2章10 『ドロドロのミスゲート!』 ⑮


 上瞼が被さり毛束で下眼瞼の輪郭があやふやになる。


 下に向いた睫毛の毛先から、希咲は無意識に視点を彼の唇に動かした。



『まさかこいつキスしてくるつもりじゃねーだろうな』と警戒する。


 それはさすがにライン越えが過ぎる。



 しかし、七海ちゃんは気付いていなかった。


 本来であれば、こうしてギュッと抱きしめてくるのも、軽率に「好き」だと伝えてくることも――


 元々はどちらも余裕でライン越えであったことを。



 度重なる“一発裏狙い”のカウンター攻撃を受け続けたことで、知らぬうちに彼女は感覚が麻痺している。


 執拗にライン越えを繰り返すことでジリジリと女子のディフェンスラインを下げさせる。



 これこそが、弥堂 優輝の固有スキル――



――『ラインブレイク』だ。




 そしてここでまた、彼は一つのラインを越える。



 弥堂は目を閉じたまま、静かに呟いた。



「……想いだけでは届かず、セクハラだけでも足りず……」


「え……?」



 それはまるで祈りのようで、誓いのような言葉だった。


 希咲にはその意味はわからず、だがそこに確かな強い意思だけを感じた。



 弥堂はゆっくりと眼を開く。


 瞼の中から露わになったその瞳に希咲は射竦められる。



 殺意や害意ではなく、なにか酷く真剣なものがこめられた、彼の瞳の奥のその蒼から目が離せない。



 弥堂の唇が動く。


 希咲は自分のそれの渇きを意識した。



 だが、伝えられるのは潤いではなく、熱だ。


 熱の灯った言葉。




「七海。俺はお前が好きだ――」



「――――」




 口から耳へ、瞳から瞳へ――


 届いて通り抜けて、自分の奥底に居る誰かに渡されたように感じた。




 それでも――




「――そ、それだけ……?」



 だが、声は少し上擦り言い損じてしまう。


 まるで動揺を隠しているかのように。


 視線はまだ彼の瞳の奥へと向けられたままで。




「それは、どうかな――」




 対照的に低く重い声。


 打ち明け、発したのはそっちの方なのに。


 それが何故か、酷く癪に感じられた。



 だから、強がってしまう。



「ふ、ふんっ? だから? ベツに?って感じ……っ。さっきとなんにも変わってないじゃん……っ」



 弥堂の瞳に視点を合わせたまま、だけど彼の視線からは逃れたくて。


 視線を向けながら意識しないように。


 彼の顏を見ない。



 だから――



「そう、思うか?」



――気付かない。



 彼がジッと見続けていることを。


 まるで何かを待つように。


 機を窺うように。



「て、てゆーか、そろそろ離してくんない? 制服シワになっちゃ――」



 どうでもいいことを口にしながら、遂に堪えきれなくなり、希咲は視線を逸らしてしまう。



 弥堂の眼玉に映る――


 希咲の目が僅かに横に泳いだ瞬間が――



(――ここだッ!)



 弥堂の右腕が動く――



 希咲の腰をガッシリと押さえていた掌を離す。


 ビキビキッ――と、その指が鉤爪状に開く。



 この間1秒にすら満たず。


 そしてその右手はすぐに振り下ろされ――



「――へ?」



――希咲の左の尻をガシッと鷲掴みにした。




「…………」


「…………」




 静寂がこの場を支配する。



 自身の下半身から伝わってきた感触を希咲の脳は正確に情報処理をして彼女に認識させている。


 なのに、彼女の頭の中は真っ白だ。



 弥堂は変わらず希咲の顏に眼を向け続けている。



 その眼に映る彼女の長い睫毛が“ぱちぱち”と動いた。



「…………」



 だが、希咲はまだ碌な反応をせず、ゆっくりと首を回す。


 振り返るようにしながら下を見下ろす。



 そこで目にする映像は、スカートの上から自分のお尻を掴んでいる男の手だ。



(スカート……シワになっちゃう……)



 そんな的外れで場違いなことを考えながら、希咲はまたゆっくりと首を動かして元の位置へ目線を戻す。



 そこにあるのは、無許可で女の子のお尻を触っているようには見えない、すごく真剣な男の顏だ。



「…………」



 言葉が思いつかず、希咲はまた“ぱちぱち”とまばたきをする。


 すると依然として真剣なまま、真剣な声音で、弥堂がさらに想いを重ねる。



「――七海。お前が好きだ」


「――っ」



 言いながら、雑に指を動かして希咲の尻を揉む。


 大きさはないものの、しっかりと柔らかい肉の感触が伝わってきた。



 ほぼ同時か、その直後――



 スッと――希咲の喉が息を吸いこんだ。


 弥堂は彼女のおでこに自分の顎をくっつけ、少しでも三半規管の揺れが小さくなるよう備える。



「――ぎぃゃぁああああああぁぁぁーーーっ⁉」



 数日前にあった不可聴の魔王の咆哮――


――それも斯くやといった大絶叫によってビリビリと空気が震える。



「ぐっ――」



 呻きながら弥堂はその衝撃に耐える。


 暴れる希咲の身体を、彼女の背に回した左手と自身の胸板で挟んで押さえ込む。


 頑強なブラワイヤーがゴリっとレバーを抉ってくるが、その程度で拘束を緩めたりはしない。



「な、ななななななにしてんのなにしてんのなにしてんだこのやろぉーーッ⁉」


「お前を愛している」


「そんなこと聞いてねーんだよッ!」


「落ち着け」


「みぎゃぁーーっ⁉」



 混乱し激昂する彼女を宥めるために、何となく尻を適当に撫でてみる。



 短パンとスカート越しでもわかるゴツゴツとした無骨な男の手の感触に、服の下のお尻の肌がぞわりと粟立つ。


 その悪寒は腰骨から背骨をぞわぞわっと駆け上がっていって頭の天辺を抜けていくだけでは飽きたらず、後ろ髪を波立たせサイドテールまでも逆立たせた。



 希咲は背を反らしながら奇声をあげる。


「あうあう」と言語化に失敗した言葉を口の中で持て余し、それからようやくキッと弥堂を睨みつけた。


 当然既に涙目だ。



「あんたぁーっ!」

「なんだ? 好きだぞ?」


「うっさい! つっ、つつつ、ついに……っ! ついに一線越えやがったなぁ……っ⁉」

「なんのことだ? 好きだぞ?」


「語尾みたいに好きってゆーなぁーっ! どこ触りながら言ってんのよっ⁉」



 とうとう物理的なアプローチがアウトとされる部位にまでダイレクトアタックをしてきた男に、希咲は激しい怒りを露わにする。



「どこ? それは自分が一番よくわかっているだろ? 言ってみろ」


「なにこいつ⁉ マジきもいっ!」



 弥堂はさらにネットリと攻めていく。



「言えないのなら俺が言ってやる。お前は今俺に告白をされている」


「ふ、ふざけんなっ! なにが告白よ!」


「だが、それだけではない。俺は告白と同時にセクハラもしている。どうだ?」


「キモすぎっ! つーか、これもうセクハラのレベルじゃないでしょ⁉ 痴漢よ痴漢っ!」


「それは違うな。俺は痴漢ではない。お前の彼氏だ。つまり合法だ」


「んなわけあるかっ! 彼氏じゃないし、てか、そうだったとしても痴漢は痴漢よ! あんた自分が何してるかわかってんの⁉」


「当然だ。俺はお前のケツを触っている」


「んな――っ⁉」



 自分から聞いておいてなんだが、希咲は絶句する。


 正面から堂々と「痴漢行為を働いている」と宣言したそのあまりの漢らしさに、七海ちゃんは一瞬「あ、あれ……? あたしがヘンなのかな?」と思ってしまう。


 だが一瞬だけだ。


 すぐにハッとして猛烈に抗議する。



「て、てか、いつまで触ってんのよ⁉ お尻さわんないでっ!」


「ふん、そうはいかん。なにせ今は告白をしているんだからな」


「は、はぁ⁉ お尻触りながら告白ってなに⁉ いみわかんない!」


「だからこそ有効だ」


「有効……? そんなわけないでしょ⁉ お尻触られながら告られてオッケーする女の子がいるわけないでしょ!」


「本当にそうかな?」


「え……?」



 痴漢されて好きになる女子などこの世にいるわけがないので希咲は戸惑う。


 そんな希咲の顔を弥堂はジッと視る。



 涙で濡れた瞳は潤み、頬は少し紅潮している。


 全身の肌も先程よりも熱が帯びているように感じる。


 これは間違いなく――



「――効いている」


「は……?」



 疑問符を浮かべる彼女を「白々しい」と嘲笑う。



 そして惚けるということはやはり効いているのだと、より強く確信をした。


 間違いなくさっきまでよりも告白がダメージを与えている。



 その証拠に――



(――ヤってる時に女って大体こういう顔になるからな)



 それが弥堂の判断基準だった。



『コ、コイツ……、強姦魔と考え方変わらねェじゃねェか……』



 これにはかつての保護者さんもドン引きだった。


 しかし、エルフィさんはそんな彼女に冷たい視線を向ける。



『貴女が教えたんでしょう』

『は? ンなこた教えてねェよ』


『女なんてとりあえず抱けばどうにかなると、貴女が言っていたとあの子に聞きました』

『ア? なんか言った気がするな』


『そのせいで私たちがどれだけ苦労を……っ』

『なに被害者ぶってんだ。どうせお前も楽しんでたんだろ? ア?』


『……そういうところですよ』



 エルフィが呆れた声でそう言っている間にも、彼女たちが育てた性犯罪者は猛威を奮っている。



「効いてるの意味がわかんないのよ! 告白ってそういうものじゃないからっ!」


「そうされると都合が悪いんだろ? 」


「当たり前でしょ⁉ お尻触られて都合よくなる女子なんているかボケっ! つか、告白するのにお尻触る意味がマジでわかんないんだけど!」



 思考回路が謎すぎてもはや恐怖すら感じる頭のおかしな男に、希咲は一応どういうつもりなのかを聞いてみる。


 すると弥堂は厳かに答えた。



「想いだけでも、セクハラだけでも通じない……」


「はっ⁉」


「ならば――同時にやればいい……」


「なんの話っ⁉」



 しかし希咲には一個も理解出来なかった。



「調子にのって俺に情報を与えすぎたな」

「なんの情報よ⁉」


「お前が言ったんだ。『セクハラをするのなら自分に興味を持て』と――」

「は? えっ?」


「そうでなければ『逆にシツレー』だとな。しかし、それでいながら『それをするのはNG』だとも言った。つまり、そうされると困るということだ」

「そりゃセクハラされたら誰だって困るだろーがっ!」


「困るということはダメージを負う。すなわち、下心を伝えながらのセクハラは通じるということだ!」

「ちょ、ちょっと待って……⁉ あんたもしかして、それでセクハラしながら告ればオッケーになるとか思ってんの⁉」


「ふん、認めたな。下心を伝えながらのセクハラ。それがお前の弱点だ……!」

「バカじゃないのぉーーっ⁉」



 あまりの知能とモラルの低さに七海ちゃんはびっくり仰天した。


 そして同時に怒りも沸騰する。



「お、お前の『好き』は『下心』で、『告白』は『セクハラ』なのかぁーっ! ざけんなぁっ!」


「あ? 大体同じようなもんだろ」


「全っ然ちがうわぁーっ! 誰がお前みたいなクズにこんなことされて好きになるかぁー!」


「別に俺を好きにはならなくていい。ただ交際はOKしろ。それが俺の要求だ」


「ふっ、ふ、ふ、ふ、ふざけんなぁーっ! 死ねっ! この性犯罪者っ……!」



 怒り心頭となった希咲は暴れ出す。


 弥堂は上手く重心を操り、身体を密着させることで彼女の攻撃を封じる。


 そして適宜尻を撫でる。



「や、やめて……っ! 手動かさないで……っ!」

「だったらさっさと俺と付き合っていることを認めるんだな。それまでは俺は何度でもお前を好きだと言うし、この手も尻から離さない」


「こ、こんなことするヤツと付き合うわけないでしょっ! 誰が屈するか!」

「いつまでそう言っていられるかな」



 弥堂は彼女を見下しながらその尻を揉む。



 しかし、内心で――



(――こいつ……、思ったよりもまだ余裕があるな……)



 そのように考えていた。



 これまでに希咲にセクハラしてきた経験から、尻など触ったらもっと喧しくピーピーと泣き喚くと思っていたのだ。


 その想定よりは遥かに彼女は冷静なように視えた。



 だが、これは弥堂だけではなく希咲にとっても想定外のことだった。



 彼女本人は決して認めないし、自覚もしていないことだが――


 これまでに散々弥堂にセクハラを繰り返されてきたことで、先述のとおり希咲の“ライン”が無意識に下がってきていることが原因だ。



 それに、彼女は既に“胸たっち”、“間接べろちゅー”を経験し、こうして抱きしめられるのも初めてではないし、以前にも“お尻たっち”をされていると思っている。


 無意識なことであり、不本意なことだが、弥堂のセクハラに慣れ始めてしまっていたのだ。



 そのことを弥堂も希咲もわかっていない。



 なので――



(マズイな)



――このままでは希咲と付き合うことが出来ないと焦りを感じる。



 そんな時に弥堂 優輝という男がどうするかというと――



(この程度では駄目か。もっと――)



――徹底的にやりきらねばならないと、全身に魔力を巡らせた。



「あ、あんたいい加減にやめなさいよ――」



 希咲がそう叫ぼうとした瞬間、弥堂の手がパッとお尻から離れる。



「え……?」



 希咲は戸惑う。



 本気でやめて欲しいと思っていたし、本気でやめろと要求をしていたが、この男がそれで本当にやめてくれるとは思っていなかったからだ。


 そして当然、やめるわけがない。



「ひ――っ⁉」



 腿裏の肌に直接感じた感触に希咲は悲鳴を上げながら身を強張らせる。


 反射的な反応をしたその一瞬で、その感触は上に登ってくる。



「な――っ、ななななな……っ⁉」



 そんなわけがない。


 そこまでするわけがない。


 そう信じ込みたい。



 だが自分の身体が感じ取る情報がその全てを否定する。



 弥堂の手は希咲のスカートの中に侵入し、今度は体操服の短パンの上からお尻に触れていた。



「い、いやあぁぁぁ……っ⁉」



 その悲鳴はその事実を認めた証だ。



 間にスカート一枚無くなるだけで、こんなにも感触が変わり、こんなにもリアルになる。



(こ、これ……っ、やだっ……)



 さっきよりもはっきりと彼の手の感触が肌に伝わる。


 尻肉が押し込まれ生まれるヘコみがそのまま彼の指のカタチだ。


 その手から伝わる体温が熱を拡げてくる。



「び、弥堂っ……これ、やめ……っ」



 先程よりも強い拒否感。


 先程よりも強い拒絶をしなければならない。


 だけど口から出た声は先程よりも弱々しいものだった。



「これでどうだ。観念する気になったか?」



 その低い声が女としての本能的な恐怖を震わせる。


 だけど、許すわけにはいかない。



「や、やめて……! これもうシャレになってないわよ……!」



 最初から洒落になっていなかったが、そのレベルすら容易く飛び越えてきた。


 偶然だが、短パンを穿いていてよかったとおかしな安堵を感じた。



「好きだぞ、七海」


「きもすぎるぅぅぅ……っ!」



 だが、痴漢と告白の合わせ技のあまりのキモさにダァーっと涙を流すことになった。



 この酷い光景にドン引きしていたのは弥堂の保護者さん方だけではない。


 周囲を囲んでいた野次馬の皆さんもドン引きだった。



 ケンカカップルの仲直りだと思って見ていたら、突如として始まった行為に、これはガチの痴漢なのではという疑惑が生じたのだ。


 七海ちゃんのハートを貫くことは出来なかったが、『世界』の辻褄合わせによる誤解の補正を、弥堂の痴漢行為が貫通した。



「ね、ねぇ……? これって……」


「あ、あぁ。いくらなんでも……」



 疑問の声がポツポツと漏れ出す。


 もしかしてこれは普通の痴漢なのではと、人々は気付きかけている。



 これに「いけない!」と危機感を覚えた人物がいた。


 弥堂に甘々なことに定評のある野崎さんだ。



「き、希咲さん……! そろそろ許してあげたらどうかな⁉」



『えっ⁉』と周囲の人々はビックリする。



「えっ⁉」



 七海ちゃんもビックリだ。



「び、弥堂くんもこれだけ真剣に、その……、してることだし……。もう浮気を許してあげようよ……」



 とはいえ、さしもの野崎さんも大分苦しそうだった。



 しかし――



「ま、まぁ……、そうだよな……」


「は、反省してるみたいだし……」



『あの野崎さんがそう言ってることだし、そうなのかな?』と、認知が混乱した彼らはそれに同調していった。



「希咲! 俺も謝るからさ!」

「そうそう! 許してあげてよ!」

「もう仲直りしよ?」



 次々に希咲に復縁を促す。



 当然これに納得いかないのは希咲だ。



「なんでっ⁉ なんであたしが聞き分けないみたいになんのぉ⁉ 痴漢されてんだけど、あたし⁉」



 必死に事実を訴えるが誰も聞いてくれなかった。


 彼女が碌な抵抗をしていなかったのも原因かもしれない。


 敗因はきっとここが駅ではなかったことだ。


 駅の施設内ではJKに強烈な地形効果のバフがかかる。


 しかし生憎ここは学園だ。



(運がなかったのさ)



 この状況を弥堂はチャンスと捉える。


 ここが攻め時であると、以前に知り合いのプロの痴漢を名乗る男に教わった痴漢テクを発揮させた。



 掌全体をじっとりと希咲の左尻に這わせる。



「ひっ、ひぃぃぃ……っ⁉」



 希咲は情けない悲鳴を上げる。


 今回の戦いの性質上先に手を出すわけにはいかなかったので我慢していたが、いい加減大人しくしている場合ではないと実力行使に出る。


 ギンっと眼差しに光をこめ、拳を握り込んだ。



 だが、狙いを定めるために視線を動かそうとした瞬間――



「――っ⁉」



 周囲から向けられる数多の視線に気付いた。


 野次馬たちと喋ったことで、彼らの存在を一度意識してしまったことがよくなかった。



 こんなにたくさんの人の見ている前で、男の子にスカートの中に手を入れられてお尻を触られている。



 それが他人の目に映ることで、より強く自分でも客観的事実として認識してしまった。



「ひぅ……っ」



 そのことで、何故だかわからないが身体も心も萎縮して戦意が萎んでしまう。


 その間にも弥堂の手は希咲の尻の曲線を憶えていっている。



「や、やめてよ……っ! さわんないで……っ!」



 握ったまま行き先を失っていた拳で、力なく彼の胸板を叩く。


 当然そんなもので止められるわけがない。



 それは反射的な動作なのだろう。


 周囲の視線に怯えたことで、希咲のお尻の筋肉がキュッと収縮する。


 尻の側面が窄まって出来たその窪みの外周を、弥堂は指を回すようにしてなぞる。


 その指で肉を押し込んでみると、柔らかさの奥に骨ではない芯を感じる。


 筋肉の鍛え具合を指で確かめた。



「や、やだ……、ゆ、指ぃ……動かなさいで……っ」



 相手に向いていないはずのその言葉。


 なのに、何故か弥堂の手がそこで止まった。



 しかし、希咲の願いを叶えたわけでは決してない。


 あることに気が付いて、弥堂は訝しみ手を止めたのだ。



「おい――」



 ジロリと希咲の顔を視下ろす。



「な、なによ……っ」



 希咲は精一杯彼の顔を睨み返した。



 彼女のその表情に、弥堂は一瞬腹の底からドス黒いナニカが沸き上がりそうになるが、気のせいだということにして抑え込む。


 それよりも、ここで感じた疑問を口にした。



「希咲……じゃなくて七海。貴様――」


「い、いちいち名前で呼び直さなくていいっ!」


「うるさい。そんなことよりもお前――」


「な、なによっ!」


「お前――パンツを穿いていないのか?」


「はぁ――っ⁉」



 全く予想していなかった質問――しかし、これ以上にさらに辱められるようなその質問に希咲は言葉を失う。


 だが、周囲には十分な衝撃を与え、ざわめきが拡がっていく。



 とんでもなく不名誉な誤解が新たに生まれそうで、希咲は慌てて否定した。



「そ、そんなわけないでしょ……っ! ヘンなウソ言わないでっ!」



 だが、弥堂は怪訝そうな顔をする。



「だが、下着の感触がしないのだが……」



 そう言ってもう一度手を動かし、彼女の尻の表面をなぞる。


 手触りのよい体操服の感触の上を抵抗なくその手が滑る。


 何も引っ掛かりがなく、その下に何かが埋まっている感じもしない。



「ぎゃぁーーっ⁉ た、確かめなくっていいから……!」


「下着のラインがない。貴様、まさかノーパンか? それは校則違反になる可能性がある」


「だ、だから……っ! そのラインが出ちゃうから今日は――」


「だが、まぁいいだろう。通常であれば取り締まるところだがお前は例外だ。お前のパンツは俺に災厄を齎す。穿いてないのならむしろ都合がいい」



 突然今日の下着の詮索をしてきた男は勝手に納得をした。


 希咲が今日のパンツについて何かを自白しようとしていたのを遮ったので、「何故もっと深堀りしない⁉」と周囲の男子からは反感を買った。



「ふ、ふざけんな! 穿いてるっつーの!」


「気にするな。そういう日もあるだろう。そんなパンツを穿いていないところも好きだぞ」


「もうやだきもすぎるっ!」



 希咲は心からの嫌悪を叫んだ。



「どうだ。そろそろ付き合っていると認める気になったか?」


「こんなことされて付き合うわけねーだろボケっ!」


「ち、往生際が悪いな」


「みぎゃぁーーっ⁉」



 段々イライラしてきた弥堂は雑に希咲の尻を揉みしだく。



「ちょ、ちょっと……、そんなに乱暴にしないで……! そんな風にされたら、あたし……っ」


「されたら、なんだ?」


「そ、それは……っ」



 希咲は言い淀む。


 つまり困るということかと、弥堂はさらに苛烈に尻を揉もうとするが――



 この状況に「いけない!」と声を上げた人物がいた。


 早乙女だ。



「弥堂くん弥堂くんっ!」


「なんだ?」



 弥堂はジロリと彼女を睨む。



「そんなに乱暴にケツ揉んだらダメなんだよ!」


「つまり有効ということだな?」


「なに言ってっかわかねーけど、そうじゃないんだよ! そんなにお尻グニグニしたら七海ちゃんがハミケツしちまうんだよ!」


「ハミケツだと?」



 弥堂は眉を寄せる。


 そして手を動かして短パンの裾に指を合わせた。



「ひぅっ⁉」



 希咲が飛び跳ねるように反応する。



「なるほど……」



 確かに裾のすぐ下を押してみると、伝わってくる感触は腿よりも柔らかいものだった。


 これは先程にはなかったものだ。



「ちょ、ちょっと! それもう直の直じゃんっ! それだけは絶対ダメだからっ!」



 希咲も強く抗議をしてくる。


 どうやら弥堂の痴漢行為により短パンがズレて臀裂に喰いこみ、尻肉が溢れだしてきているようだ。



「ウチのガッコの短パンすぐこうなっちゃうの! だからそんな風な触り方しないで――っていうか! 触るの自体やめろっつってんだろこの変態クソやろうっ!」



 これはガチめの抗議だ。


 しかし聞き入れるわけにはいかない。



「ちっ、仕方ねえな……」


「や、やっとわかってくれたの……」



 希咲がホッと息を吐き出そうとしたその時、弥堂の指が二本、希咲の臀溝に挿し込まれる。



「へ――」



 人差し指を短パンと肌の間に滑り込ませてから間接を折り曲げる。


 フィット感の強い短パンの裾が持ち上げられ、その隙間から這入り込んだ外気が希咲のお尻の肌を直接撫でた。


 弥堂はさらに中指を動かして彼女の尻たぶを持ち上げる。


 そうしながら人差指で短パンの裾を引っ張り下ろし、指を離す。



 パチンっと音が鳴り、希咲のお尻は短パンの中に再度収容された。


 ついでに逆側の右のお尻も同様に直してやる。



「これで文句ねえだろ」


「……………」



 クラスメイトの男子に短パンに指を突っ込まれ、そしてハミケツを直される。



 その衝撃的な初体験に希咲はしばしフリーズし、やがて――




「――ふっ……、う、うえぇぇぇ……っ」



――完全に泣きが入った。



「な、なんでそうやってえっちなことすんの……っ! やめてっていってるのにっ……!」


「あ? なに言ってんだお前?」


「もうやだっ! おしりさわんないでっ!」



 弥堂的にはこれでもよかれと思ってしてやったことなのだが、その行いが図らずとも彼女のメンタルを崩した。


 そう言ったっきり彼女は俯いてしまう。



 そして――



(徹った――)



 彼女の表情は隠れても、弥堂の魔眼にはハッキリと映る。


 希咲の“魂の強度”がゆらいだ瞬間が。



 ここが勝負所だ――



 弥堂はトドメを刺しにいく。



 それにはあともう一手、何かが必要だ。


 告白を徹すための何かが。



 思考をフル回転させ、その答えを探そうとしたところで弥堂の眼に希咲の耳が映る。


 サイドテールを結っているために片方だけ露出している紅くなった彼女の左耳。



(こいつ確か――)



 耳が弱点だったことを思い出す。


 弥堂にはよくわからないが、おそらくルナリナと似た性癖なのだろう。



 その弱点である耳にどうアプローチをすればと考える。


 すると、こんな時に浮かぶのはやはり廻夜部長の言葉だ。



『――弥堂君……、耳舐めASMRって……、あ、いや、なんでもない。なんでもないけど……、でも、あれはスンゴイよぉ……』



 以前にそんなことをネットリとした声で言っていたことがあった。


 意味はよくわからないが、要は耳を舐めるとスゴイということだろう。



(部長……、この女の耳を舐めろということですね……?)



 弥堂は偉大なる部長の言葉を信じて、希咲の耳に唇を寄せる。



 だが――



「――あ……?」



 完全に近づく前に、先程のように希咲の両手に顔を掴まれてしまった。


 不審に思って彼女の顔を視る。



「…………」



 希咲は黙ったまま、ジッと濡れた瞳で見上げてくる。


 そして掴んだ両手で、弥堂の顔をゆっくりと自分の顔の方へ引き寄せた。



 碌に抵抗もせず、弥堂は彼女の瞳を視ていた。


 涙で濡れた瞳に光が反射して不思議な色を輝かせていた。


 その瞳に吸い込まれるように、されるがままになる。



 周囲が息を呑んだ。


 二人の顔が近づいていく様子がスローモーションのように見えていた。



 鼻と鼻の距離が十分な近さになろうかという瞬間――




――ガリっと。



 希咲の両手の長い付け爪が弥堂の顔面に喰いこんだ。



「――っつ……」



 半ば呆けていた弥堂は、その痛みに顔を顰める以外の反応が遅れた。


 僅かな一瞬だけ目線を逸らしてしまい、すぐに戻した先には――



 ほんの一瞬前には複雑な輝きを放っていた希咲の瞳が、強烈な攻撃色を煌めかせていた。



 グイっと、力づくで顔を引っ張られる。



 そして――




「キモ告っ――」



 踵で爪先を踏み抜かれて希咲を抱く腕の力が緩まり――



「すんなっ――」



 ガインっと約束通りの飛び膝に顎を打ち抜かれ、弥堂の身体が宙に浮き――



「ってぇ――」



 ギュルンっと希咲の軸足が地面を抉りその細身を回転させ――



「――言っただろボケがぁーーーーッ!」



 ――ギュオンっとド派手な後ろ回し蹴りが、落下してきた弥堂の胴体に突き刺さった。




 そのシームレスな一連の動作を視認出来た者は野次馬たちの中には居ない。



 だが、彼らや彼女らの視界を横切って弥堂の身体がぶっ飛んでいく。



 地面と平行に一直線。


 十数メートルほどの距離をものすごいスピードで飛んだ弥堂は、並木道の桜の木に背中から激突した。






『…………』



 ギャラリーの皆さんは揃ってスッと真顔になり、弥堂がすっ飛んでいった方向へ視線を動かす。


 すると、背を反らせたまま数秒ほど木の幹に張り付いていた弥堂の身体が、ズルリと地面に落ちた。


 彼はそのまま地面に座り込んだ姿勢のまま動かない。


 手足は糸の切れたマリオネットのように投げ出されていた。



『…………』



 一同は同時に視線を戻し、今度は希咲の方へ向けた。



 だが、そこにはもう誰も居ない。



 ただ――




「うわぁーんっ! ばっきゃろー!」



 情けない泣き声を上げながら走り去る彼女の後姿だけが映った。


 腕で目元を覆い、その隙間から涙を撒き散らしながら逃げていく。



 その可愛らしい逃げっぷりに、今のは何かの見間違いだったのかなと人々が思い込もうとしたところで――



 ビキっと――



 嫌な音が響く。



 音の発生源に目を向けると、そこには燃え尽きたボクサーのような姿の弥堂だ。


 ビキビキビキっという破滅的な音が、弥堂が背を預ける木の幹から鳴っており、そして――



 メキっという、一際ヤバイ音を最後にその木は半ばから圧し折れて地面に倒れ込んできた。



「ワーっ」「キャーッ」と人々はパニックを起こし逃げ惑う。



 その騒ぎを背景に、弥堂は朦朧とした視界の中で逃亡する希咲の背を視ていた。


 最期の力を振り絞って唇を動かす。



「……お、俺の……勝ち、だ……っ」



 意地でそれを宣言し、そしてガクリと頭を垂れて弥堂は気絶した。




「え……? これ、勝ったの……?」


「た、たいへん、弥堂君……っ!」



 呆然と呟く舞鶴の横を通り抜けて野崎さんが弥堂へ駆け寄る。


 幸い、倒木に巻き込まれた人などはいないようで、ケガ人は弥堂だけだった。



「……代表」


「なんだい? 高杉くん」



 その光景を遠い目で見ながら高杉は己の主に問いかける。



「我々は、一体何をさせられたのでしょうか……」



 法廷院は苦笑いを浮かべた。



「ほんと、なんだったんだろうね。これ……」



 彼も遠い目となる。



 数秒程、男二人で空を見上げ、法廷院は徐に立ち上がった。



「それより高杉くん。きっと必要だと思うから、この車椅子を彼女たちに貸してやっておくれ」


「承知」



 高杉は法廷院の使っていた車椅子を押して、弥堂の介抱をする野崎さんたちの方へ向かう。


 法廷院は高杉の背中を見守り――



「――本当、何がなんだかわからない。心が痛むねぇ……」



 そう呟いて踵を返した。


 西野と本田がそれに続く。



 こうして誰にも何がなんだかわからないままこの場の騒ぎは仕舞。



 弥堂と希咲の対決は、両者KOの勝者なしということで幕を引いた。

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