう空気じゃねェだろッ!」


「でもでも、演算以外のとこは本当です。別に信じなくってもいいですけど。でも頭の隅には入れておいてください」



 どうやら真剣に理解を得るつもりがないようで、彼女はそう言い捨てて食堂の出口へ向く。



「さて、わたしも着替えやベッドメイクを手伝ってきます。みんなはご飯を片付けておいてくださいね?」


「うん。わかったよ」



 聖人は困った妹へ曖昧な笑みを返した。



「あ、あと、蛮くん。七海ちゃんが言ってた空の魔石のストックをここに出しておいてください。後で取りに来ますので」


「わぁったよ」



 無愛想に返す蛭子に満足そうに微笑み、彼女もここを出て行った。



 場に静けさが満ちると、それを壊すように蛭子が息を吐いた。



「なんか白けちまったな。それが狙いか、クソッタレめ」

「あはは、そうだといいけど」


「聖人、オマエはどう思う?」

「う~ん……、わかんないなぁ……」


「――ちょっとバンッ?」



 聖人の見解を聞こうとしていると、横合いから耳障りな甲高い声が上がる。


 ここまで大人しくしていたマリア=リィーゼ様だ。


 蛭子は鬱陶しげに彼女の方を向いた。



「……なんだよ?」


「紅茶を淹れてくださいまし!」


「ずっと黙ってたと思ったら、またそれかよ」


「お黙りなさい。これ以上第一王女たるこのわたくしを待たせるのではありません」


「ウルセェな。オラよ」



 ガラの悪い声をかけると、蛭子の手の中の指輪が淡く輝き、水筒が一本現れる。


 それを彼女の前に置いてやった。



「ちょっとバンッ!」



 しかし王女さまはそれに不服のご様子だ。



「……なんだよ?」


「わたくしをバカにしているんですの⁉」


「ハァ?」


「全部お出しなさい」


「ぜんぶ?」


「全部と言えば全部です。さっきの箱ごと全部ここにお出しなさいな」



 彼女の言葉に蛭子は眉根を寄せる。



「オマエそれどうするつもりだ?」


「飲むに決まっているでしょう?」


「そんなに飲めねェだろ?」


「七海があの調子では、もう紅茶を頼むことは出来ませんわ。わたくし自分で紅茶を所持しておくことに致します」


「……まぁ、そうだな」



 珍しく彼女にしては理屈の通っている答えが返ってきて、蛭子は納得する他なかった。


 もう一度指輪へ魔力を流すと、木箱が三箱現れる。



「まぁ。他に二箱も隠していたんですのね」


「ちげェよ。二つは七海の魔石だ。紅茶は一箱だけだ」



 手を合わせて感嘆する王女様へ断りを入れた。


 しかし彼女はどこ吹く風で箱を漁ろうとする。



「オイ、さっきも言ったが赤い――」


「――無礼者ォォーッ!」



 親切に夕飯前にも与えた注意をもう一度してやろうとしたら、結局いつも通りの調子で怒鳴られてしまった。



「小一時間ほど前のことをこのわたくしが忘れているとでもお思いですの⁉ わたくし、このような侮辱を受けたのは――」


「――あぁーっ、あーっ! わぁーったよ。もう好きにしろ」


「ふんがぁぁーーッ!」



 シッシッと手を払うと王女さまはゴリラのような声を出して箱を持ち上げた。


 そしてヨタヨタと出口へ歩いていく。



「ったく、なんだってんだよ」


「リ、リィゼ? 手伝うよ?」



 呆れる蛭子を余所に心配そうな顔で聖人が彼女を追おうとする。



「……ん?」



 その姿をどうでもよさそうに見ながら頬杖をつこうとした蛭子は何かの違和感に気付く。



「あ? あっ……、オイ! その箱は違うッ! 紅茶はこっちだ! 聖人ッ! それ持って追っかけろ!」


「え? あ、うん。わかったよ」



 呼び声に反応して戻ってきた聖人が木箱を一つ持って、またマリア=リィーゼの元へ走っていった。


 すぐに彼女へ追いつき、よろめきながら木箱を運搬する王女さまへ聖人が何かを言っているようだ。



 すると、聖人の持つ木箱の上にマリア=リィーゼが自身の持っていた箱を重ねた。



「ったく、ああやって甘やかすから――アン?」



 その様子を溜息交じりに見ていた蛭子はまた何かに気が付く。



「オイ! バカ! それもちげェって! なんで紅茶だけここに置いてくんだよ! 戻って来いバカどもッ!」



 慌てて彼らを呼び止めるが、今度は聴こえないようで、食堂から出て行ってしまった。



「あぁ、もう……っ! メンドくせェなァ……ッ!」



 ガリガリと頭を掻きむしりながら蛭子は立ち上がる。


 そして紅茶の木箱の前で指輪を光らせ、それを収納した。



 すぐに彼らの後を追おうとしたが、また別のあることに気が付く。



「……アン? なんだ。まだもう一箱魔石があったのか」



 独り言ちながら指輪に魔力を流し、また別の木箱を床に出した。



「いねェ間にみらいのバカが戻ってきたら、何言われっかわかんねェからな……」



 呟きながら望莱に頼まれていた物をこの場に残し、蛭子も食堂から出て行った。



 使用済みの食器類が並べられたままのテーブルにはもう誰も居ない。









 鍵を回してドアを開ける。




 玄関の入り口から廊下を覗き手前から奥へと一度視線を走らせ、それから中に入る。



 玄関扉のドアノブとすぐ近くのトイレのドアノブに目を遣り、それから玄関を閉める。




 通学用の革靴を脱ぎ、玄関に置いてあった別の靴に履き替えて、そのまま土足で部屋に上がる。


 すると、俄かに困惑の感情が伝わってきた。




 狭くも広くもない一人暮らし用の1DKの廊下を進むとすぐにダイニングキッチンの部屋に当たる。




 キッチンスペースに冷蔵庫、ダイニングスペースには一人用のダイニングテーブルとその脇にパイプ椅子があり、部屋の角には小さなテレビが床に直置きされている。



 分厚い遮光カーテンで外界から切り離された薄嫌い部屋の中でパっと目に付く物はそれだけだ。




 ほぼ、なにもない部屋。



 困惑と不安げな気持ちが伝わる。



 いつもならば、ヤカンを火にかけて制服の上着を脱ぐのだが、今日はそれは難しいのでそのままダイニングテーブルへ近づいていく。



 然して広くもない部屋のほぼ中央に置かれたテーブルにはすぐに辿り着いた。



 薄暗い部屋の中でも目の前まで来れば、ガムテープで無理矢理繋ぎ合わされたテーブルが傾きながらどうにか立っている異様な姿を視認する。


 より困惑の感情が強くなった。



 それを無視して手に持っていたモノをパイプ椅子に乗せると窓際まで近づく。遮光カーテンを僅かに開けて外を視る。そしてすぐにカーテンを閉ざした。


 背中から困惑と気まずげな空気が伝わる。



 諦めた心持ちで振り返り、テーブルの元へ戻る。



 そして椅子に乗せた荷物の前で立ち止まり、非常に投げやりな気分でそれを見下ろした。



 いつも音など無い部屋には、スンッスンッと鼻を鳴らす音が響いている。



 その音の発生源――



 椅子に座る水無瀬 愛苗みなせ まなが、ぱちぱちとまばたきをしながら不思議そうにこちらを見上げている。


 その足元では、黒いネコがドン引きした様子で部屋を見回しながら、時折クンクンと鼻を動かしていた。



 自分にとってはある程度慣れた場所であるこの部屋では非常に強い異物感のあるポンコツコンビを眼に映す。



 ハァと、重く溜息を吐いた。



 半ば義務感から、弥堂 優輝びとう ゆうきは心中で嘆きの文言を唱えた。




 どうしてこうなった、と――

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